元星四年、十二月。混乱の秋を越え、九洲は冬の季節を迎えていた。
阿蘇や祖母など九洲山地の高地はすっかり雪化粧を施され、麓の村々にも、粒のような雪がちらちらと舞い落ちている。
どこの村も越冬の準備は済んでいる。越後などの豪雪地帯と違って九洲の冬は厳しくないが、それでも準備することはいくらでもある。特に野菜の保存には毎年、細心の注意を払っている。天敵は鼠である。
阿蘇の中腹。比較的平坦な場所に、一軒の家屋があった。それほど大きくもなく、一見すれば質素な造り。
だが山人や狩人など下々の人間が住まうには、十分すぎるほど立派な家であった。
晩の内に積もったのか、屋根は白くなり、周囲も白くなっていた。
今朝の冷え込みはひとしおだ。戸を開けた瞬間、寒気が男の身体を容赦なく振るわせる。
ぶるるっと一気に熱が抜けていき、思わず両腕で身体を抱きしめた。吐く息の白さが余計に身を振るわせた。
「・・・・・・」
眠気も一気に吹き飛んでしまった。見上げると突き抜けるばかりの晴天があった。雲ひとつない天空は蒼穹だった。
しばらく蒼い空を見上げていると、遠くからパシャパシャと、水の跳ねる小さな音が聞こえてきた。
音は徐々に近づいてきて、家の角から一人の女性が姿を現した。両手で水桶を持って、危なげな足取りだった。
「あ・・・・・・お、おはようございます」
こちらに気づいた女性が、慌てたように朝の挨拶をしてきた。
「おう、おはようさん」
少しばかりぞんざいに挨拶を返す。別に面倒だとか、そういうことではなく、これがいつもの挨拶だった。
変に畏まったのは好きじゃない。身分だとかなんだとか、そんなことを気にするほうが面倒だ。
ただでさえ目の前の女性は、いまだ身分と言うものに拘りを持っているのか、自分との接し方もどこか硬さが残っている。
だからせめて、挨拶だけは簡単で軽いものにしたかった。でなければ、自分が持たない。
重そうな水桶を持って、女性がヨロヨロと歩みを開始した。女性の身体は小さく、背も、腕や足の細さも、まるで歳相応ではない。女性の年齢は二十代後半だが、見た目は十代で通りそうなほどだ。
「手伝おうか?」
さすがに可哀相に見えて、背後から声をかけた。すると女性は驚いたように振り向いて、
「め、滅相もございませんッ!!」
と、悲鳴のような声を上げて、そそくさとその場を去ってしまった。
こんな寒い中、大変だなぁ——・・・・・・。雪の絨毯に点々と残された足跡を見ながら、他人事のようにそんなことを思った。
凍りつきそうなほど冷たい冷水に手を浸す。その冷たさに耐える小さな手は、正直にすごいと感嘆する。
自分は、身を竦ましていると言うのに。何とも情けない絵図だ。
「・・・・・・今日は、何をするかな」
白い吐息が呟いた。
時間はいくらでもある。やれることも少なく、どこかへ行くことも出来ないが、虚しいことに時間だけはあるのだ。
日の出から日没まで、ただ吸気と排気を繰り返すだけと言っても過言ではないかもしれない。
そんな時間だけが今日もある。
——トッ
小さな音がした。足元を見ると、そこには一匹の老いた猫がいた。
猫は寒さに毛を震わせて、男の足に擦り寄ってきた。身体を擦り付けながら、少しでも温かみを感じようとしているようだ。
うろうろ、うろうろと。男の周りを何週も回り、時には逆方向に回り、顔を男の足に擦り付けて、傍を離れようとしない。
ふっと、男は軽く微笑んだ。
「今日も来たのか? ・・・・・・山猫なのに人懐っこいな、お前は」
そっと抱き上げてやる。猫は男に懐いているのか、抵抗一つしなかった。
「腹でも減ったのか? ん? 悪いけど、ここにはミルクも何もないぜ。・・・・・・山女の開き干でよかったらあるけどな」
にゃー
猫が鳴いた。その短い鳴き声が男には、
——それでいい
と、言っているように聞こえた。
やれやれ。男は嘆息して——でも嬉しそうに——肩を竦めた。
「じゃ、朝飯にするか」
猫を抱き上げたまま、男は家の中に戻っていった。
—— 今日も、こいつと過ごすか。
いつからか、この老いた猫は男の下を訪れるようになっていた。寒い冬を過ごすのに、囲炉裏のある家は快適だったのだろう。おまけに男はお人よしで、食事も与えてくれる。
暖かい部屋で、猫はいつも寝てばかりだ。天寿も後半、老いた身体は動かすのも一苦労と見える。
だが、男には唯一この猫だけが、隔たりなく過ごせる無二の友となっていた。
無為の時を楽しむ友人。男にとって、山猫はそんな存在だった。そこにいてくれるだけでよかった。
パタン。戸が音を立てて閉じられた。
九峪が帰還——真実は異なるが——したことで起こった二頭政治の崩壊。耶麻台共和国は火魅子の名の下に、ようやく一つとなった。
