目と鼻の先で繰り広げられた攻防の勝利と火魅子の懐妊という事実を、耶牟原城に住まう住民たちが一同に知るところとなったのは、蘇羽哉によって敷かれた緘口令が解除されてからのことであった。住民たちは、座間の道で戦いがあったであろうことは知っていたが、さすがに女王の妊娠を戦勝とともに知ることになるとは夢にも思っていなかったであろう。
これがために、耶牟原城ではにわかな熱狂が立ちこめた。お祭り騒ぎである。危機からの脱却という安心感、女王のおめでたという吉事が住民の興奮を否応にも高めていた。
ただ、役人たちだけは、素直に喜んでばかりもいられなかった。あまり度を越して騒がれても困るからだ。ほどほどに一時の享楽を楽しませるよう、注意に注意を重ねて気を張っている。
九峪の体調が回復してきたころ、その日もすでに八月近くにまで日を進ませていたが、すなわち七月二十八日の薄暮に、那津城陥落の報が耶牟原宮殿にもたらされた。乃小野は篭城して案埜津からの救援を待っていたらしいが、到着まで持ちこたえることが出来ず、藤那らの猛攻のまえについに敗れ去った。乃小野自身は、これ以上の抗戦は不可能と判断するや、油瓶を身体に巻きつけ櫓の縁に立ち、片手には松明を握り、眼下でむらがる九洲兵目掛けて飛び込み爆炎を上げ、十数人を巻き込んだ壮絶な最期を遂げた。
那津城を失った大出面軍を、藤那はさらに執拗に追い続ける方針を打ち立てた。自己顕示欲の強い藤那のことだから、華々しい勝利を手に、これで耶牟原城へ凱旋するものだとばかり思っていた武将は戸惑いながらも進軍準備に入り、逆に騒ぎの大きくなるのを回避できると、耶牟原城の役人たちはほっと息を吐き出した。
九峪の体調が回復しだしたのも、このように騒がしい最中のことだった。
体調が回復してから、九峪はたびたび、お気に入りの庭園を散策するようにしていた。心身の爽快のためにと、いまや主治医となっている忌瀬からアドバイスされたためだ。
この世界へ渡ってきてから、何度目の夏になるだろか数えるのも面倒だが、少なくとも九峪が作らせた庭園が迎えた夏の数とはすでに五回にもおよび、同じくらい、寒々しい冬や、うら寂しい秋や、明るい春も過ごしてきている。
その季節ごとに、庭園の草花も色鮮やかに姿をかえ、さして娯楽の少ない時代に生きる九峪を楽しませてきた。
池がある。人口の小川とつながれ、その上には小さな橋がかけられている。むかし、九峪と亜衣が夜風に包まれて抱擁を交わした場所も、たいして変わっていないように見える。ただし、池にはスイレンの赤々とした花弁が、緑の葉に乗っかって美しい。阿蘇から耶牟原城へ戻って、このスイレンの存在に気づいた。不在の間に根をはったらしい。
そういえば、池の周りはなにかと縁のある場所である。亜衣と想いを通わせあったのも、藤那が妊娠していたという事実を知ったのも、すべては庭園の池に近い場所であった。
藤那が那津城を落とし、なおかつさらに進軍すると聞いた九峪が足を運んだのが、どういうわけか庭園の池だった。
九峪は水面に顔を突き出し、揺れる水面を飽きなく見下ろす。九峪の奇行はいまに始まったことでもないが、男が池の水辺にしゃがみこんで、じっと水面を見つめている様子に、庭師の男はさりげなく距離を取るほどだ。九峪は、気にしていない。
「やっぱり、二面作戦は難しいな」
九洲防衛と泗国経略のことである。防衛戦にかんしては何とか峠を越えれたが、しかし肝心の泗国ではいまだ一進一退の戦況が続いている。これはよくない状況だ。おもしろいのは、このよくない状況が、狗根国、大出面国の二国も抱えている問題であることだろうか。いや、三国に囲まれてそのすべてと敵対している大出面国——というより天目のおかれた状況がもっとも深刻であろうか。
だが、彩花紫は彩花紫で北方の蝦夷という蛮族と国境を争い、九峪も九峪で、琉球勢力との諸問題を抱えている。どこも似たり寄ったりである。
どうしても、兵力を分散させなくてはならない戦いだ。これはそういう戦争で、その道の行くことを九峪が選んだのだ。
