木々が和らげてくれる太陽の日差しを浴びる。今年の夏はすこぶる暑い。
今はまだいいが、いずれ酷暑と言っていいほど、気温が上がるだろう。出来る限りの薄着をして、それでも肌にはしっとりと汗がにじんでいる。風はない。鬱葱と茂る木々や藪が、涼風を遮ってしまうからだ。
それでも、心なしか涼しく感じるのは、ここが森の中だからかもしれない。
——今は、それが何よりもありがたかった。きっと今の自分では、あの燦々と照りつける日の暖かさに耐え切れる気がしない。
「・・・・・・お姉様」
隣から声をかけられる。亜衣は頷いた。衣緒の手には盆があり、やはり、酒瓶と杯が載っている。
この杯が決別の証となることを再認識する。眼前に突きつけられた現実の重みが、いま、両の手にかかるのだ。
そっと胸元を押さえると、指先に感じる硬い感触。とても小さいそれは、彼女にとって、やはり大きな意味を持つものだ。
まだ文武騒乱が起こる前に——九峪と共に視察した先の市場で、買い贈ってくれた赤い首飾り——を、九峪に返さなくてはならない。
衣緒から盆を受け取り、無言で歩み始める。目指すは目の前の簡素な屋敷。
五歩。十歩。二十歩。それぐらいの歩みで、もう小屋の戸は目の前にまで迫ってくる。自分から歩み寄りながら——恐ろしいまでの圧迫をともなって近づいてくるようだ。
——これを開ければ、私の全てが終わる。終わらせられる。
ふと、心の中に、そんな考えが過ぎった。ただし、それでいいと思った。そうだ、私は、自らの意思で終わりを、幕引かねばならないのだから。
片手を盆から離して戸にかける。
「——失礼いたします」
私は、終焉の戸を、開けた。
元星三年五月。耶麻台共和国と狗根国との大戦が終結し、国家としての体裁が整えられてから、三度目の春が訪れていた。
緩やかな冬季を過ぎ、今では気温が急激に上昇しつつある。田畑にとってはありがたいことだ。国土の大半が山野という九洲にとって、石高が増えるのは願ったり叶ったりなのだ。
涼やかな風が流れていく。鼻腔をくすぐるのは、新しく芽吹いた若々しい萌芽の匂い。
まるで、未だ新しい時代を祝福しているようだ。
女王・火魅子の朝は早い。祈祷によって国家の趨勢を導くことを司る国家の元首だが、ただ無法に過ごして良い資格はない。とはいえ、特別の内規があるわけでもないが。
身支度を整え、朝餉を取り、本日始めの祈祷を行う。祈祷は朝と夜にそれぞれ二回ずつ行うことが、女王の仕事である。
祈祷は専用の祈祷場で執り行われる。宮殿の最奥、もっとも天高く構えられた壮大な祈祷場には、女王・火魅子以外の者が立ち入ることは許されない。何人も、神の遣いであっても。
その日、一日の執務を終えた火魅子に残った最後の仕事——『宵の星詠み』。
満点の星空を見つめる火魅子の表情は、輝く空とは対照的だった。
「嫌な星ね。何かしら・・・・・・ざわざわする」
呟きをもらして、それでも意を決して、両腕を天高く仰いだ。
途端、星々が、まるで螺旋を描くように回転しだした。いや、回転しているように火魅子には見えた。軌跡を描いて、空は不思議な模様に描かれていく。
星は全てを教えてくれる。良いこと、悪しきこと、嬉しいことも悲しいことも——そして、望まぬことさえも。
「——っえ?」
見えた。星の瞬き、軌跡、その羅列の果てに。
女王は膝から崩れ落ちた。
これが、最初の『兆し』だった。
街道や港の整備、都市の開発、田畑の開墾。商業の奨励、貿易の推進、学問の一般化。
耶麻台共和国が抱える問題は多い。建国から六年が経った今でも、処理すべき問題は列挙に暇がない。
これらの問題を解決していくには、いわゆる民主的な方法では何かと遅い。議題が上がってから話し合わなければならないが、その論議に費やす時間が余りにも長すぎるからだ。
