嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その伍
—小林氷咲side—
むせ返る新緑の匂いが、肺一杯に広がる。
小鳥の囀りが耳に届いた。
晴れ渡る空は爽やかな蜜柑色を称えていた。
朝日が今、まさに昇ろうとしていた。
麻帆良に広がる早朝の森は、穏やかな様相を呈していた。
昨日までの鬱々しい胸のわだかまりが嘘のようだ。
周囲に屹立する木々の間を、走り抜ける。
皆の想いに報いるためにも、皆の支えに応えるためにも。
そう言った決意から、体力作りを始めたのだ。
勉学についても忘れてはならないが、やはり男たる者、体力の向上は必要不可欠ではないかと考えたからである。
皆に恥じぬように、真っ直ぐな素晴らしき人間になるのだ。
しかし、元々体力に自信はなかった。
少しの時間しか走っていないというのに、心臓が激しい鼓動を繰り返していた。
もはや乳酸が溜まっているとでも言うのだろうか。両足の動きが緩慢になっていた。
通気性を重視してジャージを着ているのだが、それでもなお、身体は発汗していた。
Tシャツが皮膚に張り付く感覚がした。
さながら大洪水の如き水害に見舞われているのだろう。
小刻みに息を吐き、リズムよく足を前後に動かし続けた。
前を向く顔の表情は、おおよそ引き攣っでもいるであろう。
苦しくはあったが、立ち止まる気は毛頭なかった。
自らの精神の脆さを、鍛えるためでもあるのだから。
それから程なくして、壮大なる大木が見えてきた。
さながら森の守り神のような神々しさを孕んでいた。
これは切りが良いと思った。
大木の根本で小休止と洒落込む事にしよう。
倒れ込むように座り込んだ。
肩で息を繰り返して、携帯していたスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
渇きが潤っていく。
純粋に美味しいと思えた。
これほどまでに美味しい飲み物があるのだろうか。
身体に水分が染み渡っていくような感覚が気持ち良かった。
弾む呼吸を整えて、頭上の大木を眺めた。
逞しい幹は、俺の胴回りの十倍ほどは有にあるだろう。
天にそびえ立つようなまでに思える背丈。
その雄々しさには、多大なる尊厳を感じて止まず、見惚れてしまう。
大自然とは、なんと尊大であり、厳かなのだろうか。
暫く、その様に癒された。
どれほどの時間が経っただろうか。
呆けていた意識が、ある音により覚醒を始めた。
なんの音、だろうか。
さながら風を切るような音が、聞こえた気がしたのだが。
頻りに、耳を澄ました。
今度は、明確に聞こえた。
風を切るような音が、鼓膜を震わせた。
不思議だった。
音がした方向に歩を進めた。
次第に音が大きくなっていく。異なる音も聞こえてきた。
いや、音ではない。
何かの声、だろうか。
木々の迷路を抜けるように進み、開けた場所が、その姿を現した。
物音の正体が判明した。
風を切る音は、刀を振るう音であった。
声は、その動作時の掛け声であったのだ。
徐々に青みが増していく空の真下、黙々と、それでいて真剣に刀を振るう少女。
それは桜咲さんだった。
俺は剣技には詳しくないが、素人目から見てもその妙技は美しく見えた。
刀を振るう度に、木々の葉が舞い落ちる。
その幻想じみた光景に、惚けるのを隠せはしなかった。
ふと、桜咲さんとの出会いを思い返した。
第一印象は、茶々丸さんのヤンデレストーカー。
しかし、それは愛情の方向性を間違えてしまっただけ。
第二印象は、歳相応に可愛らしく、一生懸命な少女となっていた。
感慨深く頷いてから、事のおかしさにやっと気づいた。
惚けていたためか、思考が上擦っていたようだ。
桜咲さんは真剣に刀を振るい続けていた。
刀が淡く輝いているように見えるが、目の錯覚であろう。
慣れない走り込みなどをしたための弊害だと思えるが、それはこの際どうでも良い。
強く、思えた。
いかん、いかんぞ。
人気のない森の中で、刀を振るっているとはいえだ。
これでは、確実に銃刀法違反ではないか。
この角度であると、後ろ姿でしか視認できないためどんな表情をしているかは分からない。
しかし、背中から儚さが漂っていたのだ。
それは何を指しているのか、直ぐに思い当たった。
間違えようがなかった。
極めて高い確率で、こうなのだと頷けた。
桜咲さんは再度、何かに思い悩んだのだ。
それが原因となり、ヤンデレ状態に陥っているのだろう。
思春期だからとは言え、ここまでの暴走ぶりには、彼女の並々ならぬ苦悩が伺い知れた。
風切り音と、威勢の良い掛け声が響き渡る。
未だに刀を捨てる決意は持てないのだろうか。
そう、考えた時であった。
焦燥心が、さながら暴れ狂うように騒いだ。
まさか、まさかとは思う。
思うが、再度これは、自らの命を断とうしているのではあるまいな。
いや、そうなのだろう。
それは彼女の背中から漂う、悲しみのような雰囲気が物語っていたのだ。
困った。
これは困ったぞ。
急を要する事態だと言えた。
内心、自らにその狂気を向けられるかも知れない。
そう言った、恐怖心はあるにはある。
しかし、しかしだ。
一応、見知った少女が悲しき結末を選ぼうとしている。
そんな選択肢を選ぼうとする様に、無視を決め込むような男にはなりたくなかった。
桜咲さんへと、静かに歩を進めた。
揺れる背中が、酷く小さく見えた。
