座間の道での攻防が終息しようかという頃、他方、大陸との公益を監督する只深のもとに、気になる情報が舞い込んでいた。
只深が推し進めている、西洋との交易路の開通——シルクロードの確保は、まだ確実な形として実っていない。ここ数ヶ月の間を只深は、ときには自ら半島へ出向くなどして、西方商人との渡りをつけることに心を砕いていた。
半島で活動する際、実家である養父の邸宅を利用することが多い。只深にしてみると、里帰りのようなものでもある。一国の大臣となった娘を前にしても、恒只が取る態度は昔となんら変わりがない。むしろ、娘のことを一人前と認めるような話し方さえするようになったほどだ。
只深が、件の気になる情報を掴んだのは、その実家で通商開拓に勤しんでいるときで、ちょうど座間の道の戦いが終わる頃だった。
情報を持ってきたのは、只深の手足として取引先などへ出向いたり、護衛をしたり、まれに魔人をなぎ倒したりする伊部からだ。
「天目が、大量の大型船を買い込んどるやて」
「そういう話しらしいで。最近のことや言うとるけど」
「間違いないんかいな」
「カンヌン辺りの湊の商人が、売っとるらしい。あそこは造船所があるさかいにな。大きい船がほしい言うたら、率先して回してるっちゅう塩梅や」
なんで今さら、と只深は疑問に想った。船の数ならば、大出面だって九洲や狗根国に劣っているわけではない。いや、瀬戸内海を牛耳っている分、むしろ数では優っているくらいだ。
大型船という部分が気に掛かった。悪い予感がした。天目のことだ、何を考えているか、わかったものじゃない。
これはすぐ九峪に知らせたほうがいい。すばやく判断した只深が、伊部へと向き直る。
「何やわからんけど、面白ないな」
「まったくや。きな臭い臭いがぷんぷんしとるわ」
「もうちょっと詳しいことを調べて、それから一端、耶牟原城へ戻るで、伊部。面倒なことになりそうやわ」
頷いた伊部が、部屋を出て行く。受け継いだ火魅子の血が騒ぐのか、ざわついた胸を、只深はそっと撫で下ろした。
乃小野が砦を放棄して那津城へと撤退したことで、座間の道で繰り広げられた戦いは、ひとまずの終着を見せた。藤那はこの勝利がもたらした熱気の冷め遣らぬ内に、まず座間の道で運用した戦力をそのまま那津城へと向かわせることとした。ただし、音羽隊の損耗があまりにも激しいため、また指揮官である音羽自身の負傷も治療しなくてはならないので、これは関所にて待機することとなった。
那津城奪還軍は、藤那を総大将として、旗下に遠州と写楽、その下に衣緒を配して敢行される手はずだ。六千の兵を用意した。
座間の道の戦いが終息すると、すぐに亜衣は陣を引き払って耶牟原城へと帰還した。衣緒や音羽などは、てっきりこのまま亜衣が参謀各としてともに戦ってくれるものだと思い込んでいたようだが、藤那の「さっさと戻れ」と言わんばかりの態度に、その言葉に従うような容で、戦場を離れることができたのだ。
帰路は来るときと同じく飛空挺を用いる。亜衣の飛空挺はすさまじい速度で大空を突きぬけ、お供の巫女たちはすっかり置いてけぼりである。星華が女王となってしまった今、九洲の飛空挺乗りのなかで亜衣の右に出る者はいなくなってしまった。飛空挺部隊の巫女たちですら、まだまだ亜衣には及ばないほどだ。
耶牟原城の宮殿内にある、飛空挺格納庫区域の上空を、亜衣は渦を描くように旋回する。やや強い風が吹いている。飛空挺に乗る機械の少なくなった亜衣は、昔のように風をものともせず螺旋運動で降下していく。
その途中で、着地点のすぐそばに、一人の女性が立っているのを視界の隅で捉えた。螺旋運動を続けつつ、首だけをめぐらし女性を見下ろしながら、飛空挺はゆっくりと着地点目掛けて降り立つ。
地上へ近づけば、それだけ飛空挺にかかる風圧も弱くなる。螺旋から垂直に運動を変え、着地する直前、ふわっと土ぼこりが空に舞った。飛空挺が地面にしっかり着陸したのを確認した亜衣は、身体を固定していた拘束帯を解除する。
上空を仰ぎ見ると、ようやく追いついてきた巫女たちの飛空挺が、張り穴のような小ささで、ぐるぐると飛び回っている。誰が最初に降下するかで合図を送りあっているのであろう。風はまだやんでいない。全員が降下しきるまで、まだまだ時間はかかりそうだ。
