——耶牟原城、謁見の間。
耶牟原城の宮殿で、もっとも壮麗かつ壮大な空間である。
四方は広く、巨大な柱が並んでいる。紅と朱に染められた絹のカーテンが至る所から垂れ下がり、まるで柔らかい炎に抱かれている錯覚を感じさせる。
その謁見の間の最奥、五段の高座に鎮座するのは、大君だけが座することを許された、
——火魅子の玉座
である。朱に塗られた木造の椅子には、琥珀や紅玉がはめ込まれ、金銀の装飾が施されている。背もたれには火の神性である鳳凰が象られ、後頭部があたる部分は、太陽を象徴するように丸く作られている。
玉座の周囲では合わせて百本に及ぶ蝋燭の火が陽炎を揺らめかせ、この空間が、如何に神秘的で神聖なものかがわかる。
——重い。泥沼を泳ぐよりもまだ重い。石垣を持ち上げるほうがよっぽど軽い。
訪れた者にそう思わせるほど、この謁見の間はあまりにも重く厳かな空間だった。
「——石川島の重然。そなたを薩摩県の守護職に任じます。我が綸旨が発せられたことは、この場にいる者が須らく証明し、御前にありし鳳凰符がその証です」
「・・・・・・ははぁっ。石川島の重然、畏れ多くも、快く拝領仕ります。この上は、身朽ち果て、魂滅びようとも、大君の言に恥じぬ働きをいたしてご覧にいれまする」
「期待していますよ。この九洲で、海の戦でそなたの右に並び立つ者はそうはおりません。見事、薩摩を守り抜きなさい」
高座に立つ火魅子を前に、重然は肩膝を付いた姿勢で主君と対していた。見上げる瞳に、火魅子の鬘細工(かつらざいく)に映る陽炎の火が、妖しく揺らめいて見えた。
火魅子から視線を外して、今度は眼前の鳳凰符を見下ろす。
薩摩から持ち帰った『香蘭の鳳凰符』。火魅子の綸旨を賜り、また一層の重厚を、その円形に宿した木符。
この瞬間、重然は名実共に、薩摩軍の最高司令官となった。
薩摩の——否、ともすれば九洲の命運が、重然の双肩に重く圧し掛かる。北山の狙いがもしも九洲征服ならば、その最前線を任された重然の責任は、比のあるものではない。
しかし負けるわけには行かない。九峪に代わってやらなければならない、これはそういう戦いなのだ。
鳳凰符を手に、重然は炎に彩られた空間を後にするのであった。
「——あ〜〜・・・・・・肩こった」
耶牟原城の廊下を歩きながら、重然は首を二、三度ほどならした。
まったくよぉ・・・・・・重すぎんだよ、あそこは。何もかもが。
心の中で愚痴をこぼす。それなりの礼節は重んじる重然だが、元々は海賊の頭領だった男だ。
粗野で乱雑な暮らしの中で生きた人間に、厳然とした聖なる空間は、どうにも居心地が悪すぎた。
育ちが宜しくない、と言えばそれまでだが、これだけは慣れるのに相当骨を折りそうだと、訪れるたびに毎回思う。
——愛宕でもからかって、気分転換するか。
くっくっくと、意地悪い笑みを浮かべる。
重然のお付きとして、愛宕もここ耶牟原城を訪れていた。さすがに女王の御前にまで連れて行くわけにもいかず、宛がわれた屋敷で留守番を任せていた。
「何をおかしそうに笑っておられるのですかな、重然殿」
「ん? ・・・・・・おお、阿智殿か」
前方から声をかけられ、重然はふと顔を上げた。
板張りの廊下の向こう、身なりを正した宗像海人衆の頭領、阿智がそこにいた。宗像神社伝来の秘宝である短剣を腰に挿し、右手に扇をもち、首に真珠、頭に鬘勾玉(かづらのまがたま)の装飾品が輝いている。
重然も正装だが、阿智の服装はそれよりもずっと清楚なものだった。重然の服装が青の草染めなのに対し、阿智は薄い藍染め。しかも倭国では見慣れない『ろうけつ染め』の衣服をまとっていた。
互いに歩み寄り、一歩と言う間隔をあけて対峙する。阿智の身長は重然の肩ほどしかなく、自然と阿智が見上げ、重然が見下ろす構図となった。
「阿智殿も、都に上っておられたか」
「二月ほど前からの。今は都の屋敷に住んでおる」
「二ヶ月も前から。・・・・・・それは、また。さぞ、宗像が気がかりでしょうな」
