直江 兼続 〜 御館に輝く若き智謀 〜
このころを天正6年(1578)という。越後を基盤として北陸に威を据えていた上杉謙信が、虫気のために世を去った。死去年は3月13日、享年49。
『越後の龍』と恐れられ、近隣諸国の大名がこぞって身を震わせたほどの男が死んだ。それは、越後の一時代
がついに幕を下ろしたことを意味し、そして新たな時代が若葉のごとく開いたことの現しでもあった。
上杉家執政を司る家老、直江山城守兼続——この時まだ景勝が近習、樋口与六兼続は、謙信葬儀の喪も明けぬうちに占拠した春日山城の本丸(実城)で、主君景勝とともにあった。
謙信の死去からわずか数ヶ月ほどしか経っていない。だが、あまりにも目まぐるしく情勢は変化し、磐石だった越後の政治的地盤は揺らぎきっていた。二の丸にあった対抗馬の上杉景虎を5月の半ばに御館へと追いやった後、景勝はまさに四面楚歌の状況にあった。
武田、葦名、北条、織田など・・・・・・様々な外敵が謙信亡き後の越後を狙って蠢動しはじめた。武田と北条は同盟関係にあって影虎を支持し、葦名もこれと同様の動きを示した。織田信長、越後の内情をかく乱させて内部分裂を誘う情報戦を展開し、結果として景勝側から状況不利と見た離反者が続出するほどだった。
だが、兼続が景虎支持を表明して進軍してきていた武田と単独で講和に持ち込み、一方で北条軍を坂戸城で撃退することに成功した。形勢は次第に景虎有利から景勝優勢へと流れを変えつつあった。
そのために広大な土地を手放し、巨額の金銀さえ貢いでも来た——しかし、そうしてこそ今という好機は訪れたのだと、兼続には確かな確信と手応えがあった。
期せずして、関東と結ばれた三国峠の細道も、冬となり今やすっかり積雪で塞がれている。春日山城も雪に覆われている。さほど広くもない景勝の私室、火鉢の暖を囲うよう身を寄せ合い、兼続と景勝主従は顔をつき合わせている。
「葦名、北条は雪に阻まれて軍を進ませることが出来ませぬ。武田はまだ油断ならざるところあれども、まず問題ありますまい。出陣を要請してきた北条氏政自身が出馬していないのです。勝頼殿だけが危うい橋を渡るとは思えませぬ」
手を揉みながら、兼続がここしばらくの情勢をまとめる。眉間にしわをよせた景勝の口元がへの字に曲がるのを、たしかに目の端でとらえる。
「織田はどうするべきと考えておる」
「どうもありませぬ、捨て置きましょう。もはや景虎様に勢いはありませぬ。これさえ決着つきますれば、織田の手など気にする必要もないものと存じます」
「そうか・・・・・・」
唸るように景勝は応えた。武門の上杉を背負う意気込みに溢れた景勝の性根もまた、刀や槍の自負が激しい。本丸占拠という奇襲も行うが、やはり見えない力に動かれているというのは、なんとも気味悪く感じるのであろう。
「坂戸城で北条軍を打ち破りましたが、雪解けとあわせて、再度仕掛けてまいりましょう」
「うむ」
「次はとても防ぎきれませぬ。我らがわずかに劣勢の気配を見せた途端、おそらく勝頼殿も三度相対いたしましょう。織田も、おそらく兵を差し向けてくるものかと」
「織田も攻め寄ると申すか」
きりきりと景勝の眦が上がってゆく。信長の情報戦のまえに景勝陣営は内側から崩壊する寸前にまで追い詰められていたのだ。いまや景勝にとっての織田信長とは、憎さ百倍といった具合にまで許しがたいものとなっていた。
その織田から兵を差し向けられるとなれば、これを看過してしまうわけにはいかない。
「織田の乱入は断固としてまかりならん」
「心得ております。雪解け前に決着をつけまする。つきましては、殿にひとつ、御英断を」
「申してみよ」
「はっ。此度、我が越後領内紛の流れを見ますに、当面の脅威は北条のみといたしましても、葦名、織田ともども雪深き山々に足止めされております。肝心要は武田の動きにかかります。武田は、勝頼殿さえ本意とあらば、雪中行軍も可能な距離にあります。今後『絶対に武田は動かない』という確証が何としても欲しゅうございます」
