夏も、そろそろ半ばまで差し掛かった。昼間は蝉やひぐらし、日没からは蛙とコオロギが、耳障りなほどのコーラスを奏でる毎日が続いていた。
気温は平均で三十度を超えることも多く、冷やした瓜野菜が人々に涼を与えてくれるご馳走になっていた。
だが、まだ阿蘇山は涼しいほうだろう。森の中には冷たい水分質の空気が漂っている。この空気中に散漫している水分が蒸発することで、気温を一気に下げてくれるのだ。さらに言えば、阿蘇連峰はどこも標高が高く、むしろ快適なほどだ。
九峪の居住も涼しい立地にある。亜衣が特別に選んだ場所だ。
——まるで別世界だ。
九峪の元を訪れるたびに、亜衣は常々そう思っていた。下界はとにかく暑い。前年からの温暖が、まだ続いているようだった。
いっそ、私もここに住んでしまいたい。そうすれば蒸し暑い寝時ともおさらばだ。と、心の片隅が囁きかけてくるのも、無理のないことだ。
「下はそんなに暑いのか」
亜衣の話を聞いていた九峪が、おかしそうに笑った。冬こそ厳寒だが、夏に入ってから九峪の生活は快適そのものだ。
まず虫がいない。現代育ちの九峪には、ハエや蚊が飛び回る生活は御免こうむるところだ。
住めば都というが、阿蘇での隠遁生活にもずいぶん慣れてしまった。たまに兎華乃たち三姉妹が尋ねてくることもあるし、亜衣の訪問も度々あった。
「去年は暑かったけど、今年も負けず劣らずってところなのかな」
「稲穂の育ちも宜しすぎるほどです。瓜が飛ぶように売れて、百姓は大喜びだとか」
「うーん、今年も豊作かぁ」
言って、黄金色に輝く光景を思い浮かべた。
九峪が生まれた街は都会とはいえない。郊外には田畑も多くある街だった。しかし、それでも、この世界に来て大いに感動することがあった。
何よりも田畑の多さが違う。当然といえば当然だが、秋に実る穂の暖かい輝きに、九峪は終生にわたって忘れることの出来ない感動を覚えた。
まるで黄金が風になびいて見えるのだ。その眩さの中で、豊作に喜び舞い上がる百姓の姿も、得もいえない衝撃を九峪に与えた。
世界の境界を越えて、七年が経った。九峪の精神は限りなく、この異世界に同化していた。現代ではつまらないと思っていた舞や楽を楽しいと感じるようになったし、情緒も豊かになった。
ただ残念なのは、その光景を今一度見られないことだ。あの感動をもう一度、という思いが成せないことが、九峪を切なくさせた。
「新しい米倉がいるな。いやそれよりも、納量を減らしたほうが、百姓は喜ぶかな」
ほのかに湧き上がった寂しさを誤魔化すように、九峪はあえて明るく言った。
倉庫の増新築よりも、民のことをまっさきに思いついた九峪らしさに、亜衣は微笑みながら「そうですね」と、思案気に呟いた。
この時が、亜衣は最も好きだった。政にたずさわれない九峪の意見を、汲み取り実現できる唯一のポジションに座っていることが、亜衣の優越心を高ぶらせた。
そして、その位置にいる唯一の己だからこそ、口に出せる問題もあった。
「九峪様」
ひそやかに声の調子を落として、亜衣は九峪に呼びかけた。
「折り入ってご相談がございます」
「・・・・・・なんか、アレか、面倒ごとでもおきたのか?」
妙に改まった亜衣の声音に、九峪は不穏な色を感じ取った。亜衣が持ち込む相談事はこれまでも多々あったが、今のように思わず声調子を落とすことは、なかなか稀なことであった。
亜衣の手に負えない事態が発生したとしか思えなかった。そういった事柄の半分以上は、九峪の手にも負えないものだったりする。
自然、九峪は心理的に身構えてしまうのだ。が、亜衣としては、これは九峪にこそもっとも向いている問題だと確信していた。