亜衣は、女性へと顔を向ける。羽江がいた。その後ろでお付の中年女性が、恭しく頭を下げる。羽江の腕の中には、一歳になったばかりの雨季が、つぶらな瞳で亜衣を見つめている。
「羽江・・・・・・もう、大丈夫なのか?」
亜衣が気遣わしげに声をかける。平静な声のかけ方だったが、夫を殺されて以来、塞ぎがちだった妹が出迎えていたことに、内心ではすごく驚いていた。宰相としての仕事に追われ、あまり羽江と会う機会が少なかった亜衣にしてみると、羽江の回復振りには目を見張るものがあった。
心配そうに尋ねられた羽江は、やさしく微笑んだ。
「うん。星華様や九峪様が、よく話し相手になってくれてたから。それに、雨嬉もいるし」
「そうか」
まだ蔭のある微笑ではあったが、しっかり立ち直っているようで、亜衣も口元を緩めた。そして、羽江をかわらず可愛がってくれた火魅子と、その手助けをしてくれていた九峪に、心から感謝した。
「それにしても、私をまっていたのか。戻るという連絡はいれていないはずだが」
「今日、帰ってくるような気がしたから。衣緒お姉ちゃんは、まだ戻ってこれないの?」
「ああ、当分は無理だろうな。これから那津城を奪還しなくてはならない。まだしばらくは藤那様の指揮下で戦うことになる。すごい意気込みだぞ、衣緒は。宗像の地を取り戻すのだと、かなり息巻いていたから」
「宗像が陥ちたって聞いてたけど、本当だったんだ」
「気にするな。住人たちの多くは、無事に逃げ出せていたらしい。すぐに取り戻せるさ。そのための衣緒だぞ」
「うん・・・・・・」
頷いてはいるが、やはり心配なのだろう。無理もないと思う。羽江にとっても、亜衣にとっても、そして火魅子にとっても、宗像はとても特別な意味を持った土地なのだ。そこが敵の支配下にあるとなれば、気が気でないのもわかる。
じっとこちらを見つめている雨季の顔を覗き見る。生後一年になる。みじかくてやや色素の薄い柔らかな頭髪が生えている。大きな瞳が、どことなく羽江に似ている。人差し指を突き出すと、雨季は、小さな手で指先を握った。
生命を奪い合う戦場から帰ってきて、新しく愛情の中で育まれている生命に触れる。これが、今の世の中なのだと感じられた。血生臭く、それでいて清らかな世界だ。
「この子の遊び相手もしてやりたいところだが、私にもやらねばならんことが多くある。すまないが、私はこれで失礼するぞ」
「雨季も、お姉ちゃんに会えて良かったって言ってるよ」
「ふふっ、そうか、それは嬉しいな」
微笑み、亜衣はもう一度、雨季の顔を覗き込んだ。
「立派に優しく、そして逞しく育つんだ、雨季。いつかこの国と、次代の女王を背負って立てるようにな」
雨季は、可愛らしい声をあげて、それがあたかも肯定した返事のように亜衣には聞こえた。亜衣には、目の前であやされている赤子が、いつかの将来、亜衣の期待に応える宰相になっている予感がしていた。
亜衣が、羽江と分かれて一人宮殿へと歩き始めた頃、ようやく飛空挺が一艇、地上へと降りてこようとしていた。格納庫から、飛空挺の整備を担当している宗像系の巫女たちがでてきて、亜衣の乗ってきた飛空挺の主翼をたたもうとしている。
羽江と分かれて、すぐに不安がこみ上げてきた。まさか戻って早々に羽江からの出迎えを受けることになるとは思っていなかった。さらに雨季までいたとあっては、平然としているしかなかった。書状の文面から読み解くと、口封じをしている風であったが、やはり羽江は何も知らないでいたようだ。
だが、どうにも、羽江の巫女としての能力が今さらながらに高まってきているようで、おそらくわざわざ出迎えに来たのも、亜衣のことばかりによるものでもないと、話していて感じ取れた。もしかすると羽江も、火魅子や九峪の異変を感じていたのかもしれない。不安な気持ちになって、亜衣を出迎えにきたのかもしれない。
邪推とは思えなかった。これもやはり巫女的な予想でしかないが、羽江は何かをつよく感じている。
早足で廊下を渡り、回廊を抜けていく。着替えることさえも忘れ、道行く者どももぎょっとするほど、すでに亜衣は必死であった。ここまできて、取り繕うことも難しくなっていた。