諸々の混乱はあったものの、世上は次第に平穏を取り戻しつつあった。
武官は次第に発言力を失い、変わって文官は権力を強めていった。戦争がなければ、武官に出番はなかった。
政策は九峪の推し進めていたものをそのまま続行する形で進められた。当時としては斬新すぎる発想ばかりだが、それを亜衣は必死に租借し理解し、現状で実現可能な政策へと転化する作業に追われていた。
その過程で、文官は一つの政策を実行に移した。
——兵役緩和
である。
兵役に動員する人間や、軍備に割く予算の削除、つまりは軍備縮小である。
戦争は終わったのだから、もう兵士は要らない。それよりも国力の増大が急務であると、文官はそう考えていたのだ。
これに反発したのが、琉球島を気にかける武官たちだった。狗根国も滅んだわけではなく、泗国も警戒する脅威である。
裸で虎の前に躍り出るようなものだ。しかし武官の言葉は届かなかった。それどころか、ここぞとばかりに、口うるさい武官(特にかつての九峪派)はその半数以上が軍を追放されてしまったのだ。
この事件は、文官の増徴を物語っていた。
九洲は繁栄の途にあった。軍備は縮小されたものの、そのおかげで産業や工業に回す人材が増え、物が溢れかえるようになっていた。
田畑はもちろん、製造、貿易まで盛んに行われるようになった。富が商人や地主を豪族にまで押し上げた。
中でも一番の隆盛を誇ったのが、亜衣の管理する『茶葉畑』であった。大陸でしか生産されていない茶葉を、亜衣は九洲での栽培に成功させていたのだ。
九州北部は茶葉の栽培に適した土地だと九峪から教えられたことがあった。
以前、未だ耶牟原城に居を構えていた頃から九峪は、九洲で茶葉を栽培したいと亜衣に語っていた。
嗜好品の乏しい倭国にあって、茶葉を入手するには、大陸まで出向かなければならない。しかし現在の大陸は、呉と晋が戦争を繰り広げている状態——つまり三国時代の終盤に差し掛かっている時期でもある。
入手は極めて困難。晋が呉を滅ぼすのは、まだ数十年先の話であり、そのことも、倭国の諸王たちはうすうす感じ取っていた。
だが、もしもこの貴重な珍品を、他ならぬ倭国内で手に入れることが出来れば。
こぞって買い手がつくのは明白、巨万の富が飛び込んでくる。
事実、亜衣の懐は大いに潤った。利益の幾つかは国庫に納められ、残りは農地の管理などにまわされた。
十二月、冬の関門海峡。倭国本土へと渡る貿易船に、この年に収穫・加工された茶葉が積み込まれていく。
茶葉は湿気ることのないように、粗めの麻袋に詰められる。船にはそんな麻袋が入った木箱しか載せられていない。
港には水夫たちの荒々しい掛け声が響いていた。九洲と本洲を繋ぐ彼らは、亜衣御用達の海人集で、『関門衆』と呼ばれた。
初めて他国に対して茶葉を輸出したのが、丁度昨年の十二月であった。荷を船に積み込むとき、亜衣は必ず、自分の目でその作業現場を視察することにしていた。
——自分が始めたことなら、それを自分の目で確かめ、見届ける。
——当事者の言葉を聴かないと、社会は不自由になる。
九峪はそう言って、よく視察に赴いていた。耶牟原城はもちろん、それぞれの県都、はては地方の村々に足を運んだこともある。
その度に亜衣は九峪の後ろをついていった。一人で行かせるのは不安だ、というのも理由だが、それ以上に、九峪の考えが知りたかったからだ。
どうすれば九峪のような考え方が出来るのか。あまりに独創的な思考理論は、どのような過程で生まれ出るものなのか。
それをつぶさに観察し続けてきた。
——国内が騒がしくなってからは、その機会もめっきりと減ってしまったのだが。それでも、亜衣は多くのことを学んできた。
自分の目で見なければわからないことは、余りにも多くありすぎる。机上の考えと現実の有様との相違はとても大きなものだ。
そのことを知ったからこそ、亜衣は、自らが手がける輸出業を自らの目で視察するように心がけている。そしてそのことが、類まれなる成功をもたらしてくれた。
亜衣の視線は、ずっと、出向のときを今か今かと待ち続けている商船に注がれている。
冬の港には、潮の匂いは余りしない。それでも、海に吹く風と言うのは、陸のものとはどこか違って匂えた。
視線を船から外し、広大な関門海峡へと向ける。浜辺独特の匂いと、凍えた潮風、それらが吹いてくる遥か向こうには、天目の治める出面国がある。
共和国が九洲を平定することが出来たのは、天目が出面国の奪還に乗り出したためでもあった。
耶麻台共和国の建国と、天目の離反。
帖佐が天目と通じたがために起こった泗国攻略の頓挫。
