長宗我部 元親 〜 土佐の峰々を越えて 〜
事件と言うにはあまりに大げさかもしれない。ただし、土佐の人々にとって、それは紛れもなく大事件なのである。ここに語る大事件とは、かくいう名実ともに土佐の支配者となった元親によって起こされたものだ。
とはいえ、厳密に言えば、まだ当の事件は起きていない。起きる寸前にまで時期が来ている、というだけで、大事件へといたるまではまだ暫し時が要る。
大事件の少しまえ、元親をして動かしめる出来事があった。弟の島弥九郎が阿波の那佐港で海部越前守の手のものに殺害されてしまったのだ。理由は様々であろうが、まず、遠因が元親にある。
土佐東端の安芸氏が領有していた土地は、阿波と山を隔てて繋がっている。その安芸氏を永禄12年(1569)の盛夏に滅ぼしたのだが、安芸氏の残党が阿波へと逃げ込み海部筑前守に泣きついた。それが巡り合せによって元親へと返り、弟の島弥九郎を殺害せしめたのである。
あらましは、このようなものだった。真実を知ったとき、元親は大変な衝撃に襲われ、落胆にくれ、己の業を痛感せざるを得ないほどの罪悪を受けたものだ。理由は様々、しかし元親が、頼もしく感じていた弟を殺したようなものだろう。
許せない、許せるわけがないと、元親の嘆きは次第に強烈なまでの憎しみへと変貌していった。平常豪胆の裏に慎重を忍ばせる元親にとって、快活でいつも照りつける太陽のような弥九郎の存在は、つねに心の支えであったといってもいい。弥九郎の死は、元親の太陽が二度と昇らぬことを意味していた。
——滅ぼしてやる、いやさいっそ、阿波のすべてを切り取り、その代償を持って弥九郎の命の価値を示してやる。おれの愛した弥九郎の命は、阿波一国にも匹敵するのだと、おれの手で天下に示してやる。
不遜な想いがこみ上げるなかで、しかし同時に、
——いや待て、いくら弥九郎の死を悼もうとも、それとこれとは話が別。弥九郎ひとりのために血気を奔らせ、みすみす土佐を失うものか。
という、しごく冷静な思案も働いているものだから、ここ数日の元親は悩みきり、悩みを通り越してすでに苦しみさえ感じていた。
「阿波へは攻め入るとも」
口々、元親は家臣らにそう言葉を漏らしていた。本心である。本心であるが、算段がついていない間は、ただの決意宣言にしかならない。
元親は謀略家ではないが、大名として考える習慣はある。その習慣が暴走を許してくれない。阿波へと攻め入るにも、勝てる算段がつかないと動こうにも動けないジレンマを、いまはとにかくどうにかしたかった。
「行けばよいではございませんか。弥九郎殿の仇討ちをなさりたいのでしょう?」
奥の正室は寝室に入ってきてうだうだと思い悩む元親に、すぱっと言い切った。大の男がなんと情けないと、内心ではため息ばかりがつく毎日だ。
「行けばよい、といって行ければとうに攻めておる」
「では、そうなされませ」
「行けぬ。行けぬから困っているのであろう」
物分りのわるい妻にやりきれない視線を投げかけ、ごろりと床に寝そべる。「おかしな殿」という奥の言葉にさえ、いまはわずらわしさを感じてしまう。
「女子が口出すことではない」
愚痴をこぼしていながら、理屈にもならないことを元親はいう。元親と真面目に取り合っては疲れるばかりである。
「ならばこんなところで寝転がっていないで、福留殿にでもお話なされませ。私は女子ゆえ、いくさの話はとんとわかりませぬ」
