元星五年五月。
肌の寒さも次第に弱まり、雨の匂いが少しずつ近づく季節になった。
梅雨の季節まであと一月ほど。迫る春の到来を、海はさざ波で迎えようとしている。
風は穏やか。海上に気流の乱れなく、船は淀みなく進んでいく。小さいながらも帆は風をいっぱいに受けてピンと胸を張っている。
船の舳先には子供がおり、船の進行方向を、目を逸らさずに凝視していた。
古来より海人たちには、海に住む魔物を発見するために、見張りとして子供を先頭に立たせる慣わしがあった。
「あ——」
呟いて、子供が後ろを振り返った。船には子供のほかに、軽装の兵士が十数人、思い思いの姿勢で波の揺れに身をまかせていた。
「船が見えた」
「なに」
兵士の一人が子供の横に立った。槍を片手にするこの男は、薩摩の兵士である。
目を細めて、海の彼方に視線を飛ばす。水平線の上に見えるのは種芽島だ。船は、その種芽島を背景にするように、海に浮かんでいた。
遠すぎて細かい姿はわからないが、辛うじて帆が見える。子供のいうとおり、船で間違いない。
一人、また一人と、兵士たちが舳先に集まってきた。
「おい、あれ、一隻だけじゃないぞ」
「二隻、三隻・・・・・・見えるだけでも五隻はある」
兵士たちが互いに顔を見合わせて頷きあう。
「とまれ、とまれー!」
櫂手に停船を叫ぶと、ほか二隻にも止まるように伝える。人力の動力を失った船は、風の流れだけで、ゆっくりと前進していく。
種芽島までは、まだ六里ほどの距離がある。五隻の船との距離差はよくわからないが、推測すれば、だいたい二里から三里ほどだろう。
ざざーんと、波が船に当たって砕ける音がする。それ以外では、静かなものだ。
「クロだな、間違いなかろう」
船の船長で、三隻からなる艦隊の司令官である将校が、兵士たちに聞こえるように言った。
木の枝から削って作られた采配(指示棒)をはるか種芽島に向ける。
「距離は、わしらと種芽の間くらいかのう。漁師の船にしては、ちと大きすぎる」
「ここらの海は、マグロもカツオも獲れやせん。なのに、あれだけ大きな船・・・・・・怪しいですぜ」
「十中八九、北山の軍船だ。旦那の読みが当たっちまったわけだ」
「どうする、戦うかい」
兵士の言葉に、船長は首を横に振った。
「バカ言え。たった三隻で勝てるわけねぇだろうが。錦紅港に引き上げるぞ」
「へい、船頭」
「よーそろー!」という掛け声とともに、三隻の船はさっと転進し、薩摩の錦紅港に向かって舵を切った。
種芽島周辺を漂う船団は、追ってくる素振りも見せなかった。
鹿児島城の中枢となる薩摩荘。重然を総大将とする海賊討伐隊は、主にここから発せられる作戦の指示によって動いていた。
香蘭・紅玉親子は、この大々的な海賊討伐作戦における民衆の動揺を抑える役目に専念している。海のことは全て重然に任せるという言葉通り、親子は深く干渉してくることはなかった。
重然が薩摩海軍の司令官として本格的に活動を開始してから、薩摩以南の海の情勢は俄かに変化していた。
主な巡視海域は大隈海峡と、薩摩半島から、
——硫黄島
——黒島
——宇治群島
までの海域(特に名称はないため、ここでは便宜的に『薩摩海峡』と呼ぶ)である。
北山の軍船はこの二海峡を中心に活動しているからだ。錦紅港は薩摩海峡と大隈海峡に挟まれているため、とにかく商船が入港して来なくなってしまっていた。
それにしてもさすがと言うべきか。海に出れば敵なしの重然である、海の民として名を馳せる琉球の戦士たちとも互角以上に渡り合い、負けの込んでいた薩摩軍は徐々に勝ち黒星を飾るようになっていた。
とはいえ、全ての戦いに勝てるというわけではない。重然が参加してようやく『互角』に戦えるという状況でしかないのだ。戦況は一進一退だった。
巡視船は日夜を問わず警備に当たっている。その内の数隻に、重然はある任務を与えていた。
表向きは海賊退治とされているが、『海賊』ではなく『北山』を意識した重然の指図であった。
薩摩荘にある作戦本部。二段櫓を中心に政務官が働く平屋が軒を連ねる薩摩政治の中心である屋敷の一角で、海軍の将校はそろって顔をつき合わせていた。
