元星四年、晩秋。
この年の稲作は盛夏の猛暑の助けもあって、例年にないほどの豊作ぶりを誇っていた。
各地の城郭には連日、麻袋いっぱいに詰め込まれた米や麦が城の貯蔵庫へと運び込まれていく。
「ありゃあ・・・・・・米倉が足りなくなるなぁ」
穀税の搬入を視察していた九峪は、今にも溢れ返りそうなほど送られてくる米や麦を見て、驚嘆とも呆気ともとれる一言を漏らす。
今年は富に豊作だと聞いてはいたが、朝も早くから夕暮れまで、ひっきりなしに運び込まれる麻袋がここまでの量になるとは思いもよらなかった。
すでに耶牟原城の抱える米倉は飽和状態に陥いっている。各都市でも貯蔵場所の確保に頭を痛めている。
一部では米倉の増築も検討されており、かく言う耶牟原城もその一つだ。
「でも、来年も豊作とは限らないし。あんまり無駄に造りたくはないんだよなぁ」
などと一人ごちながら、右往左往と忙しなく働く人夫を眺める。
歩を進めても行く先々には人が溢れている。怒号のような掛け声が飛び交い、ガラガラとけたたましい音と共に荷車が横をすり抜けていく。
こういう空気が九峪は嫌いではなかった。何よりも祭りなどのバカ騒ぎが好きだった。明るく皆が騒げるのはいいことだと思えるのだ。
現代に居た頃は、よく日魅子や友人たちとバカをしたものである。
「——九峪様、ここにおられましたか」
声をかけられて、九峪は進めていた足を止めた。
何だろうと辺りを見回すと、場違いな巫女が一人、九峪の下へと駆け寄ってくるのが見えた。
はて、何事だろう。
九峪は首を傾げながら、向かってくる巫女に近づいていく。
「亜衣様が、お話があるとのことで、捜しておられました」
「亜衣が?」
「はい。今は執務の間にてお待ちしておられます」
どうしたことだろう。ここでも九峪は首を傾げた。
亜衣は生真面目な性格だから、自らが赴くことはあっても、目上の九峪を呼びつけることなどまずしない。
時間すら惜しい、ということなのか。それにしては珍しい。
「わかった、直ぐに行くよ」
巫女が一礼して去っていく。
すぐに人ごみに消えた巫女を見送ると、働く人夫を眺め回し、ほどなくその場を後にする。
なんだろう。九峪の心を占めるのは、亜衣に呼び出される理由。
火急の件という様子ではなかった。だから今すぐどうこうなるという問題ではないのだろう。
耶麻台共和国の抱える問題は多く、亜衣も相当な苦労をしている。
何か煮詰まっているのかもしれないな。ならば力になりたいと九峪は思う。
亜衣には何度も助けられている。だから亜衣の助けになってやりたい。
九峪にとって亜衣は、ある意味で自らの半身と同じだった。それを助けたいと思うのもまた当然の思いだった。
筆先が墨汁の黒に染まっていく。硯から離し竹簡の上を文字が走る。
亜衣は険しい表情で書簡を見つめては、べつの書簡に筆を走らせるのを幾度も繰り返す。
今はそれほど忙しく無い。
しかし亜衣の表情には、たしかな疲れの色が浮かんでいた。
ふぅ。亜衣が息を吐いた。筆をおいて虚空を見上げる。思い起こされるのはここ最近のことばかり。
上手くいかないものだな——。自嘲気味に呟く。
「亜衣様。九峪様がお見えになられました」
部下の声が聞こえてきた。その直後、戸がすっと開く。そこには光を背負う九峪がいた。
部下のものが茣蓙を出し、九峪はそこに腰を下ろす。
亜衣は床机から立ち上がると、自ら茣蓙を持って九峪の御前に敷き同じように腰を下ろす。
「茶を」
「はっ」
部下が部屋を出て行く。執務の間には基本的に亜衣一人しかいない。
部屋は実務的な造りで、装飾の類は何一つ無い。寂しい、というよりも寒い感じのする部屋だった。
九峪は無言。呼び出したのが亜衣である以上、話を切り出すのも亜衣の役目である。
「まずは、九峪様をお呼び立てしたこと、お詫び申し上げます」
わずかに身を引いて平伏する亜衣に、九峪は笑いながら手を振る。
「いいって、気にすんなよ。それより、いったいどうしたんだ」
