天都城をせめる南軍勢力、つまり藤那と香蘭の軍勢であるが、その攻略は遅々としてならない。三つの支城を落とし、本城を囲む砦も四つまでを落としめ、大手門を横合いより守護する大きな出城も十二日中に陥落している。
火を吹くような勢いで堀をこえ土塁を駆け上り柵をまたいだところで、それでも城壁まではなお遠い。天都城はとにかく高台に築かれ、攻め落とすのも容易ではない。
攻撃方は、大手門を突破する一隊を主軸として、それを補佐ないし突破するために、他の間道からも攻め入っている。
天都城で本格的な攻囲戦が開始されて三日ほどが経過した、十五日。やはり雨は止まない。連日にわたって降り続く雨のせいで、堀の水かさがまし、土塁などにも足をとられてしまう。
「打って出てこないな」
野戦を得意とする藤那にとって、篭城策をとられると途端に手詰まりになってしまう。軍議の席では、必ずといっていいほど渋面となり、言葉尻の歯切れも悪い。
攻囲戦を不得手とすれば香蘭もまた不得手だ。逆に、亜衣など綿密に練りこんだ戦いをする者は、むしろ野戦より攻城戦・篭城戦と城いくさが得意である。両方をこなせる数少ない武将といえば、誰もが紅玉と伊雅の名を口に出す。
いっそ城門を出て決戦に踏み切ってくれたほうが、藤那としても香蘭としても、これほど助かることはない。城壁の内側に篭られては手の出しようがないのだ。
「閑谷、なにか連中の口から心臓を飛び出させるような良い手はないのか」
「そんな手があったら、とっくの昔に僕の口から心臓が飛び出てるから」
このやり取りも、ここしばらくで随分と見慣れた。
実際、閑谷の賢しい知略をもってしても、天都城攻略は難題であった。
「——藤那、いる?」
日中の陣屋。火後軍勢最高司令官である藤那が寝起きする一室に、足音を静かに閑谷は尋ねた。戦況はこう着状態が続き、将兵の士気も徐々にしぼみ始めているが、非常時に対応できるよう閑谷の身には鎧が纏われている。
この日、天都城地域は一足早く雨天を脱しており、曇り空ながらもすでに雨粒の煩わしさが過ぎ去っていた。
雨戸からねずみ色の空を藤那が見上げている。返事はなかったけど、そこは長い付き合いで自分に気づいていることを感じて、閑谷は気にすることなく上がりこんだ。
藤那から数歩はなれた下座に茣蓙を敷き、そこに腰を下ろす。部屋は薄暗く、窓から差し込んでくる光もどこか鈍い。藤那の横顔を見上げた。三十四歳だが、やはり若く見える。藤那に限らず、王族はみな若々しい。火魅子の血がなにかしら関係しているのかもしれない。
少年の頃から、その横顔を見つめるのが好きだった。美しい相貌を引き立たせる精悍な輪郭に、より色香を匂わせるうなじ、鋭く切れ長の瞳、ほそい眉、高い鼻——そのすべてに惚れこんだ。思春期を迎えてからは、俗な言い方をすれば劣情さえ感じていた。
復興軍時代から、おおくの美女たちを見てきたし、耶麻臺国にも天目を初めとして絶世の美女が綺羅星の如くいた。だけどやはり閑谷には、何をおいても藤那の美しさに勝るものをはなかった。この美しい女性のために生きてきたといっても過言ではないだろう。
そしていつしか、閑谷はただ藤那の懐刀となるべくしてなり、火後の軍師——実質的な副将軍の地位にたち、名実ともに藤那の一番家臣の座を手にした。藤那一の家臣で、藤那にもっとも近しい人間だという自負が閑谷にはあった。
閑谷は声をかけない。ただ見上げている。
ふっと藤那の瞳が閉じられ、そして雄厳に実を返した。そのなんと言うない動作の一つ一つが、言い知れぬ美しさを振りまいている。そんな気が、閑谷にはしていた。