「武田であるか・・・・・・。すでに莫大な金銀をくれてやったが、まだ胎は満ちていないというのか」
「そこは致し方ありませぬ。先年、長篠における敗戦をうけて武田はその国力を衰退させております。亡き信玄公の頃より蓄えた資金も、騎馬隊や山県昌景ら名の聞こえた勇将さえも失った今、物も人も何もかもが足りていないのです。鳴り物入りの勝頼殿は、まず国力を回復させる資金が欲しいところでありましょう。我らにはそこを突ける潤沢な金銀があります。使うべきときに惜しみなく使ってこそ、価値のでるものばかりです」
「金に物を言わせる方法は、好かん」
「金銀が悪しきものなのではありませぬ。金銀に魅せられた者が、悪しき者となるのです。金銀は使うものであって、決して使われるものではなく、使ううちは列記とした武器となります」
「ものは言いようである」
と、皮肉めいた物言いをしつつ、深いため息を景勝はついた。
「しかし、その金銀を使うときだと申すのだな」
「左様にございます。いま、武田に対して我らの金銀は弓矢以上の威力を持っております。しかし、そこで味を占められて次を求められては、直のこと信用などできませぬ。ここは一つ、同盟の証として武田より人質をお求めになるべきかと」
『人質』という言葉を聴いた瞬間の景勝の表情を、兼続が見逃すことはなかった。寡黙ながらに剛直な景勝に、もとから人質という発想がなかったのであろう。
脇息についた肘を立てて、景勝の瞳がまっすぐ兼続を見つめる。
景勝は、たしかに情義に厚い男ではあるが、なにも謙信のごとく正々堂々を信条としているわけではない。もちろん、そのようにありたいという思いはあるが、しかし決して謙信になりたいわけではない。そうでなければ、喪も明けぬうちに春日山城を占拠するという暴挙に打って出るわけがないのだ。
景勝には、景勝のやり方、戦い方がある。景勝が気にしているのは、人質を取るという行為そのものへの嫌悪ではなく、むしろその人質に関することであった。
「武田が人質を出す理由はない。財宝が欲しければ、攻めればよいのだ。なにゆえ己の子を出す」
「されど、攻める理由もないのです。武田が上杉を攻めようとするは、北条と同盟しているからに他なりません。北条が動かずに武田だけが動くということは、すなわち武田が北条に降ったも同然。建前は北条の言葉を聞き入れながら、勝頼殿の本音は見え透いております。でなくば、我らが貢いだ黄金によって引き返すことも、景虎様との和睦を斡旋することもなかったでありましょう。武田はこれ以上、北条ないし景虎様の陣営に組していても益はありませぬが、我らと組むならば話は別にございましょう」
「そういうものか・・・・・・」
「殿、勝頼殿は信玄公とは違います。そして武田の家風も変わってきております。利益を扱うことは義に背くことにはなりませぬ。利益を御してこそ、義は力を増すのです」
「利益に使われるべからず、か」
「謙信様がなぜ春日山城の金蔵に財宝を溜め込んだのか。なぜ船銅前を徴収したのか。利益に反対することばかりが義ではないのだと、すでに上杉は知っております。殿、勝頼殿を操るには、何といたしましても人質をいただかなくてはなりませぬ。代わりに、こちらからは財宝を惜しみなく与えましょう」
「それでも・・・・・・武田は人質を見捨てるのではないか。上杉に得がないと知るならば」
「武田が見捨てたとして、我らが人質を殺すこともありますまい。客分として以後も置いておかれませ。人質を生かすも殺すも、殿の胸三寸」
「そうか。そうであるな」
言われてみれば、何ということはない、まったくその通りのことなのであった。武田が見捨てたからといって、人質を殺す必要はたしかにないということに景勝はきづき、その瞬間に気持ちがずいぶんと軽くなった。
