嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その陸
—小林氷咲side—
朝日の頭が半分だけ、世界に現れていた。
空は蜜柑色に染められて、雲一つない快晴となるだろう。
早朝の住宅街に、人気はなかった。あると言えば、小鳥の囀りと軟らかい風が吹く音くらいのものである。
例外は、時折、早出出勤でもするのだろうか。中年男性とはすれ違ったが。
アスファルトを踏み込む音が、断続的に響いていた。
二日連続での走り込みという苦行に、身体が悲鳴の声を漏らしていた。
生来の体力不足が祟ったのであろう。
関節の至る所が、ギリギリと軋むように痛んだ。
しかし、涼しめの酸素を吸い込み、自然と笑えた。
痛みが気にならぬほど、軽快な心地となっていたからだろう。
ふいに桜咲さんの微笑みが、脳裏に浮かび上がった。
無我夢中で励まそうとする声が、彼女をそうさせたのかはわからない。
微かに滲む瞳を隠すように、微笑んでくれたのだ。
恥ずかしそうに頬を朱に染めて、さながら、心の底から表れたような微笑みで。
絶大なまでの破壊力だったと言えよう。
否応なしに、俺の涙腺は揺さぶられる事となった。
強烈なまでの感動に、身体が震えた。
彼女の過去に、どれほどまでの苦しい出来事が在ったのかは、想像もつかない。
自らを酷く卑下してしまうほどの苦悩なのだ。
俺とは比較になりそうもない、次元が違う段階での、悲しみだったのだろう。
しかし、彼女は前を向き歩く決意をしてくれたのである。
その生気溢れる所作が、物語っているように思えた。
さながら、一輪の花のように可憐で、素敵だった。
こんなにも愚かなる俺が、成し遂げられた。
少女の心の闇を、微力ではあるが、癒し支える事ができたのである。
それがどれだけ、途方もなく嬉しき事か、言葉では表現できそうになかった。
緩めの風を受けて、当てどもなく足を動かし続けた。
Tシャツが意思を持つならば、二日連続での水害に、今頃は怒り狂っているだろう。
苦笑を漏らしていると、前方の住居のT字路から人影がその姿を現した。
その人影はジャージ姿であり、次第に顔の造形が明らかになっていく。
見覚えがあった。
あれは神楽坂さんではないだろうか。
鈴の髪飾りが印象深い、心優しく可愛らしい少女である。
こんなに朝も早くからどうしたのだろうか。
彼女も走り込みかなにかだろうか。
不思議に思っていると、彼女がこちらに気づいたようだ。
俺は挨拶をしようと、頷いて手を挙げた。
小走りのまま、近寄って声をかけた。
「おはよう。
神楽坂さんも走り込み?」
神楽坂さんが面食らったように唖然とした後、どこか照れているように言った。
「お、おはようございます。
新聞配達の帰りです」
感嘆の息を漏らした。
まだ若いというのにも関わらず、労働に従事しているとは。
「まだ若いのに、偉いね。
俺も見習わなくてはだめだな」
神楽坂さんが照れているのだろう。頬をかいて苦笑した。
切りが良いと思えた。
現在地からの帰路は同様の方角であるし、このまま帰るとしよう。
どちらからともなく、並ぶように歩き出した。
彼女の表情は先ほどから、何かに照れているようであった。
周囲を見回したが、それらしきものは見当たらなかった。
彼女は思春期である。男にはわからぬ、事情があるのだろうと結論づけた。
疑問が口をついて出た。
「神楽坂さんはどうして、新聞配達のアルバイトをしているの?」
「は、はい。
私、子供の頃から、学園長に学費を出して貰ってるんです。