はたと、亜衣の足が止まる。火魅子と九峪、どちらを先に訪ねるべきか。どちらも亜衣にとって愛しい、まさに命以上の存在であるから、優先順位など微塵もない。
しばし悩んだ亜衣であるが、宰相が仕事をするために用意された執務室へとつま先を向けた。まず、冷静にならねばと思った。九峪よりも火魅子よりも、一呼吸おいて蘇羽哉を尋ねるべきだと考えた。鼓動が速い。
主が不在であった執務室の慌しさは十分に事態の重さを亜衣に伝えてきた。宰相の仕事場は、さほどの広さがあるわけでもない。畳で言うところの二十畳あるかどうかだ。常時、人は亜衣を含めて二人から三人ほどいるものだが、いまは五人ばかりが書簡に埋もれている有様であった。
最奥に蘇羽哉がいる。目元から眉間まで、疲労困憊の様子を隠しもしていない。相当追い詰められているらしく、はっと亜衣の存在に気づいた瞬間、両の眼からぼろぼろと涙を流し、
「あ、亜衣さま〜ッ」
と、情けない声を出してしまっていた。他の者たちも、一様に亜衣の姿を確認して、安堵の表情を浮かべた。
「ようやく帰ってきてくれたんですね〜・・・・・・」
「代務、ご苦労だったな。上手く捌けたか」
「もう本当に、亜衣様がご出陣した直後に火魅子様も九峪様もお倒れになられて、もうっ、もう何をどうしたらいいのか・・・・・・」
そう泣き言を言いつつ、すぐに緘口令を出して二人の大事を秘密にしていたのを、ちゃんと亜衣は知っているのだ。やるべき適切な処置を施せていたのだから、宰相代理として及第点を与えても言いと亜衣は思っている。蘇羽哉の情報遮断は見事に行き届いていた。
しかし、このときの手際のよさが、
——使えるようになったな。
と亜衣に思われてしまい、これからますます激務を押し付けられることになろうとは、ぼろ雑巾のように疲れ果てている蘇羽哉にわかるはずもないことであった。
さすがに亜衣も鬼ではないので、そろそろ蘇羽哉を解放してやってもいいが、それよりも火魅子と九峪のほうがはるかに心配される。ここは執務室で、いる者みなが事情を把握しているだろうと察した亜衣は、単刀直入に事態の詳細を尋ねる。蘇羽哉の疲れた顔に、何ともいえない複雑さが浮かび上がる。
「火魅子様も九峪様も、いまは意識を取り戻されています。火魅子様は奥の殿でお倒れになられて、その直後に九峪様も離れで昏倒されました。お二方は、ともに耶牟原城内の奥でお休みされております」
「無事なんだな。なにか、後遺症が残ったとかはないんだな」
「後遺症、といいますか、その・・・・・・」
戸惑い気味に蘇羽哉が言葉を濁す。不安を煽るような態度を示されては、やはり亜衣も悪い胸騒ぎが起きてしまう。ただ周囲の雰囲気も、どこか蘇羽哉に似て釈然としないものがあった。
亜衣は、掴みかからん衝動を何とか抑えて、次に発せられるはずの蘇羽哉の言葉を待った。
はあっとため息をついた蘇羽哉の口元が、ますますへこたれていく。
「九峪様は、まだ床に伏せっておられますが、火魅子様がですねぇ・・・・・・」
「な、なんだ」
蘇羽哉が、訳知り顔ばかりの執務室へ視線を泳がせつつ、
「火魅子様、ご懐妊なされました」
と、静かに、重大な事柄を口にした。亜衣は、言葉を失った。いったい蘇羽哉が何を言ったのか、はじめ理解できなかった。
——火魅子、懐妊。つまりは妊娠しているということになる。
後頭部を金槌で打ち叩いたような衝撃が、亜衣の理性を襲った。驚いたという言葉以上に、身体の隅々まで石化させるほど、いま蘇羽哉の言葉は凄まじいまでの意味をもっていた。
衝撃は、大きかった。頭が真っ白になるほどだった。だが、次第に心の震えが収まってくると、
——ついに、この日が来たか。
と、以外にもすんなりと、現実を受け止めることが出来た。いつかはと、ずっと考えてきたことが、起きただけでもあったからだ。ただいざその日を迎えると、落ち着いていられるようで、しかしやはり、戸惑いも大きかった。
火魅子の相手は一人しかいない。九峪だ。火魅子が、九峪の子を産むのだ。ずっと大切に育て、命をとして守ってきた星華が、自分の愛した男の種を孕み、子を産み、そしてその母となる。それが不思議なことのように感じられた。現実を受け止めつつ、現実味がないとでも言おうか。
