志野、尾戸らに遅れること半日、ちょうど清瑞が外加奈の城の中心部で放火をやってのけたとき、耶牟原城を出発した火魅子が七百人を率いて志野が陣営を張っている場所へ到着した。
率いる七百人中、五百人は火魅子の身辺の警護を担当している武装した巫女集団——言い換えれば火魅子の親衛隊のようなもので、純粋な戦闘兵はわずかに二百人ばかりだ。火魅子が動かすことの出来た人数も、この程度のものだ。これ以上を動かそうとしたら、逆に盗賊・山賊などが活発に動いて治安を乱しかねない。
その日の午後から、志野は北山方との交渉に入っていた。北山衆の突きつけてきた『馬鹿らしい要求』にたいして、逆上させないよう言葉と態度を選びながら対応し、時間稼ぎを図っているのだ。
あともうしばらく我慢すれば、堅い城郭都市たる外加奈の城を建設した張本人である亜衣が、何かしらの打開策を引っ提げてくるはずなのだ。妙案が思い浮かばない志野たちにとって、このようなときに事態を切り開いてきた九峪がそもそも囚われの渦中の人物となってしまっている以上、もはや頼れるのは亜衣の頭脳しかなかった。
交渉事態は、ひとまず『女王に伺いを立てる』などといって、しばらくの猶予を約束させた。夜中に女王が陣屋に到着してきたとき、率いる手勢が少数だったことは天佑だった。
陣屋に火魅子を招いた志野は、先立って北山と交渉したことを報告し、
「火魅子様がここへ到着したことは、しばらく内密にしておきます」
と、まだ女王が着陣していないということにすると言い出した。火魅子の到着が遅れれば遅れるだけ、時間を稼ぐことが出来るからだ。
「もしも九峪様に何かしらの危害を加えた場合、問答無用で総攻撃を敢行すると脅しておきました。さすがに、そうまでして、乱暴なことはしないと思います。あとは亜衣様が到着するのを待つべきではないでしょうか」
「歯がゆいわ・・・・・・。攻めてしまいたいッ。あんなところに一寸たりとも九峪様を置いておきたくなんかないのに」
胸の前で手を合わせ、ただ一心に九峪の安全を神々に祈る。それしか今の火魅子には出来ない。
大切な人を奪われる苦しみをよく知っている志野は、火魅子にまでそのような辛い経験をさせたくはなかった。ましてや、長いこと想い続けてきた人と結ばれ、愛する男性の子供を授かったような幸せな人が、不幸になるのは見るのも嫌だ。
だから——志野もまた、歯がゆかった。
気流のうねりから生まれた嵐は、西風に流されて太平洋側へと軌道をそらし、斗佐の最南部をかすめながら北東へ進んでいる。九洲、泗国本土へ上陸はしなかった。
しかし亜衣にとっては不運であった。このとき亜衣の駆る飛空挺は豊後水道を西へ横断している最中だったのだが、海上上空域も暴風圏内に収まっていた。降雨の勢いは叩きつけるようにして、雲の底を雷の蛇がのたうっている。
嵐の予兆はあったし、無理を承知で亜衣も飛び立ってきた。文句を言うつもりはない——それにしても、勢力が強すぎたのは予想外だった。壊れかけの飛空挺が揉まれに揉まれ、不気味な音をたてている。
すでに全身がぐっしょりと濡れ鼠になっている亜衣は、必死で飛空挺を操縦する。わずかな油断や気の緩みをみせただけで、嵐んみ巣くう魔物は凶悪な爪を振り回し切り裂きに来るだろう。
暴風は、太平洋へ逃れようとしている。亜衣の進みたい方向は、嵐に逆らう方向である。速度は上がらないし、機体にかかる負荷もかなりのものだ。
遠回りする暇もない。感覚の狂いそうな嵐の中を、ひたすら亜衣は飛び続けた。
だが、とてもこれでは、一日での到着など不可能だ。
「くっ・・・・・・。天気のいたずらに遭うにしても」
