脊振山に衣緒を、三郡山に音羽を配し、それぞれが砦を築き、藤那も座間の道を完全封鎖する形で陣を構え、簡素ながら砦関も建設した。兵数の配布は衣緒隊一千二百、音羽隊一千五百、亜衣が腰を構えている砦関の兵数も三千五百余り、そして背後では藤那率いる五千余りの本隊が、乃小野勢の来るときを牙を研いで待っている。
那津城で乃小野が編成した戦力は八千余りである。七月九日、那津城進発。一路座間の道を行き、翌八日に部隊を二つ割いて、一方の二千を三郡山へ、一方の二千を脊振山へと向け、本隊は四千をもってさらに街道を進んだ。着陣後、乃小野勢は方陣を組んだ。
関と乃小野本隊にかかる距離差はせいぜい五里ばかりなもので、すぐにでも軍を動かせば一触即発の流れとなることを亜衣は懸念していた。初動が肝要であと考えていた。まず、関を築いたのは守勢のためである。流れは敵にある。迂闊に動くわけにはいかない。
二山の衣緒、音羽がどう采配するかが問題だが、どちらにも守勢に努めるよう指示を出している。亜衣たちには、いざという事態に陥ろうとも、背後に藤那と写楽の兵五千が保険としてある。亜衣は長期戦を想定している。手柄は枯れ喉に水ほど欲しいところだが、第一の目的を蔑ろにする策を選んでは、それこそ九峪に顔向けできるものではない。
何をおいても敵を退けること。座間の道を抜けられては、ついぞ耶牟原城が戦火に燃えてしまうのだ。乃小野は優秀だ。わき目も振らずに真っ直ぐと耶牟原城目掛けて戦ってきたようなものだ。那の津を押さえ、那津城を攻略し、破駄瘰砦での攻防を経て耶牟原城へと軍を向けるよう戦略を立ててきた。
いや、あるいは彼女の上役である真那満が、そのように指示したのかもしれない。実直な性分だという乃小野は、ただ真那満の言うとおりの戦略を、着実に遂行してきているようにも思える。ただ言われたことをやる、といえば簡単に聴こえるが、それをやってのける者は極めて優秀である証だ。
どちらであっても、乃小野が強いという事実に代わるものではない。
その武勇知略に優れた乃小野がどう動くか、亜衣はずっと待ち受けるつもりであった。
しかし、五日、八日と過ぎても乃小野軍は方陣を組んだまま、微動だにしようとはしなかった。それどころか後方から荷駄を運んできたかと思うと、おもむろに砦を築き始めたときには、さしもの亜衣も首を捻らざるを得なかった。
——どういうことだ?
対陣中、平野である。遮るもののない場所での突然の普請は、明らかに乃小野も長期戦を睨んでいる証拠となっている。
ためしに一百でもって小突いてみると、これがまったく寄せ付けようとしない。けんもほろろに追い返されただけで、しかしそこから薄気味の悪いものを亜衣は感じた。
「迂闊に突っ込んだら、手痛い反撃を受けそうだな」
と、瞬時に考えを改める。敵が方陣を組んだころから考慮にはいれてきたものの、やはり面倒なことである。これで双方、ますます身動きがとれそうにない。
さてどうしたものかと、亜衣が悩んで七月が終わろうかという頃、後方の藤那から一騎の藤具兵が使者として関を訪ねてきた。藤具兵は一巻の書状を亜衣に届けに来たのだ。
それは、耶牟原城宮殿で起きた異変を伝えるものであった。
夢を見ていた記憶だけは残った。内容は、よく覚えていない。ただどのような夢を見たかの見当は大体ついていた。あの、不可思議な夢だ。
九峪の視界にいっぱい映る天井は真新しい。センかハンかは知らないが、軽い木を材料に選んだのだという天井だ。大工は、万一天井が崩れてきたとき、ナラやタモなど重い樹木を用いるよりも命の助かる可能性があるのだという。
