2世紀から3世紀にかけて、この間は倭国にとって、動乱期である。
天空人と魔人による、五天すべてを巻き込んだ未曾有の大戦。そして双方が条件付の終戦協定を結んで幾100年。
時代は人間同士の戦の世となっていた。
関東一円を制した狗根国。
出面国を盟主とした関西の国家連合。
女王・火魅子と八人の縁者によって拓かれた耶麻台国。
4つの国による統一政権、泗国。
神々の御力がいまなお強い北方の蝦夷族。
それぞれがそれぞれの地位を築き、覇を競い合っていた。繰り返される興亡。終わりのない栄枯盛衰。広がる戦乱の傷跡。尽きることのない歓喜と慟哭。
世は混迷の時代。後の『氷貴将軍』帖佐が生まれた時代は、まさに動乱の戦国時代であった。
「幾夜も
久しく
いつまでも」
「・・・・・・ほう」
冬の朝はとにかく寒い。昼や夜とは違った、鋭い痛みが肌を刺すのだ。傾いた太陽に照らされた白銀の粉雪も、キラキラと綺麗に光って、余計に寒く感じさせる。
大陸の着物を羽織った帖佐は、一面に広がる銀世界に、簡単の吐息を漏らした。
自身も『氷貴将軍』と呼ばれるためか、帖佐は雪や氷が好きだった。鋭く澄んだ氷も、全てを純白に塗りつぶす淡い雪も、その両方が持ちえるあの冷たさも、帖佐は殊のほか好きなのだ。
「一夜でこれほど積もるとは珍しいな」
おまけにこの冷え込みよう。山都では非常に珍しいことだ。ここ10数年のうちでも、とくに一番の冷え込みかもしれない。
着物の隙間から寒気が入り込んでくる。心地よい刺激だ。覚醒しきっていない脳が目覚め、思考がすっきりしていく。
爽快感。気持ちの良い朝だ。
「・・・・・・寒い」
背後から女性の声がした。振り向くと布団に潜り込んでいる柚子姫が、目を眠そうに擦っている。
年齢のわりに、幼さの残る仕草だ。
その無垢な姿を、帖佐は微笑ましく思った。
柚子姫は今年で23歳になる。ちなみに帖佐は38歳だ。魔界の黒き水を飲んだ帖佐は、不老長寿の肉体を得ているため、外見は20代前半に見えるが、とっくに30代となっている。
「すまない、柚子姫。起こしてしまったか?」
戸を静かに閉めて、帖佐は優しく声をかけた。
「あ・・・・・・帖佐様。いえ、大丈夫です」
薄ボンヤリとした寝ぼけ眼が、次第に知性の色を放ち始める。帖佐は柚子姫の前髪がぴょこんと可愛らしく跳ねているのを見つけて、思わず苦笑してしまった。
いきなり忍び笑いをする帖佐に、柚子姫は困惑した。何事だろうと思いながら身体をまさぐるが、とくにおかしなところはない。
それがまたおかしくて、帖佐は笑い声を強くした。余計に混乱する柚子姫の頭を指で指してやると、柚子姫ははっとして、両手で頭を押さえた。
「え、あ、あの・・・・・・」
「ふ、くくっ・・・・・・淑女の嗜みは大事だぞ、柚子姫?」
「あ、は・・・・・・はぃ」
笑う帖佐を前にして、柚子姫は顔をりんごのように真っ赤にした。語尾は聞き取れるかどうかというほど小さくなり、頭からは今にも湯気が吹き出そうだ。
恥ずかしさのあまりに、柚子姫が布団を顔まで持ち上げた。それで隠れているつもりなのだが、帖佐が気になるのか、頭半分が見えている。当然のように、寝癖も見えていた。
睨みつける柚子姫。無言で『私、怒っています』と言っているのだ。だがまったく怖くない。むしろ愛らしかった。
あまりに愛らしいその仕草に、帖佐は自然と頬が緩くなるのがわかった。
「寝癖を直して来い」
頭を優しく撫でる。しかし撫でている部分が、寝癖の辺りだと気付いた柚子姫は、さらに顔を赤くした。
「な、直してきますっ!!」
