二十二日、耶牟原城が戦闘状態に突入。暴徒と化した住民や兵士たちによって、三百人の宗像海人衆が襲われ、伊万里軍が火魅子方へ寝返った。
という悪報が際川陣の蔚海に届いたのが、早くも翌日の早晩である。
報告が届く四日前、すなわち十八日のことだが、前衛司令官を写楽から小久慈知事にすり替え、蔚海自らも采配を振るった大規模戦闘で、果敢むなしく蔚海軍は敗退した。南軍の渡河作戦を阻止し切れなかったばかりか、両軍正面きっての大戦闘敗北が、際川本戦において決定的に勝敗を分かつこととなった。
が、この段階まではまだ、まだよかった。よかったというのは、東へ逃れれば耶牟原城があり、さらに伊万里の軍もあり、南へ逃れれば尾戸の守る要害堅固この上ない天都城があった。
しかし、まず東への退路が失われたことになる。伊万里が寝返ったということは、志野軍一万ももれなくついてくる。合計すると二万近い。
だが、いつまでも尾戸が従順でいようか。否。報が届いた瞬間には、天都城の城門を開き、これも寝返って藤那・香蘭軍と合流することは明白である。
そして、写楽がすでに南軍と通じてしまっているため、際川陣も混沌とする。もはや戦いどころではない。
耶牟原城の急変を伊万里が知り、鎮圧されるよりもずっと早く反転する決断と行動力を示した段階で、大局的勝敗の左右すらも決定付けられた。
全てが急激なまでの変換期上にあって、いくつもの偶然と必然がいちどに存在していた。それを見事に掴み取ったのは、写楽のアシストに共鳴した伊万里であった。
一言で言い表せば、虎か獅子かというところであろうか。
初手を先んじて兵を進ませた志野軍に、伊万里軍はついぞ劣勢に立たされていた。すでに霧は晴れたものの、かわりに傷口から血液が噴霧されるように、戦場の空気が赤黒くなっている。
濃霧を利用した戦術ないし戦いといえば、戦国時代でもたた見られる。武田信玄と上杉謙信をして有名な『第四次川中島の戦い』や、毛利元就が窮地を脱した『郡山城の戦い』などがそうだ。『郡山城の戦い』はもっぱら元就の調略戦という雰囲気も色濃いが、失敗こそしたものの朝霧の濃さにまぎれて奇襲している。
濃霧を利用した戦術というものは、それだけ効果もあればリスクも大きい戦術。
伊万里も濃霧を利用して、ギリギリまで隠密行軍で接敵し奇襲する算段だった。これを予見した志野も、同じく濃霧を利用して足止め部隊を残して密かに進軍し、さらに物見まで放って伊万里軍の動向を探った。あいにくと物見の動きをまたまた逆に察知され、伊万里はすかさず本隊でもって志野本隊を急襲したが、これもまた油断なく迎え撃たれてしまった。
濃霧という強力な武器をふんだんに利用しまくった、これは『濃霧戦』とまで呼んでいいだろう戦いだ。
戦況は一進一退——と言いたいところだが、誰の目にも志野軍が優勢に戦いを制していることがわかってしまう。圧倒的ではないが、じりじりと伊万里軍の勢いが弱くなっていく。
ヨミの深さが、分かれ目だった。
志野が指揮する斥候部隊、そして後続からは九千の軍勢。ただしくは、九千の大軍がまるごと続いているわけではない。
それぞれを大隊にふりわけている。斥候部隊は囮であり、自らの首を餌に伊万里を釣り上げたのだ。斥候に従うのは一個大隊。これを奇襲部隊三千が攻撃してくるが、戦闘中に残りの大隊が包囲し、気がつけば伊万里の周りは三倍の兵力でもって取り囲まれている、という構図が出来上がっていた。
