泗国の情勢がにわかにきな臭さを増してきているようだ。どうやら九峪の思うところ以上に、泗国と言う小さな島をものにする道のりは平坦ではないらしい。
第一に、補給の足並みがどうにも揃わないことが、泗国の各地で戦う戦士たちにも影響を及ぼしているようだ。以前から不仲であった重然と教来石——正しくは重然ら石川島衆が一方的に北山を毛嫌いしているのだが——が、この頃ますます反目しあうようになり、そのために輜重の補給能力に低下の様子が伺えていた。
幸いと言うべきか、今のところ大事にいたる問題には発展していないものの、しかし悪い雰囲気であることにも変わりはない。
双方どちらにも言い分はあるだろうが、とくに重然の抱える反北山意識は九峪の想像以上に強く激しいものがあった。無理もないと思う九峪であるが、さすがにこれをいつまでも容認していられないし看過することなど持っての他である。
度々に九峪は文を両者に送り、自重と協調を訴えてきた。どちらにも辛抱させることばかりだ。だが今は同じくして耶麻台共和国の臣籍にあるのだから、過去の遺恨はこのさい水に流してほしい、と再三にわたり促してきた。
九峪からの懇願とあれば、重然も無碍には出来ないし、教来石も北山の民五千人のためならば辛抱し続ける所存ではある。とはいえ水に流して流しきれれば苦労はないのもその通りである。
思えばこの頃から——いやこれよりも以前からかもしれない——九峪を取り巻く空気は、暗く重く、不吉なものへと徐々に変わっていくのであった
。
伊万里の苦手とする分野の一つに、外交がある。大雑把にまとめて言ってしまうと『お付き合い』という行為そのものが苦手であると言ってもいい。
生来、口下手な性格である。自らの感情を面に出すことも少ないが、これは表現の方法を知らず、また他者や相手の反応を気にしすぎるためであり、また語彙の不足も要因の一つとなっていた。
それらの性格は随所に現れるものであると言っていい。たとえば戦い方や政治の基本方針などにも現れやすい。伊万里の場合は、これら戦闘などもそうだが、外交や折衝などでも顕著である。
ゆえに、そういう場に戦いを持ち込まれると、途端に手詰まりとなるのが弱点であった。
伊万里が気鬱となるのも、そうした場面での戦いが増えてきたことに起因していた。勝手のわからない戦いは伊万里を苦しめた。
伊万里を苦しめているのは、相手方の——これから次期に、大洲で戦うことになるだろう大出面軍の司令官による内応要請、つまりは寝返りの誘いであった。
なんと大胆にも出面側の司令官は、九洲の大諸侯の中でも、藤那・香蘭と並んでとくに別格とされている王族の伊万里に、九峪らに対する謀反を勧めてきているのである。
誘い文句は、伊万里が寝返る証として、ともに斗佐本国を攻撃するか、もしくは斗佐と伊依を結ぶ隘路の道を出面軍が通行するのを黙って見過ごすかのどちらか、という二者択一のものであった。その際によって勝敗が決し大出面が勝利した暁には、斗佐と伊依の二ヶ国を伊万里に贈与するという条件がついてきていた。
なぜ、互いに会戦に踏み切ろうかと言う局面で、このような申し出を開いてきたのか、伊万里にはよくわからなかった。よくわからないがために、あれこれと厭な予感ばかりを膨らませ、気疲れを起こしていた。
ちなみに、伊万里はなぜこのようなことをしてくるのかと思い悩んでいるが、実は彼女はこれと同じ出来事の元で戦った経験があった。刈田城の戦いがそれである。
