一枚の書状を胡乱気に流し読みする。内容は如何ほども変わり映えしない。
——我に臣従せよ。即刻、小田原に馳せ参じよ。
それのみを書状は——豊臣秀吉は、何度も何度も、伊達政宗に求めてきている。同じ文言が続き、それでも正宗が動きそうにないと見るや、少しずつ文章は過激に、挑発的に、そして威圧的で暴力的になっていった。
「秀吉はひょうきん者の『人たらし』であると聞いていたが」
書状を丸め、正宗は、そばに控えている近習にそれを手渡す。「火中へ」と低い声で言いつける。
正宗はこの年24になっていた。長年の大敵であった葦名氏を摺上原合戦を切欠に滅ぼし、奥羽のほぼ全域を支配化に収めた。
『七草を一葉によせてつむ根芹』
という句を読むほど、その生涯でもっとも栄光に満ちた日々の中にいる。いまや正宗は奥州の覇者ともなろうとしていたのだ。
それだけに正宗には、草履上がりの秀吉から届けられる再三にわたる臣従強要が面白くなかった。
「ふざけたことを言いよるわ」
正宗は吐き捨てた。
「なぜこの俺が、1度とも会ったことのない、それも器量のほどもわからぬ輩に、大人しく首輪をつけられなくてはならんのだ」
怒りを抑えきれず、正宗は自らの膝を叩いた。
「老いぼれならば早く逝ぬがよい」
「殿、お気持ちはお察しいたしますが」
目の前に座する重臣片倉景綱の静かな声が部屋にしんっと広まった。
「これ以上の無答は益となりませぬ。早いうちに返事をすべきでしょう」
と、景綱が言う。正宗は隻眼を景綱へ向けた。
「この俺がッ」
「お気持ちお察しいたします」
「小十郎よ、貴様はこの俺に猿面の配下になれと言うか」
「ひとまず返事を認めるべきかと存じまする」
「ならば——ッ!」
と、正宗はおもむろに立ち上がった。しかしすぐに、どかりと腰を下ろした。扇子を握る手が小刻みに震えている。
やるせないと呼吸の乱れが訴えていて、それが景綱には、ひどく心を痛めているのだと感じさせた。たしかに痛いだろう。正宗の心は傷つけられている。
何もかもが折り合わなかったのだ。時代に反して、正宗は大きな野望を持ってしまった。野望を叶えられるだけの才能も生まれもち手にしていた。だが時代は、すでに秀吉の下でまとまろうとしていた。
奥州の覇者といえども、すべてを手にしてはおらず、陸奥をはじめ北には多数の領土がある。それらすべてを併呑してこそ、正宗の天下取りは動き出せるのだ。
しかし、秀吉に臣従してしまえば——
「殿、お返事を——」
「言うな、小十郎・・・・・・何も言うな」
正宗は息を吐き出した。板敷きの床を、じっと鋭い瞳がにらみ付けた。
「我が伊達の人数をどれだけかき集めたとて、万とも十万ともいう秀吉の軍勢には到底敵わぬ。そんなことはわかっておるわ」
苦痛に顔面を歪める正宗を、景綱はただ黙って見つめた。長いこと、言ってしまえば兄弟のように育ってきた景綱には、野望を阻まれて立ち往生している正宗の悔しさが手に取るように感じ取れた。悔しいのは景綱も同じであった。
だが、どんなに悔しくとも、正宗の言うとおり相互の戦力差はあまりにも歴然としすぎている。今より直前、陸奥の佐竹義重も秀吉に臣従し小田原攻めに馳せ参じた。佐竹義重の武名は奥羽にも轟いていたし、葦名氏と協力していた佐竹氏は伊達にとっても敵であった。
その意味でも正宗は嫌悪を抱いているのだろう。だが鬼ともされた佐竹義重が尻尾を振っているのだ。正宗の言う、猿面の草履取りに。
小田原征伐を終えて、秀吉が関東の平定を終了させるころ、おそらく奥州以外の国々は秀吉に通じているだろうことは目に見えていた。次期に東北の仕置きが始まる。そのときに奥州だけが臣従を拒めば、かならず叩き潰されてしまうだろう。
それは伊達氏の終焉を意味している。
しばらく項垂れていた正宗が、ぽつりと言葉をもらした。
「なぜ、今頃なのだ・・・・・・」
その一言を発した途端、正宗は、感情の堰が壊れてしまったかのように、激しい言葉を景綱へと向けた。
「あと10年早く生まれておれば、こうはならなんだ。こうはさせなんだ。10年在れば、俺は佐竹を滅ぼし陸奥を併呑した。北の果ての津軽氏を滅ぼし、南は最上を平らげ、必ずや東山一の弓取りの名声とともに伊達の一大帝国を築いていただろうッ!」
