火後県の其水関で内紛鎮圧軍が結成された頃、耶牟原城の騒乱はますます激しさを増していた。
軍を指揮する武官が争っているものだから、まず、耶牟原城内でこれらを鎮められる戦力が少ないことに、被害を拡大させる要因があった。
亜衣が抱える得宗家の戦力は八百。衣緒が五百を従えている。それと亜衣に協力的で争いの渦中にない武官らの保有戦力が合わせて千二百ほど。
現在ではこれらの二千近い兵が暴動の鎮圧に当たっている。陣頭指揮は伊雅がとり、亜衣は政治の崩壊を防ぐべく内政面で心血を注いでいた。
しかし、である。耶牟原城と一口に言ってもその支配領域は広大である。鎮圧するには、あと一千、二千の戦力は欲しいところだ。
そこで亜衣は近隣に対して援軍の要請を出した。要請は進軍途中だった藤那たちの元へも届いた。
「これでいよいよ、僕たちの進軍行動に信憑性が帯びられる」
藤那の前で、閑谷は笑みながら言った。風向きが自分たちに向き始めていると感じているのだ。
一行は金峰山、田原坂を越えて、筑後入りの直前に秩父山城(ちぶさん)へ入城した。もう耶牟原城は目と鼻の先である。
兵を休めながら、藤那、閑谷、紅玉、教来石らが一堂に会して、こわ握りを食しつつ今後の行動を検討した。
「耶牟原城へは亀の門を通るべきだと考えます」
握り飯をほお張りながら、閑谷は地図に書かれた『亀門』を指差した。
亀の門は耶牟原城の西方にある大門のことである。西街は民家が多く、ここから入城して、まずは人の気配の多い西街から順次、四方八方へ救援に向かうべきだとした。
これに際して紅玉は、一隊を割いてこのまま南門より入場し、亀の門からの入場をスムーズにする提案をした。これは入城ばかりでなく、西街から耶牟原城全体へ食指を広げる際の、効率化も視野に入れた作戦である。
さらに入城の際は、北山は自軍の旗を隠すことになった。これには教来石も潔く従った。
会議は滞りなく進み、紅玉の隊が南門より、藤具兵と北山軍が亀の門より入城することが決定した。
軍はすぐさま進軍を再開し、岩戸山の里付近で紅玉隊と離脱、藤那の本軍は西に経路をとった。
耶牟原城の南門までやってきた紅玉は、駒木馬にまたがったまま、城壁を守る番兵たちに向かって、
「私は薩摩の御所、紅玉。宰相の激により内乱の鎮圧に出向いてきました。速やかにお通しなさいッ!」
と、大渇して、早々に門を開けさせた。百の薩摩兵たちがどっとなだれ込み、耶牟原城の通りを駆け巡った。
南の町でも、丁度、武官と文官の争いが起こっているところであった。紅玉は鉄扇を軽やかに振るって兵士たちを薙ぎ払い、両軍の間を割って入るように薩摩兵たちが立ちはだかった。
「薩摩の軍!?」
「な、なぜここに!?」
武官と文官の郎党は、多いに慌てふためいた。薩摩兵は精強で、たとえ百人でも簡単には太刀打ちできない。さらに紅玉までがいると、ただうろたえるばかりであった。
紅玉隊はその隙に攻撃し、指揮者たちを生け捕りにしてしまった。縄をかけられた武官と、文官に雇われた傭兵団の頭領を引き連れて、ひとまず南街仕切所を拠点に置いた。仕切所とは現代で言う役所、江戸時代で言う奉行所または侍所に該当する。
三十人を選んでそれらを西街に向かわせた頃、藤那の本隊も亀の門を通って耶牟原城へ入城を果たした。この日の耶牟原城西街で暴動は起きておらず、本隊はそのまま紅玉の差し向けた兵士三十人に先導されながら宮殿を目指した。
突如出現した藤具兵の軍団に、耶牟原宮殿は驚きに舞い上がった。南街には紅玉までが現れ、こちらも今しがた、耶牟原宮殿へ到着したところだった。
