大隈での勝利以後、北山はそれ以上の進行行動はしなかった。
北山はこれ以上の戦意を示さず、九洲方も無駄な戦いは避けたい。まだギスギスとした重く痛い雰囲気が立ち込めるが、平穏には変わりない。
錦江港にも船の姿が戻り、活気が少しずつ戻り始めていた。加奈港は完全に北山の基地化してしまったが、これは亜衣の指示である。加奈港に北山の戦力を集中させることで、他の津は自由を取り戻した。
大きく造った甲斐があった。ただしもはや、造船や商業港としての役割は期待できそうにないが。
八月の半ば、亜衣は再び薩摩に姿を現した。いよいよこの日が来たのだ。
加奈港で亜衣を待っていたのは、恵源と教来石であった。港の長が使っていた屋敷へと招かれ、そこで話し合いが開かれた。
「兵をお貸しいただきたい」
会合の場での恵源の要求は、北山の援軍として琉球へ出兵してほしい、ということだった。
もともと、これが恵源たち北山が抱える最大の望みである。これさえ果たすことが出来れば、ほかに要求することもない。
本音を言えば、ふざけるなである。誰が貴様らに兵を与えるかと声を大にして叫びたいが、如何せん九洲の立場は弱い。たった一回の敗北でまんまと楔を打ちつけられ、さらに加奈港を押さえられている以上、例え勝ついくさをしても無傷とは言えまい。
また、亜衣としても一存で決めるわけには行かない。共和制である以上、評定衆の同意を得なければならない。
時間稼ぎの意味合いもあって、亜衣は一度案件を持ち帰った。恵源は了承したが、焦っていることは明白。あまり焦らすと何をしでかすかわからない。
開かれた評定で、武官はすぐさま加奈港を襲えば恐るるに足らぬと豪語するが、大隈の敗戦に衝撃を受けた文官たちは、国内で暴れられては堪らないと出兵を主張した。
この時ばかりは、亜衣も文官に同意見であった。ただ亜衣は文官ほど北山を恐れておらず、心情的には武官よりであったが、宰相としては身中に病魔を抱えたままのいくさは避けたいのだ。
かくして出兵は決したが、ここで亜衣と文官との間で少しばかりの鬩ぎ合いが繰り広げられた。
亜衣は人選を独断で決めようとしたのだ。共和体制の中で、少しでも文官の力を削ごうと考えたのだ。この動きに文官たちは半ば驚きつつも抵抗した。
文官寄りの武官衆を送り込もうと画策する亜衣を、合議の場で文官たちが異様な結束を見せて阻んだ。この期に元九峪派を一掃しようと、反文官勢力をこぞって送り込もうとする文官たちを、今度は元九峪派の残党が妨害する。
決議から五日間は人事の混乱で編成も覚束なかったが、最終的にそれぞれが妥協する形で、総員七千人の軍勢が琉球へと向かっていった。
一枚岩といえない援軍が、加奈港から出立していく。翻る旗は『日輪日巴』なのに、なぜかそこに九洲らしさがなかった。
——元星五年九月、かくして『第一次琉球出兵』が行われ、九洲兵は初めて異国での、ましてや他国のための戦いに挑むこととなるのであった。
『第一次琉球出兵』に従軍する将軍・武将は多様な背景を背負った者たちばかりだ。
まず、反文官派の将は九洲全体の半分ほどが従軍している。筆頭は音羽であり、文官による粛清の一環であった。残りの半分は、亜衣と武官が何とか出兵を免れさせたが、音羽だけは免れられなかった。
次に文官派の将らだ。彼らは全体的に見れば数は少ないが、これは亜衣の要求である。内部改革を断行するに当たって、文官を擁護している将軍階級を減らす目的があった。
彼らが七千の兵を率いるわけだが、これらの戦力は各方面から文官が緊急に徴収した戦力であった。
北山に怯えきった文官は、手の平を返すように徴兵を敢行、結果として火前方面の半島群の豪族たちが郎党を率いて兵二千、筑前、筑後からも豪族に要請して三千、豊前から二千が送り込まれる結果となったのだ。豊前からは元九峪派の上乃が出陣している。
