半窪を舞台に熾烈を極めた攻防から一夜明け、まだ硝煙のくすぶる朝靄の中に志野はいる。
本陣は尽く切り崩され、材木物資から兵糧まで焼かれた。救いといえば、後方の輜重部隊が後詰によって守られていたことだろうか。輜重部隊を攻撃対象から外したところに、あの一戦で全てを決しようという伊万里の気概が読み取れた。
残りの軍団も半窪へ招じ、態勢を整える頃には、はや一日が経過する。十七日、霧が濃い。
——奇襲するには、うってつけである。もちろん伊万里勢にとって、であるが。
「今日中に、もういちど大規模な戦いになるわね」
惨憺たる戦場の残り香が鼻腔のおくを厭に臭わす。今日、ここは再び戦場になるだろうという確信的な予感が、志野に疑いを持たせない。
自分が伊万里だとしたならば、この濃霧を隠れ蓑にして隠密に接敵し、態勢の整う前の無防備を速攻で突き、打ちのめし、散々に踏みにじって終りとする。
問題は、時と場所の選びと頃だ。山に登った伊万里は神かかる。絶妙の時に、絶好の場所から沸き出でる。あの者は間違うまい。
ならば。
陣屋を置いた丘に登って、三度まわりを見回す。
昨日と同じ場所から、ということは考えにくい。当然そこへの守りも固めるが、他の場所から敵兵は出てくるだろう。
半窪には山間道の類が少なく、おそらく四方八方から少人数での攻撃が想定される。そして散発的な戦闘で態勢を崩したところに。
「大道から本命が登場」
東山街道を通って、伊万里軍本隊が決戦を挑んでくる。
これしかない。単純だが、伊万里ならば成功させられるだろう。そして単純であるが故に、こちらも正面から受けて立たねばならない。受けて立てば、志野に勝ち目などあろうはずもない。
守りにまわっては勝てない。態勢が整えきらない今、それでも攻勢に転じる必要がある。
「逆に、いまが攻め時かしら」
志野は、一計を案じた。
支城を攻略する段階までは、攻め手にとってもさほどの難行になかった。なるほど天都城とは天下の要害、その堅牢さは古今に類も少なく、難攻不落をもって称えられてもおかしくないが、尾戸に過ぎたる城である。
支城は比較的簡単に落とすことが出来た。
しかし、いざ本城へ攻撃を仕掛けると、これが面白いくらいに蹴落とされてしまうのだ。出城すら落とせないというから、さすが天下の名城だ。
これには、藤那も香蘭もほとほと困り果ててしまった。なにしろ堅すぎる。城壁に取り付くまでがとにかく大変で、どこをどう攻めるべきか、軍師の閑谷であっても知恵が出てこない。
「お手上げ」
と弱音を吐いた閑谷に烈火のごとく藤那がキレてしまうほど、堅牢無比の要塞なのだ。
藤那・香蘭軍の大軍が天都城への攻囲戦を展開したのが十五日からであり、現在は十七日である。前日、半窪で志野軍が大打撃を受けでいるが、もちろん藤那たちはその事を知らない。
際川本戦も渡河作戦以降から激しさを消し、小規模な戦闘に留まり、こう着状態が続いている。ただしこちらは、あえて時間稼ぎをしている亜衣のためであるが、大規模衝突が起こるのもそう遅くはないだろう。
火向方面と同様、この日は天都城周辺でも濃霧であり、気温もぐっと低くなった。春が近いといっても、まだまだ朝方の冷え込みも厳しい。
「見上げねばならん巨城というものも、腹立たしいな」
陣を張った丘からも見上げられるのが天都城である。はるか壮健の巨城を見つめるたびに、冗談とも本気とも取れない発言を藤那はする。
状況は持久戦に移行しつつあり、相変わらず尾戸は打って出てこない。物資の大収納量にものを言わせているのだろう。懸命だが、さて、困りものだ。
「天都城に負けない城を築くか。そうだな・・・・・・不知火(しらぬひ)あたりにでも」
「いや、不知火にはもう城があるから」
不知火城といえば、火奈久城・阿蘇城とならんで『火後三大城』との誉れ高き城である。とくに阿蘇城などは峻険の阿蘇山に築かれた、九洲最強の防御力を誇る城である。街はなく、『阿蘇の街』と呼ばれることがない、まさに戦闘目的の城である。
