嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その弍
—小林氷咲side—
急速な事態の推移に、頭の中が真っ白になっていた。
現実逃避を、していたのかも知れない。
ふと、意識が覚醒した。
見知らぬ部屋のソファーに座っていた。
首を傾げながら、周囲を確認した。
欧州風である調度品が並んでいる品の良い内装。
テーブル上に、湯気が立ちのぼるティーカップが置かれていた。
不思議に思っていると、傍らに人影が在った。
メイド姿の茶々丸さんであった。それから対角線上のソファーに座る人影、エヴァンジェリンさんを視認した瞬間、思い出した。
そうだった。
学園長との談笑中なのにも関わらず、鬼気迫るエヴァンジェリンさんに拉致されたのであった。
学園長へと怒っていた理由については、皆目検討はつかないが。
それと同時にある記憶が呼び起こされた。
忘れていたが、エヴァンジェリンさんがヤンデレ状態に陥っていたのである。
参った。
これは参ったと言わざるを得ないだろう。
なぜならエヴァンジェリンさんに、再度、告白を断らなければならないからである。
そんな事をおいそれと宣ってしまったならば、比喩ではなく、自らの首が地面に転がってしまうであろう。
どうすれば。
頭を悩ませていると、ある事に気づいた。
それは二つ。
見知らぬ部屋と、エヴァンジェリンさんが制服から普段着に替わっている事であった。
その事実から推測するに、この部屋はエヴァンジェリンさんの住居なのではないだろうか。
可能性は極めて高く思えた。
考察していると、ある困った事態が浮かび上がった。
茶々丸さんがいるとは言え、この状況を呼称するならば、部屋で向かい合う二人、だろう。
そして俺を呼称するならば、彼女の部屋に上がった、初々しき彼氏そのものに見えるのではないだろうか。
その上、由々しき事態がまた浮かび上がった。
どうしてかは知らないが、傍らには茶々丸さんが立っているのである。
前にエヴァンジェリンさんを「マスター」と呼んでいたのを鑑みるに、友達なのだろう。
いや、今はそんな事はどうでもいい。
現状、茶々丸さんのお美しい瞳には、俺達は恋人同士に映っているのではないだろうか。
エヴァンジェリンさんは、俺を恋人と思い込んでいる節が、多々あった。
二人は友達で、女子学生だ。
色恋沙汰は三度の飯より大好きであろうし、エヴァンジェリンさんがもう彼氏だと言いはっている可能性は極めて高く思えた。
いかんいかんいかんいかん。
いかんぞ。
明日には葬式を開かれる事になろうが、もう朝日を拝めない事になろうが構わない。
いや、構う。
構う事には構うが、誤解されてしまうくらいなら死をも厭わないと言えた。
さながら、荒れ狂う海の如き恐怖心はあるにはある。
しかし、俺にとってこの誤解は、正に死活問題なのだ。
エヴァンジェリンさんにとっても、嘘で塗り固められた関係は良いとは言えないだろう。
心を鬼としなければならない。
明確に断るのだ。
心の中で呟いた。
確かに、エヴァンジェリンさんを傷つけてしまうであろう言動を発するのは心苦しい。
しかし、曖昧な関係に溺れる事こそ、彼女を馬鹿にした行為であると思えた。
吸血鬼とは言え、中等部の生徒のようだから、何個か年下であるのは明白だ。
ならば、俺は先輩なのだ。
先輩として、学友として、本当に彼女を大切に想うのならば、早めに暴走を諌めてあげるべきなのである。
口許にティーカップを傾けて、紅茶で生唾を飲み下した。
緊張からか、全て飲み干してしまった。
エヴァンジェリンさんの瞳が、優しき色を称えていた。
その瞳は澄み、こちらを信頼してくれているように思えた。
突如、罪悪めいた感情が氾濫した。その胸の苦しさを無視して、口を開いた。
しかし、その決意は裏切られる事となった。
「エヴ」
「なんだ?まだ飲むのか?