この戦力を大隈海戦の前にそろえることが出来れば・・・・・・。加奈港から出立していく船団を見送る亜衣は、悔しさに唇をかんだ。
しかし、これは好機でもある。この出兵と徴兵はおそらく武官ないし地方の豪族の反発を招く。九洲は再び、武官と文官の対立する混沌とした世界になる。
文官のやること全てが悪いとはいえない。彼らは彼らの信義に基づいて行動しているのだ。しかし彼らの政策が、今日の出兵を招いたことは否めない事実だ。
危機を好機に転じるからこそ、九峪の右腕足りえるのだ。思い切って文官の立場を弱めてしまえ、と亜衣は意気込みを新たにする。
文官がいくさを知るいい機会でもある。彼らに復興戦争を思い出させてやろう。そして武官には政の場を与えて、政治の難しさをとことん教え込む。
そうすれば全てが収まると、亜衣は確信的に考えていた。そもそもの問題は、互いの不理解から始まった対立だ。ならば理解してしまえばいいだけなのだ。
行動は迅速に。九峪から実践的に学んだことで、亜衣の信条だ。動き出したら速かった。
大将軍の伊雅へと働きかけて、各地の武将たちに官位を与えることから始める。知事と協力しながら検地を進め、それぞれの豪族の勢力図を精密に作成していった。作成した地図はこれまた正確に複製して、必要な部署に配布する。亜衣は自室の壁に貼り付けた。
政務の大部分を蘇羽哉に任せたまま、亜衣は武官の力を強めることに神経を尖らせた。
官位の種類はそれほど多くはない。所領の数、郎党の規模、収入の是非で官位は決められていった。官位は”火魅子に忠誠を誓った者”という意味で『従』と定め、それぞれ上から、
『従五位』
『従四位』
『従三位』
『従二位』
『従一位』
の五階級に分けられた。この上に知事がおり、知事たちの代官を務めた。土地の領有を国家が法的に認める代わりに、土地管理の徹底を責任させることで、文官に対抗する力をもたせることにした。
文官からは反発もあったが、この場でこそ強引に押し切ったところに、文官を敵に回しても構わないという、亜衣の本気と確かな手腕が伺える。
亜衣の戦略はまず『地方に力を』というスローガンから成り立っていた。
この新たに取り入れられた階級制度の認定を終えるのにそれほど時間はかからなかった。八月の終わりごろに開始して、十月に入る前に終わらせることが出来た。これには地方豪族たちが土地の安堵を求めて協力的だったためである。
また土地所領の証文を火魅子自ら豪族たちに下知させることで、この検地及び官位進呈が女王の宣言によるものだということを誇示することも忘れない。すべては女王の了解するところであり、案ずること及ばないとアピールしたのだ。
この細やかさは九峪にない。亜衣の持つ智謀の深さは、九峪ほど大胆ではなくとも細部にいたるまで綿密だった。
豪族が官位を得たことで、彼らも『武官』と同じ立場となる。外様の武官が増えればそれだけ文官の抑止となる。
ただ、一つだけ気がかりがあった。
「琉球へ出兵した者たちは、どう思うかな」
それが亜衣の心配事で、肝心なところでもあった。自分たちが異国で戦っている間に、他の豪族たちが『官人』となれば、心象を悪くするのは必然といえる。
どのような戦いをしているかはわからないが、生きて帰ってきた者たちには格別の便宜を図らねばなるまい。
十一月の秋空は曇り空だった。九峪が阿蘇山に追放されて、一年が経った。
一年という短い間に、色々なことが一気に押し寄せてきた。まったく問題というものは、いつもまとめて出現する。
北山の問題が一応の決着をみせ、政府の大改革を推し進めている亜衣にも、今だけは幾ばくか平穏な時間が流れていた。
文官は混乱している。自分たちのしていることこそ『絶対の正義』と信じている彼らにしてみれば、亜衣に裏切られた気分なのだろう。対して武官からの支持が日に日に昇っている。
