西方の空が茜色に染まっていく。刻一刻と、それはまるで、天空の青海に滲みゆく鮮血のようにさえ視える。
安芸国吉田郡郡山城——山間に細々と佇む小さな村落を支配する邸宅の庭から、毛利元就は、西の空を見上げてはため息をこぼした。
天文20年(1551年)、大内家重臣陶晴賢が大内義隆を滅ぼし主家を乗っ取り、中国地方は激動の時代を迎えた。いわゆる『大寧寺の変』の勃発と晴賢の成功は、同時に、毛利家の運命をも激しく揺さぶる出来事でもあった。
かつての大内氏による月山富田城攻略の失敗、尼子晴久による吉田郡山城への遠征——どれも弱小勢力でしかなかった毛利氏にとっては、懐の寒からぬ戦いであった。毛利は常に、この中国で競い合ってきた2大勢力の間で翻弄されながら生きてきた。
生きていかざるを得ないと、元就は思ってきた。
しかし——
「大内が斃れた」
西の空へ向けて元就は呟く。茜色の空が今度は少しずつ、暁の錆びたような色合いに染まっていく。
誰に言うでもない。だが、元就は、もう一度言葉を重ねる。
「大内が斃れた・・・・・・あの大内が斃れたのじゃな」
それは元就にとって、何よりも大きな意味をもつことであった。尼子も、大内も、元就にとってはある意味で足利将軍家に匹敵する大家であった。同じ雲の上の存在、同じ中国に君臨してきたという意味では、まさしく中国将軍家とも呼べる絶対的な存在だった。
毛利が大内根幹の地である山口を攻めることなど夢想だにしなかったし、月山富田城もまた然りだ。あれらを攻めるということは、元就に——否、毛利氏にとって、極楽浄土へと軍勢を差し向けることに等しかった。
ずっとそうだった。何十年も昔から・・・・・・。
互いに争ってきた両家だ。いつかはどちらか一方の倒壊もあり得たであろう。しかし心の片隅には、いつまでも、永遠に、争い続けていくものだとも元就は思っていた。滅ぶなどあり得ない・・・・・・あの大内が、あの尼子がッ!
なのに、だ。
大内は滅んだ。否、ある意味では滅んでいない。陶氏は大内の諸流。本家は潰れたかもしれないが、それは大内の血が潰えたことにはならない。大内家は滅んだかもしれないが、大内氏はいまだ健在である。
だが元就には同じことであった。
大内ほどの家でも滅びるのだ——。そのことだけが衝撃的に、元就の心を打ち振るわせた。
晴天の霹靂——そんな心境だった。
「——父上」
ふっと背後から自分を呼ぶ声がして、元就は振り返った。物思いにふけっている間、空はすっかり闇になっていた。
暗がりでよく見えない。しかし元就は、かすかな月明かりに浮かび上がる姿に、口元をやさしく歪めた。
「隆元か・・・・・・」
隆元の踏みしめる土の音が耳に小気味よい。老いるばかりの元就と違い、30代の隆元の歩みは若々しい。
視線を月に向ける。隆元はしずかに元就の隣に立った。父の見上げているものを、隆元も同じようにして見上げる。月は、少しだけ欠けていた。
「夕餉になっても姿をお見せしないので、もしやと思いました」
「そうか・・・・・・そうだな」
「今宵の月は下弦ですか」
「うむ・・・・・・。鋭い月じゃ」
目元を細める元就の眼光も、負けじと鋭さを益す。
やや蒸し暑い夜である。しかし風だけは涼しい。木々のささやかなざわめきに、元就と隆元は無言で聞き入った。
——嵐のまえの静けさか。
そんな予感が元就にはしていた。大内を屠った陶晴賢が、このまま何事もせぬとは到底思えない。でなければ、謀反など起こし兄貴分の義隆を殺めたりなどしなかったはずだ。
そして晴賢の目は、いまや尼子だけに向けられているわけでもない。晴賢は間違いなく毛利を消すつもりでいる。敏い元就の肌はそれをひしひしと感じ取っている。
大内の勢力をそっくりそのまま手にした陶の力に、どうして毛利が立ち向かえようか。いくら吉川・小早川の両家を乗っ取ったといえども、国人衆の寄り合いに過ぎない毛利の戦力である。もしも国人たちが元就を裏切れば、たちまち安芸は蹂躙されてしまうに違いなかった。
そう——この天上に煌めく下弦の月のように、喰われてしまうのだろう。厭な予感が想像を掻き立て、それが厭な映像となって元就の脳裏に浮かび上がらせる。
吉川は滅ぶ。小早川も滅ぶ。そして毛利の歴史も滅ぶ——
「あの月は、我が毛利のごとき存在であろうか」
元就は尋ねるように言った。それが誰に向けての問いかけであるのか、口にした元就自信にもわからなかった。
隣でたたずむ隆元へ向けた言葉なのか、今は亡き兄や父へ向けた言葉なのか、謀の妙を元就に魅せつけた経久へ向けた言葉なのか・・・・・・。
元就の言葉を耳にしまいこんだ隆元は、元就へと視線を転じ、また見上げた。
——あの月が、我が毛利?