奥深きその悲しみが、そう感じさせるのだろうか。
しかし強く言えた。
大丈夫。
こんなに愚かな俺だって、皆の想いに支えて貰い、立ち直る事ができた。
桜咲さんだって、立ち直れるはずなのだ。
もしも、支えてくれる友がいないのならば、微力ながら俺がなろうと思えた。
気配に気づかれたのだろうか。桜咲さんが勢いよく振り返った。
「誰だ!」
森に怒声が響き渡った。
静寂が訪れて、耳鳴りがつんざいた。
身体が竦み上がった。
しかし、微笑みを絶やしてはならないのだ。
安心して貰うために、極力優しい声をと心掛けた。
何にするにせよ、何事もまず挨拶からだ。
「おはよう、桜咲さん」
「こ、小林さん!」
桜咲さんの瞳の鋭さが、次第に弱まっていく。
唖然としたように、見開かれた。
安堵した。
俺を忘れては、いなかったようであった。
また自己紹介から始める事は、さすがに辛い。
「こんな朝も早くから、頑張っているんだね」
説得するには、相手を誉める事が大事と言えた。
気分を良くして貰い、何とかその狂気を鎮めて貰うのだ。
鎮まってからでなければ、説得も糞もないのである。
桜咲さんは聞こえていないのか、呆然としていた。
それもそうか。こちらは唐突に話しかけてしまったのだ。驚くのも致し方ないと言えよう。
感情は、極力、波立たせてはいけない。
今は待とう。
出来うる最大限の優しげな微笑みを向けて、彼女が口を開くのを待つのだ。
ほどなくして、桜咲さんが再起動した。
うろたえながら、それでいて照れを隠すように言った。
「は、はい。
鍛練は私の趣味でもありますし、これは私の存在意義と言っても過言ではないですから」
無理矢理、笑みを絶やさないように気をつけた。
内心はさながら、ナイアガラの滝の如く、涙が溢れそうになってはいたが。
桜咲さんは、こう言ったのだ。
刀を振るう事が、自らの唯一の存在意義だと。
これほどまでに悲しい話が、現実に存在していたとは。
目前の真剣な少女へと、視線を移した。
うら若き、可憐な少女。
普通ならば、恋愛や遊びなどに青春を謳歌すべき年頃の少女。
そんな一般的であるべきな少女の口から、自らには刀しかないとまで言わしめたのだ。
見当はつかない。
茶々丸さん関連のようだとは思われるが、定かではない。
しかし、一つだけ理解できた。
やはり、彼女の心は病み、終焉へと向かいつつあったようだ。
今日、走り込みをしようとして良かった。
していなければ、彼女の明日は、闇に閉ざされていたかも知れないのだ。
微かに目が滲むのを感じた。
だが、無理にでも何でも良い、微笑みを返した。
直ぐさま否定しようとしたが、その言葉を飲み下した。
現状俺は、桜咲さんの内情について雲を掴むかのように知り得ていない。
そんな男に知ったよう口を聞かれては、彼女は激しく憤ってしまうと思えたのだ。
当たり障りのない言葉だけを、笑みに乗せた。
「そうか。
ほどほどにね」
「心遣いありがとうございます。
ですが私は、強くならなければならないのです」
桜咲さんが有無を言わさぬとばかりに、答えた。
その瞳は強く、並々ならぬ狂気を感じた。
そこまで思いつめていたとは。
目頭が熱くなったが、無視を決め込んだ。
一刻を争う事態だと言えたからである。
多大なる焦燥心に駆られながらも、微笑みを返した。
直接的に説得するのは得策ではないが、遠回しに教えてあげるのはどうだろうか。
一般的な女子生徒の遊び方を紐解くのだ。
刀よりも楽しい事が沢山あるのだよと。
ふと、俺では力不足なのではないかと思えた。
しかし、しかしだ。
皆が俺を支えてくれたように、優しき想いを彼女にも。
そう、強く思えた。
「桜咲さんは、この後に用事でもある?」
「用事ですか?」
その言葉に頷きを返した。
「どうしてですか?」
桜咲さんが不思議そうに尋ねてきた。
出来うる満面の笑みを、心掛けた。
「暇ならば、街にでも遊びに行かないか?」
どうしてだろうか、桜咲さんの瞳が見開かれた。
沈黙が広がっていく。
涼しき春風が、木々の葉を揺らし小さな音を立てた。
彼女の唖然とした表情に、不安感が増した。
やはり俺では、役不足なのだろうか。
桜咲さんが唖然としたまま、口を開いた。
「そ、それは私に対して、言っているのですか?」
その言葉に苦笑してしまった。
「それはそうだよ。
森の中、二人しかいないじゃないか」
「ふ、二人で、ですか?」
「そうだね」
桜咲さんは未だに驚愕していた。
真剣な顔のまま、表情を隠さずに呟くように言った。
「私などで、良いんですか?」
その言葉が、胸に突き刺さったような感覚がした。
そこまで自らを卑下するほど、病んでいるとは。
即座に頷いた。
「当然だろう。
桜咲さんだからこそ、誘っているんだから」
喫茶店は騒々しかった。
オープンテラスという名称、だっただろうか。
テーブルが四つほど設置してあり、俺達のテーブル以外も、全て満席だった。
ストローで紅茶を啜り、桜咲さんへと笑みを向けた。
俺と同様に、こういう街中に率先して赴く事は少ないのであろう。
どこか窮屈そうに窺えた。
もしくは、俺を警戒しているのかも知れない。
それはそうだ。
知り合ったばかりの人と、簡単には打ち解けられないだろう。
その瞳は、暗い色を称えていた。
しかし嬉しき事もあった。
直ぐに戻ってはしまうが、時折、笑みを見せてくれるのだ。
森の中の顛末を思い返した。