亜衣の目指す最終地点は、地方の豪族を『武官』として管理し、政にたいする発言力を持たせることにある。そのためには強くなりすぎた文官の力を弱めて均衡をとらねばならない。
いまの亜衣はそれのみに集中していると言っていい。琉球での戦いから仲間が戻ってくる前に、すべての改革を終わらせ、新体制の下地を作るつもりだった。
しかし思い通りには行かない。一度多くの武官が追放されたせいで、武官の半数以上が文官よりの連中で固められている。
そのために地方の豪族を味方に引き入れているのだが。幸い豪族間では、手の平を返したように徴兵を敢行した文官に対する反発がある。これが亜衣の最大の武器である。
——この調子で宰相の地位でありながら武官の手綱を手にする。目標は定まっている。
——琉球での戦いは激しい。まさに激戦に次ぐ激戦であった。
岸壁にまで追い込まれている北山の気迫は凄まじい。なまじ滅亡の足音が近づいているだけに、みな必死だった。領地の三分の一を中山に奪われ、まさに崖っぷちだ。
——だが、もう長くはない。疲れ果てた軍団の中にあって、音羽は思わずにいられない。もう北山は限界だ。
季節は十二月の暮れに指しかかろうとする。もうすぐ新年を迎える。新たな年を、私は異国の地で迎えるのか・・・・・・。
九洲に比べたら暖かい冬だが、やはり火の暖かさは身にしみてくる。食事を済ませて、空になった椀を放り投げた。車座になって一緒にいる兵士たちも、同じように椀を放り投げる。
複雑な気分だ。官位を落とされ、力をそがれ、戦う場にすら立てなくなった身に比べれば、たしかに今は武人冥利に尽きるだろう。負け戦をこそ戦ってなんぼであり、激戦とはむしろ血沸き肉踊る舞台なのだから。
だが、時々思うようになる。これはいったい何のための戦いなのか。少なくとも『九洲のため』の戦いではない。
考えれば考えるほど、戦う意味が見出せない。それとも、ただ戦える事をのみ喜ぶべきなのだろうか。
それも何か違う気がする。
「——・・・・・・あっ、いたいた!」
声がして振り向く。右腕に包帯を巻きつけた上乃が、少しだけ疲れた笑みで近づいてくる。
音羽の隣に腰を下ろした、焚き火の前に両手をかざして暖をとる。いくら琉球でも、冬の夜は冷える。
パチパチと弾ける火の粉を見つめながら、赤く照らし出される二人の顔。割と美人の部類に入る上乃に見とれる兵士たちが何人かいるが、上乃の眼中になどない。
「冷えるねぇ・・・・・・」
「そうだなぁ・・・・・・」
気の抜けた声で呟く。音羽ももう考えることをやめた。所詮、自分みたいに単純なヤツは、何考えたって碌なことを思いつかないのだ、無駄なことだと思った。
上乃も音羽も傷だらけだった。上乃は腕のほかにも額、足に包帯を巻いている。音羽は腹を包帯で丸々覆っている。後ろから槍で突かれたのだ。重症といっていい。
鎧の下を厚着していたから助かったようなもので、音羽自身が助からないとさえ思ったほどの傷だった。
音羽と上乃は大宜味(おおぎみ)というグスク(城)で戦っていた。
最初は都の名護で戦っていたのだが、こちらの隙を衝かれて都を落とされ、大宜味まで後退して敵の侵攻を食い止めている。北山王は背後の与那覇(よなは)に逃れ、臨時の首都とした。
現在その大宜味が最前線で最大の激戦区である。援軍に来た九洲兵も、もとから士気が低いこともあって、すでに二千人以上が戦死している。
狭い島だけあって、敵の兵力は大したことがない。しかし長い間、北山と南山に挟まれて戦ってきた中山の兵士は恐ろしいほどに強く、はっきり言って狗根国兵以上に錬度が高かった。
さらに農地が少ない以上、海洋貿易に頼ってきた琉球兵は大陸の兵法に明るく、大陸製の武器も豊富だった。
中でも炸裂岩以上に強力な『焙烙玉』は九洲兵を震撼させた。爆音と同時に城壁さえ崩してしまう『焙烙玉』によって戦死した九洲兵は二百人にのぼる。