「持ちこたえろ! 奇襲部隊が合流してくるまで、なんとしても踏ん張れッ!!」
剣をふり、伊万里も必死に戦った。奇襲部隊一千余りが駆けつけてくれば、脱出路が切り開けるのだ。
乱戦に強いと評判される名将二人、昨夜にも劣らない熱戦激戦。
伊万里軍の士気があまりにも高すぎ、有利であるはずの志野が、いかに采配しても崩しきれない。
だが、勝てる。
「後ろは・・・・・・」
志野の注意はむしろ半窪で足止めを食っている奇襲部隊へ向けられている。
本心を言えば伊万里を殺したくない。今でこそ敵同士だが、もともと、望んだ戦いですらなかった。
こんな『くだらない』戦いで命を賭けること事態、御免こうむりたいし奪いたくもない。
とくに伊万里など、かつての女王候補であり、いまでは火後の藤那、薩摩の香蘭とともに知事としても別格の地位を得ているのだ(後、伊万里・藤那・香蘭の二世時代になると、一族を『三侯王族(さんこうのおうぞく)』と呼ぶようになり、王家外威として絶大な権力を振るった。徳川御三家のようなものである)。
九峪からの信頼も厚く律儀一通りの忠義者、といえば伊雅とも並ぶと市井で話しの種にされる。そんな伊万里が蔚海ごときに言いようにされるなど、他者に対してやや他人事な部分もある志野でさえ同情しているのだ。
自分同様、伊万里まで命を賭ける必要はないと思っている。正直言えば、ぼちぼち戦って適当にお茶を濁せれば、それに越したことないではないか。
と思うのだが、伊万里は必死だ。父親の命がかかっているのだから無理もない。それを考えると志野はらしくもなく哀しみが満ちてきた。志野もかつて、大事な人を失ってしまった。
だからといって温情はかけていられない。
残念だが、伊万里には死んでもらう。
奇襲部隊が到着する前に、決する。
「もうこちらに向かっているわね」
「そんなの蹴散らせばいい」
「そう、くるなら倒すだけ。ただそれだけのこと」
所詮この世は戦国。
「伊万里様。恨みっこなしですからね」
志野は全部署に、突撃命令を下した。
あと一歩という寸前まで、伊万里軍の態勢は崩れに崩れていた。すでに軍団としての体裁すら保てないほど、部隊は四散し、指揮系統も断絶された。
山間の渓谷に、死屍累々と惨めな道が出来上がっている。豊後人と火向人が入り混じった死体の山だ。
決着はつかなかった。伊万里のよく守りに手こずった結果が、背後に現れた奇襲部隊であった。足止め部隊は虚しく散ったのだろう。遺族への保障を約束して死地に送りやったわけだが、やはり申し訳なく思う。ましてや、足止め部隊が壊滅したのに、とうの伊万里軍本隊はまだ撃破されていないのだ。
だがそれが、犬死であるなどと志野は思わない。決着はつかなかったが、こと勝敗は明らかだ。
おそらくこれで、伊万里軍の純粋戦力は三千そこそこになっただろう。それも満身創痍だ。逆に志野の手元には、まだ一万近い戦力が残されている。
戦いというものには流れがある。流れによっては寡兵が大軍かと目を見張るばかりの働きをするし、逆もまた然りだ。いま、流れは志野を源泉としている。これから先どうしたって伊万里は、志野が生み出している流れに逆らえまい。
これでいいと、志野も安堵するくらいだ。
「撤退ッ!!」
志野軍が苛烈な攻撃をやめ、早々と引き上げたのが、十七日の午後三時ごろだった。