「・・・・・・そうか、火魅子様がな」
「まだ事実は伏せたままにしていますけど。泗国経略に対大出面対策に内政に琉球への警戒に、そこへこれですもの・・・・・・。亜衣さま〜っ、もう私の手には負えません〜」
「わかった。では、あとは任せたぞ。私は火魅子様と九峪様のもとへ、挨拶に伺う」
「はい——へぁっ? いやっ、ちょっとまっ」
呼び止めようとする蘇羽哉の声も、きびすを返した亜衣の耳には入らなかった。この激務から解放されると思っていた蘇羽哉以下の役人たちは、しばし、言葉もでなかった。彼女たちが揃って膝から崩れ落ちたのは、そのすぐ後のことであった。
まず火魅子を見舞うことにした。直感であった。冷静を心がけながら、一方で、このようなときは直感に頼るべきだ。一目散に奥の殿へと向かう。この耶牟原城で火魅子が安静にできる場所といえば、奥の殿をおいて他にはない。
奥の殿のまん前まで来ると、守衛の巫女たちが慌てて頭を下げてきた。
若干乱れた呼吸を肩で平静に整え、亜衣の目は扉を見つめている。
「火魅子様はご無事か。亜衣が参ったとお伝えしろ」
「はっ、はい! ただいま」
尋常ならざる亜衣の気迫に、慌てふためいた巫女が足早に奥へと消えていく。ほどなくして戻ってきた巫女が、亜衣を奥へと誘った。
「亜衣ッ!」
悲壮な表情で奥へと通された亜衣の前に、喜色満面といった様子の火魅子が、頬を赤く染めて出迎えた。一重の寝巻きに身を包み込んでいるものの、麻布団から上半身だけを起こしている火魅子は元気そのものであった。
火魅子の側へと近寄る。火魅子は、嬉しそうに顔を輝かせて、大きく亜衣を手招きしている。興奮しているのか、火魅子の鼻腔が少しだけ膨らんでいるのが目に入った。
亜衣は、すぐそばで腰を下ろした。失礼とならない程度で火魅子を観察する。病人らしいところは何一つとして見受けられない。いや、装いだけを言うならば、病人のそれではあるのだが。この時代、病人も妊婦も、窮屈を感じないという目的で、同じゆったりとした装いをする。
どっと両肩背中に重みが圧し掛かる。火魅子の顔を見て、ようやく亜衣は安堵できた。
「・・・・・・お元気そうで何よりでした」
「うふふっ、心配してくれたの?」
「倒れたと聞いていました。それはもう大変な苦しみようであったと」
「苦しかったわよー、そりゃもうね! うふふ、苦しかったわー・・・・・・ふふふふふ」
——はて? 倒れたときに頭部を強打したかな?
ついつい埒もない思いがわき上がるほど、いま目の前で火魅子はすっかり浮かれきっている。なかなか気色悪い光景である。だが、無理もないであろう。火魅子にとっては、またひとつ、夢が成就したということなのだから。
凄惨な世の中こそ倭国を包み込んでいるが、火魅子を取り巻く世界は、薔薇色に染まっているようだ。羽江に笑顔が戻ってきているのも理由だろう。火魅子は、いま、目いっぱいに幸せになろうとしているのだ。
それは、亜衣としても望むところであるし、またそうなることが亜衣の夢でもある。十数年追い求めてきた夢が、目の前の火魅子そのものだとしたら、それだけで亜衣も幸せになれる。
未練が、ないわけではない。それでも亜衣には、これが一つの契機となるような気がしていた。答えを得た気がしていた。
火魅子は、幸せな言葉を、自分にも亜衣にも向けている。それを亜衣が自らの口から発することはないであろうが、それでいいと思えるほど、幸福が火魅子を輝かせていた。
——これでいいのだ。私には、私なりの幸せがある。
これも、亜衣の求めた幸せの一片だ。
幸福を振りまく火魅子にあてられて、亜衣の心も熱くなっていく。
「いまなら、百人でも産める気がするわッ!」
「それは・・・・・・見てみたい気もしますが、後継者問題が深刻になるのでお止めください。多くて三人くらいまでにしておきましょう」
「うふふっ。玉のような子供を、そりゃもうコロコロ産むわよ。転がって陶川に流れていくくらい産むわよ」
幸せを噛み締めすぎて、脳が茹ってしまったらしい。火魅子がそう望むと、本当に沢山の子宝に恵まれそうで、すこし末恐ろしく感じる亜衣であった。
