——やった。
天都城に一室を与えられ、深夜、石川島から走り通してきた清瑞は床で寝そべっている。体の疲労に逆らう興奮が眠気を寄せ付けない。
清瑞の最初の役目は終わった。重然を動かすことさえ出来ればそれでよかった。もしも重然が渋るようならば、勝手に艦隊を分捕ってでも数で押し寄せるつもりだった。
かくして九峪の名声のもとに重然は動き、それどころか際川や他の戦地で華々しい活躍をした諸将も、九峪指揮の下ぞろぞろと宗像海人衆討伐のために行動をはじめている。
ごろりと寝返りを打つも、やはり眠れそうにない。清瑞自信はただ書状を届けただけに過ぎないが、どうも伊雅たちの感激が伝染してしまったようだ。
——やっぱり、九峪様はすごい。
阿蘇へ人知れず追放され、しばし政治からも軍事からも手を引いていた九峪。しかしその智謀は衰える事を知らなかった。実は思わぬ失敗に終わった蔚海包囲網の黒幕も九峪であり、そういう意味では政治から手を引いていたとは言いがたいのだが、清瑞は知らない。
これから火魅子の大軍は、天草水軍を除いて一気に南下し紅玉と連携することとなっている。すでにあらかたを紅玉が済ませているが、錦江港から押し出させるのに万の大軍は圧巻たる恐怖となるはずだ。
寄る辺を失うどころか名将たちに率いられた一万二万の大軍が陸から怒涛の如く押し寄せ、さらに西から大艦隊が降ってくるのだ。いやでも錦江港から逃げ出して石川島を奪い返そうとするに違いないのだ。錦江港で封じられるよりは、まだ石川島を手にしたほうがいい。
ともすれば武者震いしそうな体を両腕で抱きしめる。
体中の血管を熱湯が流れて行く感覚がした。よく『熱した鉄が流れる』というが、それとは違う。そんなに重いものではなく、もっと軽くさわやかな熱気であるのだ。さらさらと流れる熱湯の血潮が体を火照らせる。
明朝、清瑞は疲れを落としてすぐに錦江港へ向かわなければならない。宗像海人衆に重然が南下してくるという噂を流すためである。
「まさか・・・・・・」と思わせ、徐々に噂の信憑性が増すように工作し、それが事実だと一気に示して激しい揺さぶりをかけ、浮き足立った海人衆にもはやいかぬと危機させ錦江港に見切りをつけさせること。
それが清瑞に課せられた、重然を動かすよりもずっと難しい役目であった。
だからこそ九峪も、作戦の成否を清瑞次第と位置づけているのだ。清瑞には演技力がある。かつて美禰城の攻防戦で、捕らえた捕虜の前で逃げ腰で慌てる様を演じて見せたからこそ、美禰城を落とすことが出来た。その実績を買って今回ここ一番の大役に清瑞が抜擢されたのだ。
——絶対に成功させる!
