その暗闇を沈み行くものは——表その弐
—小林氷咲side—
「憎悪すべき仇を目の前にしても、スクナノカミが復活されようとしていても、きみは変わらない。
その異常なまでの、冷静さを失わない。
流れる血は、健在のようだね。
これで、確信した。
やはりきみは、僕の思い描く人物に間違いない」
その声は嫌に鮮明に、鼓膜を震わせた。
正に、意味不明の大盤振る舞いと言えよう。
無防備な俺の背中へと、否応もなく突き立てられていた。
これで何回目だろうか。
三半規管の崩壊を、実感させられる。苛烈さを増して行く頭痛に、顔をしかめたまま振り返った。
背景の闇に溶け合い、灰色に彩られた毛髪は、煌めいて見える夜風に踊る。
グレーに限りなく近い青色の両の瞳は、何かをはかるように、こちらへと向けられていた。
一瞬の静寂が訪れた、後だった。
少年の引き締められていた口許が、ゆっくりと開かれる。そこから放たれた言葉は、正に驚天動地。支離滅裂、な台詞だった。
「そうだろ? レイン。
きみはヒサキ、なんていう名前じゃない。
僕は確信を持って言える。
間違いなく、きみはレイン。その名前こそが、きみを示すには最適な総称なんだ」
もう一度だけ、言おうではないか。
何を、言って、いるのだろうか。
少年の非の打ち所のない姿態を、月影が縁取る。
まるで、月の精霊はこのような姿をしているのではないかとさえ思えた。
幻想の世界から登場してきたのかと錯覚する少年の言葉が、脳裏に過ぎる。
まず、まずである。
レイン、とは一体。
それこそが、俺を表すには最適な総称、とは一体。
心のミニヒサキはというと、描きかけのキャンパスを前に筆をポロリと床に落とすと、呪詛のように呟き始めた。
うん。
意味がわからない。
俺の名前は、名称は、生まれてこの方、小林氷咲、ただ一つだけなのだから。
だが、しかしである。
この何かが迫り来るような感覚は、一体、何なのだろうか。
心の、不可解などよめき。身体中の小刻みな震え。胸の奥から、何かが這い上がって来ているような息苦しさ。
心の中で、レインと小さく呟いた。脳裏を、跳ね返るように反響していく。
その言葉の残響は、酷くやる瀬なかった。
遙か遠くの故郷を思わせるようで。そして、これまでに培って来た倫理感を、踏みにじられてでもいるかのような感覚だった。
皆の視線が一様、俺へと集まっていく。
その視線の含意は、問い。真意のほどを確かめるような、眼差し。
だが、少年以外からは、身を案じてくれているような暖かさを孕んでいた。
確かに、理解は出来ない。
俺の中でうごめくものの正体は掴めない。その尻尾でさえも、視認する事は叶わない。
だが、一つだけ断言出来る事があった。
それは、俺は小林氷咲だ、という揺るぎない自負だった。
確かに幼少の頃は、変な名前だとからかわれて、嫌いになった事もある。羞恥心から、自分の名前を教えたくないと思った事もあった。
だが、俺は、レインなどという名前ではないのだ。
それに今は、両親に名付けて貰ったこの名前を、誇らしく思っている。
「こ、小林さん、レインとは……」
傍らに立つ桜咲さんが、心配そうに、その可愛らしい顔を曇らしていた。
心配をかけないように、笑顔で続きを遮る。
そして俺は、少年の瞳を見つめると、真剣な表情のまま言った。
「違う。
俺の名前は、レインじゃない。
俺を総称する名前は、ただ一つ。
……俺は、小林氷咲だ。
それ以外の名前は、存在しない」
一陣の風が、通り過ぎる。
相反する、白と黒。俺と少年、真逆に彩られた前髪をなびかせた。
視線が交錯し、何者も遮る事はない。
少年は無表情を崩さないままに、一つ頷くと、その口を開いた。
「そうか。やはり、そのようだね。
いつの世も往々にして、真実というものは、他者に覆い隠されてしまう」
意図は、掴めなかった。
だが俺は黙して、少年の続きを待つ。
少年の無機質な双眸は、離れない。
言いようの知れない、苦しき圧力。気圧されそうになる身体を、押し止める。
少年は言った。
「僕の、推測通りか。
レイン。きみは、記憶を操作されたか、封印でもされてしまったんだろう。
もしくは、全てを把握した上で、恐怖に縛られ揺れているのかな。
その身を復讐心に焦がしながらも、その錆び付いた心は甘い幻想を欲してしまう、という板挟みにあえいで。
まあ、いずれにしろ、きみはレインだ。これは変える事の出来ない、真実なんだよ」
息が詰まる。
まるで心も、身体も、俺の存在さえもが、暗雲に呑み込まれて、抹消されてでも行くような感覚を捉えた。
この素敵で暖かな世界から、弾かれ否定されて、拒絶されたかのように。
独りでに、口が開かれていた。
自らの声に、驚愕する。
その声は低くくぐもっていて、明確な怒気を孕んでいたのだから。
「違う。
俺は、小林氷咲だ」
「いや、きみは気付いている。
聡い類い希なその頭脳は、認識しているよ。
だけど、それと同時に、過去を拒絶しているんだ。
違うというのなら、きみはどうして、京都まで来たんだい?