「先だってお話してきましたが、北山のことです」
「ああ、北山」
身構えつつ、九峪は繰り返し言った。北山といわれて、納得がいった。
またぞろ北山が何かしてきたのだろう。詳しいことは知らないが、なかなか問題を引き起こしているらしい。
錦江港の湊が手ひどく経済的打撃を受けていると、亜衣から愚痴半分に聞かされていた。それを思い出した。
九峪としても、北山のことは気がかりである。政から——半ば強制とはいえ——退いた直後に突如出現した外威だ。気にならないはずがない。
「奴さんが要求でも突きつけてきたか?」
「まぁ、似たようなものですね」
「・・・・・・」
九峪は沈黙した。
軽い気持ちで言ったのに、まさか的の近くを掠めていたとは。
「・・・・・・向こうは何て?」
気を取り直して、肝心の部分を訪ねる。そこの部分を知らなければどうしようも出来ない。
この機を逃してはならないと、亜衣はもてる情報の全てを九峪に開示した。亜衣自身の情報量が少ないのだが、出来る限りを九峪に伝えたかった。
話を聞くうち、九峪は度々うなづいたり、考え込んだりしていた。
ただ、話している亜衣自身も思った。やはり情報が少なすぎる。九峪の表情にも、それが表れていた。
「同盟?」
しかし、ただひとつ、この一事に九峪の眉はぴくりと動いた。
やはり亜衣や重然にたがわず、九峪の思考にも引っかかるフレーズのようだ。
「それは、どういうことだ?」
「実は・・・・・・」
知る限りに補足していくと、九峪の顔がどんどん固まっていった。
考えに考える様を、供された茶を飲みながら、亜衣はただ黙って見つめた。話しかけて邪魔をしたくなかった。
侍女からかわりの茶を煎れてもらい、しばらくして、九峪もぬるくなった茶を飲んだ。
渇いた喉に心地よかったのか、ほうっと息を吐いた。それからふと空を見上げて、
「負けが込んでるね・・・・・・清瑞がなぁ」
と、呟いた。
その後に、九峪は亜衣のほうを向いて、
「何がしたいんだろうな、連中は」
と、苦笑しながらそう言葉をもらした。結局わからなかった。
お手上げ! といった様子に、亜衣も苦笑で返した。もとから情報も少なく、自身もよくわかっていないのだ。なのに勝手に期待半分で相談したのは亜衣自身であったし、深く責めるつもりなどなかった。
ただ、不思議なものだ。切迫しているはずなのに、九峪といると、どうにも毒気が抜かれる思いがする。これこそが九峪の魅力だとも亜衣は思った。
それに、足を運んだのが無駄足だとは思わない。こうして少しずつでも九峪に情報を与え、ともに議論すれば、あるいは北山の動向の意図が読めるかもしれない。
亜衣はそれこそ期待していた。きょう九峪に尋ね、答えが返ってこなかったことで、亜衣の気持ちはすでに切り替わっていた。
明日、新たな乱波が薩摩に派遣される。その乱波の働き如何によって、亜衣はもう一度、ここにくるつもりであった。
——そのときには、何か、手土産でももってこようか。
ひそかにそう想いを巡らせ、口元をほころばせた。その様子を、老いた猫が見つめているのを、亜衣はまったく気づかなかった。
阿蘇から帰ってきた亜衣は、馬子に乗ってきた馬の手綱を預け、すぐに別の馬へと鞍を変えた。
戻ったばかりの亜衣の元に、一人の次女が駆け寄ってきたのだ。亜衣はまだ馬上の人だった。次女が用向きを手早く伝えると、亜衣は馬を代えただけでまた九峪御殿をバッと飛び出してしまった。
馬は裏の小高い丘を駆けた。通りは人が多く馬の足を跳ばせられないからだ。比べて民家から離れた空き地は走りやすかった。