亜衣の悪態や舌打ちを意にも介さず、空は荒れ狂うばかりである。
気流の性格がまったく掴めない。左へ流されると思った瞬間には、なぜか右側へ引き寄せられる。北の雲が薄明かりを滲ませているのに、厚い雲に覆われた南よりもずっと荒々しかったりもする。
海原だけでなく、天空さえも我が領域と言わんばかりの宗像に、お灸を据えてやろうととでも言うかのように、亜衣の望む方向へなかなか進ませてくれない。
良風を待てば時を逸する。だからと言って悪天候を飛べば、今のようにまったく前へ進めない。
運命に嫌われているとさえ思えてしまう。それとも——
「天が九峪様を見捨てると言うのかッ。己の遣わした九峪様を!」
天に向かって亜衣は吼えた。それだけは赦さないと力の限り吼え切った。
それでも、大きな雨粒に奪われていく体温、滲んでよく見通せない視界、確実に消耗する体力。かつてここまで過酷な飛行を体験したことなどない。大型の遠距離用飛空挺は乱風にとても弱く、今回に限って言えば状態もよろしくはない。天の時も得られずして、もはや気力と意地と九峪を想う気持ちだけを拠り所としているような状態だ。
——ガガガッァァァ
すぐ上に轟音が唸りをあげる。まずいと直感が警鐘を鳴らしてきた。主翼のはるか高方を振り返ると、太い稲光が筋を残して雲の中をはしっている。
——落雷ッ
亜衣の顔面が青ざめた。とっさに高度を下げて海面へと降下していく。あまり高度を下げると、今度は海面気流に呑まれてしまう可能性もあるが、とにかく落雷だけはいけない。
小回りの利かない大振りの翼に、無理な風が負荷をかける。あやしく膨らみ、いまにももげてしまいそうだ。
「くっくくぅぅ——ッ」
神経を尖らせて巧みに乱風と乱風の間を泳ぎぬける亜衣の耳に、さらに大きな轟音が鳴り響いた。——くるッ!
轟くような音ではなかった。爆ぜる、あるいは巨大な何かが裂けるような、凄まじい炸裂音が大気を震わせ、飛空挺をとんでもない衝撃が揺さぶった。
天の海が逆転する。亜衣が、悲鳴を上げた。
——当たった、落ちた!?
景色が何回転もして、上も下も何もかもがわからない。少なくとも、自力で飛んでいる感覚はまったくない。浮いているようで、強い遠心力に翻弄されている。
亜衣は機尾を見やった。一部が黒焦げになって、破壊されている。どうやらそこは尾翼の一部で、偏向翼に直撃するか掠るかをしたようだった。
「き、機体——立て直してッ」
何とか飛空挺を正常な定位に落ち着かせようと試みるが、海面との境界で気流は上下どちらともつかない動きをし、飛空挺そのものが回転しながら落下している。
このような場合、いくら熟練された方術士であっても、墜落する以外にない。
もう海面もすぐ底まで迫り、波が、高く腕を伸ばして亜衣を海中へ引きずり込もうとしている。
目をつぶる。このままでは助からないなら、無理をしてでも機体を立て直す。迫る恐怖から心を遠ざけ、風だけを追い求める。
嵐の風を操ることは非常に難しい。だが、もはやそれ以外に、手がまったくない。亜衣は飛空挺の周囲の風を、強引に逆巻かせた。
もちろん周囲の風といっても、亜衣の意思にそぐわない風も存在している。いや、むしろ、従わない風の方が多いであろう。しかし確実に風は互いに相殺しあい、その威力を弱めた。
あとは、主翼がどこまで耐えられるか——軽く細い身体に渾身の力を込めて、飛空挺の角度を変えていく。力の限り亜衣は叫んだ。生まれてこの方、一番の声を上げて叫んだ。
主翼が曲がる。主翼も悲痛な叫びを上げている。折れる、折れると、何度も亜衣に語りかけてくる。
——たのむ、元にもどれ!
