嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その参
—小林氷咲side—
曇り空が、頭上高く、広がっていた。
二車線道路を往き交う、車が騒音を発していた。
帰路を急ぐ生徒達の喧騒が、酷く儚く聞こえた。
歩道橋を上り、ため息をつきながら下る。
少しだけ冷たい春風が、頬に触れて消えた。
日課である散歩の途中だった。
心が罪悪感でさめざめとしていた。
誤解から発生した一件は、一夜明けて、色を変えていた。
それはさながら、自らを嘲笑うかのように蝕んでいた。
ふと、上空を眺めた。
曇天により、夕日がその巨大な身体ごと覆い隠されていた。
この隠された夕日の如く、エヴァンジェリンさんの胸中は未だに、葛藤と苦悩に苛まれているだろう。
しかし、これは彼女が、彼女自身の手によって解決すべき、試練であると言えよう。
罪悪感から優しく接しようなど、それは紛いなき偽善である。
心を鬼と化して、接触を絶ち、遭遇しないように気をつけなければならない。
それが彼女のためであり、それが俺からできうる礼儀であり、最大限の感謝の印であった。
しかし心は、さながら頭上に展開する夕日のように晴れない。
それは致し方ないと言えよう。
誤解を解いただけとは言えば心象は良いが、結果的として、一人の少女の優しき心を苛ませたのである。
その事実はまるで、心が複雑骨折してしまったかのように辛かった。
胸の奥の、そのまた奥の中心に、鈍痛となりて響いていた。
しかし、一つだけ、高らかに言えた。
この痛みは、愚かな俺への罰なのだ。
どのような行動から、誤解されてしまったのかは皆目検討はつかない。
つかないが、思慮の浅い行動という罪を犯してしまった自分自身に対する罰と言えよう。
心に刻むように、強く頷いた。
はっきりと言えた。
こんな罰など、話しにならないほど生温いのだと。
誤解をさせてしまった少女の心には、俺などの苦痛より遥かに重い、耐え難き苦痛を抱え込ませてしまったのだから。
泣き言を吐く気など、毛頭なかった。
泣き言など吐こうとするつもりならば、俺は自らの口を、殴ってでも静止するであろう。
俺はこの痛みを自らの罰として受け入れてみせる。
自らの糧として吸収し成長してみせるのだ。
それが俺を想ってくれた少女に対する償い。
春風を、肺が満杯になるまで吸い込んだ。
一瞬、痛みが和らいだ。
もう春風は吸い込まないようにしよう。
ふと、周囲の風景を眺めて、ある事に気づいた。
ここは、茶々丸さんと出会った記念すべき場所ではないか。
過去の記憶の中で、二人が浮かんでいた空には、誰もいなかった。
当然だと、苦笑した。
過去の記憶と同じように、古ぼけた広場の入口から中を覗いてみた。
過去の記憶と、明確に繋がったように思えた。
あの後ろ姿は、間違えようがなかった。
そこには茶々丸さんがいた。
中央にしゃがみ込み、群がる猫に餌を与えていた。
しかし、茶々丸さんを発見できたと言うのにも関わらず、心は微塵も昂揚としなかった。
まさに末期である、と言えた。
再度、苦笑がこぼれた。
それを、春風が運び去った。
広場の中央へと、ゆっくりと歩みを進めた。
仲良くなろうと画策している訳ではない。
いや、隠しようのない期待感はあるにはある。
あるが、それは米粒くらいの矮小さであった。
最優先の目的は、違う。
茶々丸さんであれば、エヴァンジェリンさんの様子を知り得ているのではないかと推察したからである。
直接的に会うのは絶対的に否だが、間接的に友達に問うくらいならば。
歩み寄って、声をかけた。
猫は餌に必死なのか、逃げる事はなかった。
「こんにちは」
茶々丸さんが、しゃがみ込んだままの姿勢で顔を向けた。
どうしてだろうか。
一瞬沈黙が流れた。
だが、立ち上がって一礼した。
「こんにちは。
