——水面に沸き立つ波紋は、最初こそ一つの小波でしかない。
ただ、子供心に思った人も、きっと少なくない。小さな小石を落とした池、桶に溜められた水へと投じられるガラス玉から広がる波紋は、三百六十度の真円を刻みながら大きくなっていく、あの様子を。
波紋は一つの波から二つの小波、三つの細波、四つの白波へと、姿を変えていく。そして波紋は影や岸にぶつかると、消えるのではなく新たな波紋として帰ってくる。
波紋は波紋となって波紋を呼ぶ。波紋同士がぶつかり、混じり、揺れ動いて、そうして初めて相殺の果てに消滅する。
投じる石が大きければそれだけ波紋は大きくなる。硬い壁に跳ね返された波紋は、互いに犯し合い殺し合い、やはり消える。
この仕組み——原理とも真理とも呼べる波紋の連鎖は、森羅万象に通ずる理に他ならない。人の営み、世の営み、宇宙の営みは、一と二の衝突から全てが始まったのだから。
しかし、この営みをその日その時に理解できる人間など、はたして数多といない。人間は小さくてちっぽけで、空を仰ぐことはできても空から仰ぐことが出来ない。だから人は、遥か天空に魅入られた。
上から見ないと波紋はわからない。波立っている事実すら、水中の生物は気づけないのだ。ならば渦中の人間が、どうして気づけようか、気づける道理がどこにあろうか。
でも、たとえ気づけないのだとしても、気づかなければならない宿命を負った人間は必ずいる。
——しかし、世の中は皮肉だ。気づいた人間がいて、どうにかしたいと思わせ、そのためにただ駆けさせるのに、結局のところ運命より先を歩かせてはくれない。
耶牟原城にそんな不幸な宰相がいた。彼女は事態の深刻さに気づいて、あらゆる手を打ったのに、最大の障害が身内にいたとは気づかなかった。
人間に人間以外の敵はいない。彼女はそれを知った。
炎の揺らめく大きな空間は、それだけで完成された一つの世界。
その世界に君臨する女王は、ただ瞳を閉じて玉座と玉座そのもになっている。
「・・・・・・重然は、私たちを恨むかしら」
女王は憂いた音を発した。悲しげで、諦観の漂う言葉。
下段で対面している亜衣の表情も優れない。体調が悪いとかそんな簡単なことではない。何よりも心が重い。
女王と亜衣は決断しなければならない。重然には大隈海戦での敗北を招いた責任を取らせねばならない。
女王としては沙汰なしの処分を下したい。たしかに裏をかかれたのは重然だが、石川島海人衆は宗像と並んで最大の水軍だ。
ただ一回の敗戦がなんだ。海洋国家の北山と付き合う以上、石川島水軍の存在意義は大きい。
とはいえ、沙汰なしに異議を唱えている連中がいる。他でもない宗像だ。宗像には九州最大の水軍に上り詰め、制海権を完全に掌握したいという野望がある。そのためには石川島が邪魔なのだ。
彼らは重然を『敗軍の将』と名指ししている。石川島衆そのものに対してさえ『大したことがなく当てに出来ない』と喚き散らすこと憚らず、両者の関係はもはや修復不可能な段階にまで悪化してしまっている。
——宗像の暴走が始まった。均衡は崩されてしまった。さらに悪いことに、石川島は一大水軍といえども所詮は地方勢力でしかないが、宗像は由緒正しい女王与力の官軍なのだ。
一勢力から九洲水軍の筆頭にのし上がった意地——
歴史と由緒深い耶麻台王家直属としての誇り——
溝は深まるばかりだ。そんな折に女王と亜衣が下した決断は、彼女たちにとっては苦渋の決断であった。
信賞必罰は家臣の統率に不可欠。重然は『罰せられなければ』ならない。九峪がまだ君臨していた頃は、あるいは藤那のように許すことが出来たかもしれない。しかしそれも、九峪だから出来たこと。火魅子にも亜衣にも出来ないこと。
——石川島衆は薩摩へ転封、旧領石川島は宗像の所領とする。
亜衣に出来る最大限であった。
まず石川島を宗像に与えることで、これ以上、石川島衆を責められないようにする。土地を失った石川島衆の駆け込み先に薩摩を選んだのは、今尚、同地の兵士たちの間で重然は人気があるからだ。
そして正式な『官軍』とする。
本音を言えば石川島を官軍にはしたくない。宗像を封じ込めるには徹底した対比構造が望ましく、官軍の宗像に対する石川島衆は豪族のほうが体がよかった。
しかしこうでも——これくらいしないと、石川島衆、ひいては重然が納得すまい。以前として宗像の暴走を押さえられるのは重然だけで、まさかその勢力をおとり潰しにするわけにもかない。なんとしても石川島衆は守らねばならなかった。
重然と阿智、両者に下知が下された。
「・・・・・・重然、躓きおってッ!」
書状を読み終わった阿智の声は憤りも露であった。目障りな石川島の所領を得られると各々が喜び舞い上がる中、阿智ひとりだけが笑みを浮かべることもなく、無言のまま書状を火にくべてしまった。
下知とあれば致し方ない。仕方がないが、はたして重然の心境は以下ばかりだろうか。敗北の責を負うためとはいえ、先代より続く石川島の歴史に、己が代で幕を閉じるのだ。
すぐにも石川島を押さえようと意気込む者たちを落ち着かせ、阿智は共を二人だけつけて薩摩へと向かった。道々、聞こえてくる噂には此度の重然転封も混ざっており、広く知られているようだった。
——おもしろくない。
二日の旅で石川島に到着するが、はて、重然は会うどころか目通りすら許さなかった。薩摩荘の屋敷の門前で、阿智は立ち往生していた。
