一体全体、意味がわからない——裏その肆
−ネギside−
闇夜に、霧がかった月。
杖に跨る僕は歯を食いしばると、飛行速度を限界まで引き上げます。
夜空を裂く音は鼓膜を震わせて、酷く鮮明に響いていました。
「兄貴っ! アレだ!」
肩口に立ったカモくんが、ある一点を力強く指しました。
視界に映るのは、広大な湖を十字に跨ぐ桟橋。中央に位置する祭壇には、淡い光の柱が上天へと真直に伸びています。
あそこには、いるんでしょう。
倒さなければならない、悪い人。そして、守らなければならない恩人。このかさんが。
嫌な予感が、しました。
次第に輝きを増していっているように感じられる光柱が、僕には、どこか禍々しいものに感じられていたからです。
湿り気を帯びた夜風に、草木の仄かな匂い。煩わしくも、焦燥にさざめく心。
京都に足を踏み入れてからというもの、連戦に次ぐ連戦。僕の身体は所謂、ボロボロの状態なのかもしれません。
いえ、そうなんでしょう。
ですが、気を抜くだけで混濁していこうとする脳裏に、僕は歯を食いしばり抗います。
小さな頷きを持って、遠目にまばゆく光柱を睨みつけると口を開きました。
「カモくん。
僕は、絶対に諦めないよ。
必ずこのかさんを、みんなを助けるんだ!」
「あ、兄貴……!」
本山への、急襲。僕は安全神話のようなものだと、半ば滑稽にも思い込んでいたんです。
全ては僕の不手際。油断。慢心、です。
守らなければならない、守ると決意していた生徒の皆さんまでもを石化させてしまいました。
共に戦ってくれる仲間。アスナさんと刹那さんは、今、命を賭してまで足止めをしてくれています。
百を超える鬼達を一手に引き受けて、僕の背中を押してくれました。
そんな最中の小太郎くんの襲撃。話しを聞いてくれない事に、西洋魔法使いへの罵倒。
僕はお父さんやヒサキさんまでもを虚仮にされた気がして、やらなければならない事を見失ってしまいました。
ですが、そんな僕を諫めてくれた上、道をつくってくれたのは長瀬さんでした。
皆さんには、感謝をしてもしきれません。
だからこそ僕には、下を見て、立ち止まっている時間はないんだ。
「アスナさんと刹那さん、みんなの意志を、無駄には出来ない。
僕、一人に出来るのかはわからないけど、ヒサキさんが言ってたんだ。
未来だけを見ろって。未熟だからこそ、前に進もうって。
だから、僕のやる事は一つだけ。ただ、助けるためだけ必死に戦う。
簡単な事、じゃないけど、簡単な事、なんだ」
僕はカモくんを見据えて、言います。
独りでに口許に笑みが浮かび上がっていました。
そんな状況ではない事は、わかっています。
だけど、ヒサキさんの姿を、在り方を思い浮かべるだけで、僕にはこんなにも勇気が湧いて来る。
「だって、これから僕は、ヒサキさんのパートナーにならなくちゃいけないんだから」
カモくんは唖然とこちらを見つめた後、笑顔で口を開きました。
「へへっ……。
兄貴も言うよーになったじゃねぇスか。
そうか。これが刹那の姉さんが言ってた、小林の旦那の凄さって奴かよ……。本当に底が見えねぇ、恐ろしいお方だぜ!
絶対に助けよう、兄貴! 小林の旦那もどこかで見てくれているはずだ!
兄貴の底力を見せつけてやろうぜ!」
「なるほど。僅かな経験で驚くほどの成長だね。
僕の身体に直接触れたのは、きみだけだよ。
ネギ・スプリングフィールド。
ただし、それももう終わりのようだね」
湿気漂う桟橋の上、息も絶え絶えに、仰向けに倒れる僕。
霧がかった星空を背景に、僕を見下ろす、白髪の少年。
少年を一言で説明するならば、無表情、でしょう。
淀みなど一切なく、無機質な瞳。滑稽にも映り込むのは、僕の力なく情けない姿。
激しさを増していく動悸も、溢れては漏れ出す悔しさも、等しく上昇していきます。
このかさんを目前にして、僕は強敵と相対しました。
立ちふさがったのは、白髪の少年。相手は、予想を遥かに超えるほどの実力者でした。
攻撃魔法を放てば、いとも簡単に掻き消される。そして、弄ばれるように反撃をくらう。
それはおおよそ、戦いとは呼べず、蹂躙されてでもいるようでした。
僕は諦めず、応戦しました。
攪乱。陽動。奇襲。僕の出来る精一杯、考えられる、培ってきた全てを用いて戦いました。
ですが、結果は散々たるもの。
ただ一度、ただ一撃を入れる事に成功しただけ。
それだけで僕は、地に倒れ伏し、身動きの出来ない状態となっています。
あと少し、なのに……。
あと少しで、このかさんを助けられるのに……。
混濁していこうとする脳裏には、絶え間なく、そんな言葉がスライドしていました。
身体の至る所が軋み、激痛を伴います。
不規則なリズム、落ち着いてはくれない心拍。鼓動。ひんやりと冷たい空気を吸う事でさえ、胸の内側を破壊されているような痛みが走ります。
視界には、夜空に浮かぶ儚げな月と、夜空に突き刺さる光柱。自分の不甲斐なさ。自身の弱さの痛感は、より一層の苦痛を生んでいました。
それらを背景に、こちらを見ていた白髪の少年は、抑揚のない声で呟きました。
「良く頑張ったよ。