這い出るように、布団から飛び出そうとする。
だが体の全てが布団から出てしまう前に、柚子姫はガクリと大きく揺れた。
驚く柚子姫。身体は何か強い力に引かれるように、後ろへと引き戻された。
這うような体勢のところを、いきなり引かれたのだ。バランスが取れず、柚子姫はされるがままになっていた。目は閉ざされ、体が強張る。
「へぁ・・・・・・」
動きが止まった。身構えていたが、衝撃はなかった。むしろ暖かい何かに、優しく包み込まれていた。
後ろから帖佐に抱きしめられていると気付いたのは、1分ほどが経ってからだった。それまでの間、柚子姫は帖佐の腕に抱かれて、ずっと頭を撫でられていた。
思考が正常に動作しだすと、柚子姫は慌てて帖佐のほうを振り向いた。動きづらかったが、強く拘束されていたわけではない。
目の前に帖佐の微笑がある。柚子姫はドキッとした。
「ちょ、ちょちょちょ帖佐さま!? なななな何をおいででなさって!?」
「ん・・・・・・愛する女を抱きしめている。それと『何をなさっておいででしょうか?』だ。言葉は正しく使うようにな」
「あ、はい。・・・・・・ではなくてッ!! わ、私は、寝癖——じゃなくて、髪を整えに・・・・・・」
全身を包み込む柔らかい心地よさに戸惑いながら、柚子姫は沸騰しそうな頭で反論を試みる。しかし整然とした言葉は出てこず、まるで吃音のようにどもってしまっている。
それでも今の状況から抜け出そうと、必死になって考える。このままでは恥ずかしさのあまりに、自分で穴を掘って埋まりかねなかった。
少しして、柚子姫は帖佐の言動と行動が矛盾していることに思い至った。寝癖を直してこいと言った直後に、柚子姫を抱きしめているのだ。
ここを指摘するしかない! しないと恥ずかしさのあまりに悶え死んでしまうッ!!
そう決意して、柚子姫は顔を上げた。少しだけ、この抱擁が名残惜しくもあったが、好いている殿方に自分のみっともない姿を見られるのは、やはり恥辱に耐え難い。
「帖佐様! 言っていることとやっている——んぅ」
柚子姫は言葉を発した。思いっきり叩きつけようとした言葉は、しかし最後まで言い終わることが出来なかった。
口が開いた数瞬の後に、帖佐が自らの唇でもって、柚子姫の口を塞いでしまったのだ。
いきなりのことに柚子姫が固まる。呼吸が取れず、酸欠したように頭の中が真っ白になる。
接吻は十秒近くも続いた。ぷはっ! と、唇が離れた瞬間に、大量の酸素を吸い込む。しかしいくら酸素を吸い込んでも、まるで足りない。心臓がうるさく鳴り、肺までもが躍動していた。
止まっていた肺が突然うごきだしたせいで、苦しさのあまりに、柚子姫の瞳に涙が滲む。
潤んだ瞳で、帖佐を見上げる。もはや言葉など頭になかった。
「すまん。すこし意地悪が過ぎたな」
そう言うが、悪びれた様子はない。柚子姫も気にしなかった。恥ずかしさやら苦しさやらで、もうどうでもよくなってしまったのだ。
だからただ呆然として「いえ・・・・・・」と、そう応えることしか出来なかった。
弛緩しきった柚子姫の身体を、帖佐はなおも抱きしめ続ける。頭を撫でる手は止まらず、柔らかい髪を掬うように流れていく。
その心地よさに、柚子姫は浸る。寝癖などどうでも良くて、淑女の嗜みもどうでもいい。
今はただ、こうして包まれていられれば——・・・・・・。
「しかし柚子姫のこのような姿は、まぐわう時にしか見れないと思っていたが・・・・・・。ふふ、本当にいい朝だ」
帖佐の言葉は小さかったが、柚子姫には聞こえていた。いたが、やはり気にならなかった。