海人衆の頭領が根城から長期間にわたって離れるということは、宗像や石川島にかぎらず珍しいことだった。
宗像海人衆の根城は筑前県にある。破壊された宗像神社を新たに新築し、巫女たちが神社に戻っていく際に、海人たちも本来の居場所に戻っていったのだ。
阿智の現在の仕事は、那の津における海上警備が主なものとなっていた。大陸から船を護衛し、不振な船は検問し、海賊が相手であれば一戦交える。
玄界灘の平和は、阿智の手腕によって守られている。だから、その阿智が長く豊前を留守にするというのは、実は結構、大変なことなのだった。
だがとうの阿智は、特に気にした様子もない。
「なに、心配はいらぬ。私の部下は優秀な者ばかり。頭領が居らずとも、なんら乱れることはない」
そう言うと、右手の扇で口元を隠した。
「それよりも重然殿。聞きましたぞ。薩摩の軍門に入ったそうですな」
「はぁ・・・・・・」
——なんで知っているんだ?
重然は生返事を返しながら、内心で首をかしげた。
火魅子の勅旨を受けたのは、つい先ほどのことである。正式な宣言が下るのは、これからなのだ。
本来ならば、阿智も宣言があってから知ることの出来る情報のはずなのだ。
だが実際、阿智はすでに知っている。
重然が薩摩からの要請に応じて、火魅子の綸旨を賜るまでにかかった日数は五日ほど。その間に、何らかの形で知ったのかもしれない。何しろ『同業者』なのだから。
「ということは、石川島は空けるのですかな?」
「そうなりますな」
「頭領不在とは。・・・・・・部下の者どもも、さぞ不安でしょうな」
「いや、手下は全員、つれていきまさ」
事も無げな重然の一言に、阿智は一瞬、目を大きく見開いた。
「・・・・・・全員、とは。また思い切ったことをなされる」
「それも織り込んで、薩摩に呼ばれたんですわ」
「なるほど・・・・・・なるほど」
阿智は二回ほど頷くと、背伸びをして、そっと顔を重然の顔に近づけた。上目遣いに小声で、
「全員はおやめなさい。石川島をもぬけの殻にするのは危険だ」
と言った。
低く、押し殺したような一言。
重然は何かを感じ取った。視線だけで周囲を見回すと、止めていた歩みをゆっくりと再開した。阿智も同じように歩き出した。
「いま、石川島を空けることはいけない。非常にいけない」
「なぜですかい」
「火向灘にはまだ海賊が居ろう。それを放っておく気ですか。石川島は、たちまち乗っ取られますぞ」
「だったら後で追い返すまで」
「妻子はどうなさる。海賊は奪うぞ、何もかも。・・・・・・お主も、もとは海賊だろうに」
「海賊は海賊でも、あっしらは『義賊』だ。それに元はしがない漁師。無体はしない」
「お主がそうでも、やつらは違う。置いていかれた女子供は・・・・・・」
と、そこまで早口で捲くし立てていた阿智は、不意に言葉をなくした。
「・・・・・・まさか、連れて行くのか」
重然はニヤリと、口元を歪めた。
してやったり。そんな笑みだった。阿智は開いたままだった口を閉じると、ため息をついた。
「そうきますか。まったく・・・・・・心配した私がバカみたいだ」
「ご心配、痛み入ります。・・・・・・さて、心配事が解けた所で、そろそろ本題と移りましょうかい」
「ん? ・・・・・・何のことですかな」
視線を前方に向けて、阿智は低く応えた。口元を扇で隠す仕草に、重然の眼光はキラリと光を放った。
——そもそもがおかしいのだ。阿智が、石川島の心配をすること自体が。
宗像と石川島。その関係が険悪ならば、阿智と重然の関係も、決して良好ではなかった。互いに目立った反目こそしないものの、それぞれの立場上、接触は控えていた。
それは、今回のように宮殿で鉢合わせしても、せいぜいが挨拶をしてすれ違う程度が殆どだった。
『他人』というスタンスを常に維持してきたのだ。他人ならばぶつかり合うこともないからだ。それが功を奏して、宗像と石川島の全面衝突は避けられてきたのだ。