目的の場所は、この郊外とも呼べる丘に立てられている。井戸はないが清らかな水の湧き出ずる小さな池があった。ここは猛暑の日でも涼やかだ。
亜衣の屋敷からは少し離れている。しかし馬を走らせれば、半刻とかかるものではなかった。
次第に見えてきた屋敷は、なんとも重厚な造りだった。それほどの大きさはないものの、頑丈な造りだ。和国には珍しい、なんと土と木の屋敷であった。
この屋敷の馬子に馬を預けると、亜衣は案内もなしに縁側に向かった。外見は土作りのようだが、内装は不思議なものだった。壁や天上は土を固めて作られているのに、床だけが板張りの家だった。
「誰、いるか」
声をかけた。見えるところに人はいなかったが、すぐに返事が返ってきた。「お待ちください」と、男の声だった。
ひょいと姿を現したのは、駒木の孔菜代だった。
「宰相様、お待ちしておりました。いま暫しお待ちください。藤那様にお知らせいたします」
「ああ」
孔菜代が奥に姿を消すと、間をおかず女中が冷や水を持ってきた。日も傾いて暑くはなかったが、ありがたいと思いながら水を喉に流した。
阿蘇から帰ってきたばかりで、喉もちょうど渇いていたところだ。いま一杯と所望して水を受けたところへ、半袖半裾と軽く涼やかに着こなした藤那が、孔菜代を伴って姿を現した。
「ようやく帰ってきたな。待ちわびたぞ」
「はっ・・・・・・」
「上がれ。奥に酒肴を用意させてある。ついでだから、食事はここで済ませていけ」
有無を言わさぬ態度で藤那は、縁側に座している亜衣を奥間へと招いた。亜衣は逆らわず、素直に従った。
「まさか都にのぼっておられたとは」
内心の驚きを亜衣は口にした。藤那は口を愉快そうに曲げた。
藤那は火後県にいるはずだった。上都の話は聞いていない。報告義務はないが、亜衣の元には自然とそういう情報が入ってくるのだ。
「昨日方だな。北の口から入都したのは」
「兵の姿が見えませんが」
「孔菜代だけ、共として連れてきた。一兵もつれてはいない」
スーッと、音静かに戸をあけた。対面する形で、食膳が並べられていた。酒もあった。
まず藤那が着席して、ならうように亜衣も腰を下ろした。膳に目をやると、旨そうな川魚が塩をまいてのっていた。イワナだろうか。
この年、海の漁は不況だ。特に温暖な年が続いたせいで、潮の訪れを漁師たちが読み違えたのが原因だった。
料理は魚だけではない。采も肉も、米もある。すぐに食べてなくなる量には見えない。
「ずいぶんと豪華な食ですね」
「気に入ったようでなによりだ」
そういうと、藤那は己の杯に酒をなみなみと注いだ。亜衣も杯に注いだ。
一献で喉を潤し、二献で酒の匂いが鼻を抜けていった。この短い間、二人は無言だった。古来の日本に『乾杯』はない。
ましてや、これは公式の場というわけではない。礼儀はあってないような席なのだ。藤那も亜衣も、深く遠慮することはなかった。
酒もそこそこに、二人は料理に箸をのばした。亜衣は普段から深酒を戒め、藤那も昔ほど呑まなくなっていた。
「干した魚だが、悪くはなかろう?」
塩に漬け込んだ青菜を食んだ藤那がそう声をかけてきた。
「油のノリは悪いが、滲み出るような旨みがある」
「海の魚にはない味でございますね」
「私は幼子のころから、イワナや山女、ウグイを食べて育ってきた」
昔を思い出しながら、藤那は忍ぶように笑った。
「伊万里殿とさして変わらんな。血の尊さを知っていても、食べていたものは同じ魚だった」
「川の魚ならば、私も火魅子様も食べていました」
「ふふ。そうさ、みんな同じものを食べて生きている」
イワナをつまみあげると、藤那の目がゆるく細められた。魚に油のひかりはまったくなく、干された味気なさがあった。
