東の空を見つめた。その方角から太陽は昇り、その方角へと月は沈み行く。始まりと終りにも似た天体運行は、あたかも人間の一生を模しているかのような軌跡を描いている。
薄暗い灰色の空模様が、冬という季節をよく表している。そんな気がした。寒い色だと思い、亜衣は身を縮こませた。
胸へ抱くように、一振りの剣を抱きしめている。
「申し訳ありません、伊万里様」
ぼそぼそと亜衣が呟く。伊万里から授けられた宝剣が寒風に冷やされ、とても冷たかった。
まぶたを閉じる亜衣は悲しく悔しげに唇をかんだ。身体を震わせている。寒いからという理由だけではなかった。
「お約束を、果たせませんでした」
肌寒い風が亜衣の肌を撫でる。日輪巴の御旗がばたばたと強い音をならした。謝罪と悔しみの言葉が、音と一緒になって流されていった。
九峪が死去したのは、冬の終わりごろだった。しかし葬儀が執り行われたのは、新緑がますます青みを増すようになってからだった。泗国の情勢を亜衣が気にしたためだ。
冬から夏にかける間、泗国では動きがあった。
西伊依に展開されていた大出面の勢力はほとんど駆逐され、連合側の支配権が確定的となった。しかしそうなるまでに讃其が大出面軍の占領下におかれ、連合国の一角がつぶれる事態となっていた。阿分でも狗根国の司令官が戦死した。
大出面国は——北伊依、北阿分、讃其のほぼ全域
狗根国は——東阿分
西南連合は——伊依の過半、阿分の過半、斗佐
が、それぞれの支配領域となっている状況だ。
やはり土着勢力でもある連合側が、泗国の土地の半分を保持している。とはいっても泗国の北を押さえている大出面国の軍事力や政治力も油断がならない。虎桃、紅玉という名将二人を相手にして、西への活路を見出せない狗根国がいまのところ最も劣勢であろう。
戦いは次第に、西南連合と大出面国の戦いへと移りつつあった。
とても悪い出来事も起こっている。
満納城からの撤退戦で深手を負った伊雅が、元星十一年五月二十二日に、この世を去ってしまったのだ。享年、六十二。
九峪崩御から約二ヵ月後のことだった。
前線での最高司令官であり、戦争における耶麻台共和国の代表格でもあった大将軍伊雅の死は、泗国で戦う九洲兵のみならず、泗国勢にも大きな衝撃となって襲い掛かった。
いま、大出面国も狗根国も、狙い合わせたかのように、標的を西南連合に絞ってきている。まず潰すべき敵が誰かを見定めてきたということだ。
同郷の古参として唯一従って来てくれた重臣の仁清を失った伊万里は、西伊依回復のためにひたすら進軍行動を続けていた。白雉城から伸びる主要街道を何としても死守したい考えだ。そこに伊雅の死がかみ合った。大出面国は、再び西伊依を攻める機を見計らい、沈黙に息を潜めて虎視眈々と伊万里軍の隙を覗っている。
伊雅とともにあった閑谷は、さらに過酷な状況だ。彼が守る白雉城は、泗国における要地にあって、決して手放すことの出来ない戦略拠点であるからだ。
白雉城から阿分へと伸びる街道こそが、香蘭・紅玉親子の軍団を支えている兵站線に他ならない。この道を寸断されては、いかに名将に率いられし精強薩摩軍団も飢えに苦しむしかなくなってしまう。
だがそれを、虎桃は狙っている。そして紅玉も常に眼光鋭く光らせ、もし虎桃が怪しい動きをしてもすぐに対応できる準備を整えている。狗根国軍の動きも見逃すことは出来ない。
阿分はいまだに三つ巴の只中にある。
これらの事情を踏まえて、葬儀はしばし先送りされることとなった。そうでなくとも、伊雅を失って動揺している泗国の同胞たちに、なんと言って九峪の死を伝えればいい。それだけで敗北する要因となりうるだけに、神経を尖らせる亜衣の気持ちもわかる。
天目や彩花紫にも、知られたくはなかった。九峪が今度こそ本当にいなくなったと天目が判断したら、また九洲国内に侵入してくる可能性は大いにありうるではないか。彩花紫とて何を考えるかわかったものではない。
九峪雅比古という男の死が倭国全土にもたらすだろう影響力は、それだけ凄まじいものがあるのだ。
亜衣としても、本当ならば、すぐに葬ってやりたい。いつまでも屍をそのままにして置きたくはなかった。だが心を鬼にした。愛する男を安らかに葬ってやることよりも、国事を優先させた。
それが九峪と交わした最後の約束であるからだ。いずれはばれるだろう、隠しとおせるわけもない、しかしそこで清瑞率いるホタルが活躍してくれた。もともと九峪の私兵集団だった組織だ、それが九峪の遺命であるとしたら、文字通り命を惜しまず働く連中ばかりだ。
九峪の死は九洲の民にも伏せられた。そうしている間、清瑞は九洲に潜り込んでいる他国の間諜を、一人でも多く始末するよう影に暗躍した。
一方で亜衣は北方の防衛線を強化する。藤那が総指揮を取っている。今度は豊後でも防衛線の構築が進められた。
泗国では司令官たちにだけ、九峪の死は伝えられた。その上で戦略を立てるべしとした。
季節が夏を迎えるまで、それは続けられた。
九峪の死が正式に発表されたのは、元星十一年七月二十七日だった。