こういうとき、事態を迅速に収拾させる存在が稀に出現する。いわゆる『ワンマン』と呼ばれる飛びぬけた手腕を発揮する者たちであり、時として『独裁者』とも呼ばれる、一世の英傑である。
九峪という男もその一人だった。彼は暴政を嫌い、話し合いによる合議を尊ぶが、彼の真の力はその突出した手腕にある。強いカリスマを持つ者が国の重鎮を成すとき、人々の期待は、えてしてその者に集中してしまう。
ただ、このような人種が組織の中にいると、そこから起こる問題もまた少なくない。特に民主的な組織の中では、それは顕著なものとなる。
街の視察は九峪が積極的に行うことの一つである。宮殿からは見えないことも、街に出て、自分自身の足で練り歩けば自然と見えてくる。
民を持って国と成す。民の声なくして、九峪の政治はありえなかった。
いつものブレザーではなく、簡単な作りの衣服をまとって、九峪は川辺城の視察に訪れていた。川辺城は火向灘に面した場所にあり、海産物などの流通が盛んな大都市である。
九洲の都市の中でも大きな方だろう。人も物も良く集まる。見れば鯨の行商の姿も見受けられた。
「やっぱり、川辺城ともなると賑やかだな」
「そうですね。ここは戦時中の都でしたから、その名残もあるのでしょう」
同じように隣を歩くのは亜衣。こちらもやはり簡単な衣服に身を包んでいる。
九峪たちが今居る場所は、宮殿に続く中央の大通り。店が立ち並び、行きかう人々もどこか華やかな姿をしている。花の都とは言わないが、芳しい匂いがしてきそうだ。
目を左右にめぐらせば、見えてくるのは人々の笑顔。飛び交うのは商人の売り文句。荷車が走り、その後ろを子供が駆けて行く。
自然と頬が緩むのを九峪は押さえ切れなかった。
「戦った甲斐があったってもんだな」
九峪の脳裏にそれまでの戦史が蘇る。東火向の廃砦で立ち上がってから、本当にいろいろなことがあった。
今の九峪にすれば過去のことだが、当時はとにかく怖いという思いが強かった。深川と戦ったときも、伊尾木ヶ原の死体の野を歩いたときも、魔人に襲われたときも、人の焼ける臭いを嗅いだときも。
しかしそれらを乗り越えた先がこの笑顔の溢れた世界だったのならば、あの時の恐怖すら、九峪には誇りのように感じられた。
昔の自分が見たら、どう思うだろう。そんなことを考えて、笑いがこみ上げてきた。
急に笑い出した九峪を、亜衣は不思議そうに見つめた。いったい隣を歩くこの青年は、何を考えているのだろうか。
でも、それはきっと、楽しいことに違いない。九峪様が笑うときは、いつも私たちも楽しくしてくれるのだから。
もはや亜衣にとって、九峪の笑顔とは平和そのものだった。九峪の笑顔がなければ、亜衣の平和もないのだ。
「あー、人間、変われば変わるもんだよなぁ」
「ふふ、たしかに、九峪様は変わりましたね。・・・・・・いつのまにか、逞しくなられました」
「そ、そうか?」
亜衣に褒められて、九峪はわずかに頬を赤くした。照れ隠しに視線をさまよわせるその仕草だけが、まるで昔そのままで、亜衣はそれがおかしかった。
そう、確かに九峪は変わった。いや、強くなった。それは腕っ節の問題ではなく、心が強くなったということ。
昔の九峪に足りなかったのは、覚悟とそれを支える強かさだった。それを身に着ける最大の切欠は、枇杷島が襲来したときだろうか。あの頃の九峪はとある事件で塞ぎこんでいたが、見事に立ち直ることが出来た。
強さを得た証拠だと亜衣は思っている。そのときから、九峪は持ち前の明るさだけでなく、強さを得たのだ。
「か、変わったって言えばさ、亜衣も変わっただろ」
九峪は咄嗟に反撃に転じた。不意をついた一言に、亜衣は一瞬だけ目を丸くした。
——変わった? 私が?