こんな所まで、どうしたのですか?」
わざわざ、立ち上がってくれるとは。
心痛から、引き攣ってしまう笑みを浮かべて答えた。
「いや、何気なく通りがかったら茶々丸さんの姿が見えてね」
再度、沈黙が生まれた。
猫の鳴き声と、上空の飛行機の音だけが響いた。
居心地が悪く感じた。
その沈黙を嫌って、しゃがみ込むと猫の背を撫でた。
嫌がる素振りは見せなかった。
愛らしくも喉を鳴らす姿に、微かにだが癒された。
「茶々丸さんは、いつも猫に餌をあげてるの?」
三度目、沈黙が起こった。
不思議に思ったが、ここである推察が浮かんだ。
茶々丸さんは昨夜の誤解の一件を知っていて、嫌われてしまっているのではないだろうか。
そうならば、それは致し方ないと言えよう。
当然である。
どんな事情があるにせよ、友達を振った男性に対して、心象を良くする女性は皆無だろうからだ。
しかし、その事実に胸が痛かった。
激しい痛みが波打った。
さながら、胸を思い切り殴られ続けているような痛みは、断続的に続いた。
猫を撫でる右手が震えてしまう。
餌を食べるのを中断して、心配してくれているのか、こちらを向いて鳴いた。
心配させないように笑みを浮かべ、無理矢理震えを止めた。
強く思う。
これも罰だと言うならば、俺は全てをこの身に受けようではないか。
しかし、不思議な事が起こった。
嫌われているはずである茶々丸さんが、傍らにしゃがみ込んだのだ。
「はい。
日課となっています」
知らない、のだろうか。
嫌いな男の傍らになど、しゃがみたくはないはずだ。
わからなかった。
沈黙を嫌って、無理に口を開いた。
「そうなんだ。
でも雨の日とか大変じゃないの?」
「いえ、大変だとは思っていません。
それに私が来ないと、猫が飢えてしまいますので」
その言葉に、自らの業の深さを思い知らされた。
古ぼけた広場に、二人。
一人は、いつ如何なる日も、猫が飢えないよう餌を与え続ける優しき女性。
一人は、思慮の浅き行動という罪を犯した愚かな男性。
酷い違和を感じた。
茶々丸さんの姿が、視界の中で光り輝いて映った。
脳裏に、ある負の感情が浮かび上がった。
それは疑問。
茶々丸さんの傍らに、俺などがいる資格があるのだろうか。
好きなどと言う身分違いな想いを、抱き続けても良いのだろうか。
独りでに、口が開いた。
「まるで違う。
俺などとは違い、茶々丸さんは優しくて、眩し過ぎるんだ」
その言葉が辺りに沈んだように思えた。
茶々丸さんが黙り込んだ。
それは何を指しているのだろうか。
わからなかった。
餌を食べ終えた猫が、俺の手をすり抜けて、茶々丸さんの足元に縋り付いた。
茶々丸さんが言った。
「いえ、私などより、小林氷咲様の方がお優しいと思います」
その言葉が、心に突き刺さったように感じた。
思う。
お世辞だろうが、同情だろうが、なんだって構わない。
その言葉は、俺を元気づけようと送ってくれた善意なのだから。
こんな愚かな俺を、茶々丸さんは心配してくれているのだ。
純粋に、嬉しかった。
しかし今の俺には、辛いという感情の方が騒いだ。
まるで自らの罪を、再確認させられたようだったからだ。
顔に浮かべた笑みは、引き攣っているだろう。
隠すように俯いて、呟いた。
「俺は、優しくなんてないよ」
「いえ、お優しいです」
有無を言わさぬ返答に、血液が脈打った。
そこまで、心配してくれているとでも言うのか。
「マスターも言っていましたし、私もそう思います」
「マスター」それはエヴァンジェリンさんの呼称だ。
愕然とした。
未だに彼女は、こんな愚かな俺を、優しいと思ってくれているのか。
心が震えて、何も言えなくなった。
静寂が広がった。
その静寂を消し去るように、茶々丸さんが口を開いた。
「あの、昨夜からマスターの様子がおかしいのですが、何か知っていますか?」
また、愕然とした。