「重然殿には会えぬか」
「くどうごぜぇまさぁ。会えんものは会えん!」
なんと言っても、目の前の男は道を譲ってくれそうにない。今しばし粘ってから、阿智は明日もまた伺うとしてその日は領内の一室で晩を過ごした。
二日目も空振りに終わり、返答があったのは三日目。阿智は度肝を抜かれた。
「石川島はやれん」
それが男——男の口を借りた、重然の言葉であった。
火魅子の下知には従わない。石川島は明け渡さない。
そう公然と言い放ったのだ。
——これが、発端。亜衣の見通しが甘かったとしか言いようがない。
重然は火魅子の下知は不服だとして、君主の命に背いた。敗軍の将が命に背いた。ただしこれは外面の事情、実際のところ、怒り心頭なのは重然ではなくその郎党たちであり、もはや抑えることは出来ないと、重然も諦めてしまったのだ。
それでも、家族同然に生き、死地を潜り抜けてきた部下たちを見捨てられない。重然の厚すぎる人情が、女王の命令さえも反故にさせた。
これに異議申し立てをした宗像の有力者たちは、亜衣や火魅子に上訴をかけた。彼らはいまでも、宗像の意見ならば女王と宰相は取り上げてくれると、愚かにも信じきっていた。
これがいけなかった。宗像の威張り散らしに、自分たちの失態を論って嬲る宗像に、とうとう石川島衆だけでなく、重然の溜めに溜めた『堪忍袋の緒が切れた』。
さしもの阿智も動揺を隠せず、急ぎ耶牟原城へと向かった。ことの次第を亜衣に相談するが、とうの亜衣ですら顔を青くさせていた。
「重然、なにを考えているんだ・・・・・・」
もはや亜衣にも計りかねない。慎重な重然らしからぬ行動だった。それとも、それだけ不服だったのだろうか。
阿智と亜衣はなんとか重然を思いとどまらせようと説得するが、沙汰なし以外の命は受けないと意固地な答えしか返ってこない。
そうして日が過ぎて——最悪の事態になった。
すべては、またもや宗像から始まった。
阿智についで宗像を束ねる副棟梁の蔚海が、いつまでも頷かない重然に痺れを切らして、石川島に乗り込もうとしたのだ。自身の手勢二百人余りを連れて行ったが、阿智の助言で残してきた石川島衆が追い返し、蔚海は結局ひきあげていった。
が、これでもはや後戻りは出来ず、亜衣と阿智は開いた口が塞がらなくなった。重然は完全にキレて、香蘭や紅玉の静止もむなしく石川島へ戻ってしまい、一戦も止む無しという姿勢を見せた。
最悪だ。まさに最悪だ。たしかに重然は命に背いた。そのそしりは免れないとしても——さきに、宗像が手を出してしまった。
さらに事態は緊迫していき、火向県と薩摩県の豪族たちにも火がついた。大勢力の宗像に媚び諂ってきた者たち、とりわけ大隈開戦に関わった連中は、同様に宗像から無能扱いされ、腹が立っていた。
続々と重然に賛同するものが溢れ帰り、薩摩、火向はちょっとしたパニック状態に陥った。『第一次琉球出兵』からまだ日が浅いというのに・・・・・・。
重然に賛同した豪族たちは、みな宗像を嫌っていた。奴らの横暴さを例えるならば、在りし日の平家のようでさえあった。彼らは「平氏に非ずは人に非ず」という言葉を残したことで有名だ。それだけ尊大で、ゆえに横暴で、ために滅んだ。
賛同する豪族は二十二家。その全ての郎党を合わせるとざっと九千。この二十二将、九千がいま、宗像を睨みつけている。筆頭は石川島——先立って従三位の位を賜ったばかりの重然。
まさかであろう。まさかこんなことになるとは、亜衣にも予想の仕様がなかった。ただでさえ北山に揺さぶられているのに、まさか。
琉球の戦況も宜しくない。先方は再び兵員を送れと要求している。しなければ、加奈港に駐屯している軍がどう動くか——と、脅しをかけながら。その一方で、宗像が馬鹿なことをして、重然がとんでもないことをしてくれた。
兵を送らねば。いま加奈港で暴れられたら、ただでさえ神経過敏な重然が暴発せんとも限らない。いやする。
しかし亜衣は悩んだ。いやさ苦しんだ。九洲の北部は『第一次琉球出兵』でいきなり徴兵されて、地方豪族が憤っている。南部は南部で重然の問題がある。
どこから兵を集めろというのだ。北から動員すれば彼らは一揆を起こすに違いない。南部で動員すれば重然が謀反を起こすかもしれない。
しかし兵を送らねば加奈港の北山軍が暴れて、刺激された重然が暴発して宗像と戦をはじめ、北部の豪族たちの怒りも爆発すること火を見るよりも明らか。
一年前の騒乱よりもずっと性質が悪い。何をしても悪いほうにしか転ばない。まさに進めば崖、戻れば川である。
九洲全土はもはや大混乱一歩手前。この危機にはさしもの文官衆も閉口せざるを得ず、こういうときに限って彼らは右往左往してばかりだ。
宰相の亜衣、大将軍の伊雅、そして女王の火魅子が重然と阿智の間に割って入り、苦心しつつも懸命に調停にあたり、元星六年一月三日をもって両者は矛先を下ろした。
「阿智は石川島を受領、運営する事」
「はっ」
「重然は引き続き薩摩水軍棟梁を務める事」
「・・・・・・はっ」
耶牟原城で起請文に調印したのは一月六日。敗戦の責を負わせるのではないということを明らかにするために、重然には薩摩水軍の棟梁を続けさせるという破格の待遇を約束した。