少ないけど、それを返すためにです」
その事実に唖然とした。
神楽坂さんは言ったのである。
子供の頃から、学園長に学費を出して貰っているのだと。
学費というものは一般的に、両親が払ってくれるものだ。
俺に至ってもそうであるし、その有り難い支援に応えるためにも、勉学に励んでいた。
それなのにどうして、学園長が神楽坂さんの学費を払ってくれているのだろうか。
神楽坂と近衛では、苗字も違うというのに。
好奇心から尋ねてみると、尊敬せざるを得ない事実が浮かび上がった。
要約すると、神楽坂さんは幼少の頃から、学園長の保護を受けていたのである。
だからこそ、学費も払って貰っていたのだ。
神楽坂さんは言った。
お世話になりっぱなしでは申し訳ないと新聞配達を始めたのだと。
神楽坂さんが保護を受けている理由については、深く聞かなかった。
聞いてはならない事柄のように思えたからである。
親戚だからなどの原因であれば良いが、両親が他界している孤児だったりしたならば、悲しき過去を思い返させてしまうからだ。
独りでに、深い感嘆の息が漏れ出た。
神楽坂さんは、やはり清く正しい少女であった。
微細であろうとも、受けた恩を返そうと頑張るその姿勢。
健気な心意気は、なんと素敵な事だろうか。
俺も見習わねばならないと、素直に思えた。
というか、というかである。
学園長という素晴らしきお方は、どこまでその器量をまざまざと見せつければ気がすむのだろうか。
尊敬などと、軽い言葉で表すような騒ぎではない。
心の中に、学園長の暖かな笑みが浮かんだ。
身体から放たれる神々しいまでの雰囲気は、さながら森羅万象の神々と等しくあった。
民家の間の道路を、ゆったりと歩く。
家屋の屋根で雀が可愛らしく鳴いているのを聞きながら、深く頷いた。
無言で歩く神楽坂さんを見遣った。
その無言から、やはり言いたくない事を言わせてしまったようだ。
空気を変えようと、話題を変えた。
「そういえば、ネギくんが担任の教師だったよね?
ネギくんの調子はどうなの?」
唐突に話題を変えたからだろうか。神楽坂さんが一瞬唖然としたが、言った。
「子供の癖に格好ばかりつけるから、困ってるんですよ。
失敗してばかりですし」
神楽坂さんが苦笑した。
その苦笑は、さながら弟を想う姉のように素敵であった。
本当に子供が好きなんだなと、自然に笑えた。
「真面目だからかな。
頑張ろうとすればするほど、泥沼にはまっていくみたいな」
「うーん。
まあ、そんな感じですね。
でも私は高畑先生の方が良かったんですけど」
その言葉で思い出した。
そうか。
高畑先生が何らかの理由から担任の座を下りたと聞いていたが、それはネギくんにその座を譲ったからだったのか。
譲った理由に関しては検討もつかないが、それは善意からくるものなのだろう。
なにせ尊敬して止まない学園長と高畑先生が決めただろう事であるからだ。
プロレスごっこ停学事件の暖かき顛末が、さしもの先ほどのように思い返された。
それと共に、憧れてしまうほどの、高畑先生の爽やかな微笑みが浮かんだ。
颯爽と煙草の煙りを吐き出す姿は、格好が良すぎた。
元々煙草の匂いには好意的ではないのだが、それさえ好意的に感じられた。
「ネギくんはまだ幼いからね。これからだよ。
でも、高畑先生の境地に立つにはまだまだ努力が必要だ。
男が惚れる男とでも言うのかな。あの落ち着きは、一朝一夕で身につくものではないしね。
だけど俺は、ネギくんならば到達できると信じているよ」
「そうですよね!
