雨脚は完全に過ぎ去った。少数精鋭でおくりこんだ奇襲を成功させた九峪軍は、二十七日に石川島を発した。
目指すは都井岬である。海路から二千人、陸路から三千人の行軍で、時間がないために昼夜の足並み違わない強行軍となった。
海路二千人の総指揮は教来石が執り、陸路を行く三千人は音羽を筆頭とした。九峪は艦隊についた。
都井岬は敵性勢力ではないため攻撃しないが、とうぜん軍勢がよれば混乱が起きるものだ。まだ石川島が襲撃されたことを知る物は少ない。
九峪軍が都井岬に到着したのは二十八日の日が傾き始めた夕方で、この日、天都城付近で蔚海軍は崩壊した。
岬の騒がしさと篝火の多さを怪しんだ串間城留主が、守備隊隊長に命じて調べさせに兵二十人を送り込んだのがもう夜も半ばになってからであった。
「やっぱりきたな」
串間城が何かしらの反応をするとは予想の範囲内である。それも騒乱の最中とあるから、かなり過敏になっているはずだ。それを見越した上で、事情を調べにきた串間城の兵士たちを九峪は丁重にもてなした。
「く、九峪さまぁ!?」
守備隊長——と名乗る某が飛び上がったのも無理はない。悠然と苦笑する九峪をまえにしても気の毒なほど狼狽し、見間違いかと何度も目をこする様がなんとも滑稽であった。
某は九峪の顔を知ってこそいるが、身分がそれほど高くないためこうして手の届く距離で対面するのは初めてのことだ。夢幻でないとわかった途端、こんどは哀れなほど畏まって平伏した。
九峪の前に完全武装の兵士が二十人も平伏する様子に、教来石や廉思といった北山人はあらためて九峪が只ならぬ人物であることを再認識させられる。
——この者ならば、我ら北山の未来もなんとか繋ぎ止められよう。
困ったような笑みを浮かべる神の遣いにすべてを賭けたことに、若干の不安を抱かなかったわけではない。出会って日も浅いし、噂でこそ知らない実力、人となりにいたっては聞けば聞くほど気やすく神の遣いと誉めそやすにはあまりにも人間味があり、よく言って気さく、悪く言って俗臭の抜けない人物でさえあったからだ。
だがその評価や不安も、次第に好感へと変わっていくのを教来石は自らの心の中で感じていた。阿蘇で初めてであったときと同じ飾らない態度で北山人に接し、差別することもなく、そして作戦もいまのところは順調そのものだ。
伏せる兵士たちへと視線を転じ、この威光が自分たちの背後を照らすのだと思うと、それが安心にすら繋がる。臣として降った以上、九峪はもはや彼らの主であるのだが、それでも信じられるかどうかは大きな問題である。
——あとはわしら次第だ。この九洲でわれら北山の武を示さねば、いくら神の遣いといえども庇いきれぬ。
まさに崖っぷちの現状、それでも教来石の戦意は高ぶって仕方がなかった。生まれたときから武門の道で生きてきた男である。戦場こそ活を奮い立たせる場である。
九峪は串間城を諜報の発信地とするつもりだ。都井岬をおさえた理由は、なにも海戦の有利と志布志湾掌握だけではない。むしろ串間城を利用するためであったともいえる。
串間城の戦力はわずか百人だけであるらしい。これだけを聞くと大したことなく思うが、まず串間城を始めとして他の城からも協力を取り付ける。ざっと五百人の戦力増がみこめると九峪は言う。
味方だといわれれば守備隊長にも否やはない。留主に掛け合うと明言してさっそく引き上げてゆく背中に、
「たのむぞ」
とだけ声をかけてやれば、それが生涯で最大の誇りとなると九峪は心得ている。
——これは国主の器だ。人を操る術を知り尽くしておる。
教来石は舌を巻くしか出来なかった。
ホタルの韋駄が石川島占拠の直後に薩摩へと走った。旧国都である国分城で警戒態勢を整えている紅玉の元へ、九峪の指令を届けるためである。
