素晴らしき学園長と先生——表
—小林氷咲Side—
昨日は散々な目に遭いました。
ヒサキです。
調子に乗りすぎたようです。
ヒサキです。
謎の幼女吸血鬼エヴァンジェリンさんから、計画通りに逃げられたところまでは良かったのですがね。
まさかその後、下水道に落ちてしまい閉じ込められるとは思いませんでしたよ。
ええ、はい。
おじさんに悪態をつきながらも、なんとか苦労し脱出すると、そこは夜の帳が広がっていました。
寮母さんに門限を守れと、烈火の如く怒られてしまいました。
まあ、それは許容範囲だったのですが、大変なことに気づいてしまったのです。
なんと、学生鞄を紛失してしまったのです。
その上学生鞄は、あの恐怖の一件の舞台である桜通りで落とした可能性が高いのです。
そして、そのなかには生徒手帳が入っていたはずです。
自らの氏名や年齢は勿論ですが、その上ご丁寧に実家の住所まで書いてしまっていた始末です。
もしもそれを、さながら現世に生まれた般若のようなエヴァンジェリンさん。彼女が拾っていたとしたら、間違いなく僕は来年の初日の出を拝むことはできないでしょう。
そしてもう一つだけ。
死神が帰ってきません。
何かの前触れでなければいいのですが。
怯えながらの一夜とは、本当に長く感じるものである。
寝苦しい夜を越えて、やっと早朝を迎えた。
内情としては、さながら亀のように布団にくるまり、引きこもりたいものだがそれはできない。
他がなんと言おうが、草食系男子を自認する俺としては、学園を休むわけにはいかない。
進学に、響いてしまうからである。
将来の夢は平凡なサラリーマンと、声高らかに叫んだ幼少の自らを裏切るわけにはいかないのだ。
しかし、怖いものは怖い。
途方もなく怖いのだ。
長年の週間。カーテンを開けて朝日を浴びるという事さえ、開けたらエヴァンジェリンさんが覗いているのではないかと怯えているほどだった。
早朝というのに真っ暗な部屋で、顔を洗う。小刻みに震える手で歯磨きをしながら、これからの身の振り方を考えた。
長く、長い沈黙。
無駄に歯を磨き続けた末に、光明が見えた。
自らの内情ではない。相手の内情を考えて見るのだ。
そう考えると、見えてくるものがあった。
我らが一般人とは無縁のお方である吸血鬼さんといえども、いえどもだ。
吸血鬼とは、闇に生きるものだと聞いた事がある。
人の目に触れる行動は、極力避けるのではないだろうか。
そうだ。
絶対にそうだ。
それならば、常に何人かで行動し、絶えず人の目がある状態を心がければどうだろうか。
エヴァンジェリンさんが恐れている事は、自らが吸血鬼だと周りに触れ回られることだろうと考えられた。
それが故に、口封じにくるのだろうからだ。
エヴァンジェリンさんは、俺が常に一目のある場所にいるため、歯痒い思いをするだろう。
時間をかかるだろうが、吸血鬼の話題を一言も発しないというところをこの身で体現するのだ。
そうすれば、信用し見逃してくれるのではないだろうか。
そうだ。
そうに違いない。
一つ問題があるとすれば、図に乗ってしまった事。彼女を余りに小馬鹿にし過ぎてしまったことだが、大丈夫だろう。
吸血鬼とはいえ、あんなに可愛らしい幼女なのである。本来の性格は優しいはずだ。
それにしてもエヴァンジェリンさんは、麻帆良学園小等部の子だろうか。いや吸血鬼なんだから部外者なのかもしれない。
それはそうとして、将来は美人になるのだろうな。
次第に震えが収まっていく身体を感じながら、学友に付き纏うために部屋を出た。
いやー学園っていいね?