亜衣は小首をかしげながら酒を呑んだ。藤那の様子がおかしいと思いはじめていた。
磊落な藤那にしては、どうにも話し方や表情、雰囲気が感傷的すぎる。らしくない、といえば、あまりにらしくない姿である。
気になると、どうにも箸の動きが鈍ってしまう。食欲もなえ、はやく用件を言わせねばと思った。
膳もまだ半分ほど残っているが、亜衣は箸をおいた。カチャリッと音がたった瞬間、藤那の瞳もにわかに違う色をにじませた。
食事と談笑の時間は終わり・・・・・・これから、亜衣は藤那の話を聞かなければならない。藤那も、亜衣が箸をおいたことを合図とした。
話し始める前に、杯を互いに傾けあった。話す前に呼吸を正す準備であった。
「酒はもういいか?」
一拍おいて、藤那が尋ねた。亜衣は固辞した。酒はまだ残っていた。
「・・・・・・前置きも、もういらんな」
言うと、藤那も杯を置いた。
「私は歯に衣着せるつもりはない。だから、直入で言うぞ」
「なんでしょう」
「言いたいことは唯一つだ。亜衣よ、少しは自重しろ」
淀みない、唄を口ずさむように軽やかな一言だった。臆した様子もなかった。
藤那は『自重しろ』とだけ言い、詳しくは語らなかった。その必要がないと思っていたからだ。これだけの言葉だけで、亜衣は心当たりに気づくだろうと信じていた。
そして真実、亜衣は眉を少しも揺らさなかった。動揺くらいはするだろうと思っていた藤那は、以外に驚いた。亜衣はまるで猩々の如く何も映さない面をしていた。
あらかじめこの話が切り出されるものと心得ていたに違いなかった。
ならば話は早い。はじめからわかっていたのなら、云うべきことは全て伝わるだろう。
「なぜ私がこのことを」
「わかっています」
みなまで言わせず、亜衣は嘆息した。
「・・・・・・噂は、私も聞き知っております」
「申し開きは、あるか?」
厳とした態度であった。藤那の言葉は、非ある者——罪人や謀反人——などに対して用いる言葉だった。
あたかも、藤那の言は亜衣を糾弾するようであった。表情にも温かみや慈しみなどなく、容赦の欠片ほども感じられない。
別に亜衣は、罪を犯したわけではない。この場合に亜衣を罰する法は九洲の律になく、『申し開き』と責められることこそ甚だおかしなことだった。
だが、しかし、亜衣は反論しなかった。なぜなら亜衣は、ある意味で、罪人のつもりであったからだ。『法の罪』ではないが『道の罪』を背負っていると自覚していた。
ゆえに亜衣は、申し開きをせねばならなかった。ならないが、亜衣はそれを憚った。
沈黙を通す亜衣に業を煮やした藤那が、眼を険しくさせた。
「言えないか? ・・・・・・そうだろうよ、言えまい、理由があまりにも馬鹿すぎる」
「・・・・・・」
「その馬鹿すぎる理由が、今時の噂を生んでいるのだ」
藤那がなお言い、亜衣も知っている噂とは、ここ一月の間に火後で広まった噂である。
宰相の亜衣が度々、供を連れずに阿蘇に身を隠させている、という内容の噂で、初めは阿蘇麓の村々で沸き起こった。
それがいま、火後を手広く駆け巡り、彼の霊山にはなんぞがあるやと、商人から百姓まで首をかしげていた。
それは火後を預かる藤那にとって、息を呑むほどの恐怖であった。
「阿蘇は霊山だから、神力にあやかろうとする者がいる。ましてや、宰相たるお前が霊峰阿蘇に通い詰めと知った者たちは、興味交じりに阿蘇を登るかもしれない。その末に、九峪様の御隠所を暴かれでもしたら・・・・・・」
考えるだけでも恐ろしい。比喩などでなく、藤那は本当に怖かった。
何しろ、共和国は九峪の現世帰還を『公式』に発表してしまったのだ。九峪はもうこの世界に存在せず、またしてはならないのだ。