高畑先生はやっぱり落ち着いてて、カッコいいですよね!」
神楽坂さんが突如、満面の笑みで、さながら鬼気迫るように返してきた。
一瞬、面食らったが、その意見に頷きを返した。
「ああ。
恥ずかしながら俺も、高畑先生には、お世話になっていてね。
堂々として落ち着き払った風体、そして、大海原の如き広大なまでの器量。
将来は高畑先生のような、違いの理解る男になりたいね。
憧れを隠す事ができそうにないよ」
頭上高く展開する青空。その広大さと高畑先生の器量が繋がったように思えた。
噛み締めるように小刻みに頷いた。
ふと神楽坂さんを見遣ると、どうしてか、顔色が赤くなっているのに気づいた。
不思議に思っていると、神楽坂さんが俯くように言った。
「な、なれますよ。
こ、小林先輩なら」
その言葉は、素直に嬉しかった。
お世辞だとは思われるが、昂揚する気持ちを隠せなかった。
「そうかな?」
「はい」
神楽坂さんが、恥ずかしそうに微笑んでくれた。
それから、高畑先生や学園長の素晴らしさについて、熱弁を振るわせて貰った。
神楽坂さんも同意見のようで、打ち解け合うのに時間はかからなかった。
途中、神楽坂さんが誕生日をクラスメイトに祝って貰ったのだと照れながら言っていた。
自分の事のように嬉しくなった。
彼女はクラスメイトから良く想われているのだと理解できたからである。
一日早い誕生日を祝って貰ったという言葉から推測すると、今日が神楽坂さんの誕生日のようである。
これはめでたいと言えた。
しかし、祝いの贈り物を用意していない事に心苦しくなった。
何か彼女に贈る品はないだろうか。
幼い頃から不遇なる時間を過ごしてきたであろう彼女を、喜ばせてあげられる品物は。
ふとその時、上着のポケットが膨らんでいる事に気づいた。
そうだった。
修学旅行は明日、火曜日の早朝に京都に向かうらしい事を知り、いつネギくんに出会えても良いように携帯していたのだった。
そう。
銀で両翼が形取られたチョーカーである。
ネギくんに贈る品ではあったのだが、神楽坂さんの誕生日を祝い贈ってはどうだろうか。
ネギくんには申し訳ないが、何か違う品物を贈れば事足りるだろう。
ポケットから、黒色の袋に包まれた品物を取り出した。
唐突に立ち止まった俺を、神楽坂さんが不思議そうに見つめていた。
穏やかな風を受けながら、微笑んで差し出した。
「神楽坂さん。
誕生日おめでとう。
こんな品物しかないんだけど、受け取って貰えると嬉しい」
神楽坂さんの唖然とした表情に、苦笑を隠せなかった。
—神楽坂明日菜side—
朝日が、ほんの少しだけ頭を出していた。
空が朝焼けに染められて、眺めるだけでも良い気持ちと感じられた。
早朝の住宅街は、人気が余りない。小鳥の鳴き声と涼しめ風が吹く音くらいだった。
新聞配達からの帰り道。身体のほどよい疲れが、朝の始まりを感じさせた。
朝食を待ちきれないんだろう。お腹の虫が小さく鳴いていた。
前方の住居のT字路から、人影が確認できた。
格好はジャージ姿だ。多分、ランニングでもしているのだろうと思えた。
徐々に顔の造形が明らかになっていく。
それは見知らぬ少年だった。
だけど、その細めの身体や立ち振る舞いにある違和感を覚えていた。
見覚えがあるような感覚が、脳内を騒がせていたからだ。
記憶を探ってみたけど、どうしても思い出す事はできなかった。
目を細めて、確認した。
知り合いに、こんな少年がいただろうか。
不思議に思っていると、少年がこちらに気づいたようだ。
頷いてから、私へと手を挙げた。小走りのままで、走り寄ってきた。
「おはよう。
神楽坂さんも走り込み?」
余りのフレンドリーさに、面食らってしまった。
誰だろうかと頭を悩ませたが、気づく事ができた。
この優しげな声音は、小林先輩のものと似ていたからだ。
ふと脳裏に、停電の夜が思い返された。
初めての戦い。
私は、ほぼ、何もする事はできなかった。
ネギはエヴァちゃんと戦い、私は茶々丸さんを止める事に必死だったからだ。
だけど、結果的に私達は勝った。
ある一人の、青年の手によってだけど。