エヴァンジェリンさんは、茶々丸さんに相談してなかったのである。
姑息にも、救われた心地になった。
今、こうして話す事ができるのは彼女のお陰だからである。
どうしてかはわからない。
彼女は、俺が茶々丸さんを想っている事を知らないはずだ。
皆目検討はつかない。
つかないが、もう一つの目的が口をついて出た。
それは多大なる罪悪感による衝動であった。
「どんな様子だった?」
「窺っても、教えて貰えませんでした。
いまは一人にしてくれ、と。
朝食の時も、突然として、眉根を潜めたり、顔が赤くなったりしています」
心がさながら、悲鳴を上げたような気がした。
エヴァンジェリンさんの激しい葛藤や苦悩が、手に取るように伝わってきた。
深く、頭を垂れた。
謝罪するように呟いた。
「それは全て、俺が原因なんだ」
茶々丸さんが、驚きの声を上げた。
「そうなのですか?」
弱々しく、頷いた。
そして思う。
この場を去ろう。
さながら善を体現しているような女性。
その眼前に俺はいる資格、いや度胸がなかった。
「すまない、茶々丸さん。
帰るよ」
茶々丸さんが、黙った後に言った。
「わかりました。
小林氷咲様、道中、お気をつけて下さい」
弱々しく頷きを返して、背を向けた。
このまま寮に帰って寝込もう。
フラフラと歩き出した。
しかし、ある恥ずかしき事柄を止めて貰おうとしていた事を思い出した。
振り返り、最後に言った。
「さすがに小林氷咲様は恥ずかしいから、好きなように呼んでくれないかな?」
茶々丸さんの瞳が、ほんの微かに揺れた気がした。
「ですが、私はガイノイドです」
ガイノイドの意味がわからなかった。
だが、空元気で笑った。
教えて貰う気力などない。
「関係ないよ。
俺が呼んでほしいだけだから」
雲間から西日が差した。
足早にその場を後にした。
—絡繰茶々丸side—
ビニール袋から猫の缶詰を取り出すと、封を切り、お皿に盛り付けました。
空腹を隠せないのでしょう。
無数の猫達が、仲良く足元でおすわりしています。
しゃがみ込み、餌の乗ったお皿を地面に置きました。
一斉に食べ始めました。
曇り空の真下、古ぼけた広場に可愛らしい声が響いています。
その様を眺めながら、ふと思いだしました。
停電の決闘の夜。
マスターが敗北をきっした事により、小林氷咲様は家族の一員とはなりませんでした。
その時私には、「悲しい」という感情が表れました。
ですが彼が泣き笑い、その素顔というものを見せた頃には、「嬉しい」という感情に変わっていました。
ガイノイドである私に、どうしてそう言った感情が表れるかはわかりません。
マスターも色々な感情を与えてくれますが女性です。
男性として感情を与えてくれたのは、小林氷咲様が初めてでした。
だからこそ私は思ったのでしょう。
短いですが、所謂彼の優しき生き様を見させて貰いました。
時には助けられ、時には敵対し、それでいて無傷のままに終わらせる優しさ。
まるで守り導いてくれているような感慨を受けて、人間で言う所の、お兄様のように見えたのだと思われます。
昨夜もそうです。
小林氷咲様が遊びにこられるのだと認識すると、嬉しくなりました。
紅茶を取りに行き戻ってきて、彼の姿がないのを認識すると悲しくなりました。
マスターに窺っても、顔色を朱に染めて、すまないが、一人にしてくれと部屋にこもってしまいました。
次の日の朝食、マスターの様子が変でした。
もう何も乗っていないお皿をナイフで切っていました。
もう何も入っていないティーカップを口許に傾けていました。
まだ空腹なのでしょうか。
すると唐突に、顔色が変わりました。
眉根を潜めて唸ったり、突然頬を朱に染めてまだいかんぞと呟いたり、虚空に向かい笑みを浮かべたりしていました。
不思議になって窺いましたが、一言だけしか答えては貰えませんでした。
「ま、まだわからんぞ!