高鳴る胸のうちを無理にでも鎮めて、そっと眠気に身が沈むのを、清瑞は息を潜めてまった。
がやがやと塩田一帯を怪しい雲行きが覆いつつあるのを、渡邊城でしばし過ごしている只深の肌は敏感に感じ取っていた。
商人は危険をかぎ分ける鋭い嗅覚をもっている。
慌しいのは湊で、どうしたものかと思った只深は伊部をつれて浜へと降りた。
普段の浜は漁師たちの生活の場である。民家はない。對馬海峡側はそれほどの高波が起きることのない海域だが、だからといってまったくの安全地帯でもない。ここには漁師小屋が点在するのみである。
その浜にもここしばらくは大量の軍船が停泊している。天草水軍の大艦隊である。決戦地が際川とあって歓待の出番はまったくなく、大方は有事に備えて塩田にとどめおかれていた。
いま、その船で留守番をしていた者たちが、慌しく船の帆を揚げているのが遠くからも見えた。
「なんや、出るんか?」
目を眇めて白波の向うを眺める。伊部はこういうとき高身長で有利だ。おまけに視力も人並み外れて優れている。船上で人が動いているのも辛うじて確認できた。
「あー・・・・・・碇をあげよったわ」
「ほな、やっぱし出航するんやなぁ」
ぼんやりと言う。二人は船がひときわ多く屯している場所へ移動した。
気性の激しい海人らしい怒号がそこかしこで飛んでも、航海になれた只深は怯みもしない。小さな体がゆらゆらと浜辺を歩いている。もちろん、海人たちの邪魔にならないようにと配慮している。
本格的な帆船は数が少ない。帆船は基本的に大型船として分類される。しかし羽江を初めとした海人系の技術開発者たちが、九峪の発想を実現しようと帆の稼動域や利便性を向上させる研究を続け、加奈港で造船された小型船にも帆が取り付けられるようになった。
『加奈船(かなせん)』という。まだまだ造船数は少ないが、小型ながら固定弩砲も搭載し、当代に『海の飛空挺』とまで呼ばれた画期的な戦闘艇である。
その加奈船も出航の準備を進めていることに、只深ならずとも何か事態に変化が訪れたのだと察することが出来る。
「嫌やなぁ、落ち着きあらへんわ」
戦いのにおいがして、只深は眉をひそめた。いくさには慣れても戦場慣れしているわけではない。わずかに体が強張った。
「ここが戦場になるんかいな。そんなん堪らんで、ほんまに」
「・・・・・・いんや、どうもそんな感じやあらへんわ。見てみぃや、只深。船の上に人間の姿が少ないやろ」
「お前と一緒にすな。うちには遠ぉてよう見えへんがな」
「そか。ならまぁ、少ないんや。兵士がおらへん。ちゅうことはやで」
無精ひげをなぞり、伊部が只深を見下ろした。
「たぶん、あれはこれからどこぞに向こぅてくっちゅうことやんな。こっから行くんやったら、火後あたりとちゃうんか」
「火後? なんでまた?」
只深は意味がわからずに首をかしげた。商売になればいざ知らず、戦術はまったくわからない。
それは伊部も同じで、
「そんなん知らんがな」
あっさりと答え、にやりと笑みを浮かべた。
「わからへんけど、何や予感はビシッバシしとるわ。この戦いもそろそろ終わりやな」
「・・・・・・そやったら、その予感があたることを願うとくわ」
出航して行く船を見送りながら、只深はほっとため息をこぼした。
早朝に清瑞は天都城を出発し、まっすぐ国分城を目指して走った。
途中、すでに戦闘が起きているとの噂を聞き、紅玉の現在地が桜島であると知ると、迷わず海岸へ向かった。
浜にいで漁師を探し船を出して欲しいと頼むが、生憎とすべての船を紅玉が持っていってしまい、さすがの清瑞も途方にくれてしまったが、
「いや、ならば泳いでいこう」
と覚悟をかため漁師らから遠泳用の道具をもらい自力で海を渡った。距離はそれこそ関門海峡とどっこいであるが、あそこは潮の緩急も天下一品の荒々しさで知られている。とくに壇ノ浦ではそのために平家は後れをとってしまったのだから、壇ノ浦以外の場所でもかなり流れの厳しい場所だった。それに比べれば桜島へ渡ることのなんと優しいことか。
