十年余を戦乱の世にすごしてきた九峪をして、かつてない危機的状況であった。頼りとなる味方はどこにもおらず、あわれ虜囚となって今や牢に繋がれる身となってしまっていた。
外加奈の城に設けられた牢屋は八棟、一棟に八屋ある。一室十人を計算した造りをし、六百人以上を収容可能とする、当時の倭国で最大級の監獄といえる。
牢屋の建設を支持した紅玉に、どのような思惑があったのかは九峪にもわからない。過去になんどか外加奈の城を視察したこともあったのだが、さすがに牢屋まで見聞したことはない。
引っ立てられて監獄区域へ連れてこられたとき、耶牟原城にある監獄と同規模の備えに、場違いながら簡単の吐息を上げたものだった。
牢屋に罪人の姿はほとんどなかった。それゆえにとても静かだ。拘束こそされなかったが、むき出しの土床にじっと座っているのも辛い。麻の敷物と、片隅に小さな厠があるだけ場所だ。もちろん日当たりなど最悪だ。
まさに絵に描いたような牢獄だった。
耶牟原城より誘拐されて、すでに二日が過ぎようとしていた。ぞんざいに握られた雑穀の握り飯一個だけが、空腹に鳴く腹を慰めてくれる。水も器に一杯しか与えられない。
ぐったりと横たわる九峪は、向かいの牢屋に囚われている教来石の名を呼んだ。
「腹が減った・・・・・・」
「わしもです」
声が返ってきた。むくり——教来石が身体を起こした。顔面は晴れ上がり、青あざになっている。暴行を受けたらしい。
「とんでもないことになったなぁ」
「面目ござらん・・・・・・。力及ばず、このような結果になってしまい」
「こうなることを恐れていた・・・・・・」
亡羊と九峪が言う。
「我慢の限界だったか」
唇を噛んだ教来石のこぶしが、地面をしたたかに殴った。
「代替わりした直後にこの有様ッ。あの世の廉思に会わせる顔がない」
「これから、俺たちはどうなるんだろうな」
「九峪殿は交渉の材料です、殺されることはないでしょう。・・・・・・わし自身どうなるかは、わかりませぬが」
「北山・・・・・・これ以上、滅びの道を進むな」
力なくつぶやく九峪に、どうすることも出来なかった。
「どんな飛び方をしたら、こうなるんだッ」
思わず悪態をついてしまった。肩口まで伸びた髪を無造作にかき乱す仕草にさえ、苛立ちを隠しきれていない。
身体の線に合わせた飛空挺用の黒装束に身を包んだ姿を、周りにいる伊依人たちがものめずらしそうに眺めている。だがそれはほんの一部だけだ。大多数が、翼を広げた飛空挺の雄姿に、目を皿にして呆然と見つめていた。
飛空挺はそこかしこの部位に不具合が生じていた。とくに主翼の接合部、稼動部の歪みが酷い。
遠距離飛行用の飛空挺は標準仕様よりも、ずっと大きく丈夫に造られている。よほど操縦の達者な方術士ならば嵐の中でも突き抜けられる程度の剛性を確保している。
そう簡単に歪みなど生じるわけがないのだ。
「無理な飛び方をしたな、佳菜芽(かなめ)のやつ・・・・・・」
急いでいた証拠なのだろう。小回りの利く標準仕様と同じ勝手で動かしていたに違いない。そうでなければここまで傷まない。
「これでは私も、迂闊に速度を上げられないな」
もしかしたら速度超過で空中分解を引き起こす危険性がある。
——ここまで壊して飛ぶんなら、工具のひとつも積んで来い!