そして彩花紫による王位簒奪。
狗根国はその国力を著しく損ない、その隙を突いて、天目は天晴れ祖国を取り戻すことに成功していたのだ。
天空界へと旅立った天目は、それまで以上の存在感を持って生還してきた。そして耶麻臺 国を任せていた虎桃や案埜津など、親衛隊と兵士たちをつれて、出面へと軍を進めた。
戦いを終えて帰還してきた九峪たちは驚いた顔をしていた。何せ帰ってきたら耶麻臺 国との戦争が終わっていたのだ。皆の驚いた顔を、亜衣は一生かけても忘れることはないだろう。
これが耶麻台共和国の九洲平定、その全容である。
つまり、この関門海峡を越えた先には、天目を王とする新生出面国がある。そしてその出面国こそが、亜衣の取引先だった。
「亜衣様」
過去を振り返っていた亜衣は、自分を呼ぶ声で我に返った。
商船の船長が、出港の挨拶に来たのだ。船長は只深の部下であった。茶葉の貿易は亜衣による独占ではなく、商売のノウハウを持つ只深の協力あって実現した事業でもあった。
「荷積みが終わりました。昼までには出向したく思います」
「許可する。無事、荷を届けてくれ」
「かしこまりました」
深々と一礼して、船長はさっさと部下の元へと向かっていった。海の男の性格は荒く、またこざっぱりとしている者が多い。
船長も亜衣への挨拶をそこそこに済ますのがいつもの事だった。
水夫たちがぞろぞろと船に乗り込んでいくのを見届けて、亜衣も港里へと向かった。波は穏やかで、あの船長ならば、昼と言わず直ぐにでも出向するだろう。
これ以上、ここにいる必要はなかった。
砂浜が途切れると、そこから先は草木の世界となる。その更に向こう側は集落となっている。
集落には亜衣の部下が数名ほど待機していた。名目は道中の護衛である。その中には衣緒の姿もあった。
「お姉様」
「衣緒、帰るぞ」
そういって、亜衣は馬の背に跨った。一段落ついたからといって、茶の一杯も飲む気はなかった。
衣緒や部下たちも慌てて馬に跨ると、すぐに亜衣の後を追いかける。
「何もそんなに急がなくてもいいではないですか」
馬を寄せて、衣緒は少しだけ口を尖らせた。亜衣のために茶を一杯点てようと思って準備していたのに、それが台無しになったのだ。
茶葉の栽培に成功してからと言うもの、お茶はそれまで以上に幹部の間に浸透していった。茶葉は輸出するだけでなく、国内の財政を循環させるために、豪族の間にも手広く回されていた。
衣緒は仕事の傍らで、茶の点て方を研究していた。只深から大陸式の茶を教わり、九峪もテレビなどで見た茶道の所作を、衣緒に吹き込んでいた。
そのため、衣緒の茶の点て方は非常にちぐはぐなものとなったが、それでも飲んでは美味しいのだから、何とも不思議なことである。
「帰ったらいくらでも飲んでやる」
「・・・・・・それではまるで私が、無理やり飲ませているようではありませんか」
「頼んでもいないのに淹れてくれるからな。まったく・・・・・・ああも用を足しに行っていては、仕事どころではないぞ」
「そんなに淹れているかしら」
小首をかしげる衣緒を、亜衣は恨めしそうにねめつけた。
仕事の合間に入れられるお茶はたしかに美味い。疲れた脳も、固まった筋肉も、張り詰めた精神も、全てを癒しほぐしてくれる。それも妹が手ずから淹れた茶だとすれば、また別格である。
しかし、一度でも『美味い』と言ったのが、亜衣の最大の失敗だったのだろう。
酷いときには、四半時ごとに茶を持ってこられたこともあった。亜衣に褒められたことがよほど嬉しかったのだ。
「お前の茶は美味いさ。ああ、美味いともさ。だがな、私にも仕事はある。お前の仕事は茶入れか?」
「平和な世になりましたから、それも良いかもしれませんね」
口に手を当てて、衣緒はくすくすと小さく笑った。まったく堪えた様子のない笑みに、亜衣はため息をついた。
随分と口達者になって・・・・・・。交渉の際に、衣緒をよく護衛として伴ってきたせいか、口芸も多少は覚えてきたようだ。
最近では、亜衣の口撃にも、やんわりと返すようになってきた。
頼もしくはなったが、何故だろう、亜衣は寂しさも感じるようになっていた。時世の移り変わりを、衣緒は亜衣に見せ付けていた。
平和になった・・・・・・——。その言葉も、また、亜衣の心をぎゅっと締め付けた。
亜衣は、つい昔のことを、思い浮かべた。
「衣緒・・・・・・戦がなければ、それは平和なのか」
しん、とした言葉だった。どんな思いが込められたのか、低く呟かれた言葉だ。
尋ねられた方の衣緒は、一瞬、瞳をきょとんと丸めていたが、さもおかしそうに笑むと、
「何を言っているのです、お姉様。戦があれば戦乱、終われば太平。すなわち平和ではありませんか」
