『大隈海戦』から五日が過ぎた、今は八月十二日。珍しいことに、天空が泣いている。
錦江港の湊町の一つ、加奈港は九峪が興した街である。近代的な湊町の建造計画の下、実験的に設計された湊で、そこそこの大きさがあった。
千品万物がこの大湊から出て、入り、薩摩と共和国を潤すはずであった。事実、この湊町はよく機能してくれた。とくに九峪が力を入れた『造船ドッグ』は的を射て、多くの造船技師が錦江港に入植し、農耕著しい薩摩の錬兵に次ぐ誇れる産業となった。
が、はたして今はどうだろう。過去から未来までも期待された加奈港には、商船よりも、漁船よりも、北山の戦艦が互いを擦りながら停泊している。造船業はずっと停滞していた。
異様な数の『ニ山月牙』の旗が、やはり異様な景観を生み出している。まるでここが九洲でないようだと、加奈湊の人間たちは錯覚した。
敗戦——。その重い事実を、北山の旗と船が高々と叫んでいた。
北山の総司令官、恵源はわけのわからない男であった。勝ち将軍なのに、変に腰が低くて、威圧的でなく、まるでらしくなかった。しかし対面した紅玉は、恵源の腹に込める考えを見抜いていた。
同盟といえば国家間の約定である。従って本来は、国主同士が向かい合い、杯を交わして、証文を認め、血の契約で完了する。
それに倣うならば、北山の王自らが九洲へとわたって来なければならない。ただし、これをしない以上、亜衣にも考えがあった。
「私が勅使を務めます。火魅子様は、くれぐれも御動なされてはなりません」
王の代わりに恵源という男が来た。ならばこちらは火魅子の代わりに、自分が相手をしよう。
決して火魅子には合わせない。足元を見させない。驕らせない。
出来る限り我を押し通さねばならなかった。引き出せるだけの条件を引き出して、遮二無二譲歩と妥協を押し付ける。そのためには、こちらから動くことは相ならない。
だがいまだ政治感覚が成熟しきっていない火魅子は、儀式の場こそ典礼に通じなければと思っていた。なまじ祭事を統べているだけに、儀式を重んじる傾向があった。
「私もいくわ」
当然のようにいった火魅子を、亜衣は畏れ多くも鋭い眼光で黙らせた。もはや火魅子に向かってこんな視線をぶつけられるのは亜衣だけで、幼いころから刷り込まれてきた恐怖心は、いくら火魅子になったからといって拭い去れるはずもなかった。
「いいですね。くれぐれも、動いてはなりません。くれぐれも、です。く、れ、ぐ、れ、も。・・・・・・どぅーゆーあんだすたん?」
「お、おーけー」
こうして亜衣は薩摩に向かい、腰を抜かした火魅子は一日中祈祷場から出ようとはしなかった。この日は必要な儀式もなかったから、もしかしたら亜衣もそれを見越していたのかもしれない。
十三日。亜衣は薩摩荘の屋敷で恵源と対面を果たした。場には北山方の軍師、教来石が同席し、九洲方は香蘭母子が同席した。
会合は三日間にわたって行われ、それぞれが代行したまま、同盟は成立した。十五日のことであった。
いくつもの条件をぶつけあい、刷り合わせ、譲歩と妥協を繰り返して、亜衣は耶牟原城へと帰った。北山は戦力の一部を本国へと帰還させ、加奈港は北山の宿営場となった。
狼藉を働いたら問答無用でたたき出すと釘をさしたが、薩摩の人々は呆気なく勝利をものにした北山を恐れてしまっている。北山の用意した土産は『恐怖』であった。ほとんど恐喝と変わらないが、成功すればこれほど強力な材料はない。