上座に腰を下ろすと、はじめて藤那の瞳に閑谷のすがたが映った。
「天都城を落としめるいい策でも思いついたのか?」
「さぁ・・・・・・。そこまで都合のいい話ではないと思うけどね」
微笑んで、閑谷は応えた。
「あの城の堅さには本当、呆れるばかりだよ。よくもこの峻険な土地に、あんな巨大な城を築いたものだね。おかげで僕たちはかつてないほどに難儀してる」
「泣き言か。そんなものは彩菜にでも聞かせていろ」
「あいにくと彩菜は片野城にいて、愚痴を聞いてくれる相手がいないんだよ」
「私は火後の知事だぞ?」
「知ってるよ」
クスクスと笑う閑谷に、藤那のまゆが不機嫌そうに曲がった。歳を重ねることに、藤那の剣幕に怯えなくなった。それを頼もしいと思うか、腹立たしいと思うか——はたまた、物寂しいと思うか。それは藤那のみ知ること。
ふんっと鼻を鳴らして、紅玉から贈られた特製の中華扇をビシッと閑谷に差し向ける。
「お前の愚痴はこのいくさが終わった後に、寝殿で飽きるだけ聞いてやる。それよりも本題があるだろう。早く話せ」
閑谷が頷く。
「ついさっき、際川陣にいる亜衣さんのところから、使者が走ってきた」
「際川だと?」
藤那は声を潜ませた。際川から藤那たちの陣屋へ渡るには、途中に天都城を横切らなければならない。天都城の周辺は厳戒な警備網がしかれ、鹿一頭も通さないほどに目が行き届いている。抜けるとなると至難の業だ。
事実、南軍勢は何十人も間諜を放っているが、ほとんど敵陣に忍び込むことが出来ない。攻めて来ない代わりに、まさしく鉄壁の守りなのだ。
そのことは、亜衣とてわかっているだろう。
「ずいぶんと危険な事を・・・・・・」
「いや、危険だからこそ、だよ」
いぶかしむ藤那とは対照的に、どこかしたり顔で閑谷は言った。
「際川の戦況はいいみたいだ。初戦はみごと勝利を飾ったんだってさ」
「勝ったのか?」
「砦をいくつか奪い取ったらしい。中魔城も突破した」
「そうか・・・・・・」
「こっちとは大違いだね」
閑谷が軽口を叩く。たしかにそのとおりだが、当然のことに藤那の目が据わった。藤那の雑言をかるく流せるようになった閑谷でも、この目には反射的な恐怖を感じてしまう。
ヤバイッ——と思った瞬間には、藤那の腰が浮いている。
「お、ま、え、はーーッ!!」
「ぐえええぇええぇぇえっ」
まるで猫のように飛び掛ってきた藤那の腕が、飛びのこうと仰け反った閑谷の首を捉えた。鎧に覆われることのない首は、戦場で戦うものにとって最大の弱点。いちど?まってしまうと、逃れることは難しい。
もう随分と昔に、身長でも体格でも閑谷はずっと大きかったはずの藤那を超えてしまった。いまや藤那のあたまが閑谷の肩辺り程度しかない。肩幅などは比べるべくもない。
それでも、勢いよくのしかかられると、それを咄嗟に抱きとめるほどの余裕はなかった。
揃って仲良く倒れこみ、藤那が閑谷を下敷きに押し倒した。藤那の重みが感じられる——ことよりも、気道を圧迫する両手が、閑谷の顔を真赤にする。
「ぐ・・・・・・ぐるじぃ・・・・・・ッ」
藤那の両腕を掴んで放そうともがくけれど、この細い腕のどこにここまでの力があるのか、なかなか拘束はゆるまない。
どころか、二本の親指がキュッと気管を押しつぶす。
「お前は私の軍師だろうがッ! 人事みたいにいってないで、九峪様が刈田城を無血開城させたような、皆が腰を抜かす計略でも考えろッ!!」
——いくらなんでも、九峪様といっしょにしないでよぉ!