言われてしまえば、隆元にもそのように見えてきた。
「そうやもしれませぬな」
何気ない隆元の一言に、元就はようやく視線を月からはずした。瞳には、何故だと疑問に思う色が宿っている。知りたいのかもしれない、隆元の感ずるものの意味を。
——父上でも、このような目の色をするのだな。
そのことが何となくおかしかった。
「あの月は、まるで我らのようではございませぬか。ほら、父上、ご覧くだされ。上に鋭く伸びるは山陰を睨む元春の吉川家、下に鋭く伸びるは瀬戸の海を握る隆景の小早川家。そしてその両家をつなぎ中央に大きく膨らむのは、安芸の中心にある我が毛利本家・・・・・・。まさしくあの下弦の月は、我が毛利の似姿」
「そなた・・・・・・」
「そして二つある鋭い先端は、いずれも突き刺すための槍。一つは尼子を、そしてもう一つは大内——いや、陶の軍勢を葬るための槍なのです」
そう語る隆元の表情は、凡庸と囁かれる風評とは似ても似つかない、立派な青年の顔であった。
その横顔に元就は、迂闊にも見惚れてしまった。たしかに情けない、心許ないところのある隆元だが——もう、立派な武将であるのだ。
隆元はすでに陶との対決を心に秘めている。かつて友好のあった晴賢を倒す決意を固めている。優柔不断な隆元が、そこまでの覚悟でいる。
わしはどうだ。まだ心のどこかで大内の威光に怯えている。自信がもてず、二の足を踏んでいる。
最後の一線を越えられないでいる。
「・・・・・・立派になったものじゃ。隆元よ、よう大きゅうなった」
気づけば、隆元は自分よりも長身となっているではないか。相変わらず文治を好みながら、この元就よりも大きな身体になろうとしているではないか。
息子の成長を実感し、元就は、これほどに感激したことはなかった。と同時に、己の老いも感じさせられた。だが嫌悪はなかった。
老いた自分も、老いていく己の時代も、元就は素直に受け入れられた。
「そうよ、老いるのじゃ。人は誰しも老いる。経久殿も老いて亡くなられた。義興殿も老いて亡くなられた。そしてわしも、老いて、老いて——いつかこの世を去るのじゃな」
『老い』という一言を発するたび、心に身体にじんわりと染み渡っていくようだ。かつてこれほど、死に行くことに怖れを抱かなかったことがあろうか。
元就は初めて、老いること、死ぬことの恐怖を跳ね除ける真髄を知った。老いるものあれば育つものあり、死するものあれば生まれ来るものあり。その真理を知った。
見上げた月も、新しい輝きを放っているようだ。欠けた月ではない、あれは、突き刺すための月なのだと——。
「隆元よ」
元就が言う。
「わしは長いこと悩んでまいった。5つの頃に母を亡くし、10で父を亡くし、20を越えて兄を亡くし、幸松丸殿を亡くし、家督が我が手元に転がり込んできてからは、もっと悩んだ。いつも毛利の両脇を大内と尼子が切り合い、その中間で幾度となく益にもならぬいくさを繰り返しては、血を流してきた・・・・・・。だがの、隆元、わしは耐えた。勝てぬからじゃ、歯向かえぬからじゃ。だから耐えに耐えてまいった」
「父上・・・・・・」
「聞け、隆元よ。この元就が今までどのように生き、悩み、戦ってきたのか。それをそなたは聞かねばならぬ。毛利の主として」
「——はい」