言外に、どうにかこれで怒りを治めてくれという、亜衣の切実な願いがあった。石川島を宗像に明け渡してくれたなら、出来る限りを尽くして優遇するからと、あの手この手で口説き倒した結果であった。
先に手を出してきた宗像を罰することを条件として重然は郎党を率いて薩摩へと移り住んだ。官軍と認められ、従三位の位を返還、将軍職を賜った。
宗像は石川島を得た代わりに他地を没収され減俸、さらに蔚海を罷免することで、ようやく一連の騒動——『石川島事件』に幕を下ろす形となった。
しかし、これはすでに、共和国にひび割れが起きている何よりの証拠でもある。東西南北、全ての豪族が思うところを抱えていることが明らかになったのだから。
折にいって二月。亜衣はようやく『第二次琉球出兵』を発動。不安は多く抱えているが、これだけは避けられない道である。
豊後、火後、火向から兵五千を結集する。幸か不幸か、重然の問題から回復しきっていない文官たちは、思うように人事を動かせなかった。亜衣にとってこれは僥倖であった。
文官が出兵させることの出来た元九峪派はわずかに三名。
そのうちの一人、川辺城の戦いで武名を馳せた将、中校尉の遠州も九峪派の武人であった。
遠州はかつての復興軍で、川辺城の支城四つを兵二百人足らずで陥落せしめ、川辺本戦でも抜群の戦果を挙げた男だ。
白廉の鎧に金細工を施し、身体のほぼ全部を覆う倭国では非常に珍しいフルプレートと蛇腹剣を駆使して戦う遠州は、その洒落な姿と美男子然とした風貌に似合わない武者ぶりをもって、
『白勇公』
の異名をとった勇将である。また遠州は音羽の後をついで『九峪親衛隊』を復活させ、同隊長を務めた。そのため九峪から信頼され、『漢の熱い友情を育んだ』とは一部で有名な噂だが、もちろん根も葉もない。
音羽と並んで文官からマークされた遠州だが、とうとう年貢の納め時というべきか。
四月、自身は兵八百を率いて、加奈港より出港する船に乗り込んだ。総勢五千人をのせた大船団は、いまだ見ぬ地獄へと旅立つ。
阿蘇の九峪が遠州の出陣を知ったのは、十三日後のことであった。
「・・・・・・そっか、遠州まで」
兎奈美に現代の遊びを教えていた九峪の表情が翳るのを女中は見逃さない。さきほどまで楽しそうに笑いあっていた九峪が、いまや『神の遣い』の目をしている。
九峪が遠州と親しい。この噂は非常に有名だし、また真実でもあった。清瑞がホタルの棟梁になってからは、遠州が九峪の護衛も兼任していた。
「二人は只ならぬ関係だとか・・・・・・」。女中も含め、宮内の女はこぞって色めきあったものだ。
「好色な神の遣いは『ソッチ』もいける口だとか・・・・・・」。もちろん根拠はないが、二人の親しい付き合いは女性の妄想を掻き立てずにはいられない。
などと、間違っても言えない自分が苦しい。珠洲嬢は完璧『百合』で間違いないし、九峪だけでなく忌瀬や藤那まで『両刀』という噂もあったし、いったいこの国はどこに向かおうとしているのだろうと布団の中で考えた夜もある。
——ほんとうに、二人はそういう関係なのかしら。
尋ねたいがそれは無謀というもの。彼女はおしとやかで——おしとやかな性格ほどそういった話に敏感だが——とても尋ねられるわけがない。
だから、出来る限り湾曲させて、
「気になりますか、その・・・・・・白勇公様が」
上目がちに尋ねてみる。
九峪は茶で喉を湿らせて、
「そうだな」
とだけ答えた。
そんな物憂げな顔で、物憂げに言われるから、あらぬ噂が立つのに——ッ。
なんてことは顔に貼り付けた薄っぺらい皮一枚で完全に隠し切って、コポコポと茶を入れなおす。
「どうぞ」
「お、サンキュ」
「ねぇ〜、あたしのお茶は?」
「いまお淹れしますから」
兎奈美にも茶を淹れてやり、自分の湯呑にも注ぐ。
冬場だと仕事が極端に減る。精々が洗濯や炊事くらい。草刈をしようにも草はないし、降り積もった雪は放っておいたって問題ないくらいだ。積もったら積もったで魔兎族が頑張ってくれる。
そんな女中は、もっぱら九峪と過ごす時間が多くなった。もともとやることもないし、阿蘇に娯楽はないし、それよりも九峪といるとまず飽きない。文字を読める以外の教養をもたない女中にとって、九峪はなんと博識の塊に映ることだろうか。
下界はまったく騒然として殺伐極まりないというのに、どうしてここはこんなにも穏やかに時間が流れるのだろう。九峪が兎奈美と戯れ、兎華乃にからかわれ、兎音に呆れられる日々に、ここが幽閉という、本来なら冷たく閉ざされた空間なのだということさえ忘れてしまいそうになる。
——ゆえに、女中にもわかる。九峪の心中は、微笑とは裏腹にまったく穏やかでない。きっと目まぐるしく変化する情勢に、無力な自分を責めているに違いない。
九峪がいたからってどうにも出来ないかもしれない。一年をともに過ごして、神の遣いも決して『万能』ではないと知らされた。全知全能がこんな幽閉生活を送るはずもない。
でも何かが出来たはずだ。全知全能でない神の遣いだって、大きな波紋を起こすことが出来る。今までだって起こしてきたのだから。
「琉球・・・・・・北山は、いまどうなっているのかな」
そんな、なんてことない一言からも、九峪の気持ちは知れる。
「戦況は厳しい、という噂ですが」
「二度目の出兵があったんだから、その通りなのかもな」
「九峪様・・・・・・二次出兵で、戦況を覆せると思いますか?」