かくして『九北同盟』は成立、亜衣の尽力あって、九州はなんとか立場を守ることが出来た。
「——重然が負けたぁ!?」
阿蘇でのんびりやっていた九峪は、薩摩方敗北の報を聞くや、素っ頓狂な声を上げて宙を仰いだ。
とても信じられることではなかった。九峪が知る限り、重然はいくさで不敗の男だ。二十年前に起こった狗根国とのいくさでも、各地で大敗が連発する中、重然が参加した海戦は勝利したと聞いている。
九峪から見ても、重然はいくさ上手であった。こと海に関する戦いでは、九峪は全幅の信頼を置き、やおら口出しするよりも重然に任せておれば大丈夫だとさえ思っていたのだ。
北山が本当に攻めてきたことも驚いたが、九峪の驚愕はかねがね重然が後れをとったことに集中してる。
「重然の失策・・・・・・とは思えないんだが。敵が巧かったってことか?」
「まぁ、巧いといえば、そうなのかもしれません」
侍女が洗濯物を干しながら答える。どうでもよさそうな言葉に、九峪はため息を一つついて、書状へと視線を落とした。
北山問題について書かれた書状は、侍女が人里で入手したものである。侍女は生活用品の入手のために、たびたび人里へと降りている。それを見計らった亜衣が侍女に持たせたものである。
「まさか、清瑞の予想がどんぴしゃりだったなんてな・・・・・・」
これにも驚いた。おそらく、清瑞も驚いたことだろう。
北山が何ゆえ攻めてきたのか、清瑞が言ったとおりの理由であった。
琉球島で繰り返される騒乱で、北山の立場が危うい、とは会談の場で恵源がもらした言葉である。
北と南に挟まれた中山は、もっとも厳しい戦いを強いられていながら、それらを戦い抜いて得た自信と実力を持って、三国一の大勢力へとなったという。
その中山が、まず叩き潰すと見定めたのが北山であった。
「にしたって、わざわざ攻めてこなくたって」
思わずぼやきたくもなる。手を貸してくれ、と言ってくれれば考えなくもなかったのに、攻撃されてはいい迷惑だ。
おかげでまさかの敗戦となって、九洲はてんてこ舞いらしいことも、亜衣からの書状には書かれている。
「献上品がないとか、主導権を握りたいとか、いろいろあるんだろうけど。こっちの神経逆撫でしてどうするんだ?」
「それだけ崖っぷちだった、ということでしょう」
「そうか・・・・・・そうかぁ?」
「でなければただのバカなんでしょう」
「・・・・・・」
——恐ろしい子。
人間、変われば変わるものと、思わずにはいられない。少し前まで緊張したり畏まったりしていたこの女中、九峪との生活に慣れ始めたら次第に地を露にしてきたのだが。
性格は以外になげやりな感じだった。言動もわりとどうでもよさげで、しかも辛口の批評が多い。
取り繕わなくなっただけ、まだ全然マシなんだけど。珠洲に比べたら全然イイ人なんだけど。
せめてもう少し、歯に衣着せたほうがいいと思いながら、九峪はため息一つをまたつく。
女中の言葉を鵜呑みにするわけではないが、崖っぷちなのかバカなだけなのか。考えるだけ詮無いことかもしれないが、暇がちな九峪は、気になりだしたら思考をとめることが出来ない。
北山の情勢は知らないが、たしかに、崖っぷちといえば崖っぷちなんだろう。それにしてはどうにも短絡的でならない。重然を破った恵源という男、そんな馬鹿なことをするか?
九洲征服の足がかり、とも考えられるが。それほどの余裕があるなら、まずは琉球の統一に全力を注ぐべきだ。
——北山、いったい何を考えている?