私用があるため断わられた時には、力不足であったかと不安になってしまった。
しかし、諦める気は毛頭なかった。
それを選択したならば、桜咲さんの明日がどうなってしまうかわからなかったからだ。
半ば縋る思いで、携帯電話の番号を教えた。
連絡をと、告げて別れた。
部屋に戻り、悶々と連絡を待っていた
携帯電話が鳴り、恐る恐る液晶を見つめた。
桜咲さんであり、少しだけ安堵した。
昼過ぎから、目的地が原宿ならば可能らしい。
その目的地に関して、疑問には思えたが、深く尋ねる事はしなかった。
なぜなら、救われた気持ちになっていたからだ。
これで機会を得たのだと言えた。
病み苛まれるその苦悩を、解消させられる機会を。
駅前で合流して、電車に揺られた。
目的地に着き、自らの精神を叱咤する事になった。
一般的な女子生徒が、何をして遊んでいるか調べ忘れていたのだ。
これほどまでに最重要な部分を、調べ忘れていたとは。
困り果てた。
良く考えると、女子生徒と二人きりで街に遊びに来るのは初めてだった。
内心、止まぬ緊張感があったのだろう。
しかし現状、緊張感などに割く時間はない。
待たせるのは女性に失礼だと思えて、目に止まった喫茶店に向かった。
さすがは若者の街、原宿と言えよう。
俺の価値観が古いのだろうか。
歩道を練り歩く、艶やかな色の服装で着飾る若者達に、少々気圧され気味であった。
桜咲さんは着飾らずに、制服を着ていると言うのに、白いワイシャツなどを着ている俺は浮いてはいないだろうか。
少し不安に思えたが、心は穏やかだと言えた。
桜咲さんを連れ出す事に成功したからである。
毎日がお祭り騒ぎのようなこの街の喧騒が、その苛む心を癒してくれたらと願う。
いや、他人任せではいけない。
微力ではあるが、最大限の努力をしよう。
しかし、たった一日で心の闇を消し去ろうなど、不可能じみた事だと思えた。
そんな簡単に上手くいくのならば、こんな状況に陥ってはいないだろう。
皆が俺にしてくれたように、ゆっくりと時間をかけて、支えて行こうではないか。
喫茶店を後にして、休日の原宿を散策した。
桜咲さんが行き先を俺に任すと言うので困ったが、とりあえず本屋に向かわせて貰った。
せっかくであるから、興味津々だった小説を買いに行こう。
桜咲さんの携えている竹刀袋には刀が隠されているのだろう。
そんな彼女の非日常さには、普遍的な行いによる楽しさが必要だと思えた。
あわよくば、その刀を置く決意をしてくれたら。
購入して、裏路地をホクホク顔で歩いていると、桜咲さんが話しかけてきた。
「どのような本を買ったのですか?」
これは嬉しい事を聞いてくれる。
茶色の紙袋に包装された本を見せて説明した。
「これはね、ある天才詐欺師の生涯を追った小説だよ。
詐欺師と言えば、負の感情を抱くかも知れない。
だが、この主人公には隠された過去が……!ってやつ。
小説はまだまだ己は未熟なのだと、再確認させてくれる趣味だと言える」
桜咲さんが、はあと息を漏らして言った。
「詐欺師、ですか。
さすがですね。
小林さんのいとも簡単にやってみせる、人心を掌握する類い稀なる戦略。
それは、小説からも勉強なさっているのですね」
うん。
意味がわからない。
俺が、なんだと言うのだろうか。
いとも簡単に、人心を、掌握する戦略とは一体。
初めはネタか何かかと思えたが、その瞳は真剣そのものだ。
どうしてだろうか。
一つ思い当たった。
心が病んでいるために、妄想しているのだろう。
それならば否定をするのは逆効果だと思い、乾いた笑みで返しておいた。
胸が痛くなった。
桜咲さんが瞳を輝かせてこちらを見つめていたのだ。
それからCDショップや、ゲームセンター。
とりあえずでお決まりのスポットを回ってみた。
色々な趣向を織り交ぜたのは正解だったようだ。
彼女が微笑む時間が、次第に増えていったのだ。
愚かなる俺が、微力ながら楽しませてあげられる。
それが心地好くて、時を忘れるほどであった。
ふと気づいた。
広大な空が、青色から茜色へと移り変わっていたのだ。
この行動が、彼女にどういった影響を与えたかはわからない。
しかし、悪い方向性ではないだろうと思えた。
その口許に浮かべられた笑みが、楽しげだったからだ。
自らの行動は、間違ってはいなかったのだと示されているように感じた。
駅へ向かう際、歩道の脇に、露店が開かれていた。
無精髭を生やした恐面のおじさんが店主のようだ。
地面に広げられたシートの上に、シルバーアクセサリーが並べられていた。
輝く銀細工を眺めていると、ふとある事を思い出した。
それはネギくんの事であった。
明後日には、教師として修学旅行に赴くはずだ。
それだけならば構わないが、なんとその行き先は、あの京都であったのだ。
脳裏に、学園長が真剣なまでに語気を荒くした姿が再生された。
さながら聖書のモーゼの如く神々しき学園長が、並々ならぬ激情を表してまで忌み嫌う京都。
その場所に、ネギくんが向かってしまうのである。
楽観的には思うが、その近しき符号には嫌な予感がした。
その上、教師として生徒達を守り、立派に引率しなければならないのである。
勇気づけるためにも、アクセサリーを贈ってはどうだろうか。
支援する気持ちを、形に代えて贈るのだ。
己如きが力になるには、これくらいの方法しか浮かばなかった。
脳裏にネギくんが喜ぶ笑顔が展開されて、自然に笑えた。
「桜咲さん、少しばかり時間をくれないか?
