那の津と際川付近を座間道(ざまのみち)がつないでいる。那の津から入った貿易品は、まずこの座間道を経由して際川にいたり、そこから陸路と河川の舟運で全国各地へ運ばれてゆく。物の通り道であるため、とくに念入りに整備された街道だ。
只深率いる西域交易開拓団が帰還したという報告を亜衣が受けたのは、際川陣で蔚海方北軍をけん制している頃であった。伝令は座間道をひた走ってきていた。この報告を受ける直前に斯波虎隊を援護して赤池城を撃破し、これより直後に蔚海が決戦を仕掛けてきてこれを退けることとなる。
「那の津は戦場に近すぎるな。火前まで下がるほうがいいだろう」
と、亜衣の指示で兵士百人が護衛として那の津へ送られ、只深以下の商人たちは玄界灘にでて壱岐水道をとおり、角力灘から長先湾に入った。受け入れたのは火前の大豪商、渡邊の平陽である。
主である平陽がもともとのんびりした人柄であるためか、火前も主に似て戦いの気風がやや薄らいでいる。今回の戦乱がここ火前南部で起きたというのに、まるで一足早く終息を迎えたような静けさだ。
那の津もたいがい騒然としていたが、火前の百姓も猟師も、山人も海人も危機感があるのかないのか。天と地ほどもある温度差に、只深は困惑するばかりだ。
「開き直っているだけでございますよ」
とは、只深がしばし逗留している舘の主、渡邊一族の頭首である平陽の言だ。この男も豊かな体に焦りを感じさせない。いつもどおりにこにこと微笑んでいる。
「すべてはここから始まりましたから。始めたものの覚悟が、開き直らせてくれるのですよ」
ですから焦りもしません、という。そんなものかと只深も頷いた。当事者であるが故の余裕かもしれない。
「渡邊はんは、いくさに出へんのかいな?」
「いやいや、私はどうにも戦いというものが苦手でして・・・・・・。ですからこうして、商いで財を蓄え、人の代わりに物で戦っております」
でっぷりとした顎をゆらして平陽が笑った。いかにも気のいい親父さんという風体だ。しかし、おなじ穴の狢である只深には、その腹が真っ黒である事をとっくの昔に見抜いている。平陽もそれは承知の上で微笑んでいるのだ。
——ほんま、嵩虎に似てんなぁ。
いつも笑顔の肥満体、おべっか使いでよいしょが上手、ときたら親父の部下である嵩虎といろいろ似通っている。あの男も気のよさそうな笑顔の裏がどろどろと真っ黒なのを幼いころからよく見てきた。
——腹芸は嵩虎に教えられたようなもんやからなぁ。
もしかしたら親父以上に人を騙すのが上手いのではと思うときがある。その嵩虎は、天目の申次(もうしつぎ。専属の商人)として恒只のもと手腕を発揮している。
只深が養父恒只から独立して久しい。いまや関係は対等であるが、その縁の深さは相変わらずだ。・・・・・・いや、実際のところ、只深にはまだ恒只に頭が上がらない思いがある。
天目との争いがひとまずの終結を見て、九洲の完全奪還が成し遂げられたとき、只深はどうして若輩だった自分を復興軍への申次として送り込まれたのかを知った。
すべては、天目の反乱を成功させるための布石であったようだ。只深には自らの手で運を切り開いたという自負があったが、しかし大商人である恒只の深謀遠慮はその上を読みきっていた。
かりに、もし復興軍が負けたら、どないする気やったんや——と恒只に詰め寄ったところ、この男は豪快に笑い声を上げて、
「そんときこそ、手前の力で切り抜けりゃええやんけ。第一、負けんよう武器を売って『強く』すんのがお前の仕事やがな。復興軍が負けるんは、お前の商売が弱いからや」