そんなことをぼんやりと思い出したのは、気持ち悪い倦怠感が、全身の毛穴から体内に侵入してくるからかもしれない。どうでもいいことを思い出すときがある。
——そうか。
すぐに、自分がどうしたのか、思い出した。倒れたのだ。いつもの発作を起こし、昏倒したのだろう。心臓が跳ね上がる鼓動の苦しみを覚えていた。文字通り胸が痛んだ。
窓の隙間が光っている。まだ日は高いようだ。雀の鳴声が聴こえてくる。それにあわせて、耳元で猫の鳴声が聴こえた。
首を横へ向ける。右の枕元には、阿蘇で一時をともに過ごした老いた山猫が、大きな瞳で九峪を見つめていた。
「おまえ・・・・・・」
どうしてここに? と、山猫へ問いかける。一年ばかりをともに過ごし、分かれてまだ一年しか経っていないが、この一年の間に様々なことがあったためにもう何年か振りの再会のような気がする。
山猫はしばらく九峪をじっと見つめ、それから毛繕いをはじめた。後ろ足をピンと伸ばし、舌を伸ばす様子にも、猫特有の不思議な気高さが感じられる。
なぜ阿蘇の山猫が耶牟原城にいるのかはわからない。そういえば九峪と女中の過ごした家屋は、蔚海の手のものによって脆くも焼け落ちてしまったのだ。九峪同様、山猫も焼け出されてしまったのだろうか。
九峪が、昌香の家来らとともに阿蘇を降りるだけで、それはそれは苦労したものだった。獣猫といえど、その阿蘇から耶牟原城へといたる道のりがどのようなものだったことか、到底九峪にわかるものではなかった。なぜという疑問もあるが、身に纏わりつく倦怠感が、深いことを九峪に考えさせなかった。
——星華は大丈夫かな。
ぼんやりと思う。火魅子が倒れたと聞いて、それから九峪も倒れた。結局、火魅子がどうなったのか、九峪は知らないままだ。
身体を起き上がらせようと、腕に力をこめる。筋肉の伸縮も鈍い。脳を揺さぶるような眩暈がした。それでも腰を曲げて上体を起こした。重い息が漏れる。
部屋の薄暗さも、身体を重くしている要因かもしれない。窓を開けようかと思い立ったが、立ち上がる気力までは湧いてこなかった。深酒したあとの夜明けのようだと思った。
九峪はぼんやりする頭で、夢のことを思った。阿蘇を降ってからはまず見ることのなかったあの夢は、いったい何なのだろうか。
初めの頃に見始めた夢は、あたかも蔚海の台頭と反乱の勃発、そして刺客の襲撃を知らせるかのように現れた。予知夢というものの存在は知っている。星華や亜衣がとくに見るものであるらしい。原理はわからない。本人たちもなぜ予知夢を見るのかというと、『それが巫女の能力の一つであるから』としか言わない。実際にそうなのであろう。
だが、九峪が巫女の力を持っているわけでないことも明白で、結局よくわからない。ただし、九峪には以前から不可思議な出来事を多々おこすことはあった。
記憶にない出来事で言えば、鬼怒ヶ岳の魔人を燃やし尽くしたという出来事、あるいは兎華乃の言う『自分を変身させた異能』であったり、九峪自身が体験したものを上げると、左道や方術の類に傷つけられなかったり、毒薬の類にも脅かされないことなど、実は九峪の身体に隠された不可思議な事柄は多いのだ。
だからといって、それが予知夢の発現に繋がるかというと、決してそうでもあるまい。しかし九峪には、すでに、これらの夢がただならぬものだとした自覚が芽生えていた。わからないことは、わからないなりに受け入れるしかないのだというある種の諦観と開き直りが、九峪の中で予知夢の形を定着させようとしている。
ならば、だ。
この夢は、いったいに何を語りかけるものであるのか、九峪は真剣に考えなくてはならない。蔚海の襲撃も反乱も、結果だけを見たならやり過ごすことは出来た。次はどうだ?