伊万里は疲れ果て、木の根に背を預けたまま腰が砕けたように尻餅をついた。肩で荒い呼吸を繰り返し、泥で汚れ、頬から滴るのが汗なのか返り血なのか自らの流血なのかもわからない。特注の刀は無残に刃こぼれし、鍛えなおさないと使い物になりそうにない。
戦いはまだ続いている。撤退する志野軍にたいして奇襲部隊が追いすがっているのだろう。無駄だと思った。
「——ちくしょう」
悔しい気持ちが重く、腑抜けた身体に圧し掛かった。流れが変わった実感をこの敗北でもって思い知った。
得意の山岳戦で敗れた。九峪にまで絶賛され褒め称えられた山の戦いで、志野に後れをとった。絶対に負けられない戦いだったのに——負けた。
まだ動かそうと思えば三千の戦力がのこっているのに、もはや志野の敵にはなりえない。わかるのだ。百戦して百勝だったのに、昨夜の夜襲で仕留めきれず、今日の戦いで決定的敗北を喫した。
それだけ、この敗北がもつ意味は大きい。否にも戦う豊後戦士たちを支える精神的支柱は、人質の無事と、伊万里という山岳戦のプロフェッショナルがいたればこそだった。ただ一度も負けないことで心を支えていた。
だが負けた。
自分がこうして生きていられるのは、なんてことない、ただ志野に温情をかけられたから。
——義父上。
もう何年も会っていない。手紙のやり取りもしていないし、帰郷だって一度もしなかった。考えもしなかった。
疎遠といえばそのとおりだろう。実子の上乃すら見限った感がある。それでも見捨てるには、あまりにも伊万里の性根が優しすぎた。
育ての恩は忘れられない。狗根国を駆逐し、一刻も早く世を平らかにする手伝いをすることで県居の里の皆を安らかせ、それをもって養育への恩返しとしてきたのだ。
決して、死なせるなど論外なのである。
「——ック!」
涙があふれてきた。脳裏に、首を刎ねられる義父の姿が浮かび上がって伊万里を苦しめた。首だけになって地面を転がる義父が、自分を睨みつけているような幻覚さえした。
べつに、伊万里が敗北したからといってすぐ殺害されるわけではない。人質の存在意義は、あくまでも対象の裏切りを未然に防ぐためのもの予防でしかなく、良くも悪くもそれ以上の意味合いは持たない。伊万里が死ねば、ただ人質の存在価値がなくなるだけだ。
まぁそれでも、普通は殺されるのだが。害される確立が下がるだけの話。
伊万里にとって、嗚咽が零れるほど絶望的な事柄であることに変わりない。
「九峪さま・・・・・・」
見上げたら、空に九峪の笑顔があった。こんなときに何を笑ってるんですか、と少しだけ腹が立った。
くたくたに疲れ果て、絶望に心が奈落へ落ち、最後には九峪に縋ろうとする。何とか弱いことか。
まったく踏んだり蹴ったりとはよくいう。蔚海ごときに使い走らされ、仲間同士の殺し合いを押し付けられ、得意の土俵で一敗地にまみれ、虚無僧の襤褸切れみたいに萎びて、父は亡くなる瀬戸際に立たされ、上乃も種芽島で苦しみ、いよいよどうにもならなくなると『神頼み』ならぬ『神の遣い頼み』だ。
滑稽すぎて、ますます涙が出てくるではないか。ほら、ポロポロと。
そんな情けない姿を、よりにもよって仁清に見られてしまったんだから、もう言葉もない。
「伊万里・・・・・・大丈夫?」
なんていわれても頷けない。大丈夫なことなんか何もない。
「・・・・・・敵は?」
「完全に引き上げたようだよ。こっちを殲滅するつもりはないみたいだね」