空を見上げても、答えがわかるわけではない。しかし九峪はいつも、相手の思惑を考えるとき、決まって空を見上げる。晴天でも雨天でも、それは関係ない。空だけが唯一、自分と相手を繋いでいる。
洗濯を終えた女中がかごを持って立ち去った。縁側に一人、九峪だけが残される。そよ風が洗濯物と踊っている。
揺らめく布の下を、ゆっくりと歩いている。老猫だ。老いてなおどこか気品があるのは、野生の持つ独特の美しさであった。
老猫が九峪のもとへとやってくる。ゆっくりと、慌てず。この猫は擦り寄るということを余りしない。まるで私とお前は同等だ、といっているように、この時も偉そうにのらくらと近寄ってきた。
ジャッと地をけって、九峪の膝に収まる。もぞもぞと具合を変えて、すっぽりと収まる。ふうっと鼻から息を抜けるのがわかった。
九峪は苦笑した。
「ほんとふてぶてしいヤツだね、お前も」
聞いているのかいないのか、老猫は耳を動かしさえしない。このまま眠るつもりのようだ。
——家に憑いたな。そう思った。猫は家に憑く。老いて先の短い命の、ここを終の棲家に選んだのだ。
小さな虎柄を撫でてやりながら、もう一つ、九洲に憑いた大きな獅子のことを考える。この獅子は老猫のように、頭をたやすく撫でさせてはくれまい。
九洲海軍の猛将重然を大隈海峡で破り、まさかの圧力外交を成功させた男。圧力で臨んで来た以上、これからも威圧をかけてくるだろうことは想像に難くなく、その圧力から九洲を守れるのは、まだ共和国に五指といない。
この危機を乗り切るには、それこそ『和』が必要だ。孟子は何か大事にあたるときは『天地人』の構えを持って迎えるべしと説いた。その通りだと九峪は思う。
九峪が『天地人』という言葉を知ったのは、つい最近のことであった。時間だけが無駄にある九峪の唯一の趣味は読書だ。もっぱら『孫子』『孟子』『呉子』などを読みふけり、戯れに本を書く。
意図したわけではなくも、九峪の目指した『共に和する』は孟子の『人の和』と同じものだった。ささやかな感動を覚えながら、例えこのような境遇におかれていても、あれは間違った選択ではなかったのだと、誇りにさえ感じた。
北山との関係が何時まで続くかはわからない。北山が滅べばそれまでだとしても、九洲も打撃を受けることは間違いない。
『和』こそがすべての基本で、原理だ。これを守り続ける限り、内部からの離散はありえない。そして誰か一人でも強い意志を持った人物がいれば、決して諦めることはない。
その筆頭こそが火魅子であり、宰相の亜衣であり、大将軍の伊雅であり、紅玉や志野などの実力者であるべきだ。彼ら彼女らが『和』の主軸となって力強く廻り続けたなら、それこそ安泰というものだ。
——その『和』の中に自分がいない。それだけが、寂しくもあるのだが。
「なんにしても・・・・・・」
心の静寂を振り払うように声を吐き出す。
仕方がないものは仕方がない。すべては任せるしかなく、九峪はただ、この霊山から知りえぬ下界を想うしかない。
なんにしても、亜衣たちに任せるしかない。今の自分には力がないのだから。
ただ、九峪にも興味はある。書状に書かれた恵源という男が、どのようにして重然と戦い、破ったのか。それだけが興味であった。
「亜衣がきてくれればなぁ」
最近になって亜衣がこなくなった。パッタリといっていいほどに、忽然と。暇がちな九峪が余計暇になったことは言うに及ばない。
気になる。気になりだしたら止まらない。いっそ変装でもして薩摩にいこうか・・・・・・そんなくだらない考えさえも浮かんでしまう。
知ったからどうと言うわけでもないのだが、九峪とて戦いの世で指揮を執ってきた英雄だ。感化された本能が知りたがるのだ。
