「右舷から寄せろ、左へ追い込め!」
「接舷だ接舷! 橋掛け用意ッ!」
薩摩県沿岸。
岸より六里ほど離れた海域で、六隻の船が右へ左へと円を描くように追いかけあっていた。
二隻は耶麻台共和国の国旗、『日輪巴』と、県知事である香蘭の紋章が描かれた紋旗が翻っている。残りの四隻には、二つの山頂の上に輝く三日月の紋章が描かれた旗がいくつも風に揺れている。
——『二山月牙』。琉球島の三大勢力が一つ、北山の紋章である。
共和国の軍船が北山の船に船体を寄せている。矢が飛び交う中、船首を相手の船首と平行にあわせ、鎖鎌で互いを密着し固定させる。
接舷が完了すると、つり橋を相手の船に掛ける。三十人ばかりの共和国軍兵士たちが、弩等のように北山の軍船に乗り込んでいった。
悲鳴が上がり、剣と剣がぶつかり合う音が響いてきた。広くない甲板の上で、何十人もの人間が押し合い圧し合い争っている。
「ッ! 船頭、一隻だけこっちに向かってくる!」
共和国の軍船に残っている見張りが叫んだ。右舷から、北山の軍船が近づいていた。
「やっぱり、二隻だけじゃあ・・・・・・」
「泣き言いってんな! 弓矢で寄せ付けるなッ!」
「ゆ、弓を引けーい・・・・・・放てェ!」
十数の矢が敵船めがけて降り注ぐ。しかしその倍以上の矢が、敵方から放たれてくる。
接近を防ぐどころか、またたくまに弓兵たちは矢の餌食とされていった。
逃げようにも、こちらは別の船と接舷している。ましてや味方はいまだ敵船の上で戦っているのだ。
「く、くそぉ・・・・・・ッ」
船に鎖鎌を掛けられ、船頭は悔しさも露に唇をかみ締めた。橋を掛けられるのも時間の問題であった。
「官人どもが、余計なことをしてくれたッ!」
橋が掛けられ、敵の兵士たちがこちらに向かって攻め入ってきた。
船頭は剣を構えると、「これまでか」と一言呟き、敵兵の中へと踊りこんだ。
命を絶たれるのに、そう長い時間は掛からなかった。船は占領され、戦っていた兵士たちも、動揺のうちに尽くが殺された。
共和国の軍船は、わずか一刻ほどで、完全に沈黙してしまうのであった。
薩摩県、鹿児島城。旧国都である国分城に代わって、薩摩政庁の要となった主要都市である。
一般の城郭都市とは異なり、鹿児島城は『複数の村落の集合』から成り立っている。
薩摩県——旧南火向国は、いわゆる『シラス』と呼ばれる地質の土壌が、領土の大半を占めている。
遥か昔、錦江湾の姶良カルデラの噴火による火砕流が、南火向をシラス台地に形作ったためである。
シラス土壌は石灰性——つまり水分を吸収せず、すべて地下深くの地層や海に逃がしてしまう。稲作には向かないのだ。
そのため、昔から南火向では、税として治める米や麦の代わりに、豆を国庫に納めてきた。薩摩県での主な生産品は、豆、粟、稗などの水分を多く必要としない穀物、甘いも(薩摩芋)や大根などの根野菜であった。
財政はふるわず、新城建設といえども、そんな金は捻出できない。そこで紅玉が考えたのが、故郷である大陸で作り出された世界最大の建造物、
——万里の長城
の建設経緯を模倣するというものだった。すなわち、村落同士を城壁でつなぎ、一つの集落を砦とみなした巨大な『集合都市』にすることであった。
こうして生まれた鹿児島城は、同時に兵士たちの一大鍛錬場でもあった。
農耕の振るわない薩摩県は、以前から漁業が盛んであった。海の男は性格が荒い者が多く、作物の凶作地帯で生まれたことの不満も手伝い、薩摩県の人間は性格的に乱暴な者が多かった。
それらを束ねるのが、共和国きっての最強武将、
——香蘭・紅玉
親子である。
鹿児島城でこの二人に、心身ともに鍛えられた荒くれ者の薩摩兵士たちは、数は少ないものの、今や九洲一の精強さを誇る精鋭となっていた。
その精強な薩摩兵士に守られる薩摩県沿岸で、いっそ気味の悪い異変が起きたのは、元星五年一月のことであった——。