藤那軍の堂々と行進する様子に、人々は言葉もなくただ見上げていた。
再建された耶牟原宮殿は、当時としては非常に独特な景観を生み出す構造となっている。再建に当たって、九峪が横から口を出しまくった結果であった。
耶牟原城は万事に大きい。九峪は城内での戦闘も考慮にいれ、城壁の内部にも城を作ったのだ。この城は大陸などで見られる城壁に囲まれた形でなく、戦国時代などに造られた『郭(くるわ)』を多用した造りとなっている。
宮殿は四つの郭に守られ、一つだけ、本丸へと繋がる大通りがある。藤那の本隊はこの大通りから直接上って本丸へと入った。
入殿した藤那を出迎えたのは、大将軍の伊雅であった。
「流石は藤那どのでございますな。檄文を送ってまだ一日と経っておりませなんだに」
「いや、そう言われるほどではありません」
軽い受け答えをしながら大回廊を歩く。大回廊の奥に謁見の間はある。
厳正でかつ巨大な回廊に、教来石は我が目を疑う気持ちだった。耶牟原城、宮殿もそうだが、ここまで巨大な建築物を教来石は見たことが無い。
——我々は、耶麻台国を侮りすぎていたのかもしれない。
今更になってそんな思いがこみ上げ、背筋を汗が伝った気がした。
少しして後ろから紅玉が近づいてきた。聞くと、入城してさっそく一戦を交えたらしい。
突き当りに至った。屈強そうな男が左右に二人ずつ控えている。
おや、と教来石は首をかしげた。歩いた先が行き止まりで困惑していた。
「通せ」と伊雅が低く言った。
すると——
「大将軍のおなりである。——開門ッ!」
と叫んで屈強な四人の男が突然、壁に結ばれた太い縄を引っつかみ、それを血管が浮き出るほどに強く引いた。
ゴンッ・・・・・・と一際重たい音がした瞬間、壁の中央に亀裂がはいり、隙間が徐々に広がっていた。
「おお・・・・・・」
壁は扉であった。巨大な扉が少しずつ開かれていく様子に、教来石は心底から圧倒された。
ゴゴオンッ・・・・・・——
そして広がる光景は、またもや教来石の想像を遥かに超えた神秘であった。
一言で表すならば、そこは炎の世界だった。
幾程にも備えられた蝋燭、蜀台が生み出し揺らめく陽炎が、まるでこの空間を現世から隔離しているようで、また幾重にも垂らされている赤と紅と朱の大きな絹布が、あたかも黄金にさえ見えた。
全てが赤い空間、最奥には玉座が。
——あれが、火魅子の玉座。
琉球の玉座とはだいぶ違った。琉球の玉座は腰が低く、むしろ座椅子に近い形をしている。しかし火魅子の玉座は座高があり、足を垂直に伸ばせる形になっていた。
それにしても、なんという装飾か。紅玉や翡翠、琥珀、黒曜をふんだんに散りばめ、金で象られた日輪の背凭れは、火魅子を否が応にも神秘的な存在へと高めるであろう。
教来石はいまこの時に至って、耶麻台共和国の凄まじさに触れた気がした。
赤い空間で、藤那たちは他言を謹んで直立している。伊雅は一人だけ、玉座の右側へ立った。何一つ、必要なこと意外を話させない雰囲気がこの大部屋には充満している。
しばらくして、ガコッと何かが外れる音がした。刹那、赤ばかりの薄暗い謁見の間に光が差し込んだ。謁見の間の上部には窓があり、謁見の際にはそれを外すことになっている。
でなければ四六時中にわたって火の焚かれた空間は暑く、さらに酸欠になってしまうからだ。だけではなく、火魅子は太陽神の化身でもあるから、それも関係して日を入れる。
明るくなって、入り込んできた空気に、蝋燭の炎たちは喜びながらボボッといっそう燃え上がった。それすらも、どこか不思議な光景で、何かが降臨した瞬間のようであった。
