『色恋喧嘩は酒の花、好いた惚れたとはやし立て、わしかお主かと殴りあう。ええじゃないか、ええじゃないか』
——などという歌が聞こえてきて、重然は遣る瀬無さに天を仰ぎ見た。なにが『ええじゃないか』だ。よくねぇよ。
人で溢れかえった通りには、喧々と騒がしい言葉が飛び交う。どいつもこいつも酔っ払って、酔いと興奮で顔を真っ赤にしていた。
そんな中で、ただ一人、重然だけは酔っていられる気分にはなれなかった。
顔を正面に向ける。視線の先には人の群れの中にあって不自然に開いた空間がある。綺麗な円形を描いたその空間は、周囲の騒々しさとはかけ離れた、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
「・・・・・・愛宕。負ける覚悟はできたか」
「・・・・・・そっちこそ、命乞いをするなら今の内でっすよ、姉御」
一触即発。害意を剥きだしにして、二匹の野獣がにらみ合う。
一方は愛宕、そしてもう一方は——どういうわけか、そこに立っているのは織部であった。
両者そろって下帯姿。わずかに構える愛宕に対して、織部は悠然と、愛宕よりも巨大な胸を両手で押しつぶすように腕を組み、肩を張って仁王立ちの体勢だった。
『龍虎相まみえる』という言葉すら生ぬるい。そこに立つ二人は、龍でもなければ虎でもない。
——鬼神が、そこに聳えていた。
「なんだ、この状況・・・・・・」
重然はただただ、疲れたように、がっくりと肩を落とすのだった。
耶牟原城は九洲に現存する都市の中で、三番目に古い歴史を持つ巨大な都市である。
創建はおよそ五百年前——紀元前二百年ほど昔まで遡るとされている。建設当時は、異世界からの干渉をもっとも大きく受けることとなる、
———魔天戦争
が、まさに繰り広げられている暗黒の時代であった。
しかし三世紀を生きる人々にとって、その時代の話は、すでに言い伝えの伝説となり、全てが神話の世界の物語だった。
伝説はこう伝えている。
『天空の姫御子は、はるか高千穂の頂に降り立った。
長い矛を大きく振り、そこから炎が生まれると、天空の姫御子は、今度ははるか阿蘇の峰を飛び渡り、その頂に昇り至った。
天空の姫御子が詠うと、空は晴れ渡った。炎の矛を掲げると、日輪は眩い輝きを取り戻した。隠されていた日輪に照らされて、天空に三柱の神が現れ、地上に五柱の神が現れた』
こうして、火魅子と八柱神は九洲の地に降り立った。この時から、九洲は『本当』の意味で、魔天戦争へと、その激動の道を歩むこことなるのだ。
倭国全土で共通する伝説は、魔天戦争の始まりから終わりまでである。それぞれの土地、国で起こった出来事は、一本の系譜へと体系化されていくこととなる。
これが後世、皇室の手によって一部を訂正・改稿された、
——日本神話
として完成され、天皇の正当性を象徴する『皇族正典』となり、同時に、日本最古の歴史書として日の目を見ることとなる。
火魅子の物語は神話の中に散りばめられ、原型を留めることはなかったが、逆を言えば、神話全体に影響を与えているともいえるのだ。
——伊邪那岐と伊邪那美の『天の沼矛』
——太陽を司る女性の最高神『天照大御神』
などなど。後の耶麻台共和国の物語も含めれば、こんなものではなくなってしまう。
このように、魔天戦争の伝説は、後世の世に長く影響を与えることとなる。
耶牟原城は、そんな時代に築かれた、当時を語る遺構であった。
現代の福岡県にある星野村、黒木町、八女市を三角に結んだほぼ中心に、耶牟原城は建設された。
しかし建設当時、この都市の名は『耶牟原城』ではなかった。
耶牟原城の名前の由来は、
——八牟原(やむはら・やむのはら)