だというのに、今回に限って、阿智は異様に絡んできた。在りえない『心配』までしてきた。
疑わないほうがおかしい。
「白々しい誤魔化しはいらんでしょう」
だから重然は言ってやった。誤魔化すということは、本心を隠したいと言うこと。それを暴き出すには、決して妥協してはならない。
阿智はしばらく無言だった。もったいぶっているのか、逡巡しているのか・・・・・・それとも、あくまでも知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりなのか。
ふいに、口元を隠していた扇が下がった。
「重然殿。僅かでいい、部下は残していきなさい」
阿智の放つ雰囲気が鋭くなった。もう隠すつもりもないのだろう。
本性を表しやがった・・・・・・。
自分よりもずっと小さい男に、重然は、獣の如き気配を感じ取っていた。
蛇か鬼か。どちらが出てきても構わないが。
「石川島を空けると、なんか不都合でもあるんですかい」
「あります。大ありです。いま完全に出て行かれると、はっきり言って困のですよ」
「なんで」
「その言葉こそ白々しい。分かっているくせに相手から聞き出そうとするのは、相手を不快にするだけですぞ」
「ちっ・・・・・・さっきまで大人しかったのに」
図星を指されて舌打ちした重然に、阿智はくくと笑った。
「お互い様ですな。おつむの足らない東魚(あずまうお)と思っていたら、釣れたのはとんだ海蛇だ」
「ひでぇいい様だな、おい」
「そちらも、言葉遣いが随分と乱暴になりましたな。遠慮は一体どこへやら」
お前はもう少し遠慮しろ。内心そう毒づいた。
まったく・・・・・・。そうは思いつつ、重然は内心、少なからず衝撃を受けていた。
引きずり出した本性が、まさかここまで嫌味なものだったとは。温厚な印象しかなかった阿智の意外な一面は、あまりにも意外すぎた。
とんだ猫かぶりだ。見事な騙しっぷりだ。きっと誰も、阿智の本性は知らないであろう。
あの紅玉や、もしかしたら亜衣でさえ知らないかもしれない、阿智の本性。
暴いたことを誇るべきか、暴いてしまったことを嘆くべきか。重然は複雑な気分になった。
「・・・・・・まぁ、それでも、これで互いに腹を割って話せるというものでしょう」
「腹の探り合いはいらないってか。それはそれで楽だけどよ」
苦い表情で重然は頭をガリガリと掻いた。
「言いてぇことはわかる。要は、そっちの馬鹿どもがつけあがるってんだろ?」
「ええ、まったくその通りです」
素直に頷いた阿智を横目で一瞥し、面倒くさそうにため息をついた。
阿智の懸念はわかる。石川島を空にして、その隙に何かあったら、喜ぶのは宗像海人衆なのだ。
外から見ているとわかる。宗像海人衆は本当に嫌われていると。いくら王族、ひいては女王と強い結びつきを持っていようとも、それを嵩にきて威張り散らせば、嫌われて当然だ。
それでも、どこそこから表立った文句がないのは、それがやはり女王や宰相との繋がりがあるからだ。
しかし宗像海人衆が後ろ盾だと思っている亜衣や火魅子は、そんな高慢を優しい目で見過ごしてやるほど愚かでなければ、身内贔屓でもない。
あまりにも目に付けば、ばっさりと切り捨てられるだろう。阿智はそれを恐れているのだ。だから対抗馬である石川島海人衆とも事を構えようとはしない。
「もしも石川島が海賊に乗っ取られて、それを我々が退治することにでもなったら、目も当てられません。頭領である私が言うのもなんですが、宗像は石川島を手放さないでしょう。貴方たちはそのまま薩摩の軍門に『本当に』下るしかなくなる。そうなったら、もう海人衆の中で、我々(宗像海人衆)に対抗できる者がいなくなります。それでは困るのですよ」
「だったら、宗像が薩摩にいけばいいじゃねぇか」
「それが出来たらどれほどよいか」
やれやれと阿智は、わざとらしく嘆息して、首を横に振った。
阿智はこんな様子だが、内心どう思っているのかはわからない。
