その暗闇を沈み行くものは——裏その漆
—神楽坂明日菜side—
春の冷たい微風が前髪を揺らす。月明かりでは対抗出来ず、体温を少しずつ奪われていくのを感じた。
さざ波立つ湖の音も、木々の葉と葉を擦り合わす音も、耳をつんざくような化け物の唸り声にかき消されていた。
化け物からの離脱。刹那さんは夜空をこちらへ向かい滑空してきている。
胸元に大事そうに抱えられた木乃香の姿を、視界に捉えた。
ああ、良かった。素直にそう思える。
平穏無事。誰も生死に関わるような傷を負う事はなかった。
てんてこ舞い過ぎるわよ、と突っ込みたくなる修学旅行。非常識に輪をかけたような戦いの行く末も、終わりへと方向転換し始めているんだろう。
確かに、それは嬉しかった。
平穏への回帰なんだ。
嬉しくない理由なんてないし、またみんなで楽しくやれるんだと思うと喜びもひとしおだった。
だけど私の目は、ある人物の後ろ姿に釘付けとなっていた。
闇と同化しているように見えるローブ。紫色のオーラが意志を持つ生命体のように、その身に触れては離れ夜に溶けていく。
こちら側から視認出来るのは、大きな鎌の刃。月明かりを反射し、鏡となって私の顔を映し出していた。
表情は見えない。だけど、何となくわかる。
その済み渡る瞳は今、停電時のように、鈍い色を帯びて化け物の方角を射抜いているんだろう。
どうにもならない。惚けてしまうのを隠せそうにはなかった。
小林先輩、だ。小林先輩、がだ。
たった一つしか歳の違わない男性が現れただけ、なのに。
たったそれだけの些細な事で、戦況はその表情を変えてしまう。窮地だったはずの私達の側へと、微笑みを向けさせてしまったんだ。
短時間。微々たる時の中で、刹那さんの危機を間一髪で救うと同時に、ネギの暴走を優しくも厳しく諭して見せた。
その上、その上だ。私には難しい事はわからないし、理解出来そうもない。
だけどカモ曰わく、偶然さえもを味方につける戦略。異質な頭脳により導き出された戦略を、見せつけてくれたらしい。
でも、その凄さは私にもわかる。
何せ、あの白髪の少年を足止めし時間を稼がなければいけないというのに、戦わない所か変身さえもしなかったんだから。
カモとネギが誇らしげに言っていた言葉が、脳裏を過ぎった。
「小林の旦那が、戦う気さえなかったとはな。恐れいったぜっ!
オレっち達も、あの白髪のガキも、旦那の掌の上で踊らされていたって事か!」
「これがヒサキさんの戦い、なんだね。
ヒサキさんは戦わずに、戦いを終わらせたんだ。
戦うという当たり前な選択を、最初から考えてもいなかったなんて。
その上で、相手の勘違いさえも瞬時に戦略に組み込む頭脳に、演技力……。
凄い。凄過ぎるよ……。
僕は、相手を倒すしかないと思ってた。でもそれは間違いだったんだ。
あらゆる可能性を考慮すれば良かった。そうすればみんな安全に、かつ勝利の道筋が直ぐそばにあると気づけたかも知れないのに……」
だけど疑問が、蠅にまとわりつかれているかのように消えない。
それは、真実なんだろうか、と。全てが嘘の演技だったんだろうか、と。
脳裏には、ある言葉が明滅を繰り返していた。
「違う。
俺の名前は、レインじゃない。
俺を総称する名前は、ただ一つ。
……俺は、小林氷咲だ。
それ以外の名前は、存在しない」