「いつまで続くのかなぁ、この戦い」
音羽に寄りかかりながら上乃は言葉をこぼす。知らぬ異国で、異国民のために死線を潜ってきた上乃も、すっかり疲れ果てている。
上乃とて復興戦争を戦い抜いた英傑だ。戦場を知らないわけではないし、実力だって十分にある。
しかしこの戦いは、初めから『精神的支柱』のない戦いだった。九洲のためでもなく、九峪のためでもなく、火魅子のためでもなく、ましてや伊万里のために戦っているわけでもない。
——自分が『九峪派』だったから。それだけの理由で文官に難癖をつけられ、しかたなく従軍して来たに過ぎない。
そもそも、その『九峪派』という呼ばれ方だって、役人が勝手にそうしているだけだ。上乃自身にそんな気はまったくない。
事の次第は音羽に似ている。豊後県の文官と武官が言い争い、文官が相手を貶めようと九峪の悪口を言い始めて、それに腹が立って抗議しただけなのだ。
それを文官は根に持ち、事態が沈静化されつつあるころから上乃を『九峪派』と呼ぶようになった。ただし上乃は武官だったが、音羽と違って伊万里直属だったから難を逃れたのだ。
だから、望んだ戦いなんかじゃなかった、最初から。豊後県の暴動で立場の弱くなった伊万里の迷惑にならないように従軍してきただけ。
ただ今まで生き抜いてきたのは、そんなくだらない理由で、こんなワケのわからないトコロで死にたくない! と、思うから。
伊万里の悲しむ顔が見たくないから、ただそれだけの理由だ。簡単だ、私はまだ『死にたくない、生きて伊万里の元へ帰りたい』——それだけ。それだけの、言葉にすれば簡単なことだけれど、それ以外はどうだっていい。
北山が負けようが、滅びようが。
奴隷にされようが、なで斬りにされようが。
「でも、きっと、目覚めは悪いんだろうなぁ」
「そうかもしれない・・・・・・」
弱音を吐く上乃を抱き寄せると、腕の中の上乃は小さく震えていた。血の少なくなった身体に、今日のような寒さはいささか酷だ。
身体を温めようにも、酒は飲めない。もう酒すら長いこと呑んでいない。酔うことが恐ろしかった。もしも夜襲や奇襲があったらと思うと・・・・・・とても呑めたものではない。
そういえばと、ふと、かつてのことを思い出す。考えてみれば九峪以外の指揮下で戦うのは初めてだ。九峪は必ず酒を持っていった。
薩摩——昔は南火向だったが、戦力増強のために遠征したとき、只深が大量の酒を持ってきた。あの時は大変だったと思う。重然と兎華乃が飲み比べを初めて、羽江が衣緒を怒らせて埋められて・・・・・・。
知らず知らず、音羽の口から微笑がこぼれていた。あの頃は必死で真剣だったけど、それでも、充実していた。
「九峪様がいない戦いは、こんなものなのかもしれないな」
青みがかった髪をなでながら、懐かしい日々を回顧する。感傷でしかないが、音羽はこの場に九峪がいないことの『絶望』を感じた。
北山の将兵も強い。なにしろ兵士が軒並み揃って薩摩兵くらいの実力ばかりなのだ。将も強い。
しかし中山の勢いは凄まじく、いちど躓いた北山に立ち直る力も機会もなかった。九洲からの援軍がなければ、名護落城で全ては終わっていただろう。
ここまで厳しい状況になると、それこそ九峪のような『ありえない戦術』で立ち向かうしかないのではないか。多分に美化された考え方かもしれないが、音羽はそう思えて仕方がないのだ。
九峪様がいたら——。担い手であるはずなのに、つい縋り付いてしまいたくなるほど、琉球は激しく酷い世界だった。
「・・・・・・九峪様、なんで還っちゃったのさ」
「・・・・・・」
「戻ってきてよぉ・・・・・・」
上乃の悲痛な言葉を聴きながら、ギュッと、小さな肩を抱く腕に力をこめた。
「琉球の情勢がよくないらしいです」
麓の里から帰ってきた女中には、巷の噂を九峪に伝えるという仕事があった。閉鎖的な九峪にとって、女中だけが唯一の情報源であった。
