山内 一豊 〜 我が手柄は妻の手柄 〜
山城国は京の都、空高くどこまでも澄み渡り、これこそ蒼穹と人々は思ったことであろう。ことに、この年を天正9年(1581)としたことを、居合わせた人々は生きているかぎり決して忘れまい——空の蒼さとともに。
京の都人たちは、大路の脇に人間の垣根を築き、まるで押し合い圧し合いするかのように、ときには右へ左へ、前へ後ろへ、ゆらゆらと犇いている。
京とは、華やかな街だ。どこか古ぼけた西国、未開野蛮な南国、殺伐とした東国、雪に埋もれる北国、それら地方にはない、限りない文化の匂いに満ちている。
人々が群がる頭上には、豪奢な観覧席が設けられ、武家の女たちや、公家などが、わいのわいのとはしゃいでいる。そんな様の中、大路を行くのは、織田信長に従う天下布武のもののふたちだ。馬に跨る士卒もあれば、徒歩立ちで行進する足軽の姿もある。
この、華やかな文化と歴史に『閉ざされた』中世の象徴を切り裂くかのように、およそ似つかわしくない、戦うことがすべての存在は堂々と、威風を肩で切って進んでいく。
「あれが織田様の御家来かぁ」
「なんとまぁ、雄雄しいこと」
「ややっ。あの美々しい装いのお武家様、ひょっとすると明智火向守様とは、あのお方ではないのか」
「はて——猿顔の武将がおったと聞いたことがあるがのう・・・・・・あ、おった」
沿道の賑々しいこと、およそ濃尾、北近などで生まれ生きたものたちは、経験したことがないであろう。
行進は、つつがなく進んでいく。
——ごくり
一人の武士が、馬上、生唾を飲み込んだ。精悍な面構えの、いかにもしなやかな体躯を誇る優れた馬格の馬に打ち跨っている。黒い具足に太刀を下げ、手綱を握る。手が、わずかに震えている。
「・・・・・・震えるな、一豊、振るえるでない。ただの行進じゃ、いくさの先駆けとは違うのじゃ、案ずる事はないのじゃ、みな同じなのじゃ、心配せずともよい、のう、一豊よ。・・・・・・だから振るえよ止まるのじゃ。わしの両手よぅ」
ぶつぶつと山内一豊は、人も聞き取れぬほどの小声で、縮こまる自分自身に言い聞かせる。
視線をどこへ向けても、数百倍の数になって返ってくる、そんな気がしていた。だれか一人と視線を合わせただけでも、百人、千人からいっせいに見つめられるような気がするのだ。
自意識過剰である。だが、それも無理はなかった。なぜならば間違いなく、一豊は注目の人であったからだ。
一豊は、美しい容姿をしているわけではない。むしろ人並み以下と言っていい。身体も決して大柄ではないし、猛将の雰囲気さえも持ち合わせていない。足軽の具足に身を包んでしまえば、それだけで馴染んでしまいそうなほどだ。
もちろん、一豊とてそれなりの働きをするし、それなりの胆力もあるし、それなりの資質を持っているうえに、それなりの知行も得ている。ただそれなりに、足軽の格好も似合いそうな男であった。
だからこそ、道行く武者のまたがる馬とは一線を画す駿馬に乗っかった姿が、どことなく愛嬌のある、おもしろい画になっていた。
足軽風情が軍配片手に、百万の軍勢を指揮するようなものか。それくらい、違和感があるのだ。一豊に、駿馬という組み合わせは。
いくさの時とはまったくことなる種類の汗が、甲冑の下をぐっしょりと濡らす。
こんなときは誰かと言葉でも交わしたい。しかし厳清粛々と歩を進めるだけで、誰も口を交えようとはしない。大舞台なのだ、仕方がないが、一豊は息苦しささえ感じていた。
——敵陣を駆けるほうが、ずっとよいわ。
とさえ思った。思いながら、呪文のように自分を言い聞かせた。震えるな、怯えるな。
しかしそうは言っても、この馬揃えには、京の公家はもちろん、最先頭を行くのは主催者である天下人、織田信長とその一門、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀などの織田家重臣、そして時の帝である正親町天皇さえもが、同じ空のした、この馬揃えを観覧しているのだ。
誰も彼もが、一豊ごときを虫けらと呼んだところで反論するどころか、むしろお礼を言述べねばならない、まさに天上人ばかりで、それらに囲まれた中を進むことに緊張しないほうがおかしい。
だが、無常にも行進は終わる気配もなく、腹立たしいほど、空は蒼いのだ。
——千代・・・・・・わし、帰りたい。
情けないことだが、そこに武士としての顔など、どこにもなかった。今ばかりは、この馬を求めたことを後悔した。