たしかに、阿智の言うことは一々最もとだ。今まで、宗像海人衆と石川島海人衆は、互いに睨みあって来た。それは結果として、暴走しがちな宗像海人衆を監視・抑制することにもなった。
つまり、宗像海人衆の暴走を押さえつけられる唯一の存在、それが石川島海人衆なのだ。
だからその石川島海人衆が『海人衆』でなくなるということは、阿智にとっては当に死活問題なのであった。
そういう意味では、ここは石川島海人衆ではなく、宗像海人衆が出張るのが、形としてはよかったのだ。だが不幸なことに、選ばれたのは石川島で、宗像海人衆には話しすら回ってこなかった。
だと言うのに・・・・・・。
「私の部下たちは、揃いも揃って言っていますよ。『薩摩なんて辺鄙に呼ばれて、石川島は可哀相だ』とね」
「まったくわかっていない」と、阿智は愚痴をこぼすように言い放った。自分たちの行いが引き起こしたこの現状を、当の本人たちがまったく理解していないことに、苛立っている様ですらあった。
その様を見つめながら、重然は、何だか段々と、阿智が気の毒に思えてきた。
それはきっと、この僅かな一時の間に、阿智への評価や印象が、がらりと変わってしまったためだろう。
知らない一面、なんてもんじゃない。ともすれば、目の前の男が本当に阿智なのかどうかさえ怪しくなるほどだ。
だが何よりも、阿智の本心の一部に触れたような、そんな気がするのだ。てっきり、阿智も権力を嵩にきたものだと、そう思い込んでいた。
衆の雰囲気というものは、その衆の頭領の色でもある。昔、先代の頭領——織部の父親——から言われた言葉だった。
だが、宗像は違うようだ。少なくとも、阿智はまだ暴走しているようには見えなかった。
なんだかんだと言って、阿智にも、この九洲を受け継いでいるという思いがあるのだろう。だから自らの手下の態度に、身内ながら苛立っている。
重然には、そう思えて仕方がなかった。
——嫌味だが、まじめな奴。それに強かだ。それが重然の抱いた、阿智への新しい印象だった。
「話はわかった。たしかに、阿智殿の言い分も最もだ。・・・・・・手勢は幾つか、残していきやしょう」
重然のその言葉に、阿智は小さく頷いた。ほっと息をはくのを、扇で上手いこと隠しながら。
「さぁ、これで心配事はなくなりましたな。重然殿、引き止めて悪かった。道中、気をつけての」
笑顔でそういうと、阿智は踵を返して、重然の辿ってきた道を逆に向かって歩き出した。
遠ざかる阿智の後姿に声をかけることもなく、重然はただ黙って見送った。そして直ぐに、自身も歩き出した。
新築されたばかりで張りのある床が、きしりと音を立てた。
知事やそれに順ずる地位の者、解放戦争の折に目覚しい活躍をして取り立てられた者などは、その殆どが耶牟原城に屋敷を構えていた。
普段は地方で生活している者が殆どだが、所要で上都する際には、都にある己の屋敷に一時期住まうことになっていた。
宗像海人衆頭領の阿智も、そんな一人であり、彼は二ヶ月近くをその屋敷で住んでいる。
同様に重然も都に屋敷を持っていた。あまり大きくはないが、それでも立派な屋敷である。
外見は中世の日本における屋敷に似ている。一般に『武家屋敷』と呼ばれる造りである。
この建築を最初に取り入れたのが、他でもない九峪であった。
——『どうせだから、武家屋敷に住んでみたい。やっぱり戦国時代は男のロマンだよ、うん』
誰一人として戦国時代が何でロマンが何かもわからなかったのだが、そんなこんなで出来上がったのが、通称『九峪御殿』である。現在は亜衣の住居となっているこの屋敷が、九洲における『武家屋敷ブーム』の先駆け的存在となった。
おかげで、金のある者はこぞって屋敷を立てていった。神の遣いに肖ろうという心胆が見え隠れしていた。
知事たちも我も我もと屋敷を立て、果てには復旧途中の耶牟原城にさえ、この技法は取り入れられるほどだった。