小さな体は風神のように荒々しく駆け通し、足が棒になるのではと自身で思い始めたころ、国分城の門を叩いた。脚自慢の韋駄でさえ到着したときには呼吸も儘ならず、それだけ急いでいたということなのだろうが、取次ぎに竹簡を手渡すとそのまま城門で意識を失ってしまった。
すると今度は物々しい空気の国分城の中央通を、竹簡を大事にかかえた兵士が慌しく舘へ向かい走るものだから、自然と住民やその他の兵士たちの目を引いた。
みな、何か外で動きがあったのだと勘繰った。
竹簡を受け取った紅玉は淡く微笑むと、待ってましたとばかりにすぐさま各将に下知を下す。
「東衛門は八百人を率いて途中の集落漁村を開放しつつ喜入(きいれ)を落としなさい。あとの千二百は私に従い、桜島の宗像海人衆を撃破します」
宣言した同日、国分城から兵が発進したのが、二十七日の朝方である。
薩摩武官の東衛門は紅玉に見込まれた薩摩戦士で、いくさに強く人情味あふれる性格で人望厚き男である。道々に漁村や集落などが点在する指宿街道を進軍しこれをあっさりと攻略していき、翌二十八日の昼過ぎには喜入砦を攻撃した。
同じころに国分城を発した紅玉隊千二百の目標は桜島城で、こちらは鹿児島湾や加治木港にある漁師船を用いて桜島へ上陸、同日中に陥落させ、二百を守備に残し一千人で大隈半島へ殴りこみ高隅山地をかすめつつ垂水へはいった。
これから、東衛門は指宿、紅玉は外加奈の城を攻略目標として行動することとなる。最大目的は湾全体を混乱させて宗像海人衆を引き離すことである。
二十八日といえば本戦に事実上の決着がついたころで、さらに日を明けた二十九日に指宿、外加奈の城は戦場となった。
といえば聞こえはいいが、実際には篭城するよりも海へ逃れたほうがよいと判断した海人衆はさっさと城砦を放棄し、艦隊を組んで錦江港へ漕ぎ出したのだから、まさしく九峪の狙い通りにことが運んでいることとなる。
蔚海相手に仕掛けた謀略は散々に蹴散らされてきたが、兵を動かす軍略ならばお手の物だ。
失神した韋駄に代わって傳平を薩摩間の様子見にはしらせ、流動的な軍事行動の詳細は都井岬で待機している九峪の元へも頻繁にとどけられる。
「——わかった。じゃあ、次も頼むぞ」
「はぁ」
一礼して退出してゆく傳平の相貌には疲れが色濃く浮かんでいる。韋駄ほどでなくとも傳平もまた俊足の持ち主で、この二日そからだけでも都井岬と国分城の間を四往復は走破している。齢も四十半と考えると、いささか体にもこたえよう。
じっとりと汗ばむ掌に、自分が思いのほか緊張していることがわかる。
「傳平も、もうそろそろ歳だな。あと何年こうして乱波働きを続けられるか」
もとを九峪直轄部隊として編成されたのが元星二年ころである。四年に九峪が阿蘇へ軟禁されてから主を失った部隊は乱波衆として再編され、今日まで九洲の裏舞台で活躍してきた。
伝令や偵察を主とする傳平に諜報を得意とする侘吉などの年配組は、また最古参の構成員でもあった。というよりも、清瑞が発掘してきた若い人材を育てる教官役として、経験あるものを九峪が召抱えたともいえる。
若い連中が才能を開花させてくると、年配の傳平たちの働きはやや霞んでみえる。彼らが若手に勝っている部分など経験くらいなものだ。
あと四、五年ほどすれば傳平、侘吉ら年配乱波も、第一線を退かなければならない時が来る。完全な世代交代の時期がすぐそこまで近づいている。
「ここしばらく蔚海にこき使われて働き詰めだったっていうし、休ませてやりたいけどなぁ」
韋駄がぶっ倒れてしまった以上、傳平には何が何でも走りとおしてもらわなければならない。明らかに傳平のほうが苦しいはずなのだが、そこは長年にわたり培ってきた乱波としての気概で持ちこたえているようなものだ。