亜衣も急ぎたいのだ。いくら文句を言ったところで、詮無いことだが。
大空を見上げる。本日は晴天である。
風も良好。
一見するとなんら問題はない。舌打ちが亜衣の小さい唇から響いた。
「薄雲大気に溶け、風雲乱るるは、即ち嵐の前兆・・・・・・。新しい台風の尖兵が空を荒らそうとしている」
良風を待てば、ゆうに十日は過ぎ去る。強風の、それも大気が乱れる悪天候を、手に汗握って飛ばねばならないようだ、ちゃんと飛ばない飛空挺で。
本音を言えば、半日で到着したかった。これでは不眠不休で一日以上をかけねばなるまい。
「九峪様・・・・・・」
——どんな状況なのか、それすらも亜衣はよく知りもしない。九峪が耶牟原城より攫われた、犯人は北山である、ということ意外、何一つだ。
耶麻台共和国建国より十二年こちら、最大の大失態だ。大君を奪われるなど古今に例がない。だがそれはいい。いやよくないが、面子よりも何よりも、まず九峪の安全が確保されなくてはならない。
北山は誘拐という手段を講じた。暗殺はしなかった。ということは、何らかの目的があって九峪の身柄を奪ったのだ。おそらく何かしらの交渉のために、人質として利用する腹積もりなのだ。
その点だけを考えると、すぐに生命を奪われる心配はない。ないが・・・・・・五体満足である必要もない。死なない程度に暴行を受ける可能性はきわめて大きい。
不安だけがいたずらに膨らんでいく。歯止めが利かない。冷静にならなくてはと言い聞かせても、かつてない九峪の危機に側にいなかった己が身の迂闊さが、自責の念に苦しませるのだ。
自分がいて防げたかどうかはわからない。それでも、盾にはなれたかもしれない。
視線を転じると、飛空挺の不具合を確認する佳菜芽の姿があった。佳菜芽の乗ってきた飛空挺で亜衣は九洲へと戻る。当然佳菜芽は泗国へ置き去りだ。佳菜芽はこのまま大洲城へ合流し、戦いに参加する。
「佳菜芽ッ」
大きな声で呼ぶと、首をのばした佳菜芽と目が合った。
「重大な欠陥はないだろうな」
「大丈夫です、飛ぶ分には問題ありません!」
「よしっ」
亜衣が表情を引き締める。いよいよ飛ぶときだ。いまはまだ空も穏やかだが、すぐに風向きが逆流する。移り変わりは驚くほど早い。わずかに一刻もあれば荒れ模様となる。
走りよってきた佳菜芽が、ふっと亜衣の腰元に視線を落とした。方術士の亜衣にしては珍しく、そこには太刀が引っさげられている。鍔のない太刀である。
「どうしたんです、亜衣様、刀なんかもって」
言われて亜衣が太刀を握った。ほどよい緊張の顔面に笑みを浮かべる。
「これか、これは伊万里様より授けられたものだ」
「伊万里様からですか? なんでまた」
「護身刀だ」
この刀は、伊万里が長年にわたり武功を積み上げてきた愛刀とは別に、彼女が戦場へ赴くたび必ず腰に帯びたもう一つの刀である。切れ味鋭いうえに上質の鋼を用いてとても高い硬度を実現した逸品であり、この刀を佩いた道中や陣地では、どんなに雨風がすさまじくとも、河川の氾濫、土砂崩れに巻き込まれることがなかった。
むかし、戦場での武運を祈願する儀式が執り行われたとき、伊万里、藤那、香蘭、尾戸、切邪絽、写楽、志野、小久慈ら知事たち八州の大諸侯たちへ、それぞれ特別に鍛え授けた宝剣がある。鍛えた鍛冶師は、九峪の七支剣も作り出した伝説的鍛冶師、近松門左衛門の作により、火魅子が鬼道をもって加護を吹き込んだ。
このうち、蔚海の乱で伊万里と志野に討たれた小久慈所用の宝剣『妙久(みょうきゅう)』は、その後に彼の後釜として豊前を任された遠州の手に渡った。ちなみに、妙久の久は小久慈の一字よりつけられている。敗北した逆賊の名は縁起が悪いとして、とくに鍛えなおすことを許された遠州はさっそく、再び近松門左衛門の手によって宝剣を生まれ変わらせた。銘も『芯遠(しんえん)』と改め、火魅子の加護を二度も吹き込まれたこの刀は、八本ある宝剣の中でとくに神聖な力が強い。
現在、それぞれの宝剣を継承するということは、知事に列せられることを意味し、宝剣と鳳凰符をもって知事の証とされている。数十年の後に、宝剣および鳳凰符の受領をもって、新たな知事が誕生する仕組みが出来上がることになる。が、これはまだまだ先の話だ。
上記は余談。