「そなたは、思い悩む夫のちからになろうと、そうは思えないのか」
「女子が口出すことではございません。口出せば、どこかの殿様に叱られてしまいます」
「そうではないッ」
軽やかに口答えする奥に悪態をついた元親が、這いずって近寄り、きれいに正座された膝に頭を乗せる。そうすると、自然と奥が頭をなでる。いつしかそのようにするようになっていた。
元親は、困ったり悩んだりすると、よく奥の膝を枕にして思案した。今回も、そうなのであろうと、奥はやさしく指を動かして微笑んだ。
「攻めないのは、勝てないからなのですか?」
「そうだ」
「なぜ勝てないのです。殿はすでに一条様をも滅ぼし、土佐7郡の悉くを併呑なされたではありませんか」
「だが、弥九郎が死んだのだぞ。おれの右腕が親政であるとして、左腕はまさしく弥九郎であった。弥九郎の雄姿を奥は知らないだろうが、あれは真なる勇者であった。隼人と弥九郎の2人がおれば、万に一つもおれに敗北はないであろう」
「存じておりますとも。さぞご立派であられましたこと」
「なぜわかる。そなたは弥九郎のいくさを知るまい」
いぶかしむ元親に、ころころと奥は笑う。
「いくさから帰るたび、殿がご自分でよう申されていました。隼人めはどこぞの大将の首を取った、弥九郎は雑兵を返す々々の刃で屠ったと。いくさを知らぬ女子の想像を掻き立てるように、殿は嬉しそうに語っておりましたよ」
「そうか・・・・・・」
そうとは気づいていなかった元親はおどろき、それほどまでに自分は福留親政や弥九郎のことを、我がことのように誉れ高く語っていたことを思い知った。
だが、言われてみれば、それも不思議なことだとは思わない。生来、姫若子と呼ばれた時期があったように、慎重さを根底にもっている男なのである、元親という男は。つねに戦いのなかで虚勢にも似た蛮勇を示してきたが、敗れて敗亡の憂き目を見ることを畏れるがために、何としても勝ちたい気持ちが強く、必勝の知恵をひねりにひねり出すのである。
かわって福留親政や弥九郎のような偉丈夫は、生来、勇気りんりんの武士なのである。元親のようなものと違い、生まれ持った素質による勇気は力強く、天竺の沙羅双樹の幹に似た神秘的な力を持っていると元親は考えている。
たとえ四国のすべてを征服しても、決して手に入らない才能をもった2人の家臣は、四国を駆け巡る虎になろうとしている英雄にとってたしかな誇りであるのだ。
——あぁ、だからなのか。
ふいに元親は気づいた。なぜ自分は、ああまでも弥九郎を愛し、こうまでもその死を嘆き、いままさに復讐と野望との間で板ばさみに苦しんでいるのか。
つまりは、そういうことだったのだ。
「おれの中に恐れがあるのだな」
いきなり、元親は口を開いた。唐突すぎたために、奥もびっくりしてしまった。だが構わず、胸からつぎつぎに沸き起こる感情を、元親は好きなだけ暴れさせることにした。
「弥九郎の死を、どこかで自分自身に重ねていたのかもしれない。勇者の弥九郎だって死ぬのだ、おれが死なない道理はない」
「まぁ、縁起でもない! 益体もないことを申されまするな。口に出せば、悪魔が真実にしてしまいます」
「よい」と、元親は応え、「かまわぬ」と素早く続ける。
奥は眉をひそめる。もしや殿は、弥九郎殿を喪った悲しみのあまり、お心を狂わされたのか・・・・・・?