「宰相が参られました」
高官だけが通れる扉の横で衛兵が言った。
荘厳で重苦しい空気の中で、まず最初に宰相である亜衣が姿を現した。藤那らのやや後ろで、閑谷とともに控える教来石を見つけた瞬間、亜衣は驚いた顔をしたが、すぐに表情を引き締めて、玉座の左側、伊雅と対称となる場所に直立した。
「女王のおなりッ!」
衛兵が亜衣のときよりも甲高い声で叫んだ。
この時、教来石は初めて九洲を統治する者の姿を眼にした。
美しい——素直にそう思った。
金細工の髪飾り、赤い縁取りの長袖の一重を身に纏い、いかにも巫女然とした祈祷者の姿ではあった。しかし異様といえば異様、威容といえば威容であった。
手の甲を追うのは、間違いなく篭手の類。とても薄く作られているが、生粋の武将である教来石にはすぐにわかる。それだけではなく、巫女装束のそこかしこにも甲冑に通じる機能が備えられ、例えば、襟元の飾りはその実、鎧の如く、袴も巧妙に隠しているが革の軽甲が仕込んである。
このまま戦に出るといっても、まったく違和感の無い装いであった。さらに腰には短剣がささり、小さな赤い紅玉が鈍く輝いている。
——これが火魅子か。まるで戦巫女だ。
固唾を呑みながら思った、瞳はずっと火魅子に向けられている。
火魅子は凛とした動作で玉座に腰を下ろして、居並ぶものたちを見下ろした。紅玉や藤那たちが深く頭を下げ、教来石も慌てて頭を垂れた。
「よろしい、面を上げなさい」
厳とした、それでもどこかしらあどけない声音の言葉が、頭上より振ってくる。仕様に違わぬ可憐な声だ。
教来石たちは顔を上げて、ついで身を起こした。
「此度の出向、心より礼をいいます。まさかここまで早く動くとは思っておりませんでした」
本心なのだろう、偽りない微笑だ。
「都が渦中となっております。馳せ参じるは当然と心得ます。しかし・・・・・・道々の惨い有様、耳にした風聞との違いに、我が眼を疑うばかりでございました」
藤那が言った。亀の門から入城してからというのも、都の華やかさはどこにもなく、燃え崩れた家の跡、血の染みが残った路上、本当に耶牟原城かと目を疑ったのは本当である。
火魅子の眉が悲しげに下がる。
「さぞ驚かれたでしょうが・・・・・・これが、いまの耶牟原城の姿なのです。顔見知り同士、復興戦争を戦い抜いた者同士が、争い、殺しあっている・・・・・・」
「文官は戦いに直接関わっておりませんからな。とはいえ武官も、国力の疲弊をあまり感じてはいない様子。私から見れば、どちらもどちらではありますが」
「分かり合えさえすれば、このような愚かなことには成らなかったのに」
火魅子の嘆きは、紅玉や藤那にも同様に、胸を締め付ける思いであった。なまじ最前線で戦ってきた身としては、特に。
すべては互いの不理解から。そこから飛び火しての火魅子と九峪の対立。民衆の分裂、石川島と宗像の抗争——。
その全ての始まりにして根本の原因が、いま、最大の問題となっている。
「わが国はまだまだ若い。全てが手探りの状態なのです。だからこそ、今こそ、一致団結の時なのです。何もわからないから、まずは、方々の意見を取り入れ、実践していくことが肝要」
亜衣の言葉に、伊雅が頷いた。
「左様。わしは武辺者だが、政の世を知っておる。駆け引きばかりでなく、折り合いも必要なのもまた確か」
年長の伊雅の言葉には重みがあった。今この場にいる者たちの仲で、唯一、国政を経験した者なのだ。
「じゃが、全てを悲観的に捕らえることもありますまい。これは亜衣の受け売りなれど、危機をこそ転機となして好機を招く。大きく見れば、文官の者どもに戦を教え、武官に政を教える良い機会とも考えられる」