召還命令は勅令、すなわち火魅子の指示によって発せられた。折しも大洲城は作戦発動直前にあった。計略の発案者でありながら戦場を離れなければならない亜衣には迷いがあった。
しかし、その迷いを断ち切ってくれたのが、他でもない伊万里だったのだ。
「九峪様を助けてほしい」
と、伊万里は言った。さらに言葉は続く。
「私にあんたのような生き方が出来るか、それはまだわからない。だけど、投げ出すのは嫌だし、自分の身勝手のために上乃たちに迷惑もかけたくない。私なりの愛し方が本当にあるなら、それを見つけ出したい。でもその前に九峪様が死んだら意味も何もない。だから、どうか助けてほしい」
それが伊万里のたどり着いた、ひとまずの結論だった。伊万里も、時間をかけて自分なりの生き方を、自分なりの愛し方を模索する道を選んだ。
まだ脆い、しかしたしかな想いは、とても亜衣にとって心強いものだった。自分だけではなく、伊万里のためにも九峪を救いたいと願った。
伊万里は大洲城を離れられない。きっと伊万里も自分が助けに行きたっただろう。しかし立場がそれを許さない。代わりに伊万里が亜衣に託したもの、それがかつて九峪より与えられた宝剣だった。
——伊万里様。あなたの想い、かならず無駄にはしません。
亜衣には、宝剣に宿る神秘の力が、火魅子だけのものだとは思えなかった。根拠はない、巫女としての感覚かもしれない。だが伊万里だって火魅子の血を引いているのだ。何かしらの神懸りした力が宝剣に宿ることがあっても、不思議ではないと思う。
「この刀には強い霊力が満ちている。きっと、嵐の中でも、私が落ちることなどあるまい」
きっと視線を飛空挺を向ける。
「では、行ってくる」
「はい。——あの、お気をつけて!」
佳菜芽の声援に手を振り応え、身体を拘束帯に固定させていく。周りからは物珍しい好奇の眼差しが幾筋も突き刺さる。だがまったく気にならない。
手馴れた動作で、すぐに準備は整った。主翼に受ける風、尾翼に受ける風がまるで己の肌をすべるように感じられた。
風が起こった。飛空挺の周りだけに、つむじ風が乱舞する。前髪がなびく。
「よし」と亜衣が呟いたかと思えば、ふわりっ——巨大な飛空挺が浮かび、ものすごい勢いで天空へと昇っていった。
鮮やかな垂直離陸に、佳菜芽が吐息をもらす。
「やっぱり、あんな綺麗には飛べないよねぇ・・・・・・」
経験の差か、それとも単純に実力か方力の差か。
ただわかることは、自分など亜衣に比べてまだまだ未熟だということだけだった。
耶牟原城の玉座に、久しく姿を現さなかった火魅子が、瞳を百錬の鏡のようにして腰を落としていた。ゆったりと法衣を着こなす一重の下に、身重のため軽甲を身に着けていないが、決戦前夜もかくやと言った具合に気を張り詰めている。
硬い口元には怒りが滲んでいる。
場には耶牟原城宮殿に勤めている、あらゆる部署の高官が一堂に会し、そろって難しそうに雁首を揃えている。各省の大臣はもちろん、武官も多い。
怒りと疲れが火魅子の相貌にありありと刻まれている。ときどき膨らみ始めた腹部をさする仕草にも、抑えきれない苛立ちが顔をのぞかせているようだ。
「・・・・・・三日が経ったわ」
弱々しい声音に憂いが混ざり、重苦しいため息が、まるで重病患者を髣髴とさせる。
群臣たちの間に流れる空気も、憤怒や不安、様々に入り乱れて、一つ所に落ち着きを見せない。
「亜衣はまだなの?」
蛇も逃げ出すほどの視線が蘇羽哉に向けられる。困り顔の蘇羽哉が、「はぁ・・・・・・」と曖昧な生返事をする。この質問もはや三度目になる。
謁見の間でおこった大事件が火魅子の耳に入るまでに、一刻どころか半刻も要しなかった。四半時もあればすでに届いていた。それ以前に、火魅子も胸騒ぎをおぼえ、愛用していた銅鏡が真っ二つに割れるという凶兆すら起きていた。
もはや九峪に溺れているといっても過ちにならない火魅子にとって、三日間という時間の長さはまさに拷問であった。夜の帳が下りてもまともに寝付くことはおろか、一人だけの暗闇にいると九峪の身に降りかかる悲劇を想像してしまい、とても正気ではいられなかった。