なぜ刈田城の戦いが、今と同じ出来事に該当するかと言うと、当時、九峪が考えていたことと同じ事を、敵方の司令官も考えているためだ。九峪が刈田城を攻略する際に『トロイの木馬』を参考にして、労少なくして益を取ったのは、ひとえにその背後に構えている川辺城との激しいいくさを意識したがためである。今回の場合で言えば、敵方の司令官は、損害を最小限に抑えたまま、勢いに乗せて斗佐本国に殴りこむ算段であるに違いなかった。
だから伊万里と戦うことを避けたいのである。伊万里の用意した大軍と戦えば、よく勝ててもとても斗佐への討ち入りは難しくなることは明白であり、ここは何としても伊万里を寝返らせたいところである。それに伊万里を寝返らせることが出来たなら佐多岬半島も自然陥落の容となり、讃其方面の伊雅隊、阿分方面の香蘭隊などを孤立させることも可能となる。
伊万里を口説き落とす文言は、はじめに伊万里の心持を柔らかくするために、その武威武略を褒めちぎり、しかしその次には、伊万里方にはすでに後備えの余力がないことを暗に示し、さらには中央政府での伊万里の評判が低いのではという心配する素振りも垣間見せ、乱波を駆使して入手した情報とデタラメな憶測を巧みに利用して伊万里の心理に揺さぶりをかけてきているのだ。
九峪との一件で心に疲れを募らせていた伊万里に、これらの調略攻撃はまことに堪えるものがあった。時期もよくなかったであろう。九峪に対して思うところのある状態に、出任せの嘘はたいそう身に沁みた。これらがすべて謀略であり、二ヶ国をくれるとい言葉さえどこまで信用できるかはなはだ怪しいとわかっていながら、惹かれるものも伊万里に中にはある。
——いっそ。
魔が差す。差してしまう。もうどんなことをしても、九峪が自分のほうを振り向いてくれることはない。そんなことを幻想に視れることすらない。一夜の間に、伊万里は、九峪の心の中に自分の居場所がないことを思い知らされたのだから。
——いっそ、この手で、九峪様を——亡き者に——
ここで語ること今さらとも思うが、佐多岬の根元にある八幡城の陥落はそのまま泗国・九洲の西南連合勢の敗北を意味している。各方面での戦いは、この大洲を防衛の基盤として、遠く白薙を攻略の起点となすことで九峪の戦略は成り立つものである。
泗国の西を、伊依から斗佐へと下る道は三本ある。沿岸沿いの依讃街道は大洲と佐多岬から伸びる道路が吉田で交わり、そのまま斗佐へと向かっており、肱川に沿って続く肘街道は泗国山地に分け入る道でもあり、そして大洲から発ち斗佐へ向かい四万十川と繋がる中野道の三本をもって西泗国の主要街道とする。
仲野道だけでなく依讃街道、肘街道もまた大洲から始まる道となって大いに利用されていた。これら三本の街道は斗佐にとって生命線に等しい、いわば血管のごとき通りなのだ。
これ以外に伊依と斗佐を行き来する方法を陸路に求めると、峻険悪路この上のない泗国山地の峰々を苦労しながら越えていかなくてはならず、それだけで大変な労力となろう。とはいえ戦の末に西泗国の大辻を奪い取るのも労力なくしてはできないからどちらとも言えないが、補給の観点から考えたら断然、峠を越えるよりずっと早く確実に補給戦の確保が出来る。そのためもあって、ここでは激しい駆け引きが繰り広げられている。
大出面の司令官が斗佐へ攻め入るならば、この道を確保せねばならない。大洲城が陥落してしまった以上、八幡城の防衛は必須であった。
ここまで言えば、ひとまず大洲近辺が重要な拠点にあたることが理解できるだろう。問題は、そこを守備している武将が伊万里であり、さらに言えば伊万里の司令官としての能力は決して突出したものではないということだ。