傳平の報告によると、すでに宗像海人衆は拠点をうばわれ、加奈港までもあっさり手放してしまったらしい。
となると、残すところは最期の一手。
いかにして錦江港から引き離し山迫の玄関を潜らせるか。もちろん大隈の海まで誘い出したから勝てるというわけでもないのだが、少なくとも条件を五分にまで均一させることはできる。
だが、引き離すのも倒すのも、すべては清瑞次第だと思うと、やることがない九峪はただただ首尾よくすすむ事を願うしかない。
蔚海軍を完膚なきまでに消滅させたいま、士気の昂ぶりが全軍を奮い立たせている間に間髪いれずに動き出さねばと、天都城で軍議を開く事を亜衣が発案したのは、二十九日の夕日が山々に消え入ろうかという時であった。
巨大な天都城の城郭模様は、二重に張られた外堀や土塁、ながい軍道もさることながら、なによりも城壁の内側までが綿密な計画に基づいて入念に造りこまれている。城主の館となる中心の大櫓は耶牟原城と同様のどっしりと据える三重櫓であるのだが、なんと頂点に小ぶりな物見櫓を備えているから、外観こそ三重だが実際は四重櫓であった。
厩も二百頭まで面倒できるほど大きく、飼料庫に食料庫、武器庫もかなり大きい。収容兵数三千人を豪語するだけに兵舎も何百棟と並んで、ほかにも様々は施設がひしめき合うほどに存在するのに、道は恐ろしいほど幅広に保たれている。
大櫓一階は主に謁見の間として利用され、二階を大軍議堂、三階を城主部屋としている。ここの城主は尾戸であるから、三階は尾戸一家の居住空間ということになる。
北軍として参加していた伊万里らも寝返り、豊前知事であった小久慈を除くすべての知事が顔をそろえた。地方の太守、高位武官らをあわせると軍議列席者の数はじつに七十人を超えた。いまだ遅じと火前を初めとする各地から志願兵が流れ込んでおり、総兵数もすでに四万人に達しつつある。
後方にあって戦いに参加することのなかった火魅子をむかえると評定は開かれた。
いまだ蔚海の生死すらさだかでなく、そのことも話し合わねばならない。だがひとまずの議題は宗像海人衆である。
宗像海人衆が外加奈の城を占拠していることなど、とうの昔に知れている。戦力にしても二千五百から三千という見積もりもはじき出されている。戦えば必ず勝てた。
問題は海人衆が海に逃げた場合であった。そうなると海戦となり、投入できる戦力も艦船の数によって左右されることとなる。というよりも天草水軍に任せるほかなくなるというのが現状であろう。もちろん海人衆は宗像と天草だけではない。かき集めれば二、三千は確保できるはずなのだ。
「あっしと斯波虎は火前へと一旦ひきあげまさ」
気勢を上げて重然が進言した。火前に屯している艦隊を率いて南下するつもりなのだ。斯波虎も、赤池城の失態を挽回するために、いきり立って重然に賛同した。
「宗像海人衆は大きく見ても三千。あっしらの水軍は少なく見積もって四千五百。水軍だけでもかたがつけられやす」
周りへと強い視線を向けながら言った。なんとしても自分を遣わして欲しいという意思が迸っている。
たしかに三千と五千では勝敗も明らかだ。どんなにどんぶり勘定で勝算をたてようとも、阿智を失った海人衆に重然が後れをとることなどありえない。
とは思う亜衣であるが、懸念があった。
錦江港の玄関口、山迫である。整理杭をどうにかしない限り水軍の実力も半減されてしまう。亜衣とて宗像の出。海のいくさは心得ている。
整理杭帯を抜けれればそれでいいのだが、その段階で迎え討たれるのだけは避けたい。
重然が出ればなるほど勝てるだろう。ただし相当の被害を覚悟しなければならない。被害を大きくさせるなど愚劣の極みである。
「もちろんお前たちには出てもらうけど・・・・・・」