亜衣は無意識に歩みを止めた。ただ呆然としたように九峪を見つめる。瞳はまだ丸かった。
「あ、亜衣? どうした?」
亜衣の様子が突然変わって、九峪も面食らったように立ち止まる。まさかここまでの反応・・・・・・と言っていいのかは分からないが、何やら亜衣には効果がありすぎたようだ。
『何を言っているんです?』みたいな返事を期待していた九峪だったが。
こういう表情の亜衣も珍しいな。素直にそう思った。いつものキリッとした表情ではなく、あらゆる壁を取り除いた——素の亜衣が見れた気がした。
とは言え、こうも驚くことかなぁ。さっき亜衣の褒められた時、九峪は照れはしたがそう大きな衝撃はなかった。
——マズイこといったかな? ふいに、そんな考えが浮かんだ。
「・・・・・・わたし、変わりましたか?」
まだ衝撃から立ち直れないのか、亜衣はどこか戸惑うような声音で九峪に尋ねた。
「か、変わったと思うけど。何ていうか・・・・・・そうだな、性格が丸くなった」
「性格が丸く、ですか」
亜衣は問い返す。そうは言われても、実際のところそんな自覚はなかった。
常日頃から冷静であることを己としてきた亜衣は、誰に対しても冷たい印象を与える女性だった。姉妹と下らないことで口論することはあったが、それでも亜衣は自他共に認める『冷酷な女』だった。
「・・・・・・自分ではよく分かりません。九峪様から見て私は、その、丸くなったんですか?」
「そう思うぞ。昔の亜衣って周りをすごい警戒してたけど、今は結構、やさしい目をするようになったんじゃないかな」
「や、やさしい・・・・・・!?」
ぼんっと亜衣の顔が真っ赤になった。いつも『怖い』と言われ続けた亜衣は、やさしいなどの言葉に対して,
壊滅的なまでに耐性がなかった。
頬を両手で押さえて、ここ最近の自分を思い返してみる。しかし記憶の中の自分は、やはりいつも通りの冷静で冷徹な自分だった。
いけない。そう思った。亜衣の最大の武器はその知能であり、それを最大限に生かす環境こそが、冷静な自分だった。
それが壊れようとしてる。
自分を律しなければ。ここで気づけたことは天の助けだったのかもしれない。
「でも、本当にさ。亜衣はいい感じに変わったと思う」
——律すると固めた決意を、直後に崩してくれるのが九峪という男だ。
「昔の亜衣は、なんだか一人に見えてさ。衣緒とか星華は別としても、けっこう壁を作ってた感じがするんだよな」
「・・・・・・」
何も言い返せない。九峪の言葉は、亜衣にとって真実以外の何ものでもなかった。
亜衣は人との境界に壁を設けていた。その壁は意図的なものだった。他人を他人以上の存在にしないことで、亜衣は『冷静な自分』を守っていたのだ。
初めてその壁を解いたのは——伊万里が最初だっただろうか。初めての合戦のとき、伊万里の純真な決意が亜衣の中の何かを変えた。
亜衣の変化はその頃から始まった。しかしその変化は緩やかで、亜衣に自覚させることはなかった。
それでも第三者から見れば大きな変化だった。九峪の亜衣に抱く第一印象が『怖いお姉さん』から始まったから、尚更のことだった。
「俺たちは一人で何かをすることは出来ない。だから『共和国』なんだ」
——共に和を成して国を創る。いつか、阿蘇の嶺に立った九峪の抱負。
その意味を亜衣は取り違えていた。勘違いしていたのだと、この時ようやく気づいた。はっと、亜衣は目を大きく見開いた。
ただ単に、衆議によって物事を決めるだけだと思っていた。でもそこに九峪の真意はなかった。
「見ろよ、この街を」
誘われて視線を向ければ、眼前に広がる川辺の大通り。
そこを通るは、人であり、物であり、言葉であり、笑いであった。喧嘩も起きる。しかしそれすらも——
「これが『和』なのですね」
「ああ。そこに仲間外れはいないぜ?」
そう言った九峪は満面の笑顔だった。まるで太陽のような笑顔だった。
九峪の笑顔を見ているうちに、亜衣も知らず微笑んでいた。
仲間外れ。なんとも九峪らしい物言いだ。こういう細かなところまで、九峪という青年は暖かいのだと思い知らされる。
——私はまだ、和に入っていなかったのだな。
そう思うと、何故か、先ほどの自分自身の決意が馬鹿らしく思えてきた。たしかに冷静であることは武器だろう。しかし和を成さない自分は、その和を崩す要因にも成りかねなかったのだ。
冷静であることと冷徹であることの違い。亜衣はそれを知った。
「——く、九峪様ッ!?」
ふいに、そんな声が上がった。聞いたことのない声だった。
九峪と亜衣は驚いて振り返ると、そこには桶を背負った中年の男が居た。やはり知らない男だった。
男は驚愕に目を見開いていた。と、九峪はそこではっと気づいた。
周りの皆も、九峪を見ていることに。一人残らず、である。
「く、九峪様だって?」
「本当だか?」
「ま、間違いねぇ。おれ見たことある!」
そんな声が上がった直後、九峪と亜衣は大勢の中に、あっという間に埋もれた。
——これが和に入るということなのですか!?