言い切られては、たしかにその通りなので、只深も押し黙らざるを得なかった。結局、天目の反乱をもって九洲から狗根国を駆逐せしめたのは、九峪と天目、そして二人の間に恒只が入ったからといっても、あながち間違いではないだろう。
とにかく恒只とはそういう男で、只深も憎々しく思いながらも尊敬していた。いつか越えたい——そう思わせるほど、恒只は大きな存在であった。
その只深も、気がつけば商人から一国の大臣にのし上がっている。とはいえ、商いをやめたわけではない。いままで個人を相手にしていたのが、これからは国家を相手にするだけだ。それに財務大臣ということは、九洲中の商人が只深の部下というわけでもある。
その証拠に、欧州との貿易を開拓するために、数多くの九洲商人が只深の下に集った。それを率いる只深は、念願かなって大商人となったのだ。
「そうや。渡邊はん、西域の開拓団に名乗りあげへんかったけど・・・・・・なんや、興味ないんかいな?」
思い出して首をかしげる。大勢の商人が大陸へ渡った。小豪族から大豪族も関係なく。
その中に火前三指の大豪族である渡邊の平陽は入っていなかった。平陽ほど向上心のたかい男が欧州に興味がないということが、只深には以外でならなかった。西域との道を開けたならば、危険も多いが莫大な富が約束される。
天目がいい例だ。とくに天目は山陰道の石箕をおさえており、倭国有数の銀山を有している。我らで言うところの『石見銀山』だ。そこからは無限に銀が掘り出されているという。天目の強力な資金源であり交易品でもある。それだけに貿易用の資金繰りもやり易いだろう。
だが耶麻台国としても決して資金面に遅れがあるわけではない。駒木馬もそうであるし、平陽が取り扱う青芋も高値で取引される特産品だ。ほかにも亜衣の荘園で栽培されている茶葉、忌瀬が始めた高麗人参の大規模栽培も軌道に乗り始めたところだ。蔚海のせいで一時は停滞したが、そう遠くない将来に輸出できるだろう。
だが何よりも皆を驚かせたことがある。あるとき、九峪がとんでもない事を言い出した。
「菱刈に倭国最大級の鉱山があるはずだ。それを掘り出そう」
——その一言が、九洲史上もっとも巨大な富を耶麻台共和国にもたらした。金だけでなく銀も産出する、いわゆる『菱刈鉱山』である。その埋蔵量は推定で二百五十トンともいわれ、金山で有名な佐渡、そして先に挙げた石見銀山をも凌ぐといわれている。
もちろん、ここでいう菱刈と我々に知る菱刈とは、まったくの別物である。川の形や山の高さなどが違う異世界で、想定どおりに金が出土する可能性など十分ではない。それを弁えた上で、高山発掘の事業を九峪は展開した。大陸から測量技術・掘削技術を輸入し、おおくの漢人や朝鮮人を現場監督として召抱えた。それらを取りまとめたのが紅玉であった。
かくして、金がとめどなく湧き出てきた。この世界の菱刈にも立派な鉱山があったのだ。
天目がいまだに九洲と同盟関係でいたいのは、さまざまな理由があるが、菱刈という恐ろしい鉱山を有する耶麻台共和国を警戒してのことである。文武騒乱から国内が混乱しても手出ししてこなかった理由の一端もここにあった。それだけ、天目は菱刈鉱山を怖れていた。
後年、天目は狗根国の武将時代に菱刈鉱山を発見できなかったことを相当に悔やんでいたようで、
「あれ(菱刈鉱山)さえ手元にあれば神の遣いと協力することなく、紫香楽ともども復興軍をねじ伏せれたものを」
虎桃や案埜津にそう言葉をもらしたともいう。豪気を常の性とする彼女の、底いえぬ悔しさが滲み出ている言葉だろう。