ネギくん。良く頑張った」
ですが、僕には、そんな声さえも、どこか遠くから響いてきたように聞こえました。
徐々に、必然的に、幕を閉じようとする世界。痛みが少しずつ、和らいでいきます。
ですが、その時でした。
聞き覚えのある、凛とした声音。その声で、意識が覚醒しました。
僕はまだ、戦える。戦う機会を、貰えたようです。
「斬岩剣っ!」
まるで、暗闇が渦巻くトンネル内でさまよう僕に、出口からの逆光が差したかのように思えました。
湧き上がる勇気。身体中が震えました。
その斬撃が、残念ながら空を切るのを視認してから、僕は内心で呟きました。
みんなで力を合わせられるなら、負けません。
戻り来る、身体中の激痛を無視して、四肢に力を込めます。
飛来してくる杖を掴むと、僕はよろよろと立ち上がりました。
「ネギ先生、無事ですか!」
「ネギ! アンタ、大丈夫なの!?」
「兄貴ぃ! もうだめかと思ったぜ!」
「はあはあ。
ありがとうございます。
大丈夫です。
このかさんはあの光の下です」
「お嬢様……!」
刹那さんの身体から、殺気が溢れていきます。
今にも駆け寄ろうとする刹那さんを、僕は声で制しました。
「刹那さん」
その声を合図としたかのように、目前へと白髪の少年が姿を現しました。
僕達と対峙しているというのに、夜空を見上げたままで言いました。
「ここから先へは、行かせない。
……それにしても、ネギ・スプリングフィールドの危機。あの状況でも、彼は来ないのか。
よっぽどきみ達を信用しているのか。それとも、虎視眈々と僕の隙を狙っているのかな」
意味が、わかりません。
自然と僕の口は、開かれていました。
「何を言っているんですか……?」
感情の起伏を感じられない瞳。表情。
まるで生命を持たない人形のようなそれらが、僕の目と交差します。
「ネギ・スプリングフィールド。
きみが、ヒサキ、と呼んでいた男だよ。
必ず、彼は僕の下に来るんだ。必ず、ね」
言いようの知れない、重苦しい雰囲気。見える何もかもが、そんな空気に侵されているような気がしました。
僕の中で、苛立ちが生まれていきます。
白髪の少年は、こう言いました。
ヒサキさんを知っている。そして、必ず自分の下に来る、と。
色んな思考が、生まれていきます。
どこで、どうして。
ですが、一つだけ言える事があります。
お前なんかが、ヒサキさんの名前を軽々しく呼ぶな。
刹那さんも、アスナさんも、同様の心境なのでしょう。
鋭い視線を隠そうともせずに、白髪の少年を睨みつけていました。
一拍の後、です。
まるで、憤怒を爆発させたかのような叫びがこだましました。
その声の主。刹那さんは、憤りからか、身体中を震わせて。
それだけで人を殺められそうなほどの、鋭利な睨みを隠そうともせずに。
「お前に、お前なんかに! 小林さんの何がわかる!」
白髪の少年は、自然体。どこ吹く風。意に介さないままに、口を開きました。
「確かに、今の彼を、僕は知らない。
だけど彼は、僕を知っているはずだ」
何を言って、いるのでしょうか。
皆一斉に、狐に化かされたかのようです。まるで、困惑という感情が僕達を覆い込んでいるように思えました。
そして、白髪の少年はまた、口を開きます。
その飛来してきた事実は、僕達の胸を容易く抉っていきました。
「彼が、京都に来た理由は一つだけだ。
僕を、壊しに来たんだろう。
なぜなら僕は、彼に取って、世界で唯一許せない存在。仇、だからね。
彼の最愛の、いや、最愛だった父親を殺した、憎い仇」
「なっ!」
刹那さんとアスナさんの声が、同時に響く。見なくても、伝わって来ます。その表情は、僕と同様に、驚愕に染まっているのでしょう。
目を見開いたまま、語られた言葉を反芻します。
ヒサキさんが、京都に来た理由。
それは、白髪の少年を壊すため。
なぜならば、白髪の少年は、ヒサキさんの父親を殺した憎い仇だから。
それは、つまり。
という事は、つまり、ヒサキさんの最愛の父親はもう。
茜差す河川敷で、ヒサキさんが言っていた声が脳裏を過ぎりました。
「俺も昔から命がけの不運にばかり見舞われてきてね」
「何度、死にかけたかわからない。
頭がパンクするほどに、悩み苦しんだよ」
色々な感情が、ざわめきました。
なぜならば、僕は言ってしまった。言って、しまっていたんだ。
ヒサキさんの目の前で、嬉しそうに、お父さんの手掛かりを見つけた、だなんて。
ヒサキさんの気持ちなんて考えずに。その言葉の真意を汲み取る事も出来ずに。
そんな、残酷な事を。
それ、なのに。
「きみが父親を探す夢を望むというならば、俺はできうる限りの支援を約束するよ」
それなのに、ヒサキさんは、嬉しそうに微笑んでくれて。
自分の内の感情を押し殺してまで、協力すると、言ってくれて。
僕は……。僕は……なんてバカなんだ。
どうしようもない、ただの子供。
心が、張り裂けそうになりました。
身体の中で、闇という慟哭が膨れ上がり、僕の口から漏れ出ました。
「うわああああ!!」
「ネギ先生!」
「ネギっ!」
その声を最後に、僕の脳裏は黒く塗り潰されました。