「しかしそれも、匙加減を誤れば大火傷では済まないでしょう」
「紅玉殿は、相変わらず、痛いところを突いてきますな」
伊雅の苦笑に、実際、この問題がどれほど難しいかが読み取れる。
政治に失敗は許されない。それは国家が誕生して間もなく、経験者がいないとか、そんなことは一切理由に出来ない。生まれた瞬間、それは一年たとうが百年たとうが『国家』なのだ。
だからこそ昔から、日本という新興国は大陸の王朝へ朝貢して、数々の技術、知識、人材を持ち帰ってきた。それはこれ以降、幕末まで続いていく。
一刻も早く国家の基盤を作り上げる。九峪の成し遂げられなかった目標であり、亜衣が命をとして成功させねばならない命題でもある。
「それゆえ、今はなんとしてでも、この内乱を鎮めねばなりません。皆が瞳を見開いた暁には、きっと、九洲は安らげましょう」
「そう願うばかりでございます」
深々と、藤那が答えた。
「ところで、他の知事の方々の姿が見えませんが」
一歩下がったところ、教来石と並んでいる閑谷が、にわかに周囲を見回しながら進言した。
「檄文は、各地にも送られたものと伺いましたが」
「左様じゃ。わし自身が書き、送った。知事には全員分が届いているはずじゃ」
「到着が遅うございます」
「お主らが早いのじゃ。四日はかかると思っておったが、まさか半日で来るとは思わなんだぞ」
「左様でございますか」
と、そういって閑谷は引き下がった。内心でほくそ笑みながら。
すると、こんどは紅玉が口を開いた。
「我が薩摩は加奈港を抱えており、どうしても香蘭がまかりこすこと叶いませんでした。この折は私が名代と成りましたこと、どうかよしなに」
悠々と申した紅玉に、閑谷は少しだけ驚きの表情で見つめた。
——さすがは紅玉さんだ。
と、言葉には出さずに、舌を巻く思いだった。閑谷の発言の裏に隠された真意を見事に見抜いた上での進言だった。
それは隣の藤那も同様だ。こちらはむしろ、紅玉の強かさを素直に感心していた。
「さて・・・・・・挨拶はそこまでにして、本題に入りましょうか」
頃合と見た亜衣が、教来石へと視線を向けながら、全員に聞こえるようやや大きい声で言った。
伊雅と火魅子は一瞬だけ不思議そうにしたが、下座の四人は表情を一変させた。
——亜衣は見抜いている。
自分がここにいる理由を、亜衣は正確に見抜き、決して油断していない。教来石はこの瞬間、交渉の失敗を確信した。付け入る隙などまったくなかった。
「火魅子様と大将軍は、所見となりましょう。・・・・・・教来石、前へ出なさい」
亜衣の射抜くような視線を浴びながら、それでも北山の使者としての矜持をもって、教来石は前に進み出た。
ひざまずき、
「女王に拝謁でき、光栄至極とぞんじ奉ります。見目麗しく、まさしく一国の主に相応しき威姿に、ついぞ見とれ果て、ため息を漏らし、感服いたしました」
まるで詩を読むように、教来石は賛辞を並べ立てた。亜衣との交渉が難しいと考えて、火魅子を篭絡する手に出たのだ。
教来石は人を見る目には自身がある。そしてその目利きは、火魅子の容姿に隠しきれない幼さを感じ取っていた。
狙いは外れなかった。火魅子は僅かだけ頬を染めて、まんざらでもなさそうだ。褒められることを喜ぶ女性なのだと、教来石は判断した。
「名乗りなさい」
「教来石と申します」
「あなたは藤那の家臣? それとも、紅玉の?」
「——ッ」
咄嗟に、教来石が声を詰まらせた。
あどけないと思っていたが、よもや、わしを藤那殿や紅玉殿の家臣と勘違いして・・・・・・?