九峪の気軽い一言。だがその一言に、亜衣の肩は小さく、本当に小さく揺れた。
頭を上げることが出来ない。それは僅かな迷いの間だった。
それでも、亜衣は決心したかのように、ばっと面を上げた。
やや疲れた瞳で九峪を見つめる。うっすらと見える目元の隈に、九峪は亜衣の置かれた状況が思わしくないことをこの時悟った。
思い沈黙の中、亜衣は言葉を選ぶように口を開く。
「九峪様・・・・・・。昨今の国内における情勢不安、ご存知かと思います」
九峪は頷く。国内が俄かにざわついていることは九峪も知っていた。その原因となるところも、九峪にはわかっていた。
文官と武官の意見の食い違いから端を発した女王と神の遣いの対立。民衆も巻き込んで、それは大きな社会問題へと発展していた。
「民心の乱れ著しく、このままでは耶麻台共和国は、分裂の憂き目に会うことも考えられます」
「ああ・・・・・・そうだな」
「私は、出来る限りの事をしてきたつもりです。民が一丸となる方法を模索してきました。されど・・・・・・」
僅かに、目を伏せる。その瞳の奥に、悔しい思いが泥のように沈んでいるように、九峪には思えた。
「されど、私には民心を掴むことが出来ませんでした。九峪様のご意思を汲みきること適いませんでした」
次第に声が震えてくる。それは悔しさゆえか、情けなさゆえか。
九峪にはわからなかった。ただ、亜衣が酷く小さく見えて仕方がなかった。
常に自信に満ちていたわけではない。だがここまで弱気な亜衣を九峪は知らない。目を伏せ、唇を噛み、肩を震わせている。
まるで子供のようだ。
おそらく亜衣の苦しみ、その全てを理解することは出来ないかもしれない。亜衣でなければとうの昔に折れていたかもしれない。
だが、亜衣をここまで追い詰めた原因は——
「私は、私では・・・・・・お救いすることができません」
救う——
それは何を救うということなのか。国か、民か、火魅子か、はたまた神の遣いである九峪か。
あるいは、その全てを、か。
亜衣は茣蓙から身を退けると、手を付いて、深く頭を下げる。額が床に付きそうなほど、深々と。
「女王様より任せられたお役目、全うさせることも叶わず。そして、今また、九峪様のお知恵をお借りしようとする私を、どうか御赦しください」
平に伏する亜衣に、九峪はかける言葉を失ってしまった。
でも、それでも、亜衣は苦しんでいる。亜衣の力になりたいという思いに偽りは無い。
「亜衣・・・・・・頭を、上げてくれよ」
「・・・・・・」
九峪の言葉にも、亜衣は答えず、ただ平伏したまま。顔を上げず、ずっと地に顔を向けていた。
それは亜衣の呵責の表れだった。力及ばぬことへの、憤りを隠すために。
ふっと顔を上げる。亜衣の苦しみが伝わってくるようだった。九峪もまた苦しくなってきた。
「・・・・・・すまない」
呟かれた一言に、亜衣は顔を上げた。目の前の男性は宙を見つめていた。
「お前を苦しめる元凶は、きっと俺にある」
「それは・・・・・・」
違う、と言えなかった。少なくとも問題の根底に、九峪という男の存在があることは確かだったからだ。
だが亜衣は知っている。それは九峪の望んだことではないし、すべての責任が九峪にあるわけでもないことを。
悪いといえば、確かに九峪に原因はある。しかし悪くないといえば、九峪は何一つ関与していない。
罪の所在を突き詰めることなど、出来はしなかった。
「いろんなものが原因なんだろうな。その中でも、俺が、一番の原因だ」
「九峪様は! 九峪様は、そんな」
亜衣の弁護も、次第に言葉尻が小さくなっていく。心のどこかで、亜衣もそう思っていたからだった。
原因の一つが九峪である。わかってはいても認めたくは無い。
それは、九峪を裏切る行為に思えた。
でも九峪はそんな亜衣に、薄く微笑んだ。
庇ってくれたことが嬉しくて、信じてくれたことが嬉しくて。
自分が許せなくなっていく。
亜衣は苦しむべきではなかった。撒いた種を刈り取るのは、誰でもない、俺の役目のはずなのに。