不安が無限大に広がっていく火魅子を見ていられなかった羽江は、愛娘を抱いて火魅子の側を離れず寄り添い、二日をともにしてきた。いままでも決して出ることのなかった——厳密には出させてもらえなかった——のに、いまや火魅子の玉座の隣に立っている。
どれほどまでに火魅子が心細くなっているか、諸将のみならず、文官にいたるまで痛烈に思い知っていた。
いざというとき、もっとも火魅子に頼りとされてきたのは、実姉にして宰相の亜衣だった。亜衣の到着を渇望して当たり前だ。
この間、事態は動いている。静かに動いている。
火魅子を暗く塗りつぶす感情に、不安以外にも怒りがある。尋常でない怒りは、怒髪が天を突いてもまだ収まらない。
激怒した火魅子は二つの勅令を発した。
亜衣の泗国からの召還
北山衆討伐の詔
である。
ついに耶麻台共和国の最上層部が、北山討滅のために動き出した。勅令は誘拐された当日の夕方に発せられ、翌日になって火向県の志野、筑後県の尾戸を主軍とした軍団編成が命令された。
だが、しかし、何分あまりにも性急な事態であったため、緊急の対応に両者の準備が間に合わず、いまだ志野も尾戸もすぐ兵をだせる状態ではなかった。
現実的に考えて、少なくともあと二日から三日は時間が必要だ。それすらも火魅子には遅すぎるのだろう。
すぐに行軍可能な軍団に、藤那の北方軍がいる。藤那は現在、乃小野が率いていた軍勢の残党らを殲滅しつつ、占領された北九洲域の奪還任務に就いている。
藤那の軍勢は、現在八千人ほどになる。総大将を失った大出面軍も大した抵抗力を残していないが、これが反転した瞬間に決死の反撃に打って出て撤退する藤那軍の背後を襲わないとも限らない。
唯一、耶牟原城で戦傷を治療していた音羽が、三人の武官と兵八百人を率いて出陣した。道中、在地の豪族に糾合して勢力を少しでも盛り上げようとしている。
ほか、桜島城に身を寄せている中山も、同盟におけるまず最初の友戦として、海より加奈港を攻めると呼びかけてきている。中山にとってこの戦いは、今後のためにも北山を完全に滅ぼしたいという狙いを含んでいた。大将は十杜臣、兵力およそ二百人。
音羽と十杜臣の兵力を合わせても、せいぜい一千人ほどにしかならない。
北山の現有戦力が不透明だ。敗北間もないといったところで、もともと二千や三千はあったし、兵力的な損害は思ったほど多くなかった。人的損失よりも艦船の損失の方がはるかに甚大だ。
さらに言えば、外加奈の城の構えも厄介だ。なんと言っても亜衣と紅玉という二人の名将が協力し合って築いた城だけあって、攻めに難く守るに易い。少人数でも数ヶ月は篭城できる仕組みになっているのだ。
北山は鉄壁の防衛力を頼りとしている。外加奈の城を攻め落とすには、最低でも五、六千人規模の軍をおこす必要があった。
火魅子の苛立ちは、頂点に達しかけている。亜衣の到着も、まだ二日から三日はかかる。実際、亜衣が耶牟原城へ戻ってくるのは、三日どころか五日後になるのだが。
「あの・・・・・・火魅子様、すこしお休みになられては」
遠慮しがちに蘇羽哉が休息を促す。誰の目から見ても火魅子は精神的に衰弱している。蘇羽哉の言葉を皮切りに、群臣たちも休むよう言上した。
隣にたつ羽江も、心配そうに、
「休もうよ、星華様。倒れたら九峪様が心配しちゃうよ。ほら、雨嬉ももう、おねむしたいって。おなかの赤ちゃんも、もう疲れたって」
と、やさしく慰めてくれる。雨嬉がうとうとと舟をこいでいる。
雨嬉と我が子にせがまれては火魅子も断れない。眠れないだろうが、みんなの気遣いが身にしみた。
隈の目立つ顔が、苦く薄く笑らう。
「蘇羽哉、少し休むわ」
「はい。・・・・・・九峪様は、かならずお助けいたします。どうか今は、御身の第一をお考えください」
「ごめんなさい・・・・・・。志野と尾戸は急がせなさい。事態はあくまで一刻を争うわ」
「はっ」
神妙に蘇羽哉が応える。火魅子が玉座を立つ。
羽江と連れ立って奥へ下がろうとしたとき、入り口のあたりが俄かにうるさくなった。火魅子が顔を向け、息を呑んだ。
思わず、声が出ていた。
「い、衣緒ッ!?」
衣緒が一人、鎧を身につけ鉄槌を手に提げ、早足に群臣の間を進みよってきていた。
火魅子が驚くのには、理由がある。衣緒は藤那とともに、九洲の北で大出面軍の残党を掃討しているはずだからだ。宗像の地を取り戻すのだと息巻いて出陣していったのを火魅子はよく覚えている。
