(くそ!!なんでこんな事になったんだ!!)
彼は国府城に待機していた左道士部隊の隊長を勤めていた。
彼は今の現状に苛立っていた。
安全だったはずの国府城。それが1時間も経たない間に落とされたのだ。
不幸中の幸いとでも言うか自分達だけは逃げる事ができた。
元々左道士は篭城戦にも野戦にも向いていない。
左道は方術と違い操作面に難がある。
方術は火や水など自然の力をある程度操る事ができる。それに結界など補助をすることができるのだが左道はそうはいかない。
左道の場合は死霊や魔獣、魔人を呼び出すものだ。
特に魔獣は召喚者には従順なので左道士達の主戦力となっている。
だが魔獣を召喚するには特別な札か10分ほどの詠唱が必要なのだ。
今回のように奇襲をされた場合10分もの詠唱では間に合わない。となると札しかないのだが…左道士達は国府城が攻められるとは夢にも思わず札を用意していなかったのだ。
魔人は札や長い詠唱は必要ないが生贄を準備しなければならないがやはり準備をしているはずもなく、もし生贄を用意せず召喚しようものなら術を唱えている者を魔界へと引き込んでしまう。これは魔人の意志を問わずにだ。
死霊に限っては札や生贄はいらず、合言葉で召喚できる。
ただ、術者には襲い掛からないが術者の意志とは関係なく無差別に攻撃をしてしまう為味方がいる場合には使い勝手が悪い。
「ここまでくれば大丈夫だろう」
歩くのを止め誰に言う訳でもなく言った。
疲れてあまり大声ではなかったが、その声は他の者達に聞こえたようだ。
足を止め、座り込む奴もいれば近くにあった湧き水を飲む者もいる。
「さて…これからどうするかだが…」
彼は疲れを隠し他の休んでいる者達に話しかけた。
「討伐隊と合流と蛇渇様に報告に行くべきでは?」
一人の左道士が言った。
彼は数人が嫌な顔をしたのを見逃さなかった。
そして彼が口を開こうとした時、別の左道士が言った。
「そうすれば私達はどうなる!!敵前逃亡で死罪か魔人の贄にされるだけだぞ!」
彼が思っている事を代弁してくれた。
そして最初に言った左道士は顔色を変えた。
(そんな事も考えていなかったのか?)
部下の無能さに頭を抱えたくなった。
「ここは我々だけで国府城を取り返すべきです!」
また別の者が言った。
そして次々と賛成の声を上げた。
「皆の気持ちは良く分かった!!でわ、今から国府城奪還する!!」
「「「「おお〜〜!!」」」」
左道士総勢50名は歓声をあげた。
「でわ、まず魔獣を呼び出すぞ!!」
「「「「はっ!」」」」
今までの疲れは何処かに飛んでいったらしく、左道士達は生き生きとしていた。
そして、それぞれ個々に魔獣を召喚して一ヶ所集め、国府城に攻める準備を着々と整えていた。
召喚された魔獣は150体を超えた。何人かの左道士は疲労で倒れたりしたが大体は順調に進んでいる。
疲れてもう立っているのがやっとの状態だった左道士達は、その場で崩れ落ちた。
「私達の護衛用に後五十体用意しよう」
「…わかりました」
嫌な顔をした者も居たが特に何も言ってこなかった。
そして詠唱を始めようとした時。
何処からともなく女の声が聞こえてきた。
「それ以上必要ないわよ」
左道士達は声の主を見つけようと辺りを見渡した。だが、どこにもそんな人物は見つけ
られなかった。
ただ魔獣達は「グルルル」と喉を鳴らしながら同じ方向に視線を向けている。
「何奴!姿を現せ!」
すると魔獣達が向いている方向から女が出てきた。
「こら!やめい!!」
左道士達の制止を聞かずに魔獣達は女へと襲い掛かった。
女は左道士達にハッキリと姿を見せる前に魔獣達に隠されてしまった。
そして女が居たところから肉片が飛び散ったのが目に入った。
「まったく…これだから魔獣は——」
左道士は言いかけた言葉が止まった。
魔獣達は左右に割れた。
襲われたはずの女が魔獣達の開いた道を悠然と歩いて左道士達に歩み寄りながら言った。
「本当に魔獣の知性の低さには頭が下がるわね。力の差ぐらい分かってもらいたいわ」
女の頭には立派な兎の耳がついている。
格好はいつもの戦闘服…水着みたいな服を着ている。
それを見て左道士達に動揺が走った
「きさま?!魔兎族か?!いや…魔兎族は絶滅したはずだ!」
魔兎族は左道士では知らない者がいないほど有名だったが他の魔人達からの情報だと十数年前に絶滅したという話だ。
「そう…でも、絶滅してないわよ」
それを聞いた女…兎音は悲しそうな顔をした。
魔兎族は魔界四分の一を支配していた。ちなみに土羅久琉等の吸血種族も魔界の四分の一を支配している。
それだけ大きな力を持つ魔兎族が絶滅した事が事実であると物語っていた。
理由は一つしか考えられない。王族である兎華乃、兎奈美、兎音の不在である。
兎音は心の中で怒りと悲しみで埋め尽くされた。
(おのれ!吸血鬼どもめ!!)
