おかしい。監獄棟を見回っていた番兵が不審に思った。ほかに警備を担当しているものが、どこにもいないのである。もともと静かな一画だが、なおのこと静まっている。
持ち場を離れたな・・・・・・。舌打ちする。退屈な仕事であるから、職務放棄したくなる気持ちもわからなくはない。しかし自分ひとりだけが真面目に見回りをしているのに、他の人間がどこかで不当に息抜きをしているというのも、面白くない話しではないか。
まったくと文句をたれながら、しかし自分までもが仕事を投げ捨てるわけにもいかず、逮捕された教来石と九洲王の様子を見るべく、閑散とした監獄棟を歩いていく。
「しかし、北山屈指の軍師様も、捕らわれちゃあお終いだ・・・・・・」
教来石らが放り込まれている牢屋には灯りがない。牢屋の戸を開けると、中は真っ暗だ。手にした松明で内部を照らす。
——いない!?
人影がどこにもない。人間の姿がまったく見られない。それ以前に、檻格子がそもそも壊されているではないか。
しばらく呆然としていた番兵だったが、はっと我にかえるや、牢屋を転がり出て、教来石の部下たちが捕まっている一画へと大またで走った。
そこも、もぬけの殻だった。やはり檻格子は残らず破壊された後だった。
「だ、脱走、された」
身体を震わせながら、番兵が大声で叫んだ。
「脱走だー! 教来石と九洲の王が逃げ出したー!!」
騒ぎに騒いで、番兵は走り回った。
武器庫から持ち出せるだけの武器を強奪した九峪と教来石、以下八十余人が目指したのは、外加奈の城の政庁であった。政庁は外加奈の城における軍事・政治・経済のすべてを掌握し管理する中枢機関で、臨戦態勢下の現状でも、前線指示を除いたあらゆる指令はこの政庁から下される。
たとえば戦闘指揮は城壁際で戦う武将たちが、臨機応変に下すものだが、戦闘中の住民統制は完全に政庁からの指示による。逆を言えば、住民の動きをつかさどる政庁を抑えることは大変な意味を持っていた。
九峪たちはその政庁に目をつけていた。
武器庫で装備をそろえた九峪たちは、装いも北山軍のものに着替えている。たかだか八十余人が政庁へ向かっていても、だれも不自然だとは思わなかった。
あくまでも北山の正規軍を装う。道中、はやくも自分たちが脱走した事実が触れまわされていることを知ったが、これも逆手にとって脱走者を追っているかのように振舞いつつ、政庁のすぐ側まで接近してきたのだ。
ここで九峪は面白い手をつかった。顔素性の割れている教来石や自分ではなく、他の人間に下級武将の格好をとらせた。赤峻も顔が割れているため一兵士に扮し、九峪と教来石は自分たちに縄を巻かせ、囚人の風体である。
位の低い武将など無名もいいところだ。八十人程度を率いる身分の武将が、脱走者の捜索という仕事に当てられても不思議はない。
一団の先頭を進む偽指揮官は、偽者とはいえ武将として他者と接しなければならない。緊張しているのが九峪たちにもよくわかった。
見かねた赤峻が、偽指揮官に耳打ちをする。
「ビクついていると、返って怪しまれるぞ」
「は、はいッ」
「案ずるな。胸を張れ。似合っているぞ、その格好もな」
筆頭家臣の言葉に勇気付けられた偽指揮官が虚勢だけで前を向いた。姿勢にぎこちなさが残っているが、それ以上の助言はなにもしなかった。
政庁の周囲は堀と土塁がめぐり囲い、常人の背丈の倍は高い木柵が侵入者を阻む。ただし決して敷地は広くない。政庁そのものは平均的な宮殿で、他の施設に厩や宿舎などが点在しているものの、たとえば火向の当麻城宮殿と比べても規模は小さいだろう。
城の規模に対して政庁の規模が小さいのには、理由がある。もともとこの城を作った亜衣と紅玉には、あくまで『万が一の事態を想定し、場当たり的な緊急措置として用意した城』という認識しかなかったのだ。そのため本格的な城郭都市に求められる政庁機能はさほど重視されなかったのである。
城門に兵士が二人いる。政庁へ駆け込もうとする一団が足止めを受けた。
「どうした、何かあったのか」