もっとも気になるのはこの部分。いや別段、女中の気にするところでもないのだが、明らかに不利な状況を今回の出兵で覆せるのか、それを軍事の天才に尋ねてみたかった。
思案するそぶりを見せて、真実かんがえているのだろう、九峪は瞳を泳がせた。動揺しているのではないだろうが、珍しいとも思った。
「・・・・・・一軍で七千を投入した。音羽に上乃といった実力者が指揮している。それでも形勢は不利。戦力では勝っているはずなのに」
「北山は、非常に強力な炸裂岩を使うそうですが」
「爆弾の一種かな。焙烙玉っていったっけか。元寇どころか、まだ三国時代だって終わっていないのに・・・・・・さすがはパラレルワールドってか」
「・・・・・・あの、九峪様。申し訳ありませんが、例え独り言でも、せめて倭国語で話していただけると嬉しいのですが」
何を言っているのか理解不能だ。『ばくだん』『げんこう』『さんごくじだい』、『ぱらりら』だか『ぱたりろ』だか、もう思い出せない。
九峪はすまんと謝罪するが、結局、意味は言わない。教えても理解できないと思ったのか。女中は少しだけむっとした。
女中の不満そうな顔に気づいた九峪は苦笑しつつ、案外、子供っぽいやつだなと思った。まぁその事実は先だって起こった魔兎族のご無体で、完膚なきまでに暴露されたわけだけど。
でも、取り合えず少しだけは教えてやろうか。神の遣いの威厳が損なわれる寸前だし。
「そんな顔するなって。ちゃんと説明するよ」
「そ、そんな顔って・・・・・・」
慌てて顔面を手で覆う。まさか表情に出ていたなんて。
失礼と思われたかもしれない。それは嫌だった。
しかし九峪は気にしたふうもない。
「ここで一つ、神の遣いのもつ『能力』を見せてやろう」
——なんか、すごいことを言っている。
これには流石に興味があるぞ。神の遣いの能力・・・・・・飛空挺よりも高く飛ぶ、方術や左道をかき消す、毒が通用しない、魔人を殺せるなど、いろいろな噂をきいたことがあるけど。
「おお〜。九峪さんがなんか偉そうなこと言ってる・・・・・・九峪さんのくせに」
「くせにとか言うなッ! ・・・・・・ゴホン。と、とにかくだ。神の遣いたるもの、やっぱりすごいことができるわけだ」
——あるいみ存在自体がすごい人なんだけど。
とは言わず、続きを待つ。なんだかんだで兎奈美も気になるのだろう。というか・・・・・・私よりも楽しそうだ。
さて、神の遣いのすごいところとは何だろう。
「あんがい予言とかだったりして」
何とはなしに兎奈美が言う。ふと思いついて言葉にした感じだ。
予言か・・・・・・巫女も予言が出来ると聞いたことがある。しかし神の遣いに限って、巫女と同程度のことだろうか。
そう疑問に思いつつ待つが、九峪は何も言わない。見ると・・・・・・
「なんで先に言うのさ・・・・・・」
——さめざめと 泣き崩れたる わが主
思わず歌ってしまうほど、衝撃的な光景だ。神の遣いは乙女のように涙を流していた。
「・・・・・・あっれ〜」
「九峪さまーーーーッ!?」
女中が叫んだ。さしもの兎奈美でさえ言葉を失う光景だ。叫んで何が悪い、だろう。
どうやら兎奈美の予想は的中、ど真ん中だったようだ。
おーいおいと嗚咽する九峪にかける言葉もなく。きっと神の遣いらしいところを見せたかったのだと思う。
泣きじゃくること十分ほど。おもむろに顔を上げ、咳払いを一つ。
「ま、まぁ・・・・・・兎奈美はなかなか鋭いな」
「あ、じゃあやっぱり予言なんだぁ」
「神の遣いともなると、予言だってできるんだ」
本当はできないけど。もちろんそんなことは言わない。
兎奈美は少しだけ感心したように頷いている。
「どんなことがわかるの?」
「ずーーっと先の未来がわかる。具体的には千年先とか」
「へぇー」
兎奈美の脳裏に千年先の未来が浮かび上がる。・・・・・・今とまったく変わらない世界が。
「今とどう違うわけ?」
でかい魚が釣りあがった。兎華乃たちによって貶められた『家主』の地位を取り戻さんと、九峪は現代の知識を披露する。
「いろいろ違うぞお。たとえば、そうだなぁ・・・・・・」
もったいぶった言い方をすると、子供は目を輝かせるものだ。兎奈美を子供というにはいろんなところに語弊があるけど、純真な兎奈美の瞳はやっぱり輝いていた。
女中も気になるご様子。何だかんだでも、神の遣いの大予言に立ち会うのだ、ちょっとだけ緊張していた。
よしよし・・・・・・。内心でほくそえみながら、「よし」と言う。
「たとえば、あと数十年すれば、呉の滅亡で乱世が終わる」
この時代は呉と晋が戦争をしている。三国時代の末期だが、姜維の死が切欠となって蜀が片付きはしたが、まだ呉と晋の戦いには決着が見えていない。
戦況は一進一退だが、それを九峪の口は『呉の滅亡』という言葉で断言した。
大陸の乱世の終焉。これには女中も目を見開いた。
「呉は滅びますかッ!?」
「滅ぶ、間違いなく。時代は晋王朝に移るだろうな。司馬氏の天下だ」
この予言の意味するところは大きい。なぜなら耶麻台共和国は、その晋と国交を結んでいるからだ。向うはこちらを『子国』と考えているようだが、なんにせよ、倭国における九洲の立場は強くなる。
九峪は晋の天下になると『知っていた』から、群雄割拠の続く大陸で晋を選んだのだ。長い目で見た事前投資であった。