——人質か・・・・・・と、景勝が小さく呟いた。人質を取ることへの抵抗がなくなると、思考も前向きになる。肝心なのは、武田が人質を出すかどうかというところに焦点が合わさった。
実は、この部分での思案も、まだ兼続は決めかねていた。人質は何としても取りたいところだが、はたして勝頼が応じるかどうかは、まったく予想のしようもなかった。
第一の希望としては、やはり子息、それも嫡男であることがのぞましい。何よりも男児であればよい。男は誰もが跡継ぎの可能性を秘めているのだ、武田も迂闊に見捨てるわけにはいくまい。
しかし勝頼の性格から考えてみても、父信玄譲りの冷酷さを受け継いでいるような、油断ならない気質があるように、兼続には思えて仕方がなかった。心配事はその一点に尽きるといってもよかった。
ことは武田家の行く末にも関わるだけあって、黄金で片付く問題であるのかどうか、とんとわからない。正味な話しをしてしまうと、嫡男はまず無理である。嫡男を差し出すということは、臣下に降ると言うことを意味しているからだ。次男、三男も難しいというほかない。ここは兼続も、臨むところだが諦めるほかないと思っている。
そこで、景勝の英断を仰がねばならないのだ。
「子息を人質に取ることは難しゅうございます。怖れながら、殿には武田の姫君をお娶りいただきたく、言上いたします」
「・・・・・・なに」
眉をぴくりとも動かさず景勝が低く言葉を漏らした。あまり同様のある素振りはない。もしかしたら景勝自身、うすうすその可能性に感づき始めていたのかもしれないと、兼続はおのれの仕える主君の気持ちを思った。
そうであるならば話は早い。
「武田には信玄公の五女がおりまするも、身の空いておられるのは、松氏と菊氏の御両人であります。殿には是非にもこのお二人の何れかを、御正室に貰い受けていただきたく思います」
「・・・・・・」
景勝の口元がへの字に曲げられる。むすっと黙り込んでいる。納得しきれないものを内に溜めているようだ。女性どころか、好いた惚れたにまったく関心をもたない景勝にしてみると、いきなり嫁を娶るという事態に少なからず戸惑いがあるらしいと兼続は感じ取った。だが、ここで二の足を踏まれてはたまらない。
景勝の鋭い視線が、しばらく兼続を睨みつけてくる。負けじとまっすぐ見つめ返す。しばし、視線が交錯しあう。
ふんっと景勝が鼻息を荒く吐き出した。
「どうしても娶らねばならぬか」
「どうしてもお娶りいただかねばなりませぬ。松氏か、菊氏か」
「兼続とてまだ未婚ではないか」
恨めしそうな瞳が全身を射抜く。しかし、兼続はそれをさらりと受け流す。
「この乱が終息いたしますれば、私もしかるお方をお迎えいたします。お相手が見つかればの話でございますが」
「言ったな」と景勝の表情が応えた。この時の問答が、知らず兼続の運命を決めるものであったということを、当人たちはこの時まだ知りえていない。
そんなことに気づいていない兼続は、火鉢の前で姿勢をただし、景勝に身を乗り出す勢いで切り出した。
「殿、ことは早急に決せねばなりませぬ。婚儀には時がかかります。同盟を持ちかけたとしても、婚儀を含めて締結までにしばし時間が必要になります。いま決めねば、時を逸することになりかねませぬ」
いまだ逡巡していた景勝の顔が天井を見上げる。ついで板敷きの床へと落とされる。そして深いため息をこぼした。景勝が何を考えているのか、手に取るように兼続にはわかる気がした。きっと、謙信のようにうまいこと結婚しないままいられない自分自身を、情けないと肩を落としているのであろう。
だが、とうとう景勝も諦めたようで、爆ぜる火桶をみつめながら、ぼそりと、
「どのような人物なのだ、その両人は」
と、兼続に尋ねてきた。兼続は軽く頭を下げ——口元にうすい笑みを浮かべて——知るかぎりの松氏と菊氏の情報を開示する。