先ほど起こったかと錯覚するほどの光景が、鮮明に浮かび上がった。
茶々丸さんの動きが止まったのを不思議に思い、視線を辿っていくといた。
闇が支配する上空に、死神紛いの人物は突如、不敵にも、大きな月を背景に出現した。
ローブから紫色のオーラを撒き散らし、淡い輝きを放つ大きな鎌を用いて終わりを告げた。
そう、小林先輩その人だ。
その実力の違いを見せつけられた早業に、まるで漫画のような光景だと見惚れた。
戦うのに必死だった私達と、一瞬で勝負を決めた青年。
その違いは、明らかだと言えたからだ。
敵のエヴァちゃんを、果敢にも助けようとする姿には、尊敬と共に感動した。
難しい事はわからないし、理由については雲を掴むようにわからなかった。
だけど、その頬に伝った雫の美しさには魅入られるように見つめてしまった。
小林先輩が、たった一つだけ年上の先輩だと聞いた時には、愕然としてしまったけど。
思考をやめて思う。
目の前の普通すぎる少年と、あの夜の小林先輩が同一人物だとはとても思えなかった。
印象や雰囲気が、余りに違いすぎたからだ。
頭を悩ましたけど、視界にその目許が映り込むと、ある記憶と符号した。
少年の目許が、ローブに隠されていた目許と繋がったからだ。
似ているとかのレベルではなかった。
私にはわかる。
これは優しき小林先輩の目許だと。
なぜなら、異常なほど間近でその目許を見ていたんだから。
お姫様抱っこ状態のまま、夜空を飛んだ時の感触を、未だに身体は覚えていた。
突如、顔から火が出たかと錯覚するほどに熱くなった。
押し隠すように、反射的に声を返した。
「お、おはようございます。
新聞配達の帰りです」
小林先輩が深く頷いて、微笑んだ。
それを眺めながら、印象が違いすぎるわよと心の中で呟いた。
死神紛いの姿の小林先輩は、優しさは同様だけど、まるで牙を隠し持つ獅子のような雄々しさを孕んでいた。
だけど目前の小林先輩は、穏やかで、まるで草食動物のような暖かさを感じた。
これは、ある種詐欺ねと思っていると、小林先輩が言った。
「まだ若いのに、偉いね。
俺も見習わなくてはだめだな」
余り褒められる事には慣れていなかった。
何も言えなくなったが、照れ隠しに頷きだけは返した。
どちらからともなく、並ぶように歩き出した。
無言のままだったが、どうしてだろう。どこか暖かい気持ちになれていた。
また唐突にも脳裏に、お姫様抱っこが思い返された。
熱を隠そうと俯いた時に、答えに気づけた。
繋がったからだ。
それは多分、包容力からだろうと思えた。
小林先輩の身体から溢れて止まない包容力が、そうさせているんだと実感した。
本当に頼りになる人だと、尊敬を隠せなかった。
小林先輩を覗き見ると、あの夜と同じで、その横顔は凛々しくも穏やかだった。
見つめていると、こちらにその微笑みを向けてきた。
「神楽坂さんはどうして、新聞配達のアルバイトをしているの?」
恥ずかしくなり、目を反らした。
見つめていたのがバレていたかも知れないと、矢継ぎ早に答えを返した。
「は、はい。
私、子供の頃から、学園長に学費を出して貰ってるんです。
少ないけど、それを返すためにです」
小林先輩がどうしてか、唖然としたように黙り込んだ。
静寂が辺りに広がっていく。だけど、心地好かった。
民家の間の道路を、ゆったりと歩く。
電線に停まった雀が、仲間を呼ぶように鳴いていた。
小林先輩が頷いて、こちらに微笑みかけてきた。
沈黙とは、心苦しいものだと思っていたけど間違いだった。
ある感情を持つ人物と一緒ならば、心地好いものなんだ。
それは、信頼感。
思えば符号した。
高畑先生に話しかけられた時、穴があったら入りたいと思うほど恥ずかしくなる。
だけど、どこか安心して心地好い気持ちになっていたように思えた。
ふと、思えた。
停電の夜以降。
私は小林先輩を、自分で思うよりも強く、信頼しているようだった。
兄がいるならばこんな感覚なのだろうと、そんな幻想に浸ってしまう。
小林先輩の微笑みで、意識が覚醒した。
「そういえば、ネギくんが担任の教師だったよね?