元星五年に入ってから、紅玉と香蘭は、ある一つの問題に頭を悩ませていた。
文官と武官の対立に端を発した論争や暴動が明けて、ようやく順調に廻り始めた矢先の出来事。
こともあろうに、薩摩県は、外敵の脅威に晒されていたのだ。
舞台は海域。薩摩県の有する警備艇が、たびたび襲撃を受けるというものだった。
紅玉たちは最初、これを海賊の蛮行だと思っていた。しかし精強が売りの薩摩兵士が、尽く全滅の憂き目にあっているのだ。
おかしい、と思うのに、そう時間は掛からなかった。そしてまさか、と思うのにも、やはり時間はかからなかった。
『二山月牙』——北山。矛先を九洲に向けてきたのだ。琉球島の民は海の民。中には、生涯の四分の三を船の上で過ごす民までいるという。
母の腹の中で海の民の声を聞き、船の上で産湯につかり、大海に抱かれながら生れ落ち、波の音を子守唄に聞きながら育った。——九洲の『海人』よりも、海との繋がりが深い民である。
そんな連中を相手に、海戦で勝てるわけがない。薩摩は早急に、この問題に対処しなければならなかった。
鹿児島城の中枢、薩摩荘(さつまのしょう)。田畑の類は一切なく、役人や兵士のための宿舎がおよそ二百棟、木造の質素な宮殿、そして兵士の鍛錬城があるだけの、まさに政庁機能重視の里である。
その薩摩荘に重然が呼び出されたのは、元星五年三月。まさに北山の警備艇襲撃が問題となっているときだった。
「香蘭様、紅玉様。石川島の重然、まかりこしました」
『知事の間』で、上座に佇む香蘭と、その斜め向かいに、同じように佇む紅玉。そして二人の役人、三人の武人。それらを前に、重然は畏まり平伏していた。
九洲解放戦争からの付き合いだが、形式的な挨拶には、紅玉も重然もうるさかった。これが、紅玉親子だけが相手であればまた違うのだが、ここには役人も武人もいる。示しがあった。
だがそれをまだ気にかけないのが、香蘭である。
「顔を上げるよ、重然」
「へい」
顔を上げると、そこには、昔より少しだけ大人びた表情の香蘭がいた。香蘭も今年で二十三歳。倭国語になれた香蘭は、信じられないほど知的な女性になっていた。——昔に比べて、という前置きは必要だが。
もともと、幹部の皆が思うほどの馬鹿娘ではないのだ。
ただ倭国語の拙さが災いして、身体言語で意思を表現するしかなく、その結果として他者から『内面は幼い』という印象を持たれてしまっただけなのだ。
とはいえ、「では元から知的なのか」と言われれば、紅玉は香蘭の頭を、それこそ頭髪が全て抜け落ちるほど叩いて否定することだろう。
他の者に比べて、香蘭の『おつむ』は間違いなく足りていなかった。そして今も、まだ足りていないと、紅玉は思っていた。
それでも、こういう場で会談する程度には、なにも問題はない。足りない部分は、他でもない紅玉たちが補えば良いだけ。香蘭にはそれだけの能力は備わっていた。
重然も、そのことは遠く前からわかっていた。驚くことはなかった。
「久しぶりね、重然。元気にしてたか?」
「へい。今は穏やかなもんですが・・・・・・。陸が豊作なのに比べて、海はいまいちでさ」
「不漁か?」
「いやいや、そんなことはありやせん。ただ、昨年は暖かかったから、魚がさっさと北に逃げちまったんでさ。今年ももう暖かい。情けねぇ話ですが、今年は見事に、鯛や鰤の捕らえ時を逃しちまいやした」
頭を掻きながらそう言った重然は、まいったとばかりの苦笑いだった。
「そか・・・・・・それじゃ、今年は鯛、食べれないな」
「面目次第もありやせん」
残念そうな香蘭を見ていて、重然も本当に申し訳ない気持ちになった。香蘭は、食べるときはとにかく美味しそうに、呑むときも美味しそうに呑む女性である。
鯛や鰤の塩焼きを、あんなに美味しそうに頬張ってくれるのならば、海人冥利に尽きるというものだ。
「・・・・・・おほん。お二方、挨拶はそれほどで」