重然と斯波虎の両名のこしを下ろさせる。脳裏にはすでに戦場模様が描かれている。
ずり下がった眼鏡を指先で押し上げた手で口元を覆う。やはり山迫が気になって仕方がなかった。あの入り江にどのような手を加えるのか、そこのところをよく考えなければ、ひょっとすると長期戦になる可能性もある。
——あと一息なんだ。これ以上の時間はかけたくないものだ。
負ける気はさらともないにしろ、どうしても自分たちの背後で目を光らせている存在が寒々とした威圧感を放っている。
亜衣は、天目のことを考えた。蔚海の問題に掛かりきりだったから詳しくはわからない。しかしもっとも新しい情報では、彩花紫と泗国征伐の足がかりとして但馬を取り合っているはずなのだ。もしかしたら但馬もどちらかの手に落ちているかもしれない。それだけの時間は過ぎたはずだ。
ひとつの可能性として天目が但馬の領有権を奪取したならば、九洲に手を出している場合ではない。すぐさま泗国へ遠征するはずだ。泗国を征服した後、東へ征くも西へ征くも思い通りだ。両側を敵に挟まれる形であるが、泗国を手にするという事は天下盗りに王手をかけたも同然だと亜衣は理解する。
逆に彩花紫に後れをとった場合だ。亜衣としては天目が取る以上に御免被りたい。南海道から兵を進められては敵わない。それは天目の場合でもいえることだが、まだ天目一人を相手にするだけましというものだ。
泗国云々によって西海道の命運も分かたれてくるのならば、さっさと宗像海人衆は滅ぼすにかぎるのだ。それに国力も疲弊しすぎた。天目にしろ彩花紫にしろ、襲来されては危うい。
「香蘭様」
ここは地理に聡い者に聞いたほうが得策だ。
「錦江港を攻め落とすに、何かよい条件はありませんか。できるならば海から攻めたいのですが・・・・・・」
「そうね・・・・・・」
余計な知識を持たないぶん案外と記憶力に優れている香蘭が、地図をじっと見つめながら錦江港の周辺を思い出す。九峪をならって馬鹿の一つ覚えみたいに視察を繰り返したおかげで、昔と違い地理にも精通するようになった。
「・・・・・・山迫ぬけるしかないよ」
難しい顔で香蘭が呟くように答えた。どう考えてもそれしかない。紅玉でもおなじように答えるだろう。なにしろ道がそれしかないのだから、どうしようもない。
一縷の望みというわけでもないがどうしても短期決戦は難しいようだ。内心の落胆を表情に出さないよう努めつつ、ではと亜衣はさらに言葉を進める。
「入り江を攻めるとして、どれほどの艦船が抜けられますか?」
「うーんっと・・・・・・行くだけなら百隻でもいけるよ、たぶん」
「・・・・・・戦う、となれば?」
「それも問題はないと思うよ」
と香蘭はいうが、やはり分は悪いと、海人出身の亜衣は考えている。
もともと艦船同士の接触事故防止のために打ち込まれた杭の道である。みればかなり広々と幅もとられているが、人力で進む船は左右に大きく揺れるし、一隻とおるために横幅は三隻分の余裕が必要であった。ただ進むだけならばそれこそ三十隻だろうが五十隻だろうが進める。しかし海戦となると小回りを利かせなければならず、必ずどこかで接触事故を起こす。
さらにこの時代の共和国には、飛空挺に匹敵する新たな戦場兵器が誕生している。それは『海の飛空挺』とまで呼ばれている小型の船で、むかし九峪が星華と共に遭難した事件のときに考えていた構想を、羽江が現実のものとして結実させたものだ。それらを効率よく運用するにも、整理杭はあまりに邪魔だ。
やはり整理杭帯を抜けない限りは格好の餌食となってしまう。
「そうですか」と口元をまた多い、亜衣は思案の海に沈みこむ。
「いっそ海上封鎖をしてはどうだ?」
と言い出したのは藤那である。亜衣は顔を上げて藤那をみつめた。
