その暗闇を沈み行くものは——裏その陸
—エヴァンジェリンside—
上空に張り付くおぼろ月は、ただただ見下ろしていた。
その星影を帯びる夜風を受けた両翼を。世界の規律故に外れ、虐げられ背負わされた人外を。
産まれながらに決定づけられていたはずの運命を、塗り替えようと羽ばたく桜咲刹那を。
雛鳥の巣離れ。サナギからの羽化。その光景は酷く、感慨深い。
胸中には、多種多様な想念が浮かんでは消えていた。
わかっているのだろうか。わかっている、はずだ。いや、案外……、わかっていないのかも知れないな。
この目前の馬鹿者は。自身の仕出かした、異質さを。
生来の懊悩。付きまとう煩悶。その重荷は、差異は永続的に、首元を強く締め付け続ける。
ねじ曲がるのも当然。歪曲し、閉ざすのも必然。それは偶然などではなく、自然の摂理と似ている。
桜咲刹那がそう育つのも必然の理。そう歩み行くのも宿命、のはずだった。
だが、現状の桜咲刹那の目はなんだ。
一点の曇りもなく、陰りさえもない。それ所か、活力に満ち溢れているではないか。
その様は、私に一種の苛立ちを覚えさせていた。
幸運過ぎる。幸運過ぎるのだ。
人生を棒にふるには短く、人道を外れる過ちを犯す事もなく、小林氷咲という男に出会えた奇跡は。
風化しそうなほどの年月を費やし、この手を血で汚し生き抜いた末に、私は諦めていたはずの浄化の光を見つけた。
だが、桜咲刹那は未だ汚れてはいない。産まれ出でた姿のまま。
何もしていないのだ、桜咲刹那は……。
反射的に、首を振った。
いや、考えるのはよそう。考えても仕方のない事だ。考えれば考えるほど、運などという不確定なものを羨んでしまうのだから。
視界に、ヒサキの横顔が映り込む。
光陰をその身に内包する者。その瞳は微かに濡れて、羽の雪が踊る上空を映していた。
眼差しに在るのは、夢想。自己を晒け出せるものへの羨望だった。
ある衝動が胸をえぐる。堪らない。愛おしさが、私を貫く。
私だけ、だ。
私だけが、偽りのないヒサキの内を感じているのだ。
小林氷咲という男の本質を例えるのならば、茨の棘で覆われた薄い氷のようなもの。
指先を伸ばせば強固な棘が食い込んでしまう。だが、その心はほんの少し押し込むだけで途端に亀裂が入る脆さ。
他人には信じられないかも知れない。
確かに戦闘に関しては強者に属するだろうし、戯れ言を宣うなと罵られるのも想像に難くない。
だがそれこそが、生来の茨の棘に形づくられた小林氷咲の虚像、しか見えていない愚者の戯れ言なのだ。
その心根は、親の背中を模倣する子供。怯えの蔦が絡みはびこっている歳相応の少年。
生来の気高き不屈の志が、世界に反発される魔の本質が、それを覆い隠しているだけなのだ。
それを、私だけは理解している。私だけが聞こえているのだ。
愛されたい。護られたい。薄氷に似たその心が、そう共鳴し吐露しているのを。
ヒサキが舞い降りて来た羽を、片手に掴んだ。
哀愁感を漂わす横顔は、美しい。容姿が極端に優れている訳でもないのに、そう思った。
数秒だろうか。惚けていた自らに気づく。
そして、私は見てしまった。
ヒサキの口許に、笑みが浮かべられているのを。
それは正に、会心の微笑みだった。
何かが崩れ落ちていくような感覚を覚えた。
停電時に見た、微笑みだった。私がつくり、私にしかつくり出せないはずの素顔の微笑みがそこには在った。
一瞬、呆気に取られた。意味がわからなかった。
違う。ヒサキ、違うのだ、と内心で呟く。
間違っている。その微笑みを向ける相手が間違っているのだ。
向けられて良い相手は、この世で一人だけだ。私だけの特別なものなのだ。
その偽りのない、素顔の笑みは、私だけに許されたものなのだ。
視覚が狂う。途端に、劇的に、視界がモノクロにぼやけていく。
まるで、灰色の世界に置いていかれてしまったような感覚を覚えた。
ふと、脳裏にある言葉が過ぎる。白髪の小僧の言葉が、明滅を繰り返し始めた。
また、置いて行かれてしまうのではないか。また、裏切られてしまうのではないか。
そんな事は絶対にない、と自身に慌てて諭す。