伊万里の名誉のために言い添えさせてもらえれば、決して彼女が凡愚だというわけではない。それは、数々の戦功や領地経営に見せる手腕からもすでに証明されているところであり、特別伊万里を貶める者もいないが、やはりどうしても他の知事と比べて資質にやや目劣りする部分があるのは否めない。
ではなぜ伊万里が、すさまじい重責の圧し掛かる大洲防衛を行わなくてはならないのか。なぜ、その部所を賜ることになったのか。すべては、言ってしまえば九峪の作戦であり罪滅ぼしと言えた。
伊雅の白雉を攻めの起点と考えて、さしずめ伊万里の大洲は守りの基点として機能する働きがある。この役目をまっとうするということは、それは、多大な戦功に繋がる。
また今ひとつ後ろめたさのある九峪が、せめてもと慰めの意味もこめて抜擢したという側面が事情にある。勝手な言い分であると思うが、ただ、それだけで部所の人事を決めたとあれば、暗愚以外の言葉などあろうはずもない。やはり一定の目算と、伊万里へ対する信頼が最終的な判断を九峪に決させたのだった。
上記はなかば余談である——が、兎にも角にも、伊万里の近況である。
内通の催促は、伊万里は胸のうちに仕舞い込み、上乃にも仁清にも明かしていない。
「とても言えない」
というのが伊万里の素直な感想だ。いや、言えない理由などない。こんなものは、談合の場なり評定の場なりにて書状を詳らかにしてしまい、その上で諸将を前に意気揚々と戦いの決意を述べてしまうことが常道である。
それが伊万里にはできない。言えないだけ迷いがある。悪魔が身の内に巣くうのを感じていた。九洲に居続けることの意味、あるいは、九峪の下で生きることの意味を見失いかけていた。
それらが伊万里には後ろめたくもあった。しかし後ろめたさを誰にも知られたくなかった。ゆえの迷いである。懊悩が伊万里を苛む。
ただし、答えはすぐに出さなくてはならないだろう。大洲城の背後に構える西依城は現在、伊万里軍の備えとして兵が詰めており、伊万里に異心ありと見たなら何かしらの行動を起こすであろう。また仮に伊万里が大出面の内通を跳ね除けたとしても、あまりに時間をかけては、伊雅はもとよりその補佐にある閑谷、阿分方面で戦う紅玉・香蘭親子、そして数多の泗国人たちを悉く皆殺しの憂き目に会わせてしまうかもしれず、そのために同盟の破綻をすら招きかねない。どのような結末を迎えてしまうかは想像することすらも難しい。
跳ね除けるならばさっさと跳ね除けるに限る。裏切るならばさっさと寝返って斗佐を攻める天目方の先鋒となり、伊雅を殺し、香蘭を殺し、紅玉を殺し、そして九洲へ攻め上って九峪をはじめ殺しに殺して耶麻台共和国をこの手で滅ぼす。この二択以外に伊万里の生きる道など残されていない。
調略を受ける対象となるとはそういうことであり、悩む者とはそうあらねばならない。少々、酷である。今ひとつ時間の余裕が在れば伊万里にもじっくり考えることも出来たが、熟考の暇すらも天意は与えてくれそうにないようだ。
悩むあまり伊万里の素行に翳りが見え始めた。好からぬ表情をよく浮かべ、口数は少なくなり、自室に篭もりがちな日が多くなった。大将がこのような行動を起こすと、途端に将士らの士気の低下を引き起こしてしまい、その不安な雰囲気は徐々に兵士らにも広まっていく。
決戦の熱を肌で感じて、獅子奮迅の気概を高めなくてはならない、いまは大事の前である。
「伊万里様は、何をお考えになられておるのか・・・・・・」
「さほど浮かぬお顔をされて・・・・・・何か不安に思うことでもあるのか」
「まさか、勝算なしと諦めておるのではないか」