その責任を亜衣に押し付けていた。自分が許せない。
「亜衣は俺に期待してくれた。でも、俺にも、どうするべきなのかはわからない」
——嘘だ、本当は分かっている。あるべき道に戻す方法を、九峪は知っている。
そして、きっと、亜衣も。
ただそれを選択するには、九峪も亜衣も、悲しくなるほど弱い。
だから、それ以外の方法で、やっていくしかない。
「俺じゃあ力になれないかもしれない。けど、やれるだけのことは、やるよ」
そう言った九峪の横顔は、とても辛そうだった。
◇ ◇ ◇
虫の鳴き声が響く夜になってきた。
蒸した夜も訪れるようになり、涼風吹けば爽やかであった。
その日の夜は寝心地の良い夜だった。蒸し暑くなく、風も適度に吹いている。虫の鳴き声ですら、眠りに誘う鐘の音のようだった。
しかし亜衣はいまいち寝付くことが出来なかった。寝返りを何度もうっている間に、衣服は乱れに乱れていた。
それを直す気にもなれない。ずっと、亜衣の心は複雑なままだった。
—— 私は、情けない女だな。
女王の期待に応えられず、九峪の機知に頼ろうとする。
引き受けた責任を投げ出している。期待を裏切り、投げ出している。そう思えて仕方が無い。
何度もため息が口をついて出てくる。いったい今日だけでどれほどのため息を漏らしたことだろう。
陰鬱、という言葉すら生温い。心を締め付ける自責と自己嫌悪が、亜衣を尽く苦しめていた。
「私は・・・・・・何をしているのだろう」
ぽつりと呟く。
これが、私なのだろうか。
これが、こんな惨めな自分が、今まで九峪の右腕と自負してきた自分なのだろうか。
——役立たずじゃないか。
——どこまでも無様じゃないか。
振り返れば振り返るほど、かつての自分の姿が霞んでいく。それまでの自分がまやかしのようにさえ思えてくる。
考えてみれば、亜衣は人を使うことは出来ても、操ることはしてこなかった。心のどこかでそれは、自分には出来ないことだと理解していたからだ。
人の心を掴む術。亜衣はそれを持ってはいなかった。人が真に欲する心模様を理解するには、亜衣はあまりにも客観的すぎたのだ。
人の行動原理や物事の結末、目に見えるものしか理解できない。形無いものを理解する九峪ほどの柔軟性が亜衣には無い。
それがこうも口惜しい。
亜衣は気だるそうに身体を起こす。布団を退けて緩慢な動作で立ち上がると、唯一の出入り口の戸を開けた。
ふわっと澄んだ緑の香りが鼻腔をくすぐる。冷やされた外気がわずかに汗ばんだ肌に心地よい。
空に星はまばらにしか見えず、雲が月明かりに浮かんで見える。風は無く、雲はいつまでもそこにあり続けた。
何も考えず、自然と足が動き出す。向かう先が何処なのか、亜衣自身にすら分からない。
——何処に行くのだ。
まるで他人事のように、無関心に思う。
・・・・・・いや、これはただの逃避なのかもしれない。情けない自分から逃げ出そうとしているのかもしれない。
逃げた先に、何があるかも分からないくせに。
なんと浅はかなことだろう。ここまで無様を晒すと、いっそおかしくすらある。
夢遊病者のように、耶牟原城の中を徘徊する。見回りの兵士が見れば何事かと不振に思うかもしれないが、幸い、人には会っていない。
別に隠れているわけではないのに。
何か得体の知れないものが亜衣をどこかへ連れて行こうとしているかのように、亜衣の歩みを阻むものは何も無かった。
————庭に出た。後世の和風庭園とは趣の違う、それでも美しい庭園である。
雅な流線型のなだらかな丘。様々な華が彩り、池の上には橋がかけられている。大陸の帝宮の庭園を再現したものだった。
星明りも月明かりも少ない庭園は、昼のそれとはまた違った顔を見せる。なまじ美しいだけに、闇に染まった小さな世界は、亜衣にある種の威圧感を与えていた。
その中を、亜衣はゆっくりと進んでいく。闇に身を沈めるように、ゆっくりと。
ふと、足を止める。橋の上に人が立っているのが見えた。
——賊ッ!?