ふと、視線を周囲に向けた。畦道の脇には、どこまでも広がる田と畑が見えた。
「百姓が持つのは、剣ではなく鍬となり、矢が射るのは人ではなく野の獣。戦が終わり、人と人とが争わなくなりました。それが平和です」
「そう、戦は終わった。だが、人は剣を、弓を、言葉に変えて・・・・・・争っていた。つい最近までな。それは平和か」
「それもまた、終わったことです。・・・・・・九峪様が、還られたから、人々に笑顔が戻りました」
ついっと、衣緒は声の調子を下げて、空を仰ぎ見た。
九峪はどこにいるのか。もうこの空の下にいないことだけはたしかだ。
衣緒が九峪の帰還を知らされたのは、お触れが下ったときだった。最初は冗談かと思った。
あの九峪が、別れの挨拶もなしにいってしまったのだ。三日三晩、頭を駆け巡るのは九峪のことばかりだった。
ただ、九峪がいなくなって、民衆が落ち着いて——そうして平和になって、衣緒は思った。
——九峪様は、最後のお役目を全うされたのだ、と。
九洲太平は、九峪の帰還によって完了された。神の遣いは、この瞬間、ある者にとっては神そのものとなった。
その平和が、平和でないはずがない。
「人が笑めば、平和か」
「左様でしょう。九峪様の残された平和です」
「ならば・・・・・・」
亜衣はうつむいた。握る手綱が、手のひらの中でぎゅっと締められた。
「私の平和は、いずこに・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・なんでもない!」
切り捨てるようにいって、鐙にかけた足で馬の腹を蹴った。
ヒィンッと馬が嘶いて、鎚を跳ね上げ駆け出した。腰を僅かに上げ、前傾に身体を傾けると、風が耳を掠めていった。
「お姉様!?」
「あ、亜衣様!?」
衣緒や部下たちが驚いて声を上げた。
「お前たちは先に帰れ!」
「どこへ行かれるのです!?」
「所要だ、ついて来るな!」
そう言葉を残して、亜衣の姿は藪道のなかに颯爽と消えていってしまった。
いきなりのことに、衣緒はおろか、誰もが後を追うことが出来なかった。しかし気づいた時には、もう亜衣の姿は林の向こうに消えていた。
ダダッ ダダッ
蹄音を響かせて、亜衣の駆る馬が道という道を駆け抜けていく。街道、畦道、小道、獣道——。
ただただ、最短の道だけを選んで、そこだけを通って豊前を抜け、日がもっとも高いところに来る頃には豊後を越え、沈み始めた頃になって、ようやく火後にたどり着いた。
途中の集落で松明を貰うと、亜衣はそのまま阿蘇の山に入っていった。途中までは人の通る道にそって馬を進めていたが、辺りが真っ暗になると、馬から下りて、明かりを頼りに進んでいった。
「・・・・・・さすがに、寒い」
かじかむ身体を温めるのは、一本の松明の温もりだけ。
季節は十二月。雪が彩る阿蘇ともなれば、亜衣の格好は軽装以外の何物でもない。
もう少し厚着すればよかったと思い始めるが、亜衣自身、ここには半ば衝動的に足を運んだのだ。
もともと、来るつもりなどなかった。なのに寒い思いをしてまで、こんな軽率な行動に出たのは、衣緒との会話が原因だった。
寒い。それは、身体もそうだし、心もそうだった。身体は今寒いが、心はずっと前から寒かった。
「平和は・・・・・・私の平和は」
サクッと雪を踏みしめる音。松明の明かりに照らされ浮かび上がる木々の列。
迷って当たり前な道を、亜衣は淀みなく進んでいく。いつしか、馬の手綱を放していた。走り去る音すら気づかなかった。
ただ一心に歩み続ける。
「あっ・・・・・・」
不意に呟いた。闇の向こうに、明かりが灯っているのが見えた。
見えた。見えた。見えた!
そう思った瞬間、亜衣は知らず駆け出していた。凍えて震える足は、今にも縺れてしまいそうだ。呼吸は乱れ、炎は不規則にゆれている。
気持ちはただ明かりにしか向いていない。足元の木の根に躓いて、前倒れに転んでも、亜衣の瞳は変わらず明かりに向けられていた。
立ち上がり、雪もほろうこともなく、また駆け出す。ずれた遠眼鏡もそのままに。
広い空間に出た。家があって、小屋がある。
亜衣は家の戸の前までくると、戸に手をかけようとして——ようやく、自分の格好に思い至った。
雪と泥で汚れた服と顔。
しまった——何という格好!
衝動的とは言え、まさかここまで我を忘れるとは。
どうしよう。亜衣は戸を前にして逡巡した。このいっそはしたない格好を晒すべきだろうか。
しかし変えの服はないし、湯につかろうにも、それもまた戸の向こう。引き戻す気にもなれなかった。
ひゅうっと、寒風が亜衣を震え上がらせた。
——この寒さが、全て悪いんだ!
