重然の発した出動号令は、さながら稲妻が駆け抜けるように、全軍の隅々にまで行き届いた。
切迫。そんな差し迫りつつある何かを感じさせるように、将兵は喧騒を掻き立てながらも海に出て行った。
動員された艦船、二十余隻。総戦力、二千人。重然を含めた十三将も総出し、まさに薩摩の保有する最大戦力が残らず、たった一夜のうちに、薩摩の湊という湊から大隈海峡と薩摩海峡へ飛び出していった。
船の種類に統一性はないが、どれも矢よけの衝立を備え、かがり火がいたるところで燃え盛り、暗黒の海を照らし写している。
編成は三隊に分割された。薩摩海峡は第二隊、大隈海峡は第三隊、二海峡の交わる海域を、重然の指揮する第一隊が展開している。
異様なまでに物々しい雰囲気だ。将兵も、緊張に顔を編み縄のように引き締めている。
——北山が攻めてくるぞ。
と、兵士の端から端まで、その一言は伝わった。
まさか、と思う者は一人もいない。重然の迫力に圧された将たちが、あまりにも真摯すぎていた。
——北山が攻めてくるぞ。
その緊張だけが、兵士たちを動かしていた。
今日の波は穏やかで、風もなかった。沖合いに凪はなく、ほんとうに無風だった。
青波が船体をゆるやかに叩きつける。
ザザー・・・・・・ン
ザザー・・・・・・ン
心地よい音だ。耳に吸い込まれていく波の音を聞きながら、重然の瞳はここしばらく、硫黄島へと向けられている。
いや、実際に硫黄島が見えるわけではない。硫黄島までは百里以上もある。見えるはずがない。そもそも、今日の海上は霧に包まれている。濃霧であった。
霧で海の先は見えない。しかし、ぼうっと霞のように、脳裏には硫黄島の島影が写っていた。その影を取り囲むように、幾隻もの船も見えていた。
海に出て、五日が経った。何もおきていない。
「何か見えるか?」
ふと、尋ねる声が聞こえた。
振り返って誰かと確かめることもせず、重然の首は横にふれた。
「そうかい」
それっきり、声の主——織部は黙り込んだ。答えを期待していたわけではなかった。そこにいたから声をかけた、ただありふれた挨拶だ。
重然と同じように、視線を海上へと投げ出す。本当になにも見えない。島も認められないし、この角度からでは味方の艦船も視界に映らない。
こうも沖合いだと、海鳥のやかましすぎる鳴声さえ聞こえてこない。ただ波の音だけだった。
「今日で五日目だな。相変わらず、何もない海だ」
「・・・・・・でさぁな。ここいらは、どういうわけか小島もありゃしやせん」
「島がなけりゃあ、鳥も飛ばない。浜辺のやかましさが恋しいぜ」
「戻りますかい? 今はまだ大丈夫ですぜ」
「戻る?」
ハッ! と、織部は肩をすくめた。
「バカ言えってんだ。兵士どものケツを蹴り上げてここまで出張ったんだぞ? 手ぶらで帰れるか」
「手土産は何で?」
船べりの欄干にもたれる織部の上から尋ねる。
大男を見上げる上目が、おかしい物を見つめるように細められた。笑いをこらえているのか、口の端がかすかにつりあがっている。
もはや織部の癖ともいえるだろうか、何かあると、織部は重然の分厚い胸板を軽い力で叩く。
「琉球魚の肉が、薩摩の口に合えばいいな」
琉球魚は、九洲南部を根城にしている海人が用いている、琉球人を指す隠語である。『海の民』と呼ばれている琉球人を、海の生物になぞらえた呼び名で、侮辱語だ。
織部の言っていることは、琉球人をナマス切りにしてその肉を薩摩の民衆に配る、という意味だ。
もちろん本当に食用とするわけではない。あくまでも織部個人のユーモアな冗談だが、つまりは、一戦交えて手柄を立てずにどうして帰れよう、ということだ。
待ちに待って、ようやく北山に槍をつけるところまでやってきたのだ。この上は存分に戦い、武勇を示さねば引くに引けない。
