亜衣が驚嘆の声を上げた日、それから時間をさかのぼらせ、九峪が囚われの身となるまでの経緯を、ここからは書き記したいと思う。
廉思の死去とその後に行われた教来石の棟梁継承よりも以前、琉球中山の使者が、国交および同盟の結ぶことを目的として、耶牟原城をたずねたことも、まだ記憶に新しい。
言わずもがなだが、北山と中山は犬猿の仲であり、敗者として琉球を追われた北山人からしてみると、憎んでも憎みきれない仇敵である。
なかでも使者の一人である十杜臣と言えば、多くの北山人を冥府へ叩き落した張本人だ。応胤、兼興、大塔野などといった北山の能臣はことごとく、この一人の男の前に勇戦空しく破れ、戦場の花と散華した。教来石はもちろん、恵源や廉思なども、ずいぶんと手を焼かされたことだろう。
現在、中山の船団は桜島城へ寄航している。桜島ならば宗像海人衆に対してとった計略を模倣して、いざというときに海上封鎖が可能であり、周囲を耶麻台共和国の拠点で囲まれてもいる。
不審な行動をとらせないための九峪の処置だ。
桜島城と外加奈の城の距離は極めて近い。いくら他県との流通が捗々しくない北山といえども、さすがに中山がすぐ側にいるという事実に気づかないはずがなかった。
当然のように北山は激しく反発した。ただでさえ九洲人から後ろ指を指され、背中を丸めて生きているのに、このうえ中山と仲良しになど出来るわけがなかった。北山人は九洲人が嫌いなら、中山人のことはもっと嫌いだからだ。
就任まもない教来石は棟梁として行った仕事が、暴発しかねない北山人たちを落ち着かせることだったと言っても、過言ではないだろう。
教来石は弁舌巧みな男だ。それに演技力も多少はある。必死の説得の甲斐あって、とりあえず北山人たちは矛を内に収めた。
だが、怒れるのは、なにも教来石だって同様だったのだ。
——なんなんだ一体! これはどういう了見なのか!
騒ぎを沈静させたのは、今という時期であったこともある。理性が強く働いた。そうでもなければ、この男だって暴れていたかもしれない。
——九峪殿に、真意のほどを問いただす!
さすがに今回の出来事は、いかに我慢強い教来石と言えども、腹に据えかねるものがある。九峪は信じられる男だ。それでも、だからこそ、理解し切れなかった。
領主となってすぐであるも、教来石は耶牟原上へ上都することにした。折しも九峪から上都を命ぜられた。丁度いい。
教来石は九峪を質問するために耶牟原城へ行く。
九峪は教来石を説得するために耶牟原城で待つ。
主の出立していった外加奈の城が、憤怒に染め上げられていく。
「仔細はよくわかりました」
九峪から一通りの説明を受けた教来石が苦みばしった顔をする。激情を溜め込んでいるらしい。無理もない。少なからず主君に裏切られた気持ちがあった。
それでも、理解しなければならない。道理はただしく九峪の側にあるのだ。反対する筋合いがそもそも教来石にはなかった。いまの教来石は所詮、群臣の一人に過ぎない。
だが納得できない感情もある。
「中山との同盟は、国意と見てよろしいのか」
「評定衆はおおむね問題ないという見解だ。『北山のやり口より遥かにマシ』だって具合にな」
「あっ、あれは、刻がなかったばかりに、かような手段に訴えただけにございますッ。常套手段として用いてきたわけではござらん!」
にわかに教来石が狼狽する。
いくら何でも、同盟の求め方で対比されては、北山に立つ瀬などあろうはずもない。それによって印象付けられた性格は、いつまでも尾を引いていく。
北山が九洲にい続ける限り、逆に中山はいくばくかは優遇されることになるのだ。『北山よりマシ』という理由だけで——
因果応報と断じられても仕方はないが、当人たちには堪ったものではない。
そうでなくとも、格でいえば、ずっと差が開いてしまったのだ。見下されるのには耐えられない。
「だけど、耐えようと決心したんじゃないのか」
一言をはなった九峪が、こちらも難しい表情を浮かべている。
「中山との関係修復の流れは、もう避けようがない。悪いが俺としても、避けるつもりはない。南方の憂いを断てば、それだけ意識を北へ、泗国へ向けられる」
「それは、わかります。理にかなっています」