そんなこと、どうでもよかった。
動乱の倭国にあって、最大勢力は5つ存在する。
北の蝦夷族。
関東の狗根国。
九洲の耶麻台国。
関西の諸王国連合。
泗国の4ヶ国連合。
各地を平定したこの五大勢力は拮抗状態にあった。それぞれが睨みを利かし、手出しのし辛い状況を作り出していた。
そのような緊迫した中で、最初に動いたのが、狗根国であった。
手を出さない限りは動かない北方は一次置いて、まずは関西の連合を破ることを、大王とその幕僚たちは決定したのだ。
手順としては、まずは関西を平らげて、次に九洲を征服。後顧の憂いを断った後に、泗国、そして未知の北方へと進出することになる。
その先鋒として、『飛燕将軍』鋼雷が、征西将軍に任ぜられた。これは実質的な、西方攻略の最高司令官になったということである。
開戦から3年。鋼雷は快進撃を続け、連合は大打撃を被った。国家間の連携は崩され、陥落は時間の問題である。
その後続として、帖佐も西へ向かうことが決定した。春遠き、厳寒の冬のことであった。
日が沈み、夜の帳が下りる。昼の暖かさはどこかへと去り、突き刺すような寒さが、部屋を満たしていく。
明かりは消え、闇が世界を支配する。部屋はすっかり暗くなっているというのに、蜀台に火は灯されていない。
いつまでも、いつまでも。柚子姫と帖佐は飽きることなく、朝からずっと抱き合っている。
抱きしめあい、ふと語らい、そして唇を重ねる。優しく、激しく、二人は交わらずとも、互いを求め合っていた。
ここは楽園だった。悠久の氷に包まれた男と、その氷を溶かすことの出来る唯一の女。その二人だけが住まう、ここは閉ざされた楽園だった。
そこでは、まるで時間が凍り付いているようだった。2人は抱きしめ合うだけで、火は灯されず、何も変化がない。まるでそこだけが、時間の進まない世界のようだ。
2人だけの世界。互いだけが必要で、互いだけが尊い。故に孤独で、故に清廉で、故に完成された世界。
帖左と柚子姫だけによってのみ完結された世界。
「夜になりましたね」
部屋は暗い。暗黒というよりは、漆黒といったほうがよい。
すっかり夜だというのに、部屋に明かりは灯っていない。柚子姫も帖佐も、互いに動こうとしないのだ。
温もりが心地よい。だから片時も離れていたくない。ずっと一緒にいたいのだ。
顔が見れないのは残念だが、それ以上の至福が、この抱擁にはあるのだ。柚子姫にも帖佐にも、それで十分だった。
だから柚子姫の言葉には、特に意味はなかった。帖佐もそれはわかっているから、応えることはせず、ただ頭をなでている。
——いったいつまで、こうしていられるのか。
二人がこうして安らんでいられるのは、あと僅かでしかない。2日後の明朝を迎えると、帖佐は西へ行かねばならないのだ。
それはつまり、この楽園の終焉を意味している。
「西を征服すれば、あとは北と泗国だけですね」
「ああ。西の仕置きが済めば、あとは楽だろう。狗根の天下も遠くない。そうすれば・・・・・・またこうしていられる」
「あっ・・・・・帖佐様っ」
頭に顔を埋める。匂いをかがれているのではと思って、恥ずかしさのあまりに柚子姫が身じろぎをする。
だが背中に腕を回されている上に、密着状態なのだ。帖佐も逃す気はないらしく、結果として柚子姫は身動きの取れない状態であった。
仕方なく、柚子姫は大人しくなった。せめてもの仕返しにと、柚子姫も帖佐の胸に顔を押し当て、すんすんと匂いをかいでやる。
「お、今日の柚子姫は積極的だな。本当に良い日、良い夜だ」