「そう、か」
やはり、見逃されたらしい。指揮官としては有難いが、戦士としては屈辱だ。
「部隊をまとめて、編成を整えてくれ。・・・・・・もう、勝ち目はないだろうけど」
諦観の言葉に仁清は一瞬いきをのんだが、すぐにしっかりと頷いた。伊万里とともに死ぬつもりだった。
生き残った武将らの肩を借りながら、場所を移動させる。
——もう、豊後大野城へ引き上げよう。どうせ義父は助からない。ならばせめて、自らは豊後大野城へ篭り、志野を素通りさせてやることで最後の最後、火魅子方南軍の勝利に影ながら貢献しようではないか。
志野を恨むつもりはない。志野が自分を見逃したということは、彼女だって本当は戦いたくないんだというのだと、何よりも雄弁に語る証拠ではないか。
恨んだって仕方がないんだ。悪いのは——憎むべきは文官と蔚海、そして宗像海人衆だ。
「事ここに至っては、もはや戦う余力なく」
伊万里は、将兵たちに向かって静かに語った。事実上の敗北宣言、降伏宣言であった。
「私に志野ほどの徳なく、才も乏しく、皆を背負い上げる器にもなれず・・・・・・質にいれられた家族たちを救うことさえ適わなかった」
泣き出してしまいそうな表情、声は哀しく震えている。それでもどこか凛として響いているのは、せめて彼女の垢抜けない気高さがあるからだろう。
伊万里から見える将兵に傷ついていない者はなく、また将兵の眼に映る伊万里の姿も、痛々しい。
これが、激戦の末に待ち構えていた、彼らの結末である。
「私は、無能だったのかもしれない」
『だった』と断言しないのは、彼女の中にある一握りの誇りが言う事を憚らせたからだ。九峪に褒められた幸福感と満足感は、生涯忘れられないと心に秘めたものだった。
ただどうしても、足りないものが多すぎた。そんな足りていない自分に従い戦ってくれた家臣領民たちが、いま、言いようもない表情で伊万里を見つめている。
「みんな、よく戦ってくれた。・・・・・・よく、戦ってくれた」
「だから」と、伊万里が息を吸い込み、
「豊後大野城へ行こう。それから、私は波羅稲澄城へ・・・・・・皆もそれぞれの居城に帰ろう」
言い切った。
こんなロクデモナイ戦いに幕を下ろそう、と。
その夜。志野の使者が、降伏勧告を勧めてきた。投降するならば、命の安全を保障すると言っている。
伊万里は明確な返事をせず、酒を一杯だけ振舞って送り返した。答えは行動で示すと腹に決めていた。
出発は明日(十八日)の明朝。時間的には六時ごろとなるだろう。その時をもって、伊万里軍は全軍総撤退する。そして、あとはただ、流れに身を任せる。
こうして、九峪の幕下にあって活躍した伊万里の栄光は、辛く哀しい結末を持って幕を閉じる。
何事もなければ、そうなっていただろう。
時代はまだ、伊万里の退場を赦してはいなかった。伊万里に転機が訪れたのは、豊後大野城を目前としていた、四月十九日正午のことであった。
二人の兵士が、伊万里の陣に駆け込んできたのは。
「耶牟原城内にて反乱ッ! 民衆や城兵たちが一斉に蜂起し、王都が混乱しておりますッ!!」
伊万里は、己が耳を疑った。
ここが大きな転換であるということに、当事者として立たされた伊万里には当然わかろうはずもない。
だが、気づく気づかないを伊万里に求めることもなく、天の意思は火急の決断を伊万里に求めている。
——耶牟原城が、内乱?