今、この時、きみの異質なまでの冷静さは失われたんだ。
それが、何よりも、事の真相を物語っている」
俺の口は、自然と閉じていた。
ざわめく情動。血液を、蹂躙されてでもいるかのような憤慨。
不思議、に思えた。
絶え間なき問いは、俺へと殺到する。
どうして、だろうか。
どうして、俺は憤っているのだろうか。
理解など出来そうもない。皆目見当はつかなかった。
霧がかった夜空の下、俺をよそに尚も、少年は続ける。
正に、自然体。虚言を吐いているようには見えない立ち姿は、俺を執拗なまでに射抜いていた。
「レイン。時間だ。答えを聞こう。
きみは、僕を壊しに来たのか?」
その瞬間だった。
その声を合図に、時空が歪んだのではないかと錯覚した。
果てしなく、強烈な光。世界を震わせているようなまで振動に、轟音が響き渡ったのだ。
余りの理解の範疇を超越した出来事に、混乱しきる。まるで、自らが霧に霞み行くように、意識は朦朧としていた。
俺も少年も、京都という地さえも金色に染めていく。
その眩さに、目を細めざるを得なかった。
そして俺は、その原因を目撃した。
何だ、あれは。何なんだあの、摩訶不思議なまでの物体は。
例えるならば、角が生えている事から推測して鬼、だろうか。
だが、その体躯は余りに巨大。説明するならば、巨大ビル並みの身体を持った、化け物だろう。
凄まじき重圧に、片膝をつきそうになる。
俺はただ、黙して見つめる事しか出来なかった。
「ちょ! な、何なのよあれは!」
「クッ……!」
背後から、神楽坂さんの慌てた声が聞こえた。桜咲さんの、苦虫を噛み潰したかのような声が漏れ出る。
だが、少年は揺らがない。
化け物を背景に、その口を開いた。
その声音は小さいというのに、轟音にもかき消されず、俺の耳に届く。
そして、微かな、優しさを帯びているような気がした。
「それとも、復讐も、幻想の世界さえも、何もかもを捨てて……僕と共に歩む事を選択したのか?」
倍増していく緊迫感。周囲の皆から、どよめきの声が上がった。
またしても、その瞬間の事だった。
まるで、ホラー映画を観ているようだった。
少年の影からヌルリと、何かが這い出て来たのだから。
その何かは、閃光に照らされる。それはまるで、人間の片腕のように見えた。
息もつかせぬ内に、少年の腹部を掴む。離さぬとばかりに、力強く。
その時、初めて、少年の無表情が崩れ去った。
驚愕に目を見開き、影から正体を現しつつある人影を凝視した。
「小僧、戯れが過ぎるぞ。
私のものを盗もうとするその根性は、賞賛に値する。
だが、この愚か者が欲しいというのならば、この私の息の根を止めてからにしろ」
何も、見えなかった。
視認する事は、叶わなかった。
聞き覚えのある、可愛らしい声音が響いた一瞬の後だった。
少年の姿は、掻き消える。
まるで、初めからその場にいなかったかのように、忽然と消え去っていた。