そうだとまずい。北山と答えたとき、どのような心象を抱くか、わかりきっている。予め知っていたら何とでも印象を変えられるが、最初から『仲間』と思われては、どうしたって悪印象しか与えられない。
しかし、答えないわけにはいかない。教来石は覚悟を決めた。
「・・・・・・どちらでもございません。私は北山よりの使者でございます」
「——え?」
火魅子が見開いた。やはり衝撃だったようだ。
「貴様——ッ! 北山の刺客かッ!」
伊雅が怒りも露に刀を引き抜いた。釣りあがった眼が教来石をギンッと睨みつける。
いきなりのことで、さしもの教来石も驚きに言葉を失った。使者と前もって言ったにも関わらず、殺されそうになるなど、生まれて初めてだった。
「お、お待ちを——」
「黙れぃ! その痴れた首、叩っ切ってくれるわッ!」
叫んだ伊雅が、刃を振り上げて駆け寄ってきた。仕方なしに教来石も懐の刀の柄へと手を伸ばした。流石にまずいと思ったのか、紅玉が教来石の前に回った。
「こ、紅玉殿ッ!」
伊雅が狼狽しながら動きを止めた。伊雅にしては教来石こそ、狗根国に劣らぬ敵である、その敵を紅玉が庇ったことが信じられなかった。
「落ち着きあれ。詮議も改めずに殺したとあっては、道義にもとり、名を汚すこととなりますわ」
「し、しかし——ッ」
「彼は使者です。早とちりはなりません。・・・・・・九峪様に、よく注意されましたでしょう?」
「うぐ・・・・・・」
九峪の名を出されると、途端に伊雅は小さくなった。しばらく葛藤に悩んだものの、刀を収めて、教来石を警戒しながら元いた場所まで戻った。
ほっと息を吐く。
「礼を申します」
「私のことは気にしなくても宜しいですわ。それよりも、早く用件をお言いなさい」
「・・・・・・左様ですな」
「失礼いたしました」と火魅子に向かって謝罪する。火魅子もそれで緊張をほぐして、小さく頷いた。
「改めてご挨拶いたします。某は北山の軍師、教来石と申します。北山よりの使節団長、恵源様にお仕えしております」
「恵源・・・・・・聞き及んでいます」
ちらと、視線を亜衣に向ける。
「教来石は恵源殿より加奈港の留守を任されております。現在、同盟間の約定はこの教来石とやり取りしております」
「そうなの・・・・・・」
亜衣の説明で、火魅子は合点がいった。
恵源が北山に戻って決戦の準備に明け暮れているため、取引などは教来石が一任している。
火魅子が恵源を見下ろしながら、
「それで、此度は何用です。申してみなさい」
「はっ。されば、此度の上都は同盟により、内乱の鎮圧に出向いた由」
「同盟国だから手助けに来た、ということかしら?」
「それが一つ。いま一つは——」
懐から書状を取り出し、それを献上する。
亜衣が受け取り、火魅子の手に渡り、開いて中身を検分する。
「三度目の出兵を——」
「なんだとぉ!?」
教来石が言い切るよりも早く、激情の伊雅がまたぞろ怒髪を逆立たせて叫んだ。
「貴様、一万数千の軍勢を送り込ませておいて、まだ足りぬと申すのか!?」
「——・・・・・・はっ」
「こ、この・・・・・・! よくもぬけぬけとッ」
わななく震えて、伊雅は今にも切りかからんばかりに怒っている。握った拳が抑え切れない怒気を物語っていた。
打ち震える伊雅の隣で、火魅子は読み終わった書状から目を離した。書状は再び、亜衣の手に渡された。
「失礼いたします」と述べて、亜衣も書状に目をとおす。内容は確かに、出兵に関する詳細な申し出であった。
亜衣は、顔を上げて教来石を見やった。
「北山では決戦の気運が高まっているのか」