「それに中山は、悔しいだろうがすでに琉球で最大勢力だ。そのうち琉球全土を併呑するだろう。そのときに、あとから国交修復に乗り出すよりも、今のうちから誼を結んでおくべきだ。さいわい申し出は向こうから。こちらからお願いするんじゃない」
海洋国家としての権益をはやくから味方にしたいという狙いが九峪にはある。
「それは・・・・・・それもわかってはおるのです」
道理を説かれてはどうしようもない。どうしようもないほど、感情の問題でしかないから、言い返す材料にだって乏しい。
ここに来て、どこか心の片隅で、九洲の力を借りて中山を打倒しようと考えていた自分の姿が、霧散し霧消していくのを感じた。
ため息をひとつつき、九峪は、酒を運ぶよう外のものに伝えた。ほどなくして酒の膳が運ばれてくる。
一杯を注ぎいれ、教来石の前へと差し出す。
「呑め。呑み流しちまえ。それしかないだろう」
「・・・・・・いまは、腹も胸も、いっぱいにございます」
「それでも呑め」
つよい語調で九峪が言う。渋々と教来石は杯を受け取った。琥珀色の珍しい酒だ。見たことがある、大陸の酒だったと思う。
「時代は代わる。刻一刻と。時勢に乗り遅れれば消えるだけだ」
自らの杯にも琥珀色の液体を注ぐ。ぐっと煽った。喉に焼け付くくらい度のきつい酒が、胃さえも焦がしていく。
——かっ。一口で九峪の頬が真っ赤になった。教来石も咽返っている。
「こ、これは・・・・・・」
「只深のやつが、だいぶ前に藤那に頼まれて、大陸からもってきた酒らしい。余ったんで俺がもらったんだけど・・・・・・やっぱり、きっついな〜」
「むかし呑んだもの、と、違う・・・・・・」
記憶にある味は、もっとまろやかで芳醇なものだった。こんなに熱い酒ではなかった。
じんわりと発汗した肌が湿ってきた。香辛野菜を一口に大量摂取したかのようだ。こんな燃えるような酒を呑んだ事は今まで一度もない。
似た酒でも、こんなに違うものなのか——漢人たちの国は地の果てまで続く広大な土地であると聞いていたが、まさしく酒すらも千差万別なのだろう。
「やはり大陸は広いのでありましょうな。見た目がこうまで似ているのに、味はまったく違う」
「あの国の、強さの証だ」
「その酒がでありましょうか?」
「多くの民族と出会い、戦い、征服し、従えながら成長した国だ。東の世界でもっとも古く、もっとも強大だ。百の民族がいて、百の文化があって、百の戦い方を経て、百の経験を積んできた。興り、栄え、衰え、滅ぶ。腐敗も流血も粛清も、何もかもをあの国は糧としてきたんだろうな。そうでなければ、強くなれなかったはずだ、これほどまでに」
「百の酒が、かの大陸を推し量る尺度となる、そういうことですな」
「それに比べたら、倭国はあらゆる面において、まだ小さい。その倭国に割拠する俺たちの国も小さい。だが琉球はもっと小さいし、そこで争った三国もまた、小さい」
「それが、どういうことだというのです」
まさか琉球など矮小だと貶しているわけではないだろうが、何を言わんとしているのかとんと掴めず、訝しくもたずねる。
「気にしたら負けってことさ」
小気味よく九峪が言い返した。
「いまさら中山だ南山だ北山だって言っても、もうお前たちには、直接関係することじゃないんだ。だったらあれこれ気にするだけ、しょうがねぇだろう。言っちゃあ悪いが小さいことだ」
「なっ——、我らが祖国を滅ぼされたこと、小さいと申されるかッ!?」
激昂する教来石の杯に、また酒を注いでやる。その何気ない態度に腹を立てた教来石が、膳ごと酒を弾き飛ばした。床にぶちまけられた酒溜まりに映る教来石が、身を震わせている。
「いくら九峪殿でも、聞き捨てならぬ!」
「誰がそんなこと言った」
逆に九峪は平静に、静かに対峙している。
「俺が小さいって言うのは、いつまでも昔のことで二の足を踏むなってことだ。おまえ、九洲を征服するつもりでもあるのか?」
思わぬ大事な発言を浴びせられ、火を噴いていた教来石が身体を仰け反らせた。
「あっ、あるわけござらん! われらは忠節を示すべく、領地を守り立て、水軍を率いては大出面の軍勢と、死力をもって戦ったではありませぬかッ!!」
まさか要らぬ疑いを掛けられて——!?