考えてみると、薄ら寒いものを背筋に感る。何かしらの脅威を肌に感じながら、その正体、実態はまったくの闇の中で蠢いている。天目や彩花紫と対峙したときとは違う、異質な感覚が支配的に忍び寄ろうとしているかのようだ。
「いまは、やれるだけのことをやるしかないか」
それしかないのだろう。そしていま九峪に出来ることといえば、この静かな部屋で、床に伏せることしかないのかもしれない。
山猫が、枕元で身体を丸めて、瞼を閉じる。いつしか九峪もうとうとまどろみ、しばしの眠りに落ちるのであった。
乃小野勢が長期戦に受けて立つ姿勢を見せたのを良いことに、飛空挺で空を駆って亜衣は後方の本隊へと出向した。指揮の代行を任された遠州が関砦の守りについている。
写楽の宿営に着地し、すぐさま亜衣は馬に飛び乗って藤那の構える本営へと駆け込んだ。その後ろを随行してきていた巫女たちが、同じように従う。彼女たちはみな困惑の表情で、亜衣とともに天幕に覆われた宿営に足を踏み入れる。
本営では丁度、藤那と写楽が地図に目を落として、何かしらを話し合っているところであった。
突然の亜衣の訪問に、写楽は驚きの表情で出迎えたが、最奥に陣取る藤那の表情は平然としている。ただし、亜衣には藤那の顔面の筋肉が強張っているのがよく見て取れた。
「思ったよりも早かったな」
入り口に突っ立っている亜衣に向けて、笑いもせずに藤那が言う。ここへ来るのが、という意味であろう。亜衣は将兵に動揺を与えないようにと、務めて表情を引き締めているが、事情を知っている藤那には内心の焦りが手に取るように感じられた。
「写楽よ。急用が入った。席を外してくれ。・・・・・・いや、私たちが場所を移そう。話し合いはここまでだ。亜衣、ついて来い。積もる話もあろうからな」
それだけを簡潔に言い放つと、さっさと席を立って藤那は亜衣の横を通り過ぎていく。亜衣は、言葉なく藤那の後ろについていった。一人残された写楽だけが、何事かもわからないまま、天幕のなかで二人が去っていった跡を見つめていた。
幕舎を出た藤那は、自身が寝起きしている陣屋へと亜衣を誘うと、互い向かいに腰を下ろした。
藤那は、法衣の下に鎧のようなものを装着しているようだが、所作は軽やかだ。近くのものに酒を運ばせると、徹底して人払いを命じた。亜衣の杯に酒を注いでやり、自身の愛用している杯も満たす。干す。亜衣は、まず一口だけ口をつけ、気を落ち着かせる。
二杯目を注いでいるとき、亜衣は懐から取り出した書簡を、藤那の前に差し出した。一瞥した藤那は、無言でまた酒を干した。
「読ませていただきました」
「ああ」
「単刀直入にお聞きいたします。・・・・・・真のことなのでしょうか」
「わからんな」
「どこでこのお噂をお聞きになられましたか」
「耶牟原城からの使者だ。蘇羽哉の命令で、もともとはお前宛のものであったらしい。だからお前にも伝えた」
藤那の説明によると、使者はまず、後方の本陣に駆け込んできたという。しかしそこには、総大将の藤那はいても亜衣はいなかった。藤那に詰問された使者は、蘇羽哉より預かってきた書状を藤那に献じた。その書状には、火魅子と九峪が倒れたという趣の内容が書かれていた。
藤那はこの内容を他言せず、真っ先に亜衣へと知らせてきたのだ。真実ならば看過できない一大事だ。遠州や写楽などとも話し合わなくては鳴らないかもしれないが、もともと亜衣の耳に入る事柄でもったことだし、何をおいても亜衣には知らせておくべきだという、藤那の迅速な判断だ。
幸いしたと亜衣は思った。乃小野が砦を築いて長期戦の準備に取り掛かっていなければ、亜衣もこうして本営にに足を運ぶことなど適わなかったかもしれない。
「九峪様と火魅子が同時に倒れるなど、そうそうあってたまることでもない。最悪の事態が起きた可能性もある」
暗に『何者かに害された』可能性を藤那は口にする。亜衣もそれは道すがら考えていた。しかし、その趣旨を文面はなにも語っていない。蘇羽哉が秘匿しているだけかもしれないが、不自然の三文字はこの一事に極まるといっていい。
「ですが、九峪様や火魅子様の身辺には、必ずホタルの者が警護を務めています」
「わかるものか。やつらとて人間だ。仕損じることだってあるはずだ。蔚海を殺そうとして失敗したこともあるのだろう?」