から来ているとされている。『牟』は『神』を表す意で、八牟原とは『八人の神のいる原』という意味である。蛇足だが、『ホノカグ“ツチ”ノカミ』に見られる『ツチ』も、神を現す言葉だといわれている。
かつてこの八牟原の地で八柱神は、姫御子のために全てを捧げることを誓った。その誓いの証として、それぞれの名と誓いの言葉を掘り込んだ石柱を立てた。これが数百年の時をかけて高い神性を帯びた『時の御柱』となる。
全ての戦いが終わり、姫御子と八柱神はこの地に帰り、都市を築いた。耶牟原城の始まりである。
幾年月を重ね、一度は冷たい水の底に沈んだ耶牟原城。
九洲の人々にとってまさに『聖地』とも呼べるこの巨大都市は、滅亡から二十年経った今、再び、栄華を刻みつけようとしていた——・・・・・・。
「・・・・・・ふ〜ん」
耶牟原城のとある酒場。
酒樽に身体を預けながら、重然は、舞台の上で朗々と語る詩人の詩を、それほど面白くなさそうに聞いていた。
そこそこの広さのある酒場は、呑んで騒ぐ客と、細々と働く給仕で、あたかも戦場のようであった。
杯が飛び、酒が飛び、肉が飛び、骨も飛ぶ。もちろん人間の骨肉ではなく、鳥や獣の肉と骨だ。
「は〜・・・・・・なるほどなー」
向かいに座って黙々と酒を飲んでいた愛宕が、気の抜けた声で呟く。両手で大きな杯を持ち、ゴッゴッゴッと音を立てて呑む様は、身体に似合わずかなりの酒豪であることが伺える。
っぷはぁー。かー、うめぇー。
すっかり親父であった。口の端からこぼれた雫を荒々しく拭い去り、新しい酒を波々と注いでいく。
「よく飲むな、お前」
呆れ顔で言った重然に、愛宕は鹿肉の切り身を噛み千切りながら、
「はるへのんへふおはしらにはいはれはふはひへっふほ」
「食うか呑むか酔うか話すかのどれかにしろ」
もはや何を言わんとしているのかもわからない。もっきゅもっきゅと頬一杯に肉を詰め込み、酒で一気に喉の奥へと流し込む。
食いっぷりはすばらしいが、見ているこっちは胸焼けを起こしそうだ。もっぱら飲む人の重然にとってみれば、大量の肉をこれまた大量の酒で流し込むなど、とうてい有得ることではないのだった。
「そんなに美味い肉か、これ・・・・・・」
一切れの肉をつまみあげて舌の上に乗せる。干せてしまっているし、油も固まっている。もう一度あぶれば美味く食えるだろうが、必死になって食うほど美味いとは思えなかった。
「いやぁ、なんか食べないと、損した気分じゃないでっすか」
「俺の金だろ。自分は一銭も払わんで、なぁにが損した気分だ」
「だってぇ」
すでに金欠となった愛宕は、悪びれた風もなく酒を仰いだ。
「そういえば、お頭?」
うんざりしたように酒を飲む重然に、愛宕が不意に声をかけた。顔を重然に向けず、やや俯き加減に視線を杯へと落としている。
どこか、落ち着いているというか、慎重な表情だった。
「・・・・・・おんな、抱かないんでっすか」
「・・・・・・あ?」
思わず聞き返してしまった。いきなり何を言い出してんだ、こいつ・・・・・・と、そう思ったのだ。
あまりにも脈絡のない質問である。『そういえば』と前置きをしているから、たったいま思い出したのかもしれない。
たしかに、重然は屋敷を出るとき、『女を抱いてくる』と言っていた。そのことに思い至った重然は、そういえばすっかり忘れていたと、酔った頭で何となく思った。
女、なぁ・・・・・・。重然に顔を向けない愛宕をみながら、一口酒で喉を潤す。
「どうでも良くなった。・・・・・・探すのも面倒くせぇしな」
「・・・・・・そっすか」
机に突っ伏した状態で、愛宕がぽつりと呟く。杯を指先でいじりながら、酒を注ぐでもなく。
それから暫く、二人の間に会話はなかった。なぜか奇妙な雰囲気がしていたからだ。周りの喧騒からかけ離れて、互いに何もいえない空気が出来上がっていた。