実は九峪が崩御した翌二日後に、凶事が続いていた九洲にをささやかながら大きな吉事がみまっていた。
かねてより妊娠していた火魅子が激しい陣痛を訴えて、苦悶苦闘の末、産婆らが玉のような子供を取り上げたのである。産声を上げて泣き叫ぶ赤ん坊は、女児であった。
この日、元星十一年三月二十日——後の二代目女王、雅(みやび)が誕生した。九峪の忘れ形見であり、父の死後二日して生まれた偶然も手伝って、火魅子や群臣たちは、
「これは九峪様の生まれ変わりに違いないッ!」
と、声をそろえて女児の誕生を祝福した。
名前の由来は、名づけるに当たって火魅子は最初に考えていた名前ではなく、雅比古から一字を取り『雅』としたのである。
そうしたところからも、この女児が九峪の生まれ変わりで在って欲しいという、火魅子の哀切なる気持ちが感ぜられて仕方がない。
亜衣もまた、
——そうであってほしい
と思わずにはいられなかった。
ちなみにこれは余談だが、女児の出産報告は泗国勢にも届けられた。伊万里は複雑な心境ながら祝辞を述べ、病床にあった伊雅ははらはらと涙を流して喜んだ。
「雅様か・・・・・・良き名じゃ・・・・・・。お会いしたいのぅ・・・・・・九峪様と火魅子様のお子を、この手で抱き上げてみたい・・・・・・」
——だがその願いが叶えられることはなかった。
泗国で死去した伊雅の遺骸も耶牟原城まで護送され、二人揃って国葬されることとなった。
耶麻台国復興の灯火を、苦節の中でも絶やさずに九峪へと繋いだ伊雅。
その伊雅と共に、百戦百勝の末に新たな耶麻台を建国した九峪。
火魅子との婚礼に沸き立ったあの日から、まだ一年も経っていないのに——
八月十日。古い耶麻台国の英雄と、新しき耶麻台共和国の英雄との、別れの儀式が盛大に執り行われた。
九峪の遺体は阿蘇から一旦は耶牟原城へ移されている。火魅子たちはここで、九峪本人と最後の対面を果たした。
大勢の人々が涙を流している。謁見の間には、二百人以上の群臣たちが詰め掛けていた。遠州と写楽だけは、北方警備のために参加することは出来なかったが、今頃は北の地で喪に服しているはずだ。
藤那、志野、尾戸、切邪絽ら各地の知事。
音羽、清瑞など六将と謳われた剛の者たち。
得宗家の亜衣、衣緒、羽江。
主治医の忌瀬。
志野の妹分であり護衛の珠洲、藤那と血縁関係にある綾那など、陪臣からもとくに九峪と古い付き合いにある者たちが、数多く列席していた。
九峪の死に顔を見た珠洲も、さすがに悲しげな瞳を伏せていた。まるで喧嘩仲間を失ったかのように・・・・・・
文官の役職に転向した元武官たちも多くいる。誰もが九峪、伊雅と共に乱世を駆け抜けてきた戦士ばかりだ。伊尾木ヶ原を前に集ったころからの古株も少なくはなかった。
そこかしこから、悼む声が上がっている。誰もが囁いた。
「九峪様が、お亡くなりになられるなど・・・・・・」
一人として予想だにしないことだった。自分たちはこれからも、九峪と共に倭国統一という偉業に向かって、ただ駆け抜けていくのだと、漠然と夢見ていたのだから。
九峪の死はにわかに受け入れられず、現実味も皆無だった。
生まれたばかりの我が子を抱いて、火魅子が物言わなくなった九峪にそっと近寄った。長い眉毛はとても優しそうで、悲しそうで、寂しそうだ。
「九峪様・・・・・・ご覧になられていますか・・・・・・九峪様の、赤ちゃんですよ」
言って火魅子は微笑んだ。
「生まれたばかりの・・・・・・。ふふっ、どうですか。お約束どおり、玉のような子を産みました。玉のような・・・・・・元気な、九峪さま、の——ッ」
それ以上の言葉を続けられずに、火魅子は泣き伏してしまった。嗚咽をかみ殺すことも出来ずに、ただただ、切ない雫を零すばかりだった。
雅は九峪の生まれ変わり——そう信じたいだけだった気持ちで、簡単に九峪の死を受け入れられるわけがない。
九峪は確かに死んでしまったのだと、火魅子は涙を流すことで、自分の中に溶け込ませていった。
そんな火魅子に吊られるようにして、慟哭がわっと沸き起こった。いつしか全員が泣いていた。一度は九峪に反逆した藤那や、宰相の亜衣さえもが、果てなく涙を流し続けた。
甘いとも取れた九峪の優しさが、彼らの頬を止め処なく濡らしていた。
かつて九峪が着ていたブレザー・・・・・・修繕を重ねあちこちが解れてしまっている。見送るときはこの服をと火魅子のたっての願いだ。最近ではまったく着ることのなくなったブレザーに袖を通し、伸ばされた髪を切ると、十年前の青かった頃の九峪が、棺の中で静かに眠っている。
懐かしい格好に、人々は追憶の海を泳いだ。九峪と共に九洲を駆けた日々を思い出した。
もはや戻ってこない復興戦争の日々は今、黄昏に霞み行き一日が終わるように、はるかな思い出となっていく。
そのすぐ側では伊雅が眠っている。こちらでも多くの人々が、志を砕かれず武門一筋に生きたその生涯を称えて、王家に古くから伝わる歌が口ずさまれている。
