その暗闇を沈み行くものは——表
—小林氷咲side—
「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」
その声は、空間を裂くように飛来した。
白髪の少年の直突きを受け止めてでもいるのだろうか。
ふわりと浮遊する死神は、前方へと鎌を翳し、俺の背中を包み込むように半円形のバリアを展開していた。
衝撃と衝撃の拮抗。暴風、なのだろう。怪しくも、鈍く放たれる紫紺の閃光は、嫌に規則的なリズムで瞬く。
俺も白髪の少年も、薄暗闇でさえも、淡き灯りで仄かに縁取っていた。
脳裏の中心を颯爽と、大胆不敵にも迫っては去り行く言葉。
うん。
意味がわからない。
全く持って、意味がわからない。
疑問は、湯水のように湧き出しては、その限りを見せようとはしていない。
どうして俺は、広大な湖に架けられた桟橋を踏みしめているのか。
先程までの心踊る空間。麗しい所の騒ぎではない茶々丸さんのお姿は、どこへ行ってしまったのだろうか。
どうして俺は、桜咲さんの羽のように軽い身体を、気安くもお姫様抱っこしているのか。
泥に塗れて地に伏すネギくん。またもや、特大のハリセンを携え、こちらを凝視する神楽坂さん。
意図をはかりかねる、重苦しき緊迫感の正体は一体。
だが、そんな事柄は些末な疑問。いや、些末ではないが何よりも、何よりもである。
後方。雪のように白い頭髪を突風に踊らせる、見慣れぬ少年の言葉は一体。
意図は、掴めない。
至極、当然の事、である。
この騒動を誰かに問われる事態に陥るのならば、俺はこう答えざるを得ないだろう。
ハハ……。
俺はほんの数秒の間、目を閉じていた。
そして、開いた時、だったんだ。
……うん。つまるところ、俺の身体は、奇しくも物理法則を飛び越えていたんだよ、と。
間違いない。間違いが、ないだろう。
このような説明をする者は瀕死、命を落とす寸前、完全に末期である。
その日を境に、噂は一人歩きし、日に日にその印象は激しさを増していくのは明白だ。
空想や妄想をこよなく愛するロマンチスト、そういった肩書きであるならば何とか許容出来よう。
だが、世間は甘く見てはならない。
少々、頭の弱い、可哀想な人、という不名誉であり有り難くはないレッテルを背負わされる事になってしまうだろう。
だが、そんな事を考えていても始まらない。
御免被りたい未来を予想しているだけでは、現実は何も変わらない。変わってはくれないのだ。
考えろ。考えるのだ。
答えは出ずとも、考察を繰り返し、この窮地を切り抜ける事が最善の一手と言えよう。
それならばまず、第一として、極大なまでの意味不明さを匂わす謎から料理して行こうではないか。
それは白髪の少年から否応なく繰り出された、意味深げな台詞に集約されていた。
「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」
ふと、軽めの立ち眩みを覚えた。
困惑や混乱といった感情は、如実に、俺の三半規管を明確に苛め抜いていたようだ。
確かに、確かにだ。
理解など出来そうもないが、今も尚、どこか胸騒ぎのような感慨を捉えてはいる。
所謂、既視感とでも呼ぶのだろうか。そう総称されている感慨には、丸呑みにされそうになってもいた。
しかし、しかしだ。
声を大にして、否定の返答をしたい。
それでは、辻褄が合わないのである。
例えるならば、宇宙でも人類は生身で呼吸できるんだぜ、という子供じみた虚言ほどに前提からしておかしいのだ。
なぜならば、単刀直入に言おうではないか。
父は、俺の血縁に当たる父は、生きているのだから。
齢四十間近の埼玉在住の営業マン。命の危険に瀕するような持病などもなく、至って健康体である。
因みにというならば、母も健在であり、この歳となっても仲睦まじい。
長男としては、少々、嬉しくもあり恥ずかしくもあった。
それならば、一体、彼は何を言っているのだろうか。
京都に赴いてからというもの、遺憾ではあるのだが、クエスチョンマーク界で華々しい戦果を上げ続けて来た俺。
三日足らずで、界隈のホープや若手筆頭を難なく飛び越え、正に帝王の二つ名を欲しいままにする小林氷咲。
と言えども、言えどもだ。
余りに難易度の高い問題に直面させられては、形無しと言えた。
心に住むミニヒサキはというと、夜空に浮かぶ風流なおぼろ月に感銘を受けていた。
最早、現実逃避と、大きなキャンバスを睨み付けて、血気盛んに筆を振り回す。
しかし、その時だった。辺りを照らしていた光源が尽きたのだ。
それを合図にしたのだろうか。死神は程なくして、あからさまに愉しそうにケケケと笑う。
そして、頼んでもいないというのに、また普段の定位置、肩口へと舞い戻って来た。
再度、軽めの頭痛を覚える。少しだけ離れた位置に移動していた白髪の少年を、視界は捉えた。
無機質な瞳。何ら感情の見えない視線は、こちらへと静かに向けられていた。
事の推移を見定めてでもいるかのような、そんな眼差しに思えた。
尋常ではない重圧が、襲い来る。気を抜いた瞬間には、身体ごと絡め取られてしまいそうなまでの雰囲気に気圧された。
致し方、ないだろう。
白髪の少年だけではないのだ。
この場に存在する皆が、何らかの含みを持った視線を一点、俺へと集中させていたのだから。
心が鷲掴みにされるといった状況ではない。通り越した先、最早、握り潰されてしまったのではないかとの錯覚を受けていた。