ずっと静観していた紅玉が、話の区切りをついて相槌を打った。これ以上しゃべらせていては、話が進まないと思った。
「おお、そだった。重然、実は頼みがあるんだけど」
「・・・・・・へい。何で、御座いましょうや」
香蘭は紅玉に目配せをした。紅玉は静かに頷いた。
「重然。ここ最近、我が薩摩の沿岸で起こっている異変、聞き及んでいますね」
「もちろんでさ、紅玉様。海賊が暴れているとか」
「海賊ではありません。いえ、私たちも、最初はそう思っていたのですが」
「・・・・・・海賊でなけりゃあ、何ですかい」
「重然、しらないのか?」
香蘭が驚いたように目を大きくした。石川島海人衆の頭領である重然のことだから、てっきり知っているものとばかり思っていたのだが。
当の重然も、怪訝そうに眉間に皺を寄せていた。
薩摩県で、ここ最近、海賊が横行しているというのは聞いていた。商船や薩摩の軍船が襲われているらしい、と。
だが、どういうことだろう。紅玉の様子からすると、海賊ではないようだ。
ではいったい、何が商船や軍船を襲っているのだ?
「どうやら、知らないようですわね」
「・・・・・・薩摩で、何が起こっているんです」
重然の表情が、にわかに険しくなった。薩摩以南の海域で、海賊以外の武力といえば——思いつくのは、二つ。
一つはとてつもない脅威、一つは劣るもやはり脅威。
——大陸か、琉球島か。
「北山の旗を掲げた船舶が、我が薩摩の警備艇、果ては商船を襲撃しているのです」
「北山・・・・・・琉球島の、北山で」
「二月ほど前からでしょうか。対処しているのですが、向こうは海の民。船の上のこと、我々は常に遅れを取る始末」
「なぜ、北山が薩摩を?」
紅玉が目を細めた。
「——『九洲を』というのが、正しいかもしれませんわね。仔細は知らねども・・・・・・さて、九洲を奪いに来たか」
「ですが、琉球はいま、戦争の真っ最中のはず。九洲に手を出す余裕があるとは思えやせん」
むぅっと重然は唸った。どうにもきな臭い臭いがして仕方がなかった。
北山——琉球の北を納める王族国家。
たびたび九洲の領海に進出することはあったが、そのほとんどは戦うことなく引き上げていった。中山と争っている中、九洲と争う意思は欠片も見せなかった。
それが、ここにきて、一体どうしたことだろう。まさか北山が琉球島を統一したのだろうか。
あれこれと考えるが、重然の瞼の裏には、真相は見えてこなかった。
だが、なぜ、自分がここ薩摩に呼ばれたのか。それだけは見えてきた。
「・・・・・・あっしらに、薩摩の警備につけ、ということですかい?」
重然の言葉に、香蘭と紅玉は頷いた。
「相手は根っからの海の民。ただの海人では相手にもなれません。しかし重然殿ならば、見事に渡り歩けることでしょう」
「あっしの手勢は、せいぜい六百。北山の勢力がわからん以上、心許ないですが」
「おお、それなら心配要らないよ」
「へ?」
重然は間の抜けた声を上げて、香蘭を見つめた。
「あれを重然殿に」
紅玉が役人の一人に声をかけた。役人は紅玉と香蘭に一礼すると、小さな箱を、重然の前にそっと置いた。
この時代には見慣れない漆塗りの朱箱。漆の技術は大陸で芽生え始めていたが、その採取と扱いの用意ならざることから、多く広まることはなかった。
この朱箱にしても、只深が取り仕切る大陸との交易の折に、たまたま入手した物でしかなかった。
重然は一礼して、濡れたような朱の明かりをのせた箱を外した。小さな箱の中には、掌ほどの大きさの木札が収められていた。
円形の札に、鳳凰のあしらい、そしてその中央に、
——『香』
の一文字が、金箔に塗られて輝いていた。
「これは・・・・・・?」
「『鳳凰符(ほうおうふ)』言うよ」
「鳳凰符?」
聞きなれない言葉だった。少なくとも、それが何であり、何を意味する物なのか、重然にはまったくわからなかった。