途端に教来石に焦りが生まれてきた。
もしくは中山と結ぶ上で北山が邪魔になるからと、潰す口実を求めて——!?
「は、歯向かうつもりなど、毛頭ござりませぬ! 我が忠義、疑われては心外ですッ」
「そうだろう。それはわかってるよ」
「では何ゆえそのようなことを聞かれましたッ」
「わからないか? いまの北山は、一荘一城の勢力に過ぎない。豪族としての規模はまぁまぁ大きいかもしれないけど、それが琉球の半分以上を我が物とした中山相手に、本気で戦争やれるとでも思うのか?」
「それは・・・・・・」
いくらなんでも不可能だ。負けが見えている。教来石は口をつぐむしかなかった。言い返したい気持ちはあるのに、何も反抗できる材料がなかった。
「そりゃあ、俺たちだって似たような状況から、狗根国を追い出したりはしたさ。けど、現実的に考えてもみろ。そもそも俺たちが成功できたのだって、祖国のあったこの地で反乱を起こしたからだ。けど、ここは、北山があった琉球じゃない。味方してくれるものは、何もないんだぞ」
たとえば琉球本土であったなら、まだ可能性があったかもしれない。草の根に隠れている豪族を率い、民衆を蜂起させて、大反乱だって起こせたかもしれない。
しかし海を越えて大逃亡した時点で、その可能性は完全に断たれたのだ。
「玉砕するよりも、生き延びたい。それが選んだ道だろう。そのためにどれだけ苦しくても、我慢するって決めたんだろう」
「はい・・・・・・」
たしかに、そのとおりだ。誓いを忘れたことなどない。
「世界は変わるぞ。いま正に動いている。俺たちがそうしている。だけど変貌した世の中が、お前たちに優しいとは限らない。俺たちの耶麻台共和国にだって、優しくなんかないかもしれない。だから俺たち自身も変わらなくちゃいけない。いつか未来の世界で生きられるように」
「ですが・・・・・・ですが、あまりにも残酷ではございませぬか!? 中山を憎まずにはおられましょうか!? 友も師も、夫も女房も、子も親も、家も畑も、大地も海も、何もかもを奪い殺めたあの中山を、どうして味方と思えましょうやッ!?」
九峪の道理は理解できる。しかし教来石には納得することができなかった。納得するということは、奪われたこと、長く続いた戦いの苦しみも、すべてを許すということだからだ。
それでは同胞たちに対して、あまりにも申し訳が立たないのだ。
中山を憎む気持ちが、いつか消えるのだとしても、それは決して今ではないのだ。まだ早すぎる。
我慢にだって限界がある。人間はそこまで便利に出来てなどいないのだ。許容を越えた瞬間に爆発するのだって、それもまた道理ではないか。
「そうだな。それも道理だ」
教来石の無念の言葉を九峪は拾い上げる。九峪自身も我慢強い人間ではないし、ましてや北山の現状を考えると、酷と呼んで憚るものでもない。
それでも九峪が思うのは、十五年もの長きを耐えに耐え忍び、諦めることない不屈を貫き、とうとう大願を成し遂げた伊雅という男のことであった。伊雅もやはり短気なことで有名だ。しかし同時に、もっとも耐えた男でもあった。
愚直であるからこそ、ひたすら耐えられたのだろう。余計なことを考えず、ただ前だけを向いて——。光り輝くもののない生き方の、かすかに放つ微光は、偶然と天より遣わされた男との出会いをずっと待ちわびていた。
誰にでも真似できるものではない。ましてや考えることが仕事の教来石には、尚のこと難しいに違いない。
だが素直な男だ。九峪はその素直さに北山の未来を託すしかない。伊雅に出来たことが、不可能だというわけがない。教来石にもできる生き方のはずだ。
いや、耐えて生きてもらわねば、そもそも意味がないのだ。それが北山の宿命なのだから。
床に転がる酒瓶に視線をくれながら、九峪は落ち着いた声音で語りかける。