いきなり八十人も押しかけてきたのだ。門番らが押しとどめる。奥からも控えの門番が四人ほど現れてきた。
生唾を飲み込み、偽指揮官が前に出る。
「き、教来石さ——んんっ、教来石と九洲の王を捕まえたので、これから引っ立てるんだ」
「なにッ」
門番が二人の囚人の顔を上げさせた。たしかに一人は教来石であり、もう一人は九峪である。たしかに逃げ出した犯罪人がお縄になっている。
門番たちはは笑顔を浮かべて、「でかした!」と諸手をあげて喜んだ。
「裏切り者だが廉思様のご友人だった男だ。憎き九洲の王様も、せいぜい丁重に扱ってやれ」
ひとしきり嘲笑を浴びせかけた門番は、上機嫌で八十人一行をあっさり政庁へと通してしまった。城の外には耶麻台共和国の大軍が展開し、一触即発の状態が続いていたところに教来石と九峪が脱走すつという異常事態
が、ここでようやく終着したことが喜ばしかったのであろう。
連行するだけに八十余人も必要かどうかという疑問にも、気づいていない様子だった。一時に浮かれて判断を鈍らせている。
偽指揮官は、頭を下げて門を通り過ぎる。
「——見てろよッ」
主君を侮辱された怒りは、偽指揮官だけでなく、赤峻ら全員の胎に重苦しい沈殿物として溜まった。最後尾の数人が門番の注意が自分たちから外れたのを確認すると、身を翻して門番の口をふさぎ、その背に刀をつきつけた。悲鳴さえも上げさせなかった。さらに数人が門兵の待機所へ押し入り、これも抵抗させずに一斉に切り伏せてしまった。
手はず通りである。門を通る直前までは躊躇いもあったが、自分たちを裏切り者と罵り主君を嘲ったものを、おなじ北山人と言えども殺害することにもはや躊躇などなかった。
政庁内部へ踏み入り、門番さえ消してしまえば、もう制圧したも同然である。部下の数人を殺害した門番の代わりに立たせる。もし外部から近づくものがいてもあれこれ口実をつけて追い返すように指示は出している
教来石と九峪を縛っていた縄がほどかれた。二人はそれぞれ刀を手にした。
時刻は夜中もいいところ、ほとんどの政庁からは寝息すら聞こえてきそうだ。
教来石は部下たちの前にたち、最終的な確認を行った。
「抵抗するものは切るしかない。それ以外のものはみな、捕らえろ。殺す必要はない。いいな」
八十人の戦士たちは、三組に分かれて政庁のあちこちへと走り出した。三十人ほどが宿舎へ、二十人ほどは厩から倉庫などのある場所へ、そして教来石と九峪は三十人を率いて本庁宮殿への突撃を敢行したのだ。
政庁につめている警護部隊は五十人ほどであった。うち数人が警備に回っていたが、集団でかかってくる教来石の部隊に抗うべくもなく蹴散らされた。宿舎で眠っていた連中も、ほとんど抵抗らしい抵抗などできず、住人ほどが切られ、ほかは捕縛された。
宮殿には、役人と武将が数名いるだけだった。戸を蹴り破って九峪たちは執政官の執務室へなだれ込む。執務室にいたのは、武将が一人——教来石を捕らえ、今回の反乱を首謀した男である。
目を丸くさせた男は、立ち上がり抜刀する。九峪たちはぐるりと周りを包囲した。
「きっ——教来石!?」
血相を変えて混乱する男に、複雑な表情を教来石はむけて見せた。
「ど、どうやってここまで・・・・・・」
「わしを嘗めるでない。恵源親方の片腕だったわしじゃぞ、実力の見積もりが甘かったな。こちらには一代で大国を築いた九洲王もいるのをよもや忘れたか」
「どうしようというのだ!」
「残念だが、貴様は斬らねばなるまい」
刃を上段に構えた教来石が、右足を半歩まえに出す。
男は鼻息を荒くさせると、「裏切り者めがッ」と憎々しげに怨嗟の声をこぼした。
「北山人の面汚しめッ! 魂まで中山と九洲の傲慢な者どもに売り飛ばしたか!」
「違うと言ったところで聞きはすまいな。わしは北山の民と血統を守りたいだけじゃが、そう思いたいならば、思うがいい。わしは貴様を斬るッ!」
「おのれェッ」
「九峪殿! 北山の不始末は北山の手で斬り申すッ!」
叫ぶや、教来石が斬りかかった。真下へ一閃を振り下ろす。男は危なげなく得物で防ぐも、横から教来石の部下たちが切っ先を向けて突っかかってきた。