だ、だがな!か、家族が増えるかもしれん!」
顔色は、さながらトマトのように真っ赤でした。
全容を知る事はできませんでしたが、それは良い事のように思えました。
なぜならマスターが、これほどまでに喜んでいるのは初めてでしたから。
マスターの幸せが、私の幸せでもあります。
それにしても、家族が増えるとはどなたでしょうか。
マスターが簡単に認めるとは思いませんから、その方は素晴らしき人なのでしょう。
それは小林氷咲様を指しているのではないかと思えました。
なぜなら彼が帰った後に、マスターが嬉しそうだからです。
その未来が実現できるなら、どんなに良き事でしょうか。
それこそ、本当にお兄様となり得てしまいます。
それはとても、嬉しき事であると思いました。
そんな事を考えていると、背後から声がかけられました。
それは男性の声のようで、聞き覚えのある声音でした。
優しさが漂い、猫達は逃げようともしませんでした。
「こんにちは」
私は振り向き、動作が固まりました。
そこには小林氷咲様の、爽やかな笑みが在りました。
どうしてでしょうか。
先ほどまで、彼の事を考えていたからでしょうか。
恥ずかしいと言った感情が、表れました。
ですが、礼儀を欠いてはなりません。
直ぐに立ち上がり、一礼しました。
「こんにちは。
こんな所まで、どうしたのですか?」
小林氷咲様が、頷くと笑いました。
「いや、何気なく通りがかったら茶々丸さんの姿が見えてね」
エラー。エラー。
正に言葉の通り、固まってしまいました。
小林氷咲様の口から、初めて名前を呼ばれたのです。
茶々丸さん、と。
さながらどこか、爆発的な嬉しさが発生しました。
猫達の鳴き声と、上空の飛行機の騒音が、響きました。
固まっていると、彼がしゃがみ込み猫の背を撫でました。
猫は嫌がる素振りを見せず、可愛いらしく喉を鳴らしました。
その様はとても美しく思え、見蕩れてしまうほどでした。
動物には人間の心がわかる。だから優しい人にしか懐かないのだと、聞いた事がありました。
それは事実なのだと思えました。
なぜなら、猫達は小林氷咲様に懐いているのですから。
「茶々丸さんは、いつも猫に餌をあげてるの?」
突然の言葉に、どう返したら良いかわからなくなりました。
静寂が辺りに、広がりました。
そこで視認しました。
小林氷咲様の右手が、微かに震えているのを。
さながら浸透するように、心配という感情が表れました。
どうして震えているのかはわかりません。
ですが、何か嫌な事があったのだと推察できました。
一つ思い当たりました。
マスターが言っていました。
魔族故の悲しみ、と。
ガイノイドである私には理解できませんが、そうであるように思えました。
やはりそうなのか、猫達が彼を心配するように見つめていました。
私には、何もしてあげられません。
何をしたらいいのか、わからないから。
ですが猫達がそうするように傍らにしゃがみ込みました。
この行為がどう作用するのかはわかりません。
わかりませんが、何らかの行為をしてあげたかったのです。
マスターに笑顔をくれて、私に感情をくれたこの男性に。
「はい。
日課となっています」
容赦なき静寂が、小林氷咲様を襲っているように思えました。
口許に乾いた笑みを浮かべて、言いました。
「そうなんだ。
でも雨の日とか大変じゃないの?」
「いえ、大変だとは思っていません。
それに私が来ないと、猫が飢えてしまいますので」
小林氷咲様の顔がしかめられました。
私は、何か変な事を言ったのでしょうか。
恐怖という感情が表れました。
彼に嫌われる事、それは怖くてとても悲しい。
小林氷咲様の淀んだ瞳が見開き、こちらを向きました。
静かに口が開いていくのが、とても印象的に映りました。
「まるで違う。
俺などとは違い、茶々丸さんは優しくて、眩し過ぎるんだ」
その言葉が私の胸の奥に、さながら降りたように感じました。