これら三城は火後で有名な城だが、天都城には及ばない。藤那はとかく大きな城を好み、居城の片野城はじめ、度々増改築を進め、土豪たちにも築城を奨励している。火後はちょっとした『建築大国』となっていた。
藤那は常々、県都を片野城から不知火城に移そうかと家臣たちにいっていた。おそらくその折には、不知火城を大々的に立て直すつもりであるのかもしれない。
ともあれ、藤那の中にある天都城へ向けられるある種の『憧れ』を、彼女の傍らで手腕を振るっている閑谷には、つぶさに感じ取れた。藤那は天都城が欲しいのだ。
「火奈久城じゃだめなの?」
閑谷としては、べつに不知火城にこだわる理由はない。火奈久城からでも、領地経営に問題はないと思う。
だが、藤那はあくまでも不知火を見定めている。
「不知火山は高いからな」
「標高があるってこと?」
「ああ」
「・・・・・・それだけ?」
「悪いか? 城を築くならば、より高地に築くべきだろう」
たしかに、火奈久城はやや低地の丘に築かれている城だ。対して不知火は山城である。城を築くセオリーは、高地に建てることであり、その観点からみると藤那の考えも強ち間違いではない。
だけど多分、そこまで深くは考えていないと、閑谷は思った。
ただ高いところに大きな城を築きたいだけじゃないのか、と。実はその通りであったりする。
案外、閑谷は苦労人である。その苦労の向かうエネルギーの大半は、突飛な藤那をおさえることに注がれている。政治などにはちゃんと取り組む藤那でも、人並みに自己顕示欲がある。『火後の乱』で失った権威を取り戻そうとし、無事に払拭することが出来たいまでも、手を緩めない強かさがある。
「よし、決めたぞ。帰ったら計画を練り上げよう。次の農閑期までに増築の手筈を整えろ」
「もしかして、僕が?」
「お前以外に誰がいる」
さも当然といわんばかりに、藤那の命令が下された。蔚海を倒した後、閑谷だけは暫く働きづめになることが、このとき決定した。
「・・・・・・ほんとうにムカがくる城だな」
朝靄の上に浮かび上がる天都城は、まるで『天空に浮かぶ都』のようであった。もしもここに、尾戸ではなくて天目が、どっしりと腰をすえていたなら——。
天都城。名前負けしない光景だ。
写楽自身が戦線を離れることは出来ない。そんなことをしてしまっては、たちまち謀反との噂が陣中に流れ、蔚海の耳にも早々と入るだろう。物狂いしている蔚海に、勝機の言葉は通じない。
即刻、耶牟原城にいる家族の首が刎ねられる。
「任せたわよ。人質の命を救うためなら、どんな手段を使ってもかまわないから」
「ご安心くださいますよう」
強張った笑みを浮かべるこの者は、同郷の郷士である。歳はすでに四十を超えている。写楽にとってはなんてことない、『昔から知っている近所のおじさん』である。かつて狗根国との戦役に従軍した経歴を持ち、挙兵時に戦場の倣いを写楽に手ほどきした人物だ。
いまは写楽統治帷幄の重臣となっている。八百貫の知行を得ている。
男のほかには、選りすぐった三十人が『人質救出部隊』として、これから耶牟原城へ向かう。たった三十人の決死行となるのだ。
失敗すればもちろん命などなく、それどころか人質でさえ無事では済むまい。彼ら三十人のために、尾戸の家族も、伊万里と上乃の父親や同郷人たちまでが、血を流す悲劇となるかもしれない。
それだけ重大であり、緊張はひとしお、彼らの心臓を縛り上げた。
「よし、行くぞ、皆の衆」
男が音頭を取って、陣から姿を消した。この秘密を蔚海に知らせないため、写楽はひたすら『芝居』をしなければならない。
一行の武装も実に軽い。装いを山人に似させて狩人のようにし、刀一振り、短刀一振り、弓を背負い、鎧のかわりに毛皮を纏っている。山人知事の写楽に仕える家臣らしい、見事なまでの山人ぶりであった。