自分でもよくわからない言い訳をして、亜衣は息を呑んで戸を軽く叩いた。
ガタッ
内部から音がした。しかし返事は返ってこない。明かりもあり、人がいることはたしかだが。
亜衣はしばし返答を待ったが、まだ声はかからない。しかたなく、もう一度、亜衣は戸を叩いた。
——早く出てきてくれ。凍え死んでしまう。
震えながら寒風に耐えていると、ふと、戸を隔てて人の気配が感じられた。息を潜めて警戒しているのが、亜衣にも感じられた。
「——・・・・・・何者か」
女性の声である。
「王都宰相執権、宗像の亜衣である」
「ッ!! あ、亜衣様で」
慌てたような声が聞こえてきたかと思うと、戸が思い切りよく開かれた。ぱっと目の前が明るくなり、そこには、剣を持った女性が立っていた。
「亜衣様。このような夜分遅く、如何なされました」
「それは後で話すから、まずは中に入れてくれ。外は寒すぎる」
「し、失礼いたしました! どうぞ、お入りくださいまし」
女性が亜衣を家の中に招きいれ、戸を閉めた。
家の中はよく暖められており、まるで鳥の羽に埋もれたように、優しい温もりが亜衣の冷え切った身体を包み込んだ。
ほっと、息をはいた。今にも体から力が抜けて、腰砕けのようにへたり込みそうになるが、それを意地でもって押さえつけた。
「まぁまぁ、何と言うお姿を。山賊にでも襲われましたか」
泥に汚れた亜衣の姿を見た女性が目を丸くした。良く見ると、服装も違和感があった。あまりにも薄着に過ぎるのだ。
宰相とあろう者が、供もつけず、雪の積もりし夜の阿蘇を、この様な姿で登るものだろうか。
しかしそうは思うとも、亜衣をこのままの姿で置くわけにはいかない。ここにはあの方もいるのだから。
「お寒うございましょう。丁度、湯を張っております。いささか手狭でありますが、お入りください」
「ああ・・・・・・そう、させてもらう」
「さあさ、こちらにございます」
女性の導きに、亜衣は素直に従うのであった。
浴室は白亜の世界だった。戸を開けた瞬間、逃げ場を知らなかった湯気たちが、一気に外へと飛び出した。
生まれたままの姿となった亜衣の身体を覆いつくし、すり抜け、目の前に湯船が現れた。
服を脱いだことで、肌に直接寒気が刺してくる。急くように湯船に足を入れると、今度は別の痛みが亜衣の身を振るわせた。
「ッ〜〜〜はぁ」
ゆっくりと湯の中に身を沈め、安堵の吐息を漏らす。じんわりとした慈しみが、体の芯にまで広がるようだった。
ほぐされていく。身も、心も。そうしてたゆたう湯に浸かっているうちに、なぜ自分はここにいるのかと、ふと思った。
「・・・・・・何をやっているんだ、私は」
本当に、何をやっているのだろう。ただ商船の荷積みを視察しにきただけなのに、一人おわれるように馬を走らせ、何の準備もなしに、雪の阿蘇を登るなど。
いまごろ、耶牟原城の者たちは心配しているだろうか。茶器を前に寂しく佇んでいる衣緒の姿が、瞼の裏に浮かんでは消えた。
仕事もまだ残っているはずなのに。なぜ自分はこんなことをしてしまったのだろう。
——どんな顔をして会えばよい。
「亜衣様。湯加減は、如何ございましょうや」
女性に声をかけられ、亜衣は我に帰った。
「あ、ああ、悪くない」
「それはようございました。ただいま夕餉の支度をしておりますゆえ、お着替えは手伝えませぬ。申し訳ありませぬが」
「よい。それくらい自分で出来る。それよりも、もう戻っていいぞ」
「はい。では」
壁を隔てて、女性が頭を下げたのが、なんとなくわかった。気配が消えると、亜衣はもう一度ため息をもらした。
湯から上がり衣服を纏い、居間に顔を出すと、良い匂いが鼻腔をくすぐった。これは——魚の塩焼きか。
火桶の前に、お膳が二つ並べられていた。米に、塩漬けの野菜、そして干し魚の塩炙り。
宮殿に並ぶ料理にはひどく劣るが、どれも美味そうだ。
家の主はいまだ姿を見せていない。かってに腰を下ろしてもよいものだろうか。
しばらく、そうして迷っていると、土間から女性が徳利と猪口を持って姿を現した。
「ああ、亜衣様。どうぞ、お座りください、どうぞ」
勧められて腰を下ろすと、女性はまたすぐに別の部屋へと向かっていった。
ひとり残されて、亜衣は黙って佇むしかなかった。ここには過去、なんどか足を運んだが、食事を振舞われるのはこれが初めてだった。
なんとなく、辺りを見回してみる。相変わらず質素なつくりに、質素な風景だ。調度品の類はなく、しいて言えば、銅鏡があるくらいか。
この家の主のことを考えると、もっと豪勢をしてもいいはず。それでも、ここまで質素な生活をおくるのは、それが限界だったからだ。
亜衣にはこれが限界だった。
「これで恨まないと言うのだから、ほんとうに、お人よしで・・・・・・」
ふっと、自嘲気味に呟く。地位も暮らしも貶められ、それで怨まぬこの家の主。