その九峪にとって、当面、気がかりだった九洲防衛はひとまずの決着を見たと言っていい。まだまだ油断できない状態であることに変わりないが、それでも流れはいま藤那の背中を押している。勢いに乗った藤那の攻撃は、九峪でも背筋が凍りそうなほど恐ろしい。紅玉などよりも巧みでないから、とにかく容赦がない。
九洲の方は、もはや藤那に任せてよいであろう。不安は泗国にある。情報がどうにも暗いものばかりで、とくに伊万里が担当している西伊依方面と、伊雅と閑谷が戦っている讃其は、よく攻守が入れ替わっている。いまはまだ表面化していないものの、戦うほどに不利になる要素を山ほど抱えている。
中でも——やはり、伊万里である。こちらは日に日に戦況が悪くなりつつある。
軍の動きが鈍くなっているのだ。言い換えれば、伊万里の決断力が低下し、戦意や覇気といったものが薄らいでいるように、九峪には感じられて仕方がない。それほど、西伊依の状況は怪しい。
九峪自身に後ろめたい気持ちがあるから、余計にそう感じるのかもしれない。病状も快方へむかい、精神的に余裕が生まれてからは、これらがために、
——俺が泗国へ渡るべきか?
とまで考えるようになっていた。九峪が動けば、きっと、天目も彩花紫も動くかもしれない。いつかはそういう時期もくるであろうが、それが今かどうかと問えば、九峪にも違うように思える。機は熟していない。だが、焦燥が胸のうちで燻るばかりだ。
無論、伊万里へ対する九峪の信頼に変わりはない。西伊依の戦況如何にかかわらず、伊万里ならば持ちこたえてくれるはずだという思いもある。しかし、現実として劣勢に立たされているなら、援軍を送るなり何かしらの手段を講じねばなるまい。
何よりも、伊万里を死なせるわけにはいかないのだ。伊万里の想いを知ってしまった今ならばなおさらで、想いに応えられない代わりに、出切るかぎりの力になることが、伊万里の気持ちに報いる唯一の方法だ。
その分、とにかく後ろめたい後味の悪さだけが残る。こればかりは、九峪自身も自業自得とするしかあるまい。伊万里の変調に自分が関わっているという直感が九峪にはあった。
なんにしても、援軍である。
「藤那、遠州、写楽は動かせない。切邪絽も藤那軍に合流する。空いているとすると・・・・・・志野と尾戸くらいになりそうだけど」
志野や尾戸は、有事の際に控えさせている予備戦力だ。たしかに今回のような場合に備えてのものであるから、そのことに問題はないであろう。あえて問題と上げるなら、人選にしぼられる。
伊万里と志野には、半窪で因縁がある。どちらも手痛い応酬をし合ったなかだ。乱の最期には共闘したと聞くが、複雑な気持ちは抱いたままかもしれない。それに、西伊依の海には北山水軍がいる。火向人には北山を嫌うものも多い。これも、やはり見過ごせない。
こうなると、自然的に援軍として送れるのは、尾戸くらいのものになるであろう。しかし、正直なところを言うと、尾戸の領地はいま藤那たちが行動している北九洲域のやや南にある。すでに物資の補給線を管理する立場になりつつあり、藤那もまた尾戸に補給行動を取らせようと考えている節がある。
「尾戸は動かしづらいよな。でも、志野か・・・・・・火向勢をあたらせるのも、どうかだし」
そうなると——
ふと、九峪の考えのなかに亜衣という存在が浮かび上がった。
——いや。きっと亜衣は、しばらく戦場に出たがらないかもしれない。
亜衣は亜衣なりに思うところがあるのだろう。でなければ、九峪の病床を見舞ったとき、あそこまで自省することなどなかった。
だが、しかし、亜衣が激しく自省した一方で、今度は九峪に心変わりが起きていた。蘇羽哉が執政官として優秀であるということを知ってしまったのが原因だ。宰相の代行を務められる者がいる、宗像巫女に優秀な人材が多い、ということは、九峪の戦略的思考の幅を広げさせた。
つまり、それまで政事を亜衣一人に見させたかった自身の方針を、ようやく転換させることが出来たのだ。こうなると、いろいろと考え方も違ってくる。状況によって亜衣を動かせるという事実は、迂闊に動けない九峪にとっては大きな強みである。