重然も都に自前の屋敷を構えている。そんなに大きくはないが、庶民から見れば、まぁ、豪邸と呼んで差し支えない大きさではある。
正門を抜けると、最初に広がるのは庭である。この屋敷には明確な玄関は存在せず、言い換えれば、建物の中に入れる場所全てが玄関のようなものだった。
「・・・・・・お前なぁ」
門を潜った重然の、第一声がこれだった。重然の屋敷でもっとも玄関としての用途を成している縁側で、愛宕がでろんでろんに『出来上がっていた』からだ。
時間にして、まだ正午を過ぎたばかり。徳利が五つも空になって転がっている。
「あっ・・・・・・おっはしらぁ〜」
頬を上気させ、目はとろんとだらしなく垂れている。何が楽しいのか、へらへらと締まらない表情で、足をパタパタと動かし、手に持った徳利をゆらゆらと揺らしている。
愛宕も香蘭と同様、二十三歳の歳を迎えていた。細く締まった身体には扇情的な肉がつき、昔以上にメイハリのついた体つきをしている。
髪を後ろで束ねているのは昔から変わらないが、年月を重ねたことで五年前とは比べ物にならないほど『女の匂い』を醸すようになっていた。
早い話、愛宕は『色っぽい大人の女』になっていたのだ。
——外見だけ、を言えば。
「真っ昼間から飲んべぇになってんじゃねぇよ」
徳利を拾って、重然は呆れたようにため息をついた。愛宕の傍に近寄った瞬間、濃い酒気が重然の鼻腔を一気に襲った。
「らってぇ〜、おっはしらはぁ〜、おっそいはらぁ〜」
「ああったく、語尾を延ばすな、だらしねぇ」
「あひゃぁ」
変な声を上げて、愛宕がコロンと寝転がった。重然の言葉の何が楽しかったのか、「にゃは」とか「みゃはあ〜」とか喜びながらバタバタと小さく暴れている。
——だめだ。何を言ってもこいつを喜ばせるだけだ。
愛宕は笑い上戸なのだった。
こうなった愛宕とは、もうまともな会話は成立しない。いや会話自体は可能なのだが、すぐに笑い出すため、話が進まないのだ。
「ったく・・・・・・ッ」
嘆息した重然は、不意に息を呑んだ。
暴れているせいで乱れた衣服。裾で僅かに隠された太ももの奥が、一瞬だけ、見えてしまった。
それだけ。ただそれだけのことなのに、重然は目を逸らしてしまった。別に女性の下帯ぐらい、見るのは日常茶飯事だが・・・・・・。
愛宕は色っぽくなった。艶やかさが出てきた。はっきり言って美人の部類に入る。
そんな『女性』が、頬を上気させ、目をとろけさせ、衣服を乱れさせて、まるで誘うように秘部を垣間見せている。
いくら重然でも、そこは男。相手が愛宕とわかってはいても・・・・・・。
男の悲しい性である。更に言えば、子供の頃からの愛宕を知っているし、歳にいたっては十以上も離れているのだ。
気分的にも複雑だった。
「・・・・・・? おはしらぁ〜? はおはあはいれっすよぉ〜?」
「・・・・・・倭国語をしゃべれ」
「あひゃぁ〜」
だめだ、こいつ、もうどうにも出来ない。
僅かに赤くなった頬の色をごまかすように、心の中だけで呟いた。
せっかくからかって気分転換でもしようと思っていたのに、余計に疲れが増した気がする。倍増ドン、さらに倍といった具合に。
「誰だ、こいつに酒を出した馬鹿野朗は・・・・・・」
空を仰いで、重然は大いに嘆いた。志野ほどの酒乱ではないが、自分ひとりで相手をするには荷が重過ぎる強敵ではあるのだ。
——— はぁ・・・・・・。もう、どうでもいいや。
「とりあえず、だ。明後日にはここを出るからな。準備しておけ。いいな」
疲れた声でそう言った重然は、家の中には入らずに、そのまま身を翻した。
愛宕はキョトンとして、
「おはしらぁ? ろこいくんれっすはぁ?」
重然の背中にそう尋ねた。
「・・・・・・疲れた。俺もちょっと、飲んでくる。ついでに女も抱いてくる」
「・・・・・・いく」
「あ?」
「はしきもいく」
「だから倭国語を・・・・・・っておいッ」
愛宕はいきなり立ち上がると、ふらふらしながら重然に襲い掛かった!