——とはいえ、もう五日が経っている。本当に戦えるのだろうか、という疑問も、織部の中には少なからずある。
そのことを重然に聞いてみると、答える表情は妙に自身ありげだ。
「来ますぜ、必ず」
「どうして、そんな言い切れるんだよ?」
重然の態度が織部には気になって仕様がなかった。織部に限らず、薩摩の豪族たちでさえ、その確証を得ていないのだ。
何かあるのだ。重然にそうたらしめた何かに、おそらく、重然は気づいてしまったのだ。
ただ、それがわからないから、織部は少しだけ不安になっているのであった。
海の遠くを臨むが、織部には何も見えない。
「北山の目的は、同盟することでさぁ」
「らしいな。クソふざけた話だよ」
ぶすっとした口調で、織部が唇を尖らせる。
「ノコノコ顔だしてきたら、あたしが奴等の顔面を阿蘇の火口みたいにへこましてやる」
——本当にやりそうだな。
簡単にその場面を想像できる。一も二もなく飛び掛って、自慢の拳を顔面にめり込ませる。織部なら雑作もなかろう。
が、笑うことが出来ない。
「・・・・・・そう、普通なら、殴られようが殺されようが仕方がねぇ。先に『手を出してきた』のは向こうなんだ」
「おうよ、この喧嘩はあいつらが売って、あたしらが買ったんだ」
「だというのに、どういうわけだか『同盟』なんぞとほざきよる。お嬢、どうしてだと思いやす?」
「あ? そりゃあ、お前ぇ・・・・・・」
逆に問われて、織部はとっさに答えようとしたが、しかし適当な言葉が出てこなかった。
どうして、といわれても、織部にわかるはずもない。わかっていたら、本当に敵が来るのかと心配する必要もない。
答えに悩む織部の様子に苦笑しつつ、重然の脳裏に北山の船が揺れて浮かび上がってきた。
確実に、近づいている。
「協力を取り付けるんなら、それなりの『誠意』ってもんを見せなきゃなんねぇ。それは、国同士でも衆同士でも同じ『約束』でさぁ」
具体的にいえば『納め品』などだ。協力を願うとき、自然と受ける側が風上にたつ。願い出たほうは『誠意』として、価値あるものを『納め品』として差し出すことが普通であった。『納め品』はまた『上納品』とも言う。
簡単な例を挙げれば、織田信長という人物がいる。彼は越後の上杉謙信と同盟を結ぶために、多くの貴重品を『納め品』として送っている。天下の半分を集中にした信長でさえ、同盟の申し出人として風下に立ったのだ。
つまりはそれだけ『納め品』という要素は大きいものなのだ。
「が、北山はその誠意を見せるどころか」
「突っ込んでくる・・・・・・ってわけか」
織部の一言に、重然は頷いた。
「それも、ただ戦うわけじゃない。北山は最初に『商船』を狙ったんですぜ」
「それが?」
「もしかしたら、北山は負けが込んでいるのかもしれない」
「はぁ?」
織部の口から思わず声が飛び出した。なんでそういう結論にいたったのか、まったく理解できなかった。
負けが込んでいるから、納め品もおくらずに攻め込んでくる。まったく意味がわからない。
北山と九洲が真っ向から戦争をして、それで北山の負けが込んできたために起死回生の決戦を挑んできた、というのなら、まぁわからない話ではない。
しかし、現状でその理屈は当てはまらない。両者が本格的にぶつかる『かもしれない』戦いは、これからおこるのだ。
「北山の敵は、九洲だけじゃありやせんぜ」
織部の疑問に、重然は答えた。
「琉球は戦争の真っ最中で、北山のほかにも中山と南山がいやす」
「北山は負けてるって言いたいのか?」
「そう思えばこそ、北山がなぜ『同盟』を求めるのかに合点がいく、という話でさ」
「お前はそれを間違いないと思っているのか?」