「ああああああああッッ!!!」
生きるか死ぬかの瞬間が、長く続いた。高波が手招きしている。接触する寸前、機首が上を向き、態勢が安定しだした。
雨とは違う、しょっぱい海の水しぶきが、亜衣の顔面にぶつかった。
飛空挺は、平行に飛んでいる。大分ふらついてはいるが、ちゃんと飛行していた。
「はっ・・・・・・あっぁぁ・・・・・・」
目を開くと、荒れる海が眼下に広がっている。暗い色の雲が、空を覆っている。声が震えた。生きている。
歯がかちかちとかみ合わない。まさしく恐怖だった。恐怖に勝った——
安堵したとたんに、胃のものがこみ上げてきた。喉をせり上がり、食道を押し広げて、胃液もろとも胃にあったもの全てを嘔吐した。
回転して平衡感覚が滅茶苦茶にされた上に、方力をひねり出して、力いっぱい操縦して、生きているとわかったときには気も胃も緩んでしまった。
げえげえと盛大に吐いた亜衣の目じりに涙が浮かんでいる。口元をぬぐった。飛んでいるのが自分ひとりだけでよかったと、あらぬ醜態を誰にも見られなかったことを密かに喜びながら、ふと荒れ模様がやや収まっていることに気づいた。
「はぁ・・・・・・っ。酷いところは抜けたかな」
そうであってほしい。
腰に縛り付けた宝剣をそっとなでる。
「それとも、伊万里様のおかげか」
宝剣の加護が、守ってくれているのか。そうであろうが何でもいい。
飛空挺は再び高度をとった。気流のうねりも、先ほどまでよりもずっとマシになっている。
だが、飛空挺の状態はますます悪くなった。空中分解してもおかしくはない。一切の無理をよせつけないほど、むしろ飛んでいることのほうが不思議なくらいだ。
一日どころの話ではない。風の流れによっては、まっすぐ進むことも出来ない。下手をしたら二日や三日はかかるかもしれないのだ。
その間、とうぜん眠るわけにはいかない。
ある意味ここから先が、亜衣にとっては地獄であるかもしれない。それでも山場を越えることは出来たであろうと思う。
「はやく・・・・・・はやく・・・・・・九峪様ッ」
疲労に身体が鉛のように重くなる。休むことも出来ずに、嵐のなかを孤独に飛んでいくばかりだ。
外加奈の城を脱出するのは、案外に容易だった。火事騒ぎに便乗して、監視のゆるい箇所から城壁を越える事が出来たからだ。
城を飛び出した清瑞は夜の森へと身を潜めた。西へ向かおうと決めた。九峪は、志野か尾戸かが軍を率いていると言っていた。外加奈の城から見て、北と西にそれぞれ耶麻台共和国の討伐軍は布陣しているらしいから、それぞれの本拠地から進軍経路を考え出すと、おそらく北には尾戸が、西には志野がいるはずなのだ。
清瑞は復興戦争終盤から出世してきた尾戸との面識があまりない。それよりは古株の志野を相手にしたほうが伝えやすかった。それに距離的にも、志野の陣の方が近いのだ。
林伝いに志野の陣営を目指した清瑞だったが、たどり着いたのは音羽の陣であった。ちょうど音羽は仮眠中であったが、報告を受けるや否や飛び上がって清瑞を出迎えに走った。
見ると、いつもの乱波装束ではない、琉球式の格好をした清瑞がいた。
「戻ったんだな!」
嬉しそうに音羽は駆け寄った。清瑞も薄く笑みを浮かべている。
「無事で何よりだ! 九峪様を追いかけていくお前を見かけて、ずっと心配していたんだ」
大きな腕が清瑞の肩を抱いた。幼友達なためだろう、清瑞に対する音羽の態度にはどこか気安いところがある。清瑞も別段いやがるそぶりを見せない。
しげしげと清瑞の格好を眺めた音羽は、外加奈の城から脱出してきたばかりなのだと気づいた。しかし肝心の九峪の姿がないことにも気づいた。
「九峪様は? ご一緒してはいないのか?」
表情を固くした音羽の尋ねにうなづいた清瑞が、討伐軍の編成を音羽に聞き返す。第一軍を志野、第二軍を尾戸、第三軍を衣緒、第四軍を音羽が指揮し、総司令官は火魅子であると言う。すでに亜衣もこちらに向かっていると言う。
予想をはるかに超えた編成に清瑞は驚いた。火魅子が出陣すると言うことは尋常ではない。火魅子の出陣は親討ということになり、それはただの討伐ではなく聖なる戦いという意味合いが付随してくる。