「石の上にも三年という諺がある。固くてごつごつした岩を尻に敷いて、三年間我慢するんだ。当然尻は痛いし、尻だけじゃなくあちこち痛くなるし、降りたくなるよな。けれど三年も耐えたんだ、あと一年、さらにもう一年耐えてみろ。慣れてくるってもんだ。それに岩の方だって、少しずつ尻の形に合わされてくる。痛みが徐々に和らいで、いつしか座り心地のいい場所になるかもしれない」
気休め程度にしかならない慰めの文句が、切羽詰った教来石にどれだけ届くかはわからない。
「時間はかかるよな。その間はずっと辛いさ。でも確実に岩は、形を変えていくんだぜ。お前らの尻に合わせた形にな」
「それまでの辛抱だと・・・・・・?」
「やれるさ、お前たちなら。やれなきゃそこでお終いだ。どうあっても中山とは繋がる、それが時勢の流れである以上はな。あとはお前たちの心持ち次第だ」
「しかし、どう言えと言うのです・・・・・・。中山と和解しようなどと、どの面を下げて」
「俺が斡旋する」
教来石が顔を上げた。
「斡旋・・・・・・」
「言い伝えるのは心苦しいと思う。だがもちろん、協力できるかぎりは俺も力になりたい。教来石、ここが山場だと思え。みんなを説得したら、あとは俺が進める。形だけでもいい、和解を成し遂げるんだ。ここを乗り切って、お前たちは早く新造艦を造り、制海権を再奪取するための急先鋒として存分に働いてもらわないといけないしな」
「新造艦・・・・・・そうでしたな。我らには手柄もいる」
「そうだ」
自らの拳をにぎる教来石が、言い聞かせ、無理やりにでも己自身を納得させる文言を口内で転がし練り上げ、飲み込んだ。手を床に着き頭を下げた。
「数々のご無礼、平にご容赦を」
慇懃な態度にも、九峪は笑って許した。
「無礼だなんて思っちゃいない。お前が怒るのも無理はなかったよ。だが、これは必要な儀式だ。それだけは忘れないでくれ」
「はっ・・・・・・。重苦しくはありますが、これも北山の民のため。何とか説得いたしましょう」
「ああ。いつか、その苦労が報われるためにもな」
九峪は、心から願った。
秋まではまだ遠い、残暑も厳しい九月の中ごろ。草木の青さも、いまだ失われていない。
蒸し暑い夜が続いていた。
九洲国内でさしたる事件が起きることもなく、日々が流れていく。乃小野が率いていた勢力の残党が、日一日と北へ押しやられている。藤那の戦いも、まだまだ終わりそうにない。宗像の聖地もまだ取り戻せてはいないらしい。
教来石からの連絡はしばらくなかった。やはり説得工作に難航しているのだろうか。窺い知る術を九峪はもっていない。こういうことにホタルはあまり使いたくなかった。相手を信じていないような気がするのだ。この点、信頼の置き方や考え方が、やや亜衣と異なっている。
——やはり、駄目か。
焦れた九峪がそう思い始めた頃、ようやく教来石からの書状が届いた。
大急ぎで開封した内容によると、無事に説得できたという。和解のための会合について、日付などを決め次第、折り返し連絡がほしいとしてある。
「よし。これで何とかなるな」
和解への見通しが立ったことで、九峪としても肩の荷が下り、心配事がひとつ解消された喜びをかみ締めた。先だって中山には事情を話してある。勝者の側の中山は寛容に受け入れた。もはや北山など恐れるものではないからだろう。
何でもいい。とにかく、二十五日と和解する日を定め、そのように連絡を送った。
場所は、耶牟原城で行う。謁見の間で執り行われた儀式行事は、すべて公式なものだ。耶麻台共和国が、正式に和解を斡旋するという意味合いが必要なのだ。
二十五日——。
「——今日はめでたい日だ。長年いがみ合ってきた両者が、歩み寄る歴史的な一日になる」
謁見の間に、明るい九峪の言葉が広がる。玉座の九峪はここでも正装に身を包み、最上段に位置している。
火魅子の姿はない。近頃、ようやく腹部が膨れてきたので、過保護なまでに九峪が安静を言い渡してあるのだ。火魅子もすっかり『ご寵愛独り占め気分』となっており、はいはいと素直に言うことを聞いている。
いまは、北山の到着を待っているところだ。すでに中山側の使者である魯山岳胡と十杜臣は、賓客の椅子に腰を下ろしている。彼らの前には酒肴の善が添えられ、いかにも客人を持成している。