重然は苦笑しながら、
「あっしの頭では、こう考えるのがせいぜい。実際がどうかは知りやせんが」
笑みを隠して、表情を引き締めた。
「もしそうならば、備えるにこしたことはありやせん。兵数の少ない薩摩の陸に敵を乗り上げさせたら、連中が優位に立っちまう」
最大の懸念はそこだ。もっとも寛容なのは、敵を薩摩へ上陸させないことだ。
上陸を許すということは、大きな意味合いを持っている。領土を侵されるということは、九洲内部に北山の『楔』を打ち込まれることだ。
だけではない。政治的にも大いなる損失となる。特に当方が歩み寄りの意思を一応は見せている以上、どちらがより多くの主導的要素を得られるかが問題だ。
重然の対応はあまりにも厳しいものだ。だが、兵士たちの中には、本当に戦いになるのかさえ疑問に思っている者が多い。ちょうど織部と同じように。
厳戒ともいえる警備体制——いやさ臨戦態勢は、その実、当然すぎる対応でもあったのだ。
が、まだ一つ、織部の疑問は消えていない。
北山の負けが込んでいるおおよその『推測』は理解した。だがなぜ、言い換えれば瀬戸際の状況に立たされている北山が、九洲に食指を伸ばしてきたのか。
そこが根本の疑問なのだ。
「それは・・・・・・」
と、重然が核心に迫った答えを言おうとしたとき。
言葉を詰まらせて、海のかなたを凝視した。
目を凝らせて突き抜ける視線の先を、織部も同じように追いかけた。
日が照る早朝は、よく濃霧になりやすい。とくに重然たちのいる海域は島合いのため、とくに霧が立ち込め易かった。
海上の霧を海人は恐れる。霧の中に魔物が潜んでいると信じているからだ。この考え方は北欧のバイキングなどにも見られ、海と近い生活を送るもの共通の恐怖である。
何かが見えた気がした。けれど、恐ろしいくらいに何も見えない。見えないことが逆に怖さを掻き立てた。
気のせいか・・・・・・? と、二人が思ったときだった。別の船が騒がしくなった。
「なんだ?」
嫌な予感がした。どの船が騒いでいるのか察すと、水夫が大慌てで近寄ってきた。息荒く、そうとうに急を要する風情だ。
何があったと重然が問うと、水夫は血相を変えて、
「ば、化け物が出たって」
「なんだと!?」
声を上げたのは重然ではなく織部であった。織部も生まれは海人の娘、海の魔物は恐れの対象だ。
織部が水夫の胸倉をつかみあげて持ち上げた。身長は水夫のほうが高いのに、足がぶらりと宙に浮いた。
締め上げている織部がそこそこの美人顔だけに、水夫には余計に怖く見えた。もう鬼にでも襲われたように、涙目になっている。化け物よりも織部のほうがよっぽど恐ろしかった。
「お、おたすけー」
薩摩兵士とも思えないほど情けない声だ。しかし、それだけ今の織部が浮かべている表情は強張っているのだ。
見かねた重然が興奮している織部を落ち着かせて、詳しい話を水夫に促した。
「は、幡多丸(はたまる)の連中が、霧の中に、あ、あ」
喉を詰まらせながら、水夫はなんとか言葉を紡ごうとしている。ちなみに幡多丸とは竜神丸とおなじ、船の名前である。
「落ち着け。霧の中に何を見たんだ?」
「あ、赤い、長い化け物」
「・・・・・・」
重然と織部は顔を見合わせた。
さらに詳しく聞くと、幡多丸が目撃した怪物とはこのようなものであった。
——霧の中から、ぼうっと、陽炎のように浮かび上がってきた。赤い点りで、一つ二つと増えていって、最後はとてつもなく長い一本の怪物になった。
ということなのだが。
お前も見たのかとい問うと、水夫は首を立てに頷かせた。この織部におびえている水夫も見ていたようだ。
どうやら、見間違いじゃなかったようだな。重然が見たのは気のせいかと思ったほどに小さかった。きっと怪物の頭か尻尾だったのだろう。