平和だよ平和。心の許し合った学友たちと友情を確かめ合う。
なんて素晴らしいことなんだろうか。
一番のいい点は、そこら中に大勢の人の目があることだが。
時刻は、待ちに待った昼休みである。
勉学は好きなのだが、やはり昼食の時間は心踊る。
開け放たれた窓から、涼しげな風と暖かな光陽が教室を満たしていた。
窓の奥には、桜の花びらが舞い散っていた。
それだけは、見ないように心がけているが。
友人と机を合わせ、弁当をつつきながら辺りを観察した。だが恐怖の吸血鬼さんの姿は、視認出来なかった。
さすがにエヴァンジェリンさんと言えど幼女なのである。
何処かでお昼寝でもしているのだろう。
学園の平和を噛み締めつつ、堪能するとしよう。
昨日から死神の姿も見えないし、今日は不幸と呼べるほどの災難も起きていなかった。
なんという安らぎ、なのだろうか。
声を大にして言いたい。
これこそが求め欲していた、なんの変哲もない穏やかな日常であった。
終始、満面の笑みを口許に浮かべていると、学友が笑いかけてきた。
快く、言葉を返した。
しかし、次の瞬間であった。
楽観していた気持ちを、一瞬にして打ち砕かれたのは。
「1年B組の、小林氷咲くん。1年B組の、小林氷咲くん。
至急、学園長室まで来なさい」
「てっ!」
瞬間、机に額を打ち付けた。
それは予期せぬ、学園放送であった。
まさか自らに、学園長から呼び出しがかかるとは、想像だにしていなかった。
学園内で、問題を起こしたことは皆無だからだ。
なぜか、体育館の電灯が自分目掛けて落ちて来た事がある。
なぜか、校舎に迷い込んできた猛犬に、追い掛け回された事もあった。
被害者側であれば、幾多もある事は認めようではないか。
しかし、今日は被害者になってしまう不運には遭遇していないのである。
ならばなぜ、俺に呼び出しがかかっているのだろうか。
皆目、見当がつかなかった。
痛む額をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。
なにかきな臭い印象がするが、行かないわけにはならないのである。
呼び出しを無視する事。それは不良生徒の烙印を押されてしまう事に直結してしまうだろう。
それは絶対的に避けなければならない。
進学は厳しくなるし、全く持って不必要なレッテルを背負わされてしまう事になるからだ。
教室中の視線が生暖かった。
なにをやったんだヒサキ?と言った、訝しむ視線で満ちていた。
俺はなにもやってない!
それでもやってない!
そうやって叫び上げたいのは吝かではないが、そんなことをすれば逆効果である事は明白である。
その時点で、憐憫の眼差しを向けられる事になってしまうであろう。
俺に出来る事は、学友達に引き攣った笑みを向ける事だけだった。
というか、一つ言っていいかな?
女子中等部の学園長室ならば、そう先に言えたのではないだろうか。
高等部の学園長室に、赴いてしまったではないか。
その上、その上である。
なぜ女子中等部なのだろうか。さながら、不審者を見るような視線に晒されたではないか。
なぜか、変な女子生徒に、写真を撮られ続けるという騒動に、謝罪を求める。
少々、憤っていた俺は、学園長室のソファーに座っていた。
対角線上。学園長が仰々しい椅子に座り、髭をさすっていた。
まるでぬらり、いや、仙人様のようではないか。
見飽きてはいるから、学園長の後頭部に関して何か言う気は毛頭なかった。
至極当然の事であるが、視線は学園長の傍らに佇む、一人の先生に向かっていた。
記憶から消えてしまっていたが、何らかの事情で担任の座を降りた事だけは覚えていた。
確か現状は、広域指導員として収まっていたはずである。
麻帆良のダンディズムの象徴。デスメガネこと、高畑先生であった。
高畑先生は、目を細めてこちらを見つめていた。
それにしても、それにしてもである。この重苦しい雰囲気はなんだというのだろうか。
憤りさえ忘れる不穏当な雰囲気に面食らっていると、学園長の口がゆっくりと開かれた。
「きみは男子高等部一年B組の小林氷咲くんで間違いないのう?」
「はい」
当然だが、首肯した。
学園長が頷いた。
「きみを呼んだのはちと、聞きたい事があってじゃな」
学園長が何かを量るように、俺の目を見つめてきた。
そんな雰囲気に晒されながら、考えた。
全く、意図が判らない。
俺が、なにか悪い事でもしたというのだろうか。
しかし、高らかに言えた。
こちらは問題になるような事はしていないのだ。
毅然とした態度で、見つめ返した。
「きみ…昨日の昼休みはなにをしておったのじゃ?」
「なにもしてませんが」
返す刀でそう言った。
しかしその瞬間、ある困った事態の記憶が呼び返された。
そうだった。
昨日、現世の般若こと、エヴァンジェリンさんに殺されそうになっていたではないか。
平和な環境と、この不穏な空気で忘れていたのだ。
という事は、嘘をついた事になってしまう。
即座に弁明しようとしたが、開きかけた口は制止した。
ふと、思えたのである。
何処かで、エヴァンジェリンさんが聞き耳を立てているのではないか、と。
辺りを執拗に探っては見たが、いない。
しかし、油断は禁物である。相手は吸血鬼なのだ。どんな場所にいても、人の話を聞けるなどの能力があるかもしれない。
他愛もない試験管から、人を殺せるほどの突風を起こしてしまうのだ。
可能性は、極めて高く思えた。
それならば、言えるはずがないではないか。
言ってしまう事。それは短き人生を、自らの手で閉ざす事と同等なのである。
エヴァンジェリンさんが殺気立ちながら宣言してていた通り、地の果てにまで追われ、くびり殺されてしまうだろう。
全身から、血の気が退いていくのを感じた。
同時に疑問が浮かび上がった。
なぜ、そんなことを聞くのだろうか、と。
ま、さ、か。
学園長達とエヴァンジェリンさんはグルなのではないか。
頼まれて、俺が口を割るかどうか試しているのではないか。
いや、それは到底考えられないだろう。
麻帆良学園の頂点と、恐怖の吸血鬼が手を結んでいる。
そんな事は、漫画や映画の中だけの話だ。
そう、信じたい。いや、そう信じよう。
それならば、ある考察が浮かび上がった。
昨日の騒動を、目撃していた者がいたのではないか、と。
そして、目撃者は言ったのだ。小林氷咲という男子生徒が、吸血鬼らしき幼女に殺されかけていましたよ、と。
そう考えると、面白いほどに話は繋がっていった。
学園長達は、そんな眉唾ものの他愛もない話を信じたのだ。
信じてくれた上に、俺を守ろうとしてくれているのだ。
が、学園長と高畑先生は、なんて素晴らしい大人達なんだろうか……!