仕方のない奴だな。
茶々丸」
「はい。ただいまお持ちします」
茶々丸さんが一礼して、部屋の奥へとその背中を消した。
唖然とその様を見送った。
いやいやいやいや。
そういう事ではなくて、いや、緊張から喉はまだ渇いているけれども。
仕切り直しと、エヴァンジェリンさんを見遣った。
さながら天使の如き笑みが口許に浮かべられていた。
胸の中が、まるで重油でも塗りたくられたかのように重々しく呻いた。
強き決意が、いとも簡単にも折られそうになった。
こんな可愛らしくも好意的な笑みを向けられて、世の男の何人が否と言えるだろうか。
しかし、彼女に殺されようとも、泣かれようとも、告げなければならないのだ。
それが彼女のためであるし、本当の意味での労りなのだ。
再度、心を鬼にして、口を開こうとして気づいた。
茶々丸さんにも聞いて貰わねばならないのである。
戻り次第、誤解を解こう。
部屋内を、さながら容赦なき沈黙が闊歩していた。
これからしなければならない行為に、居心地が悪かった。
世間話くらいなら、許されるように思えて声をかけた。
「紅茶、ありがとう」
「紅茶くらい好きなだけ飲め」
エヴァンジェリンさんが楽しげに笑った。
胸が痛い。
「ここってエヴァンジェリンさんの家なの?」
記憶が曖昧なため、どのような道筋を辿ってきたかは定かではないが、この広さは部屋ではなく家のように思えた。
そこらの人間より優しく、人間と変わらないとは言え、吸血鬼であるからの配慮であろう。
学園長はそれにしても器が大きいなと再認識した。
エヴァンジェリンさんを一生徒として扱うのだから。
聡明なお方である。
理由など聞かなくとも、善意から来ているのだろう事は簡単に理解できた。
先ほどは何らかの理由から怒ってはいたが、エヴァンジェリンさんも内心、学園長に感謝しているだろう。
「そうだ。
道順は覚えただろ。
私が暇であれば、いつでも来ていいぞ。
あと、エヴァで構わん」
「そうなんだ。
気品が漂う素敵な部屋だね」
笑みを返した。
そして、固まった。
今、エヴァンジェリンさんはなんと言ったのだろうか。
名前をファーストネームで呼び捨てして良いと、言ったのではないだろうか。
いや、確かにそう聞こえた。
年下の女の子の名前を呼び捨てるなど、まさしく、恋人同士が行う行為ではないだろうか。
今まで九割だと思っていた推察が、十割、完全なる確信へと切り変わった。
もはや彼女の胸中では、俺は恋人であると認定されているのだ。
これは一刻を争う事態だと、高らかに言えた。
その好意にも、その優しさにも、並々ならぬ感謝はしていた。
しかし、名前の呼び捨ては絶対にしてはならない。
またもや彼女が勘違いする要因である。
それに、それは越えてはいけない一線なのだ。
邪念を払うように、勢いよく首を振った。
「まったく、お前はさっきから何をやってるんだ」
エヴァンジェリンさんが呆れたように笑った。
その可憐な笑みを眺めて、強く思った。
茶々丸さんがまだ戻っては来ないが、待っている時間などはない。
友達の前でフラれるなど、恥ずべき記憶を形作らせてはならないからだ。
茶々丸さんの誤解は解けない。
しかしそれでも構わない。
自らの利益よりも、彼女の利益となるよう優先しなければならないのだ。
それがこんな俺を好きになってくれた女性に対する礼儀であった。
エヴァンジェリンさんの目を見つめて、意を決して言った。
部屋の空気が淀んだように感じた。
「エヴァンジェリンさん。
落ち着いて聞いて欲しい」
「なんだ?