——かのように見えたが、なんてことはなく、そのまま重然の背中にひっついた。両手を大木のように太い首に巻きつけ、足で腰を『ガシッ!』と絡めてホールド完了。
突然のことに、さすがの重然も踏鞴を踏んでしまった。五年前とは違って、今の愛宕は、身長も伸びて少しだけ体重も増えた。
いくら重然でも、もう、不動で受け止めることは難しくなっていた。
「お、お前、危ねぇだろ!」
「はふなくないれっすよぉ〜? はしきは」
「酔っ払いが、なにを言っ、て」
ふにん
重然の言葉が止まった。
背中に、とてつもなく柔らかい感触が二つ。
——でけぇ、柔い。まさか、ここまでとは・・・・・・ッ!
密着しているのに、その二つの感触だけは、ことさら熱く感じられた。否応にも女を感じさせ、思わず生唾を飲み込んだ。
「・・・・・・おはしらぁ?」
「な、なんでもねェッ! ・・・・・・ったく、しゃあねぇ、いくぞ」
諦めて重然は、愛宕を連れて行くことにした。これ以上は無意味な問答になると思ったし、これ以上巨乳——じゃなくて愛宕を感じるのは、何かマズイ気がしたからだ。
愛宕をおろして、再び天を仰ぐ。
——なんで俺が、こんなガキをこうも意識せにゃならんのだ・・・・・・。
本当に、どっと疲れが押し寄せてきた。もう何でも良いから、酔っ払ってしまいたかった。
「オラ、行く前に散らかしたものは片していけ」
「はいっすぅ〜。・・・・・・はれ? こういうときは・・・・・・」
愛宕はふいに小首をかしげた。それから何を思い出したのか、
「—— 『いえっさぁ〜!』。えっへっへ」
と、満面の笑みで敬礼したのであった。
それから空になった徳利を拾って、屋敷の中へと姿を消した。
がっしゃ〜ん
——不吉な音が聞こえてきた。酔っ払いめと重然は、疲れることに疲れたため息をついた。
それから、ふと、愛宕の一言を思い出した。
「・・・・・・『いえっさー』、な」
呟いた一言が、懐かしく感じられた。
九峪が、この九洲に残していった沢山の痕跡。九峪がいなくなったことで、もうそれらの痕跡も消えてしまったような、そんな気がずっとしていた。
だから、愛宕の口からこの一言が出来たことが、重然を不思議な気分にさせた。
「おはしらぁ〜。ひゅんひへきましたぁ〜」
「だから倭国語を・・・・・・もういい」
やれやれと肩を竦める。重然は気づいていないが、この仕草も、九峪の影響の一つなのだ。
痕跡はいたるところに残されている。記録にも然り、物にも然り、土地にも然り——人にも然り。
気づいていはいないが、ただ、九峪をまだ身近で感じられた気はしていた。だから重然は、それを何としても守りたいと思っていた。
九峪を受け継いだ愛宕も、守るべき存在だ。九峪を受け継いだ九洲に生くる者すべてが、重然の守りたい、守るべきかけがえのない存在だったのだ。
まるで、風に揺れる草のようにゆらゆらと前を歩く愛宕を見つめながら、重然は人知れず、決意の熱さを感じるのであった。