いままで友人たちと、ぬらりひょんとかぬらり長とか笑っていたことを謝りたい……!
純粋に感動していた。
それは心に染み渡るように浸透していく。
極めて稀少なのだ。事実をどんなに述べても、こんな与太じみた話を信じてくれる者は。
それなのに、学園長と高畑先生は信じてくれた。
それは俺という生徒を何とか守ろうとする、尊き意思から来ているのである。
これが嬉しくなくて、なにが嬉しいというのだろうか。
そうなんです!
吸血鬼さんに殺されかけていたんです!
怯えて夜も眠れなかったんです!
そう叫ぼうとしたが、叫ぶ事は出来なかった。
言えない。言う事はできないのだ。
なぜならば、ここで打ち明ける事。それは、学園長達にまで危険を伴わせるという事だ。
俺だけでなく、こんなに素晴らしい学園長達にまで。
それは出来ない。出来ないのだ。
学園長と高畑先生、二人の器量の広さは果てしない。
与太じみた話しを信じてくれて、愛する生徒を守るために、真剣に行動出来る尊とさ。
自らの危機を回避するために、学園長達を危険に遭わせるなど、有ってはならないことであると言えた。
その尊さを、裏切る事は出来なかったのだ。
それに要は、他言無用を貫くことで解決できるはずだ。
言わないと、強く心に刻みつけた。
学園長も高畑先生も、未だに真剣な瞳でこちらを見捉えていた。
なんという、素晴らしさか。
感動していると、学園長が言った。
「ふむ……なにもしてないか。
……桜通りの方には行っていないかな?」
「はい」
怪しまれむように、即座に返した。
学園長達のためとはいえ、嘘をついているのだ。
胸が痛かった。
しかし、無視を決め込み、演技を続けた。
「ふむ……」
学園長と高畑先生が、黙り込んだ。その表情には、確かに困惑の色が見えた。
やはり、目撃者がいたのだろう。
それは学園長が言った言葉。
「昼休みに桜通り」と核心をついた言葉から理解できた。
次第に、本当は助けを求める弱々しい心が浮き上がりそうになった。
だがしかし、それは特大の重しを乗せて押さえ付けなければならない。
これは俺が引き起こした問題だからだ。
人任せではいけない。俺が解決しなければならないのだ。
空気が重く、なっていく。
高畑先生が抑揚のない表情で、人差し指で軽く眼鏡を持ち上げると呟いた。
その声は小さかったが、どこか真意を孕んでいた。
「吸血鬼」
それは揺さぶりだった。
生徒を、俺を守りたいがための揺さぶり。
罪悪感が騒いだ。
しかし、聞こえていないかのように演じた。
沈黙が広がった。程なくして高畑先生が、あるものを机の上に乗せた。
「これがね。
桜通りに落ちていたんだよ」
動揺せざるを得なかった。
それは、紛失していた生徒手帳と学生鞄だったのだからだ。
しかし、こちらも必死だ。動揺を覚られないように、首を傾げて返した。
「なくしたと思っていたらそんなところにあったんですか」
「なぜ落ちていたんだろう?」
「誰かが盗んで捨てたのかもしれません。
見つけて下さってありがとうございます」
「うん。それはいいんだけどね……」
少しの間、見つめあった後、高畑先生と学園長が、机を挟んで視線を合わせた。
それはおおよそ、俺を量りかねているのだろう。
執拗なまでの疑い。しかしそれは、善意から来ている。生徒を守ろうとする尊き意思から。
内心は、感動の涙が流れていた。さながら、その涙で泉が出来るほどであった。
しかしこのままだと、ボロを出すかも知れない。
机の上に、紛失物届けが置いてあった。
あそこに氏名を書き、学生鞄を受け取ったら、即座に立ち去ろう。