シルバーアクセサリーを見たくてね」
「はい。構いませんが」
その言葉を聞いて、一つの銀細工を指で掴んだ。
それはチョーカーであり、広げられた両翼が形作られていた。
天使の翼を印象づけようとしているのだろう。
細工がきめ細かく、とてもこのおじさんが作ったとは思えなかった。
満足げに頷いた。
これならば首に掛けるだけであるし、大きさも手頃であるから邪魔にはならないだろう。
それにしても美しい。
輝きに吸い込まれてしまいそうになるのは、錯覚だろうか。
突如、音が聞こえなくなった。
銀細工越しに、おじさんの口がパクパクと開いているのが見えた。
声は聞こえなかったが、反射的に相槌を打っておいた。
程なくして、音が戻った。
不思議な現象だった。
しかし、気にするほどではないだろう。
購入しようとすると、背後から声が聞こえてきた。
「そ、それを買うのですか?」
桜咲さんだった。
どこか照れているように、頬をかいていた。
不思議だったが、照れが指すものを感じとれた。
おおよそ、桜咲さんもこの翼の銀細工の魅力に参っていた。
購入しようとしたが、財布が軽くなってしまい、お金を貸してくれとは言いずらいのだろう。
貸してあげよう。
いや、遊びに誘ったのはこちらなのである。
色々な場所に赴き、お金を使わせてしまった。
懐の思いは彼女のためとは言え、とは言えだ。
名目上、遊びに付き合って貰ったのは俺の方であった。
ならば感謝の印として、高い出費をしても自明の理と言えるだろう。
それに、お金の有意義な使い道が浮かばないのだ。
本やゲームや、教材などを買うくらいのものであった。
前々からゲーム機を買おうとは思っていたが、それは年々貯め込んでいたお年玉貯金から出せば良いだろう。
それならば先輩として、後輩の将来を支援するという目的も込めて銀細工を贈ろう。
天使が印象づけられる、銀の翼。
まさに桜咲さんの印象に類似しているではないか。
それにもう一つだけ、想いを込めよう。
下ばかり見て悩むのではなく、天使のように上空を羽ばたいてほしい。
気分は昂揚としていた。やはり銀細工か、予想以上に高かったが、二つ買い取った。
帰りの電車賃くらいは残っているから問題はない。
笑顔で振り返ると、そこに桜咲さんの姿はなかった。
歩道上の雑踏に目を凝らした。遠目に後ろ姿が確認できた。
贈ろうとしている意図を見抜いたため、恥ずかしがっているのだろう。
良い傾向だと思えた。
まるでその様は、一般的な女子生徒のそれではないか。
ビニール袋の中に手を入れて、一つだけ取り出した。
近づき、微笑んで銀細工を差し出した。
「今日、付き合ってくれたから。
感謝の印を贈るよ」
「い、いえ!
そのようなものを、受け取る訳にはいきません!」
やはり照れているのだろう。顔が真っ赤になっていた。
笑いながら、そんな一問答を繰り返した。
結果的に、俺の強い押しに負けたのだろう。何とか受け取って貰える事になった。
安堵の息を漏らして、銀細工を差し出した。
桜咲さんが怖ず怖ずと、それを指に掴んだ。
微笑みのまま眺めていると、不思議な事が起こった。
桜咲さんの視線が、掌に乗った銀細工を捉えた時の事だ。
唖然と固まったのだ。
初めは嬉しがっているだろうと思えた。
しかし、どうやら間違えているようだ。
如実に表情が一点したのだ。
表情に陰が差し、引き攣りを隠せないでいた。
広げられた翼が、好みではなかったのだろうか。
小柄な身体がどこか痛ましく思えて、恐る恐る、疑問を口にした。
「その翼は、好みではなかったかな?」
桜咲さんの目が見開かれて、息を呑んだ。
行き交う人達の雑音が、やけに印象的に聞こえた。
彼女が押し黙り俯いた。
どうしてだろうか。
検討はつかないが、悲しみが漂よっていた。
胸に鈍痛が響いた。
しかし恐怖心に負けぬように、彼女の悲しみを消し去れるように優しく微笑んだ。
「きみの印象が、輝く翼が良く映えると思えたんだ」
桜咲さんの表情が、苦虫を噛み潰したようしかめられた。
俯き、言った。
「……いえ、私の翼は美しくなどありません。
これは忌み嫌われる、醜い翼……」
一瞬、何を言っているのかがわからなかった。
私の翼とは一体。
頭を悩ませたが、直ぐに感づいた。
心を、翼と、置き換えたのだろう。
つまり、私の心は美しくなどない。
忌み嫌われる、醜い心だと彼女は言ったのだ。
誰かに口汚い言葉で、罵られたのだろうか。
その心の奥、深遠に潜む闇を垣間見たような気がした。
違う。
違うと強く言えた。
桜咲さんの心の翼は、美しく誇っても良いのだ。
全ては、方向性が悪かっただけである。
その純粋なまでの強き愛情は、誰でも持ち得るものではないのだから。
彼女の仕種全てが、儚く思えた。
揺れてしまっている瞳を定められるように、真正面から見つめた。
空が、薄暗くなり始めていた。
「醜くなどない。
その純粋なまでの美しき心、いや翼は、誇っても良いんだ。
方向性を間違えているだけ。
例え誰かに口汚く罵られたとしても、関係はない。
俺は、そう思っているんだ」