「もうっ! いじめないでください!!」
だがそれすらも茶化されて、柚子姫の顔は茹蛸のように真っ赤に染まった。怒って顔を上げた柚子姫を、帖佐は愛しそうに見つめた。
怒っている顔すら愛しく思う。自分はどうしようもないほど柚子姫のことが好きなのだと、こんなことですら思い知らされる。
「ふふ、そう怒らないでくれ。こんなことをしていられるのも、あと少しだけなのだからな」
そう言った帖佐の表情は、どこか寂しげだった。たしかに、2日後には戦地へ向けて出発するのだ。落ち着いていられるのは、今日と明日だけである。
こんな顔で言われたえら、柚子姫にはもう何もいえない。
仕方ないと、帖佐の好きにっせることにした。いつも好きにさせられているが、用は気持ちの持ちようなのだ。愛されることは嫌いではない。
帖佐に身をゆだねて、柚子姫は小さく息をついた。
どちらかが静まると、会話は途切れる。途端に静寂になり、しかし決して息苦しい沈黙ではない。
2人だけの世界なのだ。居心地がよくて当たり前。
だからこそ、こんなにも安らげるのかもしれない。
「戦とは嫌だな。・・・・・・お前とずっと、こうしていたい」
「でも、私も連れて行ってくださるんですよね?」
疑いのない顔。
それに帖佐は、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「もちろんだ。私の背中を預けられるのは、お前しかいないのだからな」
柚子姫が喜色を浮かべる。
「はいっ、おまかせください!!」
意気の高い応えは心強い。それが柚子姫のものだとすると、それだけで帖佐は無敵になれる気がした。
そうだ。私には柚子姫がいる。彼女と一緒ならば、私は決して負けない。
自負ではなく、本気で思う。それが帖佐の、柚子姫へ向けるたしかな信頼であった。
そして柚子姫もまた、帖佐を深く信頼し敬愛するからこそ、このように尻込みすることなく言い切ることが出来るのだ。
私が帖佐様の後ろを守る。私にしか守れない。驕りではなく、そう思う。
だから、帖佐様は負けない。その道は、常に勝利で飾られる。私がそうする。絶対に負けない、負けてやらない。
その思いは強く、柚子姫の心を掴んで離さない。死別が往々にして起こる戦場で、失わないためには守り続けるしかないのだ。
私がいる限り、帖佐様は負けない。そして帖佐様がいれば、私も負けない。
互いの信頼が、何よりも強い力となる。
「心強いな・・・・・・」
目の前の笑顔に対する言葉は、まるで酔いしれるようだった。
柚子姫の笑顔は、何時だって帖佐を救ってきた。戦乱の世を駆ける男の心を癒してきたのは、何時だって彼女の笑顔だったのだ。
だからだろう。祖国に対する忠誠よりも、彼女のことが大事だと思うようになった。今では彼女の笑顔がなければ、戦意が湧かないほどなのだ。
柚子姫への行為を自覚したときは、自分は弱くなったと嘆いたものだ。これでは将軍を続けられないとも思ったほどだ。
だが次第に、弱くなったのではないと気がついた。奪うだけの力しか持たない自分が、それを失う代わりに手にした力——守るための力を手にしたのだと。
それから、帖佐は『守る戦い』をするようになった。柚子姫を守るためだけに、戦うようになったと言っていい。
けれど、それを恥とは思わない。むしろ誇りとなった。柚子姫を守ることは誇りとなり、柚子姫そのものが帖佐の誇りとなった。
だから、帖佐は強くなった。この誇りが、他の誰にも負けることはないと、胸を張って言えるから。
腕の中に納まる柚子姫を見て、その素晴らしい笑顔を見て。