北山は朝敵であると認定されたばかりでなく、女王自らが討ち滅ぼすと宣言した聖戦へと発展しているのだ。
たかだか一地方の反乱に、これは異常である。異常であるが、火魅子の気持ちも清瑞にはよくわかる。これは単純に、怒りの戦いでもあるのだ。同じ種類の怒りは、清瑞の内にも燃えている。
火魅子が出張ってきているとは思っていもいなかった。だが好都合でもあった。九峪からの伝言を伝えるのに、火魅子ほど九峪に従順な人物が陣にいて、それが最高司令官である、これはまったくもって都合がいい。
「音羽。実は九峪様から言伝を預かっているんだ。火魅子様にお伝えしたい」
九峪の伝言と聞いた音羽が、大きくうなづいた。音羽はみずからが清瑞を本陣へと案内することにして、さっそく鎧を着込み槍を手にして、馬の背にまたがった。清瑞も馬に乗り、夜中を松明を頼りに駆ける。
さほどの距離が開いているわけでもないので、すぐに二人は火魅子のおわす陣へと到着した。火魅子もまた休息を取っていたが、無論跳ね起きんばかりに目を覚まし、身なりを適当に正すや清瑞たちを幔幕に呼んだ。
すでに着座していた音羽と清瑞のまえに、長い髪をほつれさせたままの姿の火魅子が飛び込んできた。よほど急いでいたのだろう。隅に控えていた男の兵士が、あらわに翻った火魅子の裾元からあわてて目をそらしている。
「ひ、火魅子様、もうすこし格好のほどを、その・・・・・・」
唖然としかけた音羽の言葉をも無視して火魅子は、やはり形振り構わず清瑞の両肩を食い込むほどに握り締めた。清瑞でさえ苦痛を感じるほど強い。火魅子の瞳孔が開いている。
「清瑞ッ!!」
「はっ、はいッ!!」
「九峪様はッ!? 九峪様はどこなのッ!?」
「はいッ、あの・・・・・・ちょっ痛い、痛いですッ」
指が食い込むというよりは、もはやめり込んでいる。はたして九峪よりも運動能力の低い、華奢な体つきの火魅子の身体の、どこにこれだけの力が眠っていると言うのだろうか。
むかし紅玉から整体を施されたときと同じくらいの激痛である。
隣で音羽がおろおろと取り乱している。助けようにも相手は火魅子であるから、どうしたものか困り果てていた。
指を両肩にめり込ませながら、前後にガクガクと清瑞を揺さぶった。痛さ倍増である。
「どこに、いるかって、きいてるのーッ!!」
「いっ、言います、言いますから離して〜!!!」
振り子のように頭を振らされた清瑞がたまらず叫んだ。音羽は小さく「ごめん、助けられない」と呟いていたが、そんなことを気にしていられるほど清瑞に余裕はない。
眼を血走らせる火魅子の後ろの幔幕から、随行してきていた忌瀬がひょっこりと顔を出してきた。女王とはとても思えない所業で清瑞を揺さぶられる火魅子と、六将に数えられながらも無残に揺さぶられている清瑞、さらに同じく六将の一人たる音羽が申し訳なさそうに拝んでいる光景を見て、何事かと忌瀬までもが小首をかしげた。
「なんていうか・・・・・・修羅場ですか? 私もしかしなくても退場した方がいいですかね?」
「わけのわかんないこと言ってないで火魅子様を止めてください! 清瑞が死にますよッ!」
悲痛な音羽の助けにも、忌瀬はしばらく悩んだ後に、きっぱりと、
「いや、無理でしょ、これ」
などと言いのたまった。
清瑞が白目を向いて失神したのは、まさにそんなときだった。
脳を揺すられて失神した直後に、忌瀬特性の気付け香で無理やり覚醒させられた清瑞の血色はすこぶる悪く、美人顔とあいまって得も言えぬ凄みを放っている。唇など真っ青だ。
とてもまっすぐ座れないので、すぐ隣で音羽が身体を支えている始末である。あとから来た志野は静かに座っている。珠洲が一緒なのはいつものことだ。
みっともないことをした、という自覚が火魅子にもあったらしく、肩を小さくしている。ひとり忌瀬だけがけらけらと声を立てて笑っていた。
「火魅子様ももう三十近いんですから〜。あれ、もう三十過ぎてましたっけ?」
「まだ二十九よッ!」
「もう少し落ち着いた行動を心がけたほうがいいですよ。女王なんだし、三十路なんだし」
「だから二十九だって言ってるでしょッ!! あんたなんかもう三十過ぎてるじゃないッ!!」