桜咲さんの瞳が、微かに滲んだような気がした。
—桜咲刹那side—
早朝の森に、声が響く。
仄かに白んできた空の下、無心で夕凪を振るっていた。
風を切る音が鳴り、木々から葉が舞い落ちた。
習慣になってしまったと錯覚するほどの、思考のざわめき。
停電の日の、夜以降から起こっていた。
まるで心に、磁気荒らしでも発生したのかと疑問に思うほど騒いで止まなかった。
いや、遠回しに言うのはよそう。原因の出所は、ここ数日で明確に理解できていた。
それはたった一つ、ある人物が流した涙。
普段ならば気にも止めない事柄だが、この場合に置いては、状況が違うと言えた。
その人物は魔の類であるのに関わらず、そこらの人間などよりも優しき小林さんだったからだ。
畏怖や尊敬を感じて止まない男性の瞳から、脆弱さを表す涙が流れたのだ。
しかし、その涙は美しく、衝撃的なまでに、私の心を激しく揺さぶった。
身もだえるような感動が身体を襲った。
素敵、だった。
それで終われば良かった。
だが、私の醜き心は、次第に負の感情を噴出させていった。
それは羨望の眼差し。
小林さんに、素顔を取り戻してみせたエヴァンジェリンさんに向けての。
私は、己にばかり必死で、小林さんの苦悩を理解しようとさえしなかった。
いや、力強き男性の象徴のような小林さんには、私のような脆弱な苦悩などはないと決めつけていたのだろう。
壮大なまでの器量から、優しく接してくれた大人のような人だと思い込んでいたのだ。
だが、それは違った。
それはそうだ。
不遇なる少年時代を過ごしてきたであろう事は明白だ。
私と同様か、それ以上の、熾烈なまでの苦悩はあったはずだ。
さすがに小林さんと言えど、私と歳一つしか変わらない青年だったのだと痛感した。
エヴァンジェリンさんは、その懐の深さでそれを見抜き、遺憾無く発揮した。
即座に救済するための行動を起こし、その苦悩を、いとも簡単に打ち破ったのだ。
長く、飽きてしまうほどの人生を生き抜いてきた女性の、器量なのだと思えた。
彼女に対しても、多大なる尊敬を感じざるを得なかった。
だが、心は裏腹だった。
その事実は、さながら轟き渦巻くように心を騒がせた。
どうしてかはわからない。
どうして、そう言った恥ずべき感情が表れるのかはわからなかった。
だが、数日が経ち、一つだけ理解できた。
私は、嫉妬していたのだ。
私は、羨んでいたのだ。
二人の間に、切っても切れないような関係や絆を、見せつけられたような気がして。
悶々とした日々は息苦しかった。後悔、のようなものに苛まれ続けた。
その度に、息苦しさを打ち払うかのように夕凪を振るった。
まるで心が、力の限り捩られているような痛み。
鍛練の一時だけは、逃れる事ができた。
だが、鍛練を終えた後。
学園生活を送っている時。
仕事に従事する時。
脳裏に小林さんの優しき笑みが浮かび上がる。
その涙が映像や写真となって展開された。
胸が痛んだ。
その心痛は、一昼夜として響き続けた。
お嬢様を守るためだけに、今の私は在る。
他の事など気にしている余裕はない。
そう、強く思い続けて、それらをやり過ごしてきた。
今日もそうだった。
息苦しさから逃れられるように、鍛練に従事していた。
身体が熱を帯びていくのを感じた。
黙々と夕凪を振り下ろした。
その時だった。
何者かの気配を感じ取ったのだ。
間違いだろうか。
いや、確かに感じた。
気配を感じとった方向へと、叫び声を上げた。
今の私は、優しくなれそうになかった。
もしお嬢様を狙う侵入者ならば、今の内に、覚悟しておいた方が良いだろう。
「誰だ!」
叫び声が、森に響き渡った。
何者かが、木々の間からこちらを見ていた。
その顔の造形を視認した時、私の身体の機能は、まるで電気が落ちたように停止した。
紛れもなく、小林さんその人だったからだ。
思考回路が驚愕に陥り、混迷としていた。
どうして、ここに。
なぜ、だろうか。
だが口許に浮かべられた優しげな微笑みが、こちらに向けられたものなのだと発覚した時だった。
何をしても、時間をかけても、止む事のなかった胸の痛みが、嘘のように消えていった。
それでいて、心の芯に暖かいものを感じとった。
「おはよう、桜咲さん」
優しげな声音が、春風に運ばれてきた。
小林さんが、初めて、私の名前を呼んだ。
その事実に、反射的に声が出た。
「こ、小林さん!」
未だに思考は混迷としていた。驚愕から、目は見開かれているだろう。
「こんな朝も早くから、頑張っているんだね」
これは、褒められた、のだろうか。
爆発的なまでの、昂揚感に癒されていくように感じた。
小林さんが優しげな微笑みをこちらに向けていた。
徐々に思考が収束し、定まっていく。
私の言葉を、待っているのだろうか。
これはいけない。
尊敬する人を待たせるなどもっての他だった。
酷く狼狽してはいたが、精一杯の答えを返した。
「は、はい。
鍛練は私の趣味でもありますし、これは私の存在意義と言っても過言ではないですから」
小林さんは、肯定してくれるように微笑んでくれた。