「左様かと」
「そうすれば・・・・・・俺は、天下を舞台に戦えたはずだ。織田、武田、北条、上杉、だけでなく四国を席巻したという長宗我部、鎮西の大友や竜造寺、そして島津・・・・・・山陰山陽の毛利とだって。秀吉と互角に戦ったと言う徳川家康とも、俺ならそれ以上の戦いが出来たッ!」
「10年あればッ」と、吼えるような正宗の叫びが部屋中に反響し、あまりにも哀切な響きにさしもの景綱も心が締め付けられるような感覚に陥った。
出来るならば、正宗の願いを叶えてやりたい。正宗が望むならば天下を取ってやりたいし、南蛮へ攻め入るというならばそうしたい。それが景綱の本心である。しかし現実はそうはいかない。
天地を逆さまにしても伊達は勝てない。織田信長が田楽窪にて今川義元を、毛利元就が厳島にて陶晴賢を、北条氏康が川越にて関東管領上杉氏を破ったようにはいかないであろう。
憤怒と悔恨と羞恥に悶え苦しむ正宗に、しかし景綱は決断させなくてはならないのだ。決断した正宗はどこまでも強い。その強さを持ってすれば、いまは悶え苦しんでいようとも、いつか必ず天下を取る原動力になるだろうと景綱は期待していた。
「ならなかったものは致し方ありませぬ。殿は浅井長政という男をご存知か」
「浅井・・・・・・。浅井・・・・・・。聞いたことはある。たしか、近衛の豪族だ」
「左様にございます。北近衛を領有しておりました豪族にございます。朝倉氏と深い結びつきがあったそうにございます」
「その浅井某が、どうしたというのだ。まさか死人が怨霊となって俺たちを助けてくれるわけもない」
「浅井長政は朝倉義景ともども、織田信長に滅ぼされました」
「だから何だ」
正宗はまだ景綱の真意を読み取れず、怪訝に眉をひん曲げて尋ねた。独眼の威圧にも景綱は怯むことなく、我思うところを憚りなく口にする。
「さしずめ伊達の家は、浅井のごとき状況かと考えます。浅井を滅ぼしたは織田、その実行に移したところの大将は、いま殿を脅かしている秀吉にございますそうな」
「ならば、俺の伊達は浅井のように滅ぶと?」
ますます憤怒の表情を正宗はその若い面にありありと浮かべた。青筋さえも浮かんでいた。この血気盛んな青年大名は、まだまだ感情を押さえつける術に長けていない。
若さを武器としながら、若さがまた欠点となることもある。
正宗の頑固なまでの強い意思が、今は伊達家の命運を大きく天秤に賭けていると言ってよかった。
景綱はそこのところを正宗に言上しなくてはならないと考えていた。正宗とて現実の見えない愚か者ではない。屈したくない意地と、到底勝てないと言う現実との板ばさみによって、どうすることも出来ないでいるのだ。
助けるならば、それは自分でなくてはならないと景綱は思い、また自分にしか出来ないとも自負している。景綱には天下で一番、自分が正宗のことを理解していると言う自信があった。
「降るも一つ策にござる。呉子にも『可を見て進み、難きを知りて退く』とあります。すなわち今、殿が憤怒の情をもって秀吉に挑みますれば、勝ち目なきいくさを戦うこととなり、それはでは無謀の誹りを受けましょう。しかし、あえて秀吉の懐に飛び込み、機の熟すのを待ちますれば、それすなわち一計となりましょう」
と景綱は言った。いまの正宗を動かすには、ただ理説をもって向かうよりも、こうして作戦立てて話し合うほうが得策であった。正宗の理性を感情よりもいっそう拡大させるのが、景綱のもつ主君との付き合い方なのである。
「いまは難い時期にございます。可を迎えるのは、まだしばし未来のことです」
と、このように言いながら、景綱の口は再び浅井長政の名を引き出した。
「浅井長政が滅びたは、彼もまた情に駆られたためにございます」
「そは、如何な情だ?」
「恩義にござる」
景綱は喝破した。
「巷説に聞く浅井長政を考えると、決して凡愚には非ず。しかし彼が滅んだのは、情によって己の眼を曇らせ、政局を見誤ったからにございます。織田上総介は、浅井長政ともなれば政局を正しく見抜き、必ずや己に組みするものと考えていたものに相違ありますまい。しかし浅井は一時の義憤を優先させ、そのために朝倉と運命をともにせざるを得なくなりもうした」
「いまの俺がそうだと言うのだな、小十郎は」