小林氷咲様は、私などと違い優しくて眩しいと言いました。
ですが、明確に言えました。
それは違う、と。
餌を食べ終えた猫達が、足元に集まってきました。
色々な記憶が再生されました。
私は事実として、小林氷咲という男性が優しい事を知っています。
何か傷つく事があったのだろうと思えました。
ですが、貴方が優しいという事実は変わらないのです。
「いえ、私などより、小林氷咲様の方がお優しいと思います」
小林氷咲様が、唖然と口を空けました。
ですが、その言葉は救いとはならなかったようです。
顔を隠すように俯き、小さく呟きました。
「俺は、優しくなんてないよ」
「いえ、お優しいです」
即座に返しました。
小林氷咲様は自分の優しさに、誇りを持っても良いのだと言えたからです。
その生き方を貫いてきたのでしょうから。
「マスターも言っていましたし、私もそう思います」
その言葉が、小林氷咲様に届いたのでしょうか。
彼の身体が、小刻みに揺れていました。
それは救いとなったという事なのでしょうか。
私の言葉で、彼を少しでも勇気づけられたのならば、それはとても嬉しいと言えました。
無言が長く続き、ふと昨夜から疑問に思っていた事を、聞いてみました。
「あの、昨夜からマスターの様子がおかしいのですが、何か知っていますか?」
小林氷咲様が、また唖然としました。
また俯き、表情を隠すように、声だけが聞こえました。
「どんな様子だった?」
「窺っても、教えて貰えませんでした。
いまは一人にしてくれ、と。
朝食の時も、突然として、眉根を潜めたり、顔が赤くなったりしています」
沈黙の後、小林氷咲様が頭を垂れました。
そして、逡巡するように呟きました。
「それは全て、俺が原因なんだ」
その言葉は、私を驚かせました。
やはり小林氷咲様は、優しき人です。
マスターをあそこまで、喜ばせてくれるのですから。
「そうなのですか?」
小林氷咲様が頷きました。
それならば、感謝の言葉を伝えなければ。
ですが彼が遮るように言いました。
ふと上空での出会いが思い返されました。
彼はお礼を言われるのが、恥ずかしいようです。
「すまない、茶々丸さん。
帰るよ」
名残惜しく思いました。
ですが、小林氷咲様には小林氷咲様の事情があるのでしょう。
「わかりました。
小林氷咲様、道中、お気をつけて下さい」
小林氷咲様が頷き、背を向けました。
その背中から、どこか儚さが漂っているように思えました。
ですが、私にはどうしたら良いかわかりませんでした。
何もせず目で追っていると、彼が振り返りました。
口許に笑みを浮かべました。
「さすがに小林氷咲様は恥ずかしいから、好きなように呼んでくれないかな?」
その言葉に、私は嬉しいと同時に良いのだろうかと、疑問に思いました。
マスターは、奴は気になどせんと言っていましたが、私はガイノイドなのです。
そんな私が、好きに呼ぶなどの非礼をして構わないと言うのでしょうか。
断られたらと思うと、怖いという感情が抱かれました。
ですが、言いました。
「ですが、私はガイノイドです」
しかし、小林氷咲様は笑顔で答えてくれました。
そんな事を気にしていたのかと苦笑しているように思えました。
「関係ないよ。
俺が呼んでほしいだけだから」
その言葉を受けて、気づきました。
先ほどの怖いという感情が、四散しているのを。
その代わりに、今までにないほどの嬉しいという感情が浮かび上がりました。
空の雲間から、西日が辺りに差しました。
猫達が可愛いらしい鳴き声を上げて、足元に擦り寄りました。
しゃがみ込みその背を撫でながら呟きました。
今までより、多大な嬉しさが込み上げてきました。
恥ずかしいという感情に困惑しながらも呟いてみました。
「氷咲、お兄様」
その呟きが、春風にさらわれていったように感じました。
曇天の空だと言うのに、晴れやかな景色に思えました。
氷咲お兄様の背中が、小さくなり、雑踏へと消えていきました。