とはいえ亜衣の考えが変わり、九峪の考えも変わった。結局はすれ違ったままだ。それでも、九峪のお墨付きをもらえれば、おそらく亜衣は欣喜雀躍としてその意に従うであろう。
「・・・・・・亜衣は伊万里とも仲がいいしな」
志野を送るよりは、はるかに伊万里も喜ぶだろう。そう考えながら、九峪は、亜衣に泗国への出兵を要請する決心を固めた。大将軍の伊雅と、宰相の亜衣がいるとなれば、味方の士気も上がるに違いない。
そうして九峪が伊万里への援軍に関するあれこれを考えていた丁度そのとき、半島から帰ってきた只深と宰相業務に復帰した亜衣が、宮殿の回廊でばったりと出くわした。只深の側には伊部がおり、亜衣の側には宗像巫女が二名ついている。
二人にとっては、一ヶ月振りの再会となる。
「只深・・・・・・。戻ってくるという書状は受け取っていたが、存外に早いじゃないか。もう六日、七日先の話だと思っていたんだが」
「そら、そうでっせ。何しろ時化のなか来ましたさかい」
「時化? 良風を待てばいいだろうに。そんな危ないことをするとは、お前らしくないぞ」
「危ない言うんはうちやあらしまへんがな。ひょっとすると、とんでもないことになるかもしれまへんねん」
早口にまくし立てる只深の視線が、それぞれ巫女たちへと向けられ、それから亜衣へと照準を合わされる。
亜衣は、すぐに只ならぬ気配を只深の視線から感じ取った。
「何かあったのか? いや、何かあったんだな」
「これは九峪様の耳にも入れといたほうがよろしゅう思いまっせ。何しろ天目が絡んでる可能性がありますさかい」
「なにッ!?」
天目の名を聞いた瞬間には、もう亜衣の表情は、臨戦態勢もかくやと言った具合に強張っていた。
つい過日まで、耶牟原城の近くでも天目が支配する大出面国の軍団と戦ったばかりなのだ。直接的な脅威という認識において、天目ほど神経を逆なでするものもない。
「半島で何があった。何を知った」
「それをここで話すんは、あまり塩梅もようありまへん。うちはいつでも構いまへん。亜衣はんの都合のええ日——出来るかぎり近いうちに、九峪様を交えてお話ししますわ」
「・・・・・・近いうちになどとは言わん。すぐ九峪様に取り次ぐ。そこで話してくれ」
「わかりました。ほな、うちは一旦大蔵(只深の執務室)に寄りますさかい」
「ああ、後で呼びに人をやる」
すれ違い、遠ざかる只深を見送った亜衣は、巫女たちを九峪の元へ走らせる。そして亜衣はその場に佇み、むむっと唸った。
「天目が次の手を打ってきたか。こちらへ対するものか、泗国か、もしくは狗根国か・・・・・・」
言葉にしつつ、いまはわかるはずもないと亜衣は瞳を閉じる。まだ仔細の一言も聞いてすらいないのに、考えたとて仕方がない。
とにかく、自分も九峪の元へ向かわねばならない。宰相としての責務でもある。
只深が呼ばれたのは、宮中にある九峪の私邸であった。伊部をつれて軒先を訪ねた只深を、女中が恭しく出迎えた。
「九峪様よりお通しするよう言いつけられております。ささっ、どうぞ、お上がりくださいませ」
「亜衣はんはもう来とりますかいな?」
「つい半刻ほど前に、お興しになられております」
九峪屋敷特有の、草鞋を脱いで上がる仕様にならい、只深と伊部は履物を脱いで床板を踏んだ。只深がこうして九峪の私邸を訪ねるのも久しぶりであった。
視線をあちこちに向けると、権力者とは思えないほど、さっぱりとした内装だ。以前と何も変わらない。ときどき、只深が交易で入手した飾りや置物が、申し訳程度に据えられているのが視界に映る。
「お女中はん、九峪様のご健勝に変わりはありまへんか」
と、只深は歩きながら女中に言葉をかけた。ただ何気ない、社交辞令的な挨拶で、只深の商人気質らしい軽い文句である。あるいは、とにかくお喋りな性格であるから、無言であることに堪えられなかったのか。
女中の肩がびくっと、一度だけ上に大きく跳ねた。歩みが乱れた。女中からは生返事だけが返ってきた。