兎音の怒りは自然と吸血種族に向けられていた。
王族がいない魔兎族でも普通の魔人達には後れをとらない。それに魔兎族に喧嘩を売ろうと考える者は吸血種族以外考えられなかった。
「グルルル…」
兎音の怒りを感じ取ってか先ほどから静かにしていた魔獣達が唸り声をあげ始め、そして兎音に襲い掛かった。
兎音は特に動きを見せず接近している魔獣達を見回した。
一番近くまで来た魔獣の頭の上に手を当て、地面に叩きつけ、魔獣の頭は粉々に砕け散った。
それを見ても恐れを覚えなかった魔獣達は次々と兎音へと襲い掛かった。
だが、それを見て恐怖を覚えた魔獣もいた。その魔獣達は左道士の声などもう聞こえないようで左道士達を置いて素早く逃げ出した。
「主人を置いて逃げちゃ駄目でしょう!!」
兎音の怒鳴りながら追い掛けようとするが群がる魔獣が邪魔をして追いかけられない。
左道士達は更に魔獣を呼び出すよう詠唱を始めた。
既に魔獣は50匹ほどが殺されている。左道士達は逃げる事を考えたが魔兎族から逃げる事など不可能だと感じた。
「皆のもの!もう一度魔獣を———」
男の言葉は最後まで聞くことはなかった。
ここは森の中。
辺りは静かで動物の気配すらない。そこに走り抜ける三人の人影があった。
先頭を歩いているのは黒く身体にぴったりとした服を着た少女、珠洲。
そして、魏服を着た姉妹のような親子、紅玉と香蘭である。
珠洲達は今まで来た道を帰り、国府城に向かって走っている。
初めの目的は国府城を攻めようとしている復興軍の加勢と連絡だったのだが復興軍を目の前に、かなり強い狗根国兵…九峪であるが…と戦闘になり、紅玉が負傷したので引き返す事になった。
九峪と戦った場所から30分ほど歩き、珠洲達は国府城が見える場所まで来た。
その時、何者かが近づいてくるのを感じた。
近寄ってくる気配のスピードは速く、珠洲達が国府城に入るより早くたどり着くのがわかった。
珠洲は、迎え撃つべく懐に収めていた特殊な糸…この世界では鋼糸と呼ばれている…を取り出した。
紅玉と香蘭も足を止めて戦えるように構えた。
紅玉の動きが、ぎこちない。
それを見た珠洲は感情がこもらない声色で言った。
「怪我人は邪魔、早く行って」
紅玉は反論しようと口をあけるが、珠洲はもう喋る事はないと言わんばかりに紅玉達に背を向けてこちらに向かって来ている何者かを迎え撃つ準備を始めた。
紅玉達と珠洲が会ってから一ヶ月も経っていない。
紅玉と香蘭は大陸からある目的を果たす為に九洲へとやってきた。
女性二人で旅をするのは危ない…と言うのが一般的なので近くを通りかかった旅芸人一座に雇ってもらう事にした。
それが珠洲達と出会いのきっかけであった。
紅玉と香蘭は多少(?)武術の心得があったので武芸などを見世物としていた。
座の者達は珠洲は他人には冷たく、特定の人物以外には容赦がないと言っているが、紅玉は珠洲をそのようには思っていない。
人付き合いが下手で思っていることをうまく表現できない子だと思っている。
紅玉は自分を気遣ってくれている珠洲の気持ちを無下にする事はいけないと思った。
「わかりました…決して無理はしないように、すぐに助けを連れて戻ってきますから」
珠洲は、ただ頷いて答えた。
それを確認した紅玉は再び香蘭の肩を借りて珠洲から離れて国府城へと向かった。
紅玉達が国府城に向かっていくのを背に感じながら珠洲は迎え撃つ準備を終えて少し離れた茂みに潜んだ。
珠洲は気配がする方向に神経を集中した。
(まだ離れてる…)
そう思った瞬間、背後から手が現れ珠洲は声も上げられないまま口をふさがれた。
