仙石 秀久 〜 鈴鳴の境地 〜
犬は首に鈴をつけていた。誰がつけたのかはわからない。首に巻かれた細い縄に一つ、揺らせばチリンッと涼しげな音を立たせる。
犬は、鈴を鳴らす。行儀良く座って見上げてくる。捨てられたのか、憐憫をさそう瞳で見上げてくるのだ。真っ黒な体毛も泥で汚れているのに、瞳だけは濡れたように光っている。
そのつぶらな眼差しが嫌だった。嫌だと思ってしまう過去を、浪人仙石秀久はもっていた。
鳴きもしない犬を鬱陶しく思いつつも、しかし追い散らそうとはしなかった。面倒くさかった。
あばら屋の濡れ縁に腰掛ける秀久の手元には酒があるだけだ。犬にくれてやる餌は何もない。
手酌で椀を干していく秀久は、まるでそこに何もいないと言わんばかりに、無言で呑み続けていた。まだ昼間である。しかし浪人風情に、守るべき時間はない。気ままに、自分にあった速度で、酒を呑む。
たまに、視線を真っ黒い塊に向ける。じっと見上げてくる瞳は、何かを訴えているような気がする。
「——・・・・・・そんな目で、わしを見るな」
かまうことも面倒だったが、さすがに堪りかねた秀久の口が、ぼそぼそと文句を垂らした。
「お前にやれる食い物は何もない」
秀久の言葉がわかっているのか、いないのか、ただ犬は小さく鳴いた。
何かを言おうとして、やめた。もう一度、椀を傾けた。なんなんだ、この犬は。
腹立たしい。
秀久が浪人になったのには、もちろん理由がある。遡ること天正15年(1587)に起こった九州の役、その前哨戦とも言うべき大事な戦で、やってはならない失態を演じてしまったことが、そもそもの原因であった。
秀久は十津川ですべてを失った。地位と土地を奪われ、名声さえもが地に落ちた。残されたものは『臆病者』の三文字だけである。ゆえにどこにも仕官できず、3年の月日が流れていた。
生きていくために、恥を忍んだ。行商の旅を守る用心棒として刀を振るうこともあったが、ときには百姓紛いの野良仕事をしていたこともある。
武家に生まれ武家に育ち、いくさで鍛えぬいた腕力でも、地に生える大根を上手く抜くことさえ出来ず、なんど尻餅をついたかわからない。
美濃斉藤家から尾張織田家、そして羽柴秀吉の家臣として華々しい出世街道をひた走ってきた秀久にとって、浪人してからの3年間は、彼の生涯でもっとも辛い時期であった。
因果応報といえばそれまでだろう。誰も責められない。秀久が一番に責めているのは、他でもない己であった。
秀吉に捨てられた秀久の生活は、稼いだ駄賃で成り立っている。臆病者の秀久を支援してくれる大名などいるはずもない。稼ぎは、食料と酒に消えていった。
酒に、溺れていた。昼間から飲むことなど茶飯事だった。大きな挫折に秀久の心は腐っていた。
そんな秀久だから、捨て犬の哀れな瞳が、腹立たしくて仕方がないのだ。自分が自分を見上げているような錯覚がしてくるからだ。
あの犬が嫌いだった。何度も叩き斬ってやろうと、刀に手を伸ばすこともあった。でも、出来なかった。斬れば、自分をも傷つけてしまうような気がしたからだった。
秀久も同じだった。雨水に濡れ、泥に汚れ、ふらりふらりと足元の覚束ない、情けない捨て犬——
斬れるわけが、なかった。
二束三文の稼ぎを、右手にぶら下げている。帰り道に秀久はふと、そろそろ酒がきれる頃だと思い出した。酒を買わねば。
ささくれた草履がゆるい傾斜路を登っていく。
「今日の稼ぎでは・・・・・・あまり、求められんのぅ・・・・・・」
はっと秀久は嘲笑った。よくここまで落ちぶれたものだ。千石取りの身分から、今ではその日暮しが精一杯の身の上となってしまった。哂う以外にどうしようもない。
ゆるゆると坂道を歩いていくと、一歩ずつ踏みしめるたびに、昔の記憶が掘り起こされていった。秀久にはそういった、過去を思うことがしばしばあった。
遠い昔の自分は、順風満帆のなかにいた。いくさも政も、さしたる失敗もなく乗り越えてきた。戦場では死に掛けたこともあったし、領民から苦情を受けたこともあった。それでも、うまくやってこれた。
四国で長宗我部に敗れたことが、秀久の戦跡で最初の大敗北だった。思い出して秀久は動きを止めた。視線を足元に落とすと、打ち倒された羽柴の幡を踏んづけていた。