「外加奈の城やほかの城を落とせばやつらは海へ逃れるだろう。そうして錦江港を漂わせているうちに重然どもに山迫を封鎖させ、海上で干上がらせてしまえ」
ざわっと場が色めきたった。なるほどその手があったかと誰もが藤那の考えに感服した。まさか攻め一辺倒と呼ばれている藤那の口から、待ちの戦法が聞こえてくるなど誰も思っていなかったから、驚きも一入であった。
藤那様にしては珍しいと亜衣もなかば関心していたが、中々受け入れがたい。
藤那の戦法は正しい。間違いではない。しかし亜衣は長期戦をさけたかった。海上を封鎖して宗像海人衆を干上がらせるのに十日とかかるまいが、海には魚がいる。あんがい持ちこたえるかもしれない。いざとなれば海水を飲んで持ちこたえるだろうし、さらに二十日三十日と日を延ばされては天目がどのような動きをみせるかわかったものではない。
倒すにしても、速攻の一撃で沈めてしまうのがもっとも望ましい。これは亜衣の我侭でもあるし、あまりにも天目を意識するあまりに臆病になっているともとれるが、外交のために何度も面談した亜衣だからこそ天目を底知れぬ恐ろしさを見て見ぬ振りが出来なかった。
——まいった。
勝てるのに、倒せるのに、最上の仕上げはまだまだ霞に隠れている。僅差で足りていない何かに気づけないのがもどかしい。それは、すぐ手を延ばせば掴み取れる場所にあるような気がしている。
色よい顔をみせない亜衣の態度に、提案した側の藤那がまずかに目を細める。
「亜衣、なにを悩むことがある? 戦いは何も攻めるばかりではないだろう」
「それは、そうです。藤那様の仰られることももっとです。しかし時間をかけたくはないのです」
伏目がちにこたえる。せめてあと少し、船と兵があればという悔しい気持ちが胸のうちに去来した。そうすれば山迫を数で圧し通り一気に打ち砕いてしまえるからだ。
「とはいえここで手を拱いていても仕方があるまい」
亜衣と藤那のはりつめた空気を振り払うように、亜衣と隣り合う伊雅が諸将へ視線を向けた。
「数の上で勝っておるのはこちらだ。陸と海から攻めればよいだろう」
「伊雅様もそう思われますか」
伊雅の言葉に我が意を得たりと藤那は笑みを浮かべた。
伊雅の一言で、場の空気は攻勢に転じようとしている。それでも亜衣は言葉にせずとも難色を示していた。伊雅は亜衣へと視線を転じ、
「亜衣よ、何をそこまで気にかけるのだ?」
訝しげに質されて、亜衣も一瞬どのように言えばと迷った。
どうやらこの場にいる者たちで、天目の事を気にかけているのは自分ひとりであるように思われた。誰もの瞳は宗像海人衆をいかにして血祭りに上げられるか、その様を思い描いているようだ。
だが、それも仕方がないと亜衣は嘆息する思いだった。なにしろ天目との関係は外交、すなわち政である。この場で政を気にするものとは、すなわち宰相である亜衣ただ一人で、火魅子も伊雅も、知事たちですら気にする問題ではないからだ。
——仕方がない。時間をかけてでも確実な勝利を得よう。
これからの対外政策を考えると気が気でないが、たしかに気を遠くに向けすぎているかもしれない。まずは、そう、目先の問題が先決だと自分に言い聞かせる。
上座で静かにたたずむ火魅子へ一瞥をむける。
——亜衣にまかせるわ。
そう言葉にせず小さく頷かれて、亜衣も腹を決めた。
「・・・・・・では」
作戦を決しようと腰を浮かせかけたとき、どやどやと大講堂のそとから慌しく兵士が駆け込んできた。兵士は戸口で跪いた。
「騒がしいぞッ」
武将が叫んだ。駆け込んできた兵士は一礼すると、顔を上げて大声を上げた。
「清瑞様が参られました」
「なに」
浮かせかけた腰が完全に立ち上がった。驚きすぎて眼鏡がずり下がっても気づかなかった。亜衣だけではない。みな言葉を失った。