このときの九峪の判断が、後世の『東征』へと繋がる力の源になる。
この予言は瑞兆だ。女中は疑わずに思った。明るい未来を、この予言は約束したも同然であった。
こうなると他の予言も聞いてみたい。促されて気を良くした九峪が、得意顔で続ける。
「倭国も変わるぞ。まだ先の話になるだろうけど、いずれ火魅子が天下を統べる日が来る。『耶麻台』は『大和』と名を変えて、倭国で始めての『王朝』がうまれる」
「『やまと』・・・・・・」
「そう、『大和王朝』だ。『大いなる和』と書いて『大和』。・・・・・・似てると思わないか? 『共に和する』という、この国のありかたと」
いわれて、女中ははっとする。
なるほど、そういうことかと納得する。つまり九峪はいずれ生まれる『大いなる和』への願いもこめて『共に和する国』としたのだ。
驚いた、正直に。九峪はずっと先のことまで考えていたのだ。百年先、一千年先の未来まで・・・・・・。
と、女中は感激しているのだが、これらの予言がある意味『ペテン』であると、知っているのは九峪だけ。
知らぬは仏である。
さらに色々な予言が女中や兎奈美を、感激させ、感心させた。とくに『アマテラスオオミカミ』のくだりは、まさしく卒倒ものであった。
「火魅子様が、神々の王にッ!!」
「だけじゃないぞぉ。『宗像三神』っていうのもあってな、亜衣たちも未来では『神』に列せられるんだ」
「あ、亜衣様まで」
もはやうわ言のように呟く。ああ、なんと凄まじい世界だろうか、未来とは。
前途輝く話ではないか。こんな素晴らしい予言に立ち会えた私は、なんて幸せ者なんでしょう・・・・・・!
生まれてからかつてない感動である。またこの予言を知る唯一の人間であることも、女中の身を骨から振るわせた。絶頂に導かれそうな優越感だ。
——だが、そこには忘れてはならないヤツもいる。空気の読めなさに定評のある兎奈美の存在が。
「九峪さんも、神様になるの?」
——なんでそういうこと聞くかな、お前さんは。
正直言って、一番聞かれたくない項目だった。九峪の持ちえるやや偏った知識の中にも、『神の遣い』に該当できる神様なんかいるわけがない。
『ヤマトタケル』『スサノオ』『神武天皇』・・・・・・英雄らしいところには当てはまらない。悔しいけど自覚はある。では高天原の知恵者『ヤゴコロオモイカネ』・・・・・・という感じにもならない。
「いません」と言えればいいのだが、その場合に起こる落胆は想像を絶することになろう。何よりも回復しかけていた『威厳』が再び地に落ちる。
貫かなければ、俺はただの『食料』になりはてる!
だから九峪は考える。考えて考えて・・・・・・とうとう人の形を失った存在にたどり着く。
「・・・・・・俺は」
「俺は?」
「・・・・・・り・・・・・・龍、だ」
「龍?」
兎奈美が聞き返す。神様とは違うと思うのだが、九峪にとってはまさに天啓のごとき閃きといえた。
『龍』。神格としては申し分ない。西洋で『竜』は決まって邪悪な、倒される存在とされているが、東洋の『龍』は神に順ずる存在、または神そのものともされる。もちろん龍族に含まれる『邪竜』もいるにはいるが、東洋で『竜』と『龍』は別物として区別される。
窮する九峪は、もうやぶれかぶれになっていた。とにかくそれっぽいことを言わないといけないからだ。
そこに、おあつらえ向きの龍がいる。
「『九頭龍』!」
思わず叫んでしまう。
「『九頭龍』といって、九つの頭を持つ巨大で強力な龍神だ。どうだ、スゴイだろうッ!」
「おお〜・・・・・・九峪さん、人間やめちゃうんだ」
「あああッ! そっちにもってっちゃうんだ!」
ダメダ、こいつもうどうにもできない。あれこれして龍神にまでなったのに、まさかのコメント『人間やめちゃうんだ』。
その方向に行くとは思わなかった。これがいわゆる『その発想はなかった』というやつなのか。わかるか。
空気が読めないとか、そういう問題ではないようだ。兎奈美にはこういった壮大な話に『感激する』神経がないのかもしれない。いや、兎奈美のことだから、そもそも『理解していない』という可能性・・・・・・はさすがにないとは思うけど。
それとも。
兎奈美にとって、九峪はしょせん人間でしかないということなのかもしれない。だから感激できないのか。これが上級魔人の余裕か。
なんにせよ、もう魔兎族の中で九峪の地位が向上することはないようだ、それも永遠に。兎奈美で駄目なら、どうやったって兎華乃を篭絡することは出来ない。
『大予言で地位を回復大作戦』は成功しつつもやっぱり失敗した。結果として女中は感激してくれたようだが、兎奈美にはほどよい暇つぶし程度だった。
魔人に人間を崇めさせるのはムリ。今日の教訓である。
——矢が頬を掠めた。浅く肉を抉り取られ、それでも血はどっと溢れ出す。
空には無数の矢。『矢の雨』というように、絶え間なく降り続ける、死を載せた雫たち。音も、聞くものを不安にさせる、甲高い音。
地面には死体がいくつも転がっている。その背には矢が突き刺さって、まるでハリネズミのよう——。
「ぎゃああッ」
隣でまた一人、悲鳴と共に倒れこむ音。どこを射抜かれたのかはわからないが、しばらく苦しんだ後に、悲鳴は途絶えた。
城壁に上っている兵士たちは、全員が盾を掲げて矢を防いでいる。敵勢は目の前。城壁に取り付かんと、怒気をあげて進軍してくる。