口からはヒューッとか細い呼吸音しか零れないが、できることなら閑谷はそう叫びたかった。あんな常識とかの範疇を超えた攻城策が、水面を跳ね上がるハクレンのようにポンポンと飛び出すわけがない。
閑谷の顔面の顔色がいろいろ赤から蒼にかわったころ、ようやく藤那の両手が首筋からはなれた。瞬間的に気道が開かれたかと思うと、吸入してくる酸素に閑谷の身体が苦しげに曲がった。激しくむせ返った。
藤那はまだ、閑谷に跨っている。
「——で、いい策は思いついたのか?」
しれっと、藤那が言う。
「・・・・・・く、くび締められて、考え付くわけないってッ!」
至極もっともだ。
「人間は、生命の危機に瀕すると常軌を逸した力を発揮する——ということを、紅玉がいっていたぞ」
「ただ死にかけただけだよッ!」
「じゃあ締め方がゆるかったんだな。よし、もう一回だ。死の淵まで追い込めば、驚天動地の作戦が思いつくはずだ。というか思いつけ」
「なんでそうなるのさッ!?」
「それくらいしないと天都は落せないだろうがッ!」
どうやら、藤那も現状に焦りを感じているようだ。その現状を打破するために、他ならない自分が頼りにされている——ということもわかる。
わかるけれども。
「と、とにかく、藤那。そろそろどけてくれてもいいんじゃないかな。いや、僕としてはこのままでも嬉しいんだけどね? 誰かに見つかったら大変だよ。藤那は知事なんだから」
藤那の重みを身体で感じられるのは嬉しいが、さすがにまだ日中、いろいろとマズイ。
が、藤那は慌てた様子もなく妖艶に微笑む。
「いまさら気にするような関係でもなかろう。お互いにな」
「いや、僕もいちおう立場があるし」
「立場なら私のほうがずっと上だ。・・・・・・なんだったらこのまま——」
ふっと、藤那が頭を下げた。上体を閑谷に重ねるように低くさせ、唇同士を触れさせようとする。
瞬間。
戸口で、困ったように固まる孔菜代と、キョトンとした香蘭の姿が視界に映った。
「ふんッ!」
「ふギョえェッ!?!?」
藤那の拳が、下敷きになっている閑谷のミゾオチにめり込んだ。閑谷の頭の中で火花がちった。
ミゾオチから拳を引き抜き、神速で閑谷の上を飛びのいた。悶え苦しむ閑谷には目もくれず、無情にもそのまま上座へもどった。
「・・・・・・どうした?」
取り澄まして、硬直している孔菜代を睨みつけた。前身で「今のは見なかったことにしろ」という気迫をはなっている。「どうした?」と尋ねられただけなのに、言葉に隠された圧力に屈した孔菜代の頭が上下にふられた。
上座に佇む藤那と床をのた打ち回る閑谷を、困惑の表情で交互に見やっていた孔菜代であったが、香蘭を待たせるわけにもいかないので「失礼します」といって入室する。後ろから香蘭もついていった。
「あの・・・・・・藤那、様?」
「なんだ?」
「えっと、その・・・・・・閑谷が」
副将軍ともよべる男が、まだ背後で呻いている。気になって仕方がない。
「閑谷がどうかしたか?」
だが藤那は目を細めるばかりだ。それがまた怖くて、孔菜代は言葉に窮した。
「あ、その・・・・・・いえ、何でもありません」
孔菜代、閑谷を見捨てた。もうこの問題には触れまいと心に誓って。
ビクンッと跳ねた物体をあえて意識の外に遠ざけ、後ろでよくわかっていない様子の香蘭の斜め後ろに座する。
「香蘭殿。いかがなされた?」
香蘭も対面に座したのを確認し、藤那が質した。天都城攻めのもうひとりの指揮官が、何の前触れもなく尋ねてきたのだ。内心おどろいていた。
連絡のひとつでも耳に入っていれば、あんな醜態、晒さなかったものを・・・・・・ッ!