黒と藍、濃紺で染められた乱波装束や武器を革袋にいれて丸太にくくりつけ、それを引っ張りながら清瑞は桜島へと渡った。健脚は丸太をすいすい引き、海人も顔負けの泳ぎっぷりであった。伊達に二傑から逃れたと豪語するだけのことはある。
桜島の岸辺に暗礁地帯がある。大きな岩石が無数に積み重なり、高波の攻撃にもびくともせず返って砕き散らしている。もしも波に体の自由を奪われて岩に叩きつけられては、万が一にも命はない。
しかし清瑞は、あえてそんな危険極まりない場所からの上陸を試みた。浜辺で海人衆に襲われるのを避ける狙いがあった。
慎重に体全体で波に逆らい、やっとの思いで岩を這い登ると、頭よりも高い波が襲ってきた。
「くッ——!」
必死になってしがみ付きやり過ごす。一瞬の油断が命取りとなる状況に、久々の戦慄を感じる。
「陸に上がれそうな場所は・・・・・・」
探してみるが周りにあるものといえば、まず岩、そして海。浜辺は岩礁地帯を回り込まねばならず、引き潮になれば干潟が出るもいまはその時間ではない。
つまり歩いて渡れる場所がなかった。
ふっと清瑞の首が上を向いた。岸壁がある。
「——のぼるか」
崖のぼりである。濡れた体では落下の恐れもあるが、清瑞の行動に迷いはなかった。荷物を背負って近い場所に爪先をかける。短い指の一本々々にまで意識を張りめぐり、指先から伝わる感触に己のずべてを託した。
風がすさまじく冷たい。息も白くなっている。もう春だというのに、濡れた身体は容赦なく体温を奪われていく。ここまで筏を引っ張って泳いできた疲労も影響していた。
だが半刻もしたころには崖の上に上半身が突き出ている。のぼりきった瞬間、清瑞はごろりと横になった。
「はあ・・・・・・」
下帯姿というあまりにも寒々しい姿で、失った体力を僅かなりとも取り戻そうと、大きく呼吸を繰り返した。身体からは湯気が立ち上っていた。乱波である清瑞は幼いころより、寒気の日でも十分に活動できるように発熱を促す呼吸法を会得している。
風の音がかすかに聞こえる。遠くから人の声も聞こえている。
丁度このころ、桜島では紅玉の指揮する部隊が桜島城を攻撃している真っ最中であった。清瑞の聞いている人の声とは、まさに戦いの音声であった。
身体が温まったと判断するや、背負っていた革の袋から乱波装束を取り出して着込み、濡れた髪を揺らして駆け出していた。
目指すは桜島城を攻めているだろう紅玉の居場所である。そのためには城へと向かわねばらない。
ちなみに蛇足ではあるが、桜島城にすいて触れておきたい。
桜島城とは、そのまま桜島を領知するための政庁である。一応は城郭都市であるが、その概容たるや質素なものである。まず城壁のかわりに樹の柵が張り巡らされている。桜島は早い段階で魔獣が死滅してしまったために、また戦略上それほど重要な土地でもなかったから、必要以上に立派な城郭が発展しなかったためである。
そのため、攻めにも守りにも適していない。紅玉の攻撃にいつまでも耐えられるものではない。
事実、大手門は破られ篭城していた宗像海人衆も逃げ惑う有様で、すでに戦いの形勢は決まっていた。
合戦の音が林のそこかしこで聞こえる中、清瑞がたどり着いたのは城の北側にある土塁の根元である。周囲には水の満ちた堀がめぐらされていたが、防御もへったくれもない現状、越えるのは容易であった。
「戦いは大手門辺りかな・・・・・・」
北側に兵の姿はない。主戦場はやはり正攻法の場面の大手門なのだろう。
なんにしても紅玉である。清瑞は土塁沿いに紅玉を探すことにした。それほど大きな城でもないし、逃げ惑い浮き足立っている海人に出くわしても負けない自信はあった。
城の周りは林で覆われているだけに視界不良だ。左手は城の土塁、右の水壕を越えたらすぐ林になっている。
——ぱちゃ
背後で水の跳ねる音がした。小さくない、かなり大きい。嫌な予感がして振り向くと。
「ッちぃ」
ずぶ濡れでたっている大柄な男が立っていた。右腕で斧を掴んでいる。肩から首筋にかけて刺青がみえて、清瑞の脳裏に宗像海人衆の特徴が思い起こされた。