髪も、髭も、白くなっている。隠居してもおかしくはない年齢になっても、伊雅は九洲の剣であり続けた。伊雅とともに長年を過ごした清瑞は、幼い頃に伊雅から貰った短剣を、棺の中に収めた。それが清瑞なりの決別の証だった。
すすり泣く火魅子の肩に手を置き、やさしく亜衣は囁いた。
「星華様・・・・・・」
火魅子はこくりと小さくうなづいた。
亜衣は涙をぬぐうと、顔を上げて諸将へ号令をかけた。
「九峪様と伊雅様が旅立たれる・・・・・・行こうッ!」
挙げられた手を合図として、八人の男たちが、九峪と伊雅の棺を担ぎ上げた。謁見の間の外に出る。晴天である。かなり暑い。
亜衣たち高官は馬にまたがり、火魅子は馬車に腰を下ろした。耶牟原城の沿道には住民が総出で並び、偉大なる英雄たちの旅立ちを見送った。住民たちは、思い思いに紅巾を額や腕、あるいはスカーフのように首に巻いている。
むかし九峪が建国を宣言したとき、その背に真紅の外套を靡かせていた。眼下に群がる人々も紅を身にまとっていた。誰かが言い出したわけではなかった。ただ九峪を見送るのに、これ以上に相応しい色はないのだと、人々は言葉にせずともそう理解しあっていた。
赤、朱、紅——それは伊雅が全てを捧げた耶麻台国の国色であり、九峪を象徴する色でもあった。
沿道を埋め尽くす人々は、声の限り叫んだ。何度も何度も九峪と伊雅の名を呼び続けた。
葬儀の行列は、三百人からなっている。あまり多くの人員を割いては、有事の際に困るから、少人数の行進となった。
九峪を送る声が鳴り止むことはなかった。一行が大路を行き、城門を出てもなお、耶牟原城からは九峪と伊雅の名前が叫ばれ続けた。
城門を出てしばらくして、どこからか雄叫びが上がった。一騎の騎馬が、集団を離れて駆け出していた。とても大きな馬にまたがっている。駒木の騎兵であった。
槍を天高く突き上げた騎兵は、気でも狂ったのか、ただひたすら天空に咆哮し、駆け回っていた。すると今度はどういうわけか、その後ろを藤那が追いかけていた。藤那は九峪より下賜された宝剣を抜き、天へ掲げた。そして吼えた。
それは号令だった、駒木衆三十騎すべてが、藤那の後をついていった。行列の先を言うように、勇壮な騎馬隊が遠ざかり、道を回り、怒涛の勢いで向かってきたかと思うとそのまま後ろまで駆けていく。そしてさらに後ろから追い上げて——そんな不毛な疾駆を、藤那たちは繰り返した。
「藤那・・・・・・何してるの、こんなときにッ」
目を吊り上げた火魅子がすぐに止めさせようと腰を浮かせる。咄嗟に亜衣が火魅子を静止させていた。
「亜衣ッ!?」
驚く火魅子に向かって亜衣は首を横に振った。
「やらせて上げてください。どうか・・・・・・」
どうしてと言いかけた火魅子の機先を制するように、亜衣の視線は前方から勢いよく近づいてくる駒木衆と、その先頭にいる藤那へと定められた。
まるで戦っているような気迫を藤那は放っていた。
「かつて九峪様より、その勇猛さを賞賛された駒木衆・・・・・・。それは反逆を赦されながらも後ろ暗い思いを抱えていた藤那様にとって、とても大いなる誇りとなりました」
騎馬隊が亜衣のすぐ側を駆け抜けて言った。疾風が吹き抜けていった。
「野心を捨てられた藤那様は、ただ・・・・・・九峪様とともに天下を掴む道を進みたかったのです。九峪様と共に天下を舞台に戦っていたかったのです」
藤那に諭された過去を亜衣は思い出す。語気を荒げて亜衣に詰め寄った藤那の燃え立つような瞳の気炎が、何よりも物語っている。
あまりに宰相らしからぬ軽挙を犯している様が見るに堪えなかった。信任を得た以上、相応しい態度がある。示すべき姿勢を取れない亜衣への失望を隠そうともしなかった藤那は酒に赤くした顔をつきつけ「九峪様にご恩がある」と、真摯な眼差しで亜衣を見据えていた。
磊落な性格が藤那の特徴だ。受けた恩も忘れはしない。
死罪も致し方なかった藤那が選んだ道は、生命を救ってくれた九峪に忠誠を誓うことだった。九峪の下で火魅子を頂く国家の剣となることだった。
亜衣には聞こえていた。ただの気のせいかもしれないが、たしかに、藤那の声が聞こえるのだ。
——『我が駒木の雄姿をとくとご覧あれ』と。
沈うつな行列を行くだけの葬儀が厭だった。たまらなく厭だった。駒木衆の戦士たち全員が厭だった。誇りがあった。九峪に褒められたという誇りが。
だから駆けたのだ。まさしく戦場を行くが如く、九峪の剣となって——敵のいない戦場に、戦塵を巻き上げるのだ。
駆けながら一途に訴えている。かならず九洲を守り抜いてみせる、かならず勝利してみせると。
「藤那・・・・・・そう」
上げられる雄叫びの悲しい音色が、火魅子の心をしたたかに打った。暑くなる目頭を火魅子は伏せた。藤那の行いに憤りを覚えた自分の浅はかさが、あまりにも恥ずかしかった。
粛々と、しかし雄雄しく、葬儀の列は阿蘇の峰々へと向かっていく。
阿蘇では古来より、王族たちの葬儀を執り行われてきた。姫御子がまず初めに降り立った地と伝承されているためで、女王の夫で、天の火矛によって下界に現れた神の遣いを送るのに、まったく不都合なことはなかった。