深き感動に耽りながら、ゆっくりと立ち上がった。
机に向かうと、高畑先生が素早く振り返った。
「どうしたんだい?」
右手をズボンのポケットに入れて、こちらを見据えた。
視線が鋭くなっているような気がするが、錯覚だろう。
感謝の意を、満面の笑みに表現した。
紛失届けに記入するための万年筆を、胸ポケットから取り出して言った。
「いえ、次の授業」
いえ、次の授業があるので帰ろうと思いましてとは、途中までしか言うことはできなかった。
その瞬間、強烈なおぞけが身体中を駆け巡ったのだ。
まるで、闇が血管中を蹂躙しているような感覚。
エヴァンジェリンさんに、試験管を投げられた時と同様の感覚だった。
乱れ脈打つ焦燥感に、身体中の酷い悪寒。
相反する感覚がせめぎあい、酷く気持ちが悪かった。
死の予感。
死が、間違いなく死が迫ってきている。
予感。いや度重なる不運に相対してきたゆえの確信だった。
恐怖心からか、鉛のように重い身体を叱咤して、思い切り垂直に跳んだ。
跳んだ瞬間だった。
不可視ななにかが足元を通り抜けたのだ。
まるで、ダンプカーが横切った時のような突風と轟音が響き渡った。
竜巻のような突風が巻き起こり、身体ごと吹き飛ばされた。
一瞬だけ、唖然とした二人の表情が見えた。
自由が効かない状態で、学園長へと突進してしまう。
うおおおおー!怖ぇー!学園長よけてー!!
余りの恐怖心からか、万年筆を掴んだ右手に力がこもる。
そのまま無防備な学園長に、飛び蹴りのような態勢で突っ込んだ。二人して、揉み合うように転がっていく。
幸いとは言えないが、学園長がクッションとなってくれたのだろう。身体には大した痛みがなかった。
体ごと生徒を守るとは、なんという学園長なのだろうか。
呆然とそんな事を考えていると、背後から高畑先生の呟きが聞こえてきた。
「居合い拳を初見で見切ったうえ、その拳圧を蹴って……虚空瞬動をしたのか……?」
いあい券とは一体。
また、こくうしゅんどうとは一体。
こくうしゅんどうとは、吸血鬼語ではないのだろうか。
全く意味がわからない上に、余りに厨二病的な言い回しに苦笑してしまった。
ふと気づくと、学園長のマウントボジションをとってしまっていた事に気づいた。
これはいけないと、笑いを堪えながらも、慌てて謝罪しようと行動した。
所が慌て過ぎたのかバランスが悪く、態勢を崩してしまう。
その結果は、最悪なものになった。
右手に握ったままの万年筆を、学園長の首許に押し付けてしまったのだ。
「ま、まいった!」
また慌てて離そうとすると、学園長が意味不明なことを叫んだ。
訳がわからず、動作が止まってしまう。
しかし、直ぐに理解する事が出来た。
間違いとはいえだ。
学園長に飛び蹴りで突っ込み、マウントボジションをとった上、首許に万年筆を押し当てたなんて知れたら停学は免れないだろう。
学園長が庇ったところで、俺の行動は高畑先生に見られてしまっているのだ。
高畑先生の器量は大きく、優しき先生だとはわかってはいる。だがしかし、万が一として、規則は規則と停学を優先するかも知れない。
それを学園長は危惧して、プロレスごっこをしていただけなんだよと、高畑先生に示しているのだ。
襲われたわけじゃない。
ハハハ、参った参った、と。
な、なんという学園長なのだろうか。
俺はここまで素晴らしき学園長の庇護の下で、勉学に励んでいたというのか!
純粋に感動をした!
学園長!あなたに一生ついていきます!
それならば俺は、学園長の真意を汲み取り、プロレスごっこを続けさせてもらいます!