「あのように不機嫌では、泗国勢との足並みも揃わなくなる」
などと埒もない憶測が飛び交う要素を生むようになると、普段の大人しい気性とは裏腹に洞察鋭い仁清には、気になって気になって仕方がなかった。
小競り合い合戦から戻ってきたばかりの上乃を離れ屋敷に引っ張り込んで、まだ具足を脱いですらいない上乃を床に座らせた。
「なに、なに、なんなのよ!?」
わけがわからずにうろたえる上乃の正面に、どかりと腰を下ろす。
「まずい事になった」
「まずい事? 久々に戦場から帰ってきた私を、こんなところに連れてきた以上にまずい事なわけ? 見なよ、まだ鎧だってはずしてないし、埃だらけの汗だらけなんだけど。あんた私を女として終わらせたいわけ? まずは湯浴みくらいさせなさいよ」
「ここもある意味戦場だから気にしないで」
「・・・・・・何があったって?」
堅い仁清の態度に嘆息した上乃が諦めて何があったのかと尋ねた。額当てをとり、結紐の緒を解いて長い髪を無造作に広げる。乱れきった髪を面倒くさそうに掻く。
篭手の留め具に指をかける上乃に一瞥をやり、面を引き締めて仁清は居住まいをただした。
「前から伊万里の様子がおかしかったんだ」
「前からって・・・・・・いつの頃の話よ。九峪様にふられた辺り?」
「いや、そんな前からじゃなくて。上乃が出撃するすこし前、ごろかな」
上乃は小首をかしげた。上乃が出撃する直前、といえば、仁清が救援に駆けつけるもときすでに遅く大洲城が陥落した直後であろう。
それからの上乃は慌しく対応に追われていた。大洲城のけん制のために出撃と戦闘を繰り返し、しばし砦に詰めていたから、仁清のように城内の思わしくない空気を感じ取っているだけの余裕がなかったから、気づくこともなかったのであろう。
ただ、まだ上乃はピンとこない様子だ。
「どんな風に?」
「なにか、思い悩んでいる様子なんだ」
——そんなの、いつものことじゃん。
馬鹿らしいと上乃は嘆息した。こう言っては伊万里に悪いだろうけど、悩まない伊万里は伊万里じゃないとまで上乃は思っている。根が優しくも決断力に欠けた優柔不断な伊万里が悩まないことなどなかった。いつだって悩みに悩んでいたではないか。そうしていつかは決断して、ここまで生きてきたのではないか。
その決断が、必ずしもよい結果を生んできたとは言いがたいが。
「悩むことなんかいっぱいあるよ。大洲城だって奪い返さないといけない。九峪様をどう八つ裂きにしてやろうか考えないといけないし」
「大洲城云々はともかく、九峪様のほうは上乃のやりたいことだろ」
言われて上乃は眉をきりきりと吊り上げた。
「私、本気で九峪様を殺してやりたいよ。正直、泗国で戦えてほっとしてる。もしも九洲で留守なんか任せられてたら・・・・・・」
「あ、上乃ッ。それ以上はやめたほうがいい」
さすがにこれ以上の発言は危ないと仁清は思い、身を乗り出して上乃を止めに入った。上乃の発言はあきらかな反逆の意思である。誰ぞに聞かれでもしたら、取り返しのつかない事態になってしまう。
咄嗟に神経を尖らせて周囲の気配を探る。戸や壁の向こうに誰か人間が潜んでいても、仁清には辛うじてそれらを察知する乱波的な能力がある。さいわい盗み聞きされていることはなさそうで、ほっと胸を撫で下ろす。
心臓が厭な音を立てている。このご時世、一言々々には責任を持たねばならない。余計な一言をはいてそっ首撥ねられる話なんてものはごまんと聞こえてくる。
「いまは九峪様のことは置いておこう。伊万里に何事があったのか、聞きださないと。伊万里のことだから溜め込んで、最後は何を思い立つかわかったもんじゃない」
