都の大騒動を九峪が知ったのは、翌十一月の、白雪舞う夕方のことである。
その日、九峪は自室に篭り、書を前にしていた。筆をとり、絶えず文字を書いていた。
亜衣よりの書状を持ち帰った女中より受け取り、中身を拝見して、落雷に打たれたような衝撃が身体を駆け巡った。
——都が内乱状態に陥った。
まずは、冒頭より綴られている。心を動揺させながら読み進めると、しかし藤那らの活躍あって沈静せり、との文に目を留めて、ほっと息を吐いた。
「だいぶん、きな臭いことになっているみたいだな」
阿蘇に引篭もっていると実感に欠けるが、情勢の不安は木枯らしのように、まだまだ続いていく気がした。
耶牟原城の再建には、九峪もかなり尽力してきた。宮殿の要塞化もそうだし、町並みや道路などのインフラ整備、商人や職人だって沢山移住させて、都らしい都を目指した。
ただ、産業に力をいれ、その管轄として文官に掛かりきりにさせていたのが、大本の間違いであったと気づいた頃には、すべてが変わり果ててしまったが。
美しい都、美しい耶牟原城を目指し、いつかは絢爛たる往時の京都のようにしたいという、人の身に有り余る夢は、文字通り儚く散った。
しかしその想いまでを失ったわけではない。自身に遂げられない夢だが、いつかは亜衣たちが叶えてくれると——美しい耶牟原城を、九峪は、阿蘇の山で思い描いた。
——その耶牟原城が戦火に焼かれた。
時代はいまなお戦乱に渦巻かれ、暴力が世の理である時代。
九峪の理想は、いまだ理想でしかない。
書状をたたみ、文机の上に無造作に放った。紙のかすれる音が、耳に小気味よい。
「——日魅子、世の中ってもんは、難しいな」
変わり果てた九峪の前で、変わらない姿の日魅子が、笑っている。
兵四千の援軍。
はっきり言って大軍なのだが、それでも、教来石にはまだまだ心もとない大軍に思えた。
北山の連敗振り、大敗振りときたらまるで信じられず、目を覆うばかりとしか言いようが無い。戦力は琉球で随一、中山と比べて三倍も四倍も多いのだ。
なのになぜ勝てない。中山の快進撃に待ったがかけられない。
教来石には知りえないことだが、もちろん、中山の快進撃には相応の理由があった。
まず、九洲兵の士気が高くないことが挙げられる。音羽たち武将は死に物狂いだが、末端の農兵たちは、何一つ得るものの無い戦を馬鹿らしく思い、無駄死にだとしている。生きて帰りたい思いが強いから、どうしも命を惜しみ、結果として突破力を発揮できずにいた。
さらに、中山の問題として、とても大きな事柄があった。
元星六年二月の段階で、中山は南山と一時的な和睦を結び、後顧の憂いを断ったのだ。これにより、中山・南山連合軍が誕生し、風前の灯もかくやという北山の打倒に乗り出したのだ。
これによって、三倍とも四倍とも言われた戦力差を補い、連勝の波に乗って中山は躍進を遂げた。
戦力としてはほぼ互角と考えてよい。ならば、足並みの揃わない北山に勝ち目など無いのだ。それを見越して、恵源は戦力増強で押し切る戦法を選んだのだ。
しかし、そのために必要とされた兵員九千人から、大幅に減ぜられて四千人。不安になって当然であった。
これが、現在の九洲の出来る限り、ということなのか。
むしろ内乱鎮圧から、時をおかずに兵員を増派出来たところに、驚きを禁じえない。ここは亜衣の手腕の見せ所だった。
年が明けて、元星七年正月、教来石は紅玉の傘下を離れて加奈港へ帰還した。
教来石にはやらねばならないことがあった。北山の勝利に確信がもてない以上、教来石の脳裏にはある考えがあった。
北山の逃げ込む場所を造る——ということである。
勝てばそれでよいが、負けた場合は最悪だ。制裁、粛清が大蛇となって北山を飲み込む。皆殺しが良い未来か、奴隷に落ちるが良い未来か、それすらも判別できない世界になるだろう。
負けた国とはそうなのだ。耐え難き屈辱と恥辱がまっている。そしていつかは、誇り高い国号が消えてなくなってしまうのだ。
なればこそ、教来石は敗北した折の対処をも思案している。