開戦に先立ち、情報収集と工作のために亜衣は清瑞をさがさせたが、行方を掴むことはできなかった。清瑞どころかホタルの殆どは行方知れずとなっており、かなり心配していたのだ。
それが今頃・・・・・・という思いが亜衣や皆の者にはあった。戦いは終わろうとしている。無事だったことは喜ばしいものの、いまさら清瑞に出番はない。
ひとまず通すよう命ずると、兵士は恭しく応答して引き下がり、ほどなく清瑞が姿を現した。乱波装束のいでたち、右腕には赤い布が巻かれている。少しだけ痩せていた。
「ずいぶんと遅い参上だな」
皮肉るように藤那が哄笑する。自らの作戦が通りそうだとあって、かなり気が大きくなっているようだ。
清瑞の頭がたれる。その様子には反省の色はない。それどころか、なにやら言葉にない気迫のようなものが伝わってくる。
——何かあったな。亜衣は即座に感じ取った。
「いままでどこに行っていたんだ? 探したぞ」
亜衣の言葉に清瑞は顔を上げる。
「・・・・・・所用で、種芽島へ」
ざわっとまたも諸将が声を上げた。一瞬で講堂の隅々にまで喧騒が響いた。
亜衣も詳しく詰め寄ろうとしたが、はっと思いとどまった。立ち上がったままであることに気がついた。ゆっくりと腰を下ろし、拍動をおちつけるために小さく呼吸する。
眼鏡を正す。思考は高速で働いている。
種芽島。決して忘れていたわけではないものの、蔚海との決戦を際して後回しにしていた。何をおいても蔚海を倒さない限り、残党たちを仕儀することは難しかったからだ。
その種芽島へなぜ清瑞が向かうのか、などと考えても理由は皆目見当もつかない。
「種芽島でなにをしていたんだ」
「それを申し上げる前に、まずはこちらをお読みください」
というと、巻かれた木簡を差し出した。木簡は兵士の手を経て火魅子へと手渡された。
「これは・・・・・・?」
紐を解きつつ火魅子が尋ねると、傅く清瑞はますます頭を低くさせた。
「九峪様よりの書状です」
「えッ!?」
驚きのあまり木簡を取り落としかける。あわてて持ち直しても、またすぐ落としそうなほど動揺している。
「ど、どういうことだッ、九峪様だって!?」
転げんばかりに立ち上がり叫んだのは伊万里である。彼女の言葉はこの場にいるみなの気持ちを見事に代弁していた。
もはや事態の収拾すら難しいほどの騒ぎとなった。九峪という名前が出ただけでこの有様であった。
清瑞との間に床机がなかったら、胸元を掴みあげていたかもしれない。亜衣ですらそれほどであったが、以外にこの場で一番落ち着き払っていたのは大将軍の伊雅であった。
否、落ち着き払っているというのには、いささかの語弊があろう。伊雅とて腰を抜かさんばかりに驚きはしたのだ。しかし周りの驚愕が尋常でなかったために、かえって一足はやく正気に戻っただけである。あとの理由を足すとすると、齢六十二という高齢からくる年の功だろう。
「落ち着けィ!!」
大喝が喧騒を一気に吹き飛ばした。その一言に亜衣も我が意を取り戻した。伊雅は忽然としているが、頬が僅かに興奮で紅くなっている。
しんっと静まる講堂の端々までみやって、伊雅は腰を下ろした。
「・・・・・・火魅子様」
「えッ?」
「いや、書状の中身を・・・・・・」
「あ、え、ええ、そうね」
気を取り直して火魅子が文面を追う。その間、平静を取り戻した頭で亜衣は考えた。
——こいつ、何を言い出す?
あわや九峪隠居の真実がばれると亜衣はかなり焦っている。九峪が事実上の追放処分を受けたという真実を知っているものは、高官の中でもさらに限られた者たちだ。この場で言えば、女王の火魅子、二公の亜衣と伊雅、そして知事のみである。
いや、それよりも書状である。清瑞は種芽島へ行っていたという。
ならば九峪様も種芽島へ——?
しかし何故——?