まるで、その人の良さにつけこんでいるような、そんな自責の念すら湧いてくるようだ。
にゃー
「ん?」
突然、猫が亜衣の隣を通り過ぎた。
「猫? なぜ、猫がこんなところに」
首を傾げるが、それに答える猫ではない。悠々と家の中を歩く猫だったが、亜衣の対面にあるお膳の茣蓙の上で丸まった。
亜衣の目がわずかに細められる。
「・・・・・・そこに落ち着くか。山猫風情が、良い度胸だ」
つまみ出してやる! 亜衣は立ち上がろうとして ——その時、戸が開いた。
咄嗟に顔を向けて、亜衣は慌てて姿勢を正した。
そこには男が立っていた。
「悪い悪い、なかなか切りの良いところで終わんなくてさ」
気さくに、男はそういった。亜衣は顔を上げず、ただ、もう一度、深々と頭を下げた。
畏まる亜衣に男——九峪は、肩を竦めるしかなかった。
九峪をこの阿蘇山に渡してから、亜衣はいつも一歩引いた接し方をしてきた。それが後ろめたさから来るものなのか、九峪にはよくわからなかった。
猫をどけて、茣蓙の上に腰を下ろす。猫は不満そうに鳴いたが、すぐに、九峪の隣に座り込んだ。
「お前はほんっとうに図々しいやつだな」
なー
猫は鳴いただけだった。それが九峪には、
——うるさい
と言っている様に聞こえた。
「あの・・・・・・九峪様。その猫は」
顔を上げた亜衣が、困惑気味に尋ねてきた。
「ああ、こいつか。さあなぁ・・・・・・俺にも良くわからん。気がついたら、居座っていた」
「以前おもむいた折、見かけませんでした」
「たまたまいなかったんだろ。猫だからさ、気ままなんだよ」
しょうがないヤツだと、九峪は苦笑しながら猫の顎を撫でてやった。ゴロゴロと喉を鳴らしながら、猫は目を細めていた。
随分と人間に馴れているな ——・・・・・・。見たところ、この猫は山猫。街にいる猫とは違う。
街の猫は中々人に懐かない。山の猫は、それ以上に懐かない。
それをこうまで飼い馴らすとは、さすがは九峪様・・・・・・と、思えば良いのだろうか。
昔から不思議な力をもった人だったが、いまだ健在ということかもしれない。腐ろうとも落ちぶれようとも、神の遣いは神の遣いだった。
「ま、こいつのことは気にしないで、飯にしようか」
笑顔で言われて、亜衣はもう、この山猫のことを気にしないことにした。考えても所詮は山猫のこと、詮無いことだ。それに——見ていると、なぜか腹が立ってくる。
猫はずっと九峪の隣で毛繕いをしている。まるでそこにいることこそが当たり前だと言わんばかりに、自然な在り方だった。
それが気に入らなかった。
そんな亜衣の気持ちを知ってか知らずか、猫はのん気に欠伸などをしている。その隣で、九峪は猪口を亜衣に差し出していた。
「さ、まずは一献」
「・・・・・・はっ」
受け取った亜衣は、猫のことを頭の片隅に追いやり、熱い一献を喉に流し込んだ。
口から杯を離し、ふぅっと吐息を漏らす。思いのほか身体は疲れていたのだろう。湯に入って表面に現れた疲労に、酒の味は心地よかった。
「はは、さぁもう一献」
「いえ、そんな・・・・・・私ばかり」
「気にすんなって」
浮かれたように笑みを浮かべて、九峪は亜衣の杯に、酒を並々と注いだ。
強く断ることも出来ず、再び酒を喉に通す。やはり心地よき喉越しが身体を温める。
二、三年ほど前からのことだった。誰かと酒を飲むとき、九峪は酌を『受ける』側から『する』側に回るようになっていた。
最初は場の雰囲気を考えて、神の遣いらしく酌を仰いでいるが、宴も中ごろになると、席を立って酒を振舞う姿が見られた。
亜衣も何度か、九峪より酒を拝したことがあった。亜衣だけではない、伊雅や、知事たちも。例外は羽江などの年少組や、あとは志野くらいの者だ。
さりとて、亜衣はいまだ、この九峪の酌に慣れないでいた。それをお構いなく注いでくるのが九峪と言う男でもあった。
「まぁ一杯」
「それもう一献」
と、まるで酔わせることが目的かと勘繰りたくなるほど、自ら飲むよりも勧めることが多い。
自然、亜衣も、
「——ヒック」
すっかりいい塩梅に出来上がっていると言うわけである。
飯も平らげ、食器は当の昔に下げられている。
火桶を前にした亜衣は、その炭の明かりに負けぬほど赤々と頬を染め、九峪も、ほろ酔い程度に酒が回っていた。
自分で自分の杯に酌をして、それを喉に流しとおす。
さしたる会話はなかった。九峪は一献、二献と酒を仰ぎ飲み、時々、亜衣に酌をしてやった。
トクトクと注がれる酒を、亜衣は黙って見つめていた。
「・・・・・・何も、お聞きにならないのですか」
「ん?」
「突然の訪問・・・・・・さぞ、驚かれたことでございましょう」
「ああ、そうだな。冬で夜の阿蘇を、火も持たず、たった一人で来たんだってな。しかも薄着で。・・・・・・正気の沙汰とは、思えないよな」
「お恥ずかしい限りです」