「まだ見られるか」
と尋ねる前に、重然は駆け出していた。その後ろを、織部も追いかける。水夫は腰を抜かしていて立つことが出来ず、一人だけ取り残された。
船体の側面に人だかりが出来ていた。重然が近づくと、水夫や兵士たちが口々に、
「なんだ、アレは?」
「長いぞ・・・・・・まるで蛇だ」
と、うろたえ声を上げている。
身を乗り出して、巨体が人垣を割る。こんどは目を凝らす必要もなかった。
はっきりと見えている。確かに赤くて、長い。
——長すぎる。
「な、なんだありゃあ・・・・・・」
下から織部の声が聞こえた。驚きを通り越して、すでに唖然としていた。重然も同様であった。
言葉を失うほど、ソレは長いのだ。先に行けば行くほど薄くぼやけているが、それにしてもこの長さはどうだろう。軽く一町ほどあるのではなかろうか。
赤い怪物は、ただゆらゆらと霧の中で揺れている。鳴声などは聞こえない。
重然は目を逸らすことが出来なかった。魅入られた、というほど綺麗なものではないが、あの恐ろしいほどの長さは、視線をはずさせることさえ許してくれなかった。
固まって動けない重然の下に、今度は愛宕が首を出した。船倉で寝ていたはずだったが、騒ぎを聞きつけてきたのだろう。
「・・・・・・お頭、なんでっすか、アレ」
目を猫眼に丸めて、愛宕が尋ねてきた。知らねぇ、と答えるしかなかった。事実、アレが何なのか、重然が知りたいくらいなのだ。
「海神さま?」
「海神様は青い」
海神様とは、呼んで字の如き存在である。龍神の同種で、海の守り神だ。海にちなんでいるため、青い龍の威厳高い姿で表現されることが多い。
だが、愛宕が海神様と思うのも無理はない。それだけ長いのだ。とにかく長いのだ。
他の船からも騒がしい声が響いてきた。気づくと、重然たちの周りの霧も濃くなりつつあった。霧の濃度は高まれば高まるほど、魔物が出現する確立が上がっていくと信じられていた。
このままでは艦隊が恐慌状態に陥ってしまう。自身も恐怖に心を焦がしながら、慌てて全船に後退命令を発した。
赤い怪物は、霧の中に消えていった。
亜衣は不機嫌だった。
その気の害しようときたら、道行く官や将や小間使いたちが、思わず距離を開けるほどであった。
足音を荒げたり、理不尽な命令を飛ばしたりなどということはない。しかし全身からわかってしまうのだ。主に目でわかってしまう。
所作も常と変わらないが、目だけが怖い。笑っていないというよりも、もうよくわからない、と言ったほうが正しいかもしれない。
不機嫌の理由を探るよりも、以上に、関わってはいけないという思いが噴火のように湧き上がるのだ。だから、よくわからない。
ところで、なぜ亜衣の機嫌が底冷えしているのかというと、理由は重然であった。
薩摩の視察に赴いた折、亜衣は重然と居並ぶ将たちに向かって『迂闊に動くな』と言していたのだ。
亜衣は交渉を得意としている。ホタルから『北山に同盟の意思あり』という報告がもたらされたことで、戦だけでなく、政の可能性もあると考えたからだ。
そうなると重然には荷が重い。香蘭でも難しい。紅玉なら適切に対処できるだろうが、薩摩県の独断で決するには事が大きすぎる。
だから、亜衣としても可能な限りの情報がほしかった。思っていた以上に重大な事態だと認識したからこその対応だった。
——だというのに。
執政室に戻って文机に向かうと、硯を軽くすって筆先を浸した。が、どうにも字を書く気にはなれなかった。
不安で飯も喉を通らないという言葉がある。今の亜衣は、憤りで筆も奔らない、という感じだった。