避けようにも、手狭な場所では避けられもしない。数本の刃が無残に男を四方から刺し貫いた。息も絶え々々に男があえぎ、刃を抜き取ると膝から地に伏せた。ほどなく命の灯火も、風に吹かれるようにして消えた。
刀を両手で握る教来石の肩を九峪はやさしく叩いた。教来石がうなづいた。
「ほどなく政庁の占拠も完了するはずだ。捕らえた者を一箇所に集めておこう。あとは・・・・・・」
「市民ですな。ここ政庁に入りきるかどうか・・・・・・」
「戦う意思のないものだけだ。北山の人口から考えれば、無理をすれば入るだろう」
北山衆の総人口は四千八百人ほどで、うち三千人弱が戦士階級にある。一般市民はおよそ全体の四分の一にあたる一千余人であろうと思われる。
当麻城や火奈久城、波羅稲澄城など主要都市の政庁ならば、一千人の収容が可能な広さをもっている。外加奈の城のそれでは、すし詰めにしても八百人が限度かもしれない。
そのような場合を考えて、もしも政庁に住民たちが入りきらなかった場合には、加奈港へ逃れる考えもある。加奈港には大掛かりな造船施設が存在しており、そこへ立てこもることも可能だ。しかしその場合、政庁と違い堀もなければ柵もないので、襲い掛かってくる北山軍からわが身を守ることすら覚束なくなる。
何にしても、戦いに参加しない子供や年寄りなどの住民を、政庁に集めなくては事態は先に進まない。『非常時にそなえて、戦えないものは政庁に集まるように』という触れを出すため、十数人が政庁を飛び出し居住区目掛けて疾走した。
その間にも、九峪たちは政庁にあつめた住民のまとめ方や、襲ってくるだろう北山軍からどのようにして防衛するかを、事細かに話し合わなくてはならない。時間がない。いつ城壁あたりで戦闘に備えている連中が、政庁の異変を察するかもわからないのだ。
「さて・・・・・・肝心のことだが」
九峪が重そうに口を開く。
「駄目もとだが、やるんだな?」
探るような九峪の問いかけに、教来石がこぶしを握り締める。
「むざむざと反逆者のまま終わりたくはありませぬ。みなに、停戦を呼びかけねば」
「それはいい。だけどそれは、住民を収容してからになる」
「承知しております。この政庁だけが、北山の未来を繋ぐ最後の砦です」
清瑞が監獄棟に忍び込むまでの間に教来石は、北山の住民をここ政庁へ集めることを九峪に話していた。k谷だけでなく、いやさ九峪以上に敗北した北山軍が、集団自決へ走る可能性を危惧していたのは教来石の方ですらあった。
一刻もあれば、住民の移動は完了できるはずだ。
勝負はその後の展開に潜んでいる。
この段階にいたると、北山人ではない九峪の出番はほとんどない。指図はすべからく教来石が下すからだ。
執務室から成敗した男の遺体を運び出させ、停戦を呼びかける段取りにはいった。成功する見込みのまったくない呼びかけになるだろう。提案者である教来石にもその認識はちゃんとあったが、やるだけはやってみようと言う。やりもしないで不可能だとは言いたくなかったのだ。
どうせ最終的には戦わざるを得ないんだ——九峪は先が見えていながらも、後悔したくない教来石の好きなようにやらせることにした。
忙しそうにする教来石の近くにいてもやることのない九峪だが、単独で行動することも危険を伴っていた。なぜなら今でこそともに戦ってくれている教来石の部下たちも、内心では九峪を快く思っていないからだ。彼らも九洲人を嫌う北山人であることに代わりはない。
それでも、昔のように無駄な緊張感に悩まされることもなくなった。やはり場数を踏んで、肝が据わってきたからだろう。
四半時が経って、住民一千人の移動が始った。衣服などわずかな物だけを携えて、ほとんど着の身着のままで政庁へと退避してきた。
どうせ暇なのだからと、受け入れの手伝いを九峪が買って出た。大君である九峪が誘導役を買って出るなどとまさか思っていなかった教来石はたいそう驚いたが、しょせん八十人しかいない少人数、人手は足りていなかった。