伊万里の悪い癖が仁清にとってとにかく怖いものだった。悪い癖とは、到底自分ひとりで判断しかねる問題を自力で解決しようとすることである。真面目であることは大事だ。しかし行過ぎれば頑なになってしまう。伊万里はそういう性格であるし、伊万里自信が自分の能力を低く見積もっているから、余計に周囲に迷惑をかけまいと気負いすることが昔から多かった。
もうひとつ多弁な性格であれば、また違っていたのだろうが・・・・・・。無理やりにでも聞かないと話してくれないとなると、やはりそうするしか手立てはない。
いきり立っていた上乃も、懇々と話す仁清にほだされて、次第に考えを柔らかく広げていった。
「悩んでいるときの伊万里は危ない。追い詰められると途端に弱いんだから」
「じゃあ、聞きに行こう」
そう言うや上乃が立ち上がる。逆に上乃には悩みなどなさそうなほど快活だ。
だが仁清は大いに慌てた。憂鬱の気のある人間に無理強いはそれこそ危なげな行いとなる。
「いきなりは良くないって。ますます追い詰めるだけだよ」
「だったらどうするっていうのよ。聞かなきゃわかんない」
「すこし、様子を見よう。そんなに時間は赦されていないけど、でも、気をつけて伊万里を観察しよう。そのうちに大洲城を奪い返す戦いが起きる。それまでにはなんとかして、伊万里の悩みを解消したい」
「九峪様絡みだった場合は?」
「それは・・・・・・」
言葉に詰まった。もっとも面倒くさい場合を衝かれてはさすがに即答はできない。そのときは、もうそのときだと開き直るしかないだろう。
なんにしても今できることは、注意して伊万里を観察することくらいしかないようだ。
大きな戦いの風雲に伊万里、伊雅の各司令官たちが対応に苦慮している一方で、阿分方面を担当している香蘭は、まだ大きな戦いに見舞われることもなく小競り合いを繰り返していた。
阿分方面は泗国戦線中、もっとも混沌としており、もっとも衝突が多く、そして唯一大した動きのない地域となっていた。阿分方面は西南連合・大出面・狗根国の軍勢が三つ巴に争うきわめて危険な地域である。
さらに言えば、各軍を率いる武将らの顔ぶれも相当なもので、連合軍は武略に長じた紅玉・香蘭親子、泗国将軍の而殷(じいん)が共闘し、大出面軍の阿分方面司令官からは虎桃自らが出陣してきており、狗根国側にいたってはかつて四天王に並べられた鎮東将軍鋼雷が出張ってきている始末だ。
まさしく天下に隠れなき名将同士が顔を付き合わせる絵面であった。とくに鋼雷の出陣は連合勢、大出面勢を大いに震撼させるほどであった。何といっても鋼雷は『飛燕将軍』と呼ばれるほどいくさに強く、その昔に征西を行い山陰・山陽を平定し、続く鎮西攻めの橋頭堡を築き上げた狗根有数の英雄であり、出面を盟主とした連合軍を打ち破り出面王家を撫で斬りした残虐な暴将としても有名であるからだ。彩花紫が王位に就いてからはその気性を疎まれるなどして辛酸をなめたが、今回の出陣で失地回復を図る鋼雷の意気はすさまじく高ぶっている。
こうまで大物武将が刃を交えるのだ。常識的に考えたら、激戦に次ぐ激戦の連続になりそうなものだ。そうであるにも関わらず大きな戦いが起きていないのは、互いに容易ならざる相手であるとわかっているから手が出せずにいるからであろう。そうとでも考えねば、この攻め手を欠いたような戦いぶりはちょっとわからない。
ひとつだけ不幸の中に生まれた幸い、とでも言えばいいのかもしれない——戦時中に言いも悪いもないだろうが——こととして、大きな戦いがないことで阿分の民も、他地に比して田畑の荒れ具合もまだ見てくれのよいように留められている。