それを察してか、紅玉が香蘭に代わって口を開いた。
「鳳凰符・・・・・・大陸では古くは『虎符(こふ)』と呼ばれた証紋ですわ。虎符とは本来、皇帝ないし王、または軍事面での最高責任者である『大将軍』・・・・・・時として実力ある『軍師』に与えられし物です」
「軍事面の、最高責任者・・・・・・?」
「左様。『歩軍』『騎軍』『海軍』・・・・・・これら三軍を率いる最高司令官たる証、それが『虎符』——その『鳳凰符』です」
「ち、ちょっと待ってくだせぇッ」
一瞬で顔色を変えて、重然は慌てたように叫んだ。やや青ざめたような顔で、心なしか、体が震えている。
「ってぇことは、何ですか。あっしに、薩摩の全兵力を率いる指揮官になれって・・・・・・そういうことですかい?」
「そうよ」
「そうです」
「・・・・・・」
あまりにあっさりと返答されて、重然は口を開けたまま固まった。
三軍の最高司令官。この耶麻台共和国では、各県知事がこの鳳凰符を所持している。それは、各県の兵力は独立していることを表しており、それら全てを統括する、
——『火魅子の鳳凰符』
というのも存在していた。この『火魅子の鳳凰符』は知事の持つ鳳凰符とは別次元の代物で、火魅子の代行として現在は大将軍の位にある伊雅が所持している。
この鳳凰符を持つということは、軍事面において、知事と同じ位に立つと言うことでもあった。
この場合は、香蘭の持つ軍事的権利を、重然が丸ごと肩代わりするということ。
それゆえ重然は、「まさかな・・・・・・」という思いとともに、石のように固まる羽目になったのだ。
「うふふっ・・・・・・『開いた口が塞がらない』とは、よく言ったものですわね」
扇子で口元を隠して、紅玉は玉のような声で上品に笑った。
もう四十近い年齢に差し迫りつつある紅玉も、未だ若々しい肌をしているが、顔には小じわが見えるようになってきた。
それでもまだ所作に艶さが残っているのは、熟女の門を叩いてなお、その美貌に陰りが来ていない証拠だろうか。
「重然? どうかしたか?」
「今はそっとしてあげなさい。まだ混乱しているのです」
「・・・・・・そか。なら、仕方ないな」
「ええ、仕方ないのです」
と、そんな会話をする親子を見ていた役人や武人たちは、心の中で、口を揃えて呟いた。
——重然殿、お気の毒に、と。
重然が復活したのは、それから四、五分後のことだった。
眉間を揉み解し、首を鳴らし、頬をバンバンと叩いた。そして深呼吸を二回して、再び香蘭へと顔を向けた。
「・・・・・・まぁ、話はわかりやした。つまり、あっしの手勢以外にも、薩摩の全兵士をつれて、薩摩を守れということですな。この・・・・・・鳳凰符をもって」
「端的に言えば、そうなりますわね」
「・・・・・・それは、無理ってもんでしょう。海軍はともかく、歩軍や騎軍を持たされても、あっしにはどう運用すればいいかわかりやせん。それ以前に・・・・・・あっしには、荷が重過ぎやす」
重然が知る限り、薩摩の戦力は一千弱。重然の手勢と合わせると、戦力は二千近くにまで膨れ上がる。
石川海人衆は昔からの付き合いの者ばかりで、六百人と言えども、殆ど家族のようなものだ。
だがこの一千強。背負うには些か重過ぎる。彼らにはもちろん家族がおり、重然はある意味、その家族——つまりは薩摩県の民をも背負うと言うことなのだ。
戦争中、海軍を率いて戦った重然だが、あの時は無我夢中だった。
ただ『解放』『復興』『建国』『勝利』などの言葉に酔いしれ、己の背負うものの重さと意味を見失っていたに過ぎない。
だが今は違う。共和国の幹部としての地位を手にいれ、立場に収まり、上に立つ者としての己を思い出したとき、同時に実力の底も思い出した。
一千人強の人命。一万人近い家族の思い。
一介の海人武将である俺に、それを背負えるのか? あの時の様に、気負うことなく背負えるのか?