「ですが、一人でいるのは、いささか危険ですぞ。言っては何ですが、あなたは九洲の王なのですから」
もしかしたら、自分の部下が不逞を働くかもしれない——と、教来石は暗に警告する。人では欲しいところでも、九峪ほど立場の危うい人間を一人にするのにも不安があった。
そのことは九峪もわかってはいるのだが、しかし住民の受け入れが滞るようでは、先行きかなり厳しくなることは明白だった。
いくらなんでも、住民を誘導している最中に、乱闘騒ぎなど起こしはしないだろうと九峪は言う。事態は喫緊していることを理解できているはずだ。
教来石から了承を得た九峪は、政庁宮殿の玄関口から住民の移動を手伝った。住民は宮殿と宿舎の二方向へ導かれている。九峪はもっとも混乱しやすい宮殿への誘導を担当した。
人々に慌てる様子は見られない。恐怖は感じているようだったが、ちゃんと九峪の言うとおりに従ってくれている。
人数は増えつつある。広くない政庁はしだいに住民で溢れていき、捌いていくのも大変だ。渋滞となり、混みだした。
額に汗を浮かべて、まるでよく売れる飲食店の誘導員さながらに立ち回る九峪の腰元に、いきなりどんっと軽い衝撃がぶつかった。
びっくりした九峪が視線を落とすと、そこには、いつか種芽島で遊び相手になってやった子供が、不安そうな表情で九峪にしがみついているではないか。
「これ、阿毛! こっちに来なさい!」
母親らしき人物が慌てて子供の腕を掴んだ。
「どうもすみません! どうもすみません!」
「大丈夫だよ、なんともないから」
恐々と頭を何度も下げる女性に九峪は笑って応えた。見上げてくる子供と同じ視線になるよう腰を落とし、子供の頭をなでてやる。
「久しぶりだなぁ」
九峪は、この子供のことを覚えていた。この子だけではない。ともに遊んだ子供たちの笑顔は一人残らず忘れてなどいない。死の島と化していた種芽島で、空腹に耐えた仲間だという意識が九峪の記憶に子供たちの存在を焼き付けていたのだ。
子供が、九峪に抱きつく。
二人を交互に見比べていた女性が、はっと口元をかくした。
「お、大君——ッ」
言って女性が硬直した。九峪を捕らえてきたことを、北山人ならば誰もが知っている。捕まったとき九峪は市中を引き回されて見世物にまでされたからだ。あの仕打ちは九峪が経験した中で、最大の屈辱だった。いますこし九峪の精魂に冷酷さがあったなら、徹底的な復讐をかたく誓っていただろう。とても常人ならば許すつもりにはなれなかっただろう。
奪い取るように女性が子供を引き寄せた。他の住民たちも、九峪の存在に気づいたらしく、足を止めて九峪を見つめている。
誘導の波が途切れた。収容が滞ってしまった。
立ち上がった九峪はそ知らぬように、引き続き誘導を続ける。教来石の部下たちも急かしながら、一度とまった行列が、ふたたび流れ出した。
子供がずっと九峪を目で追いながら行く。小さく九峪は手を振ってやった。子供も振り替えして、人ごみに消えた。
半刻がたち、一人の老婆が九峪の側へ近づいてきた。こちらも見覚えがあった。やはり種芽島で、身寄りの失った子供たちに囲まれて、昔話などを聞かせていた。
「王様や、なぜあなた様がここへ?」
九峪がさらし者となったところを、老婆はしかとその目にしていた。獄中になくてはならないはずの九峪が政庁で、しかも自ら自分たちを導いているのは、いかにもおかしなことであった。
「いろいろとあったんだよ」
九峪は多くを語りはしなかった。そんな九峪に、それでも老婆は質問を続けた。
「わしらは、どうなるのでしょうや」
「安心してくれ、何もしないさ。万が一のためにここで住民を匿うことになっただけさ」
「王様が、わしらを守ってくださるんでしょうかい?」
「そのつもりだ」
「ああ、それはよかった」
九峪の人柄を気に入っていた老婆はおおきく安堵した。
老婆は数人の子供をつれている。彼らも九峪になついており、いちように笑顔の花を開かせた。
「ちゃんと婆さんを守るんだぞ」