顔の赤くなりそうな恥ずかしさを演技で隠し、表情はいたって平然そのものだ。
さいわい、目の前の女性はいまの出来事をよくわかっていないようで、つぶらな瞳を藤那と閑谷と孔菜代を交互に向けている。前進から色香をふりまく年頃になったくせに、まだまだ色恋沙汰には疎いらしい。もしかしたら、子作りの術さえ知らないのでは——という想像も、あながち間違ってなさそうな気もする。
だが、藤那の問いよりも、苦しむ閑谷のほうが気になるのか、
「閑谷、どうしたか?」
と、さきほど孔菜代がいった事と同じ質問を藤那に尋ねた。
藤那は苦笑しながら、落ち着きなげに髪をなでつけている。孔菜代と違い、同格の香蘭に対してぞんざいには対応できず、どう応えようかと悩んだ。
「ああ、いや。ちょっとな」
「藤那、閑谷に馬乗りしてたね」
——やはり見られていたか。
「遊んでたのか?」
「は・・・・・・? 遊び?」
なぜそうなる?
至極自然な疑問をことさら問いたださないが、人事ながら、香蘭の不思議な感性を心配してしまう。いやまぁ、たしかに、遊びと見えなくもないだろうが——仮にも男と女だというのに。
なんとなく、これから将来において、この一族は跡継ぎ問題で大いに困り果てそうな気がしてきた。多分、一番苦労するのは、香蘭よりも紅玉だろう。
紅玉の嘆きが、聞こえてきそうだ。
「遊んでいたわけではないのだが・・・・・・」
などと言ってみるが、本当のことも中々いえたもんじゃない。ましてや、あの後に何をしようとしていたのか・・・・・・。
この、歳のわりに純粋無垢な王女のまえでは間違ってもいえない、絶対に。
——紅玉! そっち方面の教育もちゃんとしておかないと、とんでもないことになるぞッ!
無言の叫びは、無論、遠き紅玉に届くはずもない。
「そ、そんなことはどうでもよろしかろう。ご用向きをお尋ねしたいのだが」
「閑谷は・・・・・・」
「放っておいてやるのも情けッ!」
「お、おお、そうか」
よくわからないが、香蘭は頷いた。有無を言わさない迫力が藤那にはあった。
「・・・・・・放って、おかれる、と、それはそれで、キツイ、んだけど」
横たわる閑谷が、ぼそぼそと呟いた。
無論、誰も聞いていなかった。
「伊雅様たちが勝たみたいよ」
復活した閑谷を交え話し合う場の香蘭は、興奮に頬を紅潮させていた。
際川から走ってきた使者は、もちろん一人だけではなかった。香蘭の元にも辿り着いていたし、最終的には藤那側に四人、香蘭側に二人、同様の報告を携えた使者が駆け込んできている。
「いったい、何人を走らせたんだ?」
合わせると六人になる。だが、あの警備の中を全員が抜けたとは、とてもでないが思えない。六人はたまたま辿り着けたが、その倍以上の人数が囚われているか、あるいは殺されているはずだ。
藤那は、ほとんど呆れる思いであった。そこまでして我々に伝えるほどのことか、とも思えるような内容だ。際川の緒戦に勝った。ただそれだけのことではないか。
別に、蔚海を捕らえたとか、ましてや討ち取ったということでもない。むしろ本当の戦いはこれからだといっても過言でなく、これでは尾戸にむざむざと情報を与えるようなものだ。
「そういわれてみれば、そうですね」
藤那の考えに、孔菜代も不思議そうに同意した。
「敵に情報を与えても、不利になるのはこちらのはず。無駄どころか、百害あって一利なしです」
「だろう。戦いにおいて、敵方に情報を握られることは絶対に避けねばならないことだ。九峪様もよく仰られていた。情報を多く握り、それを的確に運用したほうが勝つと。それがわからない亜衣ではない。・・・・・・ない、はずなんだがな」