小林先輩の激情を撒き散らすような声音。はっきりとした憤慨に拒絶。そして、レインという名前。
思う。騒ぐ既視感に背中を押されているかのように、思うんだ。
白髪の少年の口からその名前が呟かれた時、私は知らず知らずの内にしっくりときていた、と。
小林氷咲という男性。死神のような格好とレイン。今も尚、欠けていたパズルのピースを見つけたかのように納得していたんだ。
どうしてそう感じるのかは、わからない。わかりそうもない。
近頃良く見る既視感。失われた記憶、からなのかも知れない。
私と小林先輩は昔に出会っていたんじゃないか、という確信めいた疑問からなのかも知れない。
だけど答えは、闇の中だ。私だけでは、手は届かない。何より小林先輩が否定しているんだ。
レインに関しては、聞けない。それで嫌われてしまう事が、心底怖い。怖いからだ。
だけど、わかる。そうだと確信出来る。
やはり私を紐解く全ての鍵は、小林先輩が持っているんだ、と。
最近発生し始めた、モヤモヤをかき消す方法も。小林先輩の過去を、偽りのない内を、もっと知りたいという欲求の解消する術も。
刹那さんだけが知っているという秘密への劣等感も。私の黒く浅ましい劣情の出所も。
今の私の行動理念さえもが、小林先輩にあるように思えた。
人を押しのけてでも、覗いてみたいという衝動に駆られる内情、本質に答えはあるんだ。
「俺が動きを止めよう」
その時、ある小さな声が鼓膜をくすぐった。次第に意識が覚醒していく。
浸透していくような疑問。
ああ、なんなんだろうか、この感覚は。
声を聞いているだけ、なのに。背中しか見えず、少しばかり距離も離れているというのに。
その声は、ジワジワと心の深遠に絡みつく。まるで、羊毛に包まれているかのような心地よさを覚えた。
独りでに、胸の内側に隠された首飾り。この世界に二人だけの思い出に人差し指を這わした。
鋭利な冷たさは、絶大なまでの安心感を産む。
どうしてしまったんだろうか、私は。だめ、だ。何も考えられなくなってきた。
「フッ、そうか。
ヒサキ。お前の真の力をこの私に見せてみろ」
上空から、エヴァちゃんの愉しげな声が落ちて来た。
途端に高揚感が増して、眠気が吹き飛ぶ。小林先輩の真の力という響きに、好奇心が騒いだんだ。
小林先輩は、何かを待つように動きを止める。そして、ゆっくりとした動作で、大鎌を化け物へと向けて言った。
「蓄積魔力を解放する」
有無を言わさない声音が、存在感を示す。その次の瞬間の事だった。
小林先輩の身体中から溢れるオーラが呼応するかねように、我先にと、大鎌へと集まり始めたんだ。
中心に暴風が吹き荒れ、ローブの端を踊らせる。
私の髪を逆立たせるほどの突風。大鎌はミステリアスな色彩を放ち、周囲のものを紫色へと染め上げていく。
そして、無音の時間が弧を描き始めた。
大鎌の煌々と輝く先端。より集まったオーラは、極大の光の柱となり発射された。
目を見開いてしまう。
なぜならば光線は、桟橋を脆くも吹き飛ばし、湖を真っ二つに割ったんだ。その上、化け物ごと中央の祭壇さえもをなぎ倒した。
それは圧倒的な光景、だった。
天変地異のよう。絵空事のように思えるが、現実だ。まるで、ファンタジー世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えた。
「な、なんつー魔力だ!