「よほど亜衣らしくない。俺はてっきり、狗根か琉球が襲ってきたのかと思ったぞ」
「・・・・・・」
亜衣はもう、何も応えることが出来なかった。まさか冗談だとは思うが、九峪の口からこれほど物騒な言葉が飛び出てくるほど、亜衣の来訪は以外に過ぎるものだった。
どう九峪に顔向けすれば良いのか、酒で緩くなった頭は教えてくれなかった。ただ杯の水面に揺れる自分の顔を見つめるほかなかった。
——呆れられてしまった。そんな思いが湧き上がって来た。かつての右腕が、なんという醜態を晒したことか。
情けなくて涙が出てきそうだ。
俯いて黙り込んだ亜衣を、九峪は優しげな瞳で見つめている。
酒に浮かぶ自分の顔に、いったい何を見ているのか——・・・・・・。同じように、酒に浮かぶ顔を見て、九峪は心の中で呟いた。
「・・・・・・そういえば、亜衣と酒を交わすのも、久しぶりだな」
ふと呟かれた言葉に、亜衣は顔を上げた。
「俺がここ(阿蘇山)に来てからも、亜衣とは何度か会っているのに、いつも事務的な感じだったからなぁ」
「はっ・・・・・・」
「政治や皆の様子を教えてくれる。ここだとどうしても世情に疎くなりがちだから、それはすごく有難いけど・・・・・・すこし、寂しい」
——寂しい。その一言に、亜衣は思わず九峪の顔を見つめた。
霞んで見えた。笑顔の似合う男だったのに、どうしてか、その笑みには翳りが見て取れた。
目を逸らしたかった。九峪のこんな笑みは見たくなどなかった。九峪は何時だって、笑顔でいなければならない男なのだ。
それは、あの——この阿蘇山でともに過ごした日々の間に、嫌と言うほど思い知ったはずだ。
なのに、目を逸らせない。逸らしてはいけないと、亜衣の中の奥深くにある後悔が、それを許さないでいた。
この苦しみを背負って生きる。それが決意だったから。
「・・・・・・私を、お恨みでございますか」
自然とこぼれた言葉だった。言ってしまった瞬間、しまったと、咄嗟に口元を手で覆った。
—— 何と言うことをッ!
あまりに迂闊な自分を呪った。しかし放たれた言葉は、決してもみ消すことなど出来ない。
だが、九峪はおかしそうに笑った。
「ははっ。・・・・・・その質問は二度目だな、亜衣」
ふうっと息をついて、九峪は天井を見上げた。
「・・・・・・恨むんなら、それ以上に楽なことはない。恨めるんなら、それ以上に楽なことはない。でも俺に恨む資格があるのなら、俺には、同時に恨まれる理由がある。・・・・・・この答えも、二度目だ」
言って、酒を仰ぐ。
数ヶ月前の問答を、そのままそっくり繰り返している。不思議だと、九峪は飲みながら思った。
亜衣が何かに追い詰められている。それはわかっていた。その何かが、亜衣をここに連れてきたのだろう事も。
しかしそれが何なのか、九峪にはいまいちわからなかった。論争が収束していき、諍いの種もいまや山の木の一本となっている。
亜衣を悩ませ煩わせるものは無くなった筈だ。——亜衣は何に脅えている。
それが知りたかった。しかし聞けなかった。無理に問いただしても、逆に亜衣を苦しめるだけだと思ったからだった。
だが、何もわからない九峪だが、全てがわからないわけではない。亜衣の中にある後ろめたさ・・・・・・それだけは、いくら九峪でも察しがついている。
自分を許せない亜衣。それもまた、亜衣を脅えさせる原因の一つかもしれない。それは、九峪がどうこうという問題ではないのだ。それは、九峪にしても同じことであった。
「悪循環だな、俺たちは。堂々巡りだ。恨まれないと恨めない。恨むと相手に恨まれる。自分が許せないと・・・・・・相手も、自分を許せなくなる」
「・・・・・・」
「鶏が先か、卵が先か・・・・・・。俺が自分を許せないから、亜衣も自分を許せないのか。それとも、亜衣が自分を許せないから、俺も自分を許せないのか」
「九峪様は、なにも悪くありません」
「なら、亜衣も何も悪くない」
まっすぐに見つめ返されて、亜衣は息を呑んだ。
いつのまにか、九峪の表情からは、翳りのある笑顔すら消え去っていた。どこまでも真摯な瞳で、まっすぐに亜衣の瞳と繋がっていた。
二十歳を越えてから、九峪は時々、こんな瞳をするようになった。不思議な力の宿った瞳をするようになったのだ。
見つめられると、体が石のように固まってしまう。亜衣は九峪に呑まれていた。それなのに、そのことに恐怖を感じなかった。
「全ては終わったことなんだ。亜衣が思い悩むことは何もない。やるべき事を成した、それでいいじゃないか」
「私は九峪様に、このような侘しい暮らしをさせたかったわけではありません。こんな・・・・・・」
真っ赤な顔で部屋中を見回すと、
「こんな、何もない、不自由な暮らしなどッ」
まるで吐き出すように、亜衣は激情を吐露した。持っている杯が砕けそうなほど、小さな手は行き場のない力に震えていた。