そんな時だった。
「よう、重然。辛気臭い顔して、どうしたよ?」
いきなり声を掛けられて、重然は驚きながら振り向いた。愛宕も声に気づいて、顔だけを持ち上げる。
「・・・・・・お譲?」
「あ・・・・・・あれ? 姉御?」
小鹿の角で作った角杯を片手に、織部がそこに立っていた。
「・・・・・・おや?」
耶牟原城のとある酒屋。喧騒と雑踏の中で、織部は馴染みのある顔——というか頭を発見した。
激しく揺れる人ごみの中で、それでも容易に見つけられる、巨大な背丈。後ろで束ねられた髪。見間違うはずがない。
「おーい、重然ッ!」
大声で呼ぶが、頭は微動だにしなかった。
気づかなかったようだ。折角だから、一生に酒を呑もうと思い、
「わりぃ、他と呑んでくれ」
周りの男たちにそう言うと、織部は勢いよく立ち上がった。
男たちは口々に、
「ええっ」とか、
「もういっちまうのかぁ?」とか、
「姉ちゃん、まだいろよ、な」などなど、織部を足止めしようとするが、織部はかまわず男たちの傍を離れていった。
人ごみを掻き分けて、隅のほうに行く。酒樽にだらしなく寄りかかって、妙にぎこちない表情をした重然がいる。
傍まで近づくが、重然は気づかない。はてと織部は小首をかしげた。
「よう、重然。辛気臭い顔して、どうしたよ?」
「・・・・・・お譲?」
「あ・・・・・・あれ? 姉御?」
「おう、織部姉さんたぁ、あたしのことよ・・・・・・ってな」
重然の隣にドカッと腰を下ろす。
「すごい臭いだな、おい。店中酒の匂いでひでぇことになってるけど、ここはまた別格だ」
さしもの織部もあまりの酒気に顔をしかめた。重然と愛宕はすでに嗅覚が麻痺しているためそれほど気にはならないが、まだ素面と言っていい状態の織部は、酒の霧の中に迷い込んだ気分だ。
酒を飲まないでも酔いが身体を満たしていく。脳が麻痺を起こしたように、一瞬、織部の意識が揺らいだ。
「おっと・・・・・・」
さすがに辛くなったのか、織部は膝を崩して、重然の胸にもたれ掛った。酒を飲んで血行が良くなったのだろう、密着している部分が、焼けるように熱い。
酔いが身体に馴染んでくる。朦朧としかけていた意識は段々と明瞭になっていく。
「へへっ。悪いな重然、ちょっくら体かりるぜ」
頬を紅潮させて、言葉もどこか艶かしい。胸に感じる織部の重みが、重然を変に意識させた。
濡れた瞳と、赤く色づいた唇。うっすらと微笑みを浮かべるその表情に、重然の頬も少しだけ赤くなった。
酔い、のせいだけではない。意外なほど柔らかい織部の身体が、重然の『男』を刺激してくる。
九峪風に言えば、そう——『エロい』身体なのだ。それも愛宕『以上』にエロい。
織部は今年で二十九歳になった。しかも独身。この時代では未婚としては年長の部類に入る。
年齢的なもので言えば、織部と重然の年齢差はそれほど離れていない。重然、御歳三十五歳。年の差は僅か六である。
「いやー、まさかこんな所でお前らに会えるなんてな」
ケタケタと織部は笑う。角杯の酒を飲み干すと、空になった杯を重然に手渡した。何も言わないが、重然にはわかる。受け取って酒樽の中に突っ込んで、それを織部に返した。
「おう、わりぃな」と、織部は角杯を受け取った。
「お嬢は、なんでまた、都に」
重然の記憶によれば、織部は火向県にいるはずである。火向県の知事は志野が勤めている。かつての志野一座(志都呂一座)は、もれなく志野の配下として、川辺城で暮らしていた。
火向県での織部の仕事は兵士の調練である。姉御肌の織部は、きっぷうと面倒見のよさから、兵士たちに慕われていた。
「いやぁ、な。一座が解散して、もう五年になる。・・・・・・今の生活に不満はねぇけど、やっぱ、自由な生活も恋しくてよ」