背後の人物は片手に握られていた容器に入った液体を珠洲に振りかけた。
液体は、凄い匂いを発していた。
空になった容器は捨て、空いた手で腰に手を回し珠洲を持ち上げ移動し始めた。
珠洲は精一杯暴れた。
「あ、暴れないでくれ…」
暴れている珠洲に聞こえるか聞こえないか分からないぐらい小声で言った。
それは珠洲の耳に届いた。
珠洲には後ろに居る人物の声に聞き覚えがあった。
だからと言って安心できる声の持ち主ではない。
珠洲は抵抗をするのをやめた。
すると後ろの人物は珠洲を開放した。
確認するように珠洲は後ろの人物の顔を覗き見た。
そこに見たのは、やはり先ほど戦った狗根国兵…九峪であった。
「あなたはさっきの———」
珠洲は再び九峪の手で口を閉ざされた。
自分達は動いていないのに草が揺れる音が聞こえた。
草むらから現れた大きな影。
魔獣だった。九峪が伊万里を助けた時の魔獣と同じ…犬型の魔獣だ。
珠洲は驚いたように目を見開いた。
九峪は空いている手で珠洲が手にしている鋼糸を奪い取った。
驚きに鋼糸を握っていた手は力が抜けていた為簡単に奪われた。
九峪は鋼糸を少し動かして何処にどうやって仕掛けているのかを一瞬で把握し、魔獣を倒すべく攻撃した。
魔獣は九峪の操る鋼糸によって体が切り刻まれていく。
いつものワイヤーなら動きを封じて直接止めを刺すのだが鋼糸はワイヤーほどの耐久性は無く、その代わりに殺傷力はワイヤーより遥かに優れていた。だから縛る物ではなく切り裂く物として使用している。
(この人、強い)
珠洲は九峪の傍らで動作の一つ一つを注意深く見ていた。
そして前回の会った時に九峪が言った言葉を思い出す。
(『攻撃が素直すぎる』か、これは考える余地がありそう)
九峪との戦いで自分の鋼糸術が通じなかった理由が分かったような気がした。
珠洲の鋼糸術は相手が知らないと言う驕りで正面からしか攻撃を仕掛けなかった。
それに比べて九峪は自分の居場所が分からないように攻撃する方向
魔獣は何処に敵が居るのか必死で探している。
それは身体が傷を負うことによって妨げられ、ただ斬りつけられる形となった。
九峪が魔獣に止めを刺そうと鋼糸を操る手を大振りにした時、上空から何かが降って来ているのが目に入った。鳥型の魔獣だ。
鳥型の魔獣は珠洲に目掛けて急降下している。
珠洲はそれに気づき逃げようとするが魔獣の方が早い。九峪は犬型の魔獣の止めを刺そうとしていた手を止めて珠洲を突き飛ばした。
「ぐっ!!」
九峪は腕に傷を負った。骨は折れていないが出血が酷い。
鳥型魔獣の襲撃により九峪の位置を知った犬型魔獣は九峪に向かって突進してきた。
九峪は魔獣を真っ向から受ける。
本当は避ける事はできたが後ろには突き飛ばした珠洲がいるので避ける事をせず真正面から受ける。
魔獣の突進をその場で踏ん張って耐えた。
さらに鳥型魔獣は犬型魔獣が攻撃で九峪が動けないのを見て襲ってきた。
鳥型が空中から嘴を頭へ突きたてようとした。
九峪は犬型魔獣を押さえたまま指を小さく、そして素早く動かした。
すると九峪に向かっていた嘴は止まった。
珠洲はなぜ鳥型魔獣が攻撃を止めたのか分からなかった。
(……まさか?!)
珠洲は目を凝らして鳥型魔獣の周りを見た。
鳥型魔獣の周りには網のように鋼糸が張り巡らされていた。
鳥型魔獣は鋼糸から逃れようと後退しようと翼を羽ばたかせた。だが、九峪はそれを許すつもりはなく鋼糸の網を四方に作り素早く縮めていく。
鳥型魔獣は逃げる場所がなくなったのを感じ取ったのか大人しくなった。
それを見た九峪は一瞬鋼糸を止めた。
無抵抗な鳥型魔獣を殺す、それは九峪を躊躇わせた。
(………!)