亜衣から見ても、ここの暮らしはさぞ不自由なものだった。九峪の行動圏は家の中がほとんど。
仮に外に出たとしても、周囲の開けた範囲のみに留められている。それ以上そとに出ると、人の目に触れる危険性があったからだ。
幽閉ともいえそうな軟禁生活。普段九峪が何をしているのか、亜衣はこの家で働く女中から一応は聞かされていた。
日がな一日、本を読み、同時に何かを認めているらしい。手紙ではなく、どうも書物の類のようだ。日記かもしれないが、九峪には、それくらいしかやれることがないのだ。
自由のない暮らしだ。かつて隆盛の頂点にいた男の、これが今の現実なのだ。おおよそ、九峪には似合わない生活だ。
「私は九峪様が、耶牟原城に居られるように・・・・・・したかった」
「それが、亜衣の望んだ結末なのか」
ふぅっと、九峪は息をはいた。
——亜衣を苦しめる理由は、前から、何も変わってはいない。素直にそう思った。
火魅子を救い、神の遣いをも救う。その結末こそが己の望む結末だと、そう語ったのは他ならぬ亜衣だった。
九峪は救われたと思っていた。たしかに自由のない暮らしだが、心は解放されたのだ。
だが亜衣は——亜衣にとっては違った。重要なのは、九峪が『神の遣い』でいられない事にあったのだ。
それが亜衣にとってどういう意味を持つのか。現状の何が亜衣の不満になっているのか。
ようやく——・・・・・・うすうす、わかりかけてきた。都の庭園で抱き合ったあのときから、今の亜衣の言葉まで。
自惚れでなければ、繋がる。亜衣の気持ちが。自分の気持ちが。
だから亜衣には・・・・・・救われてほしかった。
「諦めなかったから、今がある。今があるから、こうして会える」
空になって久しく感じる杯に、酒を注ぐ。
波揺れる杯を、亜衣に掲げてみせる。
「この酒と同じさ。酒があるから呑む、呑むから酒を注ぐ。この循環と同じで、今があるから会える、会えるから今を紡げる」
「循環・・・・・・」
亜衣の呟きに、九峪はにやりと笑って酒を飲む。そしてもう一度注ごうとしたとき、酒は杯の半分を満たさずに枯れ果てた。
「・・・・・・酒がなくなったな。これじゃあ注げない。循環の終わりだ」
「この酒は、もう、呑まれることはない」
「そう、呑んで注ぐ循環は終わった。だったらさ、亜衣。俺たちの循環の終わりは何なんだろうな」
「それは・・・・・・」
尋ねられても、亜衣にはすぐには思い浮かばなかった。
酒は枯れた。故に注げず、故に呑めぬ。
人の循環はどうだろう。どうすれば会えなくなる。どうすれば今を紡げなくなる。
何が尽きれば、そのようになってしまうのだろうか。
——そんなもの、一つしかない。
「・・・・・・命、尽き果てたとき」
亜衣の一言に、九峪はふっと微笑を浮かべた。
「俺もそう思う。死んだら元も子もないからな。でも、その逆もまた然り、だろ? 生きているのなら、生きている間、いくらでも会える。会えるんだ」
「九峪様・・・・・・」
「生きて会える。それ以上は望まない。俺は・・・・・・亜衣が来てくれるのを、いつも楽しみにしている」
はっと、亜衣の心に響く何かがあった。
いつか、亜衣は、九峪の言葉を思い出していた。庭園で抱きしめられたときの、九峪の言葉を。
——俺を、まだ必要としてくれる人たちがいる。
——亜衣がいる。
九峪様に必要とされている。恨まれて当然だと思っていた自分を、まだ必要だといってくれた。
亜衣がここに足を運んできたのは、いつも実務的なことばかりだった。それ以上のことも、想いも、全てを切り捨ててきた。
そんな資格はないと思っていたから。
でも、九峪様は——
「今日はもう遅い。外も真っ暗だ。泊まっていけよ」
「あ、は・・・・・・はい」
たしかに、もう夜中も夜中。これからは肉食の獣が動き回る時間だ。そうでなくても、夜の山は危険に過ぎる。
馬もとうの昔に失っている。足なくして、もはや阿蘇を下ることなど出来はしない。
結局のところ、亜衣にはここで、夜を越す以外には出来ようもないのだ。
以前ならば、何としても辞していたことだろう。一晩といえども、一つ屋根の下に九峪がいるとすれば、夜明けまで己への責苦に苛んでいたかもしれない。
だが何故だろう。今夜、亜衣の心は軽かった。全てを許したわけではなくとも、この夜に亜衣は、ようや一つを許すことが出来た気がした。
「さてと、それじゃあ、寝具の仕度をさせないとな」
話も終わりと見るや、九峪は侍女に布団を出すように言いつけた。ちょうど、代えの布団が一組だけある。亜衣にはそれを使わせるつもりだった。
九峪は自ら立ち上がると、身体を伸ばして、腰を左右に捻った。酔いのせいか、一瞬だけ体が傾いた。
「ゆっくりしていけ」
そうだけ言い残して、自室に引いていく。残された亜衣は、九峪の消えた戸の向こうに、一礼した。
その様を、猫は、欠伸をしながら見つめていた。