「それで、都まで来たんでっすか? 暇なんでっすか?」
「や、暇じゃねぇけどよ。酒の席で何となく、座長の前でポロッと言っちまったんだよ。そしたら座長が、『休暇をあげますから、しばらく、羽を伸ばしてきてください』・・・・・・てさ」
「志野様が? はぁ〜、やっぱりいい知事様でっすねぇ」
感心したように、愛宕は首を上下に揺らした。頷いている、らしいのだが、動きがどうも緩慢である。
いい知事、といえば正しくその通りで、志野の知事としての評判振りとくれば、九洲で随一と呼べるほどであった。
志野は九洲各地を芸人として渡り歩いた過去を持っている。こと九洲全域の風土はもちろん、農耕の良し悪し、人柄などにも精通している。
そして、自身も低い身分の出——ということになっている——であることも手伝い、志野の取り仕切る政は、民に即したものが多い。
財政の切り盛りも上手く、知事としては珍しく、娯楽にも力を入れていた。そのため現在の火向県は、自然と、旅芸人たちの活動拠点になりつつあった。
「座長も、本当は、昔みたいに旅がしたいんだろうよ。けど、座長は優しいからなぁ。いまさら火向の連中を見捨てて、芸人に戻ることもできないんだから、可哀相なもんさ」
志野のことを思うと、織部も少しだけ心が痛む。志野は何よりも、自由の似合う女だと思っているからだ。
右へ左へと切っ先の移り変わる剣舞のように、一見すれば不規則に見える舞いの中に、鋭い剣閃と、たしかな道筋を描いている。
凝り固まった一本道ではなく、幾重にも枝分かれした千手の道。それを選ぶ自由が、つねに志野にはあったのだ。
だが今の志野には、知事としての生活しかない。自由を愛し、舞いを愛し、新しいものを求め続ける性分の志野にとって、それは四肢をもがれた人も同じ。翼を折られた鳥も同じである。
だからせめてと、志野は人々の暮らしの中に、己の失った自由を求めていた。民を自由にすることで、同時に、自らをも自由にしようとしている。
娯楽の奨励は、まさにその最たる例といえた。芸人が増えれば、新しい物も火向県に入ってくるからだ。
織部が旅を許された背景にも、そのような事情が絡んでいた。そして織部は、許可を下した志野の心情に気づいていた。もう六年近い付き合いになる。決して短くない年月だ。
「都に来れば、なにか新しい物でもあるんじゃないかと思ってきたんだけど。手に入ったのは、大陸の酒くらいのものさ」
「目新しい物がほしければ、ここよりも、那の津や坊の津に行った方が、いいんじゃねえですかい」
「・・・・・・だよなぁ。行くなら湊町だよなぁ。奈の津か、坊の津か」
言って、織部はぐったりと脱力した。
古今東西、繁栄した都市の裏には、商人絡みの事情が関わっていることが殆どである。
その中でも、特に、交易による栄えは、他の追随を許さないほどである。
そのため、陸路での要所、または航路における湊町など、土地的に物と人が必ず通るか入るかする場所に、栄華は運び込まれてきた。
九洲で繁栄した湊街は、主に三つ存在する。
最も隆盛を誇るのが、本洲、半島、大陸と通じている、
——那の津
二つ目に、半島、大陸と通じている、
——坊の津
最後に、琉球島との交易の際に用いられた、
——錦紅湾の湊町
の、三つである。那の津に関しては省略するが、坊の津は火前県 ——現代でいう長崎県の佐世保湾一帯に面している部分のことである。奥には巨大な大村湾もあり、この半島部分は水運業が盛んである。
これらは昔から発展を遂げた都市であるが、現在まともに船が入ってくるのは、北方の那の津だけという状況が、ここしばらく続いていた。
坊の津と錦紅港に港船が入らない理由・・・・・・それは件の、北山の問題が原因であった。