その澄んだ瞳が、こちらに向けられていた。
空に浮かぶような心地とは、この事だろうか。
ただ、微笑みかけてくれるだけで、これほどまでに心地好いとは。
だが心とは裏腹に、小林さんの涙が思い返された。
それと同時に、エヴァンジェリンさんとの絆の深さも思い返された。
昂揚感が、次第におさまっていく。
胸の痛みが、徐々に増していった。
「そうか。
ほどほどにね」
「心遣いありがとうございます。
ですが私は、強くならなければならないのです」
痛みに堪えながらも、面に出さぬように答えを返した。
だが激しき心痛故に、目が鋭くなってしまった。
「桜咲さんは、この後に用事でもある?」
「用事ですか?」
その問いは、不思議だった。
どう言った意図からの、問いなのだろうか。
「どうしてですか?」
次の小林さんの言葉に、再度、私の動きは停止した。
「暇ならば、街にでも遊びに行かないか?」
静寂が広がった。
涼しき春風が、木々の葉を揺らす小さな音だけが耳に届いた。
再度、思考回路が、混迷となった。
何を言って、いるのだろうか。
遊びに行かないか。
これは私に対しての、言葉なのだろうか。
酷くうろたえた。
「そ、それは私に対して、言っているのですか?」
小林さんが、当然だろうと言わないばかりに苦笑した。
「それはそうだよ。
森の中、二人しかいないじゃないか」
信じられない心地だった。
呟くように言った。
「ふ、二人で、ですか?」
「そうだね」
その返事は肯定。
胸の高鳴りを隠す事は不可能だった。
一言で表すならば、私は今、嬉しいのだと感じた。
だが脳裏に、最悪な文字が浮かび上がり落ち込んだ。
自らは忌み嫌われる禁忌。
そんな私に、小林さんと共にどこかに行くなどという行いが許されるのだろうか。
一つ、疑問が浮かんだ。
小林さんは、私が忌み嫌われるものだと知っている。
それを承知で、共に遊びに行きたいと言ってくれているのだろうか。
聞くのが、怖かった。
否定されたらと思うと、怖くて固まった。
だが結果的に恐怖心は、多大なる好奇心により打ち破られた。
「私などで、良いんですか?」
恐る恐る、見遣った。
小林さんは、即座に頷いてくれた。
「当然だろう。
桜咲さんだからこそ、誘っているんだから」
その言葉が矢となり、私の心を貫いたような感覚がした。
小林さんは言った。
私が、桜咲刹那だからこそ、誘ったのだと。
私の全てを認めて貰えたようで、純粋に嬉しかった。
そして思う。
その意図が、指し示すものはなんなのだろうか。
愚かな小娘であり、忌み嫌われる禁忌の象徴を、好意的に扱ってくれるとでも言うのだろうか。
小林さんの微笑みは、それを信じさせるに値した。
目が滲みそうになった。
余りに、嬉しすぎた。
私などが、こんな優しき言葉をかけられても良いのか。
直ぐさま肯定しようとした。
だが、口を開きかけて止まった。
私にはお嬢様の護衛という、命よりも大切である任務があるのだ。
だが、多大なる欲求。
小林さんと共に行きたいという感情も、大切に思えた。
どちらが大切かと問われれば、困り果ててしまうだろう。
存在意義と同価値だと高らかに言えるお嬢様。
私の全てを受け入れようとしてくれる小林さん。
私にとってその絆は、どちらもかけがえのないものなのだ。
深い思考の渦に囚われて、結論づけた。
護衛の任務の方を取ると。
それは私の中で、小林さんがお嬢様に劣る訳ではない。
ほんの微かに、お嬢様の方が勝っていたのだ。
胸が痛み、息苦しかった。
頭を下げて、誘いを断った。
だが、小林さんは諦める気はないとばかりに笑った。
電話番号が書かれた紙を渡して、去って行った。
その紙の、微かに感じる暖かさに思う。
どうして、これほどまでに優しく接してくれるのだろうか。
それは、同情からだろうか。
それでも、感謝で一杯だった。
ふと幻想じみた思想が首をもたげた。
もしかして。
まさか。
男女の関係。そう言った想いから来ているのではないだろうか。
まさか、小林さんは、私を。
顔が、身体が熱く、まるで沸騰しているようだった。
慌てて首を振って否定した。
小林さんはその多大な優しさ故に、私へと接してくれているだけだ。
このような妄想をするなど、彼に失礼な事だ。
だが、しかし、そんな妄想が思考を支配していた。
先程まで、小林さんの後ろ姿が視認できた木々の間には、空虚が漂っているだけだった。
こんな幸運が、私に訪れても良いのだろうか。
諦めざるを得ないと思っていた。
次第に高まっていく昂揚感を隠せなかった。
お嬢様がネギ先生と連れだって、原宿に赴くという情報が入ったからだ。
正に一石二鳥だと言えた。
原宿であるならば、二つの事柄を同時に行えるのだ。
小林さんと共に赴く目的地を、原宿にすれば良いだけだ。
お嬢様の魔力は、ある一定の距離であるならば感じられる。
小林さんと共にいても、その危機を察知する事は容易だし、駆け付ける事も容易なのだ。
だが、小林さんに断られてはそれまでだ。
携帯電話を持つ右手が震えていた。
小林さんは二つ返事で、快諾してくれた。