とくにここで、と決められているわけではない。阿蘇で行うことが重要とされてきた。
一向が目指すのは、九峪が療養していた質素な家屋だ。少しでも住み慣れた場所で・・・・・・という気遣いから選ばれた。
通る々々里を過ぎるたび、百姓は手を止めて、九峪と伊雅の棺をまえに地にひれ伏した。泣くものもいた。九峪がどれほど民生を大事にし、庶民諸々にいたるまで気にかけていたことか・・・・・・改めて亜衣は、国民第一を掲げる九峪の政治理念、思想のありかたを思い知らされた。
武官に愛されるより、文官に愛されるより、豪族に愛されるより、それ以上に万民から愛されることほど困難なこともない。一時は九峪か火魅子かで割れた民衆も、今このとき、九峪の死に心を痛めてくれている。
——九峪様、あなたのために、皆が涙に暮れています。これをどのように思いますか
誇らしげに思うだろうか。
きっと九峪は、困って苦笑を浮かべ、
「気にするなよ」
と、気安く声をかけたことだろう。ありふれた日常の光景が、当たり前のように続いていく、そんな幻に重なって——いとも容易く想像できた。
もう二度と、そんなことはないけれど。
火後領から阿蘇の山すそへと分け入った葬儀の列が進む道は、火後三城に数えられる要害阿蘇城につながる軍道である。九峪がその晩年に過ごした屋敷は、阿蘇城の近くに建てられていた。
道幅は非常に狭い。攻城軍が容易に攻め上れないようにと、そのむかし同城を築いた耶麻台国の将軍の知恵が、いまなお残されている。行列は二列になって進むしかなかった。
道すがら勇猛に駆け回っていた藤那の一団は、ここで行列から外れることになった。駒木の馬は平野でこそ圧倒的な存在感を放つ汗馬だが、馬体が大きすぎるために山を登ることが出来ないのだ。下馬するつもりのない藤那は最後まで、果敢に駆け続ける騎馬隊の雄姿を九峪に見せてやりたいらしい。
「本音を言えば、閑谷が泗国へ連れて行った二百騎も呼び戻したいくらいだ」
山道への入り口を前に、亜衣へ向けてこのように藤那は語っている。
火魅子や羽江、亜衣などは輿に乗り換えた。担ぎ手の掛け声が、蒸し暑い山道に木霊している。
玉の汗を額に浮かべながら、時刻は正午を回った。朝から誰も、何も口にしていなかった。空腹に眩暈を起こす兵士もいた。彼らは水筒の水だけで喉を潤した。ただ不思議なことに、途中で音を上げる者は一人としていなかった。
九峪との別れなのだ——という気持ちが、胎の底から力を湧き出させていた。大仰な葬儀だからとか、そういう事務的な理由ではなかった。ただ諦めたくなかった。
——ふいに、行列が歩みを止めた。先頭が目的地に到着した。
海が割れるように、行列が左右に裂かれていく。一番先頭を亜衣が行った。その後ろから火魅子を乗せた輿が続いて、九峪と伊雅の棺が、厳かに開けた庭先へと運び込まれた。
兵士たちは、周囲に視線をやった。ここで九峪様は最後を迎えられたのか——
どこにでもあるような、質素な家屋があるだけだった。薪が積み上げられた一角に、真新しい鉈が台に突き刺さっている。風呂を沸かすために釜戸もあった。ごくありふれた生活の匂いと痕跡が、どうしようもないほど九峪らしく、飾らない生活を送る在りし日の姿が、夢のように感ぜられた。
輿を降りた亜衣は瞳を細めた。戸を開けたら、九峪が出迎えてくれるような気がしていた。それは悲しい幻でしかなかった。
「九峪様と、伊雅様を——」
亜衣の命令で、棺が、家屋のなかへと運ばれていく。女中たち九峪の家来が、それを手伝っている。彼女たちは主が戻ってくるのを、ずっと待っていたのだ。ふっと亜衣は家来たちの中で、包帯に巻かれた女性がいるのを見つけた。昌香だ。あの女もいた。
少しだけ驚いた亜衣は、しかしすぐに視線を外した。わずかに目を丸くさせただけで、それ以外には何も感じなかった。嫉妬も、何も、気にならなかった。
運び終えた兵士たちと女優らが、外に出てきた。
火魅子の後ろで、兵士たちは整然を隊列を組んだ。火魅子の斜め後ろに亜衣が立ち、側に羽江がいる。志野や尾戸などの知事が並び、音羽、衣緒、清瑞などの武将、主治医であった忌瀬も、すべからく背筋を伸ばしている。
火魅子は雅を、羽江は雨嬉をそれぞれ抱いていた。一同は沈黙し、九峪と伊雅が眠っている一軒の屋敷を、見つめるばかりだった。思い思いに、声無き言葉をかけていた。心の中だけで、九峪と交わす最後の会話に酔いしれた。思い出話に花を咲かせていた。
「雅・・・・・・お父様がもうじき逝くわよ。・・・・・・大きく、立派になりなさい。九峪様に・・・・・・お父様に負けないくらいッ」
生まれたばかりの愛しい我が子に、火魅子は涙を堪えて語りかけた。まだ瞳すら開いていない赤子だ。火魅子の頬を、堪えきれず涙が伝う。
我が子を見ずに逝ってしまう九峪と、父の顔を生涯知らぬままとなった我が子の不憫が、身を裂くほどに火魅子を傷つけた。
肩を震わせる火魅子を黙って見守るしか、いまの亜衣には出来なかった。羽江に抱かれている雨嬉に、亜衣は顔を寄せた。雨嬉はずいぶん前に開眼し、僅かずつ言葉を覚え始めていた。