九峪の居室で、女中の淹れた茶を飲みながら、九峪は話に耳を傾ける。最近、九峪は何かしらを書に認めている。何を書いているのか女中は知らず、また興味もない。
先だって決行された『第一次琉球出兵』に関しては、九峪もすでに聞き及んでいる。北山の戦況不利を受けて『第二次琉球出兵』が計画されていることも。
都を落とされて、戦場を徐々に北上させているらしい。女中の言う噂では、音羽と上乃の働きが目覚しく、鬼神のようだとさえ言われている。
しかし、それでも中山の猛撃は歯止めが利かず、終わりもなく、底抜けだ。ヤツラは洪水なんだと、九峪は言葉にこそしないが、それは女中にはわかった。
筆を止めて、茶をすすり、九峪はほっと息を吐く。十二月二十九日、もうすぐ新年を迎える。熱い茶はこの季節の必需品だ。
微風が戸口をざわつかせている。隙間風はないが、音だけで寒くなる。老猫も火桶の近くで丸くなっている。
「俺たちがここに住み始めたのが、大体一年前かな」
「はい。昨年の十一月です」
「もう一年かぁ・・・・・・」
感慨深いのか、九峪の言葉にはささやかな重みがあった。何を思っているのか、女中は少しだけ気になった。
九峪は追放されたのだ。かつての仲間たちに地位を追われ、この阿蘇山で軟禁されている。私は九峪様の生活を面倒すると同時に、護衛と監視の役目をも負っている。
だから気になる。いま目の前で寒風に耳をそばだてる神の遣いは、二年目の阿蘇の冬をどう感じているのだろう——と。
正直言えば畏れ多い。罰当たりといえば、これほどの罰当たりはないだろう。最初は「なぜ私が・・・・・・」と愚痴ってもいたのだが。
——思えば九峪様は、可哀想な方なのかもしれない。この家も亜衣様が手心を加えたかもしれないが、かつての栄華の頂点から転落したのだ。善政を行い、万民から慕われていたはずなのに。
そう思うことさえ、それが一年の付き合いの成したものなのか。女中にはまだわからない。
「——音羽たち、無事だといいんだけどな」
見えぬ異国で血潮を流す仲間を力なき九峪は想う。もう無事を祈るしかなく、どのような策を講じることさえ出来ない。ただトカラ海峡を越えた同胞七千人の雄躍を期待するしかないのだ。
しんみりした空気の中で、風の音と九峪が茶を飲む音だけが、しずしずと聞こえている。言葉はなかった。
静寂を破ったのは戸を開ける音がなったときだ。見回りに出ていた兎華乃たちが帰ってきたのだ。土間からわいわいと話し声が聞こえてくる。
静けさは一瞬で吹き飛んだ。九峪も笑顔で立ち上がると、兎華乃たちを出迎えに行った。寒空の下を歩き回った兎華乃たちは、九峪が出迎えに来ないと
「ちょっと、か弱い乙女を寒空のした歩かせといて、いいご身分だわね、羨ましいわね、殺したいわね」
と文句を言われるのだ。だから九峪は笑顔で迎えることにしている。
居室の戸を開け放つと、冷気が渦巻くように部屋の中へと流れ込んできた。職台の灯火がボボッと膨れたような音を立てて揺れ、一瞬の音とともに小さく破裂した。後には煙だけとなった。
女中は寒さに身をすくませたが、すぐに立ち上がって主の出て行った戸を閉める。台所は別の土間にあり、そこへ早足に向かう。茶を入れるためだ。
魔兎族を誘った九峪が今へ入ると、兎奈美が転がるように囲炉裏の前まで進んだ。よほど魔人のクセに寒かったのか、ふにゃっとだらしなく頬を緩ませている。
「あったか〜い」
暖は十分にとってある。外は寒いだろうと思って、九峪があらかじめ炎を焚いていたのだ。
手をかざして温まる兎奈美にならって、兎華乃と兎音も囲炉裏の周りに腰を落ち着ける。ほっとした様子に九峪は微笑んで、秋の暮れ頃に作った干し柿を持ってくる。
芳醇で、どこか野暮ったい山のにおいが、部屋中に広がる。干し柿を作ったのなんか初めてだったが、なかなか上手く出来たと自負している一品だ。