都合よく、北山は国外に拠点を構えている。教来石は、加奈港の周辺の地理なども調査し、攻守の妙を徹底的に調べ上げた。
加奈港こそが、北山最後の砦。まさにその意気込みで、領民の評判をよくするよう部下たちを纏め上げ、彼らを尊重した。
しかし、いくら努力に努力を重ねようとも、北山は悪評判であった。良くするとか、そんなこと以前に、北山は九洲人にとって嫌われ者でしかないのだ。
その折、都の内紛も収束しつつあるころ、今度は加奈港が戦火の舞台と成り果てた。寒空のした、白昼堂々のことであった。
加奈港は広い支配領域を誇り、民家、商家が多く軒を連ね、まさにちょっとした一大商業都市の様相を呈している。また海洋貿易、造船業でも多いに潤っていた。全ては過去の話だが。
教来石が居するのは、加奈港でも見晴らしの良い一等地。大きな屋敷の周囲には柵と堀が巡らされている。
その屋敷が、真昼間の午前十一時ごろ、突然のように炎上した。渦巻く炎を噴出す屋敷の周りには、三十人ばかりの武装した集団がぐるりと囲んでいた。
「や、焼き討ちか!?」
同盟国として湊の整備を計画していた教来石は、部屋に前触れも無く火矢が飛び込んできて、瞬時に襲撃されたことを悟った。
直後、屋敷中は阿鼻叫喚となり、台所などの油に引火して、屋敷は瞬く間に燃え上がった。
屋敷に逗留していた兵士は四十人ばかり。みな教来石の郎党で、彼らは異変に際して足音も荒々しく、主の教来石を守ることを最優先として駆け込んできた。
「旦那様、ご無事ですかッ」
郎党の一人、恰幅の良い男が叫んだ。
「おう、ここだ。よう来てくれた」
男は教来石の無事を確認して、安堵の息を吐いた。しかしすぐに表情を引き締めた。
「ここは危険です。屋敷はすでに囲まれております。火の手も強うございます」
「よもや襲われるなど、思いもせんかったわ」
「ひとまず逃げましょう。我らが血路を開きますので、旦那様はここより落ち延びてください」
「わかった」
兵士たちが火災の合間を縫うようにして、教来石を外へ連れ出した。恰幅のよい男は十数人を引き連れて、裏庭から飛び出し、そこにいた襲撃者たちを手当たり次第に切り伏せた。
敵が怯んだ隙をついて、教来石と数人の護衛がバッと駆け出した。手近な者だけを切り、あとは無視してただただ逃げた。
林に入り、なお駆ける。後ろから襲撃者が追ってくるのを、怒号を聞きながら感じた。
「待てや!」
後ろから叫ぶ。倭馬に跨った騎馬が五人、雑木を軽やかに避けながら駆け寄ってきた。
「う、馬か」
流石に馬が相手では逃げ切れない。騎馬はすぐさま教来石の背後へ迫り、槍を一突きしてきた。教来石は躓いたように前のめり、転がって辛うじて難を逃れた。騎馬はそのまま駆け抜けた。
即座に立ち上がると、腰の刀を抜き取る。他の者たちも同様にして、教来石を守るように円を描いて、剣を握って構えた。倭馬から戦士がおりて、同じように教来石たちと対峙する。
数の上では互角だ。
「貴様ら、誰そこの手先かッ!」
相手を睨みつけて、教来石は吼えるように問うた。
返事は無い。変わりに戦士が一人、気勢を上げて切りかかってきた。
ガインッと刃同士が爆ぜる音がした。
「聞く耳持たぬか。口上すら述べられんのかッ! 恥知らずッ!」
罵倒しても、相手は沈黙を守っている。
なおも教来石は、「恥知らずッ! 恥知らずッ!」と罵詈雑言の限りを尽くすも、その言葉が届いている様子は無い。
言葉が通じないと思った教来石は、それでも言葉で相手を罵りながら、今の状況から脱出する方法を考える。
騎馬は少ないが、いまごろ、他の襲撃者どもは血気盛んに迫りつつあるはずだ。やつらが到着するまえに逃げ切りたい。
「きええぃ!」
またもや襲ってきた。郎党たちが立ちはだかって、刃が数合打ち合わされた。
教来石も血刃を振るって応戦するが、相手は鬼相の勢いで刀を振るい、教来石たちはたちまち圧されていった。
木々の間を縫うように、互いの立ち位置を転々と変えながら、時に樹木に身を隠し、にわかに刃を向け、そして頃合を見ながら逃げて追ってを繰り返す。