握りつぶせそうなほど小さな手を、手のひらでそっと包み込んだ亜衣は、真剣な表情で雨嬉に語りかける。
「よく見ておくんだ、雨嬉・・・・・・。お前がこれから、次代の女王とともに背負うべき国を、その礎を積み上げた偉大なる方々の最期を」
「お姉ちゃん・・・・・・まだ雨嬉にはわからないよ」
「いいや、わかる。私の言葉を、魂で聴いている」
なぜなら幼すぎる雨嬉がむず痒がりもせず、じっと家屋を見つめているからだ。雨嬉は旅立とうとする九峪や伊雅の死を見送ろうとしているのだ。本気でそう亜衣は信じていた。
火魅子が、黄泉送りの謡を口ずさむ。酒瓶と杯を載せた盆が、武将たちの間で回された。別れの杯だ。まず最初に、清瑞が盆を手に、屋敷へ入っていった。伊雅と共に各地を経巡り復興を呼びかけた日々、九峪の護衛として戦い、寵愛を受けた過ぎし日に、一献の酒と共に別れを告げるのだ。
清瑞が出てくると、音羽や衣緒や忌瀬らが次々と、杯を交わすために入れ替わりで屋敷を出入りする。出てくるとき、音羽は号泣していた。戦場では鬼のごとき武を振るう音羽が大泣きは、誰も見たことがなかった。
忌瀬ですらしんみりとした雰囲気をまとって、屋敷を出てきたのだった。
火魅子の浪々と奏でる謡に耳を傾ける亜衣は、過去の日々が懐かしくて仕方がなかった。はじめて出会ったときから十二年。長くもあり、短くもあった。
記憶にある九峪の表情は、いつも違って見えた。喜怒哀楽を隠すことなく、開けっぴろげな性格や奔放な言動に振り回されることも多々あった。しかし嫌だと思ったことは一度もない。
深謀遠慮と民兵問わず慈しむ仁徳の精神、敵であろうとも時には赦す寛容。君主として致命的なまでの甘さが九峪の武器でもあった。
途方もない強さと、途方もない弱さを併せ持っていた、あまりに極端な人物だった。だがそこに——自分たちは惹かれた。
自分たちに出来たいことを九峪はいつもやってのけた。しかし九峪の決定的に不足している部分を、自分たちが補おうと努力することで、耶麻台国は新たな国として蘇ることが出来た。
九峪は言っていた。この地に古くから生きる人々がその気にならないと、なにも成せないと。その通りだった。九峪一人で成し遂げた偉業ではない。九峪がいたから、自分たちで成し遂げられた偉業だったのだ。
ゆえに、この恩を忘れてはならないのだ。誇りを忘れてはならない。私たちは九峪様と共に在ったという、その記憶を——
それでも亜衣の胸は苦しかった。誇りに思えばそれだけ、輝かしい日々が思い出されてしまうのだ。
この痛みや苦しみを乗り越えて自分は今日、本当の決別を果たす。
木々が和らげてくれる太陽の日差しを浴びる。今年の夏はすこぶる暑い。
今はまだいいが、いずれ酷暑と言っていいほど、気温が上がるだろう。出来る限りの薄着をして、それでも肌にはしっとりと汗がにじんでいる。風はない。鬱葱と茂る木々や藪が、涼風を遮ってしまうからだ。
それでも、心なしか涼しく感じるのは、ここが森の中だからかもしれない。
——今は、それが何よりもありがたかった。きっと今の自分では、あの燦々と照りつける日の暖かさに耐え切れる気がしない。
「・・・・・・お姉様」
隣から声をかけられる。亜衣は頷いた。衣緒の手には盆があり、やはり、酒瓶と杯が載っている。
この杯が決別の証となることを再認識する。眼前に突きつけられた現実の重みが、いま、両の手にかかるのだ。
そっと胸元を押さえると、指先に感じる硬い感触。とても小さいそれは、彼女にとって、やはり大きな意味を持つものだ。
まだ文武騒乱が起こる前に——九峪と共に視察した先の市場で、買い贈ってくれた赤い首飾り——を、九峪に返さなくてはならない。
衣緒から盆を受け取り、無言で歩み始める。目指すは目の前の簡素な屋敷。
五歩。十歩。二十歩。それぐらいの歩みで、もう小屋の戸は目の前にまで迫ってくる。自分から歩み寄りながら——恐ろしいまでの圧迫をともなって近づいてくるようだ。
——これを開ければ、私の全てが終わる。終わらせられる。
ふと、心の中に、そんな考えが過ぎった。ただし、それでいいと思った。そうだ、私は、自らの意思で終わりを、幕引かねばならないのだから。
片手を盆から離して戸にかける。
「——失礼いたします」
私は、終焉の戸を、開けた。
——屋敷に火が掛けられた。渦を巻いて炎上する屋敷を、亜衣たちは阿蘇城から見上げた。屋敷もろとも、九峪と伊雅は炎に焼かれ、天へと召される。火は耶麻台国にとって神聖なものだ。死ねば誰もが、炎(かぎろい)によって身を浄化し、煙に乗って天へ帰るとされてきた。
駒木衆はまだ麓で駆けていた。駆けながら藤那は酒を飲んでいた。酔っても馬を手繰る技に乱れはなかった。
藤那は駆けながら、山の中腹より立ち上る白い煙に気づいて、馬の足を止めた。
赤く染まった顔、その凛々しい頬を、一筋が伝う。召され行く魂に語りかける言葉は多くない。思い出話もしない。ただ藤那は剣を掲げ、吼えまくった。