この事実が、さて無実と知られては、黙っていない者たちがいる。
「武官たちですね」
藤那の懸念を、亜衣は一言で指摘してみせた。藤那は神妙に頷いた。
「そも、なぜ九峪様がご隠居なされたかというと、元はと言えば『武官』と『文官』の意見が食い違ったことにある。この争いで『武官』は九峪様を、『文官』は女王を勝手に担ぎ上げ、ついには九洲を二分しかける大騒動にまで発展した」
言われずとも、先刻承知の事件である。このために亜衣は奔走し、豊後は混乱し、九洲全土が揺らぎ、国力は増しても軍力は衰え、そして神の遣いが地上より消えたのだ。
この一件こそが、亜衣をことごとく苦しめたのだ。忘れえようはずもない。
「伊万里殿の豊後はひどい有様になった。我が火後も危うかった。これらを収拾できたのは九峪様の退陣と武官の粛清があったからだ」
「・・・・・・左様でございます」
「いま、九洲は武官どもの言ったとおりになっている。他国の脅威が、いままさに、この九洲へと迫っている」
亜衣は顔を上げた。目を見開き、驚きの顔をしていた。
亜衣は藤那が、北山をさして『脅威』と呼んだことに驚いた。藤那はまだ見ぬ敵を早々に『恐れる敵』と見定めていたのだ。
初めに侮っていた己に比べて、この態度はどうであろう。藤那は北山のことを名前でしか知らないはずではないのか。
「藤那様は、北山のことをどのようにお知りでありましょう?」
「火後にも湊はある。海人がいる」
海人つながり、話は聞こえてくると言いたいのだろう。
それに、九洲で用いられている軍馬・兵馬の調練は一切を駒木の里が取り仕切っている。駒木の里の管理人は里長であるが、藤那の直列機関と呼んで問題はない。
糧食は火向知事の志野が送っている。その搬送に使用している馬は、駒木で育てた馬だ。これらは倭国馬だが、何かと使い勝手のよい馬であった。
その伝からも話は聞くという。とすると、藤那以上に聡い志野のことだ、やはり北山について気づいているとみて間違いない。
「薩摩はもちろんのこと、我が火後も志野の火向も、北山についてはすでに周知のこと。これより以北と火前方面がどうかは知らんがな。だが少なくとも、薩摩、火後、火向で隠遁している武官たちは、今頃それ見たことかと文官を扱き下ろしていることだろうよ」
藤那の言葉は想像に難くなく、亜衣の脳裏にも、その様子がありありと浮かんできた。
まさに武官の言ったとおり、琉球が今にも攻めて来ようかとしている。薩摩に隠れた武官は歯噛みしているはずだ。
武官は豪族でないため、自身の郎党を持たない。ゆえに重然の下へと馳せ参じることが出来ないのだ。また豪族と異なるため『国家』に対する忠誠心も厚く高く、ともすれば悔しさに胸をつぶさんばかりだろう。
「その武官たちに九峪様の存在を気づかれようものなら、我らは自国内に新たな火種を抱え込む羽目になってしまう」
「はい・・・・・・」
声調子を落としに落として、亜衣は深く頷いた。
九峪の存在が公になってしまうことは共和国にとって、九峪が生きつづけている限り、絶えることなく続いていく恐怖であった。
「だからこそだ、亜衣。お前の行いがどれほど危険で愚かなことか、胸に手を当てずとも、わかるはずだ」
「・・・・・・ッ」
膝の上におかれた拳を握り、唇をかみ締め、亜衣は瞳を手元に落とした。藤那の言っていること全てが正論だった。
たしかに、亜衣とて、己が何をしているかくらい自覚している。共和国にとって不利益だともわかっているのだ。
だが、あのとき——関門海峡を出向していく交易船を見送った帰り道で、衣緒と平和の意味を語ったときに。