「でもどうです、この若々しさ」
言うだけあって、忌瀬の容姿は二十代半ばでもまったく通用するほどに若い。瑞々しい肌には張があり肌理もこまかく、しみやそばかすなども一切ない。無論、しわなど一筋もありはしない。
忌瀬だけではなく、九洲の高い身分にある女性は、みな総じて若々しく美しい。天目もが惚れ込んだ忌瀬の美容術の賜物で、年長の紅玉でも、容姿は三十代半ばぐらいに見えてしまうほどで、女性陣よりも九峪が喜んでいることなど言うに及ぶまい。
かくいう火魅子も美容面では忌瀬の指導を受けていると言っても過言ではないし、忌瀬が(一応)院長を務めている病院にも、美容専門に研究・施術している部門が存在し、そこから各女性知事らは専属のお抱え美容師を雇っているほどだ。
九洲女性の美しさを守っているのが忌瀬ならば、もちろん本人が若く美しくないわけがない。
「これなら、私も九峪様に侍っていられますよね」
妖艶に微笑む忌瀬の態度に、火魅子の眉が小刻みに震えている。
「あ、あなた、いい度胸してるわね・・・・・・私を目の前にして。そ、そ、そこになおりなさい! 九峪様の、『妻』の、私が、成敗してあげるわッ! ——もう一度言うわよ、『妻』の私が、成敗してあげるわッ!!」
「あ、あの、火魅子様、どうか落ち着いて・・・・・・忌瀬さんも、あんまりからかわないでくださいッ」
音羽が静止にはいるも火魅子の怒りは収まらず、怪しげに身体をくねらせる忌瀬はあきらかに楽しそうだ。
相手が誰であっても己を曲げない忌瀬の、昔からまったく変わらない態度に音羽が疲れた顔をする。やれやれと隣の清瑞へ声をかけようとしたとき、
「——ひいッ!?」
貞子さながらの世にも恐ろしい相貌で忌瀬を睨んでいる清瑞から腕を放し、おもわず身体を引いてしまった。支えを失った清瑞のあたまが後ろに倒れこんだ。
瞬時に正気を取り戻した清瑞が、音羽の服を掴む。
「お、おおおまえ、なんていう顔してるんだッ!? 怖かったぞかなり!?」
「・・・・・・あ、あぶなかった」
呆然と呟く清瑞の態度も、忌瀬のツボにはまったらしい。大声で忌瀬が笑い転げた。腹がよじれるという言葉が似合うほどの笑いっぷりに、怒りを通り越して火魅子も疲れたらしい。
忌瀬の調子が落ち着くのをじっと音羽はまった。悲しいかな、まともなのは自分だけしかいないらしい。衣緒にも声をかければよかったと後悔してもすでに遅い。
苦しそうに目じりの涙をふき取った忌瀬が、へらへらと軽薄な笑みを浮かべる。
「えっとー・・・・・・それで何でしたっけ?」
「九峪様からの伝言を、清瑞が預かっているらしいんです。それを火魅子様にお聞きいただきたいと」
「伝言ですって?」
鋭い視線を清瑞へ向ける。気分も回復してきた清瑞が身体を伸ばし、監獄棟で九峪よりの言伝を包み隠さず伝える。
「子供や老人など、戦えないもの、戦う意思のないものへの手出しは、これを一切禁ずるとのことです。あくまでも歯向かうもの、抵抗するものだけを相手にするようにと」
「・・・・・・それは、どういうこと?」
「無差別の撫で斬りを絶対にしてはいけないってことだね」
火魅子の疑問に応えたのは忌瀬であった。
九峪らしいと思う。自分を誘拐して、交渉の材料に用いている厚顔無恥な輩を許すといっているのだ。さすがに戦えないもの、戦う意思のないものと明確に指定こそしているが、反抗してきた一族などはもろとも皆殺しにするのが、この時代では当たり前の慣例だ。
根絶やしにしないと、いつか復讐鬼と化して、後々の災いとなるかもしれないからだ。
いくらお人よしの九峪といえども、それくらいのことはわかるはずだ。理解するだけの歳月を生きたはずなのだが、その慣例に逆らうという。
心が広いのか、それとも度を越したお人よしか。九峪ならば後者であってもおかしくはない。
「西君の仁徳ここに極まれりって感じかなぁ。天目ならばっさり殺っちゃってるよ」
「そこが九峪様のいいところなんだけどね」と忌瀬が笑った。よほどの人物でなければ、命を助けようなどとは思うまい。