おや? と、只深が首をかしげる。九峪の世話役を務めている女中は、かしましい只深から見ても快活な女性だ。煮え切らない様子には違和感がこもっていた。
だが、それ以上深いことを、只深はとくに考えなかった。どこか調子でも悪いのだろうくらいにしか思わなかった。九峪の身体を襲った異変を只深は、未だ知らないでいるのだ。
通された先の一室に、九峪と亜衣はすでに座して、只深の到着を今か々々と待ち受けていた。
まずは九峪が、笑顔を浮かべて只深を出迎えた。
「よう、お帰り。長旅ご苦労さんだったな」
片手を上げて気安げに言う九峪の様子は、いつもと何ら変わりがない。
「いえいえ、そうでもありまへんがな、九峪様。半島なんてお隣のようなもんですがな」
「ははっ、そう言えるのは九洲でも只深くらいだよな」
「商人はみんな、半島を近くに感じ取りますさかいに。まだまだ大陸の向こうにも世界は広がっていることに比べたら、大したことやあらしまへんよって」
「まぁ、そうだな。東南アジア、中東、そしてヨーロッパ。世界は広いよなぁ」
しみじみと九峪がため息をこぼす。世界の広大さ、雄大さに比して、倭国の何と小さいことだろうか。
ちなみにこれは余談だが、この時代を生きている只深たちも、九峪の影響から西方世界の呼称を『よぅろっぱ』として公式に用いている。この呼び名は天目も使っている。九峪と天目の同盟時代に生まれた産物の一つである。
「『絹の道』の開発には、まだ時間がかかりそうなのか?」
「そっちの方は、謝まらなあきまへんな。どの商人たちも、中々よう上手いこと行っとりまへん」
「仕方がありませんよ、九峪様。むしろ只深はよくやっている方でありましょう」
「わかってるって。それに関しては、地道にやっていこう。なあに、今は天目に美味い汁を吸わせておいてやるさ。俺には天目にもない知識がある。それを思う存分発揮する日が来るまではな」
「ほな、それまでに『絹の道』を開ける糸口を、見つけとかなあきまへんなぁ」
「うん、頼むぜ、只深。いつまでの西方交易が天目の独壇場っていうのは、面白くないからな」
「美味い汁を吸いたいのは、九洲の商人も同じですしね」
「そういうことだ」
挨拶代わりの近況報告に一段落がついたころ、ちょうど、女中が三人分の茶を盆に載せてきた。それで一服をつけると、いよいよ九峪たちは、話しを本題にいれた。
「それでだ、只深。天目は半島で、何をしようとしていたんだ? それとも何かをしていたのか」
「うちは、九峪様や天目や彩花紫みたく、軍事やらはようわかりまへん。せやから、情報は集めるだけ集めましたさかい、たぶん余計なものも多いでっしゃろが、聞いたこと知ったこと、全部お話ししまっせ」
「ああ、それでいい、頼む」
「ほな・・・・・・」
ちらりと、只深は斜め後ろに控えている伊部へと顔を向ける。頷いた伊部が、持参してきた布巻きを広げる。中には、いくつかの書簡が包まれていた。
そのうちの一つを只深は手に取る。
「これはまとめた情報を記した書簡で、大体のことはここに書いとります。まずはこれを」
書簡を九峪が受け取ると、只深はさらに他の書簡も手に取る。亜衣も、一つを受け取り、中身を改める。
「大型船? 天目が買ったのか・・・・・・?」
「大型船言うても、戦艦やありまへん。外洋船でんな。わてら商人が交易に用いてるような船ばかり」
「ようはでかい船だな。しかし戦うための船じゃないんだろう?」
「外洋船は、大きさだけならば重然の竜神丸よりも、高さ、幅、長さありますが、その分小回りは利きません。また船室は多数あれども、兵を突撃させる分には、壁や戸口はかえって手間を増やし、兵の勢いを止めるだけのもの。まったくいくさには不向きな船です」
「外洋船は外洋船だ。交易に使うだけじゃないか」
「うちも最初はそう思っとりました。せやけどでっせ、九峪様、考えてみてください。天目はすでに『よぅろっぱ』と交易しとりますし、これは陸路。半島から倭国へ海を渡るにしたって、わざわざ船を買わなくても、十分に物は仕入れ出来まんねん。九洲かて、狗根国かて、大陸半島との交易に船を買う必要なんかありまへんのや」