男は水郷の中に隠れていたのだ。おそらく城から逃げ出したところ、近づいてくる清瑞に気づいて隠れていたに違いない。清瑞一人だと確信して姿を現せたのだ。
血走った目が満月のように見開かれた。と同時に、咆哮をあげて清瑞に襲い掛かってきた。
頭上めがけて振り落とされた一撃を危なげなく回避し、清瑞も刀を構えた。清瑞の武器は柄尻に鎖鎌がつなげられている特殊な武器だ。『乱波刀』の一種である。
男の攻撃ななかなか素早かった。だけでなく動きも機敏で、戦いなれた風情があった。横に薙ぎ払われた斧を刀の反りにまかせていなしたにも拘らず、清瑞は腕にひろがる衝撃に眉を歪めた。
「なんって、馬鹿力……!!」
思わず悪態をついてしまうほどだった。この男、海人衆の中でも剛勇の徒としてそれなりに名を馳せた男であった。いくさの経験にも恵まれ、仕える主を間違えなければ、今回の大いくさでも存分に活躍できたことだろう。
こんどは斧を小枝のように振り回して突進してきた。こんなもの真正面から受け止めたら一巻の終わりだ。軽快な身のこなしで避けて行くが、場所が狭すぎる。
「この、うぬ、ちょこまかとッ!」
命中しないあまり男は余計に大振りになって行く。連日の雨で足元もぬかるみ、避ける清瑞も一苦労だ。
ブオン ブオンと耳元で背筋も凍る音が鳴り響く。ついに脚が泥に捕まってしまい、清瑞の猿のような動きが一瞬だけ停止した。
そこを見逃すほど、この男、素人ではない。
「死にさらせィ!!」
——無理かッ!
足が動かない。咄嗟に刀で受けると、目の前で刀身が砕け散った。もともとそれほど強度も高くない数打ちの乱波刀だ、砕けるときはあっさりと砕ける。
しかも腕に強烈なまでの痺れがおきて、動かすこともままならなくなった。その間にも斧の分厚い刃が近づいてくる。
なんとか上半身だけは横へずらして、鎖で柄をおさえた。斧が僅かだけ右肩に食い込んで装束を裂き肉を切った。深くはないのだが血が噴出した。
安定しない足場でも逃げねばならない。地を蹴って男と距離を開けるが、まだ痺れもぬかるみも清瑞を捕らえて離さない。地面を転がって泥にまみれ、すかさず立ち上がろうとするもやはり男のほうが初動は早かった。
さすがは不安定な甲板で生きる海の男だ。ぬかるみも濡れた甲板に比べればどうともないようなしっかりとした足取りで、清瑞の上を取った。
——マズイッ!!
焦りに言葉もない。斧が振り下ろされた。倒れたまま、それでも残された鎌で弾く。斧の軌道はそれたが、反動で鎌も遠くへ飛んでしまった。
急いで腕に仕込んでいるクナイを抜いて男の太ももを指した。うめき声を上げる男の下から這い出て、武器になるものを探した。
どうしても鎌しかない。
「こ、のぉ・・・・・・」
「——ッ!?」
だが取りにいっている暇はなさそうだ。太ももに刃物が突き刺さっていながら、それでなお男は戦意を失っていなかった。いやそれどころか、興奮のあまりに痛みを感じていないのかもしれない。
完全に頭に血が上っている。
斧が横に薙いだ。腹の薄皮一枚で後ろへあとずさるも、すでに手立てがない。
これまでか・・・・・・! と諦めかけたとき、地をつく指先になにかがコツンと触れた。
中指に、四角い角材があたっている。どうやら地中に埋まっているらしい。城の建材だろうか。
なんでもいい。こんなものでどうにかなるとも思えないが、丸腰よりもずっとマシだ。角材を引っ張りぬくと、水分を吸った土は多少の抵抗をしただけで簡単に角材を開放した。
ずいぶんと軽い角材であった。それほど長くも大きくもない。
三度、恐怖が襲ってきた。もはや破れかぶれだと開き直り、声を上げて角材を斧にむけて叩き付けた。
力いっぱい振ったからか、斧が弾かれる。しかし角材もものの見事に粉砕した。
「な——に!?」
しかし、そこで信じられない出来事が起こった。その時ばかりは清瑞も大口を開けてしまった。
——砕けた角材の破片に隠れるように、一振りの刀が出てきたのだから。
バシャン
刀が地面に落ちた。泥水を跳ねた。清瑞は呆然とそれをみつめた。
なぜ刀が?