こちらも弓を引き絞って迎え撃つが、矢玉の量が段違いだ。こちらはせいぜい二段斉射しかできないのに、敵はあろうことか四段斉射で味方を援護している。
矢の応酬だけで相当の犠牲者が出ている。盾もあっという間に使い物にならなくなり、備えはぞっとする勢いで無くなくなっていく。
——もう、限界かもしれない。
一際大きく重い大盾で弓兵を守りながら、音羽は歯を食いしばる。音羽の身体の下で兵士二人が弓を射る。
多勢に無勢・・・・・・ではないのだ。兵力ではこちらが上回っている。武器も、九洲からの第二次兵団が持ってきてくれた。兵糧だってある。
しかし、勢いが違いすぎた。こちらも死を背負って鬼気迫る勢いだが、みな心のどこかで——勝てないと、そう思ってしまっている。
対する中山の兵はどうだ。なんという勇姿だ。兵一人が、こちらの兵士三人分に匹敵するとは。
彼らはまさに『精鋭』だ。中山の誇れる『戦士』だ。彼らには『兵士』ではなく『戦士』としての心構えがある。
九洲兵と違う。まずそこからして違う。『兵』を組んだ『戦士』がこんなに強いのかと、音羽をして舌を巻かせてしまう。
音羽の部隊は正門を守っている。上乃は別の城に篭って応戦しているし、増援の遠州は出撃して敵将を討ち取ったが、すぐに逆襲の憂き目にあって上乃の守る琢建(たっけん)に逃げ込んだ。
今日で十六日目の戦い。五度の戦いで、五度とも撃退した。そのたびにこちらは疲弊し、第二次兵団の到着にどれほど励まされたことか。
しかし相変わらず勝てる気がしない。攻勢は激しく、士気は低く。おおよそ考えられる勝因を持っているのに、ただひとつ、『躓き』から立ち直れないせいで勝ち目がまったくなくなっている。
「ぐああッ」
また一人倒れた。すでに五十人が倒れて、うち十人が死んでいる。
「くッ・・・・・・ふ、踏ん張れッ! それだけでいい!」
音羽は叫ぶ。ずっと叫んでいる。大盾を掲げ、頬から血を流して、自分自身の勇姿を味方に見せ付けてなんとか鼓舞する。それだけで精一杯だ。
怒号と悲鳴が鳴り響いた。誰かが言った。「敵が城壁に取り付いたッ!」
来たかッ! 音羽はひときわ大きく息を吸って、胸を膨らませると、大音声で吼えた。
「おおおおおおおッッッ!!!」
味方への誤射を恐れて、敵の弓はより遠く、より城中へと注がれる。にわかに城壁への攻勢が緩んだ。その隙をつく。
手にしていた大盾を大きく振りかぶり、咆哮と一緒に投げ飛ばす。巨体の重然さえも隠しきれるほど大きい盾が、轟ッと音を立てて宙を飛び、眼下に群がる敵を押し潰した。
それに倣うように、味方の兵士たちも盾を敵に投げつける。音羽のほど重い盾ではないが、梯子をかけようとする者たちは、高所から降ってくる盾に首の骨を折る致命傷を負った。
「さぁ来るぞッ!! 弓を絞れ、矢を絶やすな、剣が折れても拳で戦えッ!!」
音羽と同様の言葉が、将軍たちの口からも飛ばされる。
もはや後はない。武器はある。食料もある。兵もある。しかし質と勢いはどうしようもない。あとはただ踏ん張るだけだ。
梯子がかけられて、敵兵が登ってくる。矢による攻撃は緩んだが、以前なくなったわけではない。しかし音羽はかまわず梯子へと駆けて行き、
「オラァッ!」
自慢の槍で叩き落す。落として、梯子を掴むと、思い切りそれを押し倒した。土台を持つ滑車式の梯子も、音羽の怪力の前でもろくも途中からへし折られてしまった。
「どけどけどけェ!! 油が通るぞッ!!」
後ろから煮立った油鍋をかついで駆けつける兵士たちが現れる。よしと頷いて前線の兵士たちが援護しながら道を作ると、梯子を登ろうとする敵に向かって油をぶっかけた。
悲鳴を上げて兵士たちが落ちていく。下も酷い有様だ。さらに容赦なく油をぶちまけ、高熱に苦しむ兵士たちの阿鼻叫喚が生まれる。
しかしこれで終わるはずもなく、油にまみれたそこへと松明を投げ込む。火が瞬く間におこり、城壁のすぐ下から火の手が上がった。
燃え盛る兵士たちは方々へと逃げ回り、火が火を新たに点けてまわる。油によって起こった火災も、そもそも油の量が少ないため広範囲ではなくとも、こうやって広がっていく。
続いて熱湯も降下されるが、それでも中山の猛攻は歯止めが利かない。
それどころか——
「お、音羽様ッ! 西の砦が破られました!」
「なんだとぉ!?」
西の門から逃れてきた兵が正門砦の突破を報告してきた。中山は西の砦を突破、すぐ後ろの二の門砦に向かって突進してきているという。
この情報はすでに他の将にも伝えられ、しかたなく一軍が救援に向かう。これで正門の守りは薄くなるが、背に腹は代えられない。
猛攻は尚激しさを増す。西を突破して敵は俄然、士気を高めたようだ。
「クッ・・・・・・ぐあッ!!」
腕に矢が刺さる。数を減らした矢が、それでも音羽を傷つける。矢を引き剥くと、痛みは思ったほどかんじなかった。興奮しているからだ。
敵の兵もとうとう城壁を登ってきた。ニ、三人が乗り込み、それを撃退する。が、一人でも乗り込んできたら、もう続々と後が乗り込んでくる。
狭い城壁と、城壁裏が徐々に敵味方入り乱れての戦場へと姿を変えていく。もはや矢で応酬することが出来ない。
このまま二の門砦に向かわせるわけにはいかない。なんとしてもここで食い止めねば——ッ!