問いに、教来石は頬を引き締めつつ、
「下にも」
と、一言こたえた。
「この一戦で、全てが決すると存じます。勝利か、滅亡か・・・・・・」
「ふむ・・・・・・決戦か」
「ですので、何卒、何卒ッ! 我らにご助力を賜りとう願います。我が祖国は衰亡の際に立たされ、ただこの一戦にて勝つ事こそ、運を切り開くただ一つの術と心得ております」
必死の嘆願で、教来石は火魅子に向かってまくしたてた。この際ならば、靴を舐めろと言われれば、躊躇い無く嘗め回す気持ちだった。
「我らのこと、快く思わぬことは先刻承知。さぞ憎かろう事も心得ております。また、とても兵を出せる状況に無いことも、この教来石、わが眼にて確かめ申した。ですが何卒・・・・・・何卒、お慈悲をッ」
——いっそ無様な姿である。教来石自身、ここまで遜った経験は、今の今までなかった。
火魅子は、ちらと亜衣に視線を走らせ、ついで伊雅を見やった。亜衣はとても深く考え込み、伊雅は——見る必要が無かったほどに、わかりやすいまでの苦みばしった表情で、教来石を睨みつけていた。
火魅子は心を動かされていた。そも、当代の火魅子は心優しく、どうしても非常に徹しきれない性格をしている。慈悲と自愛に溢れた仁の統治者だが、厳をいまいち持ち得ず、そこが欠点といえば欠点であった。
祖国を失う苦しみ、悲しみ、哀切の念は火魅子も痛いほどに知っている。是が非でも救いたい気持ちもわからなくはなく、また北山で戦う音羽たちのことも気がかりであった。
兵を出せる状況ではないが、さりとて決戦に挑む音羽たちの手助けはしてやりたい。
悩んだ末、火魅子は教来石に向かって、
「しばしお待ちなさい。皆と協議の上で決めます」
として、評定衆の意見を聞くことにした。
今すぐの返答が欲しいが、そこは教来石もわきまえている。「良きお返事を」と形の上で礼を述べ、一同は謁見の間を辞していった。
耶牟原城の内乱鎮圧、および治安回復を名目として上都してきた藤那たちは、同地で本格的な鎮圧行動に移行した。十一月初めのことである。
寒風がそよそよと吹き始め、秋の終わり、冬の到来を予感させるように、草木は色褪せていく。
今年の冬の訪れは少しだけ遅くなりそうだと、巷の巫女たちはささやいている。家を失った者たちにとって、それは一先ずありがたいことだった。
各区域で鎮圧活動に励む藤那たちのために、亜衣は取り急ぎ、あらたな職を定めた。
『武行(ぶこう)』と呼ばれる守護職で、内乱鎮圧におよび、武行に定められた者たちには都内部での軍事行動が許された。
この『武行』が時を経て、後の『奉行』となる。
藤那は西の街武行、紅玉は南の街およびその周囲を囲む職人街武行、教来石の北山軍は紅玉の傘下に収められた。
この他、遅れて到着してきた者たち。
豊後からは伊万里の名代として仁清が五人の武将とともに、兵一千三百を率いて北の街武行に就いた。
火向からは志野が自ら上都し、武将八人、兵二千を従え東の街仕切所に拠点を置いた。住まいは自らの屋敷である。
その他、豊前、筑前、筑後からも武将が十三人、それぞれの持ち場を任された。これら十三人の総勢は、およそ八千に上る。
さらに、現在、他の地方地主たちも、続々と上都の準備を進めている。この調子でいけば、耶牟原城武行衆は、総勢を一万人は超えるかもしれないという見通しが立っている。
ただし、これは、亜衣の先導によるものであった。地方豪族を都に招きいれ、彼らの立場をより確固とし、文官の専横を強くけん制する狙いがあった。
彼ら武行に任ぜられた者たちの働きもあって、内乱は鎮圧。
