九峪にとって運命の秋が終わり、草木の紅葉もすっかり色あせ、枯れ落ち、季節は静かに冬を迎えた。
激動続く泗国とは対照的に、いたって穏やかな日常が九洲には戻った。北山の反乱鎮圧以降、藤那が北九洲全域を奪還したことを除けば、たいした事件が九洲では起きていない。
そんな日々の中で、九峪の生活にはちょっとした変化があった。日を追うごとに九峪の体調はゆるゆると悪化していった。やせ衰えた姿が痛々しい。
耶牟原城の私邸で忌瀬の診療を受けていた九峪は、療養の場を耶牟原城から阿蘇山へと移すことになったのだ。阿蘇には温泉がある。ほとんど治療の手立てを失っていた忌瀬も、ここに至って九峪の望むようにすることにした。
ちょうどこの時期、魔兎族三姉妹は由布院の別荘にいた。彼女たちの許可を得て、近くに九峪が生活する——九峪がその生涯を終えることとなる、簡素な一軒家を建て、十一月の半ばに移住した。
軟禁されていた頃と違い、閉鎖的な雰囲気はない。あのときは九峪に従っていたのは女中ただ一人だけだったが、いまでは九峪の私邸で働いていた下人も数人が、一緒になってついてきていた。兵士十人が警護にあたり、そのための宿舎も建てられた。
九峪は毎日のように、兎華乃たちが造った露天の温泉に浸かり、傷ついた身体を癒した。
誰もが九峪の健康が戻ってくることを切に願っている。それでも、下降線を描く九峪の生命力が、上方へと修正されることはなかった。
体調がより崩れていくのに併せて、次第に政治や軍事からも遠ざかっていき、それと反比例するかのごとく亜衣の権勢がにわかに強くなっていった。
火魅子の後見人として絶大な信頼を得ている背景もあり、いまや亜衣は、九洲第一としての地位を固めつつあった。
九峪は言った。もう自分のすべきことは、なにもないと。
その証拠に、すでに耶麻台共和国は九峪の手を離れて、独自の——この世界に生きる人々の力だけで、新たに歩みだそうとしている。
それでいいと九峪は思っていた。来るべくしてこのときが来た。耶麻台共和国は本当の意味で、九洲の人々の国として、これからを戦っていくことになるのだ。
天目や彩花紫と——倭国の列強を相手に、自分がいなくなっても、戦っていかねばならない。そのことを不安に思っていた。だが自力で一歩を踏み出した九洲を見て、九峪は彼らの力強さを感じ、信じることにした。
絶対に負けない。必ず勝利してくれる。そう一途に信じた。
緩やかに失われていく時間、不思議なほど九峪の心は落ち着いて、残された日々を平穏と共に過ごしていった。
キョウが阿蘇にいる九峪の元を尋ねたのは、病臥にある彼の様態が、ここしばらくの間でにわかに悪化したと
火魅子より聞かされたからだった。
宝物神殿から外に出ることのないキョウは外部の情報をつねに欠いている。どこで何が起きたのか、誰がどうなったのかなどという事柄は、すべて九峪や火魅子から聞き知るしかないのだ。
夫の身を案じる火魅子は内心かなり疲れており、日々募っていく鬱屈を誰かに聞いて欲しかった。しかし亜衣に聞いてほしくとも、ある日を境に亜衣はまるで憑かれたかのように働きづめとなり、とても悩みを話せる雰囲気ではなかった。
思い余った火魅子が駆け込んだ場所、それが耶牟原城西舘の宝物神殿であった。天魔鏡の中ですこやかに眠っていたキョウを叩き起こし、延々と愚痴を零し続けたおかげで、ここにいたりキョウもようやく、九峪の重病の度合いを知ることが出来たのだ。
大騒ぎするキョウと、一緒になって大荒れする火魅子が、宝物神殿のなかで一しきり右往左往した後、とにかく九峪に会おうとキョウは決心し、耶牟原城が再建されて以降はじめて、宝物神殿の外へと出ることになった。
かくして一百人に守られながらキョウと一団は阿蘇へ向かった。火後から入り、阿蘇城にて一晩を過ごすと、枯葉の落ちきった林に囲まれる侘しい一宅が、ぼうっと姿を現した。