真剣な話しでもあるのか?」
エヴァンジェリンさんが素敵な笑みを浮かべた。
俺は、頷きを返した。
開かれた口からこぼれたその本意は、雰囲気を一変とさせた。
「俺は確かに、きみを一人の女性として大切に想っている。
だけどまだ、俺達は寄り添う関係とは言えない。
だからこそ、だ。
そんな大切な女性の、大切な名前を、軽々しく呼ぶ軽薄な行為はできない」
騒ぐ罪悪感故に、少々、曖昧な言葉となってしまった事は許して欲しい。
だがこれで、俺達は恋人同士ではないと告げる事ができた。
エヴァンジェリンさんはどのような表情をしているだろうか。
泣き顔など見せられたら、俺の方が立ち直れなくなってしまう。
恐かったが、エヴァンジェリンさんを見遣った。
そしてその表情を見た時、脳裏に危険信号が瞬いた。
エヴァンジェリンさんの顔色に、徐々に赤みが増していったのだ。
さながら茹蛸のような色味は、喜怒哀楽の怒を示していた。
怖い、途方もなく怖いが、彼女は年下だ。
怒りを全て受け止めてあげねばならない。
どういう結論から辿りついたかはわからない誤解だ。
だがしかし、微かではあれど、俺にも落ち度があったからの誤解のように思えたからである。
真剣な視線を送った。
仕方ないだろう。
エヴァンジェリンさんが、怒声を上げた。
「い、いきなりなんだお前は!
この状況で……いや、どういう頭をしてるんだ!」
心へと、鈍痛となりて響き渡った。
心が強風に煽られるように揺らされた。
未だに、恐怖はある。
情けなくも身体はすくんでいた。
しかし、これは彼女のためなんだ。
エヴァンジェリンさんとの短くも濃い思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
今までの人生、これほどまでに真剣だった一時があるだろうか。
口を開いた。
「先ほどの言葉が全てだ。
俺はエヴァンジェリンさんを信用している。
きみならば、わかってくれるはずだと」
エヴァンジェリンさんは、未だに怒りで顔を赤くしていた。
しかし、何かを考え込むように俯いた。
穏やかではない心の、整理をつけているのだろう。
今まで恋人だと思っていた男から、面と向かって誤解だと告げられたのだ。
やり切れない怒りで穏やかではいられないはずである。
長い間、いや数秒かも知れない。
そんな惑う空気の中、エヴァンジェリンさんがゆっくりと顔を上げた。
顔は赤いまま上気していた。
しかし、エヴァンジェリンさんは言ってくれた。
「ま、まだ答えは出せん」
その言葉が、儚くも宙空を舞ったように思えた。
指し示す事は一つだ。
恋人同士ではないと理解してくれはしたが、まだ心の整理がつかないのだろう。
今日はこれで良いんだ。
自らの誤解に向き合おうとするエヴァンジェリンさんは素敵であった。
自らの利益よりも、彼女の利益を。
俺は優しく語りかけた。
告白を断る相手に、優しい言い方は良くないとは、重々承知していた。
しかし、しかしだ。
彼女はまだ若い。
将来、また恋愛をするだろう。その時の怯えや、トラウマとならぬように。
先輩として出来うる、最大限の言葉を送るのだ。
「大丈夫。
時間をかけて、考えてくれていいんだ。
俺はいつまでも、待っているからね」
エヴァンジェリンさんが唖然とした。
そして、俯いたまま言った。
それは断腸の想いで、発した言葉だっただろう。
「わ、わかった」
ならば、俺は邪魔だ。
一人にしてあげなければならない。
エヴァンジェリンさんに別れを告げたが、返ってはこなかった。
構わずもう一度言うと、その部屋を後にした。
外に出ると、肌寒い空気を吸い込んだ。