そんなわけがあるかと、言下に断ずるのは簡単だ。耶牟原城から西へ際川、南へ天都城の位置関係だが、それほど距離が離れているわけではない。際川陣と天都陣がいったいどのような状況かは露とも知れないが、何か王都で異変が起きれば、すぐに兵を向けることだって出来るはずだ。
それよりも、真実は置いておくとしても、兵士二人の口を塞ぐ必要がある。無用な動揺を全体に広げる愚は避けたい。
「豊後大野城へ」
すでに城壁が臨める場所まで進んできているのだ。志野軍も進軍しているだろう。先ほどから蔚海の息がかかった軍監がしきりに騒いでいるが、もう伊万里にはどうでもいいことだ。志野にはさっさと豊後大野城を掠めて耶牟原城を目指してほしい。
それに、もう疲れた・・・・・・。
しかし兵士たちは、くそ落ち着きに落ち着いた顔で、
「幔幕を張っていただきとうございます」
陣を敷けとまで要求してきた。それどころか、いや時間が惜しい、陣はいいから主だった将軍階級の武将たちを集めて欲しい、とまでいいだした。
重要な用件を携えてきている、というのだが。
気は進まない。だが押し問答しているのも面倒だ。耶牟原城云々の詳しい話も聞いておきたい。なにか、きな臭く感じるのだ。
「兵を休ませて、武将を集めてくれ」
林の中、木々を天幕で繋いで簡素な本幕をつくると、そこに伊万里軍を構成する主だった武官・武将を呼び集めた。
総人数は二十人人近い。豊後大野城に着陣した開戦前までは四十人ちかくいたのだが、半数ほどが志野との戦いで討ち死にを遂げてしまった。
上座はもちろん伊万里。すぐ傍に仁清が立つ。
「さあ、これでいいか」
やや投げやりな、それでいて緊張している声で、下座で跪く兵士二人に肯定をうながす。
「内容が内容だからな。この上で人払いなんて求めるなよ」
「十分でございます」
「言ってみろ。耶牟原城がどうしたって? 反乱とはどういうことだ」
「されば」
「過ぎる十八日、際川にて蔚海軍敗退の報が届き、民衆と兵らが結託して在中の宗像海人衆を襲い、耶牟原城、にわかに騒がしくなりました」
ざわっと、騒がしくなったのは幔幕の内側の方であった。
常に冷静沈着な仁清でも驚いた表情をしている。
「人質はどうなったんだ、無事なのか?」
「それが・・・・・・」
わからない、という。如何せん耶牟原城の混乱ぶりは目も当てられない程らしい。どこで何が起こっているのか、どれほどの被害が起こっているのか、まったく知れない。
人質もどうなったか、調べようにも手立てがないのが現状なのだ。
——などというが、明らかにおかしい。十八日に反乱が発生して、今は十九日。どんなに急いでも、反乱発生直後に耶牟原城を出発しなければ、いまのタイミングで豊後にいる伊万里の耳に入れることは出来ない。
わからないという口ぶりからは、相当な混乱振りが伝わってくる。それに二人が二人して、動揺した様子もない。伝え聞いた武将たち、仁清でさえ驚きを隠せないにもかかわらずだ。
伊万里の受けた衝撃も彼らに負けず劣らず大きなものだったが、しかし司令官という立場を生きている彼女は、いち早く気を取り直し、この奇妙な齟齬を注意した。
——怪しい。二人の言葉を鵜呑みにしていいものだろうか。
表情は引き締めつつ、内心で迷いがくすぶる。信じようとすれば、二人の言葉にはいささか不審な点が見て取れ、それがどうしても気になってしまう。
——だけど、これって『ちゃんす』なんじゃないのか?