護衛はみな外に待たせ、女中が天魔鏡を恐る恐る手にして、九峪の元までキョウを案内する。
床に伏せ痩せつつある九峪を見た瞬間、キョウはその珍妙な身体をぐるぐると回しながら九峪側まで近寄った。
「だ、大丈夫?」
心底から向けられる心配そうな言葉に、九峪は身を起こして、苦笑を浮かべた。
「今はまだな」
「ずいぶん、細くなったね」
キョウが言うとおり、今の九峪はかなり容姿が変化していた。頬骨が浮き出るほど頬はやつれ、腕も細くなっている。なにより、気のせいかもしれないが、全体的に小柄になってしまったようだ。
筋力が衰えているのだろう。目のまわりが少しだけ窪んで、眼球を大きく見せているのも、いかにも病人然としていて、キョウを余計不安にさせた。
切らずにずっと放置していた頭髪が、肩辺りまで無造作に伸ばされている。心なしか髪までもが枯れたような色合いで、不精な雰囲気を九峪は前身から出している。
自分自身のことにもうあまり興味がないのだ。諦めてしまっている。
九峪の真実を目の当たりにしたキョウは、ただ黙って、九峪の周囲をふわふわと浮かんでいる。言葉がないし、見つけられそうもなかった。
それでも何かを言わなくてはと、そんな焦りにも似た気持ちだけが先走っているのが、自分でもわかっていた。
あれこれと言葉を頭の中でこねくり回しているキョウの姿を眺めていた九峪が、ふいに掠れた笑いを零した。
「なに?」と、キョウが尋ねる。九峪はなお笑っている。
「いや・・・・・・。ちょっと懐かしくてな」
「え?」
「まだ俺たちが九洲の半分しか取り戻してないころは、お前ともよくこうやって話したりしたもんだったけど」
「ああ・・・・・・そう、そうだったねぇ」
しみじみと過去を思う九峪につられて、まるで遠い昔のことのようにキョウは、過ぎ去った日々の記憶を感じた。
九洲国内がいまだ二分されていた当時は、天魔鏡はずっと九峪の私室に置かれていた。それは復興軍時代からそうであったし、いつか耶麻台国を再興するという目的のために、昼と夜と語り合ったものだ。
言葉なく、ただ同じく空間に、同じ時間を過ごしただけのこともあった。友人同士が過ごすひと時のような空気が、二人の間にはあった。
その空気、雰囲気がいつごろ生まれたかは、当人たちにもよくわからない。
ただ異界から連れてきてしまった九峪の正体を唯一しっているキョウは、紛れもなく九峪にとって相棒だった。そして初めこそ手違いだったとはいえ、己の悲願を九峪に託したキョウにとっても、いつしか九峪は掛け替えのないとなっていた。
亜衣や清瑞たちは九峪にとって、右とも左とも置かない存在だ。だが真に九峪が気の置けない存在として接することが出来たのは、まずキョウを置いて他にはいまい。
国家としての耶麻台共和国が成立してからは、お互いに距離も開いたが、しかしそうであっても互いを相棒と感じる気持ちが薄らぐことはなかった。
そうでなければ、出不精のキョウが阿蘇まで登ってくることなどなかった。だからこそキョウは、やつれ果てた九峪の姿を見て、とても悲しい気持ちになってしまうのだ。
昔と同じようなひと時を過ごしても、決定的に変わってしまったものもある。それが無性に寂しい。
「最近は、こうして二人して話すことも、なくなったからね」
「なにかと忙しかったしな。わずか数年の間に、いろんなことがあった」
「阿蘇山に押し込められたり?」
「あれは、まぁ・・・・・・あれは俺も力不足だった。仕方がないと言えば、それまでだけどよ」
苦い顔をして九峪は阿蘇で送った日々を思い出した。蔚海の襲撃を受けるまで、およそ二年ほどを、今と同じように阿蘇で過ごした。
その間に下界では、北山の出現によって国内情勢が混迷化し、そして蔚海がその当時に棟梁だった阿智を暗殺し宗像海人衆を乗っ取り、文官勢力と結託して権勢を思うがままにした。
そうしていつしか、耶麻台共和国を揺るがした二度目の大きな内乱へと、あえなく発展していった。