夜の森。
上空には月が浮かんでいた。
ふと門限を破った事に気づいたが、何とも思わなかった。
門限よりも大事な事を、優先しただけなのだから。
瞬く星達に、祈るように願った。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという吸血、いや女性が、愛の全てを捧げられる素敵な男性が見つかりますように。
—エヴァンジェリンside—
渡り廊下は肌寒く、窓の向こうには薄い闇が広がっていた。
茶々丸は無言で付き従い、私達は学園長室を目指していた。
足取りは軽いと言えよう。
なぜならネギから、あの憎々しき「サウザンドマスター」が生きていると聞いたからだ。
私に恥辱の限りを味合わせた愚か者に、八つ裂きの刑を執行できる機会が与えられたのだ。
小刻みに笑った。
見慣れた道筋を辿りながら、この訪問の目的を再認識した。
あの夜、私は負けた。
圧倒的な実力差がどうであれ、油断や慢心がどうであれ、明確に戦略的敗北を味わった。
悔しくないかと問われたとして、悔しくはないと胸を張って言えるだろう
なぜなら、小林氷咲には負けはしたが、生い立ち故の欺瞞に満ちた心には打ち勝ったのだから。
いや、この私を相手に勝利した男なのだ。そこを評価して、ヒサキと呼んでやろう。
どのような経緯で、私へと素顔の笑みを見せたのかは見当はつかない。
だが奴は、あの決闘の夜、素顔のままに泣き、花が咲くように笑った。
不遇なる生い立ちから刻み込まれた猜疑心を、私の手で清め、浄化させた。
あの生意気でいて、可愛気もある男に、素顔を取り戻してやれたのだ。
二日ほどが経過していると言うのに、未だに気分は昂揚していた。
それならば、私を信頼し安らぎを求めるヒサキにしてやれる事は一つだろう。
平穏でいて、安息なる日々を取り戻してやるのだ。
そう考えた時、ある不穏分子の顔が浮かび上がった。
だからこそ私は、強烈なる釘を刺すために、学園長室を目指していたのだ。
近衛近右衛門。
さながら、大妖怪と言われても頷けるほどの狡猾さを懐に隠し持つ老害。
ヒサキの生い立ちの秘密は、絶対に明るみに出てはならない。
認識しているのは私と茶々丸、桜咲刹那くらいのものだ。
だがしかし、じじいの情報能力は侮れないと言えよう。
ヒサキの魔力の波動を、さながら妖犬じみた嗅覚で感じとっているかも知れない。
いや、もうその狡猾さを遺憾無く発揮し、悪巧みの手駒として高笑っている可能性もある。
秘密で脅迫し、東西のいざこざに首を突っ込ませようと画策している可能性もあった。
さすがにそれは考え過ぎかと苦笑した。
だが、そんな事はさせないと誓おう。
少々、歩む速度を速めて、学園長室の前へと着いた。
ドアを開き、声を上げた。
「じじい、話しがある」
お決まりの椅子に座るじじいを視認できた。
そして傍らに立つ人影を捉えたときの事だ。
爆発的な怒りにより、身体が震え上がった。
なぜなら、じじいに相対するように立つ人影。
それは間違えようがなく、ヒサキそのものだったのだ。
遅かったか。
顔をしかめた。
ヒサキが目を見開いてこちらを向いていた。
それは脅迫されていたための唖然なのだろうか。
じじいは呆然と、それでいて怯えたようにこちらを見ていた。
これで確信できた。
その怯えは、まるで親に悪戯が見つかった子供のようであったからだ。
自然と、口許に笑みが浮かび上がった。
常に先手を取り続ける姿勢は見事と言えた。
やってくれるじゃないか。
その男が誰の庇護の下にいるのかを、その身を持ってわからせてやろうか。
「じじい。
やはり貴様、その煩わしい後頭部を切り落とされたいようだな」