坊の津はまだ大きな被害が出ておらず、収益は下がったものの、まだ正常に機能はしている。問題は錦紅港であった。
以前から、北山の軍船による領海侵犯はあったものの、それとは関係なく、琉球島からの商船は毎日のように来航していたのだ。
それがここ最近、目に見えて船が入らなくなった。輸入出による利益は右肩下がりとなり、ただでさえ豊かと言い難い薩摩県の財政は、よりいっそう圧迫されているのだ。
香蘭・紅玉親子が重然に泣きついてきたのも、頷けるというものであった。
「坊の津はなぁ。最近、海賊が出て、船の入りも悪くなったって話しだぞ」
「へい、聞き及んでまさ。北山がちょっかい出してるんで」
重然の言葉に、織部は怪訝そうに眉根を寄せた。
「北山? 琉球島の北山か」
「へい。何を思ったのか、大隈海峡から、宇治の群島周辺まで、手広く」
「北山・・・・・・。あのクソッタレの北山か」
憎憎しいほど、織部の声は重かった。
織部はもともと、石川島衆頭領を父に持つ、根っからの海人でもある。志野の一座に入る数年前までは、重然同様、石川島で海人の暮らしをしていた。
当然、それなりの海賊家業もやっていたのだが、その時に何度か、北山の軍船と鉢合わせをしたのだ。
「あいつら、戦いもせずにさっさと逃げ出してよ。ああいうのがムカツクんだよ、イラツクんだよ。戦わねぇってなら、来るんじゃねえよッ!」
ダンッ! と、角杯を床に思い切り叩きつける。全身から怒りの匂いを漂わせながら、織部は、自身がどれほど北山に対して怒りを抱いているかを無言で語りかけていた。
北山が憎い、というわけではないのだ。ただ、嫌いなだけだった。
さっぱりとして、一か十を好む織部にとって、自分たちの鼻先を掠めながら、いざ近づくとさっさと逃げ出していく北山の態度が、腹に据えかねるほど腹が立つのだ。
戦うなら戦う。その上で完膚なきまでに潰しあう。織部はそう考えているのだが、北山は近づきながらも、まるで嫌がらせのように、何もしてこないのである。
何もしてこないのが、反って腹が立つ。それが織部という女性であり、北山への気持ちだった。
酒を一のみして、ふぅっと心を落ち着かせる。北山のためにムシャクシャすることが、何か悔しく思えた。
だが、ふと。心が落ち着いたところで、織部の脳裏に疑問が浮かんだ。
「北山が、そんな近くまでくるのか? しかも船を襲うなんて」
それはそれでおかしい話だ。なぜなら北山は、『今までまともに手を出してこなかった』のだから。
織部が疑問に思うのも無理からぬことなのだ。それは重然も然り、薩摩政庁でも、北山の明確な目的など、知る由もないのだ。
北山が手を出してきた。その事実は、可能性として十分に起こりえた事のはずなのに、何か気味悪いものを感じざるにはいられなかった。
「ことによっちゃ、薩摩が荒れるかもしれねぇなぁ」
難しい表情をして、織部は固い声で言った。
部外者である織部ですら、気味が悪いと思ったのだ。香蘭・紅玉親子——とくに母親のほうは、織部以上に、事態を重く見ていることは想像に難くない。
仔細はどうであれ、現在、薩摩では北山を『海賊』と認定している。これらの対処をするために、近いうちに、大規模な海賊討伐令が下されるだろう。
これが原因で北山との戦争が始まる可能性もあるが、このまま北山の暴挙を見過ごすわけには行かない。薩摩の財政は火の車なのだ。
「北山と戦か・・・・・・。あたしも参加するかな」
丁度いいとばかりに、織部はニヤリと笑った。腹立たしい北山と、ようやく戦えるのだ。
千切っては投げ、千切っては投げ。脳内で自分に吹き飛ばされる北山の姿が浮かんで、気分がどんどんと高揚していくのがわかる。
ただ、重然は、織部のような気持ちにはなれなかった。一軍を率いて戦うのだ。海の戦で遅れを取るとは思っていないが、ただ倒すことに喜びを感じることは出来なかった。