九峪が奴隷を大量に買い上げて自身の直轄部隊を結成できたのもこの鉱山のおかげであり、只深がそれまで提供してきた物資の代金を一括で恒只におくりつけて、いまの良好な商売関係を続けてくることが出来た。
だからこそ、思う。
「いまこそ、欧州と商いするときやのに」
無限のように湧き出るといっても、いつかは底を突く。金を生む山が枯れないうちに、莫大な出費を強いる西域開拓を成功させて、商業力を伸ばしたいのが商人たちの本音であった。
「いやいや、興味がないわけではないのですけど・・・・・・身に過ぎることを望みはしませんよ、私は。まず青芋を倭国中へいきわたらせることが私の野望ですし、旅人に聞くところ、蝦夷の土地には良質の青芋があるとか。西域の珍品よりも、私はそれが欲しいくらいです。それに——」
平陽が頭を叩いた。
「こんな戦下手な私ですが、反蔚海の旗を掲げてしまいましたから。いつかくるだろう闘争を予感して、罷免された武官を大量に召抱えて、さらに重然様がたの援助も行い、いまもまた兵糧や武具を援助しております。とてもとても、欧州へ出かけている余裕がありませなんだ」
「武官を?」
只深が目を丸くした。いっとき薩摩に武官が大量に集結したことがあったが、それが徐々に姿を消した。騒動を警戒していた香蘭や紅玉はそれを不思議に思っていたが——まさか平陽がかき集めて養っていたなどと、只深ですら思わなかった。
ということは、火前で始まった反乱には、数多くの元武官が参加していたことになる。決して数は少なくない。
「よう養えれたなぁ」
感心しつつ、只深は呆れていた。
平陽は笑っている。
「そこはそれ、物を廻すのが商人ですので」
こともなげに言ってのけた。
種芽島の九峪軍が、ついに沈黙を破って動き出した。
湊には九洲人・北山人の生き残りが集められ、兵士として戦うことになる二千人は、整然と並んでいる。それらの前には、打ち捨てられた櫓がそびえ、そこから九峪が見下ろしている。彼の右隣には教来石と廉思、左隣には清瑞と音羽、遠州の三人が固めている。下にいる群集からは見えないが、櫓の奥には昌香も控えている。
湾を望むと、傷ついた軍船が、全ての船首を外海へ向けて揺られている。甲板にも兵士がいる。彼らは漕ぎ手となる水夫だ。
船に翻る軍旗は、三つ。
——北山の紋章、『二山月牙』
——九洲の紋章、『日輪日巴』
——九峪の将旗、『九頭だんだら』
かつては相容れなかった紋章。そこから足並みの揃わない共闘関係で隣り合って風に揺れた。
そして今は、そこに新たな旗を一枚ふやし、ただ『生きたい』という思いで戦うこととなっている。不思議な巡りあわせだ。
出兵式——というほど立派でもないし荘厳な催しでもないが、彼らには静かな決意と闘志が漲っていた。空腹にこけたかんばせが、得も言えぬ凄みとなっている。いっそ精悍でさえあった。
死の淵に立って戦うもの。それを死兵という。死兵は恐怖を知らず、死を恐れず、それゆえ恐ろしいほどの強さを発揮する。
「昔を思い出すな・・・・・・」
隣の清瑞たちに声をかけた。どこか懐かしんでいるような声音である。
「共和国の建国を宣言したときも、ちょうどこんな感じだったな。俺は火魅子候補や幹部たちと一緒に高櫓に上って、群がる民衆を見下ろして・・・・・・。違うところは、これが建国宣言じゃなく出陣式だってことくらいだ」
ことくらい、で終わらせられるような違いでもないが、それらを主導する立場が自分であることは同じであった。
あのときの光景が記憶の引き出しを押し開けて、九峪を逆行させてゆく。
もう、あれから十年以上が過ぎたのだ。九峪はまだ十七歳の子供で、覚悟も何もなかった。何が何だか、右も左もわからず戦い、慌しく日々がすき、わずか数ヶ月で東火向の大半を手中に収めた。