並々ならぬ元就の様子に、隆元はたしかに頷いた。この瞬間の言葉を聞き逃してはならないと頭の奥で呼びかける何かがあった。
元就の言葉は、普段から温厚な彼らしからぬほどに早口で、だがそれだけ迫力のある言であった。
尼子方として戦ったこと、大内方として戦ったこと、国人をまとめるために四苦八苦した若き頃、弟の元綱を殺めたこと、井上一族の横暴に耐えた日々、吉川と小早川を乗っ取るために息子たちを利用する決意を固めたことまでも——元就は、赤裸々に語った。
「すべては毛利の家を残すためであった」
吐き出すように言い、元就の喉がくっと鳴る。様々な記憶や思い出がよみがえる。飲み込まれそうだ。生き残るためなら汚い業もやった。
「その意味がようやくわかったわ」
——いっそ清清しいほどに。
元就はまぶたを閉じる。そして意味をまぶたの裏に思い描く。己が老いて死んだ未来、それは毛利の家を、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人が互いに手を取り合って守り立てていく世界であった。
そして彼らが死しても、輝元がいる。
目を開ける。元就の瞳に、迷いの色は消えている。鋭い眼光が隆元を射抜いた。
「敗れるであろう。滅ぶであろう。敵は2万を越え、わしらは精々3千そこらが関の山じゃ。陶と決戦するは、すなわちそういうことである」
「・・・・・・隆元は、すでに覚悟の上です」
「十中八九、毛利は滅びようぞ」
「十中一二、毛利は栄えましょう」
にやりともせず隆元が即座に言い返した。
強気な一言を隆元の口から聞けて、それだけで元就には満足であった。
「勝てぬかもしれぬ。だが座して死ぬことだけはならぬ。それでは毛利のために血を流してきた朋輩たちに対して、あまりにも申し訳が立たぬ。また輝元の事もある。その子らのこともある」
「そうです。父上。子のため子孫のため、毛利の家を残さねばなりませぬ。それに隆元は、もう益なき手伝いいくさをしとうはありませぬ」
「はっは・・・・・・。わしものう、意味なきいくさには、ほとほと疲れたわ」
苦笑した元就に、隆元も微笑む。
一度心が決まってしまえば、もう元就に悩みや迷いはなかった。やるべきことを定めさえしてしまえば、この元就という智謀の人のやることは迅速で的確で、徹底されるのだ。
もはや元就の思考は、戦うことだけに向けられている。どうしたら陶の大軍に立ち向かえるのか・・・・・・
「隆元、わしは陶に勝てるよう手を尽くす。そなたも身命を賭して戦うのじゃ。元春と隆景をまとめるはそなたぞ。この期に及んで出来ぬなどとは言わせぬ」
「それも覚悟しております。生意気なあいつらに、たまには兄らしいところも見せてやります」
意気込む隆元の若さに、元就はまばゆそうに目を細めた。暗がりの息子が元就には光明のようとなり、勇気を与えてくれた。
——戦い、勝たねばならぬ。隆元のために、元春のために、隆景のために、輝元のために。
それが老いていく自分の使命であるのだと元就は気づいた。死ぬその瞬間まで、元就は、子孫に多くを残してやらねばならない。
そのためには・・・・・・
月夜を見上げる元就の視線が三度転じる。だが今度向いた先に隆元の姿はない。元就は違う方角を向いている。
元就の眼中に、遠く厳島の鳥居が霞のように映った。