際川から耶牟原城までは、夜通しかけて二日の距離にある。
作戦はある。もとから人質のみを救出することがベストだが、考えから外している。とてもでないが無理な話だからだ。所詮は三十人の集団で、城兵百人を相手にするわけにはいかない。
とりあえず、殺させなければいいのだ。それさえを達成できれば、各地の指揮官が寝返りやすくなる。そして、どこかの軍勢が、耶牟原城を攻略するために兵を進めてくる。耶牟原城が開かれれば、人質の身の安全だって確約されたも同然だ。
三十人は先ず亞郡城(あごおりじょう)によって、写楽の書状と引き換えに銅判十枚と軽装を入手し、それから耶牟原城へ足を急がせた。この銅判で門番を買収するのだ。
亞郡城へ立ち寄った分、やや日刻を費やしてしまったが、とにかくも十八日の夕方には遠めに耶牟原城の城壁が望めるところまで辿り着いた。
ここからは、服装を改めなければならない。狩人風の衣服を脱ぎ捨て、革の鎧を着込む。
「気取られるでないぞ。手筈どおりに忍び込むぞ」
「おう」
中間達と示し合わせ、三十人は耶牟原城へを向かった。
大門を守る番兵の人数は五人ほどで、詰め所にはあと三人ほどがいる。常任の門番たちはだいたいこれくらいの人数で仕事をしている。
櫓の上の兵士が、走りよってくる三十人の人影に気づいてあっと声を上げた。
「おい、人が来るぞ、多いぞ」
三十人ともなれば、それは多いだろう。
「止まれ、止まれェ!」
「な、なんじゃ、お前らは」
番兵が槍を構えて三十人の行く手を遮った。すわ一揆かと肝を潰さんばかりに驚いたのだろう、当惑した面持ちでいる。
「大王様(蔚海)の遣いじゃ、通されい」
重臣の男が張り上げに声を張り上げた。このころ、王座を簒奪した蔚海は自らを『九洲君』と称して、家臣領民尽くにいたるまで『大王』という呼称を強要していた。
大王様といわれても、番兵たちにしたって簡単に通すわけには行かない。まず城代役に伺いし、その間に先んじて事情をうかがわねばならない。
三十人にとって、この僅かな間の取調べが、重要であった。
数人が詰め所へと場を移され、そこで遣い番が事情を覚えなければならないのだが、にわかに重臣の男が眉根を寄せて、
「じつは」
と神妙に話し込んだ。重い音を立てて机の上で広げられた布の中から、銅判が十枚、散らばるように広がった。
番兵たちが仰天するのも無理はなかった。
いま出された銅判十枚は、米に換算して六百石相当、武器にして鉄剣が三本買えるほどの重量を持っている。
番兵風情には、喉から手が出るほど欲しいものだ。知らず知らず、生唾を飲み込んだ。
「こ、これは・・・・・・」
恐る恐る番兵の一人が問いかける。声が震えている。
「見てのとおり、銅判だ」
「そ、そいつはわかるわい! いや、わしが聞きたいのはそんなことでなくてだな」
「わかっておるわ」
男が、急に目つきを厳しくさせて、番兵たちを見回した。
「こいつで、お主たちを雇いたい」
「へっ?」
「ここの門番は八人か?」
「お、・・・・・・おう、そうじゃぁ」
「よし。雇った。ひとり一枚でどうじゃ」
「い、一枚!」
一枚だけでもすごい。実家の女房も狂喜しそうなほどの大金だ。向こうしばらくは米にも何にも困らない。
涎ものの上手い話だが、さて、それで頷くかどうかはまったくの別問題だ。この銅判で雇って、いったい何をするつもりなのか。
「実は、ここだけの話しなんだかな」
「お、おう」
「わしらは、蔚海の遣いじゃあないんだ」
「な、な、・・・・・・なんだとぉ」
瞬時、番兵たちが殺気だった。
男は慌てて手を振り、
「いや、まてまて、落ち着け。話は最後まで聞くものだ」
というから、番兵たちも警戒しつつ話の先を促す。
きけば、こういうことである。
写楽の家臣である三十人が、耶牟原城内部でちょっと暴れて、その間に人質を救出する。しかしやはり三十人では心許ないので、詰めている城兵を何人か唆して、ついでに住民もそそのかして、人質に危害を加えるどころの騒ぎでない状況にしよう、という。