仕事が手に付かない。今は何よりも、薩摩で何があったかを知りたい。どうして言に背いたのか、その真相がただ知りたかった。
こういうとき思うのが、もしも九峪様がいたらという、埒もない弱き考えだ。不測の事態ほど、妙な冴えを見せ付けてくれた九峪の凄まじさは、まさに今のときこそ思い知らされる。
胸を焦がすような苛々しい焦燥が、得もいえぬ気持ちの悪さで亜衣を悶えさせる。厭な気分だった。
亜衣の仕事は対北山のことだけではない。財政の切迫した薩摩への支援、建設や土木などの公共事業の管理なども、今は亜衣の仕事が。
かつて九峪の唱えた政治形態は、職務をより細分化することを主眼においていた。しかし組織管理能力の高い人材が育っていないため、亜衣が一括しているのが現状であった。
今も机の上には、県知事から送られてきた陳情書が山を成している。今開いているものは豊後県から来ているものだ。内容は湯布岳にある温泉保養施設の増改築に関した援助要請だ。
昔も今も、仕事は亜衣のところに集中している。亜衣に任せれば間違いがないと思っているのだろうし、宰相の亜衣を通すことで『官製事業』の面目が立つためだ。
亜衣にとっては堪ったものではない。
そのせいで、亜衣はなかなか自由を確保できないのだ。自由時間を確保すれば、大抵は九峪のいる阿蘇山に足を運んでさまざまな相談事ができるのだが。
今回の対北山にしても亜衣は二度、九峪に相談を持ちかけているのだ。ただ亜衣自身が詳しいことを知らない以上、九峪に相談したとて的確な意見が聞けるはずもない。
それでも本音を言えば、亜衣はすぐにでも九峪の元へ駆けつけたい思いでいっぱいなのだった。だが、最近は薩摩県の政治不安が周囲にも波及して、以前にもまして陳情書の数が膨れ上がっていた。
亜衣は耶牟原城から動けないでいた。
「だれか」
戸口に向かって声をかける。戸口には常に衛兵が二人いる。彼らは番兵であると同時に、庶務や連絡なども行っていた。
「ここにおります」
「蘇羽哉をここへ呼べ。薩摩から帰還したホタルと、清瑞も呼べ」
「はっ」
一礼して、衛兵は伝令士となった。鎧を鳴らしながらも素早く姿を消した。
衛兵が蘇羽哉たちを連れてくる間に、亜衣の細指が竹簡に綴らせる。陳情書ではなく、何も書かれていないまっさらな竹簡だった。
文章はすぐに認められた。時間がわずかに余ったが、陳情書に目を通す気にもなれなかった。やはりそんな気分ではなかった。
——やらなくてはいけないんだがな。
などと、内心でため息をつく。もはや苦笑も出てこない。自分がこうやって遅れれば遅れただけ、九洲の公共事業が停滞していくのだ。
内政と外交。両立はなかなか難しい、特に一人で行う場合は。身は一つしかないのだ。
少しして、まず最初に蘇羽哉が執政室にやってきた。
「蘇羽哉、まかりこしました」
畏まって平伏する蘇羽哉の面を上げさせて、亜衣は手短に用件を話した。
蘇羽哉は巫女だが、実質的な亜衣の側近でもある。政の心得があった。
「裁可を許す。各県の陳情に応えろ」
「・・・・・・私が、でありますか?」
「そうだが?」
蘇羽哉の口が『あんぐり』と開いたまま閉じようとしない。
だがそれも仕方がなかろう。何しろ亜衣の指した陳情とは、積み重ねられた簡書の山のことを言っているのだ。
——よくもまぁ溜めたものです・・・・・・。
呆れるような、感心するような。そのことを職務怠慢と指摘しないことが、蘇羽哉流のお仕え術だった。
が、今回ばかりはどうだろう。この陳情書の量、尋常にあらず。
「そろそろ、こういった仕事をこなせる人材がほしいところだ。九峪様の考えた組織の細分化というものは、効率的にもよろしいからな。お前が私ほどの判断と、そして経験をつめば、分野を明け渡してやれる」
「は、はぁ・・・・・・」