こ、これが旦那の本気なのかよっ!」
「す、凄い……。
でも、これは僕の魔力じゃ……。ど、どういう事なんだろう」
そんな声を呆然としたままで聞いていると、突如、異変が起こった。
それは、魔法を放ち終わる寸前の事だった。
私の目にはまるで、小林先輩の身体が瞬時に、闇の中へとかき消えてしまったように見えた。
だけど、それは違う。
余りの速度で反応出来なかっただけ。
小林先輩の身体は吹き飛んでいたんだ。
湖畔をボールのように跳ねて、推進力がなくなるとそのまま沈んで行った。
唖然と見つめる事しか出来ない。
静寂が降りた。意味がわからない。どういう展開なのよ、と内心で呟く。
だけど、それは長くは続かなかった。意識が強制的に冷まされていく。
私は不安感からか、弾かれるように叫んだ。
「ち、ちょっと! こ、小林先輩どうなっちゃったのよ!?」
一拍の後、カモが口をポカンと開けて言った。ネギも驚愕と続いていく。
「い、いや、姐さん。さすがのオレっちにも何が何だか……」
「い、一体どうしたんでしょう。
ま、まさかとは思いますが、あれだけの威力ですから、反動で吹き飛んでしまったんじゃ……。
で、ですが、ヒサキさんですから、そんな事はないですよね……」
「あ、ああ、そうだよなぁ。
用意周到。先読みの旦那に置いて、それは有り得ねぇーっていうか」
私達の間を、一陣の風が吹いた。
こんな時だというのに、上空から何やら愉しげなエヴァちゃんの高笑いが聞こえて来た。
「ハーハッハッハッ!
やはりその鎌は魔法無効化ではなく、魔法吸収能力が付加されていたのか。
なるほど。どのようなデメリットがあるかはわからんが、正に反則だな。
ヒサキ、後は私に任せておけ」
正に、チンプンカンプンな世界と言えた。
意味がわからない。というか、エヴァちゃんの空気の読めなさには頭痛がする思いだ。
暫く待って見たが、小林先輩は一向に姿を現さなかった。
私は居ても立ってもいられず、苛立ちながら言った。
「あ、上がって来ないわよ!
ど、どうなってんのよ!?」
「へ、へぇ。で、ですが、そんな事を言われてもなぁ、兄貴」
「そ、そうだね。カモくん。
あ、アスナさん。大丈夫ですよ。ヒサキさんの事なんですから。
そ、そういう演技をする事に意味があるのかも知れませんし……」
全くもって、話しにならない。
ネギの言う通り作戦ならば心配ないけど、違ったらという言葉が浮かび上がった。
なぜならば、私は知っているからだ。
みんなが言う通り、小林先輩は凄い人だと思う。だけど、時折天然が顔を出す可愛らしい人でもあるんだ。
脳裏に停電時、橋を越えて飛んでいってしまった記憶が蘇った。
「もう、アンタ達に聞いたのが間違いだったわ!
カモ! ネギを頼んだわよ!」
「あ、姐さん!」
「あ、アスナさん。一体どこへ」
制止を振り切って、私は一目散に駆け出した。
万が一、万が一だ。
不運にも天然が発動し、反動とやらで気を失ってしまってでもいたら溺れてしまうのは明白だ。
小林先輩が沈んでいった方向へと、私はそのまま飛び込んだ。
四月の湖は予想以上に冷たい。衣服が張り付く感覚が気持ち悪く、泳ぎにくい。
だけど、そんな事は気にしてなどいられなかった。
生死に関わる問題なんだ。
まだ、間に合うはず。そう自分に言い聞かせて、闇を泳いでいった。
そして、私の勘は的中していた。
真っ暗闇の中で、クラゲのように漂う紫色の輝き。導かれるように泳いで行った末の事だった。
力無く、仰向けの体勢で、暗闇の底へと沈み行く小林先輩の姿を見つけたんだ。
小林先輩! と叫ぶが、ここは水中。口から空気が漏れるだけだった。
夢中で寄っていく。小林先輩の瞳は虚ろで、今にも光を失いそうだった。
鎌を持つ右腕から大量の出血が流れ、赤黒い煙幕が展開している。こんな時にまで鎌を手放さないなんて、と少しだけ腹が立った。
やはり、正しかった。そして、良かったと胸をなで下ろす。
小林先輩の瞳が私の姿に反応した。
左手がこちらに向かって突き出される。私はその腕を掴んで抱き寄せた。
浮上する最中、知らず知らずの内に、抱き寄せる腕に力が入っているのに気づく。
ああ、そうか。私は嬉しいんだ。
小林先輩の危機に他の誰も、刹那さんでさえも気づけなかった事が。私だけが気づいて上げられた事が。
そして、私だけが、小林先輩の役に立てた事が。