干し柿特有の、表面に付着した白いでんぷん質にも旨みがある。果肉の甘み、蒸発した汁の残したほのかな渋み、そして手を白くさせるでんぷん質の旨みは、作物の取れない冬のごちそうだ。
ふだん九峪を褒めたりしない姉妹も、これだけは上手く作れたと言ってくれる。年甲斐もないが、それは九峪にとってちょっぴりだけ嬉しい言葉だった。
干し柿に舌鼓をうっていると、女中が熱い茶を持ってきた。
「こ、この臭いは・・・・・・」
かすかに臭う、これは高麗人参。
九峪の頬を汗が伝う。たいして魔兎族の反応は暖かかった。
「九峪さんも、好き嫌いしてると大きくなれないわよ・・・・・・イロイロと」
「もう大きいからいいんだよッ!」
「あら」
兎華乃がわざとらしく口元を隠した。いつだか心の病で阿蘇に引きこもったときから、人間との共同生活を送るようになった兎華乃たちは、ときおり下世話な会話をするようになった。
いまも、よく九峪をからかう。からかう度に過剰な反応を示すものだから、つい調子に乗ってしまうのだ。こういうところも、九峪と接するうえの醍醐味かもしれない。
鋭い洞察力をもっている九峪だが、いちど相手に会話のペースを掴まれると簡単には脱せない。しばらく応酬するも、最後は黙り込んでしまう。こうなって初めて兎華乃も矛先を収める。
——が、ここからが空気の読めない兎奈美の出番。兎華乃の後を継いだ兎奈美が、
「みせてーみせてよー」
と九峪の下半身の守護神を剥ぎ取ろうとする。もちろん九峪は抵抗するが、兎華乃は無視して、兎音も無視して、女中も無視して、老猫はあくびをかく。
死闘はかろうじて九峪の勝利で終わり、それがここ最近の予定調和となっている。兎奈美にすれば、九峪が居るだけで面白く、言い換えればただじゃれているだけ。九峪がちゃんと相手をしてくれれば、それだけでいいのだ。
日課を済ませた九峪は、こころなしか兎奈美から距離を置いて座りなおす。
「今日も何もなかったか?」
改めて九峪は尋ねた。
兎華乃の答えは肯定。今日も何もなかった。そもそも、こんな冬真っ只中に登山なんてする物好きはいまい。とは言ってもだ、やはり油断出来ない。
阿蘇は霊山で、たまに、本当にたまにだが神官が修行に訪れることがある。敬虔な僧侶も訪れるし、そういった意味でも、兎華乃たちの見回りは必須であった。
実際、兎華乃たちは阿蘇の森で人を何度も見かけている。採取・狩猟に来たものも居れば、霊験を得ようとする者も。問題は、霊験を得ようとする者たちの仲に、亜衣の噂を聞いて『神が舞い降りた』などと信じている者たちがいることだ。
兎華乃たちは『危険な獣がいる』といって下山させているが、熱心な坊主などはそれでも一目だけでも神秘を見たいと、あくなき闘志を燃やしている。
秋口までは、三姉妹の警備の目をかいくぐって阿蘇を登頂しようと悪戦苦闘するものたちとの、ささやかな攻防戦が展開されていた。
「うっかりこの場所が見つかったら、一貫の終わりね」
こともなげに兎華乃は言うが、もしそうなることは想像するだに恐ろしい。
九峪とて、何一つ心煩わぬ生活を送っているわけではないのだ。九峪自身にも、決して人目についてはならないという責務があり、それは言われずとも遵守しなければならない。
ただ取り合えず、冬に入れば多少は安心できるだろう。阿蘇の山々は白化粧が映えている。寒風に守られた白野原が土足で汚されることはない。
食物はある。酒もある。燃料もあり、不本意だが漬物も腐らせるほどある。冬越えの準備は万全だ。
「寒いかもしれないけど、ほんとに頼むぜ」
頭を下げることを厭わない九峪は、両手で膝を押さえたまま前かがみになる。
「俺の運命は、兎華乃たちに握られてるんだから」
「さりげなく重いものを握らされているわね」
「ナニを握らされないだけマシだ。きっとイカ臭い」