亜衣は、喉を詰まらせた。ホタルによる蔚海暗殺を企画したのは亜衣である。それにホタルそのものにも、狗根国の乱波が紛れ込んでいた過去がある。ホタルが決して絶対的な隠密組織ではないことを、亜衣は身近で見て感じて自覚していた。
「ともあれ、事情があまりに不透明すぎるな。こんな書簡ごときで知れることなど、たかがと言うものだ」
「ええ、まったくその通りだというほかありません。おそらく蘇羽哉も、情報の漏えいを恐れて深く書かなかったのでありましょう。事の真相を探るのには、耶牟原城へと向かわなくてはなりませんね」
「だが、私は総大将だ、動くわけには行くまい。お前はどうする? もともとこのいくさに関係している身でもないはずだ。戻るというならば、そうしてくれて構わんぞ」
むしろ、戻れといわんばかりの言い分である。突き放すような言葉を吐き出した藤那の喉を、酒がひやりと潤す。
どうしたものか——亜衣は考えるが、亜衣自身も、この戦場を一人離れることに抵抗を感じている。九峪の意向に反する形で無理を言って出張ってきたのだ。結果を出さずに引き下がるわけにはいかない。
しかし、九峪と火魅子が倒れたと聞いて、平然としていることも無理な話だ。どちらも亜衣にとって、自らの命以上に大事な存在なのだ。すぐにでも駆けつけ、不調を訴えているなら、手ずから看病してやりたいし、もし本当に何者かが害したというのなら、全力を挙げた報復だって誓っていてもおかしくはない。
じわりと、手の平が汗で湿っている。亜衣は手の平を見つめた。思った。このような時、九峪様ならばどうするだろうか——と。九峪ならば、一両日で解決してしまうような気がした。
自分は追い詰められている。公的な立場、私的な気持ちによって。
気持ちの荒れ狂うのを抑え付けるように、藤那に供された酒を呑んでみるが、どうにも味がしない。亜衣の脳は忙しなく、自分がとるべき道を模索している。
藤那は、だまって亜衣を見つめていたが、視線を窓の向こうへと向けた。辛うじて曇り空であったが、いつしか小雨が降っている。
「蔚海と戦ったときも、雨が降っていたな」
「はっ——?」
亜衣は、顔を上げた。
「天都では雨が降っていた。際川では、振っていなかったか」
「降っておりましたが・・・・・・」
「私は雨の下で、悔しい思いをしたものだ。この手で天都を落とすことが出来なかった。結局、耶牟原城の開放に連鎖するかたちで、天都も城門を開いた」
「香蘭様からお伺いしておりました。香蘭様も、悔しがっておられました」
「堅い城であったが、落とせないものでもなかったはずだと、今でも思っている。私たちは刻をかけすぎたのだ。九峪様のいくさを忘れていた」
「九峪様の、ですか」
藤那の言わんとしているところが、亜衣にはいまいち読み取れない。
藤那は、自分の戦い方に何がかけていたのか、それを語っているようだ。藤那は、「速さが足りなかった」と言った。
「九峪様は、何をするにしても、とにかく初動が速かったような気がする。挙兵したとき、美禰城を襲ったとき、川辺城を包囲したとき、大隈の海での海戦もそうだったと思う。孫子にもあったな、速さを尊ぶべき文句が」
「兵は拙速を尊ぶ、ですね。あるいは神速を尊ぶとも」
「何をするにしても、速さは必須の条件なのかもしれんな」
「速さ——」
「短期決戦に踏み込むべきではないか」
藤那は言い切った。亜衣の瞳にじっと射抜かれながら、こちらもじっと見つめ返す。視線が、交差する。
「敵が決戦を望むなら、こちらは持久の構えをしてみせ、逆に敵が長期戦の準備に入ったなら、こちらから決戦を仕掛けてみる。それがひいては、相手の意表をつくことになるはずだ。いつまで続くかもわからん長期戦などやっていられるか」
「それは・・・・・・」
亜衣は口ごもる。しかし、すぐに首を縦に揺らしていた。たしかにその通りだと思った。『兵は拙速を聞くも、いまだ功の久しきを賭ざるなり』という孫子の一文が、亜衣の脳裏に現れた。
乃小野は、こちらが持久戦にはいると見込んで、自らも持久戦を選択したのだ。つまり、決戦に対する対抗手段としての選択ではなかったはずだ。そこへの決戦的攻撃は、ともすれば相手の意表を十分につくことになるかもしれない。
亜衣の中で理解が組み合わさる。決戦という言葉と意識が浮かび上がると、思考はそれに乗った戦術の道筋を描いていった。短期間で効果を上げられるかはわからない。だが、現状を突破する策の一端が垣間見えた。
外から崩すのは難しい。引きずり出すのも無理だとすると、方法はただ一つ。内側から崩していくしかない。