それまで送ってきた十七年の生涯よりもずっと濃厚な数ヶ月であった。
眼下の民衆は、平民問わず赤い布切れを体のどこかしこに巻きつけ、自分たちは耶麻台国の一員なのだという連帯感を共有していた。
そこで九峪が、高らかに宣言したのだ。『耶麻台共和国』の建国を——。
いま、記憶の海から浮上してきて、現実の眼下を望む。
北山人がいる。
「これも、新しい歴史の始まりになるのかな」
それほど大層なものだと思わないが、やはりただ事でもないだろう。そういう予感が九峪にあった。
「音羽。お前はあのときのこと覚えてるか?」
「もちろんです。これからどれだけの人生を歩むかはわかりませんが、それでも、あの瞬間の高揚を決して忘れはしません」
そう応えた音羽の頬が興奮に赤く染まっていた。情緒の激しい音羽は、周りの決意に絆されること甚だしい。感化されやすい性格で、また九峪の演説などを神聖視することも多く、感極まって涙を流すこともあれば猪突になることもあった。
遠州はまだ幹部でなかったから、警備兵を指揮するために九峪の宣言を民衆らとともに聞いていた。伊万里の義妹である上乃はすぐ傍で聞いていた。
北山人は除くとしても、おなじ九洲勢のなかで、ただひとり清瑞だけがその思い出を共有できていない。彼女は天目の捕虜となっていたからだ。
教来石らはどうでもよさそうだが、おなじ戦いを経てきた身としては、輪に入れないことが哀しかった。しぜん、清瑞は口をつぐんだ。言うべき言葉がなかった。昔馴染みである音羽の感激さえ分かち合えないのだ。
——口惜しい。
と、伏目に思い、唇をかんだ。暗く沈んだ清瑞の様子に九峪も気づいたが、こればっかりはどうしようもない。
どう声をかけようかとも考えたが——すぐに捨てた。清瑞をではない。迷うことを捨てたのだ。
「清瑞」
とっさに、九峪の口が清瑞の名を呼んでいた。清瑞の腕を掴み、ぐっと引き、二人は隣り合った。その様子を音羽たちが驚いてみていた。
「く、九峪様・・・・・・?」
見上げるすぐそこに、九峪の面がある。すこし背伸びしたら唇をふれさせることも出来るだろう、そんな距離だ。隣り合うというよりも、かなり密着している。
九峪の鼓動が聞こえてきそうで、逆に清瑞の鼓動も、九峪は身体で感じているかもしれない。吐息もふれあう。身体がじんわり暖かくなるのを、腕に抱かれる清瑞は感じていた。九峪は微笑んでいた。
「ここからもう一度やりなおす」
囁くような言葉が清瑞の耳をやさしく撫でた。
「今度こそ、俺の傍で見ていてくれ」
「——ッはい!!」
返事は最高の笑顔とともに。
清瑞を開放した九峪の瞳が正面にすえられる。
十年前とは顔ぶれも違うが、言葉のとおり新たな歩みとするには丁度いい。二十八歳の再出発だ。
体中の血管を熱い血潮が駆け巡る。九峪もまた高揚としていた。
言うべきことはそう多くない。長々というよりも、むしろ短く完結に済ませたほうがいい場合もある。何かで呼んだ本にもあった。『短言とは即ち重き』と記されていた。短いほうがより重厚に響くという意味だ。
「いまが、動くときだ」
前置きもない演説が始まった。
「今だけは恨みを忘れよう。忘れないと生き残れない」
これは九洲勢に向けた言葉で、この戦いの後に九峪が取り組まなければならない仕事でもある。
「みんな、赤巾はまいたな?」
自ら右腕を掲げると、その隣の清瑞が同じように腕を上げ、音羽が、遠州が、教来石が、次々と赤巾のまかれた腕を天に突きたてた。
九洲の旗を細かく裂いて割り振られた赤巾が、九峪の眼下で火山が噴火したように増えてゆく。兵士に限らず、ともに逃げてきた北山の民にも赤巾が配られている。それこそ、老人から赤子にいたるまで。