大義名分はある。海賊の討伐は、重然自身、いままでだってやってきた。それでも、予感があったのだ。
ただの討伐では終わらない。そう思わせる気味悪さが、この一件に——北山の影に、見え隠れしているような気がしてならないのだ。
これから海に出て、北山と戦って、そしていったい何が明らかとされるのか。この胸の内に蠢く不安が杞憂に終わればと、重然は切に願うばかりだった。
「・・・・・・おいおい、重然。まぁた辛気臭い顔してるぞ」
「おう・・・・・・すいやせん」
考え事に耽っていたせいで、重然の表情はいつしか、苦虫を噛み潰したくらいに難しく歪められていた。
せっかくの酒の場で、こうも暗い顔をされては堪らないだろう。不満も露に、織部は重然をねめつけた。
こういうときは、もっと楽しい顔をしなければ駄目だ。自分などは、北山と戦えると思っただけで、もう気分がいいのだ。
それをこいつは・・・・・・。と、そこまで思って、織部はふと、重然の顔を見上げた。大きな身体に似合う、大きな顔だ。無造作に蓄えられた虎髭が、時間の流れを感じさせる。
織部が、秘密を暴いた子供のように、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「・・・・・・お前、ここしばらく、女と寝てねぇだろ」
「へ?」
素っ頓狂な声が上がった。
ぼうっとした重然にはかまわず、一人したり顔で頷くと、
「そりゃいけねぇ。女を抱かねぇから、んな顔するんだよ。いねえのか、抱く女」
「いや、それは・・・・・・抱こうとは、思っとったんですが・・・・・・探すのも買うのも、面倒になって」
「なんて甲斐性なしだ」
呆れたように言われて、重然は言葉も返せなかった。たしかに、愛宕一人の相手をしただけで、女を抱く気すらなくなるなど、とんだ甲斐性なしだ。
何となく恥ずかしい気持ちになって、誤魔化すように酒を飲んだ。
「・・・・・・何だったら、あたしと寝るか?」
「ブフォッ!!」
噴き出した。凄まじい勢いで飛び出した酒が、目の前の愛宕を直撃したが、それどころではない。
予想外も予想外。まさか織部からこんなことを言われるとは露ほどにも考えていなかった。その発想はなかった。
そも、重然にとって織部という女性は、ある種の特別な意味合いを持つ存在である。
先代に従っていた連中は、重然も含めて、皆が頼もしく慕っていた。こざっぱりとして、細かいことに拘らない、海原のように大胆で大きい漢だった。
織部はそんな先代頭領の息女であり、また遺児でもある。成長するにつれて父親譲りのきっぷうと、一人石川島を離れて旅に出てからは、いろいろな経験をしたのだろう、面倒見のよい性格にもなっていた。
姿かたちも、今は亡き母親に似てきた。母譲りの美貌に、父譲りの快活な性格。いい女に育ったと、石川島の連中は口々にため息をもらしたほどだ。
その織部を抱く。特別な存在だったからこそ、そんな考えは今まで一度も湧いたことなどなかった。
だが——視線が、無意識のうちに、織部の身体を這いずり回る。
意識して初めて、その美しさがわかった。肉付きには一切の無駄がなく、筋肉も、必要以上についていない。
くびれの細さも、胸の大きさも、人並み以上だ。それでいて、長い髪が、ことさら織部の女を高めている。
——こんなに、綺麗だったのか。そう思わずにはいられない。冗談だと笑って切り返すことの出来ない、それほどの美しさがそこにあった。
愛宕と違い、織部の女性は『熟成』されている。匂いたつような女ぶりだ。
ごくり——と、知らず生つばを飲み込んで、重然はとっさに我に返った。
——いかんっ。何を考えてんだ!? 相手はお譲だぞッ!!