「お前はすでに、祭事に関する庶事を司っているな。だがその地位で満足してもらっては困る。ああ、困るのだ。九峪様の政治構想は効率面で言えば素晴らしいものだ。いずれは『省』を創らねばならぬ。そのとき、ゆくゆくは蘇羽哉に『省』を預かる『大臣』になってもらおうと思っている」
この亜衣の考えは本当である。
九峪の政治システムは、大部分を現代日本を参考にしている。そこに、歴史で入手した知識などを盛り込んだものが、亜衣の言う『効率的に有用』な政府構想であった。
『権力分散』を主眼においた民主的なシステムだ。現代で生まれた九峪は、祭事に大きな関心を寄せなかった。ゆえに実務的な政治を一手に引き受ける存在として『省』の設置を目指していた。ちなみに、現在までに『大蔵省』が創設されている。大臣は只深である。
亜衣はいうなれば総理大臣で、いつかは蘇羽哉を大臣にしたいと考えていた。だから、亜衣は蘇羽哉をなんとしても大臣の器に育てたいのだ。
そのために、仕事を任せると言っているのだ。
とはいっても、蘇羽哉は生返事を返すしかない。どうにも亜衣の言が言い訳に聞こえて仕方がないのだ。
だから思わず、
「私一人で、ですか?」
と聞いたのも、仕方がないことだった。亜衣は硯と筆を蘇羽哉の前にそっと置くと、
ニヤ
と、笑みを浮かべた。蘇羽哉は項垂れるしかなかった。
「せめて数名、誰かつけてください」
「独断で登用してもいいぞ。ある程度の権限は与えてやるから、案ずることはない」
「左様ですか・・・・・・」
もう、どうにもなりそうにない。そう悟った案埜津は、唯々諾々と従うしかなかった。
いや、まてよ。蘇羽哉は項垂れながらも、ふと考える。これはこれで、たいへん名誉なことではないか。うまく事を処理していけば、重鎮としてより深く国政に関わっていけるではないか。
——と、己を奮い立たせては見るものの。いちど力の抜けた肩は、容易に上がることはなかった。なによりも、この仕事量はないでしょう、という思いが強い。
「任せたぞ、蘇羽哉」
「はい・・・・・・」
駄目押しを背中に受けて、蘇羽哉は自らの仕事場に戻った。陳情書は衛兵に運ばせることになっている。
さて、国政に関してはこれでよい。手に負えないと思ったものは保留しろと言い含めておいたので、無理をすることはないだろう。本当は無理の一つでもしてほしいのだが、部下を思いやるのも人の上に立つ者の役目だ。
衛兵が書簡の山を全て運び終わっても、清瑞他はまだ来なかった。すでに一刻はゆうに過ぎている。
清瑞は城下に屋敷を持っている。宮殿からそう遠くない場所で、これが中々の敷地を持っていた。清瑞はこの屋敷で、他の乱波とともに生活しているのだ。
とはいえ、この屋敷、もとから清瑞所有の屋敷ではない。もともとは九峪所有の屋敷であり、寝食するもの全員が、九峪に縁のある人間ばかりであった。
「・・・・・・遅いな」
手持ち無沙汰になって、思わずそんな独り言がこぼれた。
と、同時だった。戸口の向こうに、ふっと人影が現れたのは。
「清瑞まかりこしました。遅参せしこと、お詫び申し上げます」
一礼して、清瑞が部屋に入ってきた。その後ろから、二人の男女が同様に礼をして入室してくる。
「ずいぶんと遅かったじゃないか」
座した三人に向けての第一声である。
清瑞は臆した様子もなく、整然と、
「一里ばかりの離れ林にて、訓練をしておりました」
淀みなく受け答えした。そうか、と亜衣は言った。
話はすぐ本題へと移された。
「薩摩と北山の情報がほしい」
亜衣の求めは、簡潔に言えばこんなものである。
重然の動向には、正直なところ、亜衣も度肝を抜かれた思いなのだ。存外に勘違いされることだが、重然は意外と思慮深い男だ。