「でもおかげで、蔚海っていう毒虫を駆除できたじゃないか。ああ言うのは早めに取り除いておいて正解さ。いつまでも爆弾を抱えている必要なんかないんだから」
「ははっ、そうだな。・・・・・・結果論だけを見ればな、俺たちはちゃんと勝ったさ。でも失ったものもあるだろう。羽江の子供・・・・・・雨嬉な、あれは父無し子になっちまったんだ。羽江もそうとう悲しんだ」
「それは・・・・・・」
口ごもったキョウに、九峪は苦笑を浮かべた。
「過ぎたことは仕方がない。お前の言うことも一理ある。蔚海を潰せたおかげで、国内はより一層まとまれた。もしも未だに文官と武官が争うままだったら、いくら俺でも、泗国へ打って出ようとは思えなかったはずだし、それに・・・・・・」
不意に九峪が声の調子を落とした。薄っすらと口元に笑みを浮かべている。
「皮肉なことだよ。蔚海の反乱を乗り越えたことで、九洲の人間は、俺がいなくても歩き出せるようになったと、そう思えるようになった」
蔚海の乱は、もしかしたら耶麻台共和国に課せられた、とても大きな試練だったのではないか。そんな風に九峪は考えるようになっていた。
泗国計略にはじまる天下取りを構想したのは九峪だ。耶麻台共和国は、九峪の考えについていく形で、いまの戦いを始めた。
それが、徐々に徐々にではあるけれど、自分たちにとっての戦略へと変化していった。泗国における一進一退の攻防に費やされた苦労が、九洲人たちにも倭国統一という一丸目標を形作らせた。
耶麻台共和国という国そのものが、倭国統一という大望を抱くようになったといえば、今の九峪の心境をよく表しているのではなかろうか。
「俺が死んだ後でも、九洲は倭国統一へと邁進していくはずだ。俺が潰れるから九洲も潰れる、なんて言うことにはならない」
だから九峪は「安心できた」と最後に言葉を足した。だいぶ遠回りし迷いもしたが、復興軍当時から九峪が抱き続けてきた『国意のまとまった国家』という国の在り様が、いま結実しようとしている。
これもまた皮肉なことだった。死を予感し受け入れなければ、きっと耶麻台共和国が自分の想うような国になっていく過程にも、気づくことなど出来なかったかもしれない。
九峪の国造りは、九峪の死によって完成する。そこで九洲の歴史は一区切りを迎えるだろう。
「九峪・・・・・・死ぬつもりなの?」
キョウが尋ねた。尋ねてそうなのだと理解した。九峪は無言でうなづいた。
一瞬、なぜと言いかけた。まだ諦めるには早いと言いたかった。だがそう言おうとしたとき、生気の乏しい九峪の頬や、腕の細さが、無常な現実をキョウに見せ付けたのだ。
キョウには知る由もないが、いまの九峪の様子はまるで、死ぬ直前の廉思と瓜二つだった。
忌瀬の言葉を借りれば、九峪もまた髄を傷めていた。髄を傷めるのは、それだけで死に至る不治の病のようなものだ。あらゆる万病にも勝る死因の存在は、長い時に在り続けたキョウにも知識としては知っていた。
古い耶麻台国の王族にも、髄を傷めて死んだ人間は多くいた。この時代でも決して珍しいことではなかったし、毒も呪術も病気すらも受け付けない九峪は、大怪我を負って血を失うなり首を討たれるなり、もしくは髄を傷つけるなりしなくては、死ぬことが出来ない。
生命力だけが日を追うごとに衰えていく。髄を損傷した場合の症状は、見事なまでに九峪の身体に現れていた。
——九峪は、助からない。むくむくと、そんな確信がキョウの中で鎌首を擡げてきた。
「・・・・・・怖くないの、死ぬのが?」
助からないと気づいても、それだけがキョウには気になっていた。人一倍、人の生き死にに怖がった男だ。誰だって自分の死を恐れるものだし、恐れて当たり前なのだ。
それにしては、ずいぶんと九峪は平然としている。キョウだって自分が死ぬのは怖いのに、どうして九峪はこうまで心穏やかにいられるのだろうか。