ぼやけていた頭が一瞬で覚醒する。
向こうはまだこちらに気づいていないようだ。どうするべきか、亜衣の中にいくつもの選択肢が浮かんでくる。
宮殿の人間ならばよいが、もしもどこぞの侵入者であるとしたら。
亜衣は息を潜めて、木々の間を隠れるようにして人陰に近づいてゆく。鼓動が強くなっていく。
橋のかかり口に辿り着いても、人影はまだ亜衣に気づかない。何をしているのか、橋の欄干に手を付いて、空を眺めているように見える。
あまりに暗く、横顔が判別できない。知っている者かもしれないし、侵入者かもしれない。
橋に足をかけた。コツッと乾いた音が、小さく闇に溶けていく。
人影がこちらを振り向いた。警戒する様子は無く、襲ってくる気配も無い。
「何者か」
亜衣は尋ねた。人影は無言だったが、しばらくして、
「・・・・・・その声、亜衣か」
と返してきた。
その一言に、亜衣もはっとする。聞き覚えのある声だったからだ。
「九峪様・・・・・・」
雲に隠れていた月が顔を出す。薄明かりに照らされて、人影と亜衣の姿が闇にぼんやりと浮かんできた。
人影は九峪だった。
微風が吹いてきた。雲が少しずつ動き出し、合間から星がちらりちらりと覗いている。
橋の欄干を前に、九峪と亜衣は並び立っていた。何を話すでもなく、二人して、ただそこに立っていた。
重苦しい沈黙だった。九峪との付き合いももう長くなるが、こんな重苦しい沈黙は初めてだった。
二人一緒にいて、楽しいことはあっても、苦しいとか、気まずいとか、そういうことは殆ど無かった。
今日だけだ。いや、今日からだ。亜衣は九峪との間に、目に見えない隔たりを感じ始めていた。
——違う、私が一方的に避けているのかもしれない。隔たりではなく、これは引け目なのかもしれない。
横目で九峪の顔を盗み見る。気負った様子は無いが、影が射しているように見えた。
「亜衣は・・・・・・ここで、何をしていたんだ」
沈黙を破る静かな問いに、亜衣は言葉を選んで、
「・・・・・・散歩です」
無難に応える。別にそれが目的ではないが、間違いでもないと、自分に言い聞かせる。
亜衣の応えに納得したのか、九峪はそれ以上の言及はしてこなかった。移り動く闇雲をただ目を逸らさず眺めている。
破られた沈黙も、会話が続かなければ直ぐ重い空気に戻る。
嫌な沈黙だが、会話の糸口が中々見つからない。
——見つける必要があるのか?
心の奥底、亜衣のとても冷たい部分が、そんなことを問いかけてきた。
いまさら、私から九峪様に、何を言葉かけるというのだ?