戦装束のままの姿で、全身が埃にまみれていた。
跪いた衣緒が、口早に到着を向上した。
「あなた、いまは藤那といっしょにいるんじゃ……!?」
もっともな疑問を火魅子が叫ぶと、周りの者たちも内心ではそう不思議に思っていて、そろって衣緒を注視した。
「九峪様がかどわかされたと聞き、急ぎ戻ってきましたッ」
走ってきたのだろう、息があがっている。衣緒が言うと、彼女のほかに出陣していった武将が二人、転がるようにして走りこみ、あわただしく膝を突いた。
「ただいま戻りましてございます!」
「あなたたち・・・・・・。でも、北はどうするというの?」
「それは——」
衣緒が語るには、乃小野軍の残党はすでに、宗像、若宮、直方のあたりにまで追い詰めており、ここから宗像を残す二郡を奪還する方針で軍を動かしているとのことである。宗像一群に残党を押し込め、そこで決戦に挑むのが藤那の描いた筋書きだ。
しかし今回、九峪が誘拐されたと聞いた藤那は、すぐに衣緒を呼び出して救援に向かうよう指示を下した。宗像一族の根拠地とも呼べる宗像の奪還は、衣緒のみならず亜衣や火魅子にとっても望むところである、その任から衣緒をはずして救援へ向かわせる背景には、気負いすぎた衣緒の采配によって、衣緒の部隊が予想以上の損耗を出してしまったことにあった。
さすがに宗像を目前にしての戦線離脱を躊躇した衣緒であったが、もちろん九峪の救援と聞いて黙っていられるわけもなかった。
衣緒は、一千の兵をつれて、耶牟原城へ参上した——というのが、ことのあらましである。
「では、北九洲に関しては、何も問題はないのね?」
「藤那様はそのように判断されました」
「そう・・・・・・。いえ、助かるわ。乳姉妹のあなたが来てくれた。それだけでずっと心強いわ」
「お姉様は、いらっしゃらないのでしょうか」
亜衣の姿がないことに気づいた衣緒が小首をかしげた。
少しだけ眉を下げた火魅子が嘆息する。
「亜衣なら、いまは泗国よ。伊万里の援軍として、九峪様の親援代理を務めているわ」
「では、九峪様が当初、泗国へ赴くはずだったんですか?」
「ええ・・・・・・。でも、九峪様が動けば、天目も彩花紫も動くでしょう。まだ機は熟していないと、代わりに亜衣が名代に立ったの」
「そうでしたか・・・・・・」
「けど、その後に、いまの事態が起きたわ。亜衣は呼びもどすけれど、まだ到着まで時間がかかりそうなのよ」
「それまでの間に九峪様を救出する策は、あるんですか」
言って衣緒があたりを見回しても、周囲の様子からして、まだ大した方策が立てられているわけではなさそうだと感じた。
さらに、現状を二、三点ほど聞いた衣緒も、志野と尾戸が兵を挙げられるまでのあいだ、先行している音羽と協力して北山をけん制するため、ひとまず外加奈の城へ向かうこととなった。
義妹の参陣がよほど嬉しかったのだろう、程なくして火魅子も奥へさがり、しずかな眠りに落ちた。かわらず羽江が、その側に寄り添った。
志野と尾戸の到着を待って、あらたに議題を煮詰める。それで軍議は決した。
——またか。
暗闇に九峪がおもった感想など、たかだかその程度のものでしかなかった。
前後左右、上下の感覚すら覚束なくて、一切が暗黒の気持ち悪い浮遊感が、はたして全身を支配しているのか纏わりついているのか、それすらもわからない。自分の手足ですら視界にはいらず、声さも聞こえない。
ただ思考だけが宙に浮いている、ただそれだけの感覚は、もはや馴染み深いものですらあった。
いつもならば、何かしらの声が聞こえる。予言染みた言葉で、ともかく覚醒した後でも、耳から離れない言葉だ。予言染みたというが、実際はほとんど予言のようなものだ。
夢は、九峪を苦しめてきた。だがその一方で、助けてもきた。恐れを抱く一方で、いつしか九峪も夢に関して、深くは考えないようになっていった。
気にはなるが、答えが出ないのだ。そういうもので、そういう人間なんだと、納得しなくてはならなかった。
暗闇に時間の感覚はなくなっていく、そもそも夢中に時間を意識できるわけもないが、だがそれにしても、今回の夢は、とても沈黙が長いような気がする。
——きょうは、何も言わないのかな?