「水上戦といえば赤壁、壇ノ浦、厳島くらいしか知らないからなぁ」
「あら、ずいぶんと知っているじゃない」
「まーな・・・・・・へ?」
目が丸くなった。振り向こうとした直前に、老猫が起き上がってものすごい勢いで離れていってしまった。ふてぶてしい老猫が、まるで怯えた兎のように。
「あの猫、老いているくせに判断がいいわね。さっさと逃げちゃったわ」
「危険には敏感だもんね〜」
「いや、経験だろう。あんな獣風情でも、長く生きればなんとやら」
わいわいと話している三人組を、九峪はポカンと見つめる。どうにも珍しい連中が来たもんだ。
老猫が去った方向を見ている魔兎族三姉妹は、酒樽を抱えて立っていた。もちろん、持っているのは兎音と兎奈美だが。
兎華乃が微笑みながら、九峪を見やった。
「お久しぶりね」
「お、お久しぶり」
生返事を返すだけで精一杯。あまりにも意外な再開に、九峪の思考は停止した。
珍しい客と書いて珍客と読む。何かと『巾着に似ている』と指摘されることが多く、また『珍』の字をあえてカタカナで表記した場合に起きる小学校限定のバッシングが非常に愉快な言葉だ。
『珍』というくらいだから、当然のごとく、普段まったく交流のない相手が客としてくるわけで、戸口で出迎えた亜衣を、兎音は小首を傾げつつも取り合えず土間へと招き入れた。
草鞋を脱いで居間へ上ると、海豹よろしく床に寝そべってダレている兎華乃がまず顔を上げた。かつて只深が贈った『セーラー服』を着ていたが、裾やら何やらが豪快に捲れて、理路整然とした印象しかない彼女からは妙に大きなギャップを感じた。
「・・・・・・挨拶から始めるべきか、女性としての心得から論ずるべきか」
「ひどい言いようね。ただダレているわけではないわ」
「でしたらダレているわけでもないのに『独活の大木』に生まれ変わろうとしている理由から伺いましょうか」
「・・・・・・あら? もしかして私、馬鹿にされてる?」
——真夏なのに、どうやら兎華乃の季節では春が訪れているようだ。
どうしたものかと兎音を見やるが、諦めきったため息で返答されてしまった。もしくは疲れたため息か。どっちにしろ兎音から有益な情報は得られそうになかった。
「まぁ、勝手にそこら辺にでも座っていろ」
「この部屋にか?」
この部屋とは、兎華乃のいる空間を指す。
兎音は目を合わせずに、
「・・・・・・座っていろ」
とだけ言って、そそくさと奥へ引っ込んでいった。逃げたな・・・・・・と心中で罵りながらも、言われたとおりに腰を下ろす。茣蓙は勝手に出したが、文句は言われまい、というか言わせない。
「珍しいじゃない、あなたが尋ねてくるなんて。明日は誰の雨が降るのかしら」
海豹が口を開いた。見方によっては『たれパンダ』かもしれない。この場合は『たれウサギ』か。
「誰の雨も降りませんし降らせませんし降られて堪るもんですか。この九洲に赤い雨が降ったら、まず貴女を疑うべきかもしれませんね」
「私は良心的よ? 自制心だってあるわ。そういうことは妹たちに言って頂戴」
「身内に自制させるのも、目上の仕事です」
「そうねぇ・・・・・・」
兎華乃がゴロンと寝返りを打って仰向けになる。紅い瞳が見上げる。
「どこかの誰かさんは、出来てないみたいだけど?」
意地悪い笑みを浮かべた言葉に、こっちが言葉を詰まらせる。痛いところを突かれるとはこういうことを言うのだ。
亜衣が答えられないと、兎華乃はクスクスと笑いを忍ばせながら上半身を起こした。
「いろいろ大変そうね。急がしそうで何よりだわ。こっちは天目も九峪さんもいなくなって退屈だというのに」
「暇そうで何よりです。私なんかは切り々々舞のてんてこ舞いなのに」
「いいじゃない、忙しいことはいいことよ。充実した生活だわ、満足いく生涯だわ」