しかしそうではないと元親は奥の感想を否定する。悪魔に屈したわけではないと言う。
「勇者は悪魔を祓う力を持っているという。おれは勇者ではないゆえ、悪魔を跳ね除けること敵わぬが、しかし悪魔の災いがすぐそこまで近づいていたことを、弥九郎は己の命を持っておれに教えてくれたのだ」
そういった瞬間、元親のまなじりには涙が溢れ、すじを描いて零れ落ちた。
「悪魔はすでにおれの中にあった。それに気づけなかったおれが、弥九郎を殺してしまった」
悪魔とは、元親の中で蠢いていた弱さであった。多少臆病であることは大名にとって必要な要素である。だが負けたくないからこそ張り巡らした安芸氏への戦いも、ついには井戸に毒を放り投げる所業までも元親にやらせてしまい、安芸氏旧臣らの長宗我部氏に対する憎しみをはげしく煽ってしまった。
勇者ではないが、だからとて内なる勇気を蔑ろにしてもならないのだ。
はらはらと男泣きし、これがおれの業なのだと元親は自分自身に失望しそうになる。そのために弥九郎を喪うとは、なんと愚かなことであろう。
もはや元親には言葉もなくなっていた。勇者になれないことが、ただ悔しく、ひたすら情けない。それが戦国を生き抜く大名の感情でないことを、嘆くばかりの元親にはまだわかっていない。
こぼれる一滴を、奥の細い白魚の指先がすっとすくう。
「では、そんな弱虫な殿は、もういくさなどはせず、この岡豊にとどまってくださるのですね」
幼童をあやすような声音で奥が耳元でささやく。奥にとっては、夫がいくさに出かけるたびに、心持くるしさを感じてしまうものだ。ずっと側にいてくれたほうがよい。
でも——そうはならないだろうとも思っていた。でなくば、土佐1国を切り取った甲斐がなく、また家臣たちへの面目も立たない。武士の家に生まれた彼女には、そこのところの事情を理解することが出来る。
案の定、元親は声を押し殺して、必死に奥の言葉に反論しようとしている。反論せねばならないのだ。
ここでくじけないところが、英雄児である所以となる。
「阿波へはかならず兵を押し出してやる」
とようやく言葉を吐き出した瞬間に、元親は身体を起こして外を見つめた。
「おれは弱虫だし、嘘もつくが、勇気を持ち、決意を曲げたりはしない。また、そんなことでは弥九郎の死に甲斐に報いることも出来ない。おれが今ひとつ煮え切らないのは、土佐の人間がいまだかつて、土佐より外へと打って出たことがないからだ」
「そうなのですか?」
「そうだ。太古以来、土佐は土佐のまま、土佐の外は流されてきた公家やら武士やらの物語にしか知らぬ。土佐の峰々の向こうは、伊予でも讃岐でも阿波でも、みな御伽噺の国よ」
「ふしぎなこと。私はそれよりももっと遠く、美濃から堺に出て、さらに海を越えて波に揺られて、この土佐まで輿入れしに参ったのですよ」
「いやいや、そういうことではないのだ」
元親は奥の了見違いを正した。
「すなわち、交わらなかったのだ。物も人も文化も、なかなか交じることなく今日までまいった。それはいくさでも同じで、土佐7郡で切った突いたはあれど、それが土佐の峰々を越えてとなると、そなたの申すとおり不思議とそんなことがおきなかった」
「上方では当たり前のことになっていますよ。いやなことですけど」
奥の生まれた美濃も、尾張の織田信長に攻められた国であり、その前には斉藤道三とその子が骨肉の争いを繰り広げている。こわいことであるが、どうしようもないと奥も諦めきっている。
ただ、だからこそ、この土佐のどこかのんびりした雰囲気が、上方の争いを知る奥には心地よいものであったのだ。老いて死ぬまで、この土佐だけは他国と激しい争いをしないでほしいのが本心と言うものだ。
「上方は上方、土佐は土佐。それでよいではありませんか」
と奥がいうと、振り返って元親がため息をつく。
「そなたは、おれに出兵すればよいといい、そのくせ戦うなという。いったいどういうつもりか」
「どうもこうも、そのまま。戦うのなら戦う、戦わないのなら、ここで私と平穏に暮らしましょうと、そう申しているだけです。いくさで殿が亡き者となっては、それこそ弥九郎殿の死に甲斐もありませんでしょう?」
「阿波へは行くとも。ただ、なにしろ皆々はじめてのことだから、不安なこと尋常でないだけだ。阿波へはいく、いくさをする!」
「ではそうなされませ。滅びるときは綺麗さっぱり滅びましょう」