もみくちゃにされながら、亜衣は叫んだ。声にならない叫びだった。
それが、一月前の出来事だった。
六月。この頃から、国内に不穏な空気が流れ始めていた。
切欠が何だったのか、それを気にする者は多くない。ただ目を逸らすことの出来ない現実だけに囚われ、始まりが有耶無耶になってしまった。
それでも振り返るのならば、事の起こりは五月の晩期。耶牟原城の役人と武人がその発端だろうか。
国家にも人間同様、運命(さだめ)というものがある。それは国家を国家足らしめる要因の中で、何時の世も、何処の文明でも起こりうる、呪われた因果なのかもしれない。
『二君不仰是』という言葉がある。『二君これを仰がず』と読み、早い話が、一つの国に指導者が二人も居てはいけない、という意味である。
権力闘争を起こすには、耶麻台共和国はまだ若すぎる。誰も彼もが、未来明るい世界を思い描いている。しかし二人の指導者を前に、誰についていくべきなのか。
太平を迎えた今、政治に力を入れる役人たちは火魅子を。
神の遣いの奇跡を目の当たりにしてきた武人たちは、今でも威光が輝く九峪を。
決して互いを蔑ろにするわけではないが、それでもこの大きすぎる輝きに、人々は目を眩ませてしまっていた。
耶牟原城内の廊下を、数人の巫女を引き連れた火魅子が、威厳高らかに歩んでいく。二重三重の着物に身を包み、煌びやかな金細工を施された髪飾りが、見事な高貴を演出していた。
長い栗色の髪がなびく。細い白眉の美しい女王は、歩きながら外の景色に視線を向けた。
見えるのは晴れ渡る晴天、流れる砂のように忙しなく動く人の姿。
明るい。そう思いながら、しかし女王の目には、何か灰色の世界が広がって見えた気がした。
——星読みを行ってからだ。あれから、私は安息を忘れてしまった。
「火魅子様。お疲れならば、今日はもうお休みになられては」
巫女の一人が心配そうに言った。知らぬうちにため息でもついていたのかと思い、女王は己の迂闊を内心で罵った。
「心配いりません」
「左様ですか」
巫女は直ぐに引き下がった。しつこく食い下がる必要もない場面で、女王の不評を買いたくはなかった。
それが今はありがたい。人の上に立つ者、迂闊に本音を見せるわけには行かない。内心の不安も悟られたくはなかった。
とはいえ、いつまでもこのままではいられない。
一度、信頼の置ける者に相談しなければならない。的確な助言を与えてくれるであろう者に。
考え事をしながら歩くと、目的地にはあっという間に着くものである。いや、そう思うのは、考えが煮詰まっているからかもしれない。
部屋に入る。ここは火魅子の執政の場である。火魅子は祭事だけの象徴ではなく、こうして筆仕事もこなさなくてはならない。
これが一番大変だと思う。それでもその仕事量は、宰相である亜衣や九峪らとは、比べるほどの量ではない。
腰を下ろして竹簡を手に取る。内容を読みながらも、火魅子の脳裏には悩み事でいっぱいだった。
——だめ。これでは仕事にならない。
文字の一つさえ頭に入らない。火魅子は竹簡を文机に置くと、巫女を一人呼びつけた。
「政務を終えてからで構いません。・・・・・・日没に、亜衣に参るよう伝えなさい」
一日を過ごす中で、湯浴みのときほど安心するときはない。とくに最近は蒸し暑くなり、汗を流せるのならば、多少熱い風呂でも気持ちが良い。
耶牟原城には浴場が複数存在する。
火魅子や神の遣いが使う一等級の風呂。
伊雅や亜衣など、上級幹部の使う風呂。
一般の武将、役人が使う風呂。
給仕などの下働きが使う風呂。