「内容にもよりますね」
「邪魔なヤツラがいるんでしょう? 麓の里で噂を聞いたわ。今ならタダで皆殺しにしてあげるわよ?」
——そんなに退屈ですか。とは口が裂けても聞けやしない。魅力的といえば魅力的な提案だが、たとえ金銭をもらっても承諾はすまい。
結局ただダレているという事を露呈しながらもそのことにまったく気づいていないところを見ると、やはり兎華乃は春のまま止まってしまっているようだ。季節は夏なのに。
退屈とはかくも恐ろしい。いつだか九峪が言った『人間が生きる上でもっとも恐れているのは退屈だ』の意味も、兎華乃を見ればわかろうというものだ。
時間さえも止まるのならば、たしかに忙しいほうがよいのだろうが、しょせん隣の桜の方が美しく見えることと同じだ。羨ましいと思いながら、こうはなりたくないとも思う。
「もう少ししゃんとしなさい。在りし日の貴女はしっかりしていなくとも、そこまでだらしない駄目女ではなかったはずです」
「そんな昔の話されても。もう五年よ?」
「魔人の寿命は長いと聞きますが?」
「五年は五年ね。一日と一年の長さが変わらないように、五十年生きようが二百年生きようが感じる五年は一緒よ」
体感時間は人間と同じ——と言いたいのだが、この時代にはまだそういった言葉の概念がなく、無駄に遠まわしな言葉で兎華乃が言い訳した。
そういうものかと納得したところで、兎音が茶を持ってきてくれた。高麗人参茶だ。
「ありがとう」
礼を述べて湯呑を受け取る。注がれた赤茶けた鈍い色合いが、なんとも飲む気を薄れさせる。味も最悪だ。
しかしそれをおくびにも出さないところが、流石は九州一の外交官といったところか。背中で苦しむ様子を、決して面には出さない。笑顔すら浮かべてみせる、そんな余裕。
「いい時代になったものねぇ。あくせくして育てなくても、種をあげるだけで忌瀬さんが種まきから製粉までやってくれるんだから」
「・・・・・・自分で育てたらどうです。退屈とは縁を切れますよ」
ジト目でそう言うと、兎華乃はあからさまに厭そうな顔をして、
「やあよ、メンドクサイ」
などとのたまった。このダレウサギは骨の髄まで腐り始めているらしい。
なぜだろう、亜衣はそこはかとなく切ない気持ちになった。かつてあれほど頼りになった兎華乃の、自堕落極まった姿を見ていると悲しくなる。
兎音が視線で「諦めろ」と語っているのも、余計に亜衣を悲しませた。兎音よ、たまには逆らったらどうだ。
『ウサギは寂しくなると死ぬ』と聞いたことがある。しかし実際は『退屈すぎて死ぬ』ようだ。なんとも俗っぽい。
もういろいろなことに諦観が指し始めたころ、ふと亜衣は周囲を見回した。
「そういえば、兎奈美の姿がありませんが」
今気づいたが、どこにも兎音がいない。客人が着たらいちはやくはしゃぎ立てる末妹はどこにいったのだろう。
「兎奈美なら蔵にいる」
「蔵?」
「漬物蔵だ。高麗人参の漬物をおいている」
「ああ・・・・・・」
言われて合点がいった。高麗人参の漬物。あの恐ろしく『しわい』味のする物体か。
以前のことだが、亜衣も忌瀬に食わされたことがあった。臭いも強烈だったが、味にいたっては驚天動地というほかない。それだけ凄まじいもので、あの忌瀬ですらむせ返っていたほどだ。その反面、たしかに効能は高麗茶以上に凄まじかったが。
そうか、アレはここで、こいつらが作っていたのか。
「忌瀬さんも驚いていたわ。これが出回ったら薬師は路頭に迷うってね」
「あんなもの、毎日食べていたら舌がおかしくなります」
「弱いのねぇ、人間って」
「魔人に比べたら」
クスクス。兎華乃と兎音が笑う。
「それじゃあ、その魔人に、人間のあなたがどんな御用なのかしら?」