キョウを見上げる九峪が、目を細めた。「そうだな」と呟いた。
「怖がる理由が、なくなったからかもな」
そう言って九峪は微笑んだ。キョウにはよく意味がわからなかった。
「死ぬのは怖いでしょ」
「そりゃそうだ。でも、なんて言うのかな・・・・・・。未練が無くなった、のかもしれない。俺が生きてやらなきゃならないことを、全部やり尽した気になって、満足しちまったって感じかもな」
「おかしいよ、そんなの。だって九峪はまだ、倭国を統一してないじゃん! 天目も彩花紫も、放っといていいの?」
「いや、よくはないけどよ・・・・・・」
憤然と食って掛かるキョウの言うことももっともだ。やはりそれらが気にならないといえば、それは嘘になるだろう。
だが気にしても仕方がないではないか。自分が助からない、それは覆しようもない。在るがままを受け入れるしか、それしか九峪には出来ないのだ。
「決めたんだよ、みんなを信じるって。みんなが一枚岩になれば、負けはしないってさ。確固とした戦略はあるんだ。あとはその戦略を成功させるために必要なことを、皆で協力して達成していけばいいんだ」
「その戦略が失敗したら、どうするのさ?」
「そんなもん、決まってるだろうが。戦略の失敗はそのまま敗北さ。そうなりゃ、俺だってどうしようもないし、天目も彩花紫も立て直せない。三国志で、なんで蜀漢は滅んだと思う? 孫呉と同盟して曹魏を討つって諸葛亮の戦略が破綻したからだ。諸葛亮に出来ないものが、俺たちに出来るかよ」
「だから、もういいの・・・・・・?」
窺うようなキョウの言葉に、九峪は少しだけ応えを逡巡した。
「俺の役目は、倭国を統一することじゃなかった。もう何者にも脅かされない、強大な国を創りあげたいと、そう思って天下に野心を抱いた。だけど俺の使命は、耶麻台共和国が辿り着くための道筋を——いや、出発地点を、『泗国計略』という容で描き出すことにあった。その途中で背負った北山のツケも払って、俺の戦いは終わった」
ともすれば、そのためだけに、九峪は運命によってこの世界へ招かれた。
凄乃皇を追って現代へ跳び、日魅子が泣き縋るのも振りほどいて、この世界へ舞い戻ってきた。
何のために?
「すべては今という時のためにあった。この時までに仲間たちを導くことにあった」
遣り残したと思っていたことは、これからを戦う者たちが背負うべきものだった。
九峪雅比古は、黙って死を迎えれば、それでいいのだ。
キョウを見上げる九峪に、陰はなかった。
「感謝してるぜ、キョウ。お前のおかげで俺は大切なものをたくさん手にすることが出来た」
笑顔を浮かべて、「だから・・・・・・」と、九峪は言った。
「俺は満足して死ぬぞ。後のことは、お前たちに任せた」
その一言がキョウを打ちのめした。開き直った九峪は、その変わり果てた身体とは裏腹に、昔からの九峪だった。
キョウは震えた。言いたいことが奔流となって飛び出しそうになっているのに、それら一つ一つは意味のない言葉でしかなく、ただ何かを叫びたいだけの衝動だった。
ぐっとキョウは堪えて、衝動を飲み込み、下手くそな笑顔を浮かべて「任せてよ」と応えた。それが相棒に向けられる唯一つの返事だった。
——こうしてキョウは、九峪との最後の会話を終え、耶牟原城へと戻っていった。別れ際に九峪は「すまん」と頭を下げた。
「神器、まだ全部は見つけてないよな。これだけは謝っておかないと」
キョウと交わした約束だった。神器を全部見つけ出してやると。その約束を九峪は果たすことなく逝ってしまう。それを許せという。
キョウは、笑って見せた。
「いいよ。それはどうやら、オイラが背負うべき使命みたいだから」
「そうか。・・・・・・ちょっと、見てみたかったかもな、他の神器も」
「あれ、未練?」
「かもな」
そんなやり取りをして、二人は笑いあった。
ちょっとだけ寂しげで、でも悲しみのない、別れの笑声。