平穏に抱かれていない自身に気づいてしまったのだ。生きる者とは、安寧を望む。亜衣は己の安寧を、九峪に見出した。
そのことが亜衣の弱さへと突き刺さり、嘗ての決意を跳ね除けさせて、亜衣を阿蘇へ奔らせてしまったのだ。
——申し開きの仕様もなかった。ただ一度、衝動に駆られ先走ってしまえば、あとは堰をこえる高波も同然だった。
あふれ出す情緒を、止める術などなかった。
「私は、九峪様にご恩がある」
前後の脈絡なく、藤那は静かに言った。
押し黙る亜衣が視線を上げると、それまでともまた違う表情の藤那と、両の眼が重なった。
亜衣は頷くことも、頭を振ることも出来ず、ただ藤那の瞳に吸い寄せられていた。
「謀反人となった私を、九峪様は赦してくださった。我が首を刎ねんとする伊雅様を圧し宥め、この命を救っていただいた。それどころか、没収されて当然の火後の領地さえも安堵してくださった」
真耶麻台国として謀反の旗揚げをして、遠征軍の撤退と同時に、藤那は共和国へと帰順した。謀反の咎で罰せられることを覚悟した藤那を迎えたのは、九峪の寛大な心だった。
罪を問わず、裁きも下さず、知事を認め、火後を安堵した。以前と同じく遇したのだ。
拍子抜けしたといえば、それこそが正直な気持ちだった。一夜の夢を見ているうちに犯した罪を、九峪は苦笑しながら赦した。
生来、感謝という心情から程遠い藤那が、初めて感涙をこぼした。
この涙こそが、また周りの者たちをも赦し、藤那は火後知事として共和国に戻ってきた。
藤那には、九峪への多大な恩があった。一生かけても返しきれないであろう恩だ。自己中心的に人生を送っていた藤那が、生涯を他者のために捧げ使うことを己に架した瞬間だった。
「その九峪様を、私は監視している。評定衆から外し、政から遠ざけ、阿蘇へと押し込め! 仕方がないとは言え、恩を仇で返すようなことを私はやっているんだぞ! もう腹いっぱいだッ!」
多少、酔っているのだろう。藤那の声が徐々に荒くなっていく。言葉を胎のそこから吐き出すうちに、感情を抑制できなくなっていった。
今にも亜衣の胸元へと掴み掛からんばかりの勢いだ。
「そのうえ、お前は、何をするつもりだ? 九峪様を阿蘇へ移したのはお前だろう。九峪様を政から遠ざけ、人目から消し去ったのも、お前の考えだろう!」
ガチャンッ
藤那がにわかに身を乗り出して、亜衣にズイッと近づいた。膳があるのもかまわないほど、気が高ぶっていた。
転がる杯や椀を気にも留めず、藤那の手が亜衣の襟元へと伸びてゆく。亜衣は逃げることせず、身動きひとつとらなかった。
麻縫いの襟をつかんだ。躊躇いなく引き寄せられた勢いで、亜衣の体も前のめりとなり、両の顔がこぶし一つ分の間を空けて急接近した。いま少し近づけば、唇がふれ合いそう。
互いの息遣いさえ、鼻先や唇に吹きかかる距離。藤那はやや興奮して頬が赤く、息遣いも忙しげであった。熱い、と亜衣はかすかに感じた。熱を帯びた吐息が、亜衣の頬をも高潮させた。
ただ、亜衣の眼は冷静さを失わなかった。藤那の言葉、一言一句とて、感情に任せて聞き逃すまいと見張っていた。
藤那は怒っていない。恨んでもいない。それが、藤那の燃えるように熱い視線からもわかった。藤那はただ心配しているだけだった。
それがわかるから、亜衣は、突然つかまれても動じず、怒りも感じず、ひたに藤那の言葉を待った。
「・・・・・・おまえが」
「・・・・・・」
「おまえが、九峪様のことをお慕いしていることはわかっている。その心の中では、あの方が日輪の如く眩いているのだろう・・・・・・」
——息をのんだ。自覚していても、他人から言われてみると、また衝撃を受けるものだ。