そう思って、煩悩を頭から追い出そうとする。だが時すでに遅く、織部の表情は、さらに愉悦に染められていた。
「我慢するなって、な。イロイロ溜まってんだろ? ・・・・・・あたしが、相手してやるから」
振り向いた織部が、胸を重然の身体に押し付けてきた。柔らかくも弾力のある豊かな乳房が、硬い胸板に押し潰されて形を変えている。
うおおぉぉ ——・・・・・・と、もはや声にならない。今まで何人もの女性を抱いてきたが、これほど豊満な胸は寡聞に知らない。
「ほれほれ。興奮してるな? 欲情してるな? 性欲を持て余してるな?」
「お、お譲・・・・・・か、勘弁してくだせぇ」
「なぁに言ってやがる。嬉しいくせに」
困惑する重然がおかしいのか、それとも自身も興奮してきたのか、頬を真っ赤にして、さらに強く身体を擦り付けようとする。
胸だけでなく、腹で、股で、太ももで——どんどんと行為は過激になっていく。熱に浮かされたように、瞳も光を失いつつあった。
その時。
「・・・・・・」
愛宕が無言で立ち上がった。全身に酒を浴びたまま、顎の先から雫が垂れている。
そして——
「・・・・・・いい加減に」
杯を掴んで。
「しろーーーーーーッ!!!」
大声とともに、至近距離で——重然の顔面に投げつけた。
力の限り。
「ぶふおおッ!!」
バキンッ! と盛大に砕け散った。重然の頭が、ではなく杯のほうである。
さすがの巌のごとき重然でも、手を伸ばせば届くような近距離で、しかも愛宕の腕力で投げられては一たまりもない。意識が一瞬だけ吹き飛んでしまった。
そのまま仰向けに倒れる。つられて織部も、重然に覆いかぶさるように倒れた。
「人に酒を吹き付けて・・・・・・目の前で鼻の下伸ばして・・・・・・」
キッと、倒れた二人を睨みつける。
「あちきは置いてけぼりかーーーッ!!!」
叫びは、店中に響き渡った。しんっと店内は静まり返るが、それに気づかないほど、愛宕は興奮しきっていた。
「あ、愛宕・・・・・・おめぇ、いきなり何を」
のそりと織部が上半身を起こした。髪についた杯の欠片を払って、愛宕を険しく睨みつける。
だがそれでも愛宕は怯まない。目をギラギラと輝かせている。
「姉御、いくらなんでもやりすぎっす! 場所を考えてほしいっす!」
「場所ったって」
辺りを見回す。いつの間にか、給仕やら客やらの視線が、こっちに向けられていた。
ぽりぽりと髪を掻きながら、織部はため息を一つつくと、
「こんなもん、別に珍しくもねぇだろ。ここじゃなくたって、他のところでも、男と女が酒を飲めば、抱き合うのは当たり前だ」
「姉御はやりすぎなんでっすよ!」
「やりすぎって・・・・・・」
と、そこで織部が突然、口元を意地悪そうにニヤリと歪めた。
「お前・・・・・・もしかしてヤキモチか?」
「!?」
愛宕が言葉を詰まらせた。怒りで真っ赤だった顔が、別の種類の赤みに変わっていった。
その様をみた織部は「やっぱり」と、納得したように呟いた。
「そーかそーか。ヤキモチか。ふーん」
「あ、いや、その・・・・・・」
目に見えて愛宕の勢いはしぼんでいった。まるでしわがれた果物のように、どんどんと小さくなっていく。
「そりゃあ、気が気じゃないよなぁ? 惚れた男が目の前で口説かれてるんだもんなぁ? 守りたいよなぁ?」
「あう・・・・・・」
「自分以外の女の体で鼻の下伸ばしてるところなんか、見たくねぇもんなぁ? いやー、わかるわかる」
「あうあう・・・・・・」
もう反抗する気力も無くなってしまっていた。酒で鈍くなった思考回路は、すでに機能のほとんどを停止させていた。ただただ顔を真っ赤にすることしか、今の愛宕にはできなかった。