封印時とは言え、最大限の殺気を放った。
じじいの額に油汗が浮かび上がった。
なんだ。
怯えてでもいるのか。
もう遅い。今すぐに。
行動に移ろうとすると、さすがに男と言う事であろうか。
ヒサキが、猛然と立ち塞がったのだ。
眼光は異様に鋭く、これは俺の問題だと言わないばかりにだ。
私を睨みつけるとは、逆に気に入った。
「エヴァンジェリンさん。
学園」
「ヒサキ、お前は黙ってろ」
ヒサキの思惑は手に取るようにわかった。
その眼光が物語っていた。
「エヴァンジェリンさんには関係ない。自らの事は、自らで蹴りをつける」
その心意気は高く買うし、汲んでやりたい。
しかし、だ。
現状私は、さながら吹きすさぶ吹雪の如く憤っているのだ。
ヒサキと言えど、関係ない。
私が、私の問題であると宣言するならば、これは私の問題なのだ。
ヒサキの目の光りが消えて、黙り込んだ。
もはや、私の狂気を止める事は何人足りとも不可能であると、その聡明さから覚ったのだろう。
ならば、これからは私の時間と言えよう。
大丈夫だ。
お前を困らせる者は、私が黙らせてやる。
目前で目を白黒とさせているじじいを、いや、害悪を、その醜き後頭部と共に消し去ってやろうではないか。
じじいが怯えからか、唇を震わせて言った。
「な、なんの用じゃ?」
往生際の悪い、狸め。
用件など、目の前に見えるではないか。
老いて視力を失ったか。
良いだろう。
言い逃れられるものなら、逃れてみるが良い。
その問いを一笑に伏した。
さながら、警察の如く取り調べてやろうではないか。
「どうせ、またこいつに厄介事を持ち込む気だろう」
空間を裂くように飛来した核心に、じじいが酷く狼狽した。
白々しいとは、今のじじいのような様の所作を呼ぶのだろう。
じじいが、さながら神に祈るように言った。
「いや、わしは」
残念だったな。
この場に神はいない。真祖の吸血鬼なら、笑みを携えているがな。
その失笑ものの言葉を、覆い隠すように言った。
しかし言いながら気づいた。
じじいを血祭りに上げるのはいつでもできる。
今はヒサキの保護が先決ではないだろうか。
「黙れじじい。貴様はヒサキに関わるな。
おい、行くぞ。
なんだその阿呆の子のような顔は。
茶々丸、連れて来い」
「了解しました」
致し方ないと言えた。
さすがにヒサキの目の前で血祭りに上げるのは気が引けた。
悔しいが、命拾いしたなじじい。
乱暴に部屋を出た。
背後から二人が、静かに着いてくる気配がした。
それにしてもあの老害には、手酷い鉄槌が必要なようだな。
道中、ヒサキは無言だった。
助けられた事を、恥ずかしく思っているのだろう。
とりあえずで、家に招待してみた。
無言を貫いているが、ついてきていた。
全く、可愛い奴だな。
来たいなら、来たいと言えば良いものを。
家に着き、気分良く着替えてリビングに戻った。
ヒサキはソファーに腰掛けていた。
傍らに立つ茶々丸が、かいがいしくもティーカップに紅茶を注いでいた。
静かに対角線上のソファーに腰掛けた。
それを合図のように、ヒサキの双眸に色が戻った。
辺りを見回した後、紅茶を一気に飲み干した。
あの湯気から察するに、相当に熱いだろうに。
私の家に招待されて、喜びから緊張しているのかも知れない。
少々、嬉しくなった。
慌てなくとも良いのだぞ。
苦笑をこぼせざるを得なかった。
ヒサキの瞳が微かに揺らいだ気がした。
不思議に思っていると、直ぐに気づいた。
まだ飲み足りなかったのだろう。
ヒサキと言えど客人だ。
口が開かれる前に言った。
「エヴ」
「なんだ?まだ飲むのか?