「さらばです、九峪様、伊雅様・・・・・・必ずや倭国統一を成し遂げてご覧に入れます! 私はやります、やって見せますッ」
峰に叫び藤那は馬腹を蹴って、騎馬の群れへ飛び込んでいった。
轟々と音を鳴らす業火の、屋敷から少し離れた場所から、音羽と清瑞の二人は眺めていた。肌を焦がさんばかりの熱気を正面から浴びていても、その場から離れようとはしなかった。
音羽は九峪の初代親衛隊隊長、言い換えれば一番初めの九峪直轄軍団を率いていた武将で、清瑞は護衛という役目から、その後九峪が組織した直轄部隊——後のホタル衆——の隊長を務めてきた。
同じ役職にあった者同士、そして古くからの付き合いでもあった二人は、肩を並べている。
「私は——」清瑞が口を開く。
「実を言うと、伊雅様が私の父なのではと思ったことがあった。伊雅様は私の母のことを、本当に良く知っていたし・・・・・・厳しくもあったが、とても優しく接してくれたこともあった」
「そうか・・・・・・そういえば、清瑞は伊雅様に育てられたようなものだしな」
「私も伊雅様を父のように慕った。・・・・・・私ごときがこんなことを言って、かつての副王である伊雅様に対して失礼かもしれないが」
「いや、私から見ても、伊雅様はお前を気に掛けていたよ。本当の娘に接するようにさ。二十五年以上になるんだろう、伊雅様と出会って。親子のように感じても、おかしくはないと思う」
優しく言う音羽に、清瑞は小さく頷いた。
「九峪様に忠誠を誓った。あの方のためなら喜んで死ねた」
拳を握り締めた清瑞に、音羽も「私もだ」と呟いた。「もちろん、伊雅様にもな」と言葉を足す。
「私たちは負けられない。伊雅様が繋ぎ、九峪様が興したこの国を、命ある限り守っていくんだ」
「ああ・・・・・・絶対に、天目にも彩花紫にも、滅ぼさせやしないッ」
清瑞と音羽の目の前で、炎はなお激しさを増していった。
阿蘇城にある広い一室で、火魅子は我が子の揺り篭となっていた。
九峪との間に設けたたった一人の愛し児、九峪が残した玉の児、そして——父無し児。
忌瀬と志野、珠洲が戸を潜ると、揺り篭となっていた火魅子も、うつらうつら、舟を漕いでいた。頭を傾がせている。
「あら」と志野は火魅子を起こそうとする。それを忌瀬が小声で呼び止めた。
「泣き疲れたんですね。そっとしておきましょうよ」
「でも、風邪を引くわ」
「じゃあ、なにか羽織らせましょうか」
とはいえ、近くに羽織れるものはない。仕方なく忌瀬は、自分が着ていた上掛けを火魅子の肩にそっと掛けてあげた。わずかに火魅子は声を漏らしたが、またすぐに寝息が聞こえてきた。火魅子の目元は赤く腫れていた。
近くに腰を下ろした三人は、何も喋らず、なんとなく火魅子と赤ん坊を眺めていた。母子ともに眠っている姿は、どうにも平和的であった。
珠洲がまじましと赤ん坊を観察している。
「・・・・・・九峪様に似るのかな。あのすけべぇに」
素朴な珠洲の疑問に、ぶっと忌瀬が噴出した。
「いや〜、女の子だしねぇ。そういえば虎桃は、むかしよく男を漁ってたっけ」
「将来が末恐ろしい」
わざとらしく震え上がった珠洲だが、傍目に見ても落ち込んでいるようだ。空元気だった。九峪の死は、それなりに珠洲にとっても衝撃的な出来事だった。
赤ん坊から視線を外さない珠洲は言った。「九峪様でも死ぬんだ」と。それが信じられないらしい。気持ちは志野にもわかった。殺しても死ななさそうな、そんな人間だったからだ。
言ってしまえばおかしなことだが、『人間は死ぬ』という当たり前のことすら、九峪ならば覆してくれそうな気がしていたのかもしれない。敵を前に逃げ惑ったりしていた男なのに、不思議とそう思えるものを持っていた。
「ま、神の遣いだとか言っても、人間であることに変わりはないし。どんな毒も効かない、方術も左道も通用しない、でも——死には抗えない。生き物ならみんなそう」
「わかってる、そんなこと」
「もしも九峪様が本当の神様だったら、私は九洲に残ってなかったね、きっと。人間の九峪様が好きだったんだから」
「もちろん『らいく』の好きね」と茶目っ気に言葉を足した忌瀬に、珠洲は何も言い返さなかった。
九峪のことは嫌いだったが——それも、昔のことだ。九峪を仲間だと思える分には、珠洲も成長している。良くも悪くも、珠洲もまた大きな影響を九峪から受けて、少女から大人へと成長したのだ。
何も言い返しはしなかった。ただぽつっと、
「これから、どうなるのかな」
と、誰に言うともない言葉を零す。わずかな不安が、それだった。九峪なくして、天目や彩花紫に対抗できるのかと。
その答えを忌瀬も志野も持ち合わせていない。ただ言えることは——
「やるしかないってことよね」
志野の一言に忌瀬が賛同する。
「私たちは一度、九峪様を阿蘇山へ追いやっているのよ。あのときの覚悟をもう一度固めるだけ」
「そういうことですね」
微笑を浮かべて忌瀬は首肯した。あるべき形になった、という見方も出来る。長く九峪の悩みや相談を受けて、彼の思想や未来への展望にも触れてきた忌瀬には、独立闊歩する九洲こそが九峪の描いた在り方なのではと思える。