この銅判は、そのための手付金としてもってきたものなのだ。すべては写楽の考えたことだ。
聞き終えて、番兵たちはすっかり怖気づいてしまっていた。つまりは謀反に加担しろといわれているのだ。
「そ、そんな、おっそろしいことを」
一歩間違えれば命はない。
だが男は自信ありげに、
「やれる」
と豪語した。耶牟原城の風聞は全県に聞こえているし、火魅子と亜衣が耶牟原城を脱出したときに城民が手引きしたという噂も風が運んでいる。
いま蔚海が際川へと出陣している。そのような状況下ならばこそ、住民と城兵を唆して人質を解放することも、けっして不可能ではないのだ。ちゃんと成功のために算段をたてているのだ。
「いま、蔚海のいぬまに事を起こせば、我が主(写楽)はもちろん、天都城におわす尾戸様だけでなく、豊後の伊万里様まで火魅子方へ寝返ることは必定。そうすれば蔚海だってただではすむない。やつの政権はすぐに倒壊し、圧政も崩壊する」
男の説明はかなり説得力あふれ、そうかもしれないと、次第に番兵たちもその作戦に引き込まれていくようにのめりこんだ。
まず何よりも、現政権が崩れ去るというところに、強い魅力を感じた。常々から公平あらざる裁定を下すようになり、畏れを知らぬ御所焼き討ちという暴挙に打って出、ついには将らの親類縁者を人質とするにいたり、人心が蔚海を見放すこと甚だしい。
耶牟原城の住民はひとしおに蔚海を嫌い、恨んでいる。耶牟原城は宗像海人衆の巣窟となり、協力者であった文官たちでさえ歯牙にかけず、華やかさはすっかり枯れ果ててしまった。
男はことさら、番兵たちがその胸のうちに募らせている蔚海への抵抗心を、反逆という形で煽りに煽った。むかし、藤那たちが当麻城を乗っ取ったときと同じ事を、男たちはやろうとしていた。
仰げば、炎も天を巻き上げるように燃え盛る。
「おれらは、何をやればいい」
番兵たちが協力を申し出てきた。
男はにやりと笑って、
「大したことはしなくていい。ただ、まずは人質の身柄を確保したい。その間に民衆を煽りたて、一槍あげさせればよい。城兵たちも寝返らせよう。おそらく宗像海人衆が抵抗するだろうし、蔚海のもとへ逃げるかもしれんから、そいつらは尽く殺してしまう」
「わかった」
番兵たちは信じた。銅判が懐に入るだけでなくて、世の中に寒い政権を打倒できるとあって、気合が心胆に満ちてくる思いがした。
救出部隊三十人が城内に入り、何食わぬ顔をして大通りを進む。彼らはあくまで『蔚海の遣い』として宮殿へ向かった。
城中に噂が立った。番兵たちが走り回りながら、
「大王様が討ち死した!」
「大王様、御討ち死ッ! 際川にて御討ち死ッ!!」
と、四方八方に触れ回った。さらに火魅子の大軍が近づいている、という流言も撒き散らし、民衆に一揆を促していった。
三十人も宮殿に入り、文官や城代たちに蔚海討ち死を告げ、政権中枢をおおいに混乱させた。蔚海の敗死に安堵するものもおれば、それでもなお蔚海を奉じるものもおり、混乱は拍車かかった。
噂は住民の間で急速に広まり、やはり宗像海人衆の耳にもすぐに入ることとなったが、そのときには遅かった。いや、より決定的に加速させたのは、他でもない海人衆であった。
噂が広まって二日。蜂起を叫ぶ歳若い青年がいた。彼はどこぞで鍛冶屋をいとなむ某の弟子であったが、若気のいたりか流言を信じ込み、率先して一揆の主導をしてまわった。
その青年を宗像海人衆が切り捨てた。見せしめのつもりだったのだろう、黙らなければこうなるぞと住民を威したが。
——その瞬間、住民の怒りに火がついた。怒りはそれまで溜め込まれてきた鬱憤を燃料として、住民の一斉蜂起という形で顕現した。