「人事だと思って」
「人事ですもの。いくさはいつだって殿方のすることでしょう? それで滅びると言うのなら、しかたないと女子は泣き寝入りするしかありません。ご安心を、殿お一人に黄泉路を歩ませはいたしませぬ。私も武家の娘なれば、喉を裂いて閻魔様のもとまでお供いたします」
「え、縁起でもないことを申すな。これからいくさをすると言うに」
験を担ぐことのおおい元親の顔が引きつる。
しかし奥は、そんな元親に頓着しない。いい加減、この夫の愚痴を聞くのもうんざりしてきたのだ。
「でははっきりと申しましょう。何千という士卒をかかえた1国の大将が、いつまでもめそめそ悲しみ、迷子のように右往左往なさいますな。私の嫁いだ殿方は、そのように情けないお方だったのかと思うと、悔しくて、私がめそめそしたい気分になってしまうのです」
「おれを貶めたいのか」
元親が語気を強めると、奥もすかさず言葉を並べたてる。
「このままでは私がなさけない女房になってしまうというのです。私だけのことではありません。ことは土佐の一領具足の自尊心にまで及びましょう。かれらはみな、殿の下で一致団結して戦ってまいりました。勝てば褒美を貰えるとあって、いまでは田畑へ出ることよりもいくさへと出たがると言うではありませんか。しかし一領具足は、褒美だけでなく誇りも大切にしておりましょう。それは土佐人の気風にございます」
「その気風がおれの名に傷をつけるということか」
「巡り巡っては、そうともなえりえましょう」
そんなものかもしれないと、元親も思い始めていた。土佐人は純朴な性質を持っているのか、いろいろな感情をまっすぐに表現する。元親は異質であるとして、大体がそうだ。
たとえば、これは後々の話なのだが、豊臣秀吉に臣従するようになってから、元親が下賜品を土佐へと持ち帰ったとき、土佐の侍たちはそのあまりの美々しさに感心しきりであったという。秀吉はかつての大敵であったにもかかわらず、彼らは敵愾心や嫉妬心よりも、これだけの力を持った秀吉に感心し尊敬さえするようになった。
他の文化と交わらなかったぶん、情緒がより自然な土壌によって育まれたためだろうが、それは逆に、自身の気持ちにどこまでも素直と言うことだ。
今で言えば、腰抜けた元親についてくる士卒がいなくなってしまうということを、奥は語り、元親も感じているのであろう。
「いちど始めたいくさなら、やり遂げてはいかがです。みな思っているはずです、弥九郎殿の仇を討とう、殿とともに四国を平らげようと。城の奥深くにいても、そう感じるのです。もはやうねりになっているのです」
「おれの下知をまっているか」
「一番それを待っているのは、福留殿でありましょう」
「隼人か・・・・・・」
「殿にその気がおありなら、私も口小賢しくはいたしません。ただただ、殿のご無事を菩薩様にお祈りいたすのみ。生きて帰っていただかねば、私も立つ瀬がございません」
「女ながらによく言う」
元親は苦笑し、心もち軽くなった胸を張り上げる。元親の土佐人らしさは、いくさにおける勇猛ぶりだけでなく、悩みから解放されればどこまでも磊落なところであるだろうか。
「すでに土佐人の気持ちは土佐の峰々を越えているのかもしれぬ」
越えていないのは自分だけだった。そう元親は気づいた。やはり自分は臆病者だと思う。
だが気づけばなんということもない。弥九郎は死んだかもしれない、しかしこの土佐の将士もみな勇者であった。
——弥九郎よ。そなたはおれに、それを伝えたかったのか?
いまとなっては応えも返ってこない。だが、そうなのであろうと元親は自身に納得させる。ならばやはり、阿波へ行かねばならない。海部越前を討ち取り、その弔いをしなくてはなるまい。
この戦いは、元親の新たな勇気を試す戦いなのだ。
「こうしてはおれぬ」
言うや立ち上がり、大またに元親は奥の屋敷を飛び出していった。気持ちに踏ん切りがついて、策略があれこれと思いつくようになったのだろう。
元親の下知が士卒に行き届けば、土佐に限らず四国の全土は、有史以来未曾有の大混乱に陥るだろう。風雲児がいよいよ土佐と言う殻を破り、鳥なき島に飛翔していくのだ。
ひとりぽつんと残された奥は、やれやれと微笑んだ。侍女が顔をのぞかせ、そんな奥の様子に首をかしげたのは、土佐と阿波が史上初めて国を挙げての戦争に突入する少し前のことであった。