列席は八人。重然をあわせて九人。これに、現在警備についている将校が四人の計十三将が作戦に携わる指揮官たちである。
武将たちは木板を囲むように車座に座っている。木版には二半島と、種芽島や宇治群島をあらわす石などがおかれていた。
「やはりな」
難しい表情で重然は言った。
「宇治、黒島、硫黄島、そして種芽島。全部の周辺に北山の軍船が確認できもうした」
「種芽島を盗られたか」
重然の表情は冴えない。武将たちの表情もやはり冴えなかった。
北山の本拠地はもちろん琉球島北部だが、どこか九洲に近い島を拠点に敵は動いている。
その重然の読みは的を射て、宇治群島、黒島、硫黄島、種芽島が敵の手中に落ちてしまっていたのだ。
まだ耶麻台国が健在であった頃、琉球との国境はトカラ海峡を隔てて線引きされていた。したがって今回、種芽島の四島以外にも、
——耶久島
——口永良部島
——草垣群島
までが、琉球——というよりも北山の手に落ちてしまったことになる。つまり耶麻台共和国は、知らぬ間に以南七島をあっけなく失ったことになるのだ。
「戦争が終わってからというもの、小島にはなかなか手が回らんかったが」
「うむ。まさか北山の島にされていようとはな」
「耶久島、種芽島、硫黄島を失ったのは大きな痛手だのう」
場のどよめきは瞬く間に広まる。それだけ七島を失ったことは、少なからぬ衝撃を武将たちに与えていた。
「種芽島と硫黄島はやっかいだ。あそこには小さいながら砦がある」
「そうだ。それに硫黄島はその名のとおり、硫黄が多く取れる島だ。硫黄があるのとないのとでは、鉄を鍛える量も時間も違ってくるぞ」
「耶久島も捨ててはおけん。彼の島は姫御子様のご縁所。南からくる魔物を跳ね除ける御神木もあるのだ」
「まともな番兵など置かんかったからのう。まさか島盗りされるなどと・・・・・・」
どの武将の顔にも動揺の色は隠せない。
以南七島は耶麻台共和国所領の島々である。それを奪われたということは、
——宣戦布告
をされたと言っても過言ではないのだ。
北山は『侵略』をしてきたのだ。他国の島を占領するというのはそういうことだ。
「これはもはや海賊の蛮行などではない!」
下座の武将が声を荒げた。
「領海を侵すだけならばまだしも、島を奪うなど。北山めら、九洲に攻め入る腹積もりに相違ない!」
「下にも! 使者が遣わされぬことからも、彼奴らの本意は明らか」
同意するように、また一人の武将が声を上げた。思うところは皆同じで、一様にそうだそうだと頷いた。
耶麻台共和国と北山との間で、明確な国境の線引きがなされたわけではないが、トカラ海峡を境とする目安は、ある種、暗黙の了解とされていたのだ。
九洲方はそれを守り、口永良部島より南に船を向かわせることはしなかった。逆に、北山はたびたび深入りすることはあっても、事を構えようとしなかった。
だが、長きにわたる暗黙の不可侵がついに破られた。釈明の言葉さえひとつもこない。
釈明がないということは、
——是非に及ばず
ということでもある。言葉はいらない。全ては行動が示している。故に言い逃れも釈明もしない。
挑発的な宣戦布告と、重然たちはこれをとらえた。
「北山は、九洲に進攻してこよう。じきに船団が来るぞ。北山の艦隊だ」
「北山とのいくさか。・・・・・・不思議なものだのう。いざ北山と刃を交えるとなると、何やら奇妙な感じがするわい」
齢五十をとうに過ぎた老将が感慨深く呟いた。老将は薩摩の豪族で、漁業で勢力を強めた武士だった。
老将の一言で、それまでいきり立っていた軍議の場が、しんと静まり返った。奇妙といわれれば、たしかに、そんな感じもするのだ。
今この場でこそ北山、北山と口喧しく喚いているが、考えてみれば、北山と一戦に及んでいるのは、つい半年ほど前からのこと。
最近になってからだ。
それまでの微妙な関係は、九洲の人々に明確な敵意を与えていなかった。付かず離れずといった不可解な予定調和の中で、双方の関係はきわめて独特な形態へと成り立っていた。