それが甘い考えなのかどうかは、後世に助けられた者たちの決意次第で決められる。いまは九峪の言伝をどのようにして受け止めるかである。
「それで、どうするんです、火魅子様?」
忌瀬が顔を向ける。
「決まっているでしょう」
真面目な声音と態度で火魅子が応える。
「九峪様の慈悲の成す業なの。それを私が退けるとでも思って?」
「ですよねー。わかってましたけど」
「清瑞」
「はい」
「九峪様は、ほかに何か言って?」
「はっ。監獄に捕らわれていた九峪様ですが、おなじく捕らわれていた教来石とともに行動を共にするとのことでした。九峪様は外加奈の城の内部から、かく乱するつもりのようです」
「かく乱・・・・・・なんでそんなことを」
不思議そうに火魅子が考え込む。はやく城から脱出してくれた方が、火魅子には心理的にだいぶ助かる。それに九峪の安全さえ確保してしまえば、一気に攻めかかれるのだ。
ひとり忌瀬だけが、九峪の考えているところを読めた。
「私たちが攻めやすくするため。あとは言伝にあった戦闘にかかわりのない人たちを守るためですよ、きっと」
「ああ、そういうこと。・・・・・・何から守るっていうのよ」
「いろいろからですよ。たとえば戦闘中なら、こっちの兵士だって気が立っているから、いくら九峪様の命令だといっても、暴走しちゃうかもしれないですし。あるいは、敗北必至に追い込まれた北山が、住民全員巻き込んで集団自決、なんてことになる可能性もありますし」
「ということは・・・・・・」
音羽が得心の言った顔でうなづいている。音羽でも理解できたようだ。さすがに音羽にわかることが、火魅子にわからないはずもない。
忌瀬はあたかも軍師さながらに、現状事態のまとめにはいった。
「仮に私たちが攻撃を決行したとして、敗北を悟った北山衆が自棄を起こすと、もしかしたら・・・・・・」
「も、もしかしたら・・・・・・?」
「九峪様のところへ殺到するかもしれません。何百何千という戦士たちが、集団自決を強要するために。九峪様の手元にどれだけの戦力があるかはわかりませんけど、抗いきれるかどうか」
「あっ、戦力は八十人弱です」
清瑞の補足に火魅子がはげしく色めき立った。
「ちょっと! 八十人かそこらで、何百何千も相手に出来るわけないでしょ!」
「いくら九峪様でも、こればっかりは無理ですよねぇ」
「暢気なこと言わないで頂戴! だったらどうすればいいの!」
「さぁ、どうしましょう」
事も無げに言いのたまう忌瀬が、いきり立つ火魅子を手招きする。
「総大将がそんなにうろたえちゃ駄目ですよ〜」
相も変わらず軽い笑みを花咲かせる忌瀬に毒気を抜かれた火魅子が、深呼吸を繰り返して気分を落ち着かせる。総大将が、と言われてしまうと、総大将としての落ち着きを取り戻さねばならない。
こほんと、咳払いをひとつして、火魅子があらためて忌瀬に問いただす。
「それで、どうするの?」
「だからわかりませんってば」
火魅子の米神が小刻みに痙攣している。
「・・・・・・質問を変えたほうがよさそうね。どのような状況になったら、一番望ましいのかしら?」
「それは、速攻攻略でしょうね。時間をかけずに城内へ突入できるような策があれば、それが一番手っ取り早いでしょう。身柄の解放を要求したって、むこうは絶対聞き入れたりはしませんし」
はなっから話し合いによる平和的な解決を忌瀬はこれっぽっちも考えていない。すでに事態は、やるかやられるかの段階にまで登ってきてしまっているのだ。
城壁さえ短時間のうちにどうにかできれば、まだ望みはある。この点の考えも九峪と同じである。
「わかったわ。では、城壁をどうにかする、その策で、とりあえず一番早そうなのは?」
「ぶっ飛ばすことですね。どかんっと」
「・・・・・・九峪様みたいなこと言うわね」
「どうも」
「何で飛ばすって言うのよ?」
「そこまでは知りませんよ。炸裂岩でも大量に叩きつけたらどうですか?」
火魅子が志野へと視線を向けた。
「炸裂岩はもってきていますが・・・・・・それほど数はありませんよ」
「城壁の破壊は?」
「出来ません」
はっきりと志野は言い切った。城壁を崩すには、数量があまりにも足りなさ過ぎる。あくまでも突撃前の補助兵器としての役割程度しか期待できない。