客人への接待に関して、とにかくうるさかったのが亜衣と紅玉の二人である。
二人にして曰く、
『周公但は何よりも客人を重んじ、天下は心を寄せた』
というのである。周公但とは太公望とともに古代中国の周王朝成立に尽力し、中国史にあって一、二を争う名補佐官として現代でも深く尊敬を集める人物のことだ。
かの孔子でさえ夢に見るほど憧れた大人物は、とにかく客人を大切にした。髪を洗っているときに尋ねられたら、濡れたままの髪を押さえて接客し、食事中に尋ねられたら、口のものを吐き出してでも接客に向かったというのだから大したものだ。
天下を志すならば、客人への礼は尽くすべきである。散々に九峪は教え込まれてきた。とはいえ、お持成しの神髄は真心から生まれるもので、誠心誠意尽くせば、それでよいとも言っている。
九峪の思いつく限り、とりあえず美味しい肴と美味しい酒を出すこと意外、とくに思いつかない。あとは精々、歌や舞か。
魯山岳胡と十杜臣は、ちびちびと酒を酌み交わしている。九峪が許したのだ。九峪が思うに、この場で、この面子で行うことに意味があるわけで、形式にはあまり拘っていないのだ。
北山は、少しだけ遅れている。
「俺たちも、かつて敵対していた天目と講和を結び、十年もの同盟関係を築いた。その同盟も今では敗れたが、長く続いたものだ」
過去を振り返る九峪に、下段の魯山岳胡が賛嘆の声を上げた。
「なんと、十年の同盟とは。聞けば天目という王は、かつてこの九洲の半分を支配していたと聞きました。今では北の地に十五ヶ国を切り従えているとか・・・・・・。そのような者と長寿の同盟を結ばされた! 陛下のご器量の高さには感服いたします」
「お前の耳には、いろんな話が入るみたいだな」
魯山岳胡が額をぴしゃりと叩いた。
「この頭には、多くの情報が入ります。情報は耳より入ります」
「そりゃそうだ」
「そうでなくとも、陛下のお噂はよく耳にいたしました。とかく英傑の風評は民の自尊心の表れと存じます。恐れながら、私めも陛下の武勇伝をお聞きし、身の震える思いでありました」
「ほう」
面白そうに九峪が声を漏らした。もとよりお調子者よろしくといった軽妙な舌をもつ魯山岳胡が、どんな武勇伝を聞いたのか、少しだけ興味を引かれた。
それを尋ねようとしたとき、以外にも、隣の十杜臣までもが口を挟んできた。
「武勇伝であるならば、某もお聞きいたしました。某は根っからの武人であるゆえ、王が指揮された戦いの数々、まっこと魂に響くものばかりでありました」
口達者な魯山岳胡とは違い、どうやらこの十杜臣は、本気で感動しているらしい。謀略をもって北山を滅ぼした男とは思えないほど、双眼を子供のようにきらきらと輝かせていた。
このような十杜臣は珍しいのか、隣で魯山岳胡がびっくりしている。それがまた、九峪を面白がらせた。
「いいな。どんな話を聞いたんだ」
尋ねると、身の丈の大きな偉丈夫が、身を乗り出して舌を回した。
「されば、まず、伊尾木ヶ原なる土地での戦いに始まります。武器もなく、訓練もされていない百姓どもを率いながら、見事敵を城よりおびき出して決戦なされ、その間に別働隊が城を速やかに奪取してしまったと聞いております。そのとき、王は自ら後詰を率いて痛撃を与え、敗走する敵を挟み撃ちに。まさしく武略のなせる業にございます」
「ああ・・・・・・」
——ちょっと真実と違うな。後詰率いてたの音羽だし、城を奪った藤那のことも、そのときまだ知らないし、そもそも作戦は半分以上破綻してたし。・・・・・・まいっか、噂だし、それで喜んでもらえるなら。
にっこりと続きを促す。こうして噂は尾ひれをつけて拡大され、いつしか伝説へと変わっていくことに、九峪はまったく気づかない。
次いで、逆上陸作戦や刈田城での『トロイの木馬作戦』、彩花紫の思惑を挫かせた響灘の戦いに『天の洪水作戦』、そして天目との直接対決となった第二次長湯城の攻防戦と、最近では第二次大隈会戦などなど・・・・・・。