九峪や亜衣の指示に素直に従うことから、能無しと思われがちだが、決して軽率な振る舞いや行動はしない男だ。
それが、今回ばかりはどういうことか、亜衣の言を無視して行動を起こした。
なぜ動いたのか。その理由が知りたかった。
「もう一度、ホタルを向かわせようと思う」
清瑞は了承の意を頭を垂れて示した。いまだ自身の秘密を知らない清瑞に、宰相である亜衣の命令を背く意思などありようはずもない。
亜衣は清瑞の背後に控える二人を見やった。
「そこにいるのが、薩摩へと走らせた者たちか」
乱波たちが再び平伏した。
「名はなんという?」
落ち着いた声で尋ねられた二人は、一瞬だけ互いを見合わせた。
清瑞はともかく、一介の乱波にすれば亜衣は天上人である。雲の上の人であり、その亜衣から名を聞かれるということは大変な名誉であった。
が、ひどく感激することがないのも、また乱波である。自制心が強いのだ。すぐに視線で会話を交わすと、まず最初に少女が一礼した。
「愛染(あいぜん)ともうします」
長い黒髪が綺麗な、十代の少女だ。
続いて男が頭を下げた。
「侘吉(たきち)ともうします」
細身で、冴えない顔つきの男だ。とはいっても、乱波の一員である、腕は確かなのだろう。年のころは四十前後と見受けられた。
愛染に、侘吉か。心の中でその名を反芻する。反芻して、ふと、亜衣はあることを思い出した。
——愛染。聞いたことのなる名前である。記憶をたどれば、その名は、九峪の口から発せられたものだった。
気になると、どうにも聞かずにはいられない。
「愛染。その名は、親からもらったのか?」
一瞬、愛染が目を丸くした。
「は・・・・・・いいえ、これは九峪様よりいただきました」
わずかに困り顔で、愛染はそう答えた。なぜこのようなことを尋ねられたのかが、よくわからなかった。
しかし対する亜衣は、ひとり何事か納得いったのだろう、首を縦に振っている。「そうか」という小さな言葉が聞こえた。
些細な疑問は解決した。亜衣は顔を上げると、控える二人へと視線をやった。
眼鏡を指先で直す。
「北山方の詳しい情報を聞かせてくれ」
亜衣の視線は鋭い。重然が動いた理由を察するには、同じくらいの量と質の情報が必要である。
乱波が薩摩より戻ったのは、つい先日のことだ。そのときに、亜衣も重然の行動を知ったのだ。いま総司令である重然によって、乱波は帰還させられたのだ。
重然の本音は、ただ巻き込みたくない一心だ。乱波はあくまで清瑞の部下であり、伊雅や亜衣が直轄で運用している部隊。重然はあくまで、その人員を借りているにしか過ぎない。
が、その配慮が今回ばかりは、亜衣の手を煩わせる結果になってしまった。愛染でも侘吉でもいい、重然は返すにしても、一人とどめておくべきだったのだ。
愛染と侘吉は清瑞に促され、自らが入手してきた情報を、余すところなく亜衣に伝えた。ときおり、亜衣は薩摩方の情報も求め、それらを織り交ぜながら話は進んだ。
亜衣は特に『同盟』に関する話を執拗に問いだした。
この『同盟』に関しては、侘吉が詳しかった。侘吉は漂流した漁師を装って、北山方と接触していた。
「重然殿は、同盟の可能性が高いと申しておりました」
「それは、重然に結ぶ意思がある、ということか?」
「いえ。北山の申している『同盟の意思』が真であると」
「つまり、虚言ではないと、重然は判断したんだな?」
「御意」
侘吉との問答で、亜衣は余計わからなくなった。
詳しく聞くと、重然は北山と戦うために船を出したという。ただしそれは、攻めるのではなく敵を待ち受けるためだという。それは北山の侵攻を意味している。
『同盟』が本当ならば、なぜそんなことをする必要がある?