落胆に火魅子が肩を落とした。「九峪様がいてくれれば・・・・・・」などという弱音までこぼしている。やはり亜衣の到着を待たねば事態は進展しそうにない。
その間、九峪の身が安全だという保障など、どこにもないのだ。
「ところで清瑞。あんた、これからどうするの? 何か言われてる?」
「外加奈の城へもう一度、潜入しようかと思います。九峪様をお守りしなくてはなりませんし」
「そっか・・・・・・。じゃあ、あいつらも連れて行ってよ」
そういうと忌瀬は、番兵のひとりに声をかける。兵士はどこぞへと駆け出し、戻ってきたときには、七人ほどをつれてきていた。
韋駄、茶吉尼、一杵、佐助、魔斑——ホタルの乱波たちが漆黒の装束をみごとに着こなしている。彼らは十一人いるホタルの内、泗国入りした六人を除いて九洲に留まっていた者たちだ。
九洲で諜報活動を続けていたホタルの乱波全員が一堂に集っていることになる。みな、何らかの形で九峪によって召抱えられたものたちで、ホタルがまだ九峪直属の私兵部隊であった頃からの古株ばかりである。
さらにそれだけではなかった。蔚海の乱が収束するのにあわせて引退したはずの侘吉と傳助までもが、使い古された乱波装束で全身を黒く染めているではないか。
これには清瑞も驚きを隠せない。
「こいつらも、もともと九峪様直属だからね。ご主人様の危機に黙っていられないのは、何も火魅子様や私たちだけじゃなかったみたい」
肩をすくめる忌瀬が苦笑を浮かべた。
九洲が倭国に誇る乱波衆も、その根底に流れる自我はあくまで九峪の直属であるという誇りによっている。それだけは捨てられないのだという強い意思が彼らを動かしている。
乱波たちは何も言わない。彼らはすでに、たとえ火魅子が止めたとしても、外加奈の城に突っ込む腹積もりでいた。
かつて奴隷として大陸から売られて来たものもいる。いくさで家族を失い路頭に迷ったものもいる。それらに差し伸べられた九峪の手に、彼らは国にではなく九峪個人に忠誠を誓っている。清瑞と同じように、九峪がすべてであるのだ。
部下たちの意思を、どうして棟梁である自分が拒絶できようか。何より清瑞もまたそのつもりでいるのだから。
「よく来てくれた」
そうとだけ声をかけた。いまだけは乱波衆ホタルではなく、九峪の私兵部隊に戻ろう。乱波たちも肯き返した。
火魅子を振り返った清瑞は、片膝をつき手を合わせた。
「私たちは九峪様をお守りするために、再び外加奈の城へ向かいます。九峪様は必ず守り抜きます。ですから、どうか——」
「皆まで言わなくてもいいわ。亜衣が到着次第、城壁を一撃で突破する方法を聞きだすから。それまでは何としても九峪様を守って。——そうだわ。清瑞、あれを持っていきなさい」
「あれ?」
火魅子が席を立つと、幔幕を出て行ってしまった。残された清瑞たちが互いに顔を見合わせていると、ほどなくして、一振りの剣を手に火魅子が戻ってきた。
あっと清瑞が声を上げた。
火魅子は、一振りの剣を清瑞の前に差し出した。
「九峪様の剣よ。これを届けて頂戴。きっと助けになってくれるわ」
それは九峪所要の宝剣、七支剣であった。九峪が大事ないくさの折に必ず使用するもので、第二次大隈海戦でも振るい勝利を掴み取った、幸運の剣だ。
腫れ物を扱うように清瑞が剣を受け取った。鉄拵の鞘は大隈の海底に沈んでしまったため、刀身を収めているのは新たに作った鞘である。同じく鉄拵、しかし表面に狼の毛皮を縫い付けている。獣毛の鞘に宝剣が眠っている。
「いい、必ずお届けするの」
「はい。必ず」
七支剣を清瑞は背にくくり付けた。落としてしまわぬよう、念入りに紐を結ぶ。
自分はこの宝剣の所有者ではない。しかしとてつもない加護に守られている気がした。ただの錯覚かもしれないし、これが九峪の剣という理由からそう感じるだけかもしれなかった。
朝からなにも口にしていない清瑞は、握り飯で腹を満たすと、七人を従えて陣営を飛び出した。疾風のごとく闇夜を切り裂き外加奈の城へと潜り込んでいく。
同じ頃には、九峪と教来石のほうでも、また一悶着が起きているところであった。