どれも大きい風呂で、この時ばかりは、一日の垢を落として誰もが笑顔で談笑に興じている。何時でも何処でも、例え現代だろうとローマだろうと、それは変わらない人の営み。
湯船いっぱいに張られた湯から肩をわずかに晒し、亜衣はこみ上げる開放感にほっと息を吐いていた。
「一人風呂というのも久しぶりだな」
閑散とした周りを見回す。湯気が視界を遮っているが、その向こうに人の気配はなにもない。まさに亜衣一人の楽園だった。
人の目を気にしないで良いため、ぐーっと身体を伸ばす。全裸でいる時、人は本能に近くなるという。亜衣も普段の凛然さを脱ぎ捨て、すこしだけ自由となっていた。
しかしそんな一時でさえ、亜衣の脳は休むことなく働き続けている。
思い出すのは、執務中に訪れた女官の一言。
「火魅子様がお呼びとは・・・・・・」
その真意は分からない。それが亜衣は厭だった。何か気持ちの悪い、まるで蝮か蛇が蠢いているような、そんな厭な気がするのだ。
背中がぞわぞわして腸が寒い。
「そういえば、ここ最近、お元気がないご様子だった。・・・・・・深刻な悩み事でも在るのだろうか」
揺れる水面を見つめながら、ここ最近の女王の様子を思い浮かべる。
亜衣から見た女王は、心此処に在らず、といった様子だった。仕事も思わしくなく、亜衣としても心配事の一つだった。
ただ、亜衣も巫女の端くれである。鋭い直観力をもっている。その直感は、女王の悩み事に、九峪が絡んでいると読んでいた。
それならば、ある意味ではいつも通りのこと。しかし亜衣は違うと理由のない確信を抱いていた。
いつもと違うことが、妙な不安を生み出していた。
「最近は国内も不安定になってきている。 ——何かを予知したのか?」
もしそうだとするのならば。九峪の関わることで、女王の心を煩わせる要因が『生まれようとしている』のならば。
——気合を入れて望まねばなるまい。
九峪と火魅子の関係が変わりつつあることは亜衣も知っている。それは双方がそう望んだのではなく、いうなれば時勢の流れが選択の余地をなくしていった結果だった。
二人は今でも良好な関係を続けているし、それを崩したくないと思っている。
では何故こうなった。何がいけなかった。
人の心に形はない。それが今はもどかしかった。
いけない。亜衣は頭を振った。このままでは思考の坩堝だ。
のぼせる前に風呂を上がると、亜衣は手早く着替えて、火魅子の元へと向かった。
亜衣が通されたのは執務室ではなく、火魅子の寝殿だった。戸を開けると、一つだけの燭台が部屋を薄暗く照らしていた。
茣蓙を出されてその上に腰を下ろす。
火魅子は瞳を伏せて無言、亜衣も無言だった。
しばらく静寂の時間が過ぎた。亜衣は火魅子が話すのをじっと待った。そうでなければいけないと思っていたからだ。
「・・・・・・厭な星を見たのよ」
小さく、まるで蚊の鳴くような小ささで、苦しそうに火魅子は言葉を漏らした。
やはり、そうか。亜衣は確信したと同時に、心の中に思い何かが落ちてくる気分だった。
火魅子の占星術は未来予知の域に達している。その精度はあまりに高く、言葉一つが国家の命運を左右するといっても良い。
もちろんそれ相応の責任もあり、決して軽々しく言葉にしない。
それが、今はどうだ。亜衣も不安になってくる。
「・・・・・・どのような星を、ご覧になられました」
亜衣がそう尋ねると、火魅子は瞳をぎゅっと閉じた。
「——『二君を仰がずば、これを治められん』・・・・・・。この意味、貴女ならばわかるでしょう」
「はい・・・・・・」
応える亜衣の声はとても落ち着いていた。薄々だがその可能性も、亜衣の中にはあったのだから。