九峪は目を閉じ罪悪感に襲われながら再び鋼糸の網を狭めていった。
そして鳥型魔獣は細切れとなって宙を舞った。
犬型魔獣は何が起こったのか理解できないまでも目の前の人物が危険なのが分かったようで突進をやめ、離れようとするが九峪はそれを許さなかった。
再び鋼糸の網が犬型魔獣の頭上から襲い掛かる。
犬型魔獣はそれを回避しようとするが鋼糸の方が速度があった為避ける事は出来なかった。
そして鳥型魔獣と同じ結末を迎える事になった。
「ふぅ…」
九峪は大きく息を吐いて珠洲の方に振り返った。
珠洲は突き飛ばされて倒れた状態のままで、呆然と九峪を見ていた。珠洲の目にはある感情が宿っていた。
恐怖である。
自分しか使えないと思っていた鋼糸術を簡単に使いこなし、しかも自分より遥かに強く、魔獣の体当たりを受けとめて平気な顔をして魔獣を倒した九峪に珠洲は恐れを覚えた。
「大丈夫?ごめん、突き飛ばしたりして…」
九峪はそんな事など露知らず珠洲を助け起こそうと手を差し出す。
珠洲は手を見た。血に染まった手を。
その傷は自分を助けようとして負ったものだと思い出した。恐れは一瞬で消え、罪悪感を感じた。
(…………)
いつもの珠洲なら無視をする所だが、珠洲自身も、らしくないなと思いながら九峪の手をとった。
助け起こされた珠洲は九峪の顔をみた。
珠洲と九峪の目があった。すると珠洲はすぐに目を逸らし少し顔を赤くしてこう言った。
「助けてくれたんだから謝る必要はない」
「だけど…結構力が入っていたからな…本当にすまない」
九峪は頭を下げてもう一度謝った。
そして、九峪は急に頭を上げて片手に持っていた鋼糸を差し出した。
「それと、これ返すね」
九峪はいつもの笑顔を珠洲に向ける。
差し出された鋼糸を受けとって珠洲は九峪に尋ねた。
「あなたは…なぜ鋼糸術を知っているの??」
いつもの珠洲なら他人に対しては『おまえ』や『こいつ』など棘がある言い方をするのだが実力では九峪に負けているので『あなた』などと滅多に使わない言い方をしている。
「昔、総社の里って場所で習ったんだ」
「総社の里を知ってるの?!しかも習ったって?!」
九峪は珠洲が、珠洲は九峪が総社の里を知っている事に驚いていた。
(この世界にも総社の里があったのか)
九峪はそんな事を考えていた。
「じゃあ、あなたも人形を使えるの?!」
珠洲は少し興奮した口調で九峪に問いかけた。
九峪は首を横に振りながら答えた。
「総社の里に居たのは少しの間だけだったから…」
珠洲は少しだけ残念そうな表情をするが、すぐに顔を戻した。
「でも…なんで里の人がこんなところに…しかも狗根国兵なんかに…」
珠洲は疑問を次々と口にし始めた。
そこへ、何やら叫びながらこちらへ数人歩いてくる気配を感じた。
「迎えが来たみたいだね…君の名前は?」
「……珠洲……」
九峪は、小さな驚きを覚えた。
(なるほど…ね)
九峪は現代で『珠洲』という名を聞いた事があった。しかも総社の里と関連があった。
「俺は九峪。よろしくね、珠洲ちゃん」
「『ちゃん』はいら——」
「それと俺と会った事を内緒にしてくれるかな?」
探しに来ている者がこちらに向かって来ているのを気配で感じ取り話を急かした。
「わかった。でも何で?」
「そのうち分かるよ。しかも近いうちにね」
珠洲は疑問が残る顔をしたが頷いて答えた。
「ありがとう、珠洲ちゃん」
九峪は珠洲の頭を撫でた。
いつもの珠洲なら不愉快に思い手を払いのけていただろう。
珠洲はなぜか払いのけようとは思わなかった。
「じゃあ、またね」
走り去っていく九峪を見送り頭を手で軽く掻きながら自分を探している者へと歩きだした。
珠洲と別れて少し移動した場所で座って休憩をしていた九峪にある人物が近寄ってきた。
「九峪様!!こちらに魔獣が来ませ——」
ハイレグ、頭には兎の耳…兎音だ。
兎音は言葉を途中で止め九峪が怪我をしている腕を見て顔が青くなった。