ようやく本題を聞く気になったようだ。亜衣は茶を置いて、手短に用件を話す。
「九峪様の身辺に注意をはらってほしい」
「おかしなことを言うのね。九峪さんは『還った』のでしょう?」
「表向きはそうしてある」
「ふぅん・・・・・・」
意味深な態度で亜衣を見つめる。紅い瞳に疑問の色はなかった。
兎華乃は最初から知っている、とは考えていない。兎華乃は何も知らないだろうし、それは兎音に兎奈美もそのはずだ。
ただ、兎華乃は聡い。里で聞こえる噂と今の話を掛け合わせることなど、容易なことだ。
不意に兎華乃が笑みを浮かべた。
「それで、ね・・・・・・噂の真相はこれ。あなたがよく阿蘇山に登っているという噂を聞いたけど、あなた、九峪さんに会いに行ってたのね」
「・・・・・・はい」
ここでも言われるのか——。噂とはかくも恐ろしく、亜衣は覚悟を決めるしかなかった。
そして案の定、兎華乃はいじめっ子のように、それはもう楽しそうに、亜衣の噂をネタにネチっこく苛め抜いたのだった。
藤那様のように感情を露にされたほうがマシだッ! と叫ぶことさえできない。兎華乃は絶対、わざと、反論する余地がないようにまくし立てている。
一通り楽しんだ頃、亜衣はぐったりしていた。兎音は助けることもせず、それどころかとばっちりを避けて、心なしか距離を開けていた。おのれ。
悠々と茶をしばく兎華乃が、最後に一言。
「——で、あなたは自分のお尻を私たちに拭かせるために、ここにきたわけね」
ズズ、茶をすする。
「そんな素晴らしいあなたにはもれなく高麗漬け一年分を進呈するわ」
「いりません・・・・・・」
「遠慮しなくてもいいのよ。あげる見返りは大陸の上流酒。これが最大限の譲歩」
「もう勘弁してください・・・・・・」
いっそ泣き出したいが、それはそれでどういうわけか涙が出てこない。鍛え抜かれた鉄面皮が憎らしいと心底思った。
兎華乃としても気は済んだ。久しぶりにたくさん喋ったのだ。姉妹だけだと、どうしても会話に限界が出てしまう。
亜衣の言い分は気に入らなかったが、収穫もあったことだし許してやろう。兎華乃の心は寛大なのだ。
兎音に命じて代わりの茶を持ってこさせる。やっと復活した亜衣は茶を飲むと、途端に元気を取り戻した。切り替えが早いのも宰相の業である。
ずれた眼鏡を直しながら、紅い瞳を見つめる。
「お願いできますか」
先ほどまでの情けない様子から一変、凛々しい言葉で問いかける。
「お願いされましょう。九峪さんの周辺をうろつく輩を見つけたら、下山させればいいのね?」
「はい。『ここは危険だ』とでも言えば、十分でしょう」
「もし抵抗してきたら、殺していいのかしら?」
兎華乃としてはここが重要だ。兎音の長い耳も動いた。
——やはり魔人だな。そう思いながら、亜衣は頷いた。
「止む終えない場合は。ただし出来る限り迅速に消してください」
「楽しむ暇がないわね。肉を断つ余韻と、絶望に彩られた紅い慟哭が得もいえない『快感』なのに」
「すみません。しかしここは譲れません」
「やれやれね。九峪さんの次はあなた。魔人使いが荒いところなんか、九峪さんにすっかり似ちゃって」
「え?」
思わぬ言葉に亜衣の口から声が漏れた。
——似ている? 私が? 九峪様に?
聞き間違いでなければ、たしかに言った。似ていると。
それだけのことで亜衣は頬が熱くなるのを感じる。と同時に、嬉しいような恥ずかしいような気持ちも沸き起こってきた。
「あら、顔が赤いわ」
「う、あ、そんなことありませんッ」
「そう?」
ウフフフ。
——このウサギ、気づいてる! 頬の赤みをこれ以上見られまいと俯きながら、心中で恥ずかしさのあまり、さらに赤くなっていった。このウサギ、気づいてる!