恥ずかしさに黙り込んだ愛宕を一通りからかい終わった頃には、周りの人間も興味を失ったのか、それぞれの世界に戻っていた。
——はー、かわいいやつだな。姉御肌な織部は、妹分の愛宕を見つめて、やれやれと肩を竦めた。
「冗談だよ冗談。ちょっと重然をからかっただけだって」
「え、あ・・・・・・へ? 冗談?」
「そ、冗談。だから落ち着こうぜ、な?」
「は、はは・・・・・・冗、談」
「そう、冗談。ちょっとした悪ふざけさ」
おかしそうに笑いながら、樽の中に腕ごと杯を突っ込んで、それを愛宕に差し出した。
仲直りの証。そういう意味なのだろう。あからさまにほっとした表情の愛宕は、目を回したようにふらふらと、織部の差し出す杯を受け取ろうとした。
自然、互いに身体を——顔を近づける。その時。
愛宕の耳元で、小さくささやかれた。
——今は、な。
ハッと、愛宕は織部の顔を凝視した。
不適な笑みが、あった。
「たしかに冗談だ。・・・・・・今のはな。だけど、これははっきりさせとかないとな」
「あ、姉御・・・・・・?」
「半分は本気だった。半分だけ、重然に抱かれようと思った。これは嘘でも、冗談でもない」
そして、一呼吸の間をおいて、
「お前の気持ちはわかるさ。・・・・・・惚れた男だからな」
静かに、ささやく様に、でも確かに力強い言葉を、織部はしっかりと口にした。
そこには偽りも隠そうとする気持ちもなかった。ただ真実を、覚悟や決意といった硬い意思を込めて、言葉にしていた。
——え? 姉御、それって・・・・・・。
愛宕は固まっていた。ほとんど混乱しかけた頭で、それでも、織部の言葉が延々と繰り返される。
そんな愛宕に、織部は、いつもどおりの笑顔を浮かべて見せた。
「ま、そういうことだから。これからも仲良くしようぜ。・・・・・・仲良く、男の取りあいだ」
「・・・・・・それって、喧嘩を売ってるんでっすか?」
「おう、喧嘩だ。女の喧嘩。勝ったほうが重然を手に入れる、そういう喧嘩。買うだろ?」
こともなげにそう言って、織部は酒を一口。すべてを吐き出したおかげで、すっきりとした気分だった。
昔から、重然には好意を抱いていた。それは限りなく兄弟愛に近いものだったが、下地はすでに出来上がっていたのだ。
数年ほど離れて、そして再開した。それからしばらくして、少しずつ、織部の中にあった家族の情としての想いは、次第にその形を変えていった。
恋心へと。
だから、重然に抱かれたい、というのは素直な気持ちなのだ。織部も経験は豊富なほうだ。重然を気持ちよくさせられる自身はあった。
が——まさか、愛宕もとはねぇ。少し以外に思いながら、黙ったままの愛宕を見つめた。
愛宕のことだ。こういうことに関しては、歳の割りに初心だから、きっと自分自身にも隠し続けていたのだろう。
それが今回のことで、一気に爆発したのかもしれない。自分の想いに自覚しても、まだ整理をつけるには時間がかかるはず。
「・・・・・・上等。その喧嘩、買ったっす!」
——予想以上に早かった。愛宕は単純だった。
そんな妹分をおかしく思いながら、織部は力強く頷いた。こちらも了承した、という意味である。
ここから、女同士の戦いが始まるのだ。意地とプライドをかけた、女の戦いが。
だが負ける気はしない。織部にも、愛宕にも。
「つーわけでだ。まずは表でろ。さっきのいい雰囲気をぶち壊してくれた、その礼がまず先だ」
「うっす!」
そういうと、織部は立ち上がって、店の出入り口に向かっていった。愛宕も織部の後をついていく。
それからしばらくして、店の表が賑やかになる。重然が目を覚ますのは、その少し前のことであった。
南の海から遠く離れて、この都でも、新たな戦いが、その幕を上げた——。