鬱陶しくはあったが、目くじらを立てるほどではない。かと思う裏で、交易は盛んに行われてきた。
他人のようで、知人のような関係。それが今や、国家を巻き込んだいくさに転ぼうとしている。
長く暗黙の了解の中で行き、長く海の向こうに暮らす北山を眺めてきた老将を含む薩摩土着の豪氏たちには、此度の一軒が不思議な気持ちにさせるのだろう。
その気持ちは、重然にもたしかにあった。『北山といくさ』と言われても、正直なところ、現実味がいまいち湧いてこないのだ。
だが、現実味がなくても、現実はそうではない。重然自身、一度だけ、北山と刃を交えたのだ。
北山はすぐそこにいるのだ。悠長なことを言っている余裕などない。
「世の中が大きく変わっていくことなんざ、この二十年で嫌ってほど思い知った。耶麻台国が滅んで、共和国が出来て、九洲が三分されて、はては九峪様方が異世界に飛んでった」
「ありましたな、そんなことが。・・・・・・あれから、もう五年も経つのか」
「五年も経てば、戦のひとつも起きるさ」
「そうですな・・・・・・」
重然の重い表情に、老将は静かに頷いた。
奇妙だろうが何だろうが、戦わねばならないのだ。
居並ぶ八人の目がギラリと鈍い光をはなった。重然の言葉に共感し、肌が粟立つ気がした。
そう、これからはまた戦なのだ。しばしの眠りについていた闘争の意思が、目覚めようとしていた。
「・・・・・・して、どうするのだ、旦那」
武将の一人が重然に向かって尋ねた。石川島衆は除いて、薩摩の武将たちは重然を『旦那』と呼んで慕っていた。
重然は木板をみつめながら、ふむと膝に手をあてて考え込んだ。
「いまのままだと、こっちが後手にまわるぞ。やつらは小さいながらに、拠点を七つもっているんだからな」
「ああ、そうだな」
「やはり、島を取り戻さねばなるまい。でなければ打てる手も打てん」
壮齢の武将が言った。角ばった顔に、細い瞳が特徴的な男だ。
男は身を乗り出して、木板を指差した。
「硫黄島、種芽島にはそれぞれ砦がある。中でも硫黄島の砦は、もともと収監の地でもある。守りは堅いぞ」
まだ耶麻台国が健在であった頃、硫黄島には多くの罪人が収容する受刑地であった。盗みや不当な殺人などを犯した者たちが、この硫黄島にながされ、硫黄採掘の重労働に駆り出されていたのだ。
それゆえ、硫黄島には堅牢な牢獄が建設された。と同時に、硫黄島は琉球島などからの異変を監視する砦としての役割も期待されていた。
共和国建国後は、財政が安定されていないため長く打ち捨てられていた。
産業中心の政策に転換されてから、ようやく硫黄採掘を再開し始めた矢先に、北山に奪われる形となった島である。
種芽島も昔は人が住んでいたが、薩摩の財政が振るわず、十分な支援は出来ないと見切りをつけた紅玉の手によって、島民一党は全員、薩摩に移住してしまっていた。
したがって、現在の種芽島は無人の島となっていた。ただし、種芽島には硫黄島同様に、
——種芽島城
がある。二重の大櫓が特徴の城である。
この島も現在は北山の拠点になっている。現在の薩摩は、硫黄島と種芽島に睨まれる格好となっていた。
「あとの島には、人がいても砦はない。いや、もはや、人もいるか・・・・・・」
男は口をにごらせた。何を言おうとしたのか、重然にもわかった。
占領された島民が、はたして無事でいてくれるだろうか。こればかりは、今の重然たちに知る術はなかった。
「と、なればじゃ。攻めるのであれば、硫黄島か種芽島、ということになるのう」
「だが敵の戦力もわからん。船の数、兵の数、武将の顔ぶれ。どれをとっても霞を掴むように、ようとして知れぬぞ」
「まだ、攻めるのは早い」
主戦論はすくなく、代わって慎重論が場の見解として固まりつつある。
薩摩の武将たちは、荒々しく手の早い性格である反面、こと重要な局面では冷静な判断が出来る者たちばかりだった。
若年の武将は紅玉から学び、老いた武将もまた紅玉を見習った。それが薩摩の兵を九洲一のつわものに仕立て上げたのだ。
薩摩人のこういったしなやかな気質は、重然にとって好感を抱かせるに十分だった。
「まずは現状維持に努めよう」