たしかに自分は九峪を好いている。それは認めるところで、認めざるをえない。いや、好いているさえ緩いだろうか、私は愛している。
でも、それを他者からはっきり言われるとは、ずっと思いもよらなかった。自分はいつだって、月であろうとしたし、事実そうであったと思う。
太陽の影たる月の如く、日輪で輝く静かな偃月の如く。星華や清瑞のように、あからさまな好意を見せたことはない。明けの明星と違い、月はいつだって太陽と離れ離れだ。
けど、そうか。誰の目にもわかるほど、私は、九峪様を想っていたのかもしれない。隠せないほど、焦がれていたのかもしれない。
だから——
「そのお前が、九峪様の不遇を覚悟してまで、阿蘇に御動座し奉った。時の流れが全てを赦し、たとえ元に戻ることはなくとも・・・・・・また会える日が来ると」
「・・・・・・」
「だから私も賛同した、今のうちだけの辛抱だと、己に言い聞かせた。この罪の片棒を担ぎ、共犯となり、すべては未来のためとッ・・・・・・! 私の苦しみがお前にわかるかッ!?」
亜衣の体が震えた。指の先一つ動かせない、まるで得も知れない神掛かった力に縛られているような。
いつか、藤那の手が二の腕を握り締めていた。痛い。
「私だけではない、伊万里の表情を思い出せ。お前の話を聞いたときの、あの怒りようを! 香蘭の悲しげな瞳も、女王の憂いた嘆きもッ! 全ては報われる日が来ると信じたから・・・・・・お前がそういったからだッ!」
「・・・・・・ァッ」
布越しに、爪が肌を突き破ろうとしてくる。興奮している藤那は、自身の力を抑制できていない。
痛みに顔を歪ませても、藤那には見えていないようだった。食い込む爪は緩まず、亜衣は思わずうめいた。
でも跳ね除けることはしなかった。してはいけなかった。
苦痛に耐えながら、瞳だけは外さない。
——亜衣に劣らず、藤那も苦しそう。
「・・・・・・私たちだって、九峪様に会いたいんだ。謝りたいんだ。しかしそれすら赦されない状況が今だッ。耐えなくてはならないのに・・・・・・なぜ待てない? 待つと覚悟したから、お前は決断したんじゃないのか!?」
「それは・・・・・・」
その通りだ。覚悟した。でなければ、神の遣いを幽閉するなど畏れ多いことはすまい。
出来ると思ったのだ、あの時は。
言葉に窮する亜衣から、藤那は力なく手をはなした。疲れたような表情で、腕が垂れるように下がっていく。
「・・・・・・九峪様を阿蘇へお移ししたあとの清瑞は、ひどかったな・・・・・・。あんなに取り乱した清瑞を見たのは、初めてだった」
ぽつぽつと、藤那が語る。回顧の先は、九峪が姿を消した直後の情景。亜衣の記憶の扉も開かれた。
「乱波が、泣いて叫んで・・・・・・まるで狂人のように成り果てて。さすがの私も、胸が圧し潰される思いがした」
九峪を動座させてすぐに、亜衣たちはふれを出した。事実を知っているのは女王と天魔鏡の精、以下に大将軍、宰相、大臣、知事のみであった。将軍職にある音羽や衣緒、乱波の棟梁たる清瑞は何も知らなかった。
誰もが動揺し、唖然呆然とした。九峪の信奉者だった音羽の取り乱しようもすごかったが、清瑞は気でも触れたのでは思うほどにうろたえた。
「なぜ、どうして」と阿呆のように繰り返し、人相は死化粧(しにけわい)を施したように悲壮で、それが四日も続いた。伊雅は事情を知っているために、四日の間、飯も喉を通らぬほどに心配していた。
案じた亜衣が弁達者の紅玉に頼み込んで、清瑞を薩摩へしばし療養させにいった。そこで紅玉に諭された清瑞は、三日を経て帰ってきた。溌剌とはとても言えないが、持ち直した面に、伊雅も亜衣も安心したものだった。