火魅子がこうまで浮かれる理由は、もう一つあった。火魅子がそれを嬉々として亜衣に語った。
気を失うほどに強烈な頭痛に襲われた火魅子は、ある夢を見たらしい。その夢の中では、一匹の猫がじっと火魅子のことを見つめていた。その猫は、宗像神社に伝わる天の火矛の宣命体を朗踊し、ぽっと炎に包まれ、そして光り輝いて消えた。そうして火魅子は目を覚まし、自らが妊娠していることを医師から告げられたのだという。
昏倒する直前、火魅子は、一匹の猫を目撃している。火魅子が夢の内容を気にしている背景には、そういった事情もあった。火魅子は、現実と夢に現れた猫が、天の火矛の遣いだと考えたのだろう。
「よく考えたら、九峪様だって天の火矛の御遣いだもの。その方との間に宿したややを、天の火矛が祝福しないはずがないわ。それに私にだって、宗像の血が流れているんですもの。お腹の子は、神に祝福されているのよ!」
嘘を言っているようには、亜衣には聞こえなかった。火魅子の浮かれようと夢の内容を考えると、おそらく真実なのであろう。たとえそうでなかったとしても、あえて言うことはしない。火魅子がそう信じているものを覆す必要がない。
それに、祝福された赤子であることを、亜衣もまた望んでいる。
「だとしたなら、我々からもこの恵みに対するお礼を奏上しなくてはなりませんね。宣命体が下された以上、それに奏上体を諳んじなければ、神事は完成しませんから」
「そうね、すぐに儀式の準備を・・・・・・。あっ、でも九峪様が、まだ」
火魅子は元気そのものだが、肝心の九峪がいまだに臥床の身である。九峪が倒れたという話は火魅子の耳にもはいっているけど、その病状や程度に関しては、なにも知らないままだった。
はっと亜衣も息を呑んだ。そうだ、九峪のことも気がかりなのだ。火魅子の妊娠騒動に目をくらませていた。九峪がどのような状況なのか、亜衣だって知らない。
火魅子の無事を知った今、あるいは九峪もこの問題に関連して、同じようにして倒れただけかもしれない。そんな期待もあった。だが、これは巫女としての勘になるが、それだけではない何かがあるように亜衣は感じていた。
さっと身を下がらせ、亜衣は頭を下げる。
「もどって早々ですが、私はこれで失礼します。九峪様もお見舞いしなくてはなりませんので」
「九峪様のことは心配だけど、あなたも戦場帰りで疲れているでしょう。くれぐれも無理はしないようにね」
「はい。お言葉、痛み入ります」
火魅子の優しい言葉に、亜衣は微笑んだ。たしかに、疲れはたまっているかもしれない。もともと長期戦覚悟の戦いを、無理やり短期決戦へ持ち込むよう寝る間も惜しんで戦略を練り、実行に移して、取って返す刃のように耶牟原城へ戻ってきたのだ。
とはいえ、疲れたなどと言っていられない。亜衣は火魅子の元を辞そうと、もう一度身を低くしようとする。それと同時に、火魅子が言葉をかけてくる。
「亜衣・・・・・・。私は、あなたに感謝しているわ。あなたがいなかったら、私は、こうして生きていることも出来ず、女王にもなれず、ましてや九峪様と結ばれることだって出来なかったと思うの」
「・・・・・・私には、もったいないお言葉です」
「そんなことないわ。あなたに出会えてよかったって、いま、心の底から思える。衣緒も、羽江もそう。私は恵まれているわ。得難い姉妹に、この星華は恵まれたのよ」
じんっと、亜衣の胸が熱を帯びた。火魅子は、どうしようもないほど優しい言葉をかけてくる。それは時として、亜衣ですら目頭を熱くさせる言葉として、この主従の絆を支えてきた。
「昔から、子供の頃から、無理をしがちな亜衣だもの」
それが心配だと、火魅子は言う。
——これだ。亜衣がどうしても自分より火魅子を優先させてしまう、最大の理由がこの優しさにある。
亜衣は、奥の殿を後にした。暖かい気持ちで、心はすっかり満たされている。思う。火魅子は無理をするなというけど、全身全霊を上げて、自分は九峪と火魅子と、そしてその間に結ばれた小さな命が生きていくこの九洲を守ろうと。
それこそが、自分なりに九峪を愛する術であり、火魅子を愛する術であり、二人の子を守り愛し慈しむことこそが、自分自身の幸福となり、それぞれの思いに応え報いる方法であると心得たからに他ならない。
