一体全体、意味がわからない——裏その弐
—クウネルside—
「ほう……昨夜に、そのような出来事が起こっていたのですか。
そして、あなたは、それを演劇の練習だと捉えていると」
味わい深き茶店に、男達の談笑の声が響いています。
私は口許に笑みを形作ると、もう一度、念を押すように聞き返しました。
するとヒサキくんは、さも不思議だというように眉根を細めます。
不安と訝しみが、交錯したかのような口調で言いました。
「ええ、そう捉えましたが。
どこか、おかしな点でもありましたか?」
私は内心で、深く頷きました。
彼の背後の方向。開け放たれたままの出入り口から、涼風が滑らかに入り込んで来ています。
彼の黒い猫毛の先端が、こちらに向かって揺れる。緑の仄かな香りと彼特有の爽やかさが混じり合い、存在感を際立てているように思えました。
出入り口に少しだけ確認出来る人影、機械の少女。真祖の吸血鬼の従者。
肩口に斜陽が差して、微動だにしないその背中。無言の吐露。心境。
自然に、ああ、と納得していました。
やはり、似ている、と。
私は、あの期間、教えられたのです。
ごく自然な、自然過ぎる善意には、誰しもが抗う事など出来ないのだ、と。
打算なき姿勢。それは、強者になればなるほど、人知を超えて行けば行くほどに、反比例に消えて行く運命。
それを、彼は持ち得てしまっている。
その淡い閃光は、まるで、月光のように不毛の地を照らす。
大渦に飲み込まれた、人々。思想。疑問。
強者だというのに、どうして。
不遇の生い立ちなのに、どうして。
本来、弱者にしか持ち得ない思想なはずなのに。消えてしまうはずの純真、だというのに、あなたはどうして。
相対してみると、深く頷けます。
彼の存在は、得てして罪、なのだ、と。
勘違いにより、彩られてしまった奇跡。
それはあのサウザンドマスターのように、それはあの盟友のように。
世界に選ばれし者だけが持ち得る奇跡、なのでしょう。
再度、その身を世界から選ばれてしまった少年へと、微笑みを向けます。
その揺れる瞳を、正常へと戻さなければなりませんので。
「いえ、違いません。
それは、演劇の練習で間違いないでしょう。
どれだけ考えて見ても、演劇以外のなにものでもないと断言出来ます」
テーブル上には、ヨモギの串団子が大皿にうず高く積み上がっています。
互いの手元にある湯のみからは、立ち上る暖かな湯気、濃厚な日本独特の香りが鼻孔をくすぐりました。
心に染み入る穏やかさはまるで、心が洗われていくように思えました。
ふと、視線を彼へと向けました。
澄み切った黒色の瞳と、ぶつかり合います。
映し出す色は、清い川のせせらぎを彷彿とさせていました。
内心で、呟きました。
事のほか、そうでもなかったようですね、と。
京都では最早、小林氷咲くんという、ある種、暴風が吹き荒れているばかりだとふんでいたのですが。
ですが、まだまだ、京都は始まったばかりだと言えます。彼に、予断を許してはなりません。
現状は、ただの、つむじ風だとしても、です。
局面を経て、蒔かれた種が実を結び、それが開花、暴風雨となる可能性もあるのですから。
いえ、断言出来ます。
結果的に、私は驚愕に目を見開くだろうと容易に想像がつきました。
杞憂と、消えるのでしょうね。
生来の、勘違いという名の奇跡。その脈動が、その流れる血潮が、この程度で止まるはずがないのですから。
深き思考の渦に、囚われてしまっていたようです。
ヒサキくんが、微笑みを浮かべて言いました。
「やはり、そうですよね。
ここは京都。恐ろしき冥界と言えども、そう簡単に誘拐事件が起きては警察官の皆さんも困るでしょうから」
独りでに、疑問が口をついて出ました。
私らしくありませんね。
会話の最中だというのにも関わらず、没頭してしまっていた弊害、と言えるのでしょうか。
「冥界とは一体……?」
ヒサキくんが、ふいに首を傾げます。そして、ある興味深い言葉を漏らしました。
どこか、不安にこもるくぐもった声音で。
「冥界、ですか。
学園長が京都は悪が跋扈する街だと仰っていましたので、そのように形容させて頂いたのですが……。
何か、おかしな点でも……」
私は弾かれるように、肯定の声を返しました。
聞き慣れない冥界、との言葉に内心、面食らってはいましたが。
「いえ、おかしな点などはありません。
私の無知が原因です。何やら聞き慣れない言葉だったもので、少々、不可解に感じてしまったのです」
ヒサキくんが、得心が入ったという風に笑います。
「ああ、そうですか。
いえいえ、ご謙遜を。僕の方こそがまだまだ、未熟者なんですから」
疑問は尽きませんが、顔を見合わせて笑い合います。
悪が跋扈する街、京都。学園長がそう言っていた。
その文章が脳内で、カタカナに変換されて流れ行く中、ヒサキくんは串団子を一本つまみました。
穏やかな気候に包まれながら、内心で呟きました。
ヒサキくん、一言だけ、良いでしょうか。
どうしてそうなった。
そういった疑問は、問いは、湯水のように湧いてきては尽きません。
尽きませんが、歓談は長く続く事となりました。
会話を重ねる内に、私はある意思を感じさせられる事となっていました。
それは、彼の内にある、並々ならぬ学園長を崇拝しなければならないという意思、でした。
その心を比喩するのならば、正に狂気、と呼んでも差し支えないでしょう。
狂気、じみた思想。
私の胸には、どうしてそうなった。どのようにしてそうなっていったのか、という思いが去来していました。