「たしかに、な」
「うちがおかしい思うんは、それにもまして、天目の買い求めた船の数や。新造の外洋船を、天目は二十八隻も作らせて、一気に買うとります」
「外洋船を二十八隻・・・・・・。それは、多いのか?」
あまり海の事情に詳しくない九峪には、いまいち実感が湧かない数字であるらしい。只深は亜衣へと視線を転じる。
只深に代わって亜衣が、その途方もない船事情を九峪に語る。
「加奈船一隻造るのに、大体、銀子が十二、三枚。外洋船にいたっては、古いものでも金子二十枚は必要となります。新造艦だと、さらに金子五枚。金子二十五枚で、兵五百人を二ヶ月は楽々と養える計算になります。それが二十八となれば・・・・・・」
「単純に考えて、兵一万四千人を、二ヶ月間は戦わせられるのか・・・・・・」
「戦費に回せば、そうなります。それを天目は船に、それも交易に用いるような外洋大型船に、惜しみもなくつぎ込んだということです」
「そして、その船だって考えてみたら、別に買わんくたってええ船のはずってことでんな」
「それは・・・・・・おかしな話だな。交易するにしても、わざわざ買う必要はないよな。だとしても——天目のやつ、何がしたいんだ? あいつがこんなバカなことをするとは思えない」
「同感ですね」
九峪の疑問に亜衣も只深も同意を示した。天目のしていることは、少なくとも九峪たちにとっては、現状あまりにも不必要なことだとしか思えなかった。常識というものの考え方から推し量れば、そうなる。
しかし、何しろ相手は天目であり、先ほどの九峪の言葉どおり、このような愚かなことはしないはずだ。
はたして天目の思惑、狙いがどこにあるのか、どうにもまったく見えてこない。
交易船を交易で使うのは当然だが、大陸半島交易のために交易船を買う必要はない。この認識は、いまの倭国では九洲にしろ大出面にしろ狗根にしろ、変わるものではない。事実、彩花紫はそのようなことはしていないし、実際にするつもりもないであろう。例外は、九洲のように琉球などとわずかにつながりのある国くらいなもので、それにしても過度の船数を必要とするほどではないのだ。
「交易に使いそうもない交易船、いくさに使えそうもない大型外洋船・・・・・・なら、何に使う?」
九峪は、もし自分が二十八隻の大型船を所持するとして、その使い道を考えてみた。交易で使ってもいいのだが、そのために大金をはたくのはどうしても無駄でしかない。海戦に出しても、小回りも利かない大きな船体では、瞬く間に火矢で燃やされるのが落ちだろう。
「まさか漁に使うわけでもないだろうし」
それではまさしく阿呆の所業である。くだらない考えが浮かび上がるくらい、ほとほと皆目見当もつかない。
と、あれこれと天目の考えを追う一方で、はっと、九峪はあることに気づいた。
「そうだ、只深。天目が買ったっていう大型船、どこに回されたか、わかっているのか?」
「どこ、というんは?」
「大型船の行き先さ。輸入したんなら、どこかの湊に入れなきゃならないはずだろ。その大型船、どこの湊に入ったんだ。どこの国に」
尋ねられて、ようやく只深も合点がいった。言われてみればそうだ。大型船の行き先は、山陰地方の湊のどこかに絞られるはずだ。
大型船が入港した場所を特定できれば、それからの目的を判断する貴重な材料となるかもしれない。
さすがの只深も、そこまでは考えていなかった。九峪の相変わらず鋭い観察眼に感心しながらも、
「すぐに調べまひょ」
と、大型船の動向を探ることとなった。そのためには、もう一度、半島で調べなおす必要がある。これから三日後、只深の部下が数名、調査隊として半島へと渡ることになる。
「何しろ天目のことだからな。何をしかけてくるか、わかったもんじゃない」
それは、紛れもない九峪の、本心からの言葉であった。天目の考え、彩花紫の考え、どちらも九峪をしていまいち掴みかねるものだ。
只深が九峪の邸宅を辞しても、亜衣だけは止め置かれた。九峪が、特別な話があるのだという。