「どうする」
と、藤那に尋ねられたとき、亜衣の中で策は形となっていた。
「敵を内部から崩してしまいましょう。多少時間は掛かりますが、このまま長期戦に突入するよりははやく勝敗が決します」
そして、亜衣は作戦を語った。
「敵兵に毒を盛ります」
「毒だと?」
「はい。脊振山と三郡山へ送る兵糧に毒を盛り、それを敵に奪わせるのです。野菜でも、米でも、なんでも構いません」
「そして奪った兵糧で腹ごしらえした敵兵は、苦痛にのた打ち回るわけか・・・・・・」
「毒を盛られた兵は、疫病に掛かったようなものとなり、当然使いものになどなるはずもありません。そこへ一斉に攻撃をしかけると、こちらの損害などそれほどのこともないはずです」
「なるほどな。たしかに一理ある」
と、作戦の有効性を認めつつ、藤那は気になる部分を上げていく。
「だが、そもそもとして、はたして敵は輜重を襲うか? 襲わなければ食料を無駄にするだけだぞ。毒が入っていては馬の飼にも使えん。第一、蔚海との騒乱以来、どうしても食料は不足しがちだ。我々にとっても損だ」
米も野菜も、九洲中で不足している状況が続いている。田畑は崩れたままのところも多く残り、生産力は低下したままだ。
藤那の陣もそうだが、亜衣の関砦でも兵糧の管理に余念がない。はじめに長期戦を選択したのも、あくまで現在用意されている食料の備蓄と相談して決定したことなので、そこから食用目的以外で大量に使用してしまうと、当然のことながら食糧難に陥ってしまう。敵が本当に輜重を奪えば良い。しかし、もし万一にも不発に終わるようでは、藤那としてもとてでないが採用しかねる。
必ず敵が強奪していくという確証を亜衣は示さねばならないのだ。「ならば」と、亜衣は言い募る。
「まず情報を乃小野の耳に入れましょう。いまは盛夏です。衣緒と音羽の砦で兵糧の半分が腐ってしまい、急遽我らの下へ食料の要請をしてきました。敵も蔚海の乱以降、食料的な国力が低下している情報は、当然のごとく得ているはずです。我らが補給のためにやりくりして準備した物資であるという情報は、確実に乃小野を思案させます。苦しいときにこそ身を切れば、それだけこちらの真剣さが相手にも伝わるものです」
「衣緒と音羽にとっては、垂涎の餌であるという容に装うわけか」
「はい。もしもその輜重を強奪できれば、これは食糧難に喘ぐ衣緒、音羽の部隊に大きな揺さ振りをかけることとなります。食べるものがないという心理的な困窮は士気を著しく低下させ、また私たちの関砦の将兵をも動揺させるでしょう。輜重は、我らの部隊が身を削る思いで用意したものなのですから」
「乃小野がその効果をお前のように判断するならば、な。だとしてだ。いつ襲わせるかが問題となろう。まさか敵が喰らいついてくるまで、延々と兵糧を送るわけにもいかん、こちらの食料が空になってしまう。だからといって、偽装のための空の荷駄隊を襲われては、それこそ目論見が崩れてしまう。そこはどう思案する」
「そこも偽の情報を掴ませましょう。二山の砦兵には決戦の動きを見せます。兵士らの士気が衰える前に食料を一括で送り、一斉に攻勢へと転じるよう言えば、敵は機先を狙って輜重部隊を襲撃します。食料さえ奪えば、こちらは死に体となるのです。そこで乃小野は、逆に決戦を挑んでくるでしょう」
「ふん、なるほど」
藤那は鼻を鳴らして、筋の通った亜衣の作戦の有効性を認めた。たしかにそこまでお膳立てされれば、自分ならば襲う気にもなると思ったのだ。
だが、最後に一つだけ、どうしても忘れてはならない一点があることを、藤那は総大将として言わねばならない。
「そこまではわかった。納得もした。だが、最後に一つだけ気がかりがある。敵が奪った食料を、必ず食すかということだ。火をかける可能性もある。目に見える分、これも心理的な圧迫となる」
ある意味で、これが最大の問題ともいえた。体よく敵が襲ってきても、次々に火炎にさらされ灰に還されても、やはり亜衣の作戦は破綻するしかない。
ここでも、必ず毒入りの兵糧が敵の腹に入るという確証が、何としても欲しいところだ。今はまだ賭けに出る場面ではない。九峪と火魅子が倒れたことは気がかりだが、このいくさは確実に勝利したい。藤那が決戦に踏み切る決意を固めたのも、なにも九峪たちの心配からくるばかりではなく、総大将としての責任から短期決戦を選んだまでのことなのだ。勝たねば意味がない。