わっと秀久の足が慌てて飛びのいた。幟はどこにもなくなっていた。鼓打ちする拍動は不規則に呼吸を乱す。
背中を撫でた悪寒に苛立った秀久は舌打ちした。嫌なことを思い出してしまった。
「くそったれッ」
毒づいて地面を蹴った。何度も蹴った。八つ当たりだ。
むかっ腹を抱えたまま、また秀久は坂道を登っていった。仏頂面がよほど怖いのか、向かいから歩いてきた油売りの若者は顔をこわばらせ、遠巻きに通り過ぎていった。
行く先には酒がある。今日は稼ぎもあった。浴びるだけ酒を呑みたい。
くそっ、くそっ、と秀久が愚痴を零していると、その耳に自分の声以外の音が響いてきた。寝起きしているあばら屋は、すぐそこまで見えていた。しかし秀久は足を止めると、首を巡らした。
秀久は眉根を寄せた。音のするほうへ視線を向けた。林の向こう。甲高い音がしている。生き物の、鳴き音だ。
——野良犬か。
秀久の眦が吊上がっていった。ただでさえ気が立っているときに、犬畜生の鳴き声がうるさかった。
据わった眼光が鈍い色合いを広げて、無意識のうちに、腕が太刀の柄尻を握り締めていた。道行く年増女がぎょっと目を剥き慌てて走り去って行った
「やかましい。斬ってやる」
吐き捨てて、草むらへ秀久は入り込んだ。太刀を抜いた。無益な殺生だとか、そういう考えはなかった。ただ斬ることしか考えられなかった。修羅地獄の中に秀久は身を浸らせている。
斬ってやる。斬ってやる。斬ってやる。幾度も心の中で呟いた。汚泥のような暗い感情が、流れ出して止まらなくなった。思った。犬を斬る。元親も斬る。みんな斬る。
大又で歩く秀久の耳に、絶えず犬の鳴き声が聞こえてきた。
しかし、小さく——わずかな鈴鳴りに、はっと秀久は目を見開いた。刹那、足の裏が地面に吸い付いて離れなくなった。
チリンッ チリンッ
たしかに、聞こえてくる。頭の中が真っ白になった。雑木林を秀久は我武者羅に駆け出した。
木々が邪魔をする。足に絡まる雑草を強引に掻き分け、視界をふさぐ長丈の藪には一刀二刀をくれてやった。そうやって、息を弾ませる秀久の眼前に、野犬の群れが繰り広げている闘争の様子が現れた。
五、六匹の野犬が、首輪をつけた一匹の犬を囲んで獰猛に攻め立てていた。入り乱れた鳴き声に、それでも怯んだ音はない。
秀久は、魅入った。首輪をつけた犬は、孤立無援の只中にあっても、その闘争心を萎えさせてはいなかった。怪我をしているのだろう、動き方に精彩さが欠けている。なのに——一歩たりとも後れを取ってはいなかった。
動けなかった。指先も、視線さえも——
上げられた悲鳴にようやく秀久は我を取り戻した。鈴が鳴った。首輪のつけられている首元に、野犬の牙が突き刺さっていた。
肉体中に流れている血潮が、熱く煮えたぎった。腸から沸き起こる激情が、胃にたまり、喉を通って口を破った。
叫んでいたのは、野犬ではなく、秀久のほうであった。刀を振り上げた。わけもわからず喚き散らす秀久の太刀は、ただ闇雲に野犬の群れへと襲い掛かった。
一振りするたびに血飛沫が宙に飛んだ。飛び掛ってきたものも、素早く斬り倒していた。秀久の太刀に規則性はなく、言うなれば獣の戦いだった。野犬と戦う秀久も、獣でしかなかった。
血走った眼に危険を感じた野犬の生き残りが逃げていく。肩を怒らせる秀久の後ろから、弱々しい鳴き声が聞こえてきた。ゆっくりと、乱れた呼吸を繰り返し、秀久が地面を見下ろした。
流血に泥が混ざり、汚れた一匹の犬が、地面に横たわっている。虫の息だった。喉元から血が流れている。
側に寄った秀久が、膝を落とした。か細い息遣いがとても苦しそうに聞こえてきて、秀久の相貌から鬼の気配が剥がれ落ちていた。
——なぜ。
なぜ犬を助けようとしたのか。それが秀久にはまったくわからなかった。じっと見上げてくるだけの野良犬を秀久は毛嫌いしていたはずだったのに。
細波ほどの混乱に太刀を握る腕は力を奪われ、赤く濡れた刀身が土に落ちた。
秀久は、ただ、見下ろした。犬を。死に掛けた犬を。
かっと喉にこみ上げてくる言葉があった。つばを飛ばして秀久は激昂した。