それほどわかりやすいだろうか。藤那に看破され、紅玉に看破され(たと思う)、今度は兎華乃が亜衣の心奥底に押し込められた想いに目を向けている。
なんとか平静を取り繕うと必死に心を静めるが、意識すればするほど、今の自分の行動が九峪に重なっていくような気がする。まるで坩堝だ。
狼狽する亜衣を横目に流して、兎華乃が兎音に出立の準備をさせる。兎奈美にも伝えないと、と立ち上がったとき、ふと気づいた。
「そういえばあなた、こんなところに来て大丈夫なの?」
亜衣はもはや、阿蘇山に登ることすら危険な立場だ。魔兎族三姉妹の存在も世間に明かされていない以上、ともすればこの一件ですら噂になりかねない。
それは亜衣も覚悟していたことだが、如何せん適役がいなかった。こういった役目をこそ乱波に申し付けるべきなのだが、棟梁の清瑞からして秘密にしているのだから、結局亜衣がくるしかない。
「たいへんね」と、そういい遺して兎華乃は漬物蔵へ向かっていった。一人のこされた亜衣は、はぁ〜と大きく息を吐いた。
疲れた・・・・・・。掛け値なしにそう思った。兎華乃は意地悪だ。
しばらくぼうっとしながら、心臓の高鳴りに耳をそばだてる。兎華乃に振り回されたせいか、それとも九峪に似てきていると言われたためか、この胸の高鳴りは、いったいどちらなのだろう——。
少しだけ考えて、亜衣は苦笑する。埒もないと切り捨てて、緩慢な動作で立ち上がる。もう用事はない、日が暮れる前に下山したい。
玄関を抜けると、ちょうど兎華乃が兎奈美をつれて戻ってきたところだった。亜衣に気づいた兎奈美が明るい笑顔で近寄ってきた。
「ひっさしぶり〜!」
「ああ、久しぶり」
こちらも笑顔で迎えてやる。
「もう帰っちゃうの?」
「私も忙しくてな」
「ええ〜」
明らかに不満そうだが、亜衣としては相手をしてやるわけにもいかない。「運が悪かった」と兎奈美を慰めながら、頭を下げて坂を下りていった。
「・・・・・・遊びにきたんじゃないの?」
残念そうに兎奈美が言うと、小さな姉が呆れた風に、
「そんなわけないでしょう、あなたじゃないんだから」
「あれ? 何気にひどいこと言われてる?」
キョトンとした瞳で聞き返す妹を、兎華乃が「お馬鹿」と叩き伏せる。この色々と大きい妹は、脳みそだけが鶏なみだと常々思うのは、やはり間違いではなかったようだ。
でも、そんなお馬鹿で色んなところが生意気な妹は、魔人にあるまじき素直な心根の持ち主なのだ。
「さっさと準備なさい。お引越しは手早くね」
「はーい」
「それとお土産も必要よね。貧弱な九峪さんなら、泣いて喜んでくれるわね」
チラッと、兎華乃が漬物蔵へと視線を走らせ、
——ニタァ
と、この世のものとも思えない、壮絶で凄絶で凄惨な笑みを浮かべた。その意味にすら兎奈美は気づけず、結果として九峪は地獄門へと観光旅行に行く羽目になるのだが、そうとは知らぬ兎奈美は引越し支度を始めたのだった。
「——とまぁ、そういうことがあってお引越ししてきたわけなの」
「・・・・・・」
「ちょっと、聞いてるの?」
兎華乃は返事をしない九峪をゆするが、やはり何も言い返してこない。
が、それもそのはず。九峪はいままさに生死の境を彷徨っているのだから。
高麗漬け。九峪には刺激が強すぎたらしい。
女中が慌てて持ってきた水で復活すると、妙に溌剌した表情で兎華乃に向き直る。
「すごい、すごいぞッ。身体の奥底から色んなものが湧き上がってくるのを感じる!」