ネギくんの調子はどうなの?」
唐突な言葉と、唐突な話題の変化に、一瞬だけ唖然としてしまった。
何とか気を取り直すと、馬鹿なほど生真面目なネギの顔が浮かんできた。
まだ子供だと言うのにも関わらず、大人ぶる事だけは一人前なんだから。
「子供の癖に格好ばかりつけるから、困ってるんですよ。
失敗してばかりですし」
苦笑をしながら言った。
小林先輩も吊られるように苦笑した。
「真面目だからかな。
頑張ろうとすればするほど、泥沼にはまっていくみたいな」
その声音は、さながら弟を想う兄のように優しかった。
ネギを良く理解していて、見守ろうとしてくれる意思が、明確に感じられた。
「うーん。
まあ、そんな感じですね。
でも私は高畑先生の方が良かったんですけど」
最後に一つだけ、ぽつりと本音がこぼれた。
ネギも小さいなりに頑張ってはいるとは思う。
だけど、私的にはやっぱり高畑先生の方が良かった。
終わった事だから、もう何も思ってはいないけど。
「ネギくんはまだ幼いからね。これからだよ。
でも、高畑先生の境地に立つにはまだまだ努力が必要だ。
男が惚れる男とでも言うのかな。あの落ち着きは、一朝一夕で身につくものではないしね。
だけど俺は、ネギくんならば到達できると信じているよ」
その言葉には、ネギを信じる優しさが満ち溢れていた。
そして、何よりも高畑先生を褒めてくれる事に嬉しくなった。
男が惚れる男、か。
なんて知的で、素敵な言葉なんだろうか。
私が尊敬してしまうほどの小林先輩の瞳にも、高畑先生は格好良く映っている。
高畑先生は、なんて凄い人なんだろうか。
胸の奥が、沸き起こる昂揚感に騒いだ。
「そうですよね!
高畑先生はやっぱり落ち着いてて、カッコいいですよね!」
小林先輩が唖然としていた。
それはそうだ。
私の叫び声は、静かな住宅街にこだましていたんだから。
恥ずかしさから、顔が熱くなっていく。
だけど小林先輩は、それを突かなかった。
何事もなかったかのように、微笑みを浮かべて頷きを返してくれた。
その優しさは、高畑先生に繋がったように思えた。
「ああ。
恥ずかしながら俺も、高畑先生には、お世話になっていてね。
堂々として落ち着き払った風体、そして、大海原の如き広大なまでの器量。
将来は高畑先生のような、違いの理解る男になりたいね。
憧れを隠す事ができそうにないよ」
頭上高く展開する青空の下、その言葉が、胸の奥をより一層騒がせた。
そこまで尊敬される高畑先生が、誇らしく思えたんだ。
小林先輩は言った。
将来は高畑先生のような違いの理解る男になりたいと。
噛み締めるように小刻みに頷く様は、全て本心からだと物語っていた。
まるで、映画の中の、壮大なまでの夢を語る少年のように素敵に見えた。
顔や身体の熱が、上昇していった。
押し隠すように俯いて、強く思う。
小林先輩ならば、将来高畑先生のような渋くて優しい男性になれると。
いや、その若さでそれだけの落ち着きや包容力を持っているんだ。
私の位置づけでは、さすがに高畑先生には及ばないけど、二番目くらいに格好いい男性となっていた。
心からの言葉が、口をついて出た。
「な、なれますよ。
こ、小林先輩なら」
照れから、声量が小さくなってしまった。
小林先輩には届いたようで、嬉しそうな笑みを見せた。
「そうかな?」
「はい」
即座に頷きを返した。
互いに、自然な笑みを向け合った。
それから小林先輩が、高畑先生や学園長の素晴らしさについての熱弁を振るっていた。
途中、小林先輩がふざけたんだろう。
学園長をお釈迦様と見間違えたとか、背中から後光が滲んで見えて合掌しそうになったと言っていた。
しかもその表情の真面目さが壷にはまった。
さも嘘ではないとばかりに言うので、堪えられずに吹き出してしまった。
本当に面白い人だ。
私は終始、笑いがおさまりそうになかった。
まるで、旧知の仲のように打ち解け合えた。
嬉しかった出来事を、聞いて貰った。
昨日、クラスメイトに誕生日を祝って貰った事だ。
小林先輩は、まるで自分の事のように嬉しがってくれた。
神楽坂さんは人望があるんだねとの言葉には、慌てて首を振ったけど、嬉しさを隠せなかった。
その後の事だ。