包丁、鉈、クワやらスキやらを持ち出し、大工はノミを、刀工は刀や槍を、棍棒を持つものもいたし、ただの棒で振りかざし進む老人もいた。兵士たちも槍を上げた。老若男女とわず、何千人という十人が一同に『反乱勢』となって、宗像海人衆に逆襲した。
海人衆、総勢はたかだか三百人。逃げ出す暇もなく、民衆の手によって虐殺がはじまってしまった。
救出部隊も動き出し、文官を縛り上げ、人質たちを助け出した。写楽や尾戸の妻子、伊万里たちの父親も、救い出された。
僅か一日の出来事であった。それからさらに二日間、まだ城内では海人衆狩りの波が収まらず、そうこうしている間に、待ちに待ったものが来た。
二十二日、番兵が叫び声をあげて走り回っている。
「伊万里様、御謀反ッ! 伊万里様、御謀反ッ! 大軍がすぐそこまで来てる、城を開けろといってるぞォッ!!」
火向方面で志野軍と戦っていた伊万里が、にわかに寝返った。鳩首をかえし、すぐさま軍勢を上都させてきた。まるで待ってましたと言わんばかりであった。
「伊万里様、御謀反ッ!!」
興奮が湧き上がった。
二十二日といえば、火魅子軍の先鋒が際川の渡河作戦を成功させた十一日から、まる十一日経過した日となる。
伊万里軍がこの日、にわかに寝返った。対極的な見地から考察すると、この伊万里軍が突如矛先を転じたことから、勝敗を決する最大要因になったといえるだろう。
さて、ではなぜ、伊万里軍の叛乱という大事件が発生してしまったのか。
そこには、五割の必然と、五割の偶然があった。
藤那軍・香蘭軍の混合軍団が沈黙をやぶって北上、蔚海方北軍の天都城支城を攻撃し始めたのが、四月八日。
際川本戦の前哨戦にあたる渡河作戦が展開されて、これが四月十一日。
志野軍一万が半窪で伊万里の指揮した、本陣突撃という奇襲作戦の前に敗れた日が、四月十六日。
そして、耶牟原城内部で民衆と城兵が叛乱を起こして、留守の宗像海人衆三百人を襲撃したのが、二十日から二十二日にかけての二日間。
伊万里が寝返りを決意したのは、十六日から二十二日までの間となる。
この間、伊万里の心に何が思われたのか。何が契機となったのか。
十七日は霧が濃かった。濃霧である。一町先さえ寸見もかくやというから、相当の湿気であった。連日の雨のあとにわかに晴れ上がり、そして急速に冷え込んだためだろうか、水分が纏わりつくようにものすごく、ひどく冷たい。空気がでなく、水分がきんきんに冷え切っていた。
軍団の再編成を襲撃された半窪で行い、朝早く、志野は軍議を開いた。軍議の席では、しきりに撤退論が飛び交い、誰も彼もがこれいじょうの戦いは不可能と考えていた。
それほど、伊万里の鬼神の如き戦いぶりに、恐れをなしてしまったのだろう。乱戦に強いと評判の火向戦士でさえ恐れるのだから、ただごとではない。
だがしかし、志野は首を縦には振らなかった。撤退ではなく、進軍を主張した。諸将が激しく反対する中でも、志野の決意は揺るがず、編成が整いきらない当日、なんと早くも動き出した。
「動ける部隊は、すぐに街道を前進」
と命じた。そして自ら部隊の先頭にたった。古来から先陣を切る大将はいない。采配をふるう総大将は、戦局に応じられるように、中軍から後部にいなければならないのだが、味方の士気を保つために、あえて先頭を行った。指揮官の勇気が、兵士の勇気であった。
まず、先発隊三百を編成して街道に放つ。斥候である。志野の予想では、街道の先には伊万里軍の本隊が準備されているはずだ。すでに半窪の周囲を包囲されているものとして、前提作戦を考える。するとどうしても、一度目の奇襲でしとめ切れなかった以上、小部隊のみで勝負をするとは考えられない。
どこかに本命がいる。それは街道の先にいる。
はたして、志野の予想が当たった。
斥候を自ら率いつつ、方々へと物見を出し、伏兵を探させた。刻限を決めさせたにも拘らず、幾人かはもどってこなかった。それでいよいよ確信した。
「志野様。ここより東へ一町ほど、豊後の軍勢を確認しました」