もっともな疑問だ。角材——だと思ったが、実際は箱である。つまり地面から刀が収められた木箱が出てきたのだ。
「女ぁ、小ざかしいことを!!」
怒気を孕んだ声にはっと我にかえる。疑問に思っている暇もこの男は与えてくれないようだ。
「もう、なんでもかまうものか!」
余計な考えは捨てた。刀が出た。それでいい。腕を伸ばして刀を掴んだ。
瞬間、まさしく吸い付くという表現が相応しいほどの握り心地がした。あたかも自らの腕そのものが刀になったような感覚さえした。
しかしその余韻も、迫り来る刃の前にはどうでもいい。
「えええいッ!」
刀を振り上げた。火花が散り——男の斧が弾かれた。
清瑞には軽い衝撃したなかった。だが清瑞は夢中だった。態勢を崩したいまこそ好機だと捉え、すぐに前のめりに駆け出し。
男の右腕を切り落とした。驚くほどに手応えがなかった。まだ大根を切ったほうが手応えもあるだろう。豆腐のように男の肉や骨が断ち切られた。
そして、懐に飛び込んで、腹から背中にかけて突き刺した。これも抵抗はない。やはり豆腐に針を通すようなものだった。
普通ではありえない感触。抜けるときもあっさりとしていて、逆にそこ言えぬ不気味さがあった。男の身体が音を当てて崩れても、清瑞は呆然と立ち尽くしていた。
いまさら、気味が悪くなってきた。
「な、なんだ・・・・・・この刀は?」
血塗れた刀の輝きは、しかしあまりにも眩い。暗い翳はどこにもなかった。むしろ美しい刀だった。
地面から出てきたことといい、なにか普通じゃないと清瑞は思う。振るっているときには何も感じなかったくせに、静かになった途端、清瑞は自分を取り戻したようだ。
刃渡りも短い、普通の刀だ。いや一般的な刀よりもやや短いくらいだ。だがよく見ると、結構な装飾がされている。
しげしげと観察していると、刀身に銘文が彫られているのに気づいた。
「・・・・・・錦吾刀?」
銘を錦吾刀(きんごとう)というらしい。
「はて? どこかで聞き覚えがあるような・・・・・・」
記憶のどこかしらに引っかかる呼び名だ。思い出せないが・・・・・・聞き覚えがあるような気がする。
しばらく銘文を目で追っていた清瑞だったが、いつまでもこんなところにいたって仕方がない。気味悪い刀だが、不思議な力も感じる。それにと男を見下ろした。すでに息絶えている。
あの感触は凄まじかった、切った実感がなかった。いまでも、本当に自分がやったのかと不思議に思うほどの切れ味だったのだ。
相当な業物に違いない。捨てるのも勿体無いし何より清瑞は武器を失ってしまったのだ。
「これも何かの縁だな」
この刀のおかげで助かりもしたのだ。考えるのは後にして、いまは九峪より与えられた使命を全うすることのほうが先決だ。
痛む肩の傷口に血止めを塗りつけ、清瑞の脚は大手門へと向かっていった。
一方その頃、件の紅玉は桜島城内へ侵入していた。住民への危害を加えないようにと諸兵士には厳しく言い渡しているし、あとは部下たちに任せていればいい。
お手並み鮮やかな戦いであった。もとより頑強な抵抗を受けたわけでもない。
紅玉は鎧を好まない。いや多少の防具は身につけもするが、いわゆる甲冑が拳闘士である自分との相性に馴染まないからだ。せいぜい篭手と胸当てくらいで、あとは大陸のチャイナドレスを優雅に纏っている。
悠然とした歩みに焦燥などどこにもない。清らかに戦いは進んでいる。漁師の使う小船で奇襲したことが大きな勝因である。戦力の上でも優位であるのに、それが何の前触れもなく出現し席巻したのだ。完全に紅玉の読み勝ちであった。
宗像海人衆の船も手に入れた。紅玉に航海術の心得はないが、あとは対岸へと移るばかりだ。なにも問題はないだろう。