「よき馬に乗ってみては、いかがでございましょう」
という、妻の千代が何気なさそうに放った一言が、すべての始まりといえばそうであった。
ことは馬揃えの二、三ヶ月ほど以前にまで遡る。信長が馬揃えのための支度を奉行に命じてから、十数日が経過していた。仰々しい支度の手間もない山内夫婦は、夫婦水入らずで京の郊外で開かれている市場を覗いていた。山内夫婦は、そこで、奥州よりやってきたという馬の行商をみかけた。
すばらしい馬ばかりであった。この当時、馬といえば一も二もなく奥州馬が持て囃された。大きさはもちろん、速さ、馬力、耐久力に持久力、そして勇気——すべてにおいて日の本一であった。
奥州の馬に乗っている、ただそれだけで一目置かれるほどだったのだ。
それに比べると、まだまだ下士の一豊が引っ張れる馬といえば、老いはじめた駄馬だ。じきに戦場を駆けることも出来なくなるであろう。
一豊は、奥州の馬に見惚れた。正直を言うと、初めて見たのだ、奥州の馬を。毛並みは艶やかで、水にぬれた女性の黒髪のようだった。武士として興奮した。このような馬に乗って、戦場を駆け、敵と槍を付け合う自分の雄姿を、一瞬だけでも夢想した。
——しかし、所詮は、夢の中でしかない。現実はとても厳しい。刹那に夢を見させてくれただけでもよかった。そう思うことにして、後ろ髪を惹かれつつも、千代の手をとってその場を去った。
そんな夫の後姿に漂う哀愁を、千代はしっかりと感じていたのだ。
「あれは、奥州の馬だぞ。奥州の馬がどういう馬なのか、千代は知るまい」
「私も武家の娘、それくらいは存じております。ですから、お求めになられてはと」
「無茶をいうでない。あの馬を買うとなれば、どれだけの支払いになるか」
奥州の馬はとにかく値が張ることでも、天下に有名であった。そもそも馬数が多くはないし、売りに出されてもまずその半分以上が、奥州の大名の手にわたってしまうからだ。東・西へ流れてくるのは、それらから運良く零れた馬か、あるいは劣った奥州馬か。
何にしろ、一豊ごとき低身には、手の出しようもない馬であることに変わりはない。
「でも、よい馬でございましたでしょう。足腰もしっかりしておりましたし、あれならばだんな様の槍働きも、はかどるというものだと思いますのに」
「良馬を買っただけで、そうそう手柄を立てられるものか。・・・・・・いや、馬は大事だが」
「でもでも、そろそろ、新しい足を捜さなくては」
「うっ、むぅ・・・・・・それは、そうだが」
千代の正論に、一豊は言葉もなかった。それは一豊も常々考えていたことだった。
「で、ありましょう。ならばここは奮発して、よき馬を買われてみてはいかがです。これは、そう・・・・・・未来への投資」
「投資?」
「はい。今すぐに手柄を立てられなくとも、今後立てられる可能性は大きくなりましょう。どの武者馬より速く駆け、山河平野どこまでも駆け、一刻二刻いつまでも駆け、そして兜首を討ち取るまでひたすら駆け——」
「一騎駆けか・・・・・・」
ぶるりと、一豊の身体が震えた。武者震いだ。一騎駆けは普く武士たちの憧れである。
先ほど夢想した勇壮なる自分自身を、一豊はもういちど思った。一騎駆けする姿は、まさに源義経や歴史に燦然と輝く英傑たちの所業そのものであった。
——しかし、わしには無理だ。
「無理なのだ、千代。・・・・・・金がないのじゃ。一千石にも満たぬ小身のわしでは、とうてい手の出せるものではない」
「それは、そうでございましょう。でも、それは皆々方も同じでございましょう?」
「人に出来ぬこと、わしに出来るか・・・・・・」
呻くように言い、ウコギの茶を口に含む。いまの一豊は、せいぜいウコギから入れた茶を喫するのが、身分相応といったところなのだ。
分を、わきまえている。わきまえねばやっていられない。
ただ、そうして落ち込んだ一豊を見つめる千代は、ころころと軽やかに声をたてて笑った。
「人に出来ぬことをやって、はじめてのお手柄」
「いくさばではその機会もある。しかし、馬を求めるには、才気だけではどうにもならぬ。ものが要る。金が要る」
「だんな様。だんな様はもうすでに、大手柄を立てておりますわ」
そう言う千代の自信がなにを根拠にしているものなのか、項垂れる一豊にわかるはずもなかった。
——なにが手柄か。本当に手柄を立てておれば、このような形をしておらぬわ。
と、愚痴っぽいことまでも、危うく口を突いて出そうになった。妻に言ったところで、どうにもなるわけではない。