戦場でも、柚子姫がいてくれるのなら。
負けることなど有り得ない。
「勝ちに行くぞ・・・・・・柚子姫」
——勝てますか? とは聞かない。聞く必要もない。
勝つことは決まっている。私たちはすでに『勝利』している。
だから、これは愚問。言うべき言葉は他にある。
「はい——帖佐様」
それ以上の言葉は必要ない。
だから、そこで再び会話は途切れてしまった。何度も訪れる静寂。
互いに、話したいことは沢山ある。こうして同衾できるのは、もう僅かでしかない。
朝になれば、この王国は終わる。終幕を迎えたなら、あとは外界で生きなければならない。
全てを終えて、戻ってくるまで。ゆっくり語らうことは出来ない。
それでも、言うべきことはなかった。
言葉はいらない。万言はいらない。そんなモノは必要ない。
伝えたいことは、想いは、すでに伝わっている。言葉はいらずとも、この抱擁が、全てを代弁してくれている。
だからただ、抱きしめ合えば。
だからただ、温めあえば。
だからただ、傍にいられれば。
それだけで、心は一つになる。一つになれば、千の言葉も、万の言葉も、全ては虚無に等しくなる。
「帖佐様・・・・・・」
名を呼ぶ。言葉のいらないこの世界で、それでも柚子姫は愛しい名を呼んだ。
まるでかみ締めるように。その一言を、己の全てとするように。
「柚子姫・・・・・・」
名を呼ぶ。言葉のいらないこの世界で、それでも帖佐は愛する女の名を呼んだ。
まるで忘れえぬように。その一言を、この世の全てとするように。
雪がしんしんと降る。もう外は、積もった雪で白いことだろう。
部屋は寒い。だが2人は寒くない。抱きしめあう体は、夏の日差しよりも熱かった。
「幾千の夜を越えて——」
柚子姫が呟く。それはこの儚い王国を飾る、愛を全てとする女性の紡ぐ詞。
詞には力が宿る。その力に何を願うのか、帖佐にはわからない。
ただ、聞くことしか出来ない。それでも、この詞は、きっと柚子姫の願いなのだろう。
「幾久しく——」
そう思ったからこそ、帖佐は微笑む。
この腕の温もりを確かめながら、帖佐はまた思った。
その願いが、柚子姫の力の源なのかもしれないと。
「いつまでも、貴方様のお傍に——」
——いられますように。
儚い夜の王国は、彼らという住人以外には知られることなく、ひっそりと終焉を迎えた。
朝日を照り返す純白の草原は、一晩のうちに、山都の全域に出現した。越冬の準備をしていなければ、今日という日は絶望から始まることだろう。
しかし幸いなことに季節は冬。準備はどこの家屋でも住んでおり、何とか冬を越えられそうだ。
雪が降って2日。山都から1800の軍勢が出立していく。彼らはこれから関西を抜けて、九洲へと向かうのだ。
一軍の統括者は帖佐将軍。3日前に征西将軍に任ぜられた。己が冠する名に相応しい白馬に跨り、白い絨毯を突き進む。
栄えある出立の瞬間。道端には民が、大手を振って見送っている。しかし帖佐は、それに振り返すことはしなかった。
ギリッと唇を噛む。苦しげに眉が曲がり、瞳は鋭く細められる。
「・・・・・・柚子姫」
白い息と共に吐き出されたのは、愛しい者の名前。生涯をかけて守ると誓った者の名前。
柚子姫も、西伐軍に同行する予定であった。名目は帖佐の副官である。帖佐と同じ白馬に跨って、隣を歩くのは、出陣に際しての、帖左と柚子姫の間で交わされる、暗黙の仕来りであった。
しかし今、隣に柚子姫はいない。彼女は昨日から、原因不明の病に侵されてしまったのだ。
———否。