落ち葉で覆われた林を、教来石たちは決してはぐれないように、まとまって駆けていく。
林を抜け出て、しばらく走り、廃屋が立ち並ぶ一画に辿りついた。ここに来るまでに、すでに郎党は三人だけしか生き残っていない。
息せき切って、廃屋の一つに身を隠す。
「水は・・・・・・ないか」
水桶のふたを開けて、落胆にため息を漏らす。埃とカビのにおいに満ちた静寂の中で、教来石たちは荒い呼吸を落ち着かせる。
「ここも早く出て行こう」
みんなに目を向けて、教来石は言った。廃屋に身を隠しても、いずれは見つかる。ここは袋小路で、火を放たれたらもうお終いだ。
しばし身体を休めて、教来石は立ち上がった。出て行こうとする教来石を、しかし郎党の一人が静止した。
「お待ちください。外の様子がどうにもおかしいのです」
「どういうことだ?」
教来石が尋ねると、郎党は窓から外の様子を伺いながら、
「追ってくる気配がありません」
と答えた。教来石も窓から外の様子を眺めた。
「たしかに。探している様子も無い」
「見失ったのでは?」
「で、あればよいがな」
再び、郎党たちへ視線を向ける。
「やはり出るぞ。いつまでもここにいて、益はない」
改めて逃げる意思を見せる。郎党たちは頷いて従った。
廃屋から周囲を伺いながら、慎重に外へと出て行く。寂れた一画は、人が隠れるには格好の遮蔽物が多く存在している。
物陰に追っ手が隠れていても不思議ではないのだ。「一人になるな」としつこく伝え、そろそろと駆け足で、ひたすら逃げ回った。
しかし、どういうわけか、追っ手の気配が追いついてこない。さすがに教来石も不審がってきた。
「やはり我らを見失ったか」
と思う傍ら、そんなことはないとも思う。それほど長い距離を逃げてはいない。見失うはずがないのだ。
すわ、これは何かの策か。よもや追い込もうとしているのかも・・・・・・。
ふと足を止めて、教来石はこのまま逃げるべきかどうか、判断に迷った。郎党たちも教来石の周りに集まってきた。
だが、追い込まれている感じはまったくしない。そこも気になる。
——と、そのときだった。遠くから何かを叫ぶ声がしたのだ。
「やはり追ってきたか」
郎党の一人が、苦い表情で唸った。
「いや、まて」
しかし教来石は、この声に聞き覚えがあった。
しばらく待っていると、声はどんどん近づいてきた。
「教来石さまーッ! 教来石さまーッ!」
「あれは赤峻(せきしゅん)の声だぞ」
笑みを浮かべて、教来石は膝を打った。助かったと内心で喜んだ。
郎党たちも一様に声を沸き立たせ、大声で赤峻の名を叫んだ。教来石を呼ぶ声、赤峻を呼ぶ声、どちらもが互いを探して呼び合った。
ほどなくして、倉庫の向うに赤峻の姿が現れた。赤峻はその名とは逆に、青一色の装いにて、長刀を手にし、長い直髪を後ろで結わっていた。勝気そうな釣り目の女戦士であった。
赤峻が気づいて、ぱっと顔を明るくさせた。鎧を鳴らしながら駆けつけ、教来石の前で跪いた。後ろに続いていた北山兵も多数、駆けつけてきた。
「教来石さま、ご無事で何より」
「おう、助けにまいったか」
「お屋敷が襲われたと聞き、手勢を率いて教来石さまをお探ししておりました」
合点がいき、教来石は頷く。
「死地に生を見出した気分だ」
「おそれいります」
「賊はどうした?」
「十二人討ちました。他は逃げられました」
「そうか・・・・・・」
さしもの襲撃者どもも、北山兵百人の前では寡衆にもなりえなかった。
赤峻は、教来石の信頼する武将で、長刀の名手として知られている。低身、細腕にも関わらず剛勇で知られた、教来石帷幄の勇将である。
もとは地方豪族の三女として生を受け、教来石の父の屋敷で女中として奉仕していたが、とある切欠で腕っ節の強さを見せつけ、以後を嫡子である教来石に仕え数々の手柄を立ててきた。御歳二十七歳と、教来石よりも四歳年長である。
赤峻は、教来石の屋敷が襲われたと知るや、百人を率いてすぐさま駆け、賊の討伐よりも教来石の捜索を最優先として行動した。見つけた賊は打ち倒したが、他を見逃した理由は、教来石を探していたためだ。