最近の国内に広がる民衆の声は、亜衣も聞き及んでいるところだ。その中には、現在の火魅子に疑問を抱くものも少なくない。
火魅子が駄目だと言うのではない。ただ神の遣いに全てを任せたほうが安心なのではないかと、そういう意見があるのだ。
特にその声は、兵役の経験がある者たちの間で根強く上がっている。現在、これらの問題が共和国の上層部を悩ませていた。
一線を越えてしまえば暴動の火種にさえなるかもしれない。今はまだまだ下火だが、近い将来、その可能性もあるのだ。ましてそれは、役人と武人の対立となり、民心を裂く要因ともなる。
それは民衆の勝手な言葉。火魅子も神の遣いも変わらぬ関係を維持しているのに、その思いを尽く壊してくれる。
それでも、だれも民を悪しように言うことはないし、裁く権利もない。彼らは自分自身のより良い未来のためを思っているだけなのだから。
幸せになることは、万人に与えられた冒し難い権利なのだから。
だがそれとは別としても、この状況はやはり思わしくない。
「私には、どうしたらいいか、わからないの・・・・・・」
火魅子は瞳を上げないまま、悔しそうに呟くことしかできなかった。
祈祷場で崩れ落ちてからのここ数日、思い悩む夜に苦しみながらも、結局は打開策を見出すことが出来なかった。
いまや火魅子にとって、この問題を解決するには亜衣の力が必要なのだ。
「亜衣。・・・・・・お願い、力を貸して」
なんと弱弱しい声音か。力の篭らない、縋り付く子供のような言葉が、亜衣にはあまりにも不憫だった。
「ご期待に応えられるよう、尽力致します」
亜衣は平伏して応えた。主君を愛しむ心の片隅で、脳裏を乱舞するのはこれからのことだった。
火魅子様はここまで苦しまれた。何としても、亜衣はこの女王を救いたかった。そのために出来ることは何でもするつもりだった。
だが、その裏にあるのは一つの懸念。
火魅子を救い、神の遣いを救い、民心を落ち着かせ、国内を平らに治める。そんな方法が本当にあるのだろうか。
——こういうとき、九峪様はどうしていただろう。亜衣は思った。民心を掌握することにかけて、九峪はまさに天才的だった。彼の一挙手一投足が民の心を掴んだのだから。
それが私に出来るのだろうか。亜衣には自信がなった。
元星四年、夏。
本人たちの望まぬ対立が表面化するのに、二年とかかることはなかった。
亜衣の尽力虚しく、役人と武人の対立は少しずつ大きくなり、双方の溝は深くなるばかりであった。
権力志向の育ちつつある官人層は、軍事に長けた九峪をもはや無用と考える者たちが現れ始め、いまだ戦国の世にあることをよく知る軍部の人間は、有事の際に起こりうる滅亡の危機を避けるために、九峪の力を必要としていた。
武人たちがなぜここまで戦を警戒するのか。その理由は九洲より南方にある島国にあった。
南方では南山・中山・北山と呼ばれる三勢力が鎬を削っている。この内、北山の勢力を耶麻台共和国の武将たちは気にかけていた。
しかし内政だけを気にかける役人たちにとって、そんなことはどうでもよかった。まずは自国の安定と富国こそが急務だったからだ。また彼らは戦を知らないため、狗根国への勝利によって驕ってもいた。
その波はいつしか民衆にも広がっていく。民はどちらこそが君臨するに相応しいか、わからなくなっていった。
国内を落ち着かせるどころか、波紋は九洲を揺るがした。
亜衣にはもう誰もを救う術を見出すことが出来ず。
悲痛のうちに、苦渋の選択を選ばざるを得なくなっていた。実に一年に及ぶ苦悩だった。