目算で、二百人ほどだという。少ないと思い、すぐに考えを立て直した。ほかにもいる。やはり大軍で駐屯できる場所は限られるから、兵をわけているのだろう。
「後続は、ついて来ている?」
「はっ。準備が完了次第、順次」
「そう」
襲われていない。やはりこの濃霧が、敵の目を欺いてくれているのだ。
今日が濃霧でなければ、志野でさえ撤退を決めていただろう。志野には天の時がついている。そして、天の助けを有効に活かすための『知恵』を持っている。ヨミの深さとよんでもいい。
志野にあって伊万里が持たない、生涯最大の要因であり、いまもっとも必要とされるものだ。
午前九時ごろ、濃霧の中から、わっと襲撃部隊が半窪へと押し寄せた。総勢は、六百人ほどだろうか。さらに六百人、五百人と半窪を強襲した。
が、そこにいるはずの志野軍が、いない。否、いるにはいるが、少数なうえにも確りと防御の陣形を組んで迎え撃つ態勢で待ち構えていた。
面食らったのは、奇襲部隊のほうであった。守勢の部隊は総勢一千そこそこ。奇襲部隊は二千近い戦力である。数は多いのだが、
「ほ、本隊はどこだ」
彼らには、そこがもぬけの殻のように見えたことだろう。かがり火は変わりなく焚かれ、旗影も見えていたから、本陣はまだ整っていないと思っていたのだ。ほどなく、交戦状態となった。
半窪からやや前進していた志野軍の後方で、戦いの音が聞こえてきた。
「半窪、急襲されましたッ」
ざわめく先発隊にあって、志野と珠洲だけが平静のまま、志野は事態に慌てず指揮し続けた。やはりという思いが強く、それゆえ今後の行動にもブレはない。
「もうすぐ、霧も晴れるわね」
濃霧も少しずつ薄れ、先の見通しがよくなっている。
「少し時間をかけすぎたかしら」
やはり、前日の打撃がいまでも全体にヒビを入れている。立ち上がりに不安が多少は残るものの、ここまできたら、あとは玉砕覚悟である。
先発隊三百の後方には、三千ずつの三個大隊がつづいている。
ぐるりと、志野の身体が震えた。
「・・・・・・怖いわ」
「志野?」
珠洲が不思議そうに尋ねてくる。身体の震えを無理やり抑える志野は、苦笑するしかない。肘を抱くてにも力がこもる。
霧の中には魔物が住む。古くから世界中に分布する迷信で、伝説も数多い。その迷信によって、重然率いる薩摩艦隊は大隈海峡で敗れ去った。思い返せばあの敗戦から、九洲の道筋が狂ってしまったように感じる。
霧の魔物はほかでもない伊万里。女王候補中、もっとも序列が低く、そのために他の候補たちより低く評価されていた山野の王女が、志野という火向きって猛々しい雄を圧倒している。
これを化け物といわず、なんという。
「こんな事になるんだったら、やっぱり、旅芸人に身をやつした方がよかったかもしれないわね」
「後悔してる?」
「たぶんね」
兵士たちには聞こえないように馬を寄せ、小声で囁きあう。外部からは二人で作戦の相談をしているように見えるだろう。
おかしなものだと思う。自由人の自分が、まるで自由じゃない。生来旅芸人とは、あらゆる公的権力にも属さず、屈さず、助けられない代わりに役も負わず、誇り高い人種であった。
間違っても支配階級にあらず、兵も民も背負わない。だけど気がつけば、自分はその立場にいた。
いまも、命がけで戦っている。
「逃げる?」
びっくりして珠洲を見つめる。本気の目だ。いま頷けば、すぐさま周囲の兵士たちを殺して回って、志野の手をとり駆け出してくれるだろう。
珠洲は、そういう女性だ。大人になった今でも、彼女の世界は志野を中心にしてまわっている。
たとえ、織部達を仲間だと思えるほどに成長したとしても、根っこの部分は変わらない。それが珠洲の優しさであり、不器用なところだ。本人は否定するだろうけど。
珠洲に優しさが、いまは嬉しい。嬉しいけど頷けない。
志野はふわりと微笑んで、首を横に振った。
「投げ出さないわ。それじゃあ、九峪様に申し訳ないもの」