こうして他人の口から聞いて、あらためて自分の軌跡が見えてくるようだ。
それだけではなく、九峪自身が気づいたこともあった。九峪が自ら策を練った、あるいは指揮を取った戦いで、一度も敗走する事態は起きなかった。つまり、九峪は戦いにおいて、『ただの一度も負けたことがない』ということになるのだ。
負け知らずの総大将なのだ、九峪は。
「まさしく常勝不敗。戦士として武人として、また大将として、興奮せずにはいられませぬ」
「ああ、だからそんなに瞳を輝かせてるのね」
久々に照れくささがこみ上げてきた。魯山岳胡のように、よいしょされることは多々あれど、手放しの賞賛を受けることはあまりない。
そういえば、昔はこんなこと、しょっちゅうだったっけ・・・・・・。ふと懐かしくもあった。大君だとか太師だとか、そんな大層な肩書きを持たない、ただ神の遣いというだけの人間だったころが、いつの間にやら遠い昔の存在となってしまったような気がした。
——いかんいかん、老け込んでる場合じゃない。まだ二十八じゃないか。
九峪もまだまだやるべきことが山積している。これからは大君として太師として、十年前とは違う戦いをするのだ。
「にしても、遅いな、北山」
ぽつりと九峪が呟いたとき、ようやく北山が謁見の間に姿を現した。
人数は三人である。早足に九峪の前まで来るや、大きく頭を下げた。
「遅参いたしました。申し訳ありませぬ」
「あっ、ああ・・・・・・。顔を上げてくれ」
三人が顔を上げる。みな、知らない顔だ。
「教来石はどうした?」
面食らった九峪が尋ねる。男が一人進み出た。
「教来石は風邪を召されたらしく、上都する直前に高熱を発し、いまは臥せっております」
「なんだって? 本当か?」
「はい。それゆえ、此度は我らが、和解の使者として参上仕りました」
「そうか・・・・・・教来石が」
身を裂く思いまでした教来石がこの場にいない。北山を導くものとして、なんとしてもこの場に出てほしかった人間の不在が、とても残念に感じられた。
死んだ廉思も、残念がっているだろうな——
いまごろ咳き込み発熱に苦しんでいるだろう教来石のためにも、ここはしっかりと両者の仲を取り持たねばならない。
笑顔で九峪は、北山の遅刻を許し、着座を促した。三人の北山が、それぞれ賓客の席に着く。
「今日は両者の間にある遺恨を解く日だ。だから、格だとかそういうことはなしにして、同じ高さの席を用意させてもらった。俺は立場的に玉座じゃないといけないんだけど・・・・・・」
九峪がよく座を立った。階段を降りていく。
「立てば、関係ない。お前たちと同じ高さになる」
およそ一国の王らしからぬ寛容さを見せ付ける。気安い態度が、逆に尋常ではない雰囲気をかもし出していた。『普通の王ではない』という、ある種のカリスマ性がある。
九峪は中山の側へ近づく。酒を取ると、魯山岳胡と十杜臣の杯に、手ずから注ぎいれた。
仰天した二人が、身体を硬直させてしまった。
「へ、陛下ッ!?」
声を裏返らせる魯山岳胡の手に、杯を握らせる。にっこりと、太陽を具現化したと思える笑顔を浮かべる。
「神の遣いの酒だぜ。遠慮しなくていいからな」
「はっ、はぁぁぁぁ・・・・・・」
もはやため息かもわからない声を上げる魯山岳胡から、隣の十杜臣へも。
「あ、ありがたき幸せッ!!」
「そう畏まるな」
「この酒は、神酒にござる! 武運の加護があるッ!」
「いや、それはどうだろうな・・・・・・」
苦笑いする九峪をよそに、感激した十杜臣は一気に酒を呑み干してしまった。よほど信心深いのか、弦を担ぐ人間なのか、とくにありがたく呑んでいた。神の遣いの肩書きは、異国の人間相手でも通用するらしい。とはいっても、大将としての尊敬をにわかに得ていたからこその反応なのであろうが。
こういうところも、懐かしい光景だった。
中山が感激しているのを見届け、背後の北山へと足を向けた。
「悪いな、騒がしくて」
「いえ・・・・・・」
「いろいろと思うところはあるだろう。人間だからな。けど、今日は、酒に流してくれ」