——私は、私の生き方を見た。
実感が手の平にあった。あるような気がしていた。
足は、せっせと九峪の邸宅へ向かっている。言葉にし難い答えを得たからか、どうかはわからない。ただとにかく、はやく九峪に会いたかった。一刻も早く。
九峪の様子も、危惧するほどのものではなかった。意識ははっきりとしており、床に臥していることを除けば、せいぜい元気がないように見えるだけだ。
少なくとも、亜衣にはそう伺えた。ただし、肉体の内側はわからない。とくに九峪が先年より体調を崩しているようだと、つとに忌瀬から聞かされていたのもあって、不安を払拭するほどにはならなかった。
邸宅は静かだった。下人の気配はしているが、みな、九峪の身体に障らないようにと音を立てないよう、心を砕いているのだ。それだけで、九峪がどのように下人を大切に扱い、また下人から慕われているかがわかる。
聞こえてくるのは鳥の囀りだけだ。
亜衣は、奥の殿でそうしていたように、九峪のすぐ側に佇んでいた。
「・・・・・・前にも、似たようなことはあったんだけど、さすがに気を失ったのは初めてだ」
そう九峪が苦笑いを浮かべる。陰のある表情を、亜衣はよく知っている。狗根国兵を火攻めにしたときと同じように、疲れた顔を九峪は貼り付けている。
何かがおかしいと、九峪自身が感じている証拠であった。忌瀬が言うところの夢症は、精神的な要素が大きい病気で、言ってしまえば『気から病』のようなものだ。気にしすぎるあまり、本当に体調を崩す。安息香はその対策として用意された薬だった。
だが、こうまで——それこそ昏倒するほどの苦痛を味わうようなものが、はたして『気から病』で片付けていいものなのか。もっと大事な病気ではないのか。九峪がそう思うのも、無理はなかった。しかし夢が絡んでいること事態に間違いもなさそうだった。九峪は、今回も不思議な夢を見たのだという。
火魅子が見たという夢とは、まったく異なる内容だった。九峪の見る不思議な夢は、いつも、声だけのものだという。たまに、予知夢染みたものもあり、それが九峪とその家来を助けることにもなった。
「ここ最近は、見てなかったから、よくなったんだとばかり」
「忌瀬よりの処方箋は、ちゃんと服していたんですね」
「俺は薬とか、あんまり好きじゃないんだが、忌瀬がうるさいからさ。あいつなら、もっと強烈なのを出しかねないし」
ともすれば、治療と称して新薬の実験台にされていてもおかしくない。さすがに病人相手にそんな無体はしないと思われるが、何と言っても忌瀬は忌瀬なのである。ましてや、『魔人さえも殺せる毒薬の開発』に平行して、いつしか『毒の効かない九峪にも効力のある薬』の開発にも熱中しかけている節がある。警戒されて当然だ。
ずいぶんと前に、亜衣がくだんの忌瀬から聞かされた話では、安息香も九峪の身体に効くかどうかは、はっきり言って未知数であるらしく、忌瀬自身の予想では効果はまったくないだろうとのことだった。あくまでも『気から病』を利用して、九峪が自ら安心できるようにしただけだと、そう心許ないことを忌瀬は語っていた。
生来知識欲の旺盛な亜衣も、医療術に関しては畑違いだ。多少の知識はあるが、忌瀬のそれと比べると海と水溜りほどに深さも広さも蓄えられた知識と経験にも差がある。
自分にはどうしようも出来ない。その事実が亜衣を苛立たせ、落ち込ませる。亜衣には九峪の体調が快方へ向かうことを祈るしかない。
「まあ、でも、こっちには忌瀬がいるし大丈夫だよな。・・・・・・第一、いまは寝てる場合でもないし」
力ない声音で苦笑した九峪の瞳が、病床の姿とは裏腹に力強い光を秘めている。
「戻ってきたってことは、もちろん、勝ってきたってことだろ。天目のところの軍団は、どうなったんだ」
九峪に尋ねられ、気落ちしていた亜衣も、顔面の筋肉をすぐに引き締める。
「座間の道での戦闘に関しては、当方の勝利に終わりました。敵将乃小野は那津城へと撤退し、現在、藤那様はその追撃作戦のための準備に入っております。遠州、写楽が指揮下の軍団をそれぞれまとめ、衣緒もこれに同行させます。音羽は深手を負ってしまいましたが、命に別状はありません。これは後方へ待機させております。ですが、近いうちに、耶牟原城へと帰還することになるでしょう」