「多勢に無勢ではないか、なぜ逃げぬのだ」
いくら畜生でも勝ち目のないことくらいは判断できるはずだ。実際に野犬は秀久に恐れをなして逃げていった。それくらいの判断は出来て当たり前のはずなのだ。
「貴様ひとりで、何が出来るでもなしに」
言葉は止まらない。とめどなくあふれ出して、これでもかとあふれ出して、その都度——秀久の脳裏に、押し寄せる島津の旗が靡いて見えた。
勝てないなら、逃げて当然だ。勝ち目が皆無のとき、とにかく逃げるべきだと、かの孫子ですら謳われている。逃げることは恥ではない。意地になって無駄に戦力を損耗させ、犬死することこそ、真に恥ずべき行いではないか。
だが此岸の淵にいる犬は、小刻みに震えながら秀久を見上げている。秀久は言葉を失った。武士として生きてきた秀久でさえ怯むほど、一切の曇りもない獣の瞳がそこにはあった。
逃げることは恥ではないと半狂乱になって叫んでいた秀久に対して、無謀に立ち向かった己もまた恥じてはいないと、そう物語っている。諭されている。
記憶に蘇った島津の牙旗は、秀久の背後。遠ざかっていく。それが秀久の選択だった。しかしそうしなかった者たちがいた。
犬の姿が、彼が3年経っても向き合おうとしなかった、若き武将と重なった。
——長宗我部信親
逃げる自分とは対照的に、むしろ信親隊は挑むように敢然として、怒号発する島津の大軍へ踊りこんだ。凄絶に戦い、勇敢に戦い、匹夫の勇を思う存分振り回した末の激しすぎる最期に、後の羽柴秀吉は涙を流し、島津の武将たちは兜を脱いだ。
——その父、元親
伏兵の気配を読み取り自重策を示した元親。けっして軽挙はしなかった歴戦の老将がとった行動は、何よりもまず信親を守ることだった。攻めかかる信親隊に近づこうと、老骨に鞭打ち島津の圧力に正面から立ち向かった。
力及ばず背走こそされたものの、その雄姿には間違いなく、もののふの意地が垣間見えた。
——十河存保
この男もまた逃げることを良しとしなかった。鬼と呼ばれただけのことはあった。秀久が逃げおおせた要因の一つは、十河存保の奮戦があったからに他ならない。
逃げたのは、誰だ。
——それは我、仙石秀久
信親と存保は死に、元親は心を殺された。誰がそうさせた。それは秀久だった。
知らず——秀久の頬に、筋が伝う。
逃げたのは、自分だけだった。誰も逃げ出さなかった。元親も、信親も、存保も。
目の前の野良犬でさえ。
逃げねば、死んでいたかもしれない。しかし逃げずに戦っていたら——こんなに悔しい気持ちを抱えることも、なかったのかもしれない。
ずっと言い訳をしてきた。逃げ出したことを正当化してきた。信親や存保は愚かだったと断じ、元親を呪ってきた。
しかし初めて秀久の心は、後悔を認めた。自分を認めた。目の前で死に掛けている野良犬にも、わしは劣っていると——
いつしか、犬は呼吸を止めていた。此岸を越えて、彼岸へと旅立っていた。もはやこの薄汚れた犬は鈴を鳴らすことはないし、じっと秀久を見上げることもないのである。
秀久はしばらく、事切れた犬の側で、はらはらと涙を流していた。そして心の中でなんども呟いた。信親、すまぬ。元親、すまぬ。存保、すまぬ。
鎮西に眠る兵よ、将よ、すまぬ・・・・・・
「わしが、愚かであった」
声に出した。言葉はすっと耳に入り、魂に染み渡った。
しばし。
秀久は立ち上がった。声が聞こえてきたのだ。泣きはらした目元を強引にぬぐう。
——殿下
坂道を下った先で、人が騒いでいる。
噂を聞いたことがあった。
「・・・・・・北条攻め」
そのための軍勢が、近くを通っている。天下の軍勢が東へ向かっている。
風が吹いていった。草木がいくさの気配を読んで戦いだ。林を掻い潜ったそよ風は秀久の頬に触れた。
唇をかんだ。
「——逃げぬぞ」
足下の太刀を拾い上げた。
「もはや、逃げぬ」
鞘に収める。事切れた犬を見下ろした。勇敢に戦い、散った獣。強き獣。戦士。
首輪につながれた鈴を秀久は掴んだ。
「その強さ・・・・・・このわしにくれ」
縄を切った。手のひらで鈴が音を転がした。鈴音にもう一度、固く秀久は誓った。
強くなると——強く、なるのだと。