こんな私が、何を図々しく。
心の声は冷たい。亜衣の不甲斐なさを容赦なく糾弾する。抗うことも出来ないまま、亜衣は心を閉ざしていく。
隣に九峪がいるのに、独りを感じてしまう。
沈黙に耐え切れなくなって、亜衣は九峪に一礼してその場を去ろうと——
「なぁ、亜衣」
するよりも前に、九峪が亜衣に声をかけてきた。
先んじられて、亜衣は開きかけた口から言葉を吐き出すことが出来なかった。
固まって動かない亜衣が見えていないのか、構わず九峪は言葉を続ける。
「前にさ、川辺城の視察に行ったよな。覚えてるか」
「あ・・・・・・はい。もちろん」
「あの時、川辺城の住民にもみくちゃにされて、大変だったよな」
「はぁ・・・・・・」
何が言いたいのか分からず、そんな返事しか出てこなかった。
なぜ今、そんな話をするのだろうか。
九峪の考えが何も分からない。こういうところでも、亜衣は九峪との間に壁を感じてしまう。
九峪の表情からは何も読めない。瞳も、いやに澄んで見えた。
近くにいるのに、遠く感じる。
一歩よれば触れ合える距離なのに、見えない力がそれを阻む。
「あの頃は、不安なんか何もなかった。順調で、平穏で、皆が笑っていて・・・・・・亜衣も笑っていた」
九峪は懐かしむように微笑を浮かべている。
まだ人々が平和の喜びにひたっていたあの頃、九峪も亜衣も互いに穏やかだった。
それがどうだろう。民は互いに論争を呼び、ギスギスした雰囲気が九洲全土を覆いつくそうとしている。暗雲立ち込め、日の光を届かなくしようとしている。
なぜ、そうなった。どうしてこうなった。
—— 決まっているじゃないか、そんなこと。
「考えれば考えるほど、俺は、俺がわからなくなる。この国の未来を見届けたい、この国の発展の力になりたい。そう思って、俺はここに残る決意をした」
五年前、九洲の元号が元星になる二月前。
九洲の完全開放、国家建設、国土防衛、王室復古。
耶麻台共和国が名実共に九洲の覇者へと返り咲いた——否、新しく芽吹いた瞬間、九峪の神の遣いとしての役目は終わった。
開放された耶牟原城は急速に復元され、九洲の各地も疲弊した国力を急速に取り戻していく。
そんな日々の中、九峪はやり遂げた達成感と、一抹の寂しさを感じていた。
これで、終わるんだな。それは、元の世界に戻れるということであり。
ともに戦ってきた『みんな』との、永遠の別れを意味していた。
戻るか、残るか。選ぶには、九峪はこの世界に長く居過ぎた。
幾多もの戦いを繰り返し、心を支えあい、掛け替えのないものを手にしてきた。
愛着がある、という問題ではない。そういうことではない。もっと尊いものを、九峪はこの世界に見出していた。
夜毎に日魅子が夢の中に出るようになった。夢の中の日魅子は泣いていて、それが九峪を苦しめた。
それでも九峪はこの世界に残った。生死をかけた絆が、九峪をこの世界の住人に昇華していたから。
だけど——
「それが、間違いだった・・・・・・のかもしれないって、今は思うんだ」
対立の要因は複数存在する。役人と武人の対立、民衆の意識、強すぎる二人の指導者。
その根底にあるものは火魅子と神の遣い。語弊のある言い方だが、元凶はこの二人にある。
現在の耶麻台国の最高指導者は火魅子とされている。神の遣いはその本質的な役目を終え、現在は国政を司る要職に就いている。
だから、九峪はすでに、耶麻台国の指導者でないのだ。耶麻台国で火魅子に継ぐ権力層にいる人物は、
各県の知事
大将軍である伊雅
宰相の亜衣と天目
そして顧問的な立場の九峪
と、これらの面々が耶麻台共和国の最重鎮とされている。
この中で抜きん出た発言力を持つのはもちろん九峪だが、広義で考えれば、九峪は県知事と同じ階級層となる。
これが問題といえば問題であり、この地位に納まるには、九峪はいささか人々の心に残りすぎた。
「耶麻台共和国は合議の国だけど、火魅子をいただくことで成り立つ君主国でもある。そこに、女王を蔑ろにするやつが出れば、そりゃあ反発も起きるよ」
「九峪様は、女王を蔑ろになどは」
「そんな気はないさ。けど、人から見たらどうだろうな。いつまでも権力にしがみついている、古狸ってさ」
「それは・・・・・・」
亜衣は言葉を失う。九峪のいうことも判る気がしたからだ。
九峪は地位や権力に興味を示さない。この時代の人間としては限りなく稀な人種といえる。
だから、九峪は最高の座をあっさり火魅子に返した。本当に九峪が汚い人間ならば、火魅子を蹴落として九洲を支配しているはずだ。
判る。けど、それは人々の勝手な言い草だ。
違う、九峪様はそんなお人ではない。常に九峪と共にあり、九峪を見て、九峪の目指す世界を模索してきた亜衣だから。
かぁっと頭に血が上る。顔が熱くなるのを感じながら、亜衣は、胸の奥底から何かが湧き上がってくるのを抑えられなかった。
私の知っている九峪様は、そんな醜たらしい人ではない!!