原因不明とするのは、山都の医師がそう言っているに過ぎない。真実は別のところにあると、帖佐は思っている。
(あの症状、おそらく・・・・・・いや、間違いない)
そう、間違いない。あの症状を自分は知っている。いや、狗根国の上級幹部であるなら、知らぬ者こそ少ないはずだ。
そうであるなら。予想が正しければ。
思い起こされるのは、昨夜の出来事であった——・・・・・・。
「柚子姫っ!!」
戸を開け放って最初に目に入ったのは、寝台に横になって、荒く呼吸する柚子姫の姿であった。
衣服の胸元が、赤い何かで染まっている。その禍々しい赤は、間違えることのない、吐血の跡である。
「柚子姫、柚子姫ッ!!」
「将軍、落ち着いてくだされ!」
顔面を蒼白にさせて帖佐が駆け寄る。しかしこのままでは患者の身体に障ると判断したのか、医師とその助手が押しどめる。
それで一応は冷静を取り戻したのか、暫く柚子姫を見つめる。顔は白く、呼吸が激しい。口元は拭ってあるが、血の跡がうっすらと残っていた。
「これは・・・・・・」
帖佐が医師のほうを振り向いた。
「これはいったい、何が原因なのだ?」
抑揚のない声だった。まるで冷たい氷のような声に、医師は一瞬だけ全身に酷烈な寒さを感じた。
だが何が原因かと問われれば、応えないわけにはいかない。それが医師であるし、そして彼らの『誇り』を守る術なのだ。
だが医師は表情を曇らせて、瞳を閉じた。
「それが・・・・・・将軍、わからないのです。熱もなく、悪寒もない。喉は腫れていないのに咳き込み、血を吐く。そしてあの顔の色。・・・・・・わしは、今まで多くの患者を診てきましたが、このような症状は初めてなのです」
「お前の知る病には該当しないと?」
「はい・・・・・・恐れながら」
無能者と首を刎ねられると思っているのか、医師は怯えながらも、慎重に言葉を選んでいる。
しかし帖佐には、医師のそのような態度は、どうでもよかった。
柚子姫の症状。病に付き物の発熱や悪寒はない。しかし激しい咳き込みと苦痛。そして吐血は起こっている。
何が柚子姫の身体を蝕んでいるのか。見えない脅威に、帖佐はわが身に降りかかったように、恐ろしく感じた。
「うぅ・・・・・・っああああぁぁぁあああぁぁあ!!」
「!! 柚子姫!?」
突然、柚子姫が苦しみだした。身体を限界まで仰け反らせ、喉を押さえ咳き込み、そうかと思うと頭を抑えてのた打ち回る。
気が狂ったかのように瞳を見開いて涙を流す。大きく開かれた口から涎はたれ流れ、鼻水も流れていた。
そしてなにより、この苦しみよう。尋常ではない。
医師が慌てて、暴れる柚子姫を取り押さえにかかった。しかし女性とはいえ、理性のない力は強大だった。助手が顔面を殴られて吹き飛んだ。
「柚子姫、柚子姫ッ!!」
帖佐は柚子姫を正面から抱きしめた。なおも激しく暴れる柚子姫を取り押さえるのは困難だが、ここで離してしまうわけにはいかない。それにここで離すと、もう二度と手の届かない場所に行ってしまいそうな、そんな根拠のない恐怖にかられたのだ。
耳元で叫ばれる名前に、柚子姫は誘われるように、瞳の焦点を合わせていく。
どこか虚ろだが、それでもその瞳は、帖佐を捉えていた。
「柚子姫・・・・・・」
「帖佐、さ・・・・・・っぁが、がはッッ」
「ゆ、柚子姫!?」
腕の中で、柚子姫が盛大に血を吐いた。自分の服もろとも、帖佐の着ている鎧にも、柚子姫の血がこびりつく。
帖佐は顔を蒼白にさせた。好いている女のこのような姿は、衝撃の大きい光景であるのだ。
身体を曲げて苦しむ柚子姫。その姿に、帖佐は嫌な予感を感じた。