騒然とする城内の大通り沿いには民家が立ち並んでいる。住民はすべて恐れをなして家屋に引篭もっている。だから海人衆の掃討作戦もやりやすかった。紅玉は後から、各軒に誰ぞ隠れていないかと検分する指揮に追われていた。
そのときであった。手門をくぐった清瑞は一軒の魚屋のまえで人調べをしている紅玉を発見した。
「紅玉様」
声をかけると紅玉が振り向いた。最初こそ驚いた風だったが、すぐに微笑みを浮かべた。
「よく参りました。しばしお待ちなさい」
手下のものに後の役目を任せ、紅玉は道脇の杉の木下まで清瑞を誘った。
「無事そうですね。それにしてもどうやってこちらへ? 船は全て駆り出したのに」
「あ、それは泳いで・・・・・・」
「まぁ」と、紅玉がおかしそうにころころと笑った。みると清瑞はかなり汚れていて、肩には傷もあった。
「あら、その傷は・・・・・・」
「実はここに来る途中に、宗像海人と遭遇してしまいまして」
さきほどまでの死闘をざっと話したところ、おもしろそうに紅玉は清瑞が見つけたという刀に注目した。大陸で修行した紅玉の武道への入れ込みは深く、拳闘術だけでなく刀術から槍術に棒術、特殊な武器に至るまで一通り扱うことが出来る。無論のこと武器は物であり、優良品もあれば不良品もある。
鑑定士とまでは行かずとも、それなりに鑑定眼は自然と備わってきた。香蘭が一角の実力を持つようになってからは、とくに武具には気を配ってきた。哀しいかな武闘家としての才能ならば紅玉すらも超えるはずなのに、他の部分ではまるで人並みかそれ以下の娘なのだ。
「恐ろしい切れ味です。触れただけで肉は裂け、圧せば骨も難なく断ててしまうほどで・・・・・・」
思い出しても身震いする。清瑞から受け取った紅玉もその異常な感触に肝を冷やした。清瑞が感じたものと同じ、刀が自分の一部になるような、逆に自分が刀に取り込まれたような、言葉にしがたい一体感がこの刀を常ならずるものとしている。
ただ、清美が言うほどの嫌悪は紅玉にはなかった。むしろ心地よくさえある。握り心地も、重さも、実の輝きまで一等である。
「これは相当な業物ですわね・・・・・・。私も数多くの武具を見てきましたけど、このように不思議な輝きを持つ刀と出会うのは初めてです」
しかし、それにしてはと思う。武具に精通している紅玉だからこそ気づいた。
——ずいぶんと古い刀ですわ。
まず刀身が短い。この時代の刀は、平均して日本刀と大差ない長さであるが、これはどうみても脇差程度だ。では短刀の部類にはいるのかというと、造りは立派に主力武器として作られている。さらに反りも小さい。直刀である。
漢刀とも違うのは柄の形である。紅玉の故郷である大陸で作られる刀の柄は中央が膨らんでいる。片手であ使うため、より包み込むように握るための工夫だが、これは真っ直ぐだ。真っ直ぐな刀は倭製の特徴でもある。
そして何より珍しいのが、鍔付きという一面にあった。これほど短い刀、普通ならば鍔などつけない。なのに上に向かって燃え盛る炎を思わせる形に、正面にも波模様が描かれている。
あきらかに今の時代に鍛えられたものではない。そんな遺物が錆びもせずに震え上がるほどの切れ味を保っているというのだ。
やはり普通の刀ではない。なにかしら因果を感じる。
刀を清瑞へ返し、ふっとかすかに微笑んだ。このように素晴らしい刀に出会えることは、一生にあるかないかだ。
「不思議な刀です・・・・・・。ですが大事になさってくださいね。名前に『錦』の文字が入っている武器ですもの。きっと武運長句の験がありますわ。案外その刀は清瑞さんと出会うため、今世に再び現れたのかもしれません」
「たしかに普通ではないでしょうが・・・・・・」
紅玉ほどすなおに喜べない。武人としての歓喜よりも空恐ろしさのほうが際立っている。これだけ摩訶不思議な物体、妖刀と呼んでさえいいほどだ。