「この布切れが、お前たちと俺たちを繋ぐ絆だ。こいつを巻きつけているお前たちには、倭人だとか琉球人だとか、そんな違いはない。ただ等しく『赤巾を巻いた者』同士だ」
兵士や民たちが互いの顔を交互に見つめているのが九峪にはわかった。
念を押すように繰り返し、同じことをいった。ここが重要だと九峪は考えていた。戦いが始まれば自分の出番はない。これが最期の仕事だという思いである。
何よりも恐ろしいのは、足並みが不揃いのまま海へ漕ぎ出すことだ。北山人の全てが九峪を受け入れたわけでもなく、また横のつながりも希薄なままだった。
赤巾は、せめて最後の最後、この一戦のみを戦いきるために九峪が講じた、苦し紛れの人心掌握策であった。
これ以上は九峪の手を離れてしまう。後の事を音羽や教来石ら前線の指揮官に任せるほかない。
一通り言うべき事を吐き出した。いよいよ残すは出陣の号令ただ一言だ。音羽が今か今かと待ち望んで、継ぎ接ぎみたいな鎧を鳴らしている。
心臓を素でさわる感触がして、背中の毛がふるえた。いや、ただそんな気がしただけだが、悪寒とも快感とも取れない不思議な心地がしているのだ。形容の仕方がない。
——あとはやるだけだ。ビビんなッ!!
失敗する可能性だってある。準備不足は九峪のもっとも嫌う要素で、まさに準備は足りていない。それが恐ろしかった。今回ばかりは亜衣がいてもどうしようも出来なかっただろうが、やはり亜衣に頼っている部分の大きかった今までが思い起こされる。
腰に下げた剣の柄尻を左手で包むように握った。しっかりと決めることが、総大将には必要だ。左手を話した瞬間に、もう右腕が剣に伸びていた。
柄を握り、鋭い音を立てて引き抜く。古来より戦の前、総大将が将兵の前で剣を抜くという行為は、すなわち戦勝を必するための神聖な儀式を意味している。
「いくぞォ!!」
九峪の叫びに九洲人が呼応し、大喝采が沸き起こった。それに負けじと廉思が声を上げて、勢いに呑まれている琉球人を鼓舞した。
九千人の大音声が、種芽島を響かせた。
武将らが乗船を指揮し、続々と兵士たちが船に向かって列を作り始めた。
剣の切っ先を地面に下ろした九峪は背後を振り返り、音羽へと視線を向けた。
「先発は頼んだぞ、音羽」
音羽が確りと頷いた。
「お任せください。第二陣が到着する前に片をつけてご覧に入れます」
「頼もしいけど、油断は禁物だからな。・・・・・・音羽は泳げないんだから」
「うっ」
恥ずかしさに思わず仰け反ってしまった。音羽の金槌は筋金入りで、いちど織部に泳ぎを教えてもらったところ、ついに匙を投げられた過去を持っている。
「ま、音羽ならそんなヘマしないだろうから、俺はゆっくりと石川島に上がらせてもらうよ」
苦笑をうかべて肩を叩いてやり、音羽を送り出した。先発には北山人との連携を円滑にするため、廉思が参加し、清瑞が指揮するホタルも先発隊である。
「清瑞」
音羽の背中を追うとした清瑞を呼び止めた。
「頼むぞ。成功するかどうかは、お前次第だからな」
石川島を奪取する分には心配もないが、なにより気がかりなのは清瑞の首尾である。清瑞にはある役目が与えられており、その成否如何によっては九峪も自刃する覚悟があった。
清瑞は微笑み、心配ありませんと応えた。
「是が非でも役目を真っ当しますから、安心してください。私の腕はしっているでしょう?」
「いやまぁ、そうなんだけどさ。・・・・・・ほんと、マジで頼む。俺の命を預けたも同然だからな」