迷いながらも、伊万里の心に魔が差した。溜めに溜まった鬱憤、それがあふれ出してきた。
というのも、人質をとられるなどした伊万里が、もちろん蔚海に気を寄せる理由はない。それだけでも業腹ものなのに、伊万里軍には豊前から派遣されてきた軍監がいて、事あるごとに伊万里たちの作戦指揮に口を出してくるのだ。
いや、口出しは百歩譲ってもいい。軍監が意見すること事態、珍しいことじゃない。問題なのは、この軍監が自分の事を『総大将』と思っている節があることだ。総司令官は伊万里である。決定権も伊万里にある。しかし軍監は、自らを伊万里よりも上位において、物事を考えている。
彼にしてみれば、蔚海の命令をうけて伊万里軍を『指揮している』という感覚なのだろう。そのせいか功名心に逸っており、迷惑この上ない。
『蔚海、戦死』という驚愕の報告にあわれなほど狼狽している軍監を横目に見ていると、純朴な彼女に相応しくない意地の悪い愉快さが表情に出そうで、努めて無表情を浮かべているほどだ。
「とりあえずわかった。それで、尾戸たちはどうしている?」
やつにも遣いを送ったのか、という質問を投げかけると、肯定した。それはそうだと頷きつつ、これで尾戸の軍が動き出せば、信憑性は一気に高まる。
が、そんなことを待っていられない。火魅子の血がそうさせるのか、何か予感が強く伊万里に働きかけている。
「最後にもういちど聞くけど、耶牟原城は混乱しているんだな? 人質の安否も確認できないほどに」
「はっ、左様でございます」
「そうか・・・・・・」
落ち着き払って、空を見上げる。まだ曇り空だ。
「・・・・・・ところで、お前たちの主は誰なんだ」
「は・・・・・・は?」
二人の兵士が顔を見合わせる。
「蔚海様、でございますが」
「だとすると、おかしいなぁ・・・・・・。な、軍監殿」
いきなり話を振られて、軍監が哀れなくらいに飛び上がった。
伊万里は豊後にいるから、中央の情勢には疎かった。軍監に選ばれたこの者は、豊前から派遣された文官であり、様々な事を得意満面になって伊万里に講釈してくれたものだ。
「たしか、『大王』と呼ばねばならなかったはずだけど」
「あッ!」
そうだ、と軍監が声を上げた。仁清たちも声を上げた。ただ二人の兵士も、まずそうに顔を歪めた。
かりに彼ら二人が蔚海の事を気にいっていなくても、立場的には『大王』と呼ばねばならない。ましてやいまの話相手は東方戦線を指揮する伊万里である。
伊万里が立ち上がると、二人の兵士は跪いたままびくりと震えた。悪い汗が流れている。
刀を抜いて、二人に向ける。
「お前たち、耶牟原城の兵士じゃないな。どこの兵士だ、何の目的で流言を持ってきたんだ!」
しんっと音がやんだ。伊万里の言葉に、豊後兵士たちはまたもや言葉を失ってしまった。耶牟原城で反乱がおきたと騒いでおれば、今度はそれが嘘で目の前にいるのは間者かもしれない、というのだから、もはやついてはいけまい。
しかし、伊万里とていまにも事態に振り落とされようかとしている。これまで培ってきた上位者としての経験で、彼女だけが辛うじて凛としているが、ほとんど混乱しそうだった。
兵士二人は押し黙っている。言葉もないのか、それとも何と応えようか悩んでいるのか、それはわからない。
が、意を決したのか、示し合わせて平伏した。
「恐れ入りました」
と、いった。
刀を下げず、やはり曲者だったかと得心する。
「わけをいえ」
「はっ・・・・・・」
額を地面にこすり付けんばかりにひれ伏していた兵士らが、顔を上げた。すると手早くあごの紐を解き、兜をぬいだ。
「某、兵卒にあらず。筑前は写楽が家臣にございまする」
「同じく、写楽の家臣にござる」
二人は、写楽の側近衆(評定衆)であった。仁清や上乃と同じ、列記とした将軍階級にある。名を聞くと、なるほど、聞き覚えのある名前だ。