「緒戦に勝って、浮かれているのでしょうか? 蔚海とは因縁深いですし、羽江殿をあのような目に遭わされて、怒り心頭でしょうから」
「孔菜代、お前はほんとうにそう思うのか? 理性の塊のようなあいつが、簡単に錯乱するものか」
と、そういう手前、藤那にも言葉ほどの確信はなかった。
——あいつ、九峪様が絡んだときは、考えなしだったからな。
いつだったか、恋慕の情に抗えず九峪と逢瀬を繰り返していた亜衣を諌めた夜があった。あのときは、お互いに酒が入っており、激しく口論までしたものだが・・・・・・。
理性の塊のような女が、己に狂った事を藤那は知っている。昔——復興軍時代の亜衣を知っているだけに、藤那も、亜衣の人変わりが今になって気がかりだった。
己の感情に素直になった。そのほうが人間味も益していいのだが、時と場合にもよる。それ自体を悪いとは思わないが、そのために役目を違えられては迷惑だ。
だが、この場でそのような心配をしているのは、藤那と孔菜代だけかもしれない。
閑谷の頭脳は、なぜ多くの使者が放たれたのか、それを見事に理解している。
「大丈夫。亜衣さんは冷静だよ」
本心、そう思っている。
「この戦勝報告は、あくまで『ついで』。実際には別の目的がある」
「別の目的?」
「そうさ。多人数をはなったのが、僕たちの陣に辿り着ける確率を上げると同時に、多くの間者を天都城に潜り込ませるためだとすると・・・・・・」
「間者だと? ばかなッ! だったら最初からそのために潜り込ませればいいだろう。わざわざこんな手間をしなくたって」
「手間だからこそいいんだよ」
そこがミソだと、閑谷は言った。
「間者として潜りこんだものは、どうしても間者として動いてしまう。雰囲気に出てしまう。それだと怪しい。けど、伝令として放たれたものが捕らえられると、それはただの虜囚でしかない」
「それがなんだという? それこそ、首を刎ねようが奴隷にしようが、連中の思い通りだろうが」
「そう、純粋な敵ならそれもありうる。だけどね、尾戸は違う。尾戸はもともと蔚海と近しくないし、今回だって、人質をとられて身を翻したんだ。立場は北軍、でも気持ちの上では南軍寄りさ」
「なぜそういいきれる?」
とは、藤那も問わなかった、そこまで言われれば理解できるだけの頭脳を持ち合わせている。
藤那自身、尾戸がなぜ出撃を渋るのか、なんども考えた、考えても考えても、答えは一つだけしか導かれなかった。なんと言うことはない。尾戸には本気で自分たちと戦う意思がないだけなのだ。人質をとられたから北軍に身を寄せているが、内心、流れに身を任せて傍観する腹積もりなのだろう。
そういった意味では、あるいみ中立的な行動といえる。それどころか、故さえあればすぐに南軍の合力するところでもあろうと、藤那は考えていた。
「無体はしない、ということか」
藤那の一言に、閑谷は微笑んだ。この理解の早さも閑谷は好きだった。仕え甲斐がある。
「初戦勝利の報告は、僕たちというよりも、むしろ尾戸に与えてやるためのもの。だけど一応は北軍だし、あの警備網でしょ? 潜入は至極困難」
「だから捕虜かッ!」
香蘭も理解できたようだ。こうなると、閑谷としてもいよいよ話しやすい。
「そうです。そして捕虜の口から、北軍の初戦敗退という重大情報が天都城にもたらされる。それも捕まった人数だけ、広まる速度も精度も増す。すると」
「天都城の将兵は動揺する」
ほとんど関心したような面持ちで、孔菜代が膝を打った。こうなるとある種の謀略戦である。
蔚海方敗北の色合いが濃厚になればなるほど、当然それに比例して、天都城の将兵達の間で火魅子方への帰先論が展開される。それだけでも著しい士気の低下を誘発できる。