万年筆を押し当てたまま、感謝の意を満面の笑みで表し、学園長に伝えた。
心の中の小さなヒサキは、額を地面に擦りつけるほどの土下座状態であった。
すると、背後から高畑先生の優しげな声が聞こえてきた。
「氷咲くん……そのへんで許してくれないかな?」
なんという、高畑先生。
やはり高畑先生は、優しく素晴らしき先生だった。
停学を優先するならば、高圧的にくるはずだ。
しかし、高畑先生は違った。違いのわかる男性だった。
優しげな声音で、許してあげてくれと言ってきたのだ。
その真意は、一つだった。
僕はプロレスごっこしか見ていないよ。
停学?ハハッ、初めて聞く言葉だね、と。
要約すると、こう言っているのである。
こんな愚かな生徒を救うために、演技をしてくれる学園長。
全て理解した上で、アドリブに付き合う高畑先生。
学園長が大海のような心の広さを持っていれば、高畑先生は大空を彷彿とさせる器量。
なんて男前な大人達なんだ。
尊敬。尊敬せざるを得なかった。
それならば、停学を進言する者は一人もいなくなった事になる。
もうプロレスごっこという演技を、続ける必要はなくなったのである。
もう止めましょうと、笑顔で学園長に言った。
「学園長、誤解ですよ。
僕は草食系男子を自認していますし、最初から戦ってなどいないでしょう?
だから勝敗をつけるのはおかしいですよ」
そう、俺と学園長達は、敵同士なんかではない。
そもそもなぜ、心から尊敬する学園長達と戦わなければならないのだろうか。
例えばないとは思うが、万が一、戦ったところで勝負にさえならないだろう。
大方、勝てるものと言えば、ジャンケンくらいのものだ。それでも負けてしまいそうだが。
自嘲めいた考えに、笑みが漏れた。
学園長は、まだ演技を続けてくれているのか、額から汗を流していた。
「そ、そうじゃったな……。
きみはソウショ?男子……?じゃ!わしが認めるぞい!」
嬉しさが、込み上げた。
俺は草食系男子を自認しているが、そう言われた事が一度もなかったのだ。
流行りの草食系男子かぶれと、茶化された事はあるのだが。
全く、困ったものである。誰がなんと言おうとも、俺は草食系男子なのだが。
そんな事を思っていると、未だに万年筆が学園長に押し当てられていることに気づいた。
これはいけないと、苦笑しながら万年筆を胸ポケットにしまった。
立ち上がり、先ほどの騒動で床に落ちていた紛失物届けに氏名を書いた。
学生鞄を肩に掛ける。
すると、学園長が余程楽しかったのだろうか。ほっと息を吐き出す演技をしていた。
騒動に対するお礼を言おうとしたのだが、ノリノリの学園長にこの場で言うなど、空気を読めていないように思えた。
お礼は今度、お茶菓子などを持って来訪する事にしよう。
学園長とも高畑先生とも、今日の顛末を大笑いしながら打ち解けられることだろう。
授業が始まるために、名残惜しかったが、この場を去ろうと一声かけた。
「では、僕は授業にいきます。失礼しました」
せめてもと、軽く会釈だけはした。
部屋を後にしようと、ドアノブを握る。
その時、背後から声がかかった。
「氷咲くん。
最後に聞かせてほしい。
きみの目的はなんなんじゃ?なにを思いここにいる?」
笑みを漏らさずには、いられなかった。
フフフ……学園長もまったくお茶目だなぁ。
そんな遠回しな言い方での進路相談なんて。
目的は一つ。サラリーマンになるために学園に在籍しているのですよ。
まあまだ僕は高等部一年生です。進路はまだ早いですけどね。
授業まで秒読みに入っているため、失礼だとは思ったが背を向けたまま言った。
「言ったでしょう。
僕は草食系男子ですよ?
その僕がここにいる目的なんて、勉強をしてサラリーマンになるため以外にありませんよ?」
そう言って、満足げに学園長室を後にした。
廊下に出ると、髪をサイドに立てた女子生徒が遠くに走っていくのが見えた。
全く困ったものである。
廊下を走ってはいけないというのに。
それにしても、麻帆良の頂点である学園長と親しくなれたのは収穫だった。
将来の夢も宣言してしまったし、就職活動などで優遇してくれないだろうか。
いや、そんな姑息な思考は将来のためにならないだろう。
さすがに露骨だっただろうかとは思えたが、あの素晴らしき学園長と高畑先生は、そんな事など微塵も思いもせずに好青年だと捉えてくれただろうな。
そういえば、あの不可視の突風はなんだったのだろうか。
まあ、おおよその検討はついてしまうが。
大方、吸血鬼だと話すなと言う警告だったのだろう。
全く、エヴァンジェリンさんのはやとちりには困ったものだ。
はやとちりで、人を殺しかけるのだから。
こちらは話す気など、毛頭ないと言うのに。
軽く頷き、早歩きで帰路についた。
帰りも細心の注意を払い、人がいる場所を経由して帰ろう。