ずいっと、九峪に詰め寄った。距離が一気に縮まる。
「九峪様は何もしていないではないですか。火魅子様に楯突いたわけでもない、国益を貪ったわけでもない。ただ国と民のことを考えて、この場にとどまったのではないですかッ」
亜衣の知る九峪は、決して綺麗なだけの男ではないが、誰にもない独特の清廉さをもってことにあたっていた。
卑怯なところがなかったのだ。卑屈なことをしなかったのだ。いつもどこか清々しかった。
座を退いた後も、国政に力を注ぎ、民の声を聞き、火魅子の側に立って是をよく補佐した。
その九峪様の、どこを見て『権力にしがみつく古狸』と呼ぶというのだ。
「耶麻台共和国の意味を、誰も理解していないだけです。権力とか地位とか、そんなことは関係ないのだと、誰も気づいていないだけでッ!」
——だから、九峪様が己を卑下にすることはッ!!
そう、亜衣は叫びたかった。信じて付いていった青年を貶める言葉がどうしても許せなかった。
九峪の苦労を亜衣は知っている。どれだけ傷ついたかも知っている。
敵兵の死にすら心を痛めた異界の青年の優しさや弱さ、それを克服したときの逞しさを知っている。
私に和を教えてくれたこの方が、どうしてかように謂われねばならない。
貶められるべきは、期待に応えられない私の方なのに。
「九峪様は、この国に住む人々全てを仲間と。そのために尽力してきたではないですか」
「それがいけなかったんだ。俺は神の遣いだったから、なおさらいけなかったんだ」
九峪の民衆に与える影響力は天変の如く、凄まじいものがある。
限りなく結果を出し続け、雷鳴も鳴り止まぬ速さで次々と勝利を手にし続けてきた。
英雄、と惜しみない賞賛をもって讃えられる存在。救世主。
その影に火魅子は、いまいち埋もれがちなのだった。簡単に言えばインパクトがあまりに弱すぎた。
「俺が何をしたかじゃない。そうじゃないんだ。『ここに神の遣いが居続けている』・・・・・・それが原因なんだ」
その一言は、神の遣いの——九峪の存在意義を否定する言葉。
ほかでもない、九峪の口からその言葉は紡がれた。
亜衣の聞きたくない言葉だった。
言い返したくても、もう、亜衣は何も言えなくなっていた。九峪の言う言葉、それは誤り一つないことだから。
気づいていた、亜衣も。それが根底に掬う『うねり』なのだと。
でもそれを認めてしまうと、それは『九峪を否定する』ということで。
そのジレンマが亜衣を苦しめ続けてきた。
「俺は・・・・・・還るべきだったのかな」
わからない、と九峪は言っていた。あの言葉通り、九峪の一言は、まだ迷いがあるようだった。
僅かにでも望郷の念はあったはずだ。それを押し切ってでもこの世界に、仲間の下に残り、そして今は後悔している。
複雑だった。本当に自分が何なのかわからなくなるほどの複雑。
でも——
「皆を過去にすることなんて、出来ないよ」
呟かれた一言に、亜衣の身体が大きく震えた。揺れる瞳で九峪を見つめる。
過去になんて出来ない。
それは、九峪はみんなと共に歩みたいと思う、よどみない本当の思い。
九峪の瞳は悲しそうで、亜衣もなぜだか、とても悲しくなっていく。
涙が溢れそうなほど、九峪が薄くぼんやりとしていた。
今にも消えてしまいそう。亜衣は咄嗟に九峪の裾を、指で弱弱しく摘んだ。そうしないと、九峪が一瞬で霞になってしまいそうだったから。
小さな力に、九峪は瞳を亜衣に向けた。
「私はっ・・・・・・九峪様と出会えた事を、天に感謝しています。九峪様とともに歩めたこと、誇りに思って生きてまいりました」
——何を言っているんだ、私は?