とさえ、思った。光も生じない。
さらに、時間が経った。
これから俺はどうなるのだろう・・・・・・。考えるしか出来ない空間に、虜囚というかつてない体験の中にある自分の今後を思わずにはいられない。考えることは山ほどある。もう北山を助けることは出来ないのか——
「もはや無理である」
声は、唐突に響いてきた。まさしく響いた。あらゆる感覚を奪い去る闇に、声だけが唐突に爆発した。
意識が衝撃に揺さぶられた。何も映しえない眼が、声の源を探す。
何もない。
——誰だ、誰かいるのか!?
九峪は叫んでいた。いたつもりかもしれない。
いつもの声とは違っていた。それまで九峪が聞いてきた声は、若い少女のような声だったからだ。しかしいま、不意に噴出したような声音は、張がなくともどこかに重みを感じさせる、女性の声音だった。
しかも、聞いた覚えのある、そんな気がするのだ。
——・・・・・・ぽっと、光が小さく点る。これはいつもと同じ展開である。
しかし、やはり違うのは、光が膨れ上がり、縦長(だと思われる)に変形し、形成され、ついには人の形へと凝縮されるという過程を経ていることであった。
呆然と言葉なくながめる九峪の眼が、ようやくはじめて、ぼんやりとしてではなくはっきりとした実像を、網膜に焼き付けた。
夢を見ていて、初めてのことだった、こんなことは。
暗黒の中で、淡い微光を薄っすらと放つ、妙齢の女性が浮かんでいた。若草色の着物に朱の帯を締め、方まで伸ばした頭髪を結わう麻紐も、どこか古い模様で編まれている。
右手に——矛を握っている。
九峪は、見入った。不思議だった。相貌はとても美しいが、ゆえに不思議なことに、女性は火魅子に似ており、亜衣に似ており、衣緒に似ており、そして羽江にも似ていた。
会ったことなどない、これが初対面であることに間違いはない。しかし、本人すら自覚していないように、九峪の口は動いていた。
——天の、火矛
「こうして直接、言葉を交わすのは初である」
無表情に天の火矛が言い放つ。
——何のようだ。いや、あんたなのか、今までのも
「左様」
——なんでだ
「耶麻台のためである」
簡潔で明瞭な言い草からは、まさしくそれ以外の考えなどないことがよく伺える。
「耶麻台が興り、滅ぶ。我らには守護する力が失われつつあったのである。そのとき、天魔鏡がそこもとを連れて参り、人の力のみによってこれを再び興し、火魅子を立てた。火魅子が立ち、私らも力を取り戻しはじめたのである」
——伊雅やキョウから聞いたことがある。火魅子がいないと国を守護する力がなくなる、だから狗根国に滅ぼされた
「左様」
——国を守護する力っていうのは、八柱神のことだったのか
「私たちは、九洲を覆う結界そのものである。中心の火魅子がいて、はじめて結界としての機能を保てる。ゆえに火魅子がいなければ、私たちも結界としての役目を果たせない」
——今代の火魅子ならいる。だとしても、なんで、乃小野の侵攻を許したんだ
憤然と九峪は食って掛かった。天の火矛の言う分に沿って考えれば、もう九洲の結界とやらは復活し、九洲に仇なす存在を決して許しはしないはずだ。
乃小野もそうだし、さかのぼって言えば重然を総大将とした北山との戦いだって、負けるはずなどなかったのではないのか。
「まだ、力が弱いのである。完全な復活までには、まだ長い時間が必要なのである。それゆえ、私はそこもとを利用するのである」
——俺を、利用するだって?