皆朱の槍が鳴いた。
突き刺し、薙ぎ払い、時には殴り殺して、絞め殺して。おおよそ知りうる殺し方で、敵兵を容赦なく黄泉路へ歩かせる。
一突きした槍に、中山兵が三人、命を刈り取られた。引き抜く時間も短く、獲物をさらに突き殺す。
音羽の働きは凄まじく、敵も迂闊に近づけない。気づくと、音羽の周りだけ、ぽっかりと空間が出来ていた。
返り血と汗で髪が湿っている。形相も勇ましく、興奮で赤み掛かっている。赤毛に赤色縅の鎧のため、巨体がさらに大きく見えた。
「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・」
半刻が過ぎた。相変わらず周囲は修羅の権化だ。兵士が切りかかってくると、音羽の槍は音を立てる。
もう何人殺しただろうか。
ずくんっ・・・・・・。背中の傷が痛む。槍で突かれた、あの傷。こんなときに。
それでも衰えない豪腕。槍捌き。萎えない闘志、引かない赤み。獲物を追い求める瞳は、百錬の鏡のように光っている。
——皆、よく戦っている。視界の端々に北山兵と九洲兵の奮戦振りが映っている。
二の門もまだまだ破られそうにない。当然だ、何しろ二の門を守っているのは他でもない、この私なのだから。
柄を握りなおし、視線でけん制する。飛び掛った者がことごとく返り討ちになって、さしもの中山兵も、音羽に恐れをなしていた。
返り血で真っ赤な音羽は鬼だ。鬼に人間が勝てる道理はない。
——こんなところで死ねない。だから。
「来るなら来いッ! 今度も、退いてもらうぞ!」
不退転の鬼神が咆哮は、中山の兵士にとって地獄への呼び声にしか聞こえなかった。
琢建の攻防も大宜味に劣らない。琢建の守備隊長が重傷を負って陣没してからは、大宜味で戦っていた上乃が指揮を執っているが、やはり厳しい。
こちらはもともと城としての規模が小さく、詰めている城兵も五百人足らずだ。街はなく、ほとんど砦といってよい。それでも良く持ちこたえているのは、上乃の采配もあるが、遠州が奇襲同然の攻撃で敵をかく乱してくれたおかげだった。
その遠州も今は城門のすぐ前で戦っている。門はまだ破られない。
琢建は小さいが、これには理由がある。谷あいに造った城だから、当然規模は小さいのだが、敵が攻め入られる場所が正門一箇所しかない。背後から狙われる心配がないのが救いだ。さらに正門に続く道も狭く、上には兵を配することが出来る。弓矢を射かけ、岩を落として応戦すれば、そう簡単に落ちる城ではない。
とはいえ、もともと大宜味の支城の琢建は、正門を塞がれたら軍を動かせない。裏道があるにはあるが、これはあくまで秘密の向け道で、数人が通れる程度。
そも、大宜味を攻める敵軍への警戒とけん制が目的の琢建の城兵が、敵軍を攻める必要はない。それをあえて遠州は突撃した。この戦いが不利であると十分に悟っての襲撃であった。
しかしその遠州も今は城に戻って、再び突撃することは難しい。
一昨日から始まった戦闘は、まだ終わる気配を見せない。敵は執拗に城門突破を狙っており、それを阻止するために遠州が三百人とともに奮戦している。
このままではジリ貧だ。補給も援軍も期待できない。情報だけは入ってくるが、悲しいかなその情報を生かしきる術を、上乃は持ち合わせていない。遠州ならばまた違うかもしれないが、前線で戦う遠州には頼めるべくもない。
「補給のめどが立っているだけマシだけど・・・・・・」
床机に腰掛ける上乃の顔には、疲労が色濃く映っている。部屋に詰めている兵士たちが不安そうに上乃を見つめている。
外からはいまだ戦いの激しさが伝わってくる。戸の向こうを兵士達が駆けていく。
琢建を攻めている敵をどうにかできれば、大宜味へ駆けつけることも出来るのだけど。上乃はずっと頭を悩ませている。
抜けられる道。それさえあればこの危機的状況も打破できるのに!