「も、申し訳ありません!!私の不手際で…」
兎音は見るからに落ち込んでいた。
自分が魔獣ごときに後れをとってしまった事、結果的に九峪が怪我をする事になったのだから当然である。
兎音が後れをとってしまった理由があった。
魔人は人間界では環境の違いにより魔人の力は徐々に失われていく。
それは兎音や兎奈美も例外ではない。
兎華乃は能力が能力なだけに力の衰えは関係ないが、兎音や兎奈美は普通の魔人である。長時間の人間界での生活の為に力を少なからず衰えていたのだ。
ちなみに普通の魔人ならば人間界に1年と経たないうちに力を失い、人間に近い存在になる。違いは不老長寿である事だ。
兎音や兎奈美は力の衰えを防ぐ効力を持つ高麗人参を煎じた物を飲んで凌いでいた。
それに比べて兎音が戦った魔獣達は召喚して間もなかったのだから多少の苦戦は仕方がなかった。
それに九峪は兎音を責めるつもりは最初から無かった。
兎音は肌が見えないぐらいに血に染まっている。そんな姿をしている兎音を見て責める事ができるはずがない。
九峪は手をあげた。
兎音は何やら罰を受けると思ったらしいく目を瞑って痛みに備えた。
九峪はあげた手で頭を優しく撫でた。
「…あ…」
兎音は間抜けな声を発した。
「大丈夫、大した傷じゃないよ。ほら、出血も止まってるし…ね?」
血が止まった腕を見せながら九峪は優しい口調で兎音に言った。
兎音は顔を少し赤くして九峪の顔を見た。
(…姉さん達が惚れるのも分かるな)
兎華乃、兎奈美の顔を思い浮かべた。思い浮かべた顔は怒りの形相だった。
兎音は身体をブルッと震わせて少し辺りを見回した。
「ところで…兎華乃ちゃん達が何処にいるか分かるか?」
頭を撫でるのを止めないまま兎音に尋ねた。
「えぇ…二人揃ってこちらに向かってます」
「そうか…なら、兎音は先に兎華乃ちゃん達と合流してくれ。ちょっと疲れたから少し休んでから追いかけるよ」
「……わかりました。なんでしたらここで休んでてください。後で迎えに来ますから」
「わかった」
兎音は九峪の返事を聞き走り去って言った。
(今回は目か…さて…どれくらいで見えるようになるかな…)
実は兎音の頭を撫でている途中から九峪の目は見えなくなっていた。
九峪の力は人間が使う事ができる力を使っているだけで特別な力があるわけではない。
普通の人間の限界と言うのは本当の限界ではない。
その限界を少し超えた時の事を『火事場の馬鹿力』と表現される。
九峪はその限界を超える事が自在にできる。
力と言っても色々な力を使える。
魔獣から受けた傷が既に治りかけているのも治癒能力を高めた事による結果だ。
だが、これには問題がある。
副作用があるのだ。
今回は傷を治した副作用で目が見えなくなるといった症状が現れたが毎回同じなわけではないからあまり力を使わないようにしているが今回は仕方ないだろう。
安全な隠れ里に居る事になっているのに怪我でもしていたら怪しまれるからである。
九峪は魔獣と戦う前に見た国府城の城壁に耶麻台国の旗が掲げられていたのを思い出した。
(それにしても…予定より早すぎるのが気に掛かるな…予定ではもう少し落とすのに時間が掛かるはずなんだけど)
早く確認を取りたいという気持ちを抑えて兎華乃達が来るのを待った。
伊雅は国府城の会議室にいた。
会議室とは言っても、そこそこ広くてとても大きな机以外は何も無い部屋だ。
伊雅が国府城を見事落とした…訳ではない。
第一軍団が国府城に着いた時には既に何者かによって落とされた後だった。
そして物見からの情報によると『耶麻台国復興軍』と名乗る者達に落とされたとのことだった。
伊雅は『耶麻台国復興軍』に渡りをつけ、話し合いをする事となった。
会議室には伊雅、清瑞、そして『耶麻台国復興軍』の代表が二名が居る。
『耶麻台国復興軍』の代表の二名は自分達が落とした城の中だと言うのに伊雅達に平伏して迎えた。
平伏したままの状態で男は口を開いた。