頭がぼんやりとしている。まるで熱病に浮かされたような、霧のように濃いもやが思考を鈍らせていく。
考える力が衰え、心の奥から沸き起こる何かが、止め処なく溢れ出して行く。
堰を切ったように、もう止められない。激情は一瞬で亜衣の中を駆け巡る。
「九峪様がいたから、私はここまで来れました。九峪様がいなければ、私はここにいませんでした」
全ては九峪から始まった。廃神社での出会いから、亜衣の運命は加速度的に回り始めた。
亜衣にとって九峪は道具でしかなかった。故国を取り戻し、星華を火魅子に祭り上げるための、便利で最強の道具。
それがいつしか、亜衣にとってなくてはならない存在へとなっていった。道具としてではない。人として、なくてはならない存在へと。
それも九峪の力なのだろうか。亜衣には判らない。
苦難に直面しても、九峪の笑顔が亜衣を幾度も救った。九峪がいたから、亜衣はここまで戦い抜いてこられたのだ。
否定できるはずがない、私が、九峪様を。
「九峪様が共和国に残ると仰ってくれた時は・・・・・・私は、嬉しく思いました」
歓喜した。冷静を装いながら、心は天を貫いていた。
まだいられる。まだいてくれる。それだけで亜衣は満たされた。
耶麻台共和国はまだ幼い。火魅子は即位してまだ日が浅い。
不安を多く抱えたまま、九峪がいなくなる、それは亜衣とってかつてない恐怖となって圧し掛かった。
これからは、共に平和な世に、太平の国を創っていこう。そう宣言されたとき、亜衣はやさしく微笑んだ。
九峪がこの世界を選んだ。それがなぜだか、自分が選ばれたようにさえ思えた。
それは、私が——
「九峪様がいなければ、私は——ッ!!」
——私が、九峪様をお慕いしていたから。
愛していたから。
いなくなるということは、永久に会えないということは。
残される者にとって、それは死なれることと同義。
愛する者の死を許容するには、亜衣はあまりにも優しくなりすぎた。冷徹だった女は、愛を知り慈しむことを知った瞬間。
どうしようもなく弱くなった。一人で立つ力強さを失ってしまった。
寄りかかる心地よさを知ってしまったから。
共に歩む幸福感を知ってしまったから。
でも。
「私は・・・・・・」
ずっと一緒にいたい。
そう思うことも自然なこと。誰にも咎められない、誰もが持ちえる、それは掛け替のない、愛らしい欲望。
いられないのなら——
「ここにいる、意味などッ」
「亜衣」
いつしか、亜衣は九峪の胸に縋り付いていた。自制心を失った体が、無意識の中で九峪を求めていた。
九峪に呼びかけられて、亜衣の心は少しだけ落ち着いていく。九峪の声は時に心をかき乱し、ときに優しく撫でてくれる。
いま、自分が何をしているのか。揺れる頭でそれを理解すると、亜衣は急激に情けなくなっていた。
——何をしているんだ、私は。こんなみっともない姿を九峪様に晒して。
情けなさ過ぎて涙が出てくる。それを見られなくて、亜衣は頭を九峪の胸にうずめた。その行為がまた恥ずかしくて情けなくて。
どんどん泥沼に落ちていく。出来るものなら、今すぐ消え去ってしまいたい。
「亜衣・・・・・・その、さ」
胸の中で小さくなく亜衣に、九峪はどうすればいいのか分からず困り果てていた。