「ふふ。大丈夫ですよ、九峪様。虎桃に射抜かれたこの足で、天目や彩花紫から逃げ切ったんですから」
「・・・・・・そういや、よく戻ってこれたよな。織部と一緒だったのにも驚いた」
「わたしも、まさか織部さんと一緒になって、関門海峡を泳ぎきることになるとは思ってませんでした。けど——」
柔らかく頬を緩めた表情が、幸せそうな笑顔にかわる。
「九峪様の事を思いだすと、案外、何でもやれるものなんだって知りました」
そういった清瑞は、どこか夢心地というようで、引き込まれるように九峪は目を離せなくなった。
気恥ずかしさを紛らわすのに頬をかく。初いところのある清瑞でも、やはり九峪よりも年上である。色っぽさがあった。
「まぁ、なんだ・・・・・・お役に立てて何よりだ」
「でもやっぱり、アレが一番わたしを助けてくれたのかもしれません」
「アレ・・・・・・?」
意味深な言葉だが、九峪の記憶に——あった。ある意味で記憶の海に沈めたままにしておきたい、個人的にかなり恥ずかしい記憶が。
そっと清瑞が寄り添い、再び身体が密着する。とっさに九峪は周りを見回したが、すでに誰もいない。清瑞の豊満な乳房が押し付けられている。熱い。
ドックン、ドックン——
頬を汗が伝った。
「えっと、清瑞」
「あの『おまじない』・・・・・・もう一度わたしに」
ください——と、上目遣いに呟かれた瞬間。
清瑞のかかとが上がって、唇と唇がたがいに触れあい、ふさがった。
「ん、んぅ・・・・・・」
完璧な不意打ちだった。瞼を閉じているひまもなく、ますます清瑞は身体を押し付けてくる。そしてそれを受け入れるように、九峪も瞳を閉じて清瑞を抱きしめた。
熱い抱擁。火傷しそうなほど、強く抱きしめる。折れそうだ——などと思えるほど清瑞の肢体は柔らかいけど、それ以上に力強い鼓動が伝わってくる。さすがは天目と彩花紫から逃げてきたと豪語するだけはある。
二人だけの櫓に、相手を求める吐息の音だけが聞こえている。外はまだまだ騒がしいのに、隔絶されたようでさえあって、完全に二人だけの世界になっている。小さな世界。
静かに唇をはなし見つめあう瞳が絡む。お互いの頬が真赤で、言葉もない。
「・・・・・・自分からやったら、『ください』にならないだろーが」
「あっ——」
「ったく」
などと悪態つく顔には穏やかな笑顔が浮かんでいる。そしてまた、重ねる。今度は九峪から。
最初は出来心で交わした『おまじない』。しかし今は、互いの意思がそれをさせている。
トントンと梯子を上る音が聞こえてきて、二人は顔を離した。名残惜しそうに身もはなす。だが未練にも清瑞の腕は九峪につかまれたままだ。
「二度もしたんだから、成功させろよ」
「はい——」
潤んだ瞳に、確かな決意を感じた。
「棟梁、準備できましたよ。・・・・・・何してるんです?」
櫓に顔を出したのは愛染だった。
「すまない、すぐ行く」
余韻を振り払うように清瑞が声をはった。切り替えが早いのは、さすが乱波といったところだろうか。すでに清瑞は戦士の顔をしていた。
「愛染ッ!」
降りようとした愛染の名を九峪は呼んだ。ふたたび愛染が頭を上げた。
九峪が陽気な笑顔で親指を突き立てる。
「思いっきり暴れてこいッ!!」
「はいッ!」
元気よく応え、清瑞ともども櫓を降りていった。
櫓から二人が遠ざかるのを見届け、ほっとため息がもれる。九峪にはまだ余韻が残っている。
空に日は高く、これから戦いになる。最後尾であるが、九峪も出陣する。場合によっては戦闘に突入するかもしれない。
余韻と不安が混ざってゆく。いまだかつて、九峪には人間を切った経験がなく、また覚悟も不確かであった。殺す覚悟よりも自殺する覚悟を先に決めるのもおかしな話だと思い、苦笑いした。