二人に尋ねても、同盟の意思は間違いないと答えている。侘吉などは、北山の人間としばし生活までして情報を入手したのだ。彼は直接、その言葉を聴いている。
ただ、どうして『同盟』を結びたいのか、それまではわからなかったという。亜衣はまさにそこが知りたかった。
「清瑞、お前はどう考える? 北山の狙いは何だ?」
それまで無言だった清瑞に、亜衣は尋ねてみた。従うことのみを乱波の美徳としている清瑞は、率先して進言することがない。
しかしその判断力や推察力は決して馬鹿には出来ない。
そうですね、と前置きして、清瑞は己の考えを述べた。
「同盟と言ってますが、北山のやりようはまさに侵略そのものです。が、それを北山はあくまで『同盟』と銘打っています」
「ふむ・・・・・・」
「私が思うのは・・・・・・北山には本気で戦う意思がない、ということです」
「そうだ、それが私も気になっている」
「北山は、助けを求めているのではないでしょうか」
「助け?」
清瑞はコクリと頷いた。
ずいぶんと飛んだ考えだ。内心で亜衣はそう思ったが、一方でなるほどと納得もしていた。
重然たちは、琉球の情勢を多少は知っていた。中山、南山という勢力と長いあいだ争っていることも話してくれた。
助けというのであれば、なるほど、北山はこれら二つの勢力と争い、劣勢に陥っているのかもしれない。その助力として九洲に『同盟』を持ちかけている。
そう考えれば、たしかに清瑞の意見は正しい。正しいが、ではなぜ侵略まがいのことを、という疑問が残ってしまう。
それを清瑞に尋ねてみると、
「わかりかねますね」
と、答えるだけだった。それはそうだと亜衣も思った。
北山の考えていることなど、わかろうはずもない。
「そして重然は敵が襲ってくると考えた。北山は動きを見せていないのだろう?」
「はっ。見せていないどころか、ここしばらくは、まったく船も見かけなくなりました」
「それを予兆と取ったか。同盟が真であると確信していながら・・・・・・」
確信していながら、敵が襲ってこないと考えなかった。そこに、重然の考えがある。そこの部分を知ることが出来れば、重然の行動の意味も知れよう。
ただ、忘れてもならない。この考え方自体が、あくまでも推測でしかない。清瑞の意見だって、所詮は推測の域を出ない。
なんにしても直接、重然を問いただすしかないようだ。
「すぐにも乱波を送り込め。必要だと思ったならば、清瑞、お前が直接むかってもかまわない。大将軍には私からお伝えしておく」
大将軍とは伊雅のことである。ホタルの棟梁である清瑞を独断で動かすことは、亜衣でも難しいことなのだ。
「はっ」
清瑞は承ると、しずかに亜衣の下を去っていった。そよ風のような消え方だった。愛染と侘吉も、すっといなくなった。
一人になった執政室で、亜衣はため息をついた。
事態がどんどん大きくなっていく気がする。内心のあせりも大きくなっていく。
私も、薩摩へ向かわねばなるまいか。
いったい彼の地で何がおきているのか。それをすぐにでも知らねばならない。
「・・・・・・九峪様に、もう一度ご相談を」
ずいぶんと時間にも融通が利くようになったのだ。阿蘇に登ろうと、亜衣は密かに決めた。
——九峪様、どうか私にお力を。