箱の中に静かに収まる鳳凰符。自分の体の十分の一にも満たない大きさの木の札に、重然は今まさに試されていた。
——お前に私を、持ち掲げるだけの器量はあるか。
鳳凰符がそんな言葉を言っているような気さえしてくる。
目の前の木札には意思がある。その意思に、重然は怖気づいていた。
「・・・・・・しかし、我らとしては、何としても重然殿に薩摩の兵を率いてほしいのです」
「海人集の長は、あっしの他にもおりましょう。阿智殿は、宗像海人集の頭領です。阿智殿ならば」
「彼では役不足です」
紅玉はばっさりと切り捨てた。
「阿智殿も、頭領としてはたしかに優れているかもしれません。しかし、我が薩摩の兵は従わないでしょう」
「なぜ、そう思うんで」
重然の問いに、紅玉はふと、昔を思い出した。
狗根国との戦争中、紅玉は海の戦いに参加したことがあった。まだ共和国が『復興軍』だったころだ。
大陸からの移民計画のおり、渡航中の遭遇戦で、宗像の船団が助けにくれたことがあった。
その時に紅玉は、阿智の戦を見たのだ。
理に適った戦法、流れるような舟の動き。海の戦いを知らない紅玉でもって、その鮮やかさに目を見張ったくらいだ。
以前から重然の陰に隠れがちだった阿智の艦隊だが、中々どうして、実力は確かなものだった。
「だからこそ、彼では駄目なのです」
射抜くような視線が、重然に向けられた。
「阿智殿には驕りがあります。王族宗像、そして火魅子と成られた星華様縁の者としての誇りがあります。・・・・・・自尊心とも呼びましょうか。あまりに貴意高く、その戦い方も綺麗——お上品過ぎるのです」
「いいじゃあないですかい。あっしには出来ない戦だ」
そうだ、と重然は思った。そういう阿智だからこそ、この鳳凰符の意思にも、打ち勝てるのではないか。
阿智と自分とでは、最初から背負っているものが違いすぎる。
『石川島海人衆』と『宗像海人衆』——よく武功を競い合うようにそれぞれ戦っていた。海軍主力の座を石川島海人衆に奪われてからは、宗像が事あるごとに突っかかってくることもあった。
それも全ては『誇り』の成せることだった。
だが紅玉は、その『誇り』を嫌がっているようだ。なぜ嫌がるのか——重然も、うすうすはわかっていた。
「星華様が火魅子となられ、九洲最大の海人衆となった宗像海人衆。そんな彼らが、はたして、我々の要請に応じてくださるでしょうか。かつて火魅子の座を競い合った我々の言葉を、聞き入れるでしょうか」
「・・・・・・」
応じない。重然はそのことを知っていた。
はっきり言って、宗像海人衆は、各県知事を見下している。己の主が女王となったことで、増徴してしまったのだ。
「それに、うちの兵士はみんな喧嘩っ早いね。宗像の海人たちを入れたら、すぐ喧嘩になるよ」
「宗像の態度は、我が薩摩兵士の髪を逆立たせるだけですわ」
「そりゃまぁ・・・・・・そうですわな」
これには重然も素直に頷いた。阿智を推した重然だが、やはり宗像の態度は気になるものだった。
石川島海人衆も、宗像海人衆のことを毛嫌いしている。その様は、まるで文官と武官の関係に似ていた。
結局、荒くれ者を束ねることができるのは、同じ荒くれ者を束ねている重然だけ、ということだったのだ。
上品と言えば紅玉もそうだが、紅玉と阿智には決定的な違いがある。
——それは単純な『個人の能力』であった。阿智は星華縁の海人衆の頭領で、実力もそこそこある。
しかし紅玉は、魔人と渡り合える超人にして共和国最強の戦士、歳を経てなお衰えぬ美貌、高い人徳に知性、そして——王族なのである。
まさに雲泥の差である。だからこそ、上品な人柄であるにも拘らず、紅玉は薩摩兵士たちに受け入れられていた。
ようは、腕っ節が強ければ、薩摩の兵士たちはそれでいいのである。それが美人で王族とくれば、なお嫌う理由がない。