「敵方の調査はどうする」
老将が尋ねた。
「“ホタル”に任せるのが一番だと思うが」
重然の答えに、老将は納得したように頷いた。
『ホタル』は耶麻台共和国の抱える乱波衆だ。清瑞を頭領とする十二人の特務部隊で、隠密性の高い特殊任務に就く事が多い精鋭である。
ホタルの認知度は決して高くないが、ある程度力を持つ豪族は、噂程度にその存在を聞き知っていた。少なくとも、重然の指揮下にいる薩摩の指揮官たちは、全員ホタルのことを知っている。
「当面は我慢比べだ。出来る限り、味方の損害は抑えるように努めてくれ」
「へい」
武将たちは頭を下げると、さっさと屋敷を後にしていった。みな海に向かったのだ。北山の動向が俄かに怪しくなった以上、鹿児島城に居続ける気になどなれない。
しばらく黙って木板を眺めていた重然も、腰を上げて部屋を出て行った。
『種芽島』という名前には、由来がある。
春がどこよりも早くおとずれることから、『種が早く芽吹く島』として種芽島と呼ばれるようになったのだ。
その名のとおり、五月の種芽島は草丈の短い青が大地を覆いつくしていた。
種芽島唯一の軍港に、八隻の櫂船が停泊されている。小さな帆を備えた細長の船体で、側面からは四十本近い櫂がムカデの足のように、海水に浸かっていた。
軍港から二里ほど内陸に進むと、そこには種芽島唯一の城郭都市である種芽島城がある。
倭国は山野が多く起伏に富んだ地形をしているため、都市を築くには二つの形態に分けられることが多い。
一つは、数少ない平地に築かれる形態で、国都などはこの場合である。
もう一つは、山や谷などを城内に取り込むか、そのものを城として組み込む山城型である。
香蘭の居城である鹿児島城は倭国の中でもきわめて特殊な例だが、とにかく、この二つが主だった城の形となるのだ。
そして島というものは、かならず中央に山があるものである。火山活動による隆起が原因なのだが、種芽島は珍しくも平坦な島である。
そのため、小さな島であるにも関わらず、鹿児島城は『小奇麗』な街として栄えていた。
だが今は、かつての素朴な美しさは消え去り、すっかり荒れ果ててしまっていた。
無人となった種芽島城が北山の手に落ちて、もう半年が過ぎた。現在の種芽島城には、六百余人の琉球人が生活をおくっていた。
破損していた民家は建て直され、留主の屋敷周辺に琉球人は住居をかまえていた。種芽島城が収容できる人口数はおおよそ二千人ほど。まだまだ放置された空き家が目立つ。
留主の屋敷。種芽島城のシンボルともいえる二段式の大櫓に、一人の男が立っている。坊主刈りの頭で、わずかに髭を蓄えた、どことなく細長い顔持ちの男だった。
男の名は恵源(えげん)といった。
恵源は櫓の欄干に手をかけながら、城下の町並みを眺めている。人の住まない家は直ぐにもろくなる。城内に唯一の祈祷場でさえ、階段が崩れ落ちていたほどだ。
くんと、鼻をヒクつかせる。潮の匂いにのって、夕餉の気配も運ばれてきた。
「この島の匂いは、琉球に似ておるのう」
潮の匂いと夕餉の匂いが混じりあった独特の匂いに、恵源は口元を綻ばせた。
琉球でもそうだった。海が近いから、いつもどこかで潮の匂いを感じることが出来た。その匂いと一緒になって夕餉の匂いがしてくると、もう飯時かと嬉しくなったものだ。
「・・・・・・兄上は、どうしておるかのう」
鼻を誘う匂いが琉球を思わせるせいか、恵源の脳裏に、琉球にいる家族のことが思い浮かんだ。
恵源がこの地に来て、はや半年。わずかに寒い冬の海を、恵源たちは渡ってきたのだ。
辛い航海ではなかった。津波や時化は起きなかった。島もあっという間に占拠した。というよりも、どの島にも、人らしい人など殆どいなかった。十数人ていどの島民ばかりだったが、彼らは今も大人しく暮らしている。
全ては万事順調だ。驚くほど守備がよすぎた。よすぎて、この半年が駆け足のようにさっさと過ぎ去っていった気がする。
だからこそ、やるせないのだ。
琉球にいる兄を思うと、やるせなくて仕方がなくなる。欄干を握る手に力が入ってしまう。
「・・・・・・恵源様。何をしておいでか」