目的地をこちらで勝手に決めてしまったのにも関わらずだ。
やはり器量の大きなお方だと尊敬を隠せなかった。
話し終わると、ふと羞恥心が騒いだ。
良く考えれば、男性と二人で街中に行くなど、これはデートと呼ばれるものではないのかと思えたのだ。
初めてだった。
いや、小林さんはそうは思っていないかも知れない。
あそこまで私を誘う必死な姿に、勘違いしてしまいそうになる。
結論は出ないが、また問題が発生した。
こういう時は、どう言った服装が適切なのだろうか。
頭を捻っても、答えは出なかった。
悩み込み唸っていると、なんと早い事だろうか。時刻が迫ってきていたのだ。
遅刻する訳にはいかない。
致し方なく、普段身につけている制服にした。
この服装ならば、何度も見られているため恥ずかしくはなかったからだ。
足早に部屋を出た。
駅前で小林さんを見つけた時、自らの服装に深く後悔した。
小林さんが、お洒落をしていたからだ。
白いワイシャツにブラックジーンズという簡素な服装。
だが、彼の颯爽とした風体に良く映えていた。
普段と違う服装に、新鮮味と共に素敵に感じた。
後悔しても遅かった。
だが小林さんは、何事もなく微笑んでくれた。
安堵の息を漏らして、笑う事ができた。
電車に揺られている際も、緊張感は相変わらず身動きを止めていた。
小林さんが世間話しをしてくれるのだが、顔が引き攣ってしまい笑えなかった。
目的地の原宿に着いた。
駅前の雑踏は騒がしかった。
少々居心地が悪く感じたが、小林さんが男らしく先導してくれたため、気にはならなかった。
初めは喫茶店に行き、その後、休日の原宿を散策した。
行き先を問われたが、未だに残る緊張で頭が混乱して、困り果てた。
何とか任せますとだけ言うと、小林さんが任せろとばかりに頷いた。
私情で悪いんだけど、本屋はと問われたので、即座に肯定を頷きで返した。
本屋を出ると、裏路地を当てもなく歩いた。
小林さんの顔が喜びに満ちているのは、本を買ったためだろうと思えた。
どのような本を読むのだろうか。
興味から、質問してみた。
「どのような本を買ったのですか?」
茶色の紙袋に包装された本を、こちらに見せながら説明してくれた。
「これはね、ある天才詐欺師の生涯を追った小説だよ。
詐欺師と言えば、負の感情を抱くかも知れない。
だが、この主人公には隠された過去が……!ってやつ。
小説はまだまだ己は未熟なのだと、再確認させてくれる趣味だと言える」
私は、感嘆の息を漏らした。
詐欺師の小説。
詐欺師とは、人心を掌握し騙す人の事だ。
小林さんの戦略は全て善意からくるものだが、符号していた。
おおよそ、小説などからも戦略を磨いているのだろう。
「詐欺師、ですか。
さすがですね。
小林さんのいとも簡単にやってみせる、人心を掌握する類い稀なる戦略。
それは、小説からも勉強なさっているのですね」
小林さんが笑った。
それは肯定の返事だった。
些細な日常からでも、強くなるために学ぶべき事はあるのだと思い知らされた。
日々、自らの武器を磨く姿は、なんて素敵なのだろうか。
より一層の、尊敬を感じざるを得なかった。
それから小林さんの先導で、CDショップやゲームセンターなどを回った。
小林さんの楽しげな微笑みが見えるだけで、私の胸は高鳴り続けていた。
だがそれもそうだが、緊張感が解れてきているのだろうか。
徐々に話しかけたり、笑えるようになってきてた。
私が笑ったり、話しかけたりすると、小林さんが嬉しそうに笑ってくれるのだ。
それが、何よりも嬉しくて、自然に笑えていた。
楽しい時間とは早く過ぎるものだと聞いた事があった。
それは真実なのだと思えた。
ふと気づくと、空の色が、青色から茜色へと変化していたのだ。
先程、お嬢様は無事、麻帆良へと戻って行ったようだった。
安堵の息を漏らして、笑う事ができた。
名残惜しくはあったが、私も麻帆良に帰らねばならない。
小林さんに告げると、共に帰ると言ってくれた。
駅へ向かう際、歩道の脇に、露店が開かれていた。
店主らしき中年の男性が、客引きをしていた。
地面に広げられたシートの上に、銀色のアクセサリーが並べられていた。
小林さんが立ち止まって、それを眺め始めた。
不思議だったが、目を懲らしてやっと気づいた。
アクセサリーから、微かにだが魔力の波動が放たれているのを。
これほどまでに矮小な魔力を感じとれるとは、さすがに違うと思えた。
「桜咲さん、少しばかり時間をくれないか?
シルバーアクセサリーを見たくてね」
「はい。構いませんが」
二つ返事で、快諾した。
ここまで楽しませて頂いて、否などと言える訳がない。
頷くと、しゃがみ込んだ。
首飾りらしきものを、指で掴み上げた。
魅入られるように、見つめていた。
何らかの効力が付加されているのだろうと思えた。
店主が笑みを浮かべた。
「おう兄ちゃん。
一般人だと思ったら、それに気づくたぁ、あんた、ただもんじゃねぇーな?」
小林さんが首飾りを見つめたまま頷いた。
私は私で、当然だろうと、誇らしく思っていた。
「ん、なんだ?