これからの九洲はまさしく一人立ちする。きっと天に登っている九峪も鼻を高くしていることだろうと思うと、ふふっと忌瀬は自然と笑みをこぼれさせた。
「ここまで来たら、私も投げ出せないわ。・・・・・・旅芸人への未練、ちょっとだけ残ってたけど、捨てるときが来たようね」
「あ、まだ未練もってたんだ。往生際が悪いですね〜」
忌瀬が茶化すと、苦笑した志野が手を振った。
「そういう貴女はどうなの、漂白の忌瀬さん?」
振られて忌瀬はかすかに笑った。
「もう、ここまで来たら一蓮托生。骨を埋めてやりますよ。何しろ、私は九峪様に『あいらぶゆー』ですもの」
「『らいく』じゃないの?」
「そういうツッコミはなしね、珠洲ちゃん」
「ちゃんはつけないで」
冷たい態度であしらわれた忌瀬が肩をすくめる。こういうところは、昔からまったく変わらない。珠洲の性格である。
慣れたもので忌瀬も特に気にしていない。
「——あっ、でも、薬草採取の旅だけは見逃してほしいかな。私の生きがいみたいなもんですし」
「それは忌瀬さん次第ね」
「あっ、ずっこい」
火魅子と赤ん坊を起こさないよう気をつけながら、二人は小さく笑いあった。何気ないやりとりは、あたかも九峪が生きていた頃と、何も変わらない。
変わらないものも、たしかにあるのだ。あるのだが——
ふぎゃあ
——ッ!?
雅が目を覚ましていた。瞳を潤ませている。起こしてしまったらしい。こういうときの赤ん坊は——
「し、志野、忌瀬ッ」
珠洲の顔が軽く引きつっている。
「や、ヤバッ」
「ああ、起こしちゃったわ、ど、どうしましょうッ」
慌てて志野と忌瀬が立ち上がる。赤ん坊は、大爆発を起こす寸前にまで、顔をしわくちゃにしている。
忌瀬はともかく、赤ん坊の相手をしたことのない志野と珠洲は、この後に起こる大惨事を前になす術もなく振り回されるのだった。
阿蘇城の高櫓に亜衣は上った。煙が天へと続いていくのを、ここからならば十分に見渡すことが出来た。あの煙の中に九峪と伊雅がいるのだ。
亜衣は瞳を閉じた。語ることは何もなかった。すべては、杯と共に——
背後に人の気配がした。振り返ると、衣緒が梯子を上ってきていた。亜衣がいるとは思っていなかったのだろう、衣緒はちょっとだけ驚いているようだ。
「お姉様もお見送りに?」
「そんなところだ」
隣にたった衣緒に素っ気無く応えた。夏のぬるい風が吹いた。
「逝ってしまわれましたね」
湿っぽい言い方だった。衣緒は風になびく長髪を抑えている。むかし九峪に綺麗だと褒められた自慢の黒髪だ。
衣緒の相貌は寂しそうだ。九峪と同い年なだけあって、思うところがあるのかもしれない。黒い瞳に灯る炎をどのような気持ちで受け止めているのだろう、推し量ることが亜衣には到底できなかった。
遠眼鏡に反射される光景が倭国の今をも映し出しているような気がした。倭国も全土で炎を噴かせている。命を焼き、土地を焼き、物を焼いている。目に見えない、人間同士の様々な関係も焼け爛れているだろう。
九峪と伊雅の身を文字通り焦がす炎は、それらのような、森羅万象を焼き払う業火の一つでしかないのかもしれない。
欄干に手をついた亜衣が語ってで遠眼鏡を外した。裸眼に業火を映したくなった。そうしなければ、記憶に焼き付けることは出来ないような気がした。炎はまるで生き物のように蠢いている。輪郭もないその不確かな揺れは大海の波を思わせるのに、なぜか海の持つ包み込む感覚はしなかった。ずっと荒く恐ろしいものを感じさせた。揺らめく炎の赤さが目に痛い。
火炎は九洲において神聖視されてきた。火魅子はその名に一字として埋め込み、八柱神もすべからく火の一字を含んでいる。古来から王族であっても『火』『魅』『子』の三文字を名前に入れることは赦されなかった。それほど神聖な炎は——九峪を炭に変えようとし、伊雅を灰に還そうとしている。
何となくだが、亜衣にはそのことが、恐ろしかった。炎が怖くなった。
「今は悲しもう」
遠眼鏡を掛けなおした亜衣が言った。
「そして明日には歩き出そう。ずっと落ち込んでいるわけにはいかん。我らにはまだまだやるべきことが山積されているんだ」
「悲しむ暇も、長くは取れないんですね」
「九峪様と伊雅様のためにもな。九峪様亡きいま、九洲は新しい時代を迎える。二度と兵乱を呼ばないためにも、強固な統治体制を再構築していかなくてはならない」
亜衣は天を見上げる。煙が風に吹かれて、東へと傾いていた。
「二度と文武の対立を招かず、蔚海のような奸臣の台頭を許さないように、確固とした意思統一決定機関を中央に創る」
評定衆の合議制だけでは、諸事に緩みが生まれる。そこを蔚海に利用されたし、文武騒乱を防げなかった要因でもある。そう亜衣は断じた。
思い返せば、この答えに行き着くまで、随分と回り道をしてきたものだ。
「乱の収束後、これらの問題点に気づかれた九峪様は太師と自らを称され、諸事において評定衆と計りながらも、大事なことはほぼ一存にて意思決定を成されて来た」