「そうか・・・・・・。音羽が帰ってきたら、見舞いにいかないとな。琉球でも悲惨な目にあって、大隈海峡での戦いでも負傷してじゃあ、音羽も踏んだり蹴ったりだ。——そうなると、次は那津城を攻めることになるんだな」
「まいったな」と、いつしか口癖のようになった言葉を、九峪が困ったように口にする。那津城は九峪が、大出面軍を迎え撃つために建設させた要塞である。それがいまや、敵方の城として機能し、自分たちはこれからその城を攻略しなくてはならないのだ。
那津城の縄張り図には亜衣も目を通している。なるほどこの時代には画期的な城といえる。こと防御に関しては、通常の城攻めとはまったくことなる方法を用いないことには、陥落は難しそうであった。乃小野のように、城兵を誘い出して野戦に持込でもしないかぎり、落とすのはちょっと苦しい。篭城されては面倒であった。
その話を、別れ際に藤那と交わしたところ、「だったら遠弩でも放り込んでやる。補給線も寸断しているんだ。飢えにでも苦しませてやる。出てこないのなら、やりたい放題にしてやればいいだけだ」と、血も涙もない言葉を吐き棄てていた。
楽観できる部分もあった。新機軸の城砦である。攻め方がわからなければ、そもそも敵だって、那津城での守り方もよくはわからないはずだ。ならば、兵力でも士気でも優っている藤那のほうが、はるかに優勢だと亜衣は見ていた。
そう亜衣が話すと、「そうだな」と九峪も頷いた。「そっちは藤那に任せておこう」と言う。
「蘇羽哉はちゃんと、宰相の代役をやれているそうじゃないか。心配してたんだ。亜衣ほど上手くやれるのかどうかって」
「やってもらわなくては困ります。私にもしものことがあったときの代わりを育てるのは急務でしたし」
「そんな不吉なこというなよ。一応は俺も病人なんだから」
はっと亜衣が顔を曇らせる。
「も、申し訳ありません!」
失言を慌てて謝罪した。気の弱まった九峪の前で控えるべき言葉であった。九峪の言葉に責める色合いは微塵もなかったが、軽率だったと罪悪感を亜衣に感じさせるには十分なものでもあった。
心に油断があった。亜衣は。心の病から立ち直った九峪の姿を知っていたし、想像していたよりも九峪の調子が良かったこともあったので、心の留め具がどこか緩んでいたのかもしれない。病人は気落ちしやすい。
戦いの勝者となって浮かれていた亜衣も意気消沈してしまう。褒められることを想いながら親に叱られた幼童を思わせる。亜衣にしてこの態度は珍しかったのか、かえって九峪も「言葉が過ぎた」と慌ててしまった。
九峪の一言、一挙手にいたるまでが、亜衣の気に掛かるようになった。以前にもまして九峪はそう感じていた。亜衣が少しだけ人変わりしたようなのだ。どのように、といえば九峪にもはっきりとは言えないが、あえて表現するならばより九峪のためにという傾向へと顕著になっている気がする。
それが、亜衣なりに九峪を愛する気持ちの現れであるのだろうと、当の本人である九峪にも感づけた。それに応えるのも、これが九峪なりに亜衣を愛していく術であろう。決して結ばれない、というよりも、結ばれてはならないということを、九峪もよくわきまえている。こういう辺り、女好きな割には妙なほど潔癖でプラトニックな男だ。
いまの亜衣にとっては、九峪の役に立つことが大事であり、それは忠誠心を突き詰めた容のようでもある。亜衣は九峪を慕う気持ちを、少しずつ変質させていっている。九峪も、また、そうである。それが亜衣へ対する全幅の信頼であるし、ある種の寵愛になっている。火魅子や清瑞に対する気持ちとは、多少違う感情だ。というよりは、九峪が想う女性は複数いるけど、それぞれに抱く想いの種類が若干ことなるのであろう。火魅子へ向ける気持ちは、いうなれば愛妻への愛情、清瑞へ向ける感情は恋愛のそれに近く、亜衣の場合は恋から愛へ、そしてさらに別の何かへと変わりつつある。
この関係は、後ろめたさを孕んでいておかしくない背徳的でありながら、思いのほかに心地がよい。それは、男女のいわゆる世俗的な情緒とは性質に差異があるからだろうか。限りなく愛情に近い信頼であり、あるいは友情にも似た愛情のようでもあり、またあるいはそれらが逆になったようであるのだ。本人たちにも判然と理解しきれない。ただ、それだけでよかった。