この日から新たな道をキョウも歩み始める。胸のうちに熱い思いを秘めて。
冬さえもが終わりつつあった。蛙はいまだ土のなかにある。だが、そろそろ冬眠から目覚めようとしている。そんな時期になった。
九峪は自力で起き上がるのも難しくなっていた。衰弱した肉体は自重を支えられず、立って歩くなどもはや不可能だ。
下界で何が起きているのか、九峪は何一つわからない。やはり興味は多少あったが、知りたいという欲求が完全に枯れており、毎日の世話をしてくれている女中にも聞いたことはなかった。
戸をあけた女中が部屋に入ってきた。盆を持っている。粥でも作ってくれたらしい。気づけば昼時である。
言うことの聞かない身体を支えてもらう。辛うじて腕はまだ動く。自分で出来るうちは、食事くらいは自分でやりたい。ゆっくりと、まるで老人の食事風景だ。まだ三十前の若さなのに。
食事の量は少ない。雀の餌ほどしか食べられないほど、胃も小さくなってしまった。
ささやかな食事を終える。女中は盆を下げに、部屋を出て行った。
一人九峪だけが、部屋に残された。まだまだ肌寒い。火桶の暖と陽の明かりが九峪を暖めてくれる。
窓から見える空の青さを、何とはなしに見上げてみる。やることが本当になくなっても、不思議と、退屈だとは思わない。あらゆる欲求が消え去ったかのようだ。
こういうのを、悟りというのかな——ふと九峪は思った。別段、敬虔な仏教徒ではない九峪だが、仏陀の教えは多少なりとも聞いたことがある。仏陀が言うには、煩悩を捨て去ることが、悟りというものらしい。煩悩とは欲求や執着のことを言う。これらを捨て去り『一切我無』の心境に至って初めて、人は悟りの扉を開く。
その意味で言えば、たしかに欲求も生への執着も失った九峪は、煩悩からの解脱を成して仏となったのだろう。
「死んで仏になる前に、死にかけて仏になるってか・・・・・・?」
馬鹿らしいと九峪は笑った。少し前までは笑うだけで発作に似た苦しみに襲われていた。それが最近ではなくなった。
いよいよこの身体もお終いか、と九峪は嘆息するよりも前に、おかしみがこみ上げてくるのだ。あらためて、自分は今まともじゃない、以上じゃないかと思う。
死が近づくほど、狼狽するものだと思っていた。そういう人間を何人も見てきた。自分もそうだろうと、漠然と考えていた。
たしかに未練はない。自分自身の甘さの清算もした。自己満足だろうけど、思い当たるものたちには遺書も書き残した。
それでも、死は怖いものじゃないかと、そう思っていたのに。
案外、落ち着いていられる。感情が麻痺してきたのかもしれないと、根拠もなくそう結論付けた。
仏になんかなれやしない。それは自分がよくわかっている。昔はみっともなく逃げ回り、すけべぇと罵られ、戦争を一種のゲームのように感じていた。すけべぇに関してはずっと言われたが、そういう過去がある。
自分に相応しい死に方というものは、考えたことがなかった。ただこのようにして、静かなるうちに息を引き取れるなら、それは幸せな死に方ではないかと思う。
たまに、知人が見舞いに来る。亜衣や火魅子は偶にしかこれないが、よく来るのが清瑞だ。清瑞も乱波として忙しいはずだが、暇を見ては足しげく通ってきている。
ふふっと独りでに笑みがこぼれた。清瑞といえば、大変なことがあった。
一時は後追い自殺までしかねない勢いだった清瑞は、乱波の仕事も顧みずに、九峪の側に居座り続けようとしたのだ。
「自殺はしませんから。代わりに最後のときまで側にいさせてください——でなかったら死にます」
九峪はもちろん大慌てになった。それほどまでに慕ってくれる気持ちは痛いほど嬉しかった。だが死なれてはとにかく困る。
癇癪を起こした子供もかくやといった塩梅で、説得するのには大変な骨が折れたものだった。うな垂れて帰途に着いた清瑞は、それでも頻繁に九峪を見舞いにくる。