「ん? ・・・・・・おお、教来石(きょうらいし)か」
教来石と呼ばれた男が、恵源のすぐ後ろまで近づいていた。
教来石は恵源よりもいささか年若い好青年であった。腰にさした刀のように、鋭い瞳をした武将だ。
「何か、おもしろいものでも見えましたかな」
「いいや、何も見えぬ」
若い武将の言葉に、恵源はにべもなく応えた。実際、面白いと思えるものは何もない。この種芽島には、本当に何もないのである。
上陸する前は、人が住んでいるとばかり思っていた。だが敵兵は出撃してこず、街に人の姿はなかった。兵糧という兵糧、物資という物資がなかったのだ。
ほんとうに、何もない島である。つまらない島である。
目をすぼめる恵源の横にならんだ教来石が、晴れ渡る種芽島の空をながめた。
「それがしは、むかし、この種芽島に参ったことがありました」
「なに?」
「十二のころでした。見聞を広めよと父に連れられ、九洲へと渡ったおりに」
「・・・・・・左様であったか」
「この空とおなじく、透き通るが如く、晴れ渡っておりました。・・・・・・よう覚えております」
晴天を見上げる瞳を閉じると、もう二十年も前の記憶がよみがえってきた。
当時の教来石はまだ元服もしていない少年だった。利発な顔立ちは、期待と興奮に頬を赤くさせ、まだ見ぬ海外の他国に心をはやらせていた。
父は北山に組する武将で、九洲との交易で財を成した富豪であった。また高い経営力、財力、巧みな金回しの腕を買われ、『グスク(城)』を与えられるほどの実力者でもあった。
生まれて初めて踏む他国の土。それこそが、種芽島であった。平坦な土地にひっそり佇む種芽島城は、それでいて清廉な涼しさの中にほのかな美しさを感じさせる街だった。
——これが、他国の城。幼く豊かな少年の感性を、種芽島はおおいに刺激したものだ。
「・・・・・・されど。空は変わらずとも。この島は、ひどく、変わってしまいました」
視線を城下へ向ける。教来石の両の眼に、思い出の街が廃墟となって映っている。
「それがしの見た種芽島は、もそっと美しいものでした。黄金のような眩い輝きはなくとも、岩清水の流れに似た美しさがありました」
「この街は、美しかったのか」
「はっ。・・・・・・美しゅう、ございました」
「そうか・・・・・・。なれば、わしもその美しい街を、見たかった」
もはや恵源には、そう応えることしかできない。美しい街の姿を、ただ想像の世界で描く以外にはできない。
今の城下は、お世辞といえども、決して美しいとはよべない。それほどに美しいのならば、一目みたいと、恵源は心の底から思った。
だからこそ、腑にも落ちない。美しい種芽島の街を、九洲方は、何ゆえ放棄したのか。
九洲が他国により占領され、耶麻台国が滅んだことは知っている。そして、その耶麻台国が復興したことも知っているのだ。
これから、国を富めさせようとするのは国家の運命。領地を捨てる理由が、恵源にはどうしても掴み損ねていた。
慎重に、相手の情勢を見極めねばなるまい。でなければ出向いた意味がない。
「まぁ、さほどの美しきを見られなんだは惜しいが、知らぬ方が反って、よいかも知れぬ」
「そうかもしれません。なまじ見てしまったからこそ、こうも惜しく思うのかも知れませぬ」
「いつかは捨てる島ぞ。執着は心を痛ませる」
「心得ております」
神妙に頷く教来石をみつめる恵源の表情が柔らかなものになる。
「さて、直に飯だな。下へ降りよう」
「はっ」
恵源の後を付いて、教来石も大櫓を降りていった。夕日もそろそろ山陰に隠れる時間になっていた。
飯炊きの湯気が、人のいなくなった街に、さびしく立ち上っていた。
「——・・・・・・北山?」
阿蘇山にて隠居している九峪が薩摩の一件を聞き及んだのは、重然たちが敵の拠点をつきとめた、まさにその日の夕刻であった。
冬に九峪の元を訪れた亜衣は、それ以降まるで憑き物が落ちたように活気を取り戻し、以前にまして九峪の様子を伺うようになっていた。
世上での出来事、国政での相談など。こと理由があれば、亜衣は足しげく阿蘇にのぼっていた。