しかし、そんな一豊の度肝を抜く『手柄』を、千代はさっと一豊の前に差し出した。
両手で抱えれる程度の、さして大きくもない袋だ。ただ、床に置かれた瞬間、がしゃりと重い音を立てた。
目を丸くする一豊に、千代は「あけてくださいな」と声をかける。千代と袋を交互に見つめた一豊の指が、袋の口を開いていく。
「——んなぁっ!?」
素っ頓狂な声を上げて、大口に口をあけ、一豊が全身を石のように固まらせた。
——金が、入っていた。金子という。黄金を薄く叩いて小判状にしたものだ。金子一枚で、一豊の禄高のはるか上をいく価値がある。
それが、一枚、二枚ではなかった。都合十枚はあった。
言葉もなく、一豊は千代を見た。幾度も戦場の凄惨を目にしてきたもののふの瞳が揺れていた。それが、たまらなく千代にはおかしかった。
「だんな様・・・・・・」
「ち、ち、千代・・・・・・こ、これは」
「だんな様の大手柄。——・・・・・・それは他でもない、この千代を誰の嫁にもせず、この千代以外の女子を、嫁に貰わなかったこと」
「千代、そなた・・・・・・」
にっこりと微笑む千代があまりにも眩しすぎて、それが、手元の黄金よりもずっと輝いて見えた。
しかし、いま馬上の一豊に、あのときの黄金が人の心を惑わす、魔力を帯びた怪しい光を放っていたように思えて仕方がない。
千代の嫁入り持参金のおかげで、奥州の馬を求めることが出来た。初めこそ浮かれていた。これぞ武士であると。
喜びは長くは続かなかった。事ここに至り、身の丈にあわぬことはすべきでないと、心底おのれの迂闊さを呪う。
——失敗できない。こんな立派すぎる馬に乗って、もし失態を演じでもしたら・・・・・・わしは、天下の笑いものじゃあ! 末代までの笑い種じゃあッ!!
老いた駄馬に打ち跨っておれば、このような心配をしなくてもよかったのだ。
そうなのだ、この馬は戦場で走らせてこそ、真価を発揮する。馬揃えには駄馬で参ればよかったのだ。
などと思っても、すべては後の祭りであった。
行進は、どこまでも、どこまでも、果てなく続いていく。そろそろ、天皇の御観覧席、そして織田信長の観覧席へといたる。
一豊の緊張が、ますます、頂点へと昇っていく。自分でもわかった。倒れてしまいそうだ。
ああ・・・・・・ああ・・・・・・千代・・・・・・。
なんども心の中で千代の名を呼んだ。すると、目の前に千代が現れた。思わず、はっと一豊の背筋が伸びた。
「千代っ」
しかし千代からの返事はなかった。当たり前だ。目の前にいるわけがないのだ。
だが、間違いなく、千代はいる。群衆の中にいたのだ。いたのを一豊はしっかりと発見してしまったのだ。千代が、一豊の雄姿を一目でも見ようと、沿道の人垣を掻き分けてきたのだ。その証拠に、いつもはしっかりと結われた髪はほつれ、衣服も乱れがちになっている。
すこしだけ頬が紅潮しているようだ。
千代も、居並ぶ武者集団のなかから、一豊の姿を見つけ出したようだ。ぱっと顔を輝かせた。
それだけで、一豊の心はずいぶんと軽くなった。
夫の意地というものがある。武者としての意地がくじけそうな一豊を、夫としての意地が奮い立たせた。妻の前で、だらしない姿をさらすな、と。
千代が手を振っている。一豊ごときが沿道の人々に手を上げることは出来ない。だから、ただ千代だけを見つめて、頷いた。それぐらいしか出来なかった。
千代も、頷き返してくれた。
「——そうだな」
馬の鬣をなでながら、一豊は深呼吸する。千代の姿はもう後ろへと流れてしまった。
だが、もう、一豊は落ち着いている。落ち着かねばと思ったのだ。千代の金で買った馬なのだ。嫌うわけにはいかないと、自身に言い聞かせた。
「千代・・・・・・。この務め、わしはやり遂げるぞ」
ようやく兵の顔をして、前を見据える。天皇の御台が、視界の遠くに映っている。胸を張った。虚勢である。しかしそれでいいと思う。虚勢だろうが何だろうが、それで大きく見せることが出来るのならば。
「お主は立派な馬だな。わしには勿体無いかもしれぬ・・・・・・。だが、乗りこなしてやろう。お主にも、千代にも、山内の家名にも恥じぬ一角の大将になってやるわ」
気概に満ちた宣言が、これからの一豊が一豊たる戦いへと駆り立てるのである。それは、まだ一豊自身に知る術もないが、まさにこの瞬間から、後の土佐藩初代藩主山内一豊の道は開けるのである。
京の都の喚声は、まだまだ終わりそうもない。