なんだろうと思い、暮れ時になりつつある部屋で、九峪は亜衣に泗国へわたって欲しい旨を話した。蘇羽哉の優秀であることはよくわかった、泗国経略を手助けして欲しい、と。
亜衣が動揺するのも、無理はなかった。どれだけ亜衣が懇願しても、九峪はなかなか政務から外してはくれなかったのだ。座間への出撃にしろ、止む無く了承したという色合いの強い出来事で、やはり本意ではなかった。
それを痛感した亜衣だから、もう我侭は言うまいと心に近い、九峪に近い、そしてわずか十数日経過した今日なのである。
「な、何故でしょうか?」
と、思わず聞き返してしまうほど、急な心変わりであった。
九峪は、難しい表情をして亜衣を見つめた。
「たぶん亜衣も知っていると思うけど、西伊依——伊万里が苦戦しているらしい。それの援軍に、亜衣に行ってほしいんだ」
「伊万里様の援軍、ですか・・・・・・」
「九洲と泗国を結ぶ最短水路は、豊依海峡にある。ついで豊後水道になるわけだけど、西伊依を失うと、連絡に支障をきたすことになるよな」
「そうなりましょう」
「言ってみれば、西伊依は俺たちから見て泗国の玄関口だ。入り口を塞がれちまうと、入ることも出ることも出来ない。裏口を使わないかぎり」
「裏口・・・・・・斗佐側の湊ですか」
「ああ、だけどそんな遠回りはしてられない。西伊依は失えない。伊万里も見捨てられない。それに亜衣は宰相だ。宰相自ら出陣したってなったら、そりゃあもう味方も大盛り上がりだろうし・・・・・・」
「し、しかし、九峪様。私が援軍として駆けつけたとして、それでは伊万里様の面子を潰すことになりかねませんッ」
気色ばんだ亜衣が、叫ぶように言った。いくら亜衣が宰相であるといっても、同時に伊万里も、香蘭、藤那と並ぶ大三公の一人である。それなりに守るべき体面と重責がある。
そのことは、重々九峪も承知しているところである。だからこそ、今回の援軍という形に、ある一つの名文を添えることを考えた。
——神の遣いの代行
という名文である。これによって、形式上では九峪自らが出陣することと同議とすることができるし、これはこれで、また将兵を鼓舞する材料にもなる。そうして伊万里の面子を守ると同時に——九峪雅比古は決して見捨てないぞという、伊万里へ向けた密かなメッセージでもある。
だが、そのような隠された想いがあるなどとは露にも思っていない亜衣は、
——それならば
と、静かに思った。何も気兼ねすることなく、九峪の役に——九峪の望む泗国経略という、国家の一大事に加われる。ようやく九峪に認めていただけるのだという高揚感も湧き上がるようであった。身体の芯から熱せられたように、微熱が亜衣を火照らせる。
しかし、冷静さは失わない。たしかに大義名分はあるし、嬉しいと思う気持ちがある一方で、やはり躊躇う心も揺れているのだ。
その亜衣に決意させたのは、そのとき九峪の元を清瑞が尋ねてきたことにあった。急ぎの用事でもあったのか、女中が案内するよりも早く、清瑞が九峪たちの前に姿を現した。
はっと、清瑞と亜衣の視線が交差する。
「あっ、亜衣さん。来ていたんですか」
「どうしたんだ、清瑞、そんなに慌てて」
お互いに顔を見合わせる二人であった、最初に我に返ったのは清瑞の方であった。九峪と亜衣から丁度二歩離れた場所——のように見せかけて、さりげなく九峪よりの側に膝を下ろした清瑞が、声を潜める。
「泗国へ放っている密偵より、どうしても気になる情報が入りました」
と、清瑞が声調子を落として話し出すので、九峪と亜衣も、自然に表情を引き締めた。つい先ほどまで、重要な話をしていたところなのだ。
「その、私も俄には信じがたいことなのですが・・・・・・。大出面国の者が、度々、伊万里様と接触されているということなのです」
「なッ——!?」
「き、清瑞、それは本当か!?」
二者二様に大きな反応が清瑞に返ってきた。九峪は上体を大きく仰け反らせるほどに身を強張らせ、亜衣も驚愕の表情を隠すことが出来ずにいる。