今も、九峪とともに夕食をとっているところだ。
「北山ってのは、たしか沖縄・・・・・・じゃなくて、琉球だったか」
茶碗と箸をおいて、亜衣は「はい」と頷いた。
九峪は琉球の事情にはことさら疎い。北山というのも、話に聞いた程度のことしか知らなかった。
「そんな連中が、薩摩に手をだしてるのか?」
「薩摩にというよりも、錦紅港に近づく舟に、でございます」
「ふーん・・・・・・それっていつからなんだ?」
何気ない問いかけ。いたって自然な疑問だが、尋ねられた亜衣は、わずかに表情を強張らせた。
はてと、九峪も首をかしげる。なにか不味いことでも聞いただろうかと、やや及び腰になってしまう。
言いにくそうにしていた亜衣だが、覚悟を決めたのか、九峪をまっすぐに見据えて口を開いた。
「一月からです」
「一月!? え、一月!?」
「・・・・・・はい」
亜衣は申し訳なさそうに顔を伏せた。対する九峪などは、驚愕に顎が抜けそうなほど口を大きく開けている。
だが、驚くのも無理からぬこと。事は一月に起こったが、今はもう五月。せいぜい一月ほど前だと思っていた九峪にしてみれば、随分と時間が開きすぎているように感じるのだ。
困惑気味に、九峪も茶碗をおろした。瞳が泳いでいる。
「け、けっこう前からなんだな」
「・・・・・・申し訳ありません!」
バッと亜衣は平伏した。九峪に叱られたような気がしてならなかった。
「九峪様に、いらぬ心遣いをさせまいと思い、黙っておりました。・・・・・・申し訳ございませんッ!」
「ああ、いや、いいんだ。気にするなよ」
そう言って、九峪は息をはいた。五月だが、阿蘇の山はまだ寒い。はいた息が、まだわずかに白んでいる。
塩汁で喉を暖めながら、九峪は名前しか知らない北山のことを思った。『沖縄』のことならいくらかわかるが、『琉球』の・・・・・・それも北山とさらに限定されては、何もわからないのが現状である。
九峪の歴史にかんする知識は、広く浅いものである。メジャーな時代、人物、出来事は網羅しているものの、琉球などのマイナーとなると、記憶の端にも引っかからなかった。
だから、この時代の沖縄がどのような状況なのか、とんとわからないのだ。
「北山、か・・・・・・」
改めて言葉にしてみるが、いささかの実感も湧かない。形を知らなければ、どうしても像は写ってくれない。
「なにか、対処はしてるのか?」
尋ねられて、亜衣が頭を上げる。
「薩摩が、独自に対処することとなりました。女王の綸旨も賜り、現在は重然が、薩摩の海を守っております」
「重然が?」
予想していなかった名前が出て、九峪は面食らった。
たしかに重然は海人で、海を生業の場としている。だが重然は火向県の人間である。薩摩の守護とは関係ないはずだ。
しかも、さらに話を聞くと重然は、香蘭から鳳凰符まで授けられたというではないか。
もう何が何やらである。山奥で隠居している間に、九洲の歴史は大きく動き出しているらしい。
「情勢は、どうなんだ?」
「さすがは重然、といったところかと。勝てなければ、負けもせずといった具合と、聞き及んでいます」
「そうか・・・・・・」
それっきり、九峪はうつむいて黙り込んだ。まだ茶碗にご飯は半分以上残っているが、とても食べる気がしなかった。
それよりも、九峪の頭は忙しなく動いている。手に入れた情報を整理しているのだ。
それを、亜衣は黙って見守っていた。
時間にして四、五分が経った。九峪は顔を上げると、あまり美味しくなさそうに、残っていた塩汁を一気に飲み干した。
「なんにしても、今の俺には、どうすることも出来ないな」
苦笑して、米も口の中にかきこんだ。亜衣も、喉を汁で濡らした。
てばやく食事を終えて、膳が下げられると、それから二人はしばしの酒肴を楽しんだ。つまみなどはない。話が酒の肴である。
亜衣から酌を受けて、九峪はふと、口元を綻ばせた。
「ようやく、自分自身に納得できたか?」
優しい音響きの一言だった。亜衣もやわらかく微笑んで、ちいさく頷いた。
頬が赤いのは、酒のせいだけではない。
まだ少し寒い夜を、二人は互いの酒で、暖めあった。