人質云々は別としても、不利になるどころかとてつもない利を南軍にもたらしてくれること間違いない。
おそらくはこれからも、事あるごとに使者が放たれ、そのたびに天都城は揺れ動くことだろう。
藤那の心配を他所に、際川で手腕を発揮する亜衣の智謀は冴えに冴えている。
「ただの戦勝報告が、とんでもないものになったな」
不安が杞憂になったためか、ほっと藤那が安堵の表情を浮かべた。
「しかし、亜衣のやつめ。よくもこっちのことまで気が回せるな。まるで九峪様の真似事だ」
何気ないように口にした言葉に、わずかな畏怖の色が混ざっているのを閑谷は見逃さなかった。彼もまた、亜衣の深い精神に驚嘆していた。なるほど亜衣のやっていることは、九峪が用いる城攻めの手法に通ずるものがある。
亜衣は諸事に細かい。それこそ矢玉の一本にいたるまで拘る。病的といってもいい。この点、ある意味では九峪に似ている。九峪も元が臆病なためか、準備が整っていないことをひどく気にする性質だ。亜衣が重用された理由の一つも、この細やかさにある。
北九洲、東九洲、そして中央。亜衣の眼は、その三つを見通しているかのようで、頼もしさと同じくらいに恐ろしささえも感じてしまう。もしかしたら、南九洲の宗像海人衆へも何かしらの手を打っているのでは、とも思えてならない。
「それくらい出来なければ、一国の宰相は務まらんということか」
天都一つに手こずる自分と、九洲全体の戦局を動かしている亜衣との器の違い、藤那はそれを感じていた。
苦笑がもれた。
「——なんや、物々しいなぁ」
商船付の小船から砂浜に降立った只深が、暗雲でも立ち込めていそうなほど重たい空気を感じ取って、眉間にしわを寄せた。
場所は那の津。加奈港、坊の津とならんで海洋貿易の一大拠点である。
「どないした、只深?」
後ろから荷物を抱えた伊部が不思議そうに声をかけてきた。只深が上質の呉服装であるのに対し、彼女の護衛兼補佐役である伊部は、麻と革の実戦的な服装である。腰には無骨な蝦夷刀がだらりと引っさげられている。
身長のわりには細く見える体格に、腰の蝦夷刀が異様であった。蝦夷刀とは、いわゆる東北を支配している蝦夷族の扱う刀である。巨大で刀身が厚く、非常に重い。刀というよりは鉈と呼べよう。がっしりとした北国民族の体格にあわせて作られた豪刀で、常人では扱いきれない代物だ。
ちなみに、この蝦夷刀。東北の武器であるために、本来ならば九洲などに存在しないが、実は重然も愛用している。只深は北国との貿易経路を開拓することに成功していて、駒木馬などと引き換えに(結果、後に奥州に馬格の優れた馬が大量に登場した。奥州馬のルーツは駒木馬である)、ヒグマの毛皮、海豹の毛皮、マグロの塩漬け肉などなどを仕入れており、蝦夷刀も貿易品のひとつとして九洲に流れてきた。
人目を引くのはいつものことで、猟師や海女、商人たちの視線もどこ吹く風だ。
只深が伊部を見上げた。
「何かなぁ、こう、空気がピリピリしてんねん。殺気ともちゃうし、不安みたいな・・・・・・?」
自分で言っていて、要領を得ない。とにかく何かがおかしいと思う。
「何や、んなことかいな。そら、あれや。いくさが起こったからやろ」
「いくさ?」
只深が首をかしげた。そんな話は聞いていなかった。いくさが起きたとなれば、それだけの重大事、放って置いても耳に入る。
伊部は、水夫たちが立ち話に蔚海と火魅子が兵を起こしたと囁きあっているのを、偶然にも聞いていた。ちょうど飯を食い終わったところだった。そのとき、只深は自ら商いの買取品の見張りをしており、伊部とは別行動であった。
只深はたまたま、聞き知る機会がなかっただけであったのだろう。