長期戦を予想した紅玉は、香蘭の後見として戦争の方針を定め、陣頭指揮は香蘭に任せ自らは内政を中心に行動することとした。まだ紅玉が自らを軍勢を率いて出陣しなくてはならない事態にはないと見越してのことである。
さて、そうなると軍団を率いて出撃するのが香蘭の役目となる。香蘭は泗国勢とよく図りあい、元星十年七月中に、吉野道と神山道の間に位置する土津古平(どっこだいら)に攻守兼用の砦を築き、前線基地を同砦へ遷した。すでに徳島平野の豪族衆は狗根国の傘下に下っており、次に土津古平が戦場となることは明白であった。
談合の場に泗国の武将は言う。
「土津古平は、さしずめ道筋に挟まれた中州です。北西には吉野道、南東に神山道が通っており、鋼雷はかならずやこれら二道を欲するでしょう。しかし手にするためには、まず、土津古平を手中に収めなくてはなりません」
要害であると言う。土津古平が落ちさえすれば、あとは潮がさぁっと静かに素早く満ちるように、鋼雷の勢力圏が阿分中央部へ向かって拡大していく。
「ここは何としても、土津古平を死守せねばなりますまい」
「吉野道と神山道を抑えるがごとき陣を敷くかぎり、当面の敵も鋼雷ただ一人とお思いたまえ」
「虎桃は如何する?」
而殷が重臣に尋ねた。陣中の者で虎桃ともっとも多く生死のやり取りを行ったのは而殷である。
鋼雷も強いが、而殷の感ずるところ、武略謀略ない混ぜて戦う虎桃は底知れぬ怖さがあるような気がする。気になる相手である。
「あの者は放っておきましょう」
と、横合いから口を出した紅玉に、一同は驚いた様子の視線をそそいだ。放っておいていい相手ではないことを、一同はよく知っている。
そこは紅玉もよくわかっているところである。
しかし地図を指し紅玉は続ける。
「鋼雷の獲得した領域と、虎桃の獲得した領域は接しています。私たちの勢力が土津古平まで引いたことで、少なくとも虎桃との接触は断たれました」
「だからこそ危なかろうと存じます。我らが退いたればこれ目下の吉事と勇み立ち、軍勢を深入りさせるに違いありません。それでは民らに申し訳が・・・・・・」
「仮にそう彼女が動いたとしましょう。では鋼雷の動きがはたしてどうなるか。それこそ勿怪の幸いとばかりに、虎桃側へと侵攻するはずです。戦線は拡大すればするほど兵を必要とします。兵を偏らせることで生まれる手薄、あの者は見逃しはしないでしょう」
「そんな上手いことが」
「たしかに目でお見せできる確証はありませんが、鋼雷のいくさ模様を考えると、あながち的を外してもいないと思えます。いささか思慮を欠いた武将のようですし」
「さもあらん。猪武者とは飛燕のごとき荒者をいうのでしょうな」
末席からあがる軽口に紅玉は玉を転がしたような声で小さく笑みを浮かべた。甲冑具足ばかりの場に聴こえる紅玉の声はたいへんに品の良いもので、釣られるように武将らも声を上げて笑った。
紅玉の読みどおり、虎桃は連合勢に向けての接触を仕掛けてはこなかった。無理だったのである。兵力を阿分中央部への切り取りに向かわせようとすると、すぐに鋼雷が過剰なまでに反応し、とても軽々しく動ける状態ではなくなっていたのだ。
俄かに窮地に陥ったのは鋼雷のほうだ。否このように言っては語弊があろう。正しく言えば、虎桃と香蘭がぶつかり合わなくなっただけ、楽ができるようになっただけのことで、両者を相手にする鋼雷の労力にも変わりはない。
「香蘭——いまが好機です。わかっていますね」