九峪の言いつけにも子供たちは大振りにうなづいて見せるのだった。
いつか北山を背負って生きていく未来の担い手たちは、老いた保護者とともに、宿舎のほうへと通されていった。
それからまたしばし時間を経て、宮殿から女が駆けてきた。政庁宮殿にはこれ以上はいらないと言い回っているようで、九峪の元にもその旨は聞こえてきた。
「やっぱ入りきらないかぁ・・・・・・」
となれば、あとは宿舎の方でどれだけ受け入れられるか、それが問題だ。宮殿への案内をしていた九峪ほか数人が、入り口の前に立って宿舎方向への誘導を開始した。流れが宿舎一方へと変わった。
思っていたよりも経過は順調である。入りきるきらないは別としても、柵を閉じるまではなんとか漕ぎ着けられそうだ。収容場所が一箇所だけになったこともあり、人々は誘導なしでも勝手に進んでくれるようになった。
こうなれば、楽なものだ。
政庁宮殿や宿舎が住民で一杯になるのにつれて、正門辺りには教来石の部下たちが集まりつつある。収容次第、門を閉じることになっている。もしも北山軍が攻めてくるとしたら、まず戦場となるのが正門付近であるからだ。
「ふぅ・・・・・・あと何人くるかな」
もう相当な人数は通したはずだ。そろそろ打ち止めになるだろう。
だが、最後尾が正門を潜り抜けるよりも早く、北山軍は政庁での異変に気づいてしまったようだった。居住区に触れを広めていた数人が、必死になって戻ってきた。
北山軍の武将は一百人ほど従えて、政庁へ向かってきているらしかった。知らせを聞いた教来石は舌打ちして外にでるや、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「収容を急がせるんじゃッ! 門を閉じる用意をせいッ」
「教来石ッ」
九峪が教来石の元に駆け寄った。
「想定内のことだけど、うまくないな」
「百人だと聞いております」
「停戦勧告は」
「もちろんします!」
「わかった。じゃあ急ごう!」
言って九峪は抜刀した。急かされる住民が悲鳴にも似た声を上げながら宿舎へと走っていく。九峪も正門へと、人の流れに逆らっていく。
正門の外には三組の家族が、走ってきている。わけがわからず、とにかく走っている。そのはるか向こうに、すでに集団の姿が黒々と映っている。ときどき篝火に姿を浮かび上がらせている。
「いそげっ、急げッ!」
掛け声に引きずられるように三家族が正門を抜けた。すかさず赤峻の「閉じろ!」という鋭い命令が発せられ、木造の扉が力任せに閉められた。閂がかけられた。
政庁は騒然としていた。正門には七十人の戦士たちが集い、息を飲んでいる。門のやぐらに教来石が登っていくのを九峪は見届けた。
——うまくはいかない。
すでに胎を括った九峪にも、自分たちを貶められて怒り心頭の七十人も、全員が抜刀し槍を構え、弓には矢を番えている。
まだ淡い希望を抱き、縋っているのは、おそらく教来石ただ一人だけだ。否、教来石も本心では、結果などわかりきっているはずだ。もはや誰もが戦端が開くのを避けられないと確信していた。
櫓から教来石は政庁の外——外加奈の城における大路に、北山の集団が圧してくるのが見える。
一百人を従えている武将は正門までたどり着くと、門が閉じられていることに気づいた。上を向く。教来石がいた。
「教来石殿ッ」
「お前が来たか」
厳つい顔の武将がつばを飛ばして、これはどういうことかと、頭上の教来石に問いただす。
「政庁を占拠し住民をあつめ、いったい何を考えておられる!」
「お前たちが起こした無意味ないくさを、止めたいと思っておる!」
「これは異なことを言われる。北山の誇りを取り戻し、九洲中に知らしるための、大事な闘争ではないか!」
「これのどこが誇りある闘争と言えるかぁ! いたずらに北山を危険にさらし、あまつさえ行き場を失った我らに生活の場と糧を与えてくれた耶麻台共和国に、恥知らずにも恩を仇で返すような真似をして! そこにいかような誇りを吼えるッ!」
「ぬっ・・・・・・!」