仕方のない奴だな。
茶々丸」
「はい。ただいまお持ちします」
茶々丸が一礼して、部屋の奥へとその姿を消した。
ヒサキが唖然としていた。
どうしてわかったのかと、驚いているのだろうと思えた。
そんなもの、お前の顔を見ればわかる。
また苦笑をこぼした。
ヒサキが恥ずかしいのか、口をつぐんだ。
心地好くある沈黙が、部屋内を包み込んだ。
ヒサキがやっと割り切ったのか、声をかけてきた。
「紅茶、ありがとう」
「紅茶くらい好きなだけ飲め」
楽しげに笑って言った。
そんな礼など言わずとも良いと言うのに。
しかし、その律儀な性格には好感が持てよう。
「ここってエヴァンジェリンさんの家なの?」
頷きを返した。
「そうだ。
道順は覚えただろ。
私が暇であれば、いつでも来ていいぞ。
あと、エヴァで構わん」
私に勝利した男だからな。
気持ち良く告げた。
「そうなんだ。
気品が漂う素敵な部屋だね」
ほう、やはりお前はセンスが良いようだな。
部屋を褒められて、少々喜んでしまう。
ヒサキが笑みを返してきた。
ふと、これがヒサキの望む平穏なのではないかと感じた。
笑い合えて、欺瞞に満ちた争いのない空間。
それは一時であれど、楽しくも儚き空間。
そんな事を考えていると、突如、ヒサキの表情が固まった。
どうしてかは、わからない。
不思議に思っていると、今度は勢いよく首を振った。
その様、に呆れて笑った。
笑わそうとしてくれているのではないかと思えた。
「まったく、お前はさっきから何をやってるんだ」
その言葉に、微かな幸福を感じた。
笑うのも割と悪いものではないと、思えた。
ヒサキが言った。
どこか真剣に、私の目を見つめてでだ。
「エヴァンジェリンさん。
落ち着いて聞いて欲しい」
「なんだ?
真剣な話しでもあるのか?」
笑みを浮かべながら、首を傾げた。
不思議に思ったが、直ぐに気づいた。
じじいを痛めつける算段だろう。ならば、力の限りを尽くして手を貸すぞ。
共に、じじいを討とうではないか。
そんな風に楽観視していた私は、次に起こった事態に愕然とする事になった。
ヒサキが強い頷きを返した。
その上、真顔で言ったのだ。
その言葉は、楽しき雰囲気を一変と打ち砕いた。
「俺は確かに、きみを一人の女性として大切に想っている。
だけどまだ、俺達は寄り添う関係とは言えない。
だからこそ、だ。
そんな大切な女性の、大切な名前を、軽々しく呼ぶ軽薄な行為はできない」
その言葉が、ほうほうと頷く私の鼓膜に響いた。
そして、事の重大さに気づかされた。
さながら、無防備状態で上級魔法を撃ち込まれたと勘違いしてしまうほどの衝撃だった。
まさに愕然と言えた。
ヒサキは言ったのだ。
真剣に、まるでこの世の真理を語るかのように雄々しく。
私を一人の女性として、大切に想っている。
まだ寄り添う関係ではないから名前では呼べない。
いや、しかし。
これは、裏を返せば、これは、もしや、愛の告白、だと言えない、だろうか。
寄り添う関係になるまで、呼ばないと言っているのではないのか。
色々な感情がざわめきあって、酷く困惑した。
こ、こいつは何を言っているんだ!
次第に、熱湯風呂に入るように顔が熱くなっていった。
嘘ではないのか。
私を笑わせようと冗談を飛ばしただけではないのか。
しかし、ヒサキの双眸は力強く、それでいて澄んでいた。
嘘をつく者の瞳には見えなかった。
反射的に声を上げた。
「い、いきなりなんだお前は!
この状況で……いや、どういう頭をしてるんだ!」
ヒサキはその言葉を、柳のように受け流した。
笑う事なく、それでいて真剣に、語るように言った。
「先ほどの言葉が全てだ。
俺はエヴァンジェリンさんを信用している。
きみならば、わかってくれるはずだと」
その力強き言葉が、鼓膜と心を震わせた。
確信、できた。
小林氷咲という男は、今、私に愛を囁いたのだ。
その事実に、心がわし掴みにされたような感覚がした。
顔が熱く、頭は重く、正常な判断ができそうにない。
というか、というかだ!
なぜこいつは私を!