「左様」
うなづいた天の火矛の足元に、やはり淡い微光を放つ、一匹の山猫が浮かび上がるように姿を現した。
九峪はあっと声をこぼした。
——おまえは、阿蘇の
阿蘇山へ隠棲していたころ、家屋に住み着いた老いた山猫に他ならなかった。
どういうことか、わけがわからない九峪に、山猫の正体がなんであるかを天の火矛が語った。山猫は天の火矛の遣い——いうなれば、『本物の神の遣い』である。ただし、天の火矛が言うには、その神の遣いは実体をもっていないので、死に掛けていた山猫に憑依し再生させることで、九峪との接触に成功したらしい。
以来、この遣いが憑依した山猫は、夜な々々九峪の枕元に立っては、天の火矛が下す予知を夢という世界に流し込むことで、九峪を危機から救ってきた。九峪を救うことは、耶麻台共和国を救うことにもなるからだ。
山猫がつよい光を放つ。目をつぶることも出来ない九峪の目の前で、光はやがて人の形へと変化していく。天の火矛が現れたとき同様にして、白い貫頭衣を身にまとう少女へと変身していた。見た目の歳は十も半ばだろう、容姿もきわめて美しい。
——おまえが、いつも聞こえてくる、声の本人なのか
九峪が尋ねると、『本物の神の遣い』たる少女が、こくりと小さく肯定した。ということは、何度となく九峪を苦しめ、ついには失神するまで追い詰めた、まさしく張本人が二人もいることになる。
にわかな怒りが湧き起こる。彼女の言うとおり、助かったこともある。だが苦しめられたのも事実。
九峪の怒りが伝わったのだろう、少女は怯えたように身をすくめた。
「落ち着くのである」
——あんたも神なら、もうちょっとやり方があるだろう
「知らぬ。私はもっとも早く効率的な手段を講じるだけである」
機械的に言いぬいた天の火矛の態度からは、何一つとして九峪を思いやろうとする意思がなかった。九峪がどれほど苦痛にのた打ち回っていたか、知らぬわけではないだろうに、まるで興味がないようだ。
さすがの九峪もぞっとした。というのも、人間味があまりにもなさすぎたからだ。そもそも人間ではないのだが、自分と同じく四肢に胴と頭がついた列記とした人間の姿かたちをしている女性が、化け物に思えて仕方がなかった。
まだ兎華乃や蛇渇のほうが、人間に近いかもしれない。
もしかしたら、この天の火矛にとって、自分など蟻にひとしい存在なのではないか——本気でそう思った。そして漠然とではあるが、天の火矛が言った『耶麻台のため』という言葉の真意も朧に理解できた。
耶麻台のためならば、どんなことでもする。手段も問わない。しかしそれ以外のことはどうでもいい。必要とあれば、九洲の民ですらも犠牲にする。それで耶麻台という国が保てるのならば——
天の火矛は、あくまでも耶麻台国がもっとも尊いのであって、民のことは大して気にしていないのだ。それがわかってしまった。
——なんてやつだ
吐き捨てた九峪に、それでも天の火矛は平然としている。興味などなさそうに。
「私はただ、そこもとに、危機を伝えるだけである」
——だったら、痛くないやり方に変えてくれ。それなら俺にも文句はない
「無理である」
無情にも天の火矛が切り捨てる。
「そこもとは、異界よりこの地へ渡った人間。何の異能も持たず、常世の理にないゆえに、その身には毒も術も効かない。そしてゆえに、私の力に順応する能力も、そこもとは持ち合わせておらず、これからも持つことはかなわない」
——適合できないってことか
「そうである。そこもとらの言葉を借りれば、拒絶反応という。そこもとの苦しみは、素質を持たぬゆえのもの」
素質とは、巫女のように神がかりした力に接する能力のことを指している。火魅子や亜衣、羽江のように、巫女としての能力がなければ、常人は耐えられずに発狂することもあるのだという。
——だったらもうやめてくれよ、そういうことは。火魅子の専売特許じゃないか
「火魅子への託宣は、姫巫女の御霊だ行う。しかしそこもとの身に降りかかる危機は、誰よりそこもとがまず知るべきであり、私がその役目を担った」
——じゃあ、今回は何だって言うんだよ。俺もう捕まってんだけど、誘拐されてんだけど
すでに手遅れである。たしかに、誘拐される前夜にも、九峪は天の火矛が流し込む夢を見ていた。しかし夢の内容をちゃんと理解できていないと、対策の立てようもないではないか。
いつだって予知夢はわかりにくいのである。むしろそれら理解に苦しむ予知を今まで気づけたことのほうが、はるかに奇跡のように感ぜられる。
だが、そうした九峪の苦情に、天の火矛は真っ向から反論してきた。
「警告は以前から下していたのである。そこもとは日枝の巫女を通じて、すでに今回の事態を知っていたはず」
——日枝の、巫女
思い出した。その名を聞いたのは、宗像海人衆を大隈の海に沈める直前であった。
足並みの今一そろわない九洲人と北山人の混成部隊を率いていた九峪が、戦勝祈願をするために尋ねたあばら屋の神社、それが日枝神社だった。そこには双子の老巫女、昱と可、そして孫娘の阿絽がおり、そこで九峪は戦勝祈願と、北山の崇める神を九洲に移り住まわせるための儀式を執り行った。
たしかに、九峪は日枝神社で不吉な宣託を授けられた。
『これから助けようとする者たちによって死に至る。滅びを回避するには、助けようとするものたちを見捨てなければならない。でなければ多くを失い、自らも命を落とすであろう』
——俺が北山を助けようとした、その結果、俺は捕まって、死ぬ・・・・・・そういうことか
「左様」
あっさりとした返しに、言葉が出てこなかった。とどのつまり、九峪が捕らえられたのも、殺されるのも、自業自得ということだった。
見捨てなければ、九峪の未来は閉ざされる。そう天の火矛は言いたいらしい。
「まだ間に合う」
天の火矛が、右手の矛でゆらりと円を描く。軌跡にそって焔が線を引き、炎の輪が出来上がると、輪の内側の闇になにやら映像が浮かび上がった。
平屋の家屋が見えた。樽の陰になってよくわからないが、人影らしきものが潜んでいる。
「そこもとの寵愛している乱波である」
——清瑞ッ!