「・・・・・・はっ」
「うん」
薄く微笑み、九峪は酒を満たした杯を、北山の男へと差し出す。受け取ろうと、男は手を合わせ、両手を伸ばしてきた。
「だが、無理だ」
「——ッ!?」
杯を受け取るはずだった両の腕が、ぐっと奥まで伸びてくる。仰け反ることも、退くことも出来なかった。腕は九峪の襟首を掴むや、力任せに引き寄せた。
身体が前のめりに倒れこもうとする。膝にあたった善が、ばらばらに散らばった。
「う、わッ——」
両腕ごと背中からがっちりと抱きしめられてしまい、身動きが取れない。抵抗しようとする九峪は首を振ろうとした。
首筋に、何かが当てられた。
「動くなッ!!」
耳元で怒鳴られた。視界に花火が舞う。こんな体験は羽江の実験失敗に立ち会って以来だ。
ぼやける視界の向こうで、魯山岳胡と十杜臣が席を立っていた。二人の善も倒れていた。魯山岳胡は愕然と表情を強張らせているのに対し、中腰の姿勢をとる十杜臣の右腕が、腰の刀の柄尻に添えられている。
いつでも抜けるように。
視線を、少しだけ下げた。九峪は思わず悲鳴を上げかけた。首筋に、刃が押し当てられている。短剣だ。
息を呑む。わずかに首を引いただけで、動脈を裂かれてしまうかもしれないと思うと、全身が震えてしまいそうだ。
「き、貴様らぁ——」
十杜臣が唸りをあげる。先ほどまでの尊敬の眼差しなどはどこにもない、怒れる武人の貌をしていた。
「動くなよ、十杜臣。——九洲の兵どももだ! 動けば貴様らの王が死ぬぞッ!!」
「ぐっ・・・・・・う」
「九峪様!!」
周りの九洲兵たちも、身動きがとれずにいた。悔しさに唇をかんでいる。よくわかった。
視線だけ向けを九峪が背後へ向ける。
「な、なにを・・・・・・」
「黙れ、しゃべるんじゃない!」
「くぅ・・・・・・し、正気か、こんなことをしてッ」
身体は動かせない、締め上げられて、足さえも満足に動かせないのだ。力の入れ方が並ではない。訓練された人間の技だ。
——こいつ、兵か、武将か!?
九峪には、せめてささやかにも吼えるしか出来ない。
「ここが、どこなのか、わかっているのか」
ふんっと男が鼻で笑った。
「わかるさ、あんたの城だろう。真っ赤な布をたらして、蝋燭をあちこちに立てて、不気味なことこの上ない」
「すぐに、包囲されるぞ・・・・・・逃げられ、ない」
「まだわかんないか。そのためのあんただ」
言われて九峪も気づいた。つまり自分は人質というわけか、と——
「おれを、どうすッ——」
「いちいちうるさいんだよッ!!」
男が短剣をわずかに揺らした。すると九峪の首筋に、赤い雫が流れた。
兵士たちが悲鳴を上げた。十杜臣の全身も震えた。
さいわいにして、大きな血管は切れていない。皮一枚を裂いただけだ。それでも九峪に与えられる恐怖としては、かなり効果がある。
——とはいえ、九峪も修羅場は少ないながら潜ってきた男だ。悲鳴を上げかけた口を、咄嗟に硬く閉じた。
「ははっ、神の遣いとやらも、血は赤いんだな。・・・・・・あんたは殺せるんだ、大人しくしていろ」
呼吸の震えが抑えられない。足がわずかに震えている。情けないと思う余裕があるのが、場違いに腹立たしい。
ただの現実逃避でしかない思考かもしれないが、それとも癖か、頭脳は活発に働いている。混乱しても、さまざまなことを脳は考えている。
信じられない事態だ。九峪でも予想し切れなかった。まさかこのタイミングで、こんな形で北山が暴発するなどとは・・・・・・
手段も信じられない。おそらく北山は、このまま九峪を盾にして、何かをしようとしている。北山は必死だ。下手に逆らって逆上させると、本当に命が危ない。
はぁ はぁ
なんとか呼吸だけでも落ち着け、そういえばと思い出すのは、あの書状である。教来石が説得できたと言うのだ。
——説得するどころか、反逆してきたぞ!?
どういうことなのか。謀られたのか、それとも——
「き、教来石は、風邪じゃないのか」
——まさか、これを企てたのが、教来石なのでは?