人質救出作戦で選び抜かれた三十人、耶牟原城直前で二人は別行動をとった。伊万里と接触するためで、同様にあと二人が天都城へと走った。
身元はわかった。この期に及んで嘘は言わないだろうことくらいは伊万里にだって察せられる。
だが、なぜ写楽の家臣が偽の情報を伝えてきたのか。写楽は北軍に所属しているはずだ。
——まさか。
「写楽殿にいわれてきたのか? 私のところに偽りの情報を与えろと、そういわれたのか?」
だとするなら、これは大変なことだ。まさか、と思う。
思うけど、どこかで期待している。
「それは・・・・・・謀反、のつもりなのか?」
伊万里の代わりにそういったのは仁清だ。いち早く冷静になった彼には、それしか思いつかなかったのだろう。伊万里もそう思う。
否、それしか考えられない。
そして、それを肯定するように、写楽の家臣は恭しく頭を下げた。
「ただ」
地面を見つめながら、
「謀反と申せども、われら、蔚海ずれの治世を認めているわけではございませぬ。ゆえに寝返ることにも躊躇いたしませぬ」
厳然として言い切った。謀反という世の罪悪を正当化させかねない言葉だが、そこには言葉どおり躊躇している様子もなければ、そもそも悪びれた風もない。
それどころか、まっすぐとした決意ある瞳が、伊万里の心を射抜いたとさえいえる。かあっと頭に血が上るのが自分でもわかった。
写楽だって人質をとられているだろうに、それでも歯向かう決断をしたこと、それに実直にも従った彼ら主従に、散々な目にあわされた伊万里が興奮したとしても無理ないことだ。
「伊万里様」
二人の某が膝を進めた。
「どうか、合力をッ! 志野様の軍勢と連携して、即刻、耶牟原城へ攻め上りください!!」
「天都城におわす尾戸様も、必ずや合力くだされます。伊雅様の軍勢も初戦に勝利し、もはや蔚海めの天下にございませぬ!」
伏して頼む姿にも勢いがある。世が世なら、合力させれなければ切腹というほどの勢いで、実際それだけの覚悟はあるだろう。
正味な話、心を動かされた。
「ふ、ふざけるなッ!」
となりで発生した怒声が伊万里の意識を呼び戻した。
軍監が眦を吊り上げて憤怒の形相をし、肩を吊り上げて怒っているさまには、明らかな焦りの色が浮かんでいる。蔚海の権勢にのって成り上がったのだから、ここで今さら天下を動転されては、それこそ生死を分かつ死活問題となってしまう。
「この恥知らずどもがッ、主を蔑ろにするなど、貴様らそれでも国士かッ!!」
つばを飛ばしてなじった軍監の耳に、ふっと笑い声が聞こえた。
「だ、誰が笑ったァッ!?」
うろたえ周りを探す。将軍階級が三十人、謀反人が二人、そして伊万里。幔幕のそとには警護の兵もいるだろうが、伊万里たちの話は聞こえていないはずだ。
忍ぶように堪えられる笑い声がまだ続いている、
軍監の顔が、一箇所にとどめられた。
伊万里の肩が、小刻みに上下している。
「い、伊万里殿——ッ!」
「ふ、はは・・・・・・・はっは」
何がおかしいのか、小刻みな震えが、徐々に大きくなってゆく。それにつられて、伊万里の笑い声も大きくなっていった。
ひーひーと呼吸がか細くなるほど笑い通す姿に、仁清たち家臣が息をのんだ。笑い事の要因などどこにもないのに、いきなり笑い出した伊万里の様子が、まるで気でも違った様に見えてしまった。
普段の伊万里からは想像も出来ない笑い方だ。
侮辱されたと思ったのか、軍監の腕が伊万里へのび、まだ打ち震えている肩を掴もうとする。が、それよりも圧倒的な速さと力強さが、軍監の手首を圧迫した。一回り近く小ぶりなくせに、へし折らんばかりに軍監の腕を締め上げる。悲鳴が上がった。
掴んだまま捩じ上げてやると、それでもう立っていられなくなってしまった。膝から崩れる軍監を見下ろす瞳が、ゾッとするほどに冷たい。
「最初に主を蔑ろにしたのは、お前たちじゃないか。それが『恥知らず』だの『国士』だのと・・・・・・。これが笑わずにいられるか? お前たちが今相手にしているのは誰だと思っているんだ」