渇望する奇跡の活路。ほんとうに、軌跡以外にこの屈強を脱する道がわからない。しかし三方を山谷に囲まれた琢建に、起死回生の道などない。
抜けるのは、正面突破しかない。
この間にも前線での遠州は獅子奮迅の働きで敵を寄せ付けない。しかしその身に纏う白金の鎧は、すでに所々で刃に打ち据えられた傷跡が目立っている。
はぁ! と掛け声と共に振るわれた蛇腹剣が、蛇のようにうねって敵を切り刻む。特殊戦技の武具は扱いこそ難しいが使いこなせばこんなに強力な武器もない。
フオン シュオン 風を切る音もどこか独特で、人間業とは思えない。
「・・・・・・限がありませんね」
また二人を切り伏せて、ふっと息を吐く。敵が強い。一兵卒からして、遠州の一撃を防ぐ者がざらにいる。
一人が何人にも見える。琉球の兵は敵味方総じて錬度が高い。九洲兵が弱くさえ見えてくる。
また切りかかってくる。雄たけびを上げてくる敵を、遠州の蛇腹剣は躊躇いなく切り刻む。手首だけで剣先を操り、螺旋を描いて。
首が跳ぶ。血飛沫が跳ぶ。遠州の美しい鎧を赤く汚していく。
「ここさえ突破できれば!」
もはや策も兵法もない。戦場で一八の賭けほど愚かな選択もないが、もはやその愚かに訴えるしか道はない。
道が一つしかなく、そこを通らないといけないのなら、もはや押し通るまで! 押し返す勢いで勇躍すれば、自ずと道も開けると言い聞かせて、変幻の刃を振るわせる。
一閃で兵を薙ぎ払う。首が飛び、腕が飛び、足が飛び。ただそれだけを繰り返しながら、遠州は力の限り駆け出す。
勇猛の戦士が一人駆け出すと、後に続くものが現れてくる。全軍が突撃し、戦場はいよいよ混迷してきた。
玉砕の覚悟は上乃にも灯った。ただ進む。上乃には単純で、単純すぎる戦術で、それがたまらなく好きだった。
「あたしらも行くよッ!!」
その一言でもって、わずか百人の兵士と共に城を打って出る。琢建の有する全戦力が城外に飛び出した。
波状攻撃には、その利点ゆえの弱点がある。波には『押し』と『引き』があり、押している間はいいが、引いているときに攻められたら脆い。
かくして、引きのときが来た。相手はすぐさま兵を送り込むが・・・・・・そのわずかの間さえ、上乃と遠州は見逃さなかった。
遠州が敵軍を抜けた。続いて百人が抜けてくる。直線状の陣形。それはただ突破することにのみ特化した攻めの陣形。
いわゆる孔明八陣の一つ『鋒矢の陣』である。形はいささか崩れているものの、鋒矢が一直線になって飛んでくる。
決死の覚悟を秘めた遠州の突撃に、波状攻撃のために個別に編成された軍団が急襲されると、敵はようやく撤退するそぶりを見せた。後方をかく乱されると、大宜味を攻めるどころでなくなるからだ。
遠州を追おうとする者どもは、上乃の一隊が死に物狂いで喰らい付く。上乃も長刀の名手として聞こえた勇将、その奮闘には目を見張るものがあった。
ここで突かなければ、遠州も上乃も、もう後がない。みなぎる気迫は敵を徐々に圧していった。
敵の旗本ははるか後方、これを攻めることは出来ず、またそんな考えもない。遠州の百人は、まさか上乃を見捨てたかのように、振り返ることもなく、一心不乱に攻め立てた。
この琢建を攻撃している部隊の将、多度志(たどし)の指揮は悪くなかったが、勝ち戦に油断した多度志を、遠州はあえなくも討ち取る働きをした。
琢建包囲軍を後方から散々にかき回して、敵は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「・・・・・・引いていく」
旗本へと向かう敵兵の波を、上乃は切れ切れの言葉で呟いて見つめた。疲労の余り膝からくず折れる上乃を、近くにいた兵士たちが慌てて抱き支えた。
遠州はまだ戦っていた。遠州と共に抜けた百人は、見ると二十人かそこらしか生きていない。敵味方入り乱れての戦いだったのだ、遠州が生きていることさえ奇跡に近く、それは上乃も同様であった。
この機を逃さず、散々に打ち負かす。それが遠州の考えで、そのため満身創痍なのになお攻め立てている。しかし上乃はすぐに遠州を呼び戻させた。
「軍を立て直して、すぐに大宜味を包囲している中山の背後を襲って! 早くしないと大宜味が落ちるよ!」
こうとまで言われたら、遠州も追撃を諦めざるを得ない。何より大宜味を守っている音羽は、遠州にとって先輩にあたる。見捨てることなど出来はしなかった。
琢建の全戦力を再編成して、総勢二百三十余が大宜味へと軍を動かす。この間、琢建は完全に無防備だが、どうせ守り切れないと判断した上乃は、放棄同然で出撃した。
琢建攻撃が失敗した後の中山の動きは速かった。琢建の戦力が後方を襲う前に、さっさと軍勢を引かせたのだ。あまりにも鮮やか過ぎる引き際は、音羽も感嘆するほどだった。
「引き時、引き際、引き方が上手い将は、いくさも上手い」
中山の後退で生きながらえた音羽は、後にこう語っている。
この見事な撤退を見せた将は、中山でも五指に入る武将だった。そしてこの武将こそが、北山の命運を左右する一人なのだが、この時の音羽は知らず、ただ上乃と遠州の活躍に胸躍らせるばかりであった。