ボソッと兎音が呟く。
「兎音、淑女はそういうことを口にしないものよ」
たしなめる兎華乃だが説得力はない。
「九峪さん、臭いの?」
「臭くねぇよッ!!」
純真な兎奈美の問いは、九峪の心に痛かった。
この下ネタ三姉妹が・・・・・・ッ! 心の中でうなる九峪だが、彼女たちがここまで俗にまみれた最大の原因が自分にあるとは、この男、露ほども考えていない。
しかも三人ともなまじ美人(一名美少女)なだけに、こういった会話は非常にやらしい。九峪としてはその美人に『イカ臭い』と言われては、地中を掘り進んでマントルに身を投げ出したくなるほど辛いものがある。
「まぁ、別に握らされるのが九峪さんの運命でもナニでも、私は一向にかまわないけど。私がここまでしてあげてるんだから、光栄に思いなさい」
「ちょっ、姉様、なに自分だけ頑張ってるみたいな言い方してるのさぁ」
「むしろあたしらの中で一番なにもしてないのに」
咄嗟に反論が起こる。兎華乃の労働実態を知っている妹組みにはどうやら、兎華乃の言葉が大変ふまんであったようだ。
とはいえそれも仕方がない。基本的に身体能力が『見た目相応』の兎華乃は、兎音や兎奈美ほどの無茶が出来ず、結果として一番緩くて一番楽な道に陣取っているのだ。道なき道を獣のように移動している二人にすれば、非常に不満どころの話ではない。
評価は正当に! と叫ぶ二人を兎華乃は笑顔で黙らせる。言葉にしていないのに、
「おだまり」
と聞こえたのは九峪の幻聴だ。
逆らうときだけ最強に変貌する姉の圧力に屈した妹組みが沈黙する。でも空気が黒い。あの姉に何か言ってくれと死線が度々九峪に向けられる。せめて死線でなく視線を向けろと叫びたくなった。
「そ、そんな目でみるなよ」
「そうよ。あなた達、あまり困らせてはいけないわ。人間は弱い生き物なのだから、私たち上級魔人の眼光にすら怯えきってしまうのよ」
「あ、いや、お前らの視線はぜんぜん怖くないんだけども」
「・・・・・・」
兎華乃の沈黙。兎音と兎奈美も沈黙して、女中は息を飲んだ。
「・・・・・・なめられたものね、私たち魔兎族も」
「姉様、この男、ずいぶんと増徴しているようだ」
「うん、いまのはちょ〜っと、気に入らなかったかなぁ」
肉眼でも確認できる。黒い瘴気が上級魔人の身体から迸っているのが。
このとき、九峪は自分自身の失言に気づいて顔面を蒼白にさせた。あまりにも迂闊な失敗としか言いようがないだろう。
——彼女たちは暗黒面(ダークサイド)に堕ちてしまった。
かつて久しい、土羅久琉に襲われたときの恐怖感が、身体の中に蘇ってきた。それと同時に湧き上がる、この感情、思い出される、この言葉。
真に恐ろしきは、人非ざるもの。そして曹操の残した言葉、『人生、幾許。たとえれば、朝露のごとし』
「ところで九峪さん、人間は海の中では息が出来なくて死んでしまうように、魔人も人間界の空気になかなか馴染めないわ」
立ち上がった兎華乃が、真紅の瞳で見下ろす。九峪は石となった。
「その私たちが人間界で生きようとするならば、何を必要とするか、あなたにはわかるかしら」
言葉と同時に、兎音と兎奈美が立ち上がる。
九峪は兎華乃の問いに答えることが出来ない。そこのところを、九峪はよくわかっていないのだ。
兎華乃が嘲笑う。
「不勉強だな、神の遣いともあろう者が」
「な、なんだよ」
「私たちがなぜ、人間を喰らわずに高麗人参を食べているか、わかっているの?」
「え、栄養豊富だから」
「ええ、そう、その通り。逆を言えば、あれだけ精のあるものでなければ、私たちは生命を維持できないということ」
「さらに逆を言うと、人間にもそれだけの精があるということだ」
兎華乃と兎音が交互に言葉を連ね、まるで呪文のように九峪を縛り付ける。
暗に『お前を食べてやろうかぁ』と言っているのだ。