「お久しぶりでございます」
「はて?何処かでお会いしましたかな?」
伊雅は怪訝な顔をして男に聞いた。
男は顔を上げた。
「伊雅様…私をお忘れですか?」
少し不安そうな面持ちで男は伊雅を見た。
「志都呂…志都呂か?!」
遠い昔の記憶の中に目の前に居る男の記憶があった。
志都呂は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「はい、改めて…お久しぶりでございます」
「そうじゃの…耶牟原城以来じゃからな…」
伊雅は、そこである事を思い出した。
伊雅は志都呂に、ある事を頼んでいたのだ。そこで伊雅は志都呂の傍らに居る女性に目を向けた。
「では、そちらの方が!?」
伊雅は少し興奮気味の声で志都呂に訊いた。
志都呂は静かに頷き肯定の意を表した。
「はい…こちらがあの時預かった、志野様でございます」
志都呂の声から喜びの感情は薄れ、何処か苦々しい物が濃くなった。
志野は自分の紹介の仕方と志都呂が自分の名前に『様』をつける事に不愉快さを感じた。
志野の不愉快そうな表情を見た伊雅は、ある事を悟った。
「志都呂…志野様はご存知でないのか?」
志都呂は声を出さず、頷いて答えた
「そうか…」
伊雅は理由を聞かなかった。なぜかわからなかったが聞いては悪いような気がした。
志野は更に怪訝な顔になり、志都呂と伊雅を交互に見やった。
そんな志野を見て伊雅は口を開いた。
「志野様」
「は、はい」
志野は不意に名前を呼ばれた事に驚き返事がついどもってしまった。
伊雅は気にした様子もなく告げた。
「あなたは…火魅子の資質をお持ちです」
狗根国軍が耶牟原城の目前まで来たときの事だ。
伊雅はまだ城内に残っていた火魅子の資質を持つ子を逃がす為、宮廷雅楽団の一員だった志都呂と共に脱出させたのである。
伊雅は志野の落ち込みようを見て、今はこれ以上志野とは話をしない方がいいかもしれ
突然の事で志野は聞き間違えたのかと耳を疑った。
先ほどから様子が変な志都呂を見た。
志都呂は悲痛な面持ちを見て真実なのだと悟った。
志野の頭に、ふと少女の顔が浮かんだ。
「ざ、座長!!珠洲は?!珠洲は知っているのですか?!」
凄い勢いで志都呂に詰め寄り問いただした。
志都呂は顔を歪ませながら静かに頭を縦に振った。
「そ、そんな…」
志野は志都呂や珠洲、今まで一緒にやって来た座員達に裏切られたと感じた。
伊雅は志野の落ち込みようを見て、今はこれ以上志野とは話をしない方がいいかもしれないと思った。
「志野様もお疲れでしょう。適当なお部屋で少しお休みください。清瑞、護衛を」
「はっ」
志野はすぐには動かなかった。
少しして志野は、やっとと言った感じで立ち上がって歩きだした。
二人が出て行ったのを見送ると伊雅は志都呂の顔を見た。
「なぜ志野様に教えなかったのだ?」
「…志野様には一時でも普通の人として生きて欲しかった…」
志都呂は顔は座長の顔ではなく父親の顔であった。
伊雅は志都呂を責めようとは思わなかった。逆に共感を覚えた。
(戦争がなかったなら清瑞も…)
今でこそ戦が絶えないが、まだ耶麻台国が
そんな事を考えていると一人の男が入ってきた。
「失礼します!座長!珠洲が何者かに襲われているようです!!」
「なに?!珠洲だけか?紅玉さんと香蘭ちゃんはどうした?!」
「それが…狗根国にとてつもなく強い兵士と戦って紅玉さんが怪我をして、それを庇う為に珠洲が囮になったようで…」
「な?!」
志都呂はまたしても驚きの声を上げた。
紅玉がどれほど強いか志都呂はよく知っている。だからこそ狗根国兵に…しかも戦う事ができないほどの怪我をするとは到底思えなかったのだ。
「座員を集めろ!珠洲を助け——」
そこで言葉を切った。
「志野…様にこの話をしたか?」
「はい、先ほど擦れ違いましたの——」
志都呂と伊雅は慌てて立ち上がって部屋を出て行った。
男もそれについて出て行き部屋は無人と化した。