わずかに伝わる温もりと女性の香り、そして振るえ。
——小さいな。そう思った。自分よりも年上の女性は、まるで年下の少女のように小さかった。
小さく思えた。
どうしようかと思っていたが、その小さく泣いている亜衣を見ているうちに、自然と腕が動いていた。
なんでこんなことをするのか、九峪自信がわからない。腕はそっと、亜衣の背中に回される。
きゅっと、赤子を抱き上げるように優しく。
柔らかい。亜衣はよく自分の起伏に乏しい身体を揶揄するが、それでも、この柔らかさは、九峪に亜衣の女性を強く意識させるのに十分だった。
亜衣の身体が、大きく跳ねた。
「なんつーか・・・・・・俺も、亜衣がいてくれたから、ここまでこれた。俺って一人じゃ何にも出来ないやつだから、亜衣が側にいてくれて、本当に良かったって思ってる。感謝してる」
「九峪様・・・・・・」
亜衣が上目遣いに九峪を見上げる。潤んだ瞳が、わずかに差し込む月明かりに照らされて、とても神秘的に輝いていた。
「亜衣が苦しんでるのに、俺は何も出来なくて。それどころか、亜衣を苦しめる原因は俺にある始末だ」
昼に見た、亜衣の憔悴しきった顔。隈のできた目元。
建国からこちら忙しい日々が続いたが、そこに疲れはあっても焦りや苦痛などは一つもなかった。
希望に溢れていたから。
だから、亜衣の疲れきったあの姿を見たとき、九峪は心のそこから心配したし、助けになりたいとも思った。
その俺が亜衣を苦しめている。
笑い話にもならない。つまらなさ過ぎる。
「けどその俺を亜衣は信じてくれてる。俺のせいじゃないって言ってくれた。それが・・・・・・すっげぇ嬉しくてさ」
まだ、見捨てられていない。まだ、信じてくれている。
九峪もまた翻弄されて疲れていた。自らの存在そのものが罪だとばかりに、世は騒ぎに騒いでいて。
これで、亜衣たち古くからの仲間にまで亀裂を生み出すようだったら。
九峪はとても耐えられないだろう。
皆のために戦った。それは自分のために始めた戦いだった。けどいつしか、皆に認められて、皆を認めて、戦う意味は変わっていった。
九峪は、いつのまにか、誰かのために戦うようになっていた。仲間の願いのために戦うようになっていた。
それすらも、自分の願いとして。
——忘れるところだった。
「俺を、まだ必要としてくれる人たちがいる」
戦う意味を。
「——亜衣がいる」
必要だといってくれる。
「還るなんて、それこそ馬鹿だ」
「九峪様・・・・・・」
亜衣が九峪の名を呼ぶ。それだけで、九峪の心は温かくなる。
還ってどうする気だ。沢山の人間を殺して、やりたい放題やって、さよならなんて、都合が良すぎるだろう。
そうだ、俺は背負うと決めたはずだ。背負って生きるために、この世界に残って、皆の行く末を、ともに歩もうとしたんじゃないのか。
亜衣ばかりが苦しむなんて、そんなのは駄目だ。苦しむなら、一緒に苦しむべきだった。
「ありがとう、亜衣。・・・・・・諦めるなんて、俺らしくないよな」
「・・・・・・はい。らしくありません。九峪様は、いつも、笑っていなければ」
前を向いて歩まねば。心の中で、囁きかける。
願わくば、その道に、自分もいることを願って。
涙に濡れた瞳で、亜衣は微笑んでいた。