「よかったわね。ところで私の話きいてた?」
「おう、バッチリ。掻い摘んでいうと、俺の居場所がばれるかもしれないから、見つかる前に追い返そうと、兎華乃たちがきたんだろ」
「よく出来ました。ご褒美に高麗漬けの漬け丼を」
「いや、それはもういいから」
「残念ね」
本当に残念そうで、九峪は背筋に冷たい何かを感じた。
冗談を言い合っている最中も引越し作業は進んでいく。主に兎音と兎奈美の手によって。
女中も手伝っているがもっぱら小物整理をやってばかりだ。魔人姉妹が空き部屋つくりのために大きいものを『容赦なく』運び出したのを目撃してから、近寄ろうとしなくなった。懸命だ。
「それにしてもみすぼ・・・・・・質素な家ねぇ。丸々あいている部屋がないなんて」
「いま『みすぼらしい』って言おうとしただろ!?」
「いいじゃないそんなこと。大したことでないわ」
「その通りだけども」
何か納得いかないと九峪が睨んでくるけど、勿論そんなことに構う兎華乃ではない。本日何杯目になるかわからない茶をしばいて九峪を黙殺する作業にさえ手馴れた感がある。
そうこうする間にお引越しは完了した。ビフォー前に物置として使われていた納屋が、アフターして立派な一軒家となった。運び出された諸々は外に放置され、麻蓑を被せられた。
やれやれ一服一服と引き上げてきた兎音たちに、九峪が手ずから茶を入れてやった。受け取る兎音がぶっきらぼうにも、
「・・・・・・ありがと」
と言ってくれる様になったのだから、九峪も自然と頬が緩んでしまう。
女中は女中で本性を現しても、神の遣いに『何かしてもらう』ことだけはいまだになれない様子で、「とんでもないですッ」と叫んでいたりした。
夕食は川魚。九峪の食事は基本的に川魚。肉はあまり食卓には並ばない。それと今日は特別に高麗漬け・・・・・・を細かく刻んで野菜と一緒に煮込んだもの。臭いと味が薄まっていい感じだ。
兎音は「この臭いがいいのに〜」と文句を言うが、譲れない一線はある、人間として。というかお前らの嗅覚はいったい何ぞや、と言いたいのを押さえつけるだけで精一杯だ。
この日の食事は賑やかだった。普段は女中、たまに亜衣を交える程度だから、一気に三人増えたものだから、本当にやかましい食事だ。楽しい。
兎奈美は良く喋る。九峪が九洲に残っていることを、この素直なウサギは手放しで喜んでくれた。兎音と兎華乃も言葉にこそしないが、九峪との再会は喜んでいた。
天目についていかなった理由は、友人でもそこまでしてやる義理がないからだった。しかしそれ以上に、『天目がいなくなってもまだ九峪がいる』というのも理由であった。九州に残っても退屈はしないだろう、と。
しかし九峪すらいなくなったものだから、すっかり退屈な世の中になってしまった。人間同士の争いごとにてんで興味のない兎華乃はすっかりダレてしまい、九峪の存在を知ったからこそ、こうして引越しまでしてきたのだ。
退屈すぎた日々からの反動は大きかった。おかげで九峪は物置を一つ失った。
だから自然、兎奈美だけでなく兎華乃や兎音の口数も多くなった。
こんなに賑やかな食事は、久しぶりだな・・・・・・。
それが嬉しかった。ここに火魅子、知事、大臣、清瑞、亜衣、伊雅たちがいたら、もう言うことはないだろう。失った日々を再現できるだろうに。
満月の夜、楽しい夕宴の中で呑む酒は、ほろ苦かった。