首謀者となった文官と武官は、多くが囚われ、ある者は極刑にまで処せられた。大方は官位を落とされるなどの処罰を受け、文武あわせて四十八家がお取潰しとなった。
武行に任ぜられた者たちは、取り潰された家の禄を褒章として頂いた。多くは国許に帰ったが、一部はそのまま武行として都に残った。まだ小競り合いは続いているからだ。
季節は冬になって、十二月。
火魅子は三度目の出兵を宣言した。『第三次琉球出兵』である。要求された戦力は九千だが、火魅子は四千人の兵士を送り込んだ。
寒い日が続いている。亜衣は治安の回復を受けて、しばしの休暇をとっていた。
実妹の衣緒を伴って、亜衣は職人街の大路地を歩いていた。呉服の上から二重の外套を羽織、その上にさらに蓑を被っている。衣緒も同様で、こちらはいつも通りの鉄槌を右手にしている。
二人は羽江の住まう屋敷へと向かっている最中で、途中、練った小豆を包んだ饅頭を買って、街からやや離れたところにある屋敷へとたどり着いた。
小間使いの男が、二人を出迎えた。蓑を預けて、衣緒は鉄槌を持たせて、我が家のように上がりこむ。暖が十分にとられていて、じんわりと身体が温められる。
「奥方様、姉君様がお越しになられました」
女中がそう告げて、静かに戸をあけた。
羽江は部屋の上座で、肘掛に腕を乗せ、一重を羽織って座っていた。
亜衣と衣緒が部屋に入ると、羽江の顔に屈託ない笑顔がほころんだ。まだまだあどけなさの抜けきらない、垢抜けない笑顔だった。
「久しぶりだね」
「ああ・・・・・・三ヶ月ぶりかな」
微笑みながら、亜衣が腰を下ろす。本来なら亜衣が上座に座するべきなのだが、羽江の身体を慮り、あえて下座に腰を下ろした。
「町中、なんだか大変そうだね」
供された茶を飲みながら、亜衣はこくりと頷く。
「大変なんてもんじゃないぞ。もう滅茶苦茶だ。危うく火魅子様の権威が地に落ちるところだった」
「うわぁ・・・・・・」
「城下で戦闘は起こるし、死人は後を絶たずで」
愚痴るように亜衣はまくし立てた。事実、本当に酷い状態だった。
いまでこそようやく沈静化したものの、おかげで耶牟原城に詰めている武官の数もだいぶ減った。代わりに文官も多くを罷免して、人事の大幅な入れ替えがあった。
罷免された文官は地方へ配属され、現在は国家の政に関わっていない。
「卯花たちをいじめてるんだって?」
羽江がいたずらな笑みを浮かべながら言った。亜衣は少しだけ睨んで、
「なんで?」
と尋ねた。羽江はくすくすと笑いながら、「此間うちに来たんだよ」と言った。
「亜衣さまにこき使われて死んじゃいますぅ〜・・・・・・って」
妙に似ている卯花の物まねをして、羽江はなお笑みを浮かべた。亜衣の隣で座る衣緒が忍び笑いをこらえているのがわかる。
衣緒も、卯花たちが亜衣にこき使われているところを何度も目撃している。たしかに、亜衣の指示の早さ、仕事量は常人の許容範囲を軽く超えている。
亜衣は憮然としながら、
「蘇羽哉はなんとかやったぞ」
と、まるで言い訳のように呟いた。やりすぎ、という自覚は亜衣にもあるのだ。
それでも、亜衣には手心を加えてやる余裕が無い。いま国家の政に取り組むものたちは、ほとんどが新参者だ。人材育成が完了する前に入れ替えてしまったため、宗像の巫女たちには一刻も早く大成してもらわねばならない。
「でも、少しくらいは大目に見てあげても、いいのではありませんか?」
衣緒の言葉に、亜衣は唸った。
「蘇羽哉があと八百人いれば、考えなくもない」
「まぁ」
「それは無理だって」