土津古平の砦。向こう三里までを見渡せる櫓から紅玉は、鋼雷の守府が置かれている徳島平の藍住城の方角を、肌身離さず持ち歩いている鉄扇の羽を舞わせて指し示した。
眼前に広がるのは広大な林ばかりだ。三里向こうまでは平野と森林の世界で、横を向けば吉野川が流れている。柵に手をかける香蘭が、身を乗り出して彼方を見やった。
「この砦を中心に守りの備えは万全を期しました」
この年の八月、連合勢は土津古平に堅牢な防御網を敷き、二度にわたる鋼雷の攻撃を跳ね返した。虎桃と香蘭が、それまで互いに割いていた戦力を対鋼雷戦に投入してきたために、狗根国軍の旗色は徐々に悪くなっていった。
「鋼雷は占領した地で、すでに二度の撫で斬りを犯し、一千人以上を惨殺したと聞きます・・・・・・」
「私、ああいう人間は嫌いです」
苦りきった声を香蘭は吐き出した。城攻めや野戦で全滅させたというならばいざ知らず、降伏した者たちを老若男女問わず皆殺しにしたと聞いたとき、もはや怒りなどと言う感情ではすまないほどの嫌悪を抱いたほどだった。
「九峪様だったら絶対に赦さない。あんなヤツ、ぶっ飛ばしてやる!」
「香蘭、言葉遣いに気をつけなさい。女子たる者もう少したおやかに」
「は、はい」
怖い笑顔で鉄扇を掲げられ、香蘭が慌てて首を縦に頷かせる。いくつになっても紅玉の威圧ある笑顔は心底怖いらしい。この点ではある意味、亜衣と火魅子の関係に似ている。
「ここであなたが腹を立てても仕方がないでしょう。憤怒の念は戦場で思う存分お晴らしなさい。・・・・・・母とて鋼雷の悪業には、臓腑のものが逆流しそうなほど気持ち悪く思っています」
指先で口元を隠す。事実、紅玉はいまでさえ嫌悪のために全身が総毛立つようであった。故郷の呉や敵国の晋でも、一族根絶やしはよくあることだ。誰か一人でも生き残りがいれば、後々かならず敵になるであろうからだ。
ただ、長いこと大陸から離れていた紅玉にも、皆殺しの精神は心地よいものではない。大陸の人間でも心地よい者などいないのではないだろうか。そんなことをして喜ぶものは、遠く昔は夏王傑や殷王紂、一昔には後漢末期の宰相董卓などがいたが、彼らは総じて尋常ならざる狂人ばかりである。彼らの行いは狂いでもしなければ出来ないことばかりだ。
それを抜きにしても、やはり人間のやることではないし、ましてや長く天性仁徳の人と民に慕われている九峪の下で生きていれば、否が応に畜生業を嫌うようになっても何ら不思議はない。
とは言うものの、その畜生業をもって鋼雷は徳島平野の豪族を瞬く間に屈服させたのだ。人間の性は下劣であるかもしれないが、武将としての資質に言えばまず間違いがない。
ただ武門の名家に生まれた紅玉には、同じ武人として資質に恵まれた鋼雷がかかる非道をすることに吐き気さえこみ上げる。
——この上はかならず成敗してくれます。
「母上。いつ出陣しますか?」
「じきに出ましょう。ですがその前に・・・・・・」
ふっと紅玉が視線を転じる。山の向こうを、紅玉はじっと見据えた。
「呉越同舟、覚えていますね」
「・・・・・・えっと」
「忘れたとは言わせませんよ。何度も講義したはずです」
「えと・・・・・・その・・・・・・ごめんなさい」
ガンッ
鉄扇が香蘭の脳天に垂直に振り下ろされた。あまりの素早さに、すっかり反応することも出来ず、激痛を両手で押さえながら香蘭がうずくまった。
「っおお・・・・・・ッ」
呆れきった瞳で紅玉が娘を見下ろす。
「出陣の前にあなたにはもう一度、故事古典の講釈をして差し上げます」
「あ、あんまり叩かれると、憶えたものが全部消えちゃうぅ・・・・・・」