突如、小林先輩が立ち止まり、考え込むように唸った。
私は私で、突然の事に固まっていた。
また唐突に小林先輩が、花が咲くように微笑んだ事に唖然とした。
それからの顛末には驚きを隠す事はできなかった。
上着のポケットから黒色の何かを取り出すと、こちらに差し出した。
「神楽坂さん。
誕生日おめでとう。
こんな品物しかないんだけど、受け取って貰えると嬉しい」
穏やかな風が、頬に触れて消えたように感じた。
驚愕に目が点となっているだろう。
言葉をかみ砕くに、誕生日プレゼントをくれるとでも言うんだろうか。
突然だったのに関わらず、私のために。
頭が混迷となりながらも、爆発的なまでに嬉しくなった。
小林先輩が苦笑を漏らして、優しげな瞳でこちらを見つめていた。
—ある日の淫猥なるケモノ—
四月二十二日。火曜日。
俺は今、京都に向かう新幹線に揺られるネギの兄貴の懐で、この日記を記している。
ネギの兄貴が何度も心配そうに尋ねてくるが、打ち明ける事はできそうにない。
打ち明ければそれまで。
非情にも、口を糸で縫い付けられるという残虐な刑を執行されてしまうからだ。
懐から執行人の姿を恐る恐る見遣った。
おぞましき微笑みが、逃がさないとばかりにこちらに向けられていた。
震え上がる身体を叱咤して、この日記にだけは事実を残そうと思う。
願わくばこの日記が誰の目にも留まらぬように。
今から約八時間ほど前の、幽霊も眠る真夜中の事だった。
俺は寝床で、コレクションの中から選りすぐった品々と共に眠りについていた。
だがふと、どこかから光りを感じて目を覚ましたんだ。
薄暗い部屋を見回した。
すると、洗面所から光りが漏れているじゃないか。
不思議に思い、部屋の人数を確認した。
一人、二人、三人目がいない。
姐さんの姿が、どこにも見当たらないじゃないか。
注視してみても、ベッドには兄貴しかいないんだ。
という事は、あの光りの元には姐さんがいると言う事になる。
だが、姐さんがこんな真夜中に起きる事は珍しい。
わざわざ深夜にだし、まるで人目を気にして隠れているようではないか。
俺は軽い気持ちで、特ダネの臭いがプンプンするぜとニヤリと笑った。
即座にサングラスをかけると、現場に向かった。
この行為が、取り返しのつかない悲劇を産んでしまうとは思いもよらなかった。
気取られぬように、細心の注意を払った。
そして俺は、その光景に驚愕する事になった。
ポカンと口が開くとは、この事だろうと思えた。
そこに、いたんだ。
パジャマ姿の姐さんが。
しかも、鏡を覗き込むようにニヤニヤと笑っていた。
その様はまるで、戦後最大の事件と高らかに言えたぜ。
少々、気色が悪く思えて、身震いした。
凝視していると、ある事に気づいた。
姐さんの首に、アクセサリーのようなものがかけられているのをだ。
それは首飾りのようだった。
この嬉々とした表情を見るに、これではまるで、恋人からプレゼントを貰った乙女のようではないか。
その推察に、独りでに口が開いていくのを感じた。
「ま、まさか鬼のように怖い姐さんに恋人が……。
い、いやそれは有り得ねぇー……。
だ、だがしかし、まるで乙女のような振る舞いじゃねぇーか……」
今の心境ならば、さながら明日世界が滅亡すると言われても信じる事ができただろう。
固まりながらも、これは良い特ダネだと満足していた。
しかし、それは油断という名の過ちとなった。
なぜ、口を開いてしまったのか。
なぜ、即座に逃げようとしなかったのか。
悔やんでも、もう遅い。
眼前には、本当に世界が滅亡するかも知れない事態が展開していたからだ。
姐さんが他の誰でもない。
俺を見つめて微笑んでいたんだ。
まさに、氷を彷彿とさせる微笑だった。
瞬時に血の気が引いていった。とめどない脂汗が浮かんでは流れていった。
さながら、真祖の吸血鬼に睨まれたかのように、微塵も身体が動く気配はなかった。
姐さんの口が、静かに開いていく。
その様は、死刑判決を言い渡す裁判官のようだった。
「……誰かに話せないように、あんたの口を糸で縫い付けてあげましょうか?」
次第に世界が暗転していく。
俺の記憶はそこで、プツリと途絶えた。
長い幕間も終わり、次話で物語りが動きます。