亜衣は九峪の意思を受け継いで、あらたな道を進んでいる。火魅子には想いは伝え、元気な子供を必ず生み、育てると涙ながらに誓ってくれた。伊万里はまだ九峪の詳しい状況を知らずにいるが、かならず乗り越えてくれるはずだと信じている。そしてキョウとは相棒としての別れを済ませた。
みなが、それぞれの戦いに身を投じている。
いまは足踏みしている清瑞も、いつまでも立ち止まってはいない。そんなに弱い女じゃない。きっと前を見つめてくれるはずだ。
一切の欲求が薄らいだ九峪の世界から色が消えないのは、清瑞や彼の世話をしている女中、たまに顔を出す亜衣たちのおかげだ。亜衣も清瑞も、情勢のことは何も言わない。だがそれでいい。
飽きもせず空を見上げていると、つい昔のことばかりが思い起こされる。走馬灯とはまたちがうのだろうが、どういうわけか、現代にいた頃の記憶はすごく曖昧で、この世界で過ごした日々ばかりが、ありありと記憶の海に広がっている。
いろんな戦いがあった。いろんな出来事があった。辛いことや楽しいことや悲しいことや嬉しいこと、様々な十二年だった。
十七歳だった少年は、戦乱の時代を駆け抜けるうち、いつの間にか二十九歳の青年になっていた。
人の死でさえ恐れていた子供が、大国を背負って立つ英雄となっていた。
「伊尾木ヶ原、美禰、刈田、川辺・・・・・・響灘、枇杷島・・・・・・長湯・・・・・・大隈、加奈・・・・・・」
脳裏に浮かぶ戦いの歴史。九峪が指揮した戦いのすべては、勝利で終わっている。一度も負けたことのない輝かしい戦歴は、天目や彩花紫でも成しえなかった偉業だ。
「そういえば・・・・・・とうとう彩花紫本人と会うことはなかったな」
彩花紫が再討伐軍を率いてきて、十年が経った。同盟者であった天目とは何度も顔を付き合わせたけど、ついぞ彩花紫との顔合わせはならなかった。彩花紫と直接対決もしていない。
どんなやつなのかと、胸を躍らせた昔が懐かしい。枇杷島を飛ばしてくると言うとんでもない作戦を指示した彩花紫と戦ってみたかったが、それも過去の思いだ。
九峪が天下を思い描いたのも、思えば彩花紫が切欠だった。亜衣の暴走や蔚海の乱を利用して九洲国内に不和を生み、敵対していた天目の背後を脅かそうとした後方かく乱策が、結果として九峪に大きな野心を抱かせた。
青雲に抱いた志は道半ばで折れはした。九峪の夢はしょせん夢のまま終わる。
しかし九峪は想像できるのだ。大きく倭国を包み込む、耶麻台の姿が。あと何十年かかろうとも知れない、だがいずれ、その日は来るであろうと。
そのための礎となった自分を、いまは誇りに思うだけだ。自惚れで言うのではない。
——俺は黙って死ぬぞ。この国は強いんだから。お前も黙ってみてろよ、天の火矛——
目をつぶり、九峪は声をあげた。愛した者たち、掛け替えのない仲間たち、みなの名前を一人ずつ挙げていき、冬の終りの陽気に当たりながら、静かにまどろんでいった。
女中が九峪の衣服を着替えようと部屋に入ったとき、九峪は眠っていた。九峪の側に腰を下ろしたときに、眠っていると気づいた。
目を閉じて——
起こしてはいけないと思った女中は、また後で来ようと立ち上がりかけたとき、ふと横目で見てみると——急に、嫌な予感がした。
恐る恐る九峪の手を取る。
やや温かみが感じられる。その程度だ。慌てて脈を取った。反応はない。若干青くなった口元に手をかざす。呼気がまるでない。布団をはいで左胸に耳を押し当てた。拍動の音はまったくしてこない。
「う、そ・・・・・・」
身体を起こし九峪を見下ろした。九峪のまぶたは閉じられている。
眠るように——
「——九峪様ァッ!!」
涙を流して上げられた女中の叫びが、静かな一軒の家屋に響いた。
元星十一年三月十八日。
昼下がりの陽気に包まれて、九峪雅比古は、二十九年の生涯に幕を下ろした。
三傑と称され、倭国の四分の一を手中にし、大国を築いて天下に挑んだ一人の英雄の戦いもまた、終わりを告げた。