「い、い、いまの王は蔚海殿だッ。貴様らも国士ならば、忠誠を誓って——ェッ!!」
「ならまずは、お前たちが火魅子様に忠誠を誓うべきだったな。恥知らず」
ギリッ——ますます力をこめる。言いようもない衝動が背筋を駆け上ってくる、ゾクゾクする。
「恥知らず」
もう一度言う。軍監は痛みの余り、悪い呼吸を繰り返すばかりだ。
「人質は救出するんだな?」
伊万里が言った。言葉の内側に、確信めいた響きがあった。この作戦を指示した当人も人質をとられているのだから、もちろんそこまで考えが及んでいるはずだ。
問いかけに「もちろんです」と答え、「すでに仲間が耶牟原城へ潜入しております」と裏づけも示してくれた。
それで助かるかどうかは別問題としても、伊万里にとってはそれこそどうでもいいことだ。あのまま志野に圧されて諦観していたら、間違いなく救えるものも救えなくなっていたのだから。
それならばやってやれと、顔を上げて開き直るのもよい。それで助けられるなら御の字だったと喜ぼう。
捩じ上げていた軍監を突き飛ばす。叩きつけられて泥にまみれた男の顔が苦痛にもまみれて、芋虫のように丸まっている。もしかしたら手首や肩の腱をひどく痛めているのかもしれない。
「い、伊万里ィ・・・・・・ッ! この謀反人がァ・・・・・・わ、我らに逆らうとどうなる——ッ」
立ち上がった軍監の肩に、刀が袈裟切りに振り落とされた。伊万里の一刀が、軍監に言葉を言い終わらせなかった。
血塗れた刀が、大局の決め手となった。
「これ以上、お前たちなんかに従っていられるかッ」
吐き捨てるように言った。
「耶牟原城の戦力は?」
骸になった軍監を見下ろしたまま、顔を向けず、問いかけた。いきなりの事態に目を丸くしていた写楽の家臣らが、気を取り直して頷き、答える。
「城兵百人、宗像海人衆三百人」
「仲間、というのは?」
「選りすぐった三十人の精鋭」
三十人ときいた瞬間、伊万里はわずかにたじろいだ。少ないと思った。しかしすぐに、先ほどの裏づけを思い出した。住民は何千人といるのだ。
ここまでくれば、もう躊躇うこともない。玉砕気分だ。
「仁清、先鋒隊は三百人だ。すぐに準備してくれ」
「じゃあ——ッ!」
仁清の表情が明るくなった。いや、興奮している、といえばそのほうがしっくりくる。
伊万里は頷き、
「私たち豊後軍、故あって寝返るッ!」
「おお、伊万里様ッ」
伊万里の宣言に、武将たちが沸きあがった。彼らも人質を取られた身、蔚海に槍をつけられるとあれば、寝返りを決断した伊万里の采配が心底に嬉しくなった。
「こいつの部下どもも縛り上げて、豊後大野城へ連れて行け」
「はっ!」
武将が数人、幔幕を飛び出していった。軍監には十人ほどお付の部下がおり、それを捕らえなければならない。
仁清も先鋒部隊を編成するために慌しく兵士たちの元へ行き、伊万里軍はにわかに騒がしくなった。
沸き立つような高揚の中、このときの決断が大局を動かすことになるなど露とも知らず、伊万里は部署を決定していった。
志野軍も九洲山地の連山を越えつつある今、寝返った伊万里の目先は西方、耶牟原城へ向けられている。
「伊万里様、陣容整いましたッ!」
豊後大野城を目の前にして、伊万里軍、整然と佇む。伊万里は背後を振り返った。もう、城壁が見えている。
——入城していたら。
おそらく、ここまで急速に編成できなかったに違いない。僅かの差、それは必然と偶然との融合である。
「伊万里様、号令を」
仁清の先鋒三百は一足早く出発している。各部署の指揮官たちが、出陣号令を催促してくる。
「——まずは、志野の火向軍と合流する。第一陣、出発ッ!!」
伊万里の号令が下され、第一陣千五百が豊後大野城近郊から移動しだした。
十九日、すでに日は沈み、夜間行軍である。