それまでの様子とは一変し、落ち着いた調子の声で正宗は言った。尋ねる風の言葉ではなかった。正宗のなかでも、答えが定まりつつあるようだった。
ここのところ、さすがに正宗の呼吸を知り尽くした景綱ならではだ。
景綱の膝がすっと前に進む。両腕のこぶしを床につけ、景綱は頭を下げた。
「殿、情に流されてはなりませぬ。それはこの乱世に生きる武将の、ましてや大名の取るべき道にありませぬ。殿はかつて、涙をこらえて輝宗公を御打ちになられました。後舎弟殿をもその手にかけられもうした。そうして、いまの伊達があるのでございます」
「そうだ。・・・・・・そのどれも、俺は決断してきた」
「仁義は正道にあり、慈愛は王道にあり、雄略は武道にあり、と古今に申します。されど、それを語る資格は唯一つ、将来を見通し道を誤らぬ者にだけ与えられます」
そこで区切り、景綱は息を吸い込んだ。肺いっぱいに、それこそ肺胞の一つ々々から血液の一滴にいたるまで、酸素を十分に取り込んだ。
膨らんだ肺を、一気にしぼませる。
「殿にはそのご器量がございます。この小十郎にはしかとわかっております。浅井の不幸は、情に流された長政が主となったこと。伊達の幸福は、正宗様が主となられたことです」
「景綱・・・・・・よう、そこまで言える」
景綱の熱い言葉が胸に沁みたのか、正宗は顔を宙に向けた。思案している風でもあるし、何かに耐えている風でもあった。
決断を促すには、いまだ——と、景綱は畳み掛ける言葉を口にしようとした。しかし、咄嗟にそれを思いとどまった。天井を見上げていたはずの正宗の瞳が、いつしか自分を射抜いていたからだ。
正宗は憑き物でも落ちたように、晴れ晴れとした表情をして景綱を見つめていた。
「返事を書いてやる」
存外大きな声で正宗は宣言した。景綱は微笑み、頭を低くした。もう、いつもの正宗であった。
「しかし、書くにしても、やや遅くなりすぎたな。これだけ執拗で高圧的な秀吉のことだ。赴けばこの首撥ねられるかもしれぬ」
さすがにそう言われると、すすめた景綱も言葉を窮させてしまう。その可能性は十分に考えられた。だがどちらにしろ出さねばならない局面まできていた。
だが、正宗は自らの首を叩きながらも、笑っていた。吹っ切れたら豪胆な男である。
「小十郎、わしを秀吉に差し出すはお前だぞ。何を案じおる」
「覚悟はしております。殿の首撥ねられるときは、拙者もこの腹掻っ捌きます」
大真面目に景綱が言うと、正宗は膝を打って爆笑した。
「よせよせ、詰まらぬ。切腹するくらいなら秀吉にいくさの一つでも仕掛けてやれ。もしかしたら勝てるやもしれぬ」
などと戯言もはくほど、正宗はむしろ陽気になっていた。陰気な空気はもうどこかへと吹き飛んでいってしまった。
笑いの尾を引きながら、正宗は、見たことのない秀吉を脳裏に描こうとした。映るのは山奥に棲んでいるような顔と尻を赤くした猿が、きっきっと飛び跳ねながら喚く様子ばかりだった。
「ただ会うだけでは詰まらぬな。ひとつ、猿を驚かしてやろうか」
さも楽しそうに正宗はいった。何かしら考え付いているようだが、景綱には、そこまではわからなかった。ただ景綱は、得も言えぬ安心感が身体中に広がっていくのを感じた。
正宗様ならばきっと大丈夫だ。そう思わせる何かを、やはりこの独眼の英雄はもっているのだ。
「よし、そうとなれば花見の用意をせよ」
唐突に正宗は言い出した。面食らった景綱はしばらく言葉を失った。だがすぐに視線を外へと向けた。季節は春である。桜の盛りである。
「せっかくだ、外で書く。どんな仔細であれ俺にとっては新たな戦いの幕開けだ。辛気臭いのはごめんだ。秀吉への返事は、この、桜花の舞い散るなかで書く」
「かしこまりました。風情に満ち々々てよろしゅうございましょう」
景綱の想像の中で、桜吹雪の中で静かに筆を奔らせる正宗が現れた。なんとも言えぬ男ぶりに、ついつい見惚れてしまいそうになる。
「ついでだ、皆も呼べ。今日は晩まで盛大に騒ぐぞ。酒を振舞い、楽を奏で、みなみな踊り狂え。本日は伊達の新たな旅路の始まりである」
「左様に成されるがよろしいかと存じます」
正宗の意気揚々とした物言いに、景綱は、己がごとく誇らしげに賛同した。
部屋に入り込んだ桜のひとひらが、2人の間をはらりと舞った。