痛いところを疲れた武将が押し黙る。さらに教来石は、当方の非を並べて、この戦いに大義名分が何もないことを声高に言い切った。その口上は門をはさんで緊張している九峪たちにも、はっきりと聞こえていた。
——だけど北山には、その正論は届かないんだよ、教来石。
残念なことであるが。
「いますぐ和睦するのじゃ! 手遅れになる前にッ!」
これが最後通告になると、言外に教来石が宣言する。言い返す言葉のなかった武将は唸る。教来石の言葉に共感している風ではない。なんとかして反論しようと、あれこれと屁理屈を頭の中で捏ね上げているのだ。
だが正論は教来石の側にあり、言葉に窮した武将は、顔を赤黒くさせると、
「いまさら引き返せるかあッ!」
と、実も蓋もないことをいい、部下一百人に門をぶち破るよう下知した。一百人が正門へと殺到していく。
「やはり駄目だったかよッ」
「来るぞおおッ!! 門を押さえろッ」
赤峻の号令に戦士たちが門へとへばりつく。分厚い木版を間に挟み、押し開けようとする一百人と、押し止めようとする七十人が力比べし、夜空に男の女の、戦うものたちの絶叫が木霊した。
交渉は決裂した。もともと成功する見込みもなかっただけに、落ち込むことなく教来石は弓と矢をとり、櫓から射掛けて応戦した。櫓には他にも兵士が二人おり、それぞれが弦を引き絞っては矢を撃っている。
ついに政庁の正門で戦いが起こった。一百人と七十人の小規模な戦いでこそある。
九峪も門を押さえる。九洲の大君だとか、太師だとか、神の遣いだ西の英傑だとかいう肩書きなど一切持たない、はじめて一兵卒としての戦いの中に九峪は命を賭けていた。
前からも後ろからも、左右あらゆる方向から圧迫されながら、気持ちは門だけに向いている。絶対に通さない、開かせないという強い意思が、熱気の中で渦を巻く。渦は気概の竜巻となって、一百人の力にも負けずに門はびくともしない。
北山軍の武将は援軍を呼びに兵士を一人走らせた。一刻のあいだ押し合いを続けていたところへ、さらに二百人が政庁へと援軍に到着してきた。
北山軍は押すだけでは埒が明かないと判断して、戦斧を振るって門を破壊しようと試みた。しかし戦斧では門を破壊するまでにはいたらず、上からも教来石が弓を射って妨害してくるので、あえなく頓挫してしまった。
困った武将が思いついた手は、杭を数本束ねたものを運搬用の台車に括りつけて、即席の衝車とすることだった。
圧力がにわかに弱まって九峪たちが不思議に思った瞬間、すさまじい衝撃が正門を揺るがした。衝車で突かれたときに門を押えつけていた九峪たちは、いとも簡単に弾き飛ばされてしまった。数十人が折り重なるようにして仰向けに転がった。
「な、なんだぁ!?」
赤峻が声を荒げた。何が起こったのか、九峪はすぐに察しがついた。
「破城鎚もってきやがったな!」
二度、三度と門を衝車が突き壊そうとしている。木目に亀裂の生じる音がする。
九峪たちは起き上がり門を押さえ、また弾かれるということを何度も繰り返した。しょせん即席の破城鎚で突いたところで、そう簡単に破ることは出来ない。
その間に突撃に参加していない北山軍は、堀と積塁をこえて柵に取り付こうとしていた。弓矢を持つものは柵の上から迎撃するのだが、いかんせん数が違いすぎる。
もはや柵も門も、破られるのは時間の問題であった。
「ぬぅ——ッ、もはやこれまでか!」
教来石は弓を捨て、抜刀するや櫓を降りて斬り合いの覚悟を固めた。開き直った九峪たちも、無駄に体力を消耗するよりも、刃を交える道を選んだ。
「教来石、正念場だな!」
「やつらには援軍が合流しておりますぞ! ざっと三百ほどはいるかとッ」
「三百かよ・・・・・・。こりゃあ下手したら、死んだかもな」
「よいのですかな!」
「なにがッ!」
「あなたは九洲の王です! ここで雑兵のように死ぬことがです!」
「ここまできたら一蓮托生だろう! 俺一人残ったってあいつらが生かしておくかよ、だったら一緒に戦うさ! ・・・・・・迷惑かッ!?」
「とんでもない! もう一度、貴殿と肩を並べて戦える——悪くはござらん」