そういう話を聞いた只深が、まいったとばかりに額を叩いた。とんでもない時に帰ってきてしまったと思ったのだ。
ここしばらく、只深と伊部は大陸に出かけていた。九峪が推進していた、西方交易(ヨーロッパ諸国との交易)奨励政策を実現するために、大陸で商人らの間を渡り西洋人とのパイプ作りに奔走していた。
今回、初めて手応えを感じた。三人ほどの西洋人と知り合えたし、わざわざ父親にまで頭を下げたのだ。倭西国の大臣が頭を下げたのだ。親子といえこれは重大事。それだけ只深は、この西方交易開拓に心血を注いでいた。大臣という立場以上に、商人としての血が騒いでいるのかもしれない。
帰りの船には、西方商人から買い取った葡萄酒やガラスなどが荷として積み込まれていた。只深はこの内の一割を所有する権利を持っている。それを民間にばれないようこっそり阿蘇の九峪に献上して、慰めてあげようと考えていた。
が、いくさとなれば、そうもいかない。どころか自分の命も危ない。
九洲の有力な商人豪族たちの船も、ぞくぞく那の津に集まりつつある。彼らも只深主導で大陸に赴いたものたちだ。護衛も合わせて、六十席にものぼるだろう。
これが、いくさに赴いた人々の神経を刺激しないとも限らない。
「だ、大丈夫かいな」
いくさが得意でも何でもない只深は途端に心配になり、むしろこういった時のための伊部に問い質した。
伊部は軽笑しながら、
「まぁ、なったもんはしゃあないやろ」
と、楽天的にこたえた。それだけでも、只深は安心できた。
——わけがなかった。それだけで安心なんぞしていたら、商人も大臣も務まりはしない。
「・・・・・・アンタが慌てるとこ、一度も見いひんなぁ。いくさで慌てんかったら、何で慌てんねん?」
「何でって・・・・・・」
伊部は呆れ顔になってしまった。彼だって人並みには慌てる——とは思っている。いつもヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべているから、なかなか他者には気づかれないが。
顎に手を添えて思い出すように宙へと視線を泳がせる。
「只深が魔人にとっ捕まったときは、それなりに慌てたんやで? なにしろ、旦那様(恒只)のお嬢が縄でやらしい感じに縛られて逆さまにぶら下げられて下帯を——・・・・・・」
「わーーー、わーーーーーッ!? な、なに昔の話もちだしてん!?」
顔を真っ赤にさせた只深が、つばを飛ばして伊部の言葉を遮った。ただでさえこの伊部の長身は人の目を引くのに、大臣として有名な自分の『汚点』を聞かれてはたまったもんじゃない。
伊部の慌てる云々の話をしていたのに、慌てたのは只深のほうだった。伊部はニヤニヤとおかしそうに只深の顔を見つめた。一応、伊部は只深の側近という立場だが、この男、いまだに只深をからかうことを生来の楽しみとしている。
上目遣いに唸っていた只深だったが、疲れたのかどうなのか、ついっと伊部に背を向けて歩き出した。でも肩が怒っている。商人同士が胎を探りあうときには、どんな挑発も軽く受け流せる只深が、昔馴染みの伊部が相手ではいつもムキになってしまう。
まぁ、それだから伊部にからかわれてしまうのだが。
伊部は肩をすくめて、只深の後を追った。足の長さが違いすぎるから、すぐに追いついた。
ポンッと只深の頭に手を添えた。
「まぁ、アレやな。まずは情報収集や」
「わ、わかっとる言うてるやんッ! いちいちウルサイねん、お前はッ!!」
鷲掴むような手を払いのけるも、その上ずった叫び声に伊部は爆笑した。
昔と何もかわらない掛け合いをしながら二人はいま何が起きているのかを調べにいくのであった。