この苦しみ方は——知っている。
「まさか・・・・・・柚子姫、お前」
愕然とする。そんなはずはない、有り得ないと、何度も心の中で繰り返す。
だがこれは・・・・・・どの病でないのであれば。この苦しみようならば。
しかし何故。何故いまなのか。
「し、将軍」
医師に声をかけられて、帖佐ははっとした。この体勢は柚子姫の身体に悪い。弛緩している身体を寝台に戻して、帖佐は息を吐いた。
心は、戸惑いでいっぱいだった。
「魔界の・・・・・・水」
「え?」
帖佐の呟きを、医師は聞き逃してしまった。だがそれすらも、帖佐にもどうでもいい。
何故今なのか。それだけが心を占めていた。
柚子姫が魔界の水を飲んだのは、もう四年も前のことである。そのときも今の様な苦しみ方をしていたのだ。
あの苦しみ方。それは、魔界の水を飲んだものならば誰でも陥る症状なのだ。柚子姫も帖佐も、一度は経験した苦痛だった。
だが、だからこそわからない。柚子姫が魔界の水を腑に流し込んでからすでに4年の月日が流れている。柚子姫は死と戦い、そして勝った。生き延びたのだ。
しかし何故か、柚子姫には異能は備わらなかった。そのせいで『出来損ない』と揶揄されることも少なくなかったが、それを跳ね除けるあの笑顔と直向さに、帖佐は強く惹かれた。
だが——いま帖左の目の前で、柚子姫は再び魔界の水で苦しんでいる。理由はわからないが、間違いないはずだ。
「なぜ、今なんだ・・・・・・!」
何も出来ない自分が悔しくて、帖佐は拳を握り締める。その手からは、爪が食い込んで血が流れていた。
医師はなんと言っていいかわからず、途方に暮れる。そんなとき、後ろの戸がすっと開いた。
振り向くと、そこには1人の兵士がいた。
「帖佐様。準備が整いました。いつでも出られます」
無常な言葉であった。
——柚子姫を置いて、行けというのか!?
そう叫びたかった。しかし狗根国の将である以上、行かないわけにはいかない。
「わかった・・・・・・。出発は明日だ。待機していろ」
「御意」
来たときと同じように、兵士は戸を閉めた。
それから帖佐は医師たちも追い払うと、柚子姫のすぐ傍で膝を突いた。
魔界の水は、柚子姫の身体に取り込まれたのではない。ただ深く、沈殿していたに過ぎなかったのだ。
今、柚子姫は試されている。魔界の水が、それを内包するに足る器であるかを。
「柚子姫・・・・・・」
——死なないでくれ。
そう言い掛けて、言葉をとめる。
死なない。死ぬはずがない。そのようなこと、認められるはずがない!!
それでも、自分は誓ったのだ。柚子姫を守ると。
だからこの日1日、帖佐は柚子姫の傍を離れようとはしなかった。
「本当に、何故・・・・・・」
今なのか?
それは何度も繰り返した、宛のない問い。応えるものは誰もいない。
遠征が決まったこのときに、よりにもよって。傍にいられないこのときに、よりにもよって!
「いや・・・・大丈夫だ。柚子姫は・・・・・・きっと特別なのだ。だから今なのだ」
そう思わなければ、とても自分を支えられそうにない。
そう、柚子姫は特別だ。だから死なないし、きっと自分よりも強い力を手にするはずだ。
『出来損ない』ではない。選ばれた存在だ。特別だ。だから大丈夫だ。
何度も口の中で、繰り返し繰り返し呟く。
「すぐに、終わらせる。耶麻台国など・・・・・・一瞬で滅ぼしてくれるッ!!」
そして、柚子姫の元へと帰るのだ。
燃え盛る激情を胸に、帖佐は進む。傍らにいない女性のために、救う戦いのために。
凍てついた男の、孤独の戦いが始まる——。