絶対などこの世には存在しえない、と脳裏に反発するように反響した。
寒い。身が、凍えるように震える。
待つだけの日々はもう沢山だ。数多の劣情を抱え、途方もなき年月を越し、ここまで生き抜いて来たのだ。
やっと見つけた光をまた私は……。
いや、違う。これは必然だ。そうだった、はずだ。
昔の嘘つきに置いて行かれた事も、嘘つきの盟友の遺児が、天の邪鬼が私を檻から解放した事も。
そう、必然。必然だったのだ。
だからこそ、私は言う。情けなくも、声が震えていても、私は言うのだ。
「おおお、おい。ヒサキ」
ヒサキの視線がこちらを向く。
その口許から笑みが、消えた。黒色の瞳は容赦なく、私を射抜いた。
含意のこもった無言。理解不能の沈黙。静寂は私を切り裂き、責めているように思えた。
色々な情動が稲妻のように、身体を走り抜けていく。
どうして、何も言わない。どうして、笑ってくれない。怒って、でもいるのか。私が一体何を。
まさか……。
威厳などどうでも良かった。私はなりふり構わずに言った。
「ち、違うんだ。
い、いや違わないが、わ、私はお前を思ってだな……」
ヒサキの毛髪が夜風に惑うように踊る。その表情は強張り、そこには激情が透けて見えた。
やはり、そうなのか。私を非難している、のか。
だが、それはお前のためだったんだ。そうする以外に選択肢はなかったんだ。
お前を信用していない訳じゃない。私が恐怖に打ち勝てなかっただけなんだ。
内心を言い訳じみた言葉が、洪水のように氾濫していく。
激しさを増していく鼓動が、気持ち悪い。過呼吸のように、息が苦しかった。
だが、容赦なき沈黙は、突然終わりを告げる。
ヒサキの口がゆっくりと開いていくのが、印象的に映った。
「エヴァンジェリンさん。
ありがとう。助けに来てくれて。
きみが来てくれなければ、俺はどうなっていたかわからないよ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
だがその意図を理解した時、ぼやけていた視界が一瞬で定まった。
私の狼狽ぶりを見て、ヒサキが苦笑する。
その罪つくりな笑みは、高貴の光は暖かい。それだけの事で、この世の全てがたちまち熱を持ち始めたような気さえした。
ああ、本当に良かった。私は置いて行かれる事はないのだと、内心で呟く。
思えば当然だと、馬鹿らしくなった。
この男が私を裏切る訳がないのだ。
小林氷咲という男は天の邪鬼ではあるが、嘘つきではない。
そして、この私に夢中になってしまっているのだから。
顔が熱い。私は照れを隠すために口を開いた。
「そ、そうか。と、当然だな。
ま、まあ、お前と言えども、あのデカブツの相手は厳しいという事か。
そ、その、あれだ。か、感謝しろよ」
ヒサキが有無を言わさずに言う。
「ああ。感謝してる。
というかエヴァンジェリンさん。きみには、感謝しかしていないし、そんな騒ぎではないよ」
面と向かって放たれた言葉は、やはり暖かい。
嬉しくなる。それはヒサキだからだ。
ヒサキだからこそ、感謝されるという事だけで、こんなにも嬉しくなってしまうのだ。
だがコイツと同様に、私の口は天の邪鬼だと言えよう。
「そ、そうか。
ま、まあ、良いだろう。
わ、私は慈悲深く偉大だからな」
「大丈夫。そんな事は出会いの時から、わかりきっていたからね。
エヴァンジェリンさんが、慈悲深く素敵な女性だって事は」
こ、こいつは。よくもぬけぬけと、そんな恥ずかしい事を……。
しかも、目を見つめて微笑みながらだと……!
まったく。コイツはなんなんだ。
おいおい、格好良すぎるだろうが。
一流の結婚詐欺師だと紹介されても、即座に頷いてしまいそうなほどの魅力を振りまいていた。
だが、今は戦場なのだ。場をわきまえて欲しいものだ。
こういうのは違う場所でだな。
これから鬼神と一戦を交えるというのに、頬の綻びを隠せそうにはない。
その上、その上だ。
ヒサキの視線は私へと釘付け。優しげな微笑みを、こちらに向けていた。
「お、お前は恥ずかしげというものを……。
……と、とりあえず、見つめ過ぎだろ!
あ、アッチを向け!