ふと信じたくない予想が胸を掠めた。それだけは、認めたくなかった。素直なあの男が、切れ者のあの男が、時勢を読み間違うはずがない。
それとも、ついぞ情に流されたのか——
しかし、教来石の名を聞いた途端、男が表情を歪ませた。
「黙れって・・・・・・。ちっ、あの裏切り者か・・・・・・。あいつは今頃、牢の土床に転がっているだろうよ」
「裏切り、だと」
「俺たち北山を、中山に売ろうとしやがった。何が和解だ、ただの裏切りだ。あいつにはもう北山人としての誇りがないッ!」
男が吐き捨てる。それきり教来石について何も語ろうとはしなかった。
少なくとも、今回の騒動に教来石は関わりがないらしい。だが牢の土床に転がっている——ということは、無事な状況でもないのだろう。教来石の身にも何かが起こったに違いない。
——なにが、なにがあった!?
「おい、まずはここを出るぞ」
「はい!」
ほかの二人へ指示を出した男が、じりじりと後退していく。謁見の間の出入り口へと近づいていく。
隙を見て十杜臣は飛び掛ろうとしていた。しかし出来なかった。なぜならば、三人と九峪を囲むようにして——北山の武装した戦士たちが、十人ほど乱入してきたからだ。
「これは!?」
「あ、新手!?」
魯山岳胡が甲高い声を上げる。
乱入してきた十人は、三人の使者を守る壁を作る。小さな方円が、ゆっくりと謁見の間を出て行こうとする。
「馬はッ!?」
「用意してます! いつでも逃げれます!」
「よし、一気に外加奈の城まで走るぞ!」
「くっ、くそぉ——」
——どうしようもないのか!?
無力な自分を呪っていると、宮殿の外に、数十人の兵士たちが待ち構えているのが見えた。北山たちが動きを止める。間ち構えていた部隊の指揮官らしい大柄な人影が、前に出てきた。
音羽であった。足にはまだ、座間の道の戦いで被った傷跡に、包帯が巻かれている。
九峪を確認した音羽が血相を変えた。
「九峪様ッ!!」
「お、音羽・・・・・・」
「音羽将軍か・・・・・・」
男が目を細めた。音羽も男に見覚えがあった。琉球で戦ったとき、どこかで部隊を指揮していた武将だったはずだ。
名は、知らない。
「ふんっ。貴様らがもっと真面目に戦えばな・・・・・・。あれだけの大軍を擁していながら、この無能どもがッ」
「なんだとッ!?」
「貴様らのごとき弱虫を頼った我らが阿呆だったのかもなッ!」
「こっ、のおお——・・・・・・ッ!!」
怒髪天を突く——。怒りのあまり、血管という血管が浮かび、顔色も赤黒く染まっていく。まさに赤鬼である。
「卑怯な手を使う貴様らに、そんなことが言えるのか!!」
「勝つための手段だ、貴様には出来んだろうがな。——おっと、動くな! 動けばお前の大切な王様の首から、盛大に血が噴くぞッ」
「くぬぬ・・・・・・ッ」
すさまじい力で、朱色の槍が握られる。逃げ場のない怒りが、体内を巡り、大暴れに暴れている。でも、どうしようも出来ない。
反対方向には、十杜臣がいる。音羽はそれも気に入らず、もはや何がなんだか、わからないくらい怒気が膨れ上がっていた。
敵対していたはずの、今は味方である中山。無理強いの同盟を強いられ、いまは仇なす北山、和解するはずだった旧敵同士。
九峪が頭を悩ませていた混沌とした状況の縮図が、ここにある。その渦中に、九峪が危険にさらされている。
「追ってくるなよ、王様のためを思うんならな!」
北山の一行は、九峪を馬に乗せるや、一目散に駆け出した。音羽たちは結局、何も出来ずに見送るしかなかった。
「ふっく、うう・・・・・・く、九峪さまぁ・・・・・・」
音羽はこんなにも悔しいことなど経験したことがなかった。目の前で忠誠を誓った主君を浚われながら、何も出来ないなど——!
「まずいことだ、まずいことになったぞぉ」
うろたえてばかりの魯山岳胡の声が耳障りだ。八つ当たりだが、怒鳴り散らそうとした瞬間、民家の屋根の上を何かが飛んでいくのが見えた。
「・・・・・・清瑞」
まとめられた長い髪。あの身のこなし。間違いない、清瑞だった。
「・・・・・・そうか、あいつなら、尾行がばれずに追いかけられる!」
九峪たちの後を、九洲最強の乱波が追う。音羽は清瑞に託すしかなかった。
まだ、希望はある。必ず助け出す!
「お待ちください、九峪様、私も必ず助けにいきます。それまでどうかご無事でッ!」
叫ぶや否や、取って返した音羽は駆け出した。
兵の準備をしなくてはならない。