結ばれずとも、繋がりようは幾らでもあるのだ。九峪と亜衣はそこに、主従の間柄を挟んで完成させようとしている。
言葉が、なくなる。少しだけ気まずい空気が流れた。それでも離れがたい雰囲気が満ちているようで、どちらも、何も言わず身じろぎすらしない。
すると、不意に亜衣が「申し訳ありませんでした」と、再び謝罪の言葉を口にした。そこまで気にすることかな、と九峪は思ったが、どうやら違うことで謝っているようだった。
「先の出陣、無理を言ってしまいました」
「ああ・・・・・・そのことか。いや、いいよ。結果として藤那を助けてくれたんだ。閑谷がいない今の藤那には、参謀格が必要だったと思うぞ、実際」
「藤那様に、叱られてしまいました。軽はずみな行動は、反って迷惑だと」
「軽はずみ?」
尋ね返す九峪に、亜衣は伏目に頷く。
座間の道での別れ際のことであった。藤那は亜衣が抱えた焦燥を見抜き、それに対する忠告をぶつけてきた。
——今回はお前のおかげで助かったと素直に思うとしよう。だが、忘れるなよ、亜衣。貴様は国家の政事をまとめる宰相だ。何があって出張ってきたかは知らん。聞く気もなければ興味もない。ただ、宰相であることだけは真実だ。もしまた、手柄ほしさに貴様が戦場に出てきても、次に大きな戦いが起こっても、私は決して采配もさせず、献策も受け入れん。すぐに追い返す。そのつもりでいろ。
藤那の目には、何かに駆り立てられているよう亜衣の姿が映ったのであろう。九峪の右腕という立ち居地は、その側近として働くことで有意義となる。その場所にはかつて亜衣が居座り、ずっとそうであると思っていたところに、ぽっと現れたのが昌香という、いくばくか知恵に長けた女だった。言うなれば、亜衣を突き動かしたものは、ただ一人の女へ対する危機感と嫉妬心であった。
つねに冷静であることを売りにしている亜衣が、こうまで心を乱すことも珍しい。結局、望んだ手柄を手にこそしたものの、熱から冷めてみたら、顔が真っ赤に染まりそうなほどの醜態を演じていたのかもしれない・・・・・・いや、間違いなく演じていたということに、ようやく亜衣は気づけた。穴があったら入りたいという気持ちを、いまほど痛切に感じたこともなかった。藤那に言われるまでもない。初めこそ浮かれていたが、冷静さを取り戻した途端に、
——私は子供かッ!
と、身をよじって悶えたくなった。醜い羞恥だ。今回は結果として良いほうへと転んだからよかったものの、方々に迷惑をかけてしまったという責任を痛烈に思い知った。
九峪の役に立ちたい。九峪に今よりもっと認められたい。昌香などよりもずっと優秀であるところを見せたい。そうして、また暴走してしまった。恥ずべきことだと思った。宰相としてはまさに失格と言わざるを得ない。
「浅はかでした。九峪様や火魅子様がお倒れになったとき、宰相たる私は座間にいました。・・・・・・このようなこと、あっていいはずないのに!」
「ああ、まぁ・・・・・・でもあれだぜ、結果オーライってやつだし」
「お許しください。このようなことは、もう二度といたしませんから」
「えっと・・・・・・わ、わかった。そんなに反省しているんなら、これから気をつければいいだけだし」
よくわからないまま、とにかく九峪は許す言葉を発した。たしかに九峪としても心配する出来事だったが、生来、終わりよければすべてよしの楽観的性格の持ち主であるから、こうまで自省の態度を示されては許す以外に道がない。
ただ、どれだけ亜衣が自分を責めてみたところで、その裏にある亜衣の葛藤に九峪が気づくことはなかった。それはつまり、亜衣が昌香などという個人に敵愾心を燃やしていたことや、あまりにも情緒を不安定にさせていた理由そのものを九峪が知らないということだ。それが亜衣にとっては、幸いであっただろう。
——こんな真似は、絶対にしない。もう、決して。
火魅子へ抱く想い、九峪へ抱く想い、これから将来の九洲へ抱く想い。それらを再確認した亜衣は、いまだ臥床にある九峪の傍らで、新たな決意を魂に刻み込んだ。