私は吸血鬼……なんだぞ!
そうか……こいつも魔族か。
でも私には……!
脳裏に古い記憶が呼び起こされた。
八つ裂きにするべき、嘘つきの笑顔がちらついた。
そこに、目前のあまのじゃくの笑顔が割って入った。
違う。
違うと否定した。
確かにこいつを、好いているのは認めようじゃないか。
しかし、それは我が子を想うような感覚からだったはずだ。
そうだったはずだ。
それなのに、この気持ちはなんだ。
まんざらこいつも悪くないと、思える心境はなんなんだ。
何にも思ってなどいなければ、恥ずかしさなど伴わないのではないか。
私の変身時の妖艶な身体を、ヒサキは知らない。
ならば、今の私の、本当の姿をこいつは好いてくれたとでも言うのか。
こんな小柄な私を、一人の女性として、大切に想ってくれるとでも言うのか。
ヒサキは、確かに桜通りで言っていた。
真祖の吸血鬼であり、元六百万ドルの賞金首である事を知っていると。
例えば、例えばの話だ。
番う事になった場合、私の業故に、数多の危険が伴う事を認識していながら、それでも構わないとでも言うのか。
何よりも平穏を愛する小林氷咲という男は、私と平穏を両天秤にかけた場合に置いて、私の方に比重が傾くとでも言うのか。
な、なんなんだ、こいつは。
こんな奴には、出会った事がない。
それは余りにも、嬉し過ぎるじゃないか。
心がさながら、大地震の如く激しく揺らいだ。
ここまで必要なのだと宣言されたからか、目が滲みそうになったが堪えた。
わかった。
わかったよ。
お前の気持ちは、十分過ぎるほどに伝わった。
それならば私は、しっかりと結論を出してやらねばならない。
重要な事は、一つであると言えた。
私は、小林氷咲に、恋愛感情を抱いているのだろうかという疑問だった。
頭を悩ませても、わからなかった。
危険なる世界に、小林氷咲という愚かなほど優しき男を、引き込んではならない。
それと同時に、共に背負って行きたいという、多大なる欲求にも囚われる。
受けるにしても、断るにしても、結論を出すには、時間が足りな過ぎた。
熱いままの顔を上げて、口を開いた。
「ま、まだ答えは出せん」
その言葉は、答えを求めているヒサキにとっては、苦い思いであろう。
だが、許してくれ。
時間を、くれ。
しかし、ヒサキは優し気な声で言った。
「大丈夫。
時間をかけて、考えてくれていいんだ。
俺はいつまでも、待っているからね」
唖然とせざるを得なかった。
いつまでも待っている。
それは多大なる恐怖や苦しみが伴うのだ。
待ち続ける苦しみは、私には痛いほどに理解できた。
そこまで目前の優しげな馬鹿者は、私を強く想ってくれているのだ。
恥ずかしさで、比喩ではなく死にそうだった。
俯いたまま言った。
現状、その言葉だけで、精一杯なのだ。
早めに整理をつけて、結論を出す。
だから、許して欲しい。
それまで、待っていて欲しい。
「わ、わかった」
ヒサキにも思う所はあるだろうに、私を労るように微笑み、帰っていった。
まだ蒸気した頬をさすりながら、窓の外の月を見上げた。
その夜空に、これまでのヒサキとの思い出が映し出されたような気がした。
苦笑した。
出会いから衝突ばかりを繰り返してきたな。
やっと話せるようになれば、これか。
本当に奴は、私を驚かせるのが好きなようだな。
ふと思った。
ヒサキは、私に保護されたいのではなく、肩を合わせて共に歩きたかったのではないだろうか。
そう思えた。
先ほどの助けてやった時の恥ずかしそうな表情は、いまは苛立ちのように思えた。
それはそうだ。
好いている女に、助けられるなんてプライドが許さないだろう。
余計な事だったかと、苦笑しながらふと目を閉じた。
もしかしたら、初めの出会いから奴は私の事を。