そして重然。腕力で、唯一香蘭に並ぶのは重然だけ。薩摩の兵士たちと気が合うだろうという、双方の人心を考えての選抜だった。
だからなんとしても、重然には、首を縦に振ってもらわなければならない。
「軍備縮小の最中、もし、北山の目的が九洲進攻であったならば・・・・・・とてもではありませんが、抑え切れないでしょう」
「だから水際の防衛・・・・・・と、いうことですかい」
「今はまだ警備艇や商船が襲われているだけですが、このままでは、錦江湾に船は入ってこなくなり、大陸との交易にも支障が出ます。ましてや、我が薩摩の警備艇は、すでに八隻も沈められているのです」
「みんな、陸だと強いけど、船の上はそれほどでもないよ。私も、船の上は苦手よ」
「・・・・・・むむ」
——思っていたよりも、事態は深刻なようだ。警備艇が八隻も沈められていると言うのは初耳だった。話を聞けば聞くほど、この適任が自分だけだと、否が応でも思い知らされる。
阿智は使えない。宗像と石川島以外で、他に有力な海人衆もない。
どうしたって、重然が立ち上がるしかないのだ。守りの薄くなった九洲を、それでも守るには、水際での防衛がもっとも適していることもわかった。
だが、やはり、どこかで尻込みをしている自分がいる。
——意外と小せぇな、俺も。そう思った。そう思ってしまったからか、脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
自分と違って、大きい男の顔だった。
「・・・・・・情けねぇ話でさぁなぁ」
「重然?」
情けなさ過ぎて、重然は、苦笑するしかなかった。
ずっとデカイ図体を持つ自分よりも、脳裏に浮かんだ男は、まるで阿蘇のように大きく見えた。
「こういう時、九峪様がいれば、なんて思っちまうなんて」
「・・・・・・ッ」
香蘭の体が震えた。目に見えて動揺する香蘭を、紅玉は険しい表情で睨みつけた。
『慌てるな』という意思が通じたのか、香蘭は努めて動揺を押さえ込むと、重然に知られないように、ほぅっと息をはいた。
「・・・・・・九峪様は、もういないよ」
わずかに震える声。しかし重然は気づくことなく、重く頷いた。
「わかっています。わかっているんですがね・・・・・・心のどこかで、まだ、頼っているんですかね」
思えば、重大な決断を下すのはいつも九峪であり、それにともなう全てを背負うのも九峪だった。
兵の命、民の命、家族を奪われた者の悲しみ、鬼籍に入った輩の悲願、生ある者の後悔、九洲の命運・・・・・・その全てを背負って戦ったのが、九峪と言う男だった。
その幾つかを、自分たちも背負っていた。そういう思いはあった。
だが今、この時になって、重然は思うのだ。戦っているとき、今のように背に圧し掛かる重圧を感じただろうかと。
重大な作戦のとき、たしかに重圧はあった。だがその自分でさえも、九峪に背負われていたのだ。
だから、その安心感が、気負うことなく戦えた大きな要因なのではなかろうか。
——あの時の九峪が背負っていたもの。その何十分の一でさえ、今の自分は背負うことを躊躇っている。心のどこかで、九峪が背負ってくれると、そう思ってしまうのだ。
情けない話だ。海の男が、大海に生きる海の人間が、なんと浅く小さいことよ。
自嘲気な笑いが込み上げてくる。昔の自分は、こんな笑い方はしなかった。
「九峪様・・・・・・」
初めて、鳳凰符をその手に取る。掌にすっぽりと収まるそれは、まるで金か銀かと思えるほどに、ずっしりとした重みがあった——そんな気がした。
——これが、背負う重み。
重然はぎゅっと噛み締めた。まだ怖気づいている自分をたしかに感じながら、それでも思った。
九峪が元の世界に還ったその瞬間から、自分たちは、この『九洲』を背負っているのだ。
昔を思い出せ。九洲を、祖国を取り戻すために戦った、あの日々を!
それに比べれば、この程度、何のものかッ!!