先発の艦隊が出発した。次に二陣がでる。九峪の三陣が後詰の役割を持ち、これらが石川島めがけて一気に北上するのだ。後詰という肩書きではあるが、戦闘能力は皆無といっていい。なぜならば乗組員の殆どが非戦闘員——北山から逃げてきた民であるからだ。
戦うのは先発と二陣のみである。だから是非とも、先発の音羽だけで石川島を攻略してもらいたい。
じきに最後尾の艦隊も出航する。櫓を降りようと踵を返した。
「——ッ」
一瞬、激しい眩暈にたたらを踏んだ。辛うじて踏ん張った——つもりだったが、尻餅をついてしまった。尾てい骨を強かに打ちつけた。
鈍い痛みが眩暈を刺激し、頭痛にかわった。眼球が痛い。心臓の鼓動が耳障りに聞こえてくる。
顔をおさえる手の震えが止まらず、視界にいたっては二重に映っている。
言葉もなく、呼吸すら難儀し拍動の苦しみを必死にたえた。瞼さえ開けれない。心臓を柄みたい衝動が前身を支配するも、もちろんそんなことなど出来るわけもなく、胸部を覆う布を引き裂かんばかりに引っ張った。
さまよう左手が剣の柄に届く。
——痛みが和らいできた。張り詰めた神経や血管の弛緩につられる体が、ぐったりと力なく横たわる。布を掴む掌が汗ばんでいる、掌だけではない、体中の穴から汗が噴出しているようだ。
左手だけが、いまだ柄をしっかり握っている。
——こいつは。
この苦痛には覚えがある。まだ阿蘇で生活していたころだ。不可思議で不気味な夢を見たその朝、今と同じように眩暈と激痛に襲われ、立つこともままならなくなった。
煮えたぎる呼気が苦しさを物語っていた。あの時と大差ない。やはり腰砕けで足がいうことを聞きそうにない。
忌瀬は夢症とよんでいて、心を落ち着けるための薬を九峪に与えていた。だが残念なことに、夢症によいとして渡された安息香も、襲撃されたときに灰と化してしまい、手元にはなかった。
仰向けで、まだ荒い呼吸を落ち着けていると、到着の遅い九峪を呼びにきた昌香が櫓に上ってきた。梯子から顔を出した瞬間、倒れている九峪を発見して血相を変えた。
「九峪様ッ!?」
あわてて駆け寄り上半身を抱き上げた。瞼がゆっくりと開き、意識はあるのだと安堵した。が、すぐに不安そうな表情で、九峪の疲れた顔を覗き込む。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ・・・・・・」
かすれ気味の声で応えるが、昌香には、大丈夫なように見えなかった。病人と変わらない気がした。
「悪い、肩を・・・・・・貸してくれないか」
昌香に助けられながら立ち上がる。まだふらつくが、一応は立てた。
「あの・・・・・・体調が優れないので——」
気遣う昌香。誰が見ても尋常ではなかった。
しかし言葉を最期まで言い切らせず、九峪がかつてないほど眉を険しくさせて、昌香を見た。
「——誰にも言うな。他言無用だ」
有無を言わせぬ厳たる態度であった。気迫が昌香の首を縦に頷かせた。
——ここで騒がせてはいけない。動揺は最大の敵だ。
これから戦うのだ。負けない戦といえ、油断こそもってのほかだ。蔚海が魔人を呼んでいないという確証だってないのだから。
「大丈夫だ・・・・・・大丈夫だよ」
昌香の心配を払拭しようと浮かべた苦笑。それはまるで、自分自身へも向けられているようだ。
「九峪様・・・・・・」
「さて、いこうぜ。これ以上はまたせられない、だろ」
「あ、はい」
大丈夫、という神の遣いに、自分がかけられる言葉などはない。
不安になりながら、昌香は九峪に肩をかして種芽島城をあとにした。