気圧され狼狽してはいたが、桜咲さんを優しく地面へと降ろす。
うら若く年頃である彼女を、このような形で抱いていては失礼に当たるのではと危惧したからだった。
「あ」
突如、か細い声が俺の鼓膜を震わせた。
まるで、絶え入るような声だった。おおよそ、俺にしか聞き取れないほどに微かな。
いかん。これは、いかんぞ。
白髪の少年へと釘付けになっていたのが、大層、悔やまれる。
定かではない。定かではないのだが、思わず、どこかいけない場所に触れてしまったのかも知れなかった。
羞恥心から、滑稽にも狼狽えてしまう。
半ば、呆然と桜咲さんを見つめた。
頭ではわかっている。謝罪せよとの命令はひっきりなしに発せられてはいる。
だが俺は、二の句を告げられなかった。
次の瞬間の事だった。
桜咲さんの口許から飛び出した言葉は、想定の外。思考の枠組みから外れたものだった。
「こ、小林さん……。
ち、違うんです。……わ、私は!」
その瞳は、忙しなく小刻みに揺れる。
その声は悲痛に歪み、桜咲刹那という少女を形作る細胞の全てが侵されて、今にも壊れそうに視界に映り込んだ。
刹那的。一瞬で、意識を呑まれた。
周囲の音が、何もかも全てが、消え失せてしまったかのように感じられた。
春の冷たい夜風は、彼女の前髪をさらう。月光の仄かな灯りが、その瞳に浮かんだ水分を反射して煌めかせていた。
彼女を形取る光と影。輪郭に、魅入られた。
だが、即座に力強く拳を握り込む。歯を強くかみ合わせて、無理やり意識を覚醒させた。
何があったのかは、わからない。
再度、彼女の心の闇が燃え上がり、再発したのかも知れない。
未だに無力過ぎる俺には、ただの子供な俺には、気付いてあげられる甲斐性などはない。
そのたぎる猛火を、鎮めてもあげられない。
何なのだろうか、この感情は。
どこからやって来たのだろうか、この憤りは。
少しは成長出来たのではないかと、勘違いから滑稽にも自負していた。
だが、結果は散々たるものだ。
自分を兄のように慕ってくれる少女一人、笑わせてあげられない。その期待に、応える事さえも叶わない。
身体中が、炎上でもしているかのようだった。
何もする事の出来ない自分自身への怒りからか、小刻みに震えが起きていった。
だが俺は、即座に行動した。
最大限の微笑みを、口許に浮かべる。
そうする事が、最善に思えたのだ。いや、違う。それ以外の選択肢が浮かばなかったのだ。
学園長が仰っていた言葉が、脳裏を過ぎる。
未熟な者に、取れる行動は一つだけ。
それは、拙くても良い。真なる想いを、ただ、相手に伝える事が為すべき事なのだ、と。
「桜咲さん」
揺らいでいる瞳。それは、救いを求めているかのように感じ取れた。
俺は真正面から、真摯に見つめた。
その瞳の揺れが、定まってくれと願いながら。
彼女が、俯き黙りこくっていた。ゆっくりと、顔を上げる。
その泣き顔に、胸がキリリと痛んだ。
「はい……」
「きみの心に、闇が巣くっているのは知っている。
だけど、それを俺が肩代わりしてあげる事は出来ない」
桜咲さんの涙に濡れた瞳が、見開かれた。
紅潮していた頬から、次第に、生気が失われていく。
俺は微笑みを絶やさぬままに、言った。
「確かに、肩代わりはしてあげられない。
だけど俺は、未熟者は未熟者なりに、素直にこう思うんだ」
「こ、小林さんは未熟などでは……!
わ、私の方こそが足を引っ張ってばかりで……」
桜咲さんは、慌てふためいた。
その指し示す意味に、心が暖まっていく。
俺は視線で、彼女の言葉を遮った。
黙り込む彼女の視線が、交錯していく。
出会い。原宿での一夜。色々な記憶が、思い返されていった。
期間にして、たった数週間。短くも、濃密な時間。
他人には、理解など出来そうもないだろう。
だが、それでも俺は、彼女を、出会った皆を信頼している。
「苦悩に立ち止まる事もある。過ちに落ち込む事もあると思う。何もかもを信じられなくなる事も、あるだろう。
それでも良い。それでも、良いんだよ。今は、それで良い。
なぜなら、俺はきみを信じているんだから」
「私を、信じて……」
なぞられた言葉。
再度、桜咲さんの瞳が見開かれた。
しかし、その本意は、マイナスなものではない。
「ああ、そうだよ。
俺はきみを信じている、という事を信じてくれないかな。
桜咲刹那という女性は、心の翼は、いつか必ず、心の闇に打ち勝ってくれると信じている、俺を。
それにきみには、ネギくんがいる。神楽坂さんがいる。俺もいる。
きみは一人なんかじゃないんだ。
絶対に打ち勝てる。そう、みんなも、俺も、きみを信じているんだから」
一拍の後、震えた声音が響いた。
「小林、さん……」
桜咲さんの華奢な身体が、より一層として震える。
湿気を帯びた夜風が、俺達の間を通り抜けていく。月光の灯りが、彼女の苦悩を優しく浄化しているように思えた。
だが、しかしである。
このままで、終幕とはならない。
当然である。半ば、必死過ぎて、忘れてしまっていたのだ。
背後の方向から響く、抑揚のない声。それは俺を、現実へと引き戻すには十分だった。
「憎悪すべき仇を目の前にしても、スクナノカミが復活されようとしていても、きみは変わらない。
その異常なまでの、冷静さを失わない。
流れる血は、健在のようだね。
これで、確信した。
やはりきみは、僕の思い描く人物に間違いない」