しかし魔兎族には、いまは九洲から居なくなった友人との誓いがあり、欲望のために人を喰らうことを己に禁じている。
「だから私たちは人間を食べない」
「しかし人間の精は『生き物の精』。犬にも猫にも勝る、上質でとろけるような『精』。それは高麗人参よりも質も純度も味もよい」
「でも食べちゃいけないんだよぉ」
「・・・・・・ジレンマよね? 目の前に人間がいるのに」
「な、何が言いたい・・・・・・俺をどうするってんだよッ!?」
恐怖に耐え切れず、九峪は悲痛な叫びを上げた。目じりに涙を浮かべないのは、せめてもの意地であった。
兎華乃、兎音、兎奈美が笑んだ。死神の微笑にしか、九峪には見えなかった。
「安心なさいな、あなたを本気で殺すつもりはないわ」
「・・・・・・ほ、ほんとにか?」
恐る恐る尋ねる。しかし死神の笑みは崩れない。
「ええ、ええ、、本当ですとも。・・・・・・引き裂いて血肉を喰らわなくても、精を貪る方法はあるもの」
——なんか、すごいヤな予感。
警鐘がガンガン鳴らされるが、九峪はやはり動けなかった。これが魔人の眼光か。そういえば土羅久琉に襲われたときも、香蘭が馬の尻を蹴って走らせてくれたおかげで、逃げることが出来たんだっけか。
終わった——。そう、諦めた。
兎華乃が瞳を細めて、女中に向き直る。小さな女中が身をすくめたのは仕方のないことだ。
しかし、
「布団の準備をなさい」
といわれて、九峪はやはりと思って絶望し、意味を察した女中が頬を赤らめた。
あたふたとしながら女中が手を振り回し、
「ま、まだ夕方になったばかりですッ」
と見当違いな反応をしてしまった。しかしそんなことは、人間の法に縛られない魔人には関係がない。
「と、兎華乃・・・・・・本気なのか?」
「いいじゃない。あなただってこんな美女に囲まれて、ムラムラしないはずがないわ。溜め込むのは身体に毒だわ。一思いに抜いてあげるから、いい加減スッキリなさいな」
——ゲッソリの間違いじゃないのか。九峪は力の限り吼えたかった。
結局女中は布団を用意し、もじもじしながら戻ってきた。
すでに九峪は怯えた猫か、蛇に睨まれた蛙か。
「じゅ、準備できました///」
もう顔も真っ赤だ。言動や雰囲気のわりに、心根は意外と初心なようだ。
頷いた兎華乃が部屋の戸に手を添える。兎音と兎奈美に両脇から抱えられた九峪が、絶望を通り越した境地の表情で連行される。
だが部屋を出ようとする瞬間、女中に目を留め、
「貴女も来なさい」
「うぇッ!? わ、私でございますかッ!?」
あからさまに狼狽する女中。まさか自分までとは思いもしなかった。
なぜ、どうしてと言葉を重ねるが、兎華乃は涼しげに笑み、
「貴女からも精を貪らせていただくわ」
と言い放ち、女中の目に涙を浮かべさせた。
あうあうと喘ぎながら、ちらちら九峪に視線を向け、藤りんごのような顔をさらに赤くさせたかと思うと、
「わ、わたし・・・・・・わたしッ! この年ですけど、まだ処女なんですッ!!」
いきなりカミングアウト。どうやら普段の澄ました振る舞いは、ただ背伸びをしていただけらしい。
しかし・・・・・・やはりそんなことは。
「でもそんなの関係ねぇ」
兎音に一蹴され、兎華乃は瞳を輝かせる。
「処女ッ! いいわね、処女の純血は最高の甘露だわ!! 可愛らしく泣き叫んで頂戴な」
「ひえええええん! 九峪さまぁ、助けてくださいいいッ!!」
とうとう仮面をぶち破って泣き出した女中を救い出す術を、もちろんちっぽけな九峪が持ちえるはずもなく。
「覚悟なさい。この世界につれてこられて二十余年、枯れ果てるまで搾り取ってあげるわ」
哀れな子羊二匹は、夕方のうちに生贄に捧げられた。三人の嬌声とニ名の悲鳴は夜中になるまで絶えなかったといい、翌日、魔兎族は卵肌に生まれ変わり、人間二人は生きたゾンビに成り果てた。
阿蘇の中腹で、人知れない下克上が達成された日であった。