「でも、その九峪様は、もはや——」
己の持ちえる発言力や影響力というものを、いまいち九峪は理解しきれていなかった。蔚海が消えてようやく、右を向けと九峪が発すると、万民は揃って右を向くのだという事実に気づいた。
あまりにも遅い理解だった。共和制はまだ九洲に早すぎた。乱世の時代、国と人々が求めるのは、強力なリーダーだった。だから九峪は理念を方向転換し、協和的な政治の中にも独裁的な手腕を織り交ぜるようになった。
そして九峪は死んだ。リーダーが消えた。
「だからこそ、それに代わる意思決定機関を創るのだ。——宗像の名の下に」
衣緒ははっとして、決意に満ちた亜衣の横顔を見つめた。亜衣の言うことは、九峪が行ってきた個人独裁体制から、集団による一党独裁体制への移行を暗に示していた。
衣緒は身を引かせた。
「お姉様——ッ!?」
「野心から言っているんじゃないぞ。必要だから、そうするのだ。女王火魅子という国民の精神とも言うべき一本の芯を、我ら宗像得宗家が全力を持って御支えする。国の大事に際しては、強力な意思決定が必要だ。今後は——」
亜衣の言うことにとりあえず衣緒は頷いている。だが納得はしていないようだ。
「それを宰相がやろうと、お考えはすでにお伺いしています。でも——」
「だからこそ宰相は一箇所から受け継がれるべきだ。つまり初代を私が務めている、宗像得宗家から世襲させていく必要がある。いずれ雨嬉に宰相職を円滑に相続させるためにも、私に失敗は許されない」
敢然と亜衣は言い切った。言葉にして、重いものが圧し掛かってくる。これほどの重圧に亜衣は今後何十年と耐えていかなくてはならない。
しかし九峪から受け継がれた想いを結実させるためにも、何があろうとも成し遂げる、ただその気概が、悲しみにくれるばかりの心を叱咤激励してくれた。
亜衣は俯かなかった。上を見上げ、前を見つめている。
「倭国の大乱はまだ続く。あと三十、四十年は終わらないだろう。それまで現役でいられるか、そもそも生きていられるかもわからない。時は有限だ」
「それは、そうです」
亜衣などよりもはるかに危険な戦場で生きている衣緒にとっては、言うまでもないことだ。人の生き死にということならば、亜衣よりもずっと敏感だろう。
「だから」と亜衣は言い、「なおさら」と続ける。
「国内の統制を確かなものとすること。そして——まずは泗国だけを考えよう。私の代で泗国をとりたい。それは九峪様の悲願でもある。しかし私の代で成せなければ、その時は雨嬉が引き継ぐだろう」
「——あの子が長じたときは、雅様の世になっていますね」
「音羽の子供たちや、藤那様の御継嗣である藤谷様らも、等しく長じているだろう。同じ頃に、いくつもの命が生まれている」
これはただの数奇な出来事として終わるのか。
違う。そんなことはない。
「天が差配する次代への布石かもしれん」
次なる段階へ、歴史は突き進もうとしている。新たな担い手たちに、少しでも多くを残してやりたい。
九峪は死んでしまった。愛した男だった。いまでも愛しているし、これからもずっと、この想いが朽ちることはないだろう。唇を重ねた。抱き合った。しかし肌が触れ合うことはなく、男女の営みも存在しなかった。
大きな喪失感が亜衣にはあった。半身を削がれたよう、と恋多き詩人はよく歌に歌う。ただ亜衣にはそんな気持ちはあまりしなかった。それは、たしかに九峪から受け継いだものがあるから。そして、まだ自分は多くのものを持っていると、わかっているから——
「お前がいてくれれば、やり遂げられる」
衣緒へ視線を向けた。長年ともに戦ってきてくれた妹だ。亜衣は微笑んだ。衣緒も、羽江も、そして火魅子もいる。伊万里がいて、藤那がいて、香蘭がいる。伊雅がいなくとも、紅玉がいるではないか。
こんなにも九洲は人材で溢れ、絆によって結ばれている。利益の絆などではなく心の絆で結ばれた同志たちがいる。九峪が十二年の歳月を掛けて結び合わせ、蔚海の乱によって九洲が二分されても、解かれなかった絆が残っている。
それは誇りになると思う。誇れると確信している。信頼の眼差しを衣緒に向ける亜衣には欠片の迷いもなかった。
衣緒はじっと向けられる視線を真正面から見返した。野心の色のない瞳は誠実、奥底まで広がっている。
ふっと、衣緒も口元を緩めた。暖かい気持ちになった。
もうもうと立ち上る煙の柱に衣緒は視線をくれた。
「九峪様、伊雅様・・・・・・私も成すべきことは何かを見つけました」
返事はない。幻聴すらも聞こえない。衣緒も亜衣も、ただ見上げた。九峪と伊雅が肯定してくれている——錯覚だけがただ都合よく降りてきた。
阿蘇の山より登る煙を、人々は太陽が山の向こうに落ちるまで、日が暮れるまで、いつまでも拝んでいた。煙が見えないほど遠くに住む々は、阿蘇の山がそびえる方向へ向かって、ひたすら頭を下げた。
喪が明けるまで、九州の各地、泗国にある陣営でも、追悼の灯火が絶やされることはなかった。それは一時代の終わりを告げる灯火でもあった。
( 完 )