藤那の問いに、亜衣は顔を上げて答える。
「乃小野は間違いなく優秀な指揮官です。ならば、かならず兵糧を奪いに来ますし、それを持ち帰ります。向こうも長期戦に入ったのです。当然、兵士を長く養うために、長い間隔で食料を確保しなくてはなりません。そのような時、良き将は出来るかぎり敵地から兵糧を調達するものです。つまり、相手の生命線である輜重部隊を襲い、強奪することこそが、自分たちの食糧問題を解決し、なおかつ敵の士気を挫く最大にして最良の方法だからです」
「智将は務めて敵に食む、か・・・・・・」
「食料だけでなく、馬の餌となる干藁や、矢玉、燃料も積んでやりましょう。そのほうがより、決戦への前準備のように装えます」
亜衣の自信に満ちた言葉に、現実味の増した作戦のような気がして、藤那はこのいくさを終わらせるために、亜衣の策を実行することと決めた。亜衣は、この作戦を十日以内に発動するとしている。十日以内に決着をつけて、取って返して耶牟原城へ戻りたいのであろう。
やると決めてからの藤那も腰の立つのが速い人間だが、決まった瞬間からの亜衣の思考もまた、ずいぶん早い。少し前に、衣緒から様子を見に行くよう命じられて亜衣の下を尋ねてきていた巫女がいるのを思い出し、彼女に飛空挺を使わせた伝令の役目を負わせることにしたのだ。地上からでは、敵に捕らえられて情報が流れる恐れがある。それに飛空挺が陣間を行き来している様子を敵が確認すれば、ますます信憑性が増すというものだ。
すぐにでも軍議を開くと藤那は宣言した。明日とは言わない、今夜にでも遠州を呼び寄せ、今回の亜衣が発案した策を伝える。そこでより策を確実なものとして煮詰めることが、最後の詰めを甘くしないためにも肝要となる。
亜衣は座間の道周辺を描き出した精巧な地図を広げると、食い入るように見下ろしている。おそらく、亜衣の頭の中で、今回の戦いの様子が現実と寸分違わぬ光景となって広がっているのであろう。
そんな亜衣を憮然として見つめながら、酒の満ちた杯を仰ぐ。ともすれば、宰相として国政を取り仕切っているとき以上に、今の亜衣は輝いているように見える。そこまで戦場が恋しかったのかという冗談めかした気持ちと、戦場における亜衣の有能さを思い知らされたようで、なんとも面白くない。
大和の戦いで亜衣に命を救われてからというもの、何かにつけて亜衣と競り合ってきた藤那であったが、どうにも蔚海の反乱で亜衣が華々しい戦果を上げた一方で、個人的に芳しくない結果に終わったと感じている天都攻めの不甲斐なさのために、互いの器量に差が広がっている気がしてならないのだ。
昔から政治面での活躍が目覚しい亜衣だが、いくさの腕も大したものである。藤那や伊万里たちと同様に、一軍団を率いて方面司令官となれるだけの武略だってある。藤那の復帰がもう少し遅ければ、九峪だって亜衣を北九洲戦線の総司令官に任命していたかもしれないと、藤那はいまさらながらに考えていた。
遠州が総大将に任官されたとき、不謹慎にも藤那は安堵したものだ。それから自分が壱岐を攻略して遠州と総大将の座を交代してからは、自尊心を大いに盛り上げていた。
そこへ亜衣がしゃしゃり出てきたとなれば、それはもう不愉快なものだった。九峪様は私を信頼していないのか——とまで思ってしまったほどだ。だが、閑谷という頭脳を失っている今の藤那にとって、知略に長じた亜衣の存在が大きな助けとなっていることも、藤那自信、嫌になるほどわかっている。
ただ、亜衣の助けだけは、もう借りたくなどなかった。大和で大失態を演じたとき亜衣に助けられた屈辱を、藤那は忘れることなく今に来た。
我が身の情けなさよ。
それに、藤那の気に入らないことが、まだあった。亜衣は、真剣に策略をこねくり回している。その眼差しが、どこなく九峪を思わせている。
——こいつ、物の考え方が、ますます九峪様に似てきている。
毒を盛るという部分は亜衣らしい、情け容赦もない考えだが、物がないときにこそあえて呉れてやるという大胆さは、やはり九峪にこそ相応しい考え方だと思う。苦しいときにこそ、蓄えたり温存したりするのが常識的な発想となるはずなのに、そこから逆転した考えを亜衣は示した。
——まるで九峪様のようだ。
亜衣に聞かせてやったら、柄にもなく頬を赤らめて嬉しがるような言葉を、口の中、舌の上だけで転がした。わざわざ言ってやるのも、喜ばせてやるのも癪だった。