いくら考えてもわからなかった。わからないが、どうやら自分のあずかり知らぬところで九峪の身に何かしらの出来事があったのは確かなようだ。
「清瑞」
「はい」
「九峪様は、種芽島におられるのか?」
「いいえ。すでに種芽島を発しているはずです」
「・・・・・・なにがあった?」
レンズの奥の瞳が探るように閃いた。
清瑞はくっと喉を鳴らして顔を上げ、目を丸くさせながら木簡を読みふける火魅子へと視線を向けた。
——読み終わるまでまて、と言いたいのか。
ならば待つしかないだろう。亜衣がそう決めてしまうと、雰囲気を察した皆もまた何も聞けなくなってしまった。藤那などは雲行きが怪しくなって、憮然と唇を尖らしている。
ほどなくして火魅子は文面から顔を背けた。無言で木簡を亜衣へわたすと、そのまま黙り込んでしまった。
「・・・・・・なん、だと?」
読み終えてなお半信半疑だった。いやそもそも前提とする背景がさっぱり掴めなかった。こんどは伊雅が言葉を失っている。しかしこちらはもとより深く考えない性質でもあるためか、徐々に歓喜に頬がつりあがってゆく。
「おお・・・・・・九峪様ッ」
感極まって伊雅は目頭を押さえた。脳裏には九峪を追放すると亜衣より宣言されたときの情景がありありと浮かび上がっている。断腸の思いで同意したときの罪悪が報われる気がした。
相変わらず椅子の上で胡坐をかく伊雅は、不安定にも拘らず無理に立ち上がりかけた。武将が一人あわてて椅子を抑えた。
木簡の文を諸将にむけて、伊雅は喜びの声を上げた。
「皆の衆。九峪様が我らのために再びお姿を現したぞ」
文面を彩る文字は間違いなく九峪の筆跡であった。九峪は、宗像海人衆撃滅のために自ら指揮を執り、その策を提示していた。
「九峪様には一計があられる」
朗読した伊雅は最期に一言を添えた。一計ときいて亜衣も即座に思考を切り替える。いつまでも驚いている場合ではなかった。
——これぞ天佑だ。
まるで天の援けを得たような心地さえしてくる。それだけ清瑞の持ってきた九峪の作戦は、亜衣を後押しさせるに十分なものであった。
「九峪様の策であれば、間をおかずに海人衆を潰せます」
亜衣は亜衣なりに九峪の考えを追った。追うというが、実際のところ考えている事は同じである。ただし、九峪の方があらゆる条件を満たしている。
「石川島・・・・・・九峪様が・・・・・・」
思いもしない展開に重然は愕然となった。まさか・・・・・・と思いつつ、気が気でなかった。巨躯を震わせる様子に眉をひそめ、これが九峪様の狙いなのだと亜衣は確信していた。
九峪がのぞんでいるのは重然を刺激することだ。石川島は宗像海人衆と重然を釣るための餌である。いまの様子を見れば九峪の謀略が垣間見える。
——なんとも小ずるい手を考え付くようになられた。
亜衣の知らない九峪が、いま最後の戦いを締めくくろうとしている。いままで九峪の持ち得なかった強かさが感じられる。
太陽のようなお方と思っていただけに、この変化には中々釈然としないものがある。しかしそれと同時に、自分と同じ戦い方を考えていたことが、体中に得もいえぬ喜びを広げていた。
同じ事を考えていたことが、たまらなく嬉しかった。
ついつい笑みを浮かべてしまいそうな頬を叱咤し、亜衣は覚悟を決めた。藤那には悪いが、やはり天目たちを無視することは出来ない。
「九峪様の策でいきましょう」
伊雅に向けて言うと、もちろん異論はなかった。他の方々へと向けると、やはり同様だ。
決めかかっていた策を土壇場で却下されてしまった藤那も、九峪の名を出されては無理強いは出来ない。嘆息して苦笑した。
天は自分でなく九峪を選んだのだ・・・・・・。そう思えば諦めもついた。これが亜衣だったならばまだ抵抗もしたが、大恩ある九峪が相手ではその気も起きない。
「重然。九峪様のいうとおり、お前はすぐにでも火前へ戻り、艦隊を率いて錦江港へ向かってくれ」
「いや、まて」
亜衣の言葉を藤那が遮った。決まったからには出来るだけの事をしたい。
「ここからでは時間がかかりすぎる。足の速いものを向かわせ、島原にある菊池川の湊町へ寄越せ。そこから乗ったほうが早いだろう。その間にこちらも物資を揃えればいい」
「藤那様」
「手配と指揮は私が執る」
そういい残すと藤那は席を立った。すでに決まったような態度で、さっさと講堂を後にしようと諸将へ背を向けた。
咄嗟、亜衣は背に声をかけていた。
「よろしくお願いいたします。すぐに船を寄越させます」
「ああ・・・・・・いくぞ、閑谷」
颯爽として藤那は姿を消した。重然も顔をこわばらせ、斯波虎を引き連れて講堂を出て行った。亜衣は矢継ぎ早に部署を指示し、作戦は決まった。
人がぞくぞくと減って行く。亜衣は鼓動の高鳴りを感じていた。
——また、九峪様と隣あえる日が来るんだ。
ずっと待ち望んでいたその瞬間が、もうすぐそこまで来ている。
予感は、亜衣に活力を与えてくれた。