そんなに見つめるたぁ、お嬢ちゃんへのフレゼントか?」
何を言い出すのかと思えたが、小林さんが頷きを返した。
唖然とした。
プレゼントしてくれるとでも言うのだろうか。
「なんだ恋人か、なにかか?」
「ち、違います!」
羞恥心から、即座に反論した。
だが内心、悪くは聞こえなかった。
不思議に思えた。
店主が歯を見せて笑った。
「ヘッヘッヘッ。
若いってのはいいなぁ。
なあ、兄ちゃん。
恋人じゃなくても、今はだろ?
先はわかんねぇーもんな」
「な!」
この店主は、先程から何を言い出すのだろうか。
小林さんにそのような発言は、失礼だと思わないのか。
注意するべきか悩んでいると、愕然とする事になった。
小林さんが、頷いたのだ。
それは肯定を表していた。
小林さんは、誇示したのだ。
今は恋人ではないが、先はわからないと。
それはつまり、私が恋人になり得る存在なのだと。
顔や身体中が、発熱を帯びていく。
好意がなければ、頷きはしないだろう。
つまり小林さんは、私へと、少なからず恋愛的な好意を持っているのだ。
思えば符号した。
小林さんは、出会いから今まで、極端なまでに優しかった。
それは、恋愛的な、好意の、裏返しだったとでも言うのか。
酷くうろたえながらも、嫌な気持ちにはならなかった。
というか、というかだ。
小林さんはなんて大胆な性格をしているのだろうか。
余りに恥ずかしくて、話しを変えてしまう。
「そ、それを買うのですか?」
振り返ると、小林さんには一切の照れがなかった。
口許に浮かべられた微笑みで肯定していた。
こ、この表情は、隠す必要がないという事なのか。
小林さんは、私の事が。
やはり、そう、だったのか。
頬が上気していくのを感じた。
現状、私の顔は真っ赤だろうと思えた。
見られたくなくて、少しだけ距離を取った。
一連の流れを反芻した。
気づくと、いつの間にか小林さんが首飾りを差し出していた。
「今日、付き合ってくれたから。
感謝の印を贈るよ」
「い、いえ!
そのようなものを、受け取る訳にはいきません!」
羞恥心から叫んでしまい、後悔した。
嫌われてしまったらと、怖くなった。
だが、小林さんは頑なに受け取るように勧め続けた。
恥ずかしくて断り続けてしまったが、結果的に受けとった。
小林さんの想いを無駄にしてはいけないと理由づけていた。
だがそれは違う。
私が、それを、欲しかっただけなのだ。
落として、傷つけないように細心の注意を払った。
私の中で、この首飾りは、もはや宝物となり得ていたからだ。
だが突如、事態は一転した。
首飾りの、銀であしらわれた部分を視認した時だった。
身体が固まった。
それは私に生える白い翼。
忌み嫌われる禁忌の翼に酷似していたからだった。
幼い頃の辛い思い出が、脳裏に展開した。
顔が引き攣って、息苦しさを感じた。
俯き、思考に囚われた。
小林さんは、私が禁忌なのだと知っている。
それに思い悩んでいる事も知っている。
ならば何故、こんなものを私に。
頭上から、声が降ってきた。
「その翼は、好みではなかったかな?」
唖然と息を呑んだ。
行き交う人達の雑音までもが、聞こえなくなった。
押し黙るように俯いた。
小林さんの意図が、理解できなかった。
翼が好みではなかったかと言ったのだ。
当然だと言えた。
この翼に、良い思い出などはない。
頭が混迷としていると、また声が降ってきた。
「きみの印象が、輝く翼が良く映えると思えたんだ」
言っている意味がわからなかった。
私の翼は、輝いてなどはいないのだ。
俯いたまま、呟くように言った。
「……いえ、私の翼は美しくなどありません。
これは忌み嫌われる、醜い翼……」
本心だった。
まるで心が、悲鳴を上げているように感じた。
小林さんはどうして。
俯いていると、小林さんの顔が目前に迫っていた。
私の目を、真正面から見つめようと覗き込んだのだ。
その瞳は真剣そのもので。
その声音は雄々しくて、優しくもあった。
「醜くなどない。
その純粋なまでの美しき心、いや翼は、誇っても良いんだ。
方向性を間違えているだけ。
例え誰かに口汚く罵られたとしても、関係はない。
俺は、そう思っているんだ」
その言葉だけが、鼓膜を震わせた。
他の音が、一切耳には届かなかった。
まるで心が、激しい竜巻のように感じた。暴風を受けたかのように震わされた。
私の目に、水分が浮かび上がるのを感じた。
小林さんは言ってくれたのだ。
私の翼は醜いという考え、それの方向性が間違っている。
その翼は純粋で美しく、誇っても良いものだ。
例え俺と同様に、口汚く罵られたとしてもそれは過去だ。
今は違うし関係ない。
俺だけはそう思っているのだ、と。
辺りが薄暗くなっていた。
小林さんは、私を応援するように微笑んでくれていた。
この壮大なまでの包容力を受けながら、思う。
未だに私は、過去を、割り切れそうにはない。
勇気がない。
だが、一つだけ言えた。
小林さんの前でだけならば、包み隠す事なく、素顔の自分でいられる様な気がしたのだ。
雑踏の騒々しさは好きではなかった。
だが、今は違う。
この人と一緒ならば、雑踏の騒々しさも心地好く感じられた。
私は深く頭を下げた。
何も言えなかったし、言える状態ではなかった。