清瑞でなくとも、信じられる話ではない。信じられない余り、九峪がおもむろに立ち上がると、
「そんな馬鹿なッ!!」
と、周りも憚らずに絶叫した。もはや悲鳴にも近かった。かつて藤那が謀反を起こしたとき以上の衝撃を感じていた。それも、無理はなかった。
明らかに九峪の狼狽は甚だしい。亜衣の驚きもそれなりのものであったが、まだ、清瑞はこれが『謀反』であるとは断言していない。九峪とは違い、その点を亜衣は性格に聞き留めていた。
「——接触しただけなのか? それだけなんだな!?」
亜衣の念を押すような詰問に、首肯のみを清瑞はしてみせた。しかし、清瑞は懐から一枚の折られた紙を取り出し、それを九峪たちの前へ差し出した。
それは、大出面の武将が伊万里へ当てた、謀反を誘う内容の手紙、それを模写したものであった。密偵として放たれているホタルの愛染が、現地で写し書きしたものだ。
重要な証拠である。
「仔細はいまだ不明瞭なこともありますが。ですが、敵方から何らかの誘いを受けていることは間違いなく・・・・・・」
「そんな・・・・・・」
気の抜けた声が、九峪の口の端から零れ落ちた。すぐに九峪の脳裏に、この書状に書かれた内容と、それまで快進撃を続けていた伊万里の戦況がいきなり悪化したこととが、悪い形で結び付けられようとしていた。
——俺のせいなのか。
とまで、思った。伊万里に裏切る理由があるとするなら、遠因はそれしかないように感じられる。そうでもなければ、絶対に裏切りなどしそうもない人間なのだ。
途端、罪悪感がこみ上げてくる。これまでに伊万里へ抱いていた後ろめたい感情が、この瞬間に爆発し、噴火し、吐き気まで催しかけた。九峪の顔面から一気に血の気が失せていく。真っ青だ。
そんな九峪の様子を見た亜衣も清瑞も、九峪と伊万里が抱えている秘密までは知らないから、よほど伊万里に謀反の疑いがあることに心を痛めているのだと考えた。それ自体に間違いはない。ないのだが、やはり、ちょっとだけ事情は違った。
「——泗国へ行く」
不意に九峪が、小さな声で言った。
「泗国へ行く。行って、この目で、耳で、確かめるッ!」
「く、九峪様、それは——」
「裏切られるのは、もう十分だッ!! このうえ伊万里にまで裏切られたら、俺は——ッ!」
「落ち着きください! いま不用意に動いては、天目と彩花紫が何をするか、わからないのですよ!」
「だけどッ!」
甲高く叫んだ瞬間、ぐらりと九峪の身体が前のめりに傾いだ。
瞬時に動いたのは清瑞だった。亜衣などでは到底出来そうもない反応速度で膝立ちになり、両腕を伸ばして九峪を支える。九峪も辛うじて両足を踏ん張らせる。
「うっ・・・・・・」
「く、九峪様、しっかり!」
苦悶に脂汗を流す九峪に、大慌てになって亜衣も身を寄せる。
「いけません、まだ病み上がりなのですからッ」
いくら回復したといっても、まだまだ本調子ではない。か細い呼吸を繰り返す九峪の背を、亜衣はやさしくさする。すぐ側で清瑞が面白くなさそうな顔をしているのにも亜衣はしっかり気づいていたが、そんなことには構っていられない。
か細い呼吸を繰り返す九峪が、かすれた声で「伊万里・・・・・・」と呟いた。
もはや九峪に平静さはなかった。かつてないほど、かつてない様相で、九峪が頭を激しく振り乱した。厭な想像をかき消そうとするように。このような九峪の姿を、亜衣も清瑞も、いまだ見たことはなかった。それだけに、今の九峪が異様に見えて仕方がなかった。
——九峪様をこうまでさせる。一体なにがあったというのですか、伊万里様ッ!
思えば思うほど、亜衣を怒りが支配していく。なまじ仲がいいだけあって、亜衣にとっても、心のどこかで裏切られたという気持ちがあった。九峪を第一に考えている清瑞にいたっては、むしろ憎しみに近い感情を抱いてすらいた。
確かめなくては。九峪様を行かせてはいけない。私が、泗国へ——ッ。
亜衣は素早く身を低くし、
「九峪様、先ほどの仕儀、承りました。この亜衣、泗国へ渡りましょうッ」
口を突いて出た言葉は、とても大きな声に乗って、九峪と清瑞にぶつけられた。