冗談とも本気ともとれない一言に、妹二人は互いを見やった。仕方のない姉だと内心で苦笑する。
そんな二人の様子に、亜衣はなにか釈然としないものを感じながら、茶をズズッとすする。
「おっと、そうだ」
ふと思い出して、亜衣は途中で買った饅頭を取り出した。
「土産だ」と言って、羽江の前にそっと差し出す。
「わぁ」
羽江の顔がいっそうほころんだ。羽江はとかく、甘いものに目が無かった。小豆を練った粗あんは特に大好物だ。
饅頭は大きく、羽江の手では掴みきれないほど大きい。ソフトボールよりもまだ大きく、暖かそうに湯気が立ち上っていた。
「精をつけてもらわんとな」
優しく、亜衣は言った。瞳は羽江の膨らんだ腹部に向けられている。
七月の終わりごろ、羽江は妊娠していることが判明した。
吐き気とそれに伴う嘔吐が頻発して、さらに熱もある。心配になった家人が忌瀬に相談して診断してもらったところ、胎に子が出来ていると告げられた。
羽江、二十四歳にて第一子を授けられた。
あとニ、三ヶ月もすれば出産となっている。赤ん坊は順調に大きくなり、羽江の腹もいまや満月のようになっている。
衣緒や亜衣も、腹を触ったことがある。この中に羽江以外の命があるなど、不思議な気持ちだった。ただ、それが女で、自分たちにも出来ると思えば、不思議は自然と消え去った。
ここしばらく見舞いにこなかったが、見ぬ間に一段と膨らんだ。それが我がことのように嬉しい。
「どんな子が生まれてくるのかしら・・・・・・」
衣緒は目を細めながら、まるで吐息のように呟く。羨ましがっていることが丸わかりだ。
「羽江、名はもう決めたのか?」
「ううん、まだだよ。いろいろ考えているんだけどねぇ」
なかなか、と羽江は困ったように笑う。さもありなん、と亜衣は思った。羽江のネーミングセンスはいつも絶望的だ。決められては、生まれてくる赤ん坊があまりにも可哀想だ。
せっかくだと、亜衣は生まれてくる子供の名付け親を買って出た。羽江よりはマシな名前を思いつく——否、子供のためにも思いつかなければならない。
名前に関してはとくに頓着していないのか、羽江は二つ返事で頷いた。姉が自分のために何かをしてくれる、ということが嬉しいようだ。
饅頭をほお張りながら、それから三人は、ここ暫く疎遠だった空白の時間を埋めるように、談笑に花を咲かせた。こういうところは、いまだ狗根国から逃げ回っていた頃と変わらない。違うのは星華がいないことだけ。
話はほんとうに、くだらないことばかりであった。
鍛錬中、衣緒が勢いあまって雑木をニ、三本ほどへし折ったこと。それで亜衣に怒られたこと。
井戸が一つ壊れたこと。その井戸の中に子供が落ちているのを発見して助けたこと。
泥棒騒ぎが起きて、だけど犯人は野良猫だったこと。
ほんとうに、そんなことばかりだった。時々、亜衣や衣緒は愚痴を言って、それを羽江は慰めて、初めての妊娠で少しだけ不安になっている羽江を、二人は懸命に励ました。
最近は、酷くて、惨くて、暗くて、悲しいことしか起きていない。だから、いまここにある幸せが、亜衣にはかけがいのない、尊いものだった。絶対に守り抜かねばならない命が、これから生まれてくるのだ。
姉妹水入らずは、夜中になっても花咲いた。衣緒はいつ結婚するんだ、私も子供が欲しい、亜衣お姉ちゃんはもう売れ残った、などなど。
結局、亜衣たちが屋敷を辞したのは、翌日になってからだった。
別れ際、亜衣は「こちらのことは案ずるな、お前はお前の子供のことだけを考えろ」と、そう言って羽江と分かれた。
その日、冬の空は快晴だった。