バッと、重然が顔を上げた。
「背負う重み、大いに上等ッ」
思い切った啖呵は、重然自身が驚くほど、自然と口から飛び出した。
その声には、もう否定的な声音はなかった。むしろ立ち向かうことに覚悟を決めた男の顔が、そこにはあった。
「鳳凰符、この重然、拝領させていただきやす」
「おお、重然、引き受けてくれるか!?」
香蘭の表情がぱああっと明るくなった。そんな香蘭に、重然はたしかに頷いて見せた。
あからさまにほっと、香蘭はため息をついた。
「よかったよ・・・・・・断られたら、香蘭、一人で乗り込まなくちゃならなかったよ」
「・・・・・・そりゃ無理ってもんでしょう」
「そうよ。香蘭、船の戦い好きじゃないよ。揺れるし、滑るし、酔うし」
「それは鍛練が足りてないからですよ、香蘭」
キツイ合いの手を入れられて、香蘭はがっくりと項垂れた。
香蘭と言えば、どこであろうとも敵をぶっ飛ばす、という印象が強かった。それは重然も同じだったのだが、どうやらそうでもないらしい。
やはり人の子、苦手はあるか・・・・・・紅玉様はどうなんだ?
ついっと、視線を紅玉に向けた。重然の視線に気づいた紅玉が微笑んだ。
何となく、考えていることが見透かされている、そんな気分になる微笑だった。紅玉は何時だって、そんな笑みを浮かべるのだ。
それもまた、『この人には適わない』と思わせる要因の一つだった。
——九峪様のことを思い出していたことも、もしかしたら見抜いているのかもしれない。
そう思うと、本当に、紅玉と言う女性の大きさを思い知る。九峪がもっとも信頼を寄せた武将の一人が紅玉であったが、それも頷けると言うものだ。
そんな紅玉に、自分が頼られている。それもまた、悪いものではなかった。
身体に力が漲る。
「薩摩の海、あっしがお守りいたしやす」
「頼みますわ、重然殿。海のことは、貴方に一任いたします」
「香蘭の分も、思いっきり暴れると良いよ」
「へい、おまかせくだせぇ」
そう言って、重然は鳳凰符を片手に、知事の間を後にした。
重然のいなくなった部屋で、ついで成り行きを見守っていた役人たちも退出し、残るのは香蘭と紅玉だけ。
「・・・・・・これで、薩摩は大丈夫かな、母上」
「心配は要りませんよ、香蘭。海のことを我々が行うよりも、ここは、重然殿に任せた方がよろしい。これは、そう・・・・・・『餅屋は餅屋』ですわね」
「おお、九峪様の言葉か。餅が何かはよくわからないけど・・・・・・懐かしいね」
寂しげな一言は、過去の回顧の中へと、消えていった。
「・・・・・・っあ、お頭!」
客室で待たされていた愛宕が、戻ってきた重然の傍へ駆け寄っていった。
「お頭、いったい何の話だったんでっすか?」
「ああ・・・・・・まぁ、ちょっとな。詳しいことは後で話す」
「ええ〜・・・・・・いま知りたいなぁ〜・・・・・・うそ、ウソでっすよ」
重然が指を鳴らし始めて、愛宕は慌てて重然から距離をとった。
どうにも緊張感のない愛宕を見ていると、なんとも複雑な気分になってくる。つい先ほど本気の覚悟を決めてきた身としては、なんとも複雑だ。
しかしそれで緩む覚悟ではない。懐に忍ばせた鳳凰符の重みは、今も掌に残されている。
「愛宕、戻るぞ。今日中に石川島に帰る」
「へ? き、今日中でっすか?」
「おう、今日中だ」
言って、重然はさっさと客室を出て行った。
その後ろを、愛宕は慌てて追いかけた。
「なんでっすか。そんなに急いで、なんかあるんでっすか、お頭!?」
「戦だ戦、戦の準備をするんだよッ」
パタッと、愛宕の足が止まった。
「・・・・・・いくさ? ・・・・・・いくさ、戦・・・・・・戦ぁッ!? ちょ、お頭!?」
愛宕の絶叫を無視して、重然の足は、ただひたすら錦江湾へと向かうのであった。
元星五年三月。
『香蘭の鳳凰符』を手に、重然が薩摩県海軍総督に就任した。
この出来事は、北山の脅威を、それとなく九洲中に知れ渡らせることとなる。
そしてそれが、新たな争乱の火種になると——このとき、誰もが思っていなかった。