もしも身体の感覚があったなら、乗り出して映像に食い入ったことだろう。それだけの驚きがあった。そして、同時に、嬉しさもこみ上げてきた。
——来てくれていたのか!
潜入者らしく周囲をしきりに警戒している。九峪は清瑞の名前を何度も叫んだ。それが、届きはしないとわかっていながら。
「乱波は、そこもとを助け出すために、単身もぐりこんできたのだろう。この者の手をとり、城を抜け出すのである。さすれば、そこもとは死なずに済む」
——これを伝えに来たのか、あんたは
「そこもとの生涯において、このときまさに分岐する。死か、生か。そこもとには倭国の騒乱が断末魔をあげる時代に、九洲を渦中へと投じた責任がある。ここで無駄に死なせるわけにはいかないのである。耶麻台国が倭国すべてを統べる日が来るまで、そこもとを生かせる」
——気に入らねぇな。俺の命を物のように言うところが
少なからず九峪にも反意がある。あまりにも見下した物言い、態度、すべてが九峪には気に入らない。九峪自身がだれかを見下したりしない人間だから、逆に自分が見下されることを嫌うのだ。
九峪は、兵士一人々々を物として扱った事もないし、命を軽んずることもなかった。鎮魂祭をよく催すのもこのためだった。蔚海のように救い難いものは別としても、九峪は生命に敬意を払ってきた。
ましてや天の火矛は、九洲人が崇め奉る神ではないか。神が人間の命を粗末にするという事実には、嫌悪さえ抱いてしまう。
そんな九峪の感情にさえ天の火矛は無頓着だった。
「大事なのは国である。国あってこその民である。ゆえに国を第一に考える。姫巫女の創り上げた耶麻台国を守ることだけが、私の使命」
——やっぱり、気に入らねぇ
考え方が九峪とはまったくの逆だ。天の火矛は国があって民がある。九峪の場合だと、まず民があって国が成り立つ。優先順位が完全に逆転しているのだ。これでは相容れるはずもない。
気に入らないのも無理からぬことだ。天の火矛という存在そのものが許容できないものだった。
火魅子に、亜衣に、衣緒に、羽江に似ている顔で、そんなことを言われたくなかった。言ってほしくなかった。
民を持って国と成す。復興軍当時から抱き続けてきた心情だ。信念だ。否定されてはならない、九峪という英雄の思想がこれだ。たとえ神の言うことであっても、頷けないことがある。
きっと——天の火矛の言うことも正しいのかもしれない。しかし人間がこれだと決めた生き方など、いつでも誰でも、一つしかない。二つの生き方ができるほど人間は便利に出来ていない。
——俺は死ぬつもりなんかない。あんたに言われるまでもない、どうにかする
「何でもよい。私は耶麻台さえ守れればそれでよい」
その言葉を最後に、天の火矛の身体が、一瞬にして光の塊となり、塵となって消滅した。闇だけが残された。
次第に九峪の意識も薄らいでいく。これも慣れた感覚だ。肉体が覚醒しようと——眠りから目覚めようとしているのだ。
——ムカついたぜ、天の火矛。そこまで言うなら・・・・・・北山を助けて・・・・・・おれも、生きて・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
意識が夢から現へと引き戻されていった。