「ッ——門が破られるぞ!!」
バキィッ
破片が盛大に飛び散った。先端の尖った杭が数本、門をぶち破っている。
全員が息を殺した。
杭はいちど引き戻され——今度こそ完全に門を破り抜いた。それと同時に、北山軍の兵士たちが破られた城門から狂気を背負って突入してきた。
「いくぞおおッ!!」
教来石が味方を鼓舞して刀を空高くに掲げる。九峪は絶叫した。七十人が斬りかかった。
七十人対三百人の殺し合いが始った。
北山人同士の戦いは激しかった。本来ならば剣技の未熟な九峪にどうこう出来るような相手ではない。しかし勢いというものの不可視の力が九峪に味方しているのか、刃をはね上げて隙の生まれた敵の腹を蹴り飛ばすなど、まるで戦いなれしたように奮戦している。
北山軍は数人が柵からも越えてきて、数は増すばかりである。それでも決死の戦いを挑む九峪たちのほうが士気の面で上回っており、戦況は互角の状態で推移していた。
九峪は、この男にしては、よく戦っている方である。ひ弱な九峪の打ち振るう剣圧などたかがしれているが、形振り構わない戦い方が功を奏している。火事場の馬鹿力というやつかもしれなかった。
「怯むなあ! 意地を見せろお!」
教来石の声が聞こえる。絶えず味方への励ましを忘れない教来石も、訓練された刀術を駆使して次々と屠っていった。横袈裟に薙げば腕を落とすものがいた。それらの後ろを、部下が一突きして命を奪い取っている。
九峪の全身はとっくの昔に切り傷だらけになっていた。なんども鍔を打ち合わされた刀身はひしゃげて、しだいに切れ味は鈍っていく。
敵の腹を突き刺す。引き抜こうとしたら、これがまったく抜けなくなってしまった。曲がった刀身が肉に引っかかり、刃こぼれしているためすんなりと刃が滑らないのである。
「やばッ——」
「きええいッ!!」
九峪の動きが止まった瞬間を見逃さなかった北山軍の戦士が、刀を振り下ろしてきた。とっさに九峪は身体をのけぞらせた。辛うじて刃は目の前を通り過ぎた。
しかし刀が抜けないのである。仕方なく手放した九峪は丸腰となってしまった。最悪なことに、九峪には徒手空拳の心得はない。丸腰になってはお終いだ。
武器がなければ戦いようがない。周囲は混戦しており、武器を探している暇もなかった。
——北山のために俺は死ぬ。このことか——
敵が振りかぶる。せめて九峪は視界を閉じないようにだけ、恐怖を噛み砕いた。そのときだった。横から黒い小さな弾丸が、敵の懐に飛び込んでいった。くぐもった声を発して男はその場に崩れた。
黒装束の韋駄が九峪を振り返った。
「お、おまえ・・・・・・」
「ご無事ですか!」
九峪を守るように警戒しつつ、韋駄が側まで近づいてくる。
「九峪様ッ!」
背後からは、清瑞の声がした。こちらも見慣れた漆黒の乱波装束である。
九峪は喜色を満面に浮かべた。
——清瑞が間に合った!
清瑞だけではない。計八人の乱波たちが、九峪の周りを固めるように布陣した。
「お前たち・・・・・・助かったッ」
「九峪様、こちらを」
背負ってきた七支剣を九峪に手渡した清瑞は、じきに外部からの攻撃が始ることを伝えてきた。
手のひらによく馴染んだ七支剣の感触をたしかめる。この戦いにも希望が見えてきた。攻撃が始れば、北山軍もこちらばかりにかかりきっているわけにもいかなくなる。
勝機はそこから生まれる。
「韋駄、教来石の顔は知っているか!?」
「はい!」
「味方がもうすぐ攻撃を開始する。それまで持ちこたえるぞと、伝えるんだ!」
九峪の意を受けた韋駄が、教来石を探して離れていく。戦いは徐々に九峪たちが押され始めていた。やはり数の優劣が影響を及ぼしていた。
「勝つぞ・・・・・・天の火矛、俺は死なないぞッ」
七支剣の一撃が敵の足を斬った。傾いだ頭を脳天から叩き割った。
返り血を浴びた九峪が叫んだ。その近くで清瑞が次々と敵を切り倒していく。遠くでは教来石が、赤峻が、そのときが来るのをひたすらに待ちわびている。
城外の軍勢——討伐軍が動き出したのは、今まさにこのときだった。