これでことが進む——そう兼続は安堵していた。しかし、話を聞くうちに、また景勝の表情が硬くなっていく。
ついには、ますます口をへの字に曲げるまでに至ったのであった。おやっと兼続の胸中に嫌な予感がこみ上げてきた。次第に、なぜ景勝が不機嫌になるのか、付き合いの長い兼続にもわかってきた。
「娶れぬ」
「殿・・・・・・この期に及んでそれは」
「娶れぬ」
頑なに景勝は首を横に振るばかりで、さしもの兼続もほとほと困り果てる気持ちであった。こと個人的な思いはなかなか曲げれないものなのである。とくに、妙なところで潔癖な景勝ならばなおさらだ。むしろこのような頑固さは、亡き謙信譲りの気質と呼べるかもしれない。
景勝が気にしているのは、松姫と菊姫の両人が、それぞれに背負った背景にあった。
松姫は、実は織田信長の嫡子である信忠と婚約していた。この婚約はすでに破綻しているが、どうやら織田信長の後継者と婚約していたという点が、景勝の虫の居所を悪くさせてしまったようだ。
一方の菊姫は、この時すでにとある一向宗の僧侶と婚約していた。菊姫を娶るということは、婚約者を簒奪することであると景勝は捉えたらしい。それは、景勝の道義が許さなかった。
景勝の信長嫌いは、もはやどうしようもないといっていい。松氏の婚約、これがあるいは織田家陪臣の羽柴秀吉や滝川一益などと婚約していたとなれば、まだ景勝の心象も違ったかもしれないが、いくら言ってもせん無いことだ。
景勝の気持ちはわからないでもない。仮に景勝の立場となって兼続が娶ることになったとしても、悩まないことはないだろう。しかし、選ばねばならないところまで、時期がきてしまっているのもたしかな現状である。
「松氏も菊氏も、いまは未婚でございます。このどちらかを」
「それは心得ておる。しかし、出来ぬ。兼続よ、やはり子を貰い受けることは出来ぬのか。男児でなくてよい。女児でよい」
「養子は男児でなくば意味を成しませぬ。こと同盟締結の証といたすならばなおさらにございます。ここは御婚姻を結ぶほかありませぬ」
「・・・・・・織田と誼を通じていたからという理由だけで、松氏を娶りたくないのではない。一度でも婚約したものが、破談の憂き目を見たのだ。その気持ちを思わば、やはり頷けぬのだ」
そう言われてしまっては、兼続としても言葉に困る。これは、景勝の不器用な優しさの現れであると兼続にはわかっていたが、では菊氏をといえば、やはりこれも渋るのだ。
——仕方がない。兼続は、妥協案を出すことにした。
「では、松氏か菊氏か、どちらを御正室に迎えるかは、武田勝頼殿にお任せいたしましょう。勝頼殿にとって都合のよい方を、上杉の御正室に貰い受けることにいたします。それならば、殿があれこれと思い悩む必要もありますまい」
「そのような方法で、姫は納得するのか」
「わかりませぬ。ですが、晴れて上杉の一門となりますれば、丁重にお持て成しいたします。我らにはそれしか出来ませぬゆえ」
景勝が押し黙った。兼続の言外に、これ以上は意見を引かないという強い意思が感じられた。頑固といえば、時々であるが兼続も意見を引かないときがある。
小さく苦悩していた景勝も、ついに折れた。兼続が妥協したのだ、自身も妥協しなくてはならないと思ったのだ。
火鉢からぱちっと火の粉が舞う。それを見つめながら、景勝は重い声調子で、
「任せた」
とだけ、兼続に告げた。そこでようやく、兼続もほっと胸を撫で下ろして、
「委細、お任せあれ」
と、そう応えた。それで上杉としての外交戦略は、一応の方針を定められたことになる。すでに兼続の思案は、武田との折衝のことばかりになった。
やるべきことは山積されている。武田との同盟が正式に結ばされると、三国峠の雪が融けるまえに景虎を討たねばならない。そうしてしまえば、北条が上杉に攻める理由も、織田が手を出す隙もなくなる。すなわち、乱の終わりを意味している。
雪深い越後を巡る兼続の智謀は、まだ輝きだしたばかりだ。