本当に、四六時中として問いたいほどの、疑問は尽きません。
ですが、彼の中で最早、学園長という存在は、天地創造の神ランクとして崇められているようでした。
彼の口から飛び出た狂気を、順を追って羅列して行きましょう。
世界樹は切り倒すべきもの。なぜならば、近右衛門寺院という、仏閣をつくらなければならないから。
年に一度、いや、月に一度、いや、月に一度では生ぬるい。
週に一度は、近右衛門祭りを開かなければ日本男児とは言えない。
国内は、些か心許ないが、許容出来る範囲だ。
だが、学園長の威光を世に知らしめるためには、国外にも目を向けて行かなければならない。
そう、ヒサキくんは淡々と、それでいて、燃え盛るような瞳で力説していくのですから。
私は終始、目が点となっていた事でしょう。
この私が、理解に苦しみました。何が何やらとなってしまったとしても、致し方ない事でした。
ですが私は、独りでに肯定を頷きで返していました。
その声音を聞いていると、頷かなければならないような観念に駆られるのです。
まるで心が、導かれるようでいて、囚われていくように。
それから、気を取り直す事に成功した私は、流れを引き戻すための一手を指しました。
それはヒサキくんも良く知り得ている、ある少女の話題でした。
彼女について知る事が出来たのが、事のほか、嬉しいのでしょう。
ヒサキくんは終始、笑顔で相槌を打っていました。
どうやら、幾ばくかの主導権を握る事に成功したようです。
茶店全体が、和やかな雰囲気に覆われていくように思えました。
その最中、私は、意志を持ち問いかけました。
やはり自称とはいえ、幼女吸血鬼さんをいじる者としては、聞いて置かなければならない事柄だったからです。
「あなたは、彼女の事をどう思っているのですか?」
単刀直入。答えてくれるかは、わかりません。
ですがヒサキくんには、こういった言い回しが有効ではないかと思えていたのです。
ストレートでいて、穿った問い。
唐突にも、ヒサキくんは驚いたように目を見開きました。
有無を言わさない、緊迫した空気が広がっていきます。
どのような、答えを聞けるのか。
騒ぐ好奇心を押さえるために、一口、お茶を含みました。
ほどよい苦みが、鼻の奥に抜けて行きます。
こちらをまじまじと見やっていたヒサキくんは、顔を上げました。
口許にはりつく、物憂げな笑み。
ですが、その瞳は真剣でいて、雄々しくもありました。
「ええ……そうですね。
僕は彼女に、並々ならぬ感謝をしています。それはこれからも、色褪せる事はないでしょう。
強いて言うなら、そう、ですね。……聖母。僕に取っての、正に聖母のような女性だと言えます」
世界中の時が、いえ、全宇宙の時が、止まったのではないかと錯覚しました。
幻の世界に入り込んでしまったかのように、思えました。
予想外。正に、想定外。
聖、母。
二度も口をついて出た、聖母、という響き。
脳裏には、神々しいまでの威厳を放つ旧友の姿。
堰を切ったかのようにこみ上げてくる、私を狩ろうとする意志。笑い。
ですが、困りました。
私をこれくらいの危機で討ち取ろうとは、軽く見られたものです。
私は、アルビレオ・イマ、なのですから。
さあ、微笑みを絶やさずに、同感です、とは言えませんでした。
目前のヒサキくんの顔に、原因がありました。
その、瞬間でした。
私は無様にも、無情にも、虎視眈々と隙を窺っていた笑いの刺客に打ち取らてしまったのです。
刺客。それは、彼の口許に爛々と称えられた、壊れそうなまでの儚げな笑み、でした。
ある種の、呪いを彷彿とさせる水難事故。
まるで、ダムが決壊でもしたかのように吹き出された、気管を蹂躙しつくそうとする、悪魔。鳶色の液体。
スローモーションのように流れ行く、時。
どうしてか、お茶を吹き付けられたというのにも関わらず、満面の笑みのヒサキくん。
息苦しく、まともな表情さえ浮かべる事もできそうにありません。
ですが、脳内は嫌にクリアで、私は小さく呟きました。
私に、お茶を吹かせるとは……。小林氷咲、恐るべき手だれだったようです……。
ある種の符号。確信を持たざるを得ない、一騎当千の迫力を、私はその身に実感させられる結果となりました。
京都の空は、朱に染まっています。
身体を紅く輝かせる鳩が、遠方の空へと飛び立って行きます。
朱と黒の世界。古き良き建築物さえも、朱に染められて、京都の一味違った顔を見せていました。
景観を脳に焼き付けようと、目を閉じました。
浮かぶのは、京都の顔ではなく、去り際の彼の表情。
せわしなく、焦点がさまよう両の瞳。微細に、小刻みに震える肢体。
目を細めて、失われた何かを探しているかのように見えました。
拙いヒントは、彼にどういった影響を与えるのでしょうか。
私の第一の仕事は、これで終えます。
それは、きっかけをつくる事。それだけのためと言われるかも知れませんが、私に取っては、最も重要な事柄。
これから彼が何を為し、なにを想うのかは、誰にもわかりません。
指図してはならない、踏み入ってはならない、絶対の領域。
小林氷咲という少年、彼には自由を手にする、権利があるのですから。
運命は、次代へと引き継がれたのかも知れません。
ならば私は、傍観者へと戻るのもまた、必然と言えるのでしょう。
小さく、含み笑いが漏れ出ました。
それを合図に、朱に染め上げられていた私の姿は、舞台から消え行きました。
「それでは、最後に一つだけ良いでしょうか。
事の初め、あなたは、私に、見覚えがありましたか?」
「……わかり、ません。
……正直に、覚えてはいま、せん。」