——そう。乱波であるはずの清瑞は、九峪を慕うあまりに、あのように狂騒となってしまった。差はあれど九峪の突然の消失は、それほどの衝撃を近しい者に与えたのだ。
「お前だけではない・・・・・・なぜそれがわからないッ」
搾り出すように藤那が吐き捨てた。亜衣は何も答えられない。
ようやく静かになると、戸の向こうから慌しい足音が聞こえてきた。戸が勢いのある音を立てて開き、孔菜代が飛び込むように部屋へと入ってきた。
「藤那様ッ!」と、叫び声をあげた。騒ぎを聞きつけて、駆けつけてきたのだ。
藤那は手を振って「なんでもない」と吐いた。孔菜代は散らかった部屋の惨状と、亜衣を一瞥すると、黙って戸を閉め足音を遠ざけていった。
水をさしたような静けさが戻った。藤那は云いたいことを全て吐露して、もう言葉が残されていなかった。ただ、すっきりした表情ではなかった。
膳は散らばり、酒は床をぬらしている。亜衣の衣服の裾がじっとりと酒を含んでしまっていたが、亜衣はもう気にする余裕もなかった。
「・・・・・・わたしは」
口を開いても、何も言葉は出てこない。ただ何かを言わねばと思っただけで、その実、言うべき言葉など何もなかった。
なかったけど、それでも何事かを言うとすれば、それは——なんだろうか。
わかったと言えばいいのだろうか。わかった、もう行かないと。それが正しいのだと思う。でも、違うといえば、違う気もする。
——改めて、他人から言われると、無様なものだな。
行いだけではない。亜衣をそう足らしめた恋心を含めて。
自分が、ここまで理性に反発することが、あっただろうか。これからもあるのだろうか。
「亜衣・・・・・・」
「・・・・・はい」
宙を仰いだ藤那の、吐息のような言葉。不思議と、亜衣の耳になじんだ。
「お前の想いを否定するつもりはない。邪魔するつもりもない。だが、自分の選択を、決意を、覚悟を・・・・・・反故にするような真似だけはするんじゃない。お前の言葉を、私たちは一縷に希望した。・・・・・・わたしたちの気持ちも、無駄にするような真似だけはしないでくれ」
「・・・・・・はい」
「今は、一挙手さえ慎重になるときだ。北山もそうだが、武官たちがもっとも怖い。事態は奴等の予見した通りになって、正しかったことが証明されようとしている。このうえ、九峪様の存在を知られては・・・・・・全てが、無駄になろう」
視線を、亜衣に向ける。藤那の瞳が、さながら青い炎を滾らせているように、亜衣の瞳には映った。
「知られてはならない。商人、職人、百姓、役人、豪族、大人子供の区別なく・・・・・・どの全てにもだ。わかるか、亜衣、神にすら知られてはならない。それが今生に背負った我らの罪科だ」
「・・・・・・心得て、おります」
「ならば亜衣、今は耐えろ。お前こそ辛抱しなければならないと知れ」
亜衣は頷いた。その場限りの首肯ではない、本心から首を振った。
何をどう言い繕うとも、亜衣が首謀者であることに変わりはない。藤那たち知事はそれに同意した以上は共犯で、同士である。
それを裏切ってはならない。亜衣は模範とならなければならなかった。一時の感情に任せ、仕方がないと甘えていいわけがなかった。
ずっしりと、重みを感じた。亜衣の挙動の一つ々々に、共和国の未来が掛かっているといっても、もはや過言ではないのだ。
——天命に縋る前に、人事を尽くさねば。九峪に甘え頼る前に、己の使命を全うしなければ。
床をつく手に、力が入る。覚悟の握りこぶしだった。
九峪様・・・・・・しばしの間、お伺いできそうにありません。亜衣にはやることがあります。