「どうしてそこで、九峪様がでてくるの」
珠洲の九峪嫌いはまだ治っていない。いや、もう嫌ってはいないだろうけど、悪口がもはや口癖のようになってしまっているのだ。
「もとはといえば、九峪様が文官をたくさん使ったのが原因なのに」
「これ。そういうことは言うものじゃないわ」
「でも事実」
たしかにその通りではある。文官優位を招いた根本は、政治的な未成熟を官僚機構によって補おうとした、九峪の政治ミスであることは否めない。
全てがそこから始まったといえば、認めざるを得ない。しかしそのおかげで、国家としての体裁は急速に整えられていった。亜衣の推進した武官・武将の地方統治がぶじに軌道へと乗り上げることができたのも、先に文官による指導の下で政治基盤が組みあがっていたからだ。
文官の登用はとうじにあって必要不可欠だったのだ。
賢い珠洲でも、そういった政治的背景を理解することは難しい。とくに彼女の場合は、長いこと志野に依存して世間を省みなかったから、人並みの政治感覚が育たなかったという弊害を負ってしまった。
官僚機構という政治システムがそもそも理解できないから、しぜんと九峪の政治に批判的となってしまう。だが志野は違う。志野自身がなんども文官に助けられたし、他の知事もそうだろう。常時、文官を頼りきることが多くなり、そのために武官との衝突を招いたのだから、すべてがすべて九峪の責任とはできない。
ゆえに自由人に戻りたいという欲求が日に日に増すが、それには志野の人気があまりにも高まりすぎた。旅芸人に戻るということは、すでに民衆を見捨てることと同義になってしまった。
だから火向を旅芸人たちの一大拠点として、倭国中の芸人たちを誘致するようになった。それが返って他国の物資を呼び込むことになり、人の行き来も頻繁で経済が上向いた。ますます志野の人気は高まった。
意図せず善政になってしまうというスパイラスが生み出され、もはや志野も諦めた。
「この戦いに勝てば、新しい道も開けるはず」
志野にとっては、大事な戦いだった。
「珠洲」
表情を引き締め、志野が馬を離す。
「これからは、武官や武将の時代がもどってくるわ。もう文官に頼りきりにならなくても、政治を行ってゆける。けどまずは、この戦いに勝たなくてはならない」
「うん」
「霧が晴れる直前。すでに顔面に伊万里様の刃が迫っているものと心得ていなさい。——けっして、私の傍から離れてはダメよ」
「志野こそ、私から離れないで。もう一騎打ちなんてやめて。志野が伊万里様なんかに負けるはずないけど、もしもがあるから」
「ふふ。——ええ、わかってるわ」
昨日に伊万里と大将同士の一騎打ちをしてから、とにかく珠洲からお説教を受けてしまった。個人的なことばかりだったけれど、まさか珠洲から説教を受ける日が来るとは思っていなかった。
とはいえ、場合によっては伊万里と切り結ぶ場面も出てくるかもしれない。なにしろ伊万里はきっと、今度こそ勝負を決しようとするはず。
またも激戦となる。ただし、今度はこちらが攻め手となる。
「気を引き締めなさい」
志野は何度も伝達し、鼓舞し、緊張の糸を緩めない。
「あッ!」
兵士が叫んだ。叫びと同時に、矢がばらばらと飛んできた。何人かが倒れ、ついでわっと敵が姿を現せた。
「志野ッ!」
一本の矢が志野めがけて飛んできた。咄嗟に珠洲の腕が伸びて、篭手にはじかれた。しびれる様な衝撃が珠洲の腕に広がった。
志野、平然としている。
「別働隊は騙せても、本命は騙せなかったわね」
志野の大軍は、伊万里軍の放った物見に発見されていた。だが、半窪の襲撃部隊が気づかなかった時点で、志野の勝利だ。
襲撃されるものとして、志野の本軍は進軍していた。そして今度は、昨日以上の大軍で臨んでいる。
双刃の剣をかかげ、号令をかけた。
「さぁ、雪辱を晴らすときよッ!!」
伊万里軍三千、志野軍九千弱。
十七日の昼頃、二度目の大激突が繰り広げられた。