「でしたらまた一から詰め込むだけです。今度はさらに厳しく、しっかりと学習しますよ」
「はい・・・・・・」
「まったく、この娘ときたら・・・・・・。亜衣さんの爪の垢を煎じて飲ませてみようかしら」
ぽろりと零れた発言に香蘭の顔面が硬直した。ものを覚えられないくせに、どうでもいい言葉だけは体よく吸収できるやっかいな頭の構造になっているらしい。
これからまだまだ山ばかりの人生が香蘭を待っているのだ。一日々々、一事々々を勉強させるつもりの紅玉も、頭を抱えたくなる。ただ、直向な性格は素直に言うことを聞いてくれるから、教える分には楽でもある。
「いいですか、香蘭。兵家の道とは、弓を射って槍を突き合わせるばかりが正しいとは限りません。たしかに武道の本質は、正面と正面のぶつかり合い。実力の勝負。しかし武道の技を最大限に発揮するには、兵家の道を突き詰めなくてはなりません」
紅玉の語る兵家の道とは武略のことである。武略とは言い換えれば『謀略』『戦略』『戦術』の複合的要因のことを差す。
「あなたは天性、武才に恵まれてこの世に生まれてきました。そのおかげか戦いの呼吸や駆け引きと言った戦術はすんなりと覚えてくれました。武門の子としてこれほど誉れに思うこともありません」
と、紅玉が凛としつつも優しく言うと、感情の豊かな香蘭はとっさに頬を染めて嬉しそうな笑顔を浮かべた。香蘭は特に紅玉と九峪から褒められることが大好きで、それは昔も今も変わらなかった。
しかし「ただ」と紅玉が付け足す。
「領地を預かる大公たるもの、それだけでは足元を掬われかねません。一人の母としては心苦しくもありますが、ここは一箇の武将として、あなたに人を騙すことを教えねばなりませんね」
「騙す・・・・・・?」
「九峪様のいくさの仕方を思い出しなさい。九峪様が得意とした戦い方は、つねに敵を想定した戦場へと誘い出し、あるいは大軍を小軍へと分散させ各個撃破するものでした。これは戦いの場にかぎらず、政治やそれ以外にもいえること。突き詰めてしまえば、相手を思い通りに動かすために騙す。騙せば勝てるのです」
そう言われてみると、たしかに九峪が立案した作戦には、相手を騙すことが多々あったように香蘭は思い出していた。
「『兵は跪道なり』」
孫子の一説である。訳すると戦争とは騙し合いである、と喝破しているのだ。
「いまはまず、鋼雷と虎桃を戦わせることです。まずはこれをせねば話になりません。鋼雷が戦力の多くを虎桃側へと割かねばならない状況を作るのです」
「どうやって?」
「からくりはこれから考えましょう。とにかく、鋼雷が余裕を失うような策を練り、実行に移すまで、出撃はなりません」
断固として紅玉が宣言し、すぐに香蘭も頷いた。ものわかりが良すぎるのも考え物だが、いまはそれでいいと紅玉も頷く。
これからは大変である。出面の虎桃、狗根の鋼雷、西南の香蘭・紅玉・而殷の駆け引きが今後の勝敗を決するであろう、その分岐点がもうすぐそこまで近づいてきているのを、明晰な紅玉にははっきりと見て取れていた。
——我がほうはまだ動いてはならない。初動の気配を鋼雷に感ずかれては元も子もなくなる。我らがまだ動けないと思い込ませ、虎桃との決戦を決意させるよう仕向けなくては・・・・・・。
と素早くからくりを考えていながら、やはり虎桃は油断がならないとも思う。自分が考えているように、おそらく虎桃も、鋼雷に連合勢を襲わせる算段を整えているに違いない。
鋼雷はたしかに恐ろしく強い名将だが、すでに紅玉は虎桃こそが最大の敵であると見定めていた。鋼雷よりもいかにして虎桃を騙しきるか。
まだまだ戦いの肝は引き出せそうにない。