しかし紅玉は嫣然と微笑んで刀を褒める。武器もないことだし、清瑞ももうしばらくはこの錦吾刀を相棒にしようと腹をくくった。
ちなみに、この刀が一体なんなのか、それを清瑞が知るのはもう少し後のことである。
紅玉と清瑞は湊へと移動した。それほど距離はない。港に行けば軍船があり、そこで清瑞は肩の傷の治療を受けた。
「それで、なんの御用なのかしら?」
民家の検分も時間のかかる作業ではない。しかし紅玉とて暇ではないのだ。
洗った傷口が染みて清瑞の綺麗な眉が歪んだ。傷口を縫合している最中、九峪から与えられた任務を紅玉に話す。
「それで、海人を何人か生け捕りにしたいのです」
「なるほど・・・・・・承知しましたわ。そういうことでしたら、今のうちに捕らえてしまいましょう」
「助かります。捕らえる人数は少なくてかまいませんので」
頭を下げて紅玉を見送る。紅玉に任せておけば大丈夫だろう。そう思った瞬間、体中を張っていた緊張感がわずかに緩んだ。
瞼がさがるのを止められない。
「麻酔が効いてきましたかな」
縫合するために塗られた麻酔が来ているのだと治療に当たっている兵士が答えた。
「脚も疲れておるようですし、身体の泥を洗い流して、しばしお休みになられては?」
「ああ、そうだな・・・・・・そうするか」
兵士の勧めにしたがって、別室で身体を清め、下帯姿で横になる。そのまますぐに寝息が聞こえ、風邪をひかないようにと兵士は布をかけてやると、道具の片付けに取り掛かった。
清瑞が眠っていたのはほんの一刻ほどであった。目覚めも早く起き上がり、装束に着替える。兵士の姿はもうない。
錦吾刀に目を向けると、微かに困った顔をした。
「抜き身のままで持ち歩くのも不便だな・・・・・・どうしよう」
錦吾刀には鞘がなかった。触れただけで切れてしまうような刀だ、鞘に収めていないとおちおち持ち運ぶことも出来ない。
しかしもちろん、刀の鞘はそれぞれことなる。数打ちですら鞘は一本々々を特注で鋳造しなければならないのだから、錦吾刀にあう鞘などこの世には存在しない。
いっそ他の刀を使おうかとも思ったが、先ほどの紅玉の言葉がよみがえる。ここで手放したら祟られそうな気がする。
だがそういう場合に用いる道具がある。主に山人が扱うのだが、なめした革の袋にいれるのだ。刀剣用の細長い袋で、柄元を結んで持ち歩く。これはのち武士の美しさが求められる室町中期になるとほぼ完全に消滅してしまうが、それまでの長きに渡って用いられた無粋ながらも便利な道具である。
撥水性にも優れていることから海人もしばしばこれを利用している。ここは丁度船の中だ。探せばあるかもしれない。
案の定、武器庫らしき場所でそれをみつけ、さっそく錦吾刀を収める。革すらも切り裂いてしまうのでは・・・・・・と案じもしたが、嘘のように切れない。清瑞はかえって驚いてしまった。
「肉と骨しか切れないとでもいうのか・・・・・・? ますます妖しい刀だな」
ぶつぶつ呟きつつ甲板にでる。陸地がまだ騒がしい。海人衆狩りがまだ続いているのだ。
「九峪様もさすがに石川島へ到着されているよな」
順調ならばそうなっているだろう。じつはこのとき、すでに石川島にすらおらず、九峪軍は都井岬へ駒を進めている。
空には雲が漂っている。海は穏やかだ。
この穏やかさが、時期に血潮で荒ぶるのだ。そう思うと清瑞の背中は冷え切っていく。不快感はしないが、快感でもない。いつもそうなのだ。
九峪はこのような震えや寒気を『武者震い』と呼んでいた。まだこの時代には存在しない言葉だ。
「九峪様、私はやってみせます。かならず宗像海人衆を錦江港から追い出してみせます」
空の白と青に誓う。しかし指先は唇に触れていた。