わ、私が良いというまでコッチを見るな!」
本当に困った奴だ。
ヒサキは事の張本人だというのに、はいはい、と言わないばかりに苦笑したまま鬼神の方角を見上げた。
この私を子供扱いとは。やってくれるじゃないか。
肩をいからせると、語気を荒げて抗議した。
「おい! 何を笑っているんだ!」
だが、ヒサキの苦笑は止まらない。それ所か、聞こえていない振りまでする始末だ。
こ、こいつは本当に私を舐め腐っているようだな。
それが女性に対する対応か。
「おい! 無視をするな!」
ヒサキは柳のように受け流す。
そんなやり取りをしながら、ふと思えた。
前の私では考えられないが、これはこれで有りなのかも知れないな、と。
ヒサキの楽しげな笑みが見れたからだ。この笑みが見れるのならば、道化も悪くはない。
そうこうしている内に、桜咲刹那が近衛木乃香を奪還する事に成功したようだ。
私は未だに暑い顔を隠すように、上空に浮かび上がった。
さあ、終わらせようか。
終わらせて、京都観光に向かうのだ。嫌とは言わないだろうが勿論、お前には付き合って貰うぞ。
「と、とりあえずだ!
ヒサキにぼーや、私を見ておけ!
このような大規模な戦いにおける魔法使いの戦い方を、お前らに見せてやる!」
「はい」
鬼神を見据える。未だに喧しくも、子供のようにわめいていた。
だがまあ、ヒサキ達に見せつけるには、相手に取って不足なしと言えよう。
月光が頭上から降り注ぐ中、マントを翻すと口を開いた。
「ハーハッハッハッ!
お膳立ては、ばっちりのようだな。
よし、茶々丸、結界弾を放て」
だが、それに呼応するはずの声はなかった。
正にシュール。滑稽なまでの沈黙が広がっていく。
私はどこかにいるであろう茶々丸に怒鳴った。
「おい!
茶々丸ってそうか!
ヒサキ、茶々丸はどうした!?」
「茶々丸さんはホテルにいる」
間髪を入れずに、ヒサキの声が響いた。
「な、なに!
姿が見えないと思っていたら、そうか……。
ま、まあ、任せておけ。
私が少々、本気を出せば良いだけ。結果は変わらん」
そうだな。
ヒサキの人柄を鑑みれば、戦場に茶々丸は連れて来ない、か。
一拍の後、私が行動しようとした時だった。
ヒサキの声が、鼓膜を振るわせたのだ。
「俺が動きを止めよう」
その声音は抑揚がない。
まるで幽鬼のように微かな音量。だがそれが逆に、並々ならぬ意志を感じさせていた。
私は薄く笑う。
やはり気高い男だ。茶々丸を連れて来なかった失敗は、自らで穴を埋めようとする、か。
好奇心が騒ぐのも当然と言えた。
果たして小林氷咲という男の本気は、一体、どれほどのものなのか、と。
「フッ、そうか。
ヒサキ。お前の真の力をこの私に見せてみろ」
いつの間にか、ヒサキの格好は死神の衣装に変化していた。
魔の象徴。邪の根源。漆黒のローブから立ち上る紫紺の魔力の波動が、闇夜を揺らめく。
ヒサキの表情が変わった。
戦闘時の顔は、氷細工のように美しい。一切の感情を捨て去り、歪な眼で鬼神を見据えた。
正に自然体。無駄のない動作。月明かりを反射して輝く大鎌を、前方へとかざした。
「蓄積魔力を解放する」
その声が響いた瞬間。私の耳に届いた一瞬の事だった。
大鎌が異様な輝きを放つ。紫色の妖艶な明滅。如実に光量が増していく最中、凶悪で破壊的なまでの魔力の奔流を捉えた。
反発しあい、幾重にも枝分かれしていく稲光が走る。それは大鎌の先端に収束し、極大の光線となって放たれた。
モーゼが海を割ったように、桟橋を崩壊させながら湖が真っ二つに割れていく。
圧倒的な威力。悪魔的な速度。その時、鬼神の鳴き声が、止んだ。
砂煙が立ち上る。そして、晴れた後、鬼神の腹部に大きな風穴が開けられているのを視界に捉えた。
全く持って、高笑いせざるを得ない。
高揚感に身体中がひしめいた。
その見た事のない魔法攻撃に、感じ取っていたのだ。
微かではあるが片鱗。見知った奴らの魔力の質の残骸を。
私の魔力に、ネギの魔力。
そして、赤き翼のメンバーの魔力に、忘れたくとも忘れられないあの懐かしき嘘つきの魔力も。
なるほど。その大鎌は親譲りのもの、か。
漆黒の守護者の遺品。遺児。面白い。面白いではないか。
「ハーハッハッハッ!
やはりその鎌は魔法無効化ではなく、魔法吸収能力が付加されていたのか。
なるほど。どのようなデメリットがあるかはわからんが、正に反則だな。
ヒサキ、後は私に任せておけ」
再度、天を衝く咆哮が上がる。
怒り狂う鬼神を見据えて、私はそう言った。