赤峻に警護されながら、教来石はひとまず、軍船の停泊している湊へ向かった。湊にたどり着けば、とりあえずは安全である。
北山の軍船を仮の寝所とし、赤峻や他の武将たちも集め、今後についての会議を開いた。
襲撃者は九洲の人間で間違いないとして、なぜ、かかる暴挙に出たのかが、もっとも知りたいことである。
「やはり、我らを快く思わぬ輩の仕業かと」
「それもあろう」
「敵方の刺客ではないのでしょうか」
「かもしれぬ」
方々の言葉を聴き、検討を重ね、教来石は翌日、文書を耶牟原城の亜衣へ送った。
丸一日の間をおいて文書は無事に届けられ、内紛の事後処理に追われていた亜衣の目を、これでもかと開かせたことは言うに及ばない。
もちろん、亜衣の知らざることだからだ。
教来石とは、北山で戦う仲間たちとの橋渡しであれば、彼を殺すことはすなわち音羽たちの情報が手に入らなくなることでもある。そうなっては出兵団とよしみの深い者たちの怒りが、爆発してしまう。
耶牟原城の内紛と連動するように起こった事件だけに、亜衣にはなにやら不穏な空気が感じられて仕方が無い。
文書が届いてすぐに、亜衣は清瑞を密かに呼び寄せた。
「お呼びですか」
「ああ。まぁ、まずは座れ。だれか、茶を頼む」
小間使いに茶を運ばせ、茣蓙を勧めて、亜衣は居住まいを正した。清瑞が亜衣の前に腰を下ろした。
茶の温かみが、冬の身体に心地よい温もりを与えてくれる。
「耶牟原城下での調査、まずはご苦労だった。大変だっただろう」
清瑞は苦笑しながら、
「ええ、それなりには。さすがに耶牟原城の全域を調査するとなると、警徒の協力があっても、骨が折れましたよ。ましてや、ホタルなんて十数人ばかしの小所帯・・・・・・裏でどれだけ走り回ったことか。まぁ、それでも、我々にとってはいい経験でした」
普段は口数少ない清瑞がここまで言うほどだから、相当に厳しい役目であったことがわかる。
亜衣も随分と無茶を言った身だ。だからまず、清瑞とその部下たちの多大な活躍を労ってやりたかった。
ちなみに、これまでの清瑞の禄は四百貫(米、麦、銀合わせて千五百キログラム相当)だが、この時の働きがあって、現在では二百貫(七百五十キログラム)加増され六百貫となっている。
報酬は受けているのだから、礼のいわれはないのだが、亜衣の心づくしと思い清瑞は改めて頭を下げた。
「それで、今日はどんな用件なのですか?」
「ああ、実はな・・・・・・」
亜衣は、届けられた文書を清瑞に読ませた。
「今度は加奈港ですか・・・・・・」
昨日の今日で、流石に清瑞も不振がっている。無理もない。
清瑞は文書から目線を外して、鋭い瞳で亜衣を見据えた。亜衣の考えが読み取れた。
「すぐに、加奈港へ向かったほうが宜しいですね」
「話が早いな、だからこそ頼もしい」
清瑞の察しの良さに、亜衣も感服する思いだった。こういうところを見るたびに、あの天目ですら清瑞に魅了された想いが、ひしひしと伝わってくる。
だが、清瑞の読みはまだ亜衣に比べて浅いところがある。
亜衣には、清瑞に伝えねばならないことがある。
「一つ、注意することがあるんだ」
そう前置きする。清瑞は威儀を正して応じた。
「耶牟原城の内紛、そして今回の加奈港での騒動も、どうにもきな臭い。私はな、清瑞、何か裏があると考えているんだ」
「裏、ですか?」
さすがにそれは、清瑞の考えにもなかった。
亜衣は頷く。
「九峪様がまだこの世界にいることは、すでに話した。しかしお前に話さなくてはならなかった理由は、あまりにも早く出回りすぎた噂が原因だった」
「はい、覚えています。あのときは、その、お見苦しいところを・・・・・・」
「いや、それはもういいから」
変なところで滅入るのは、清瑞の悪い癖である。
「とにかくだ。噂のあまりにも早い流布、さらに突然沸き起こったところも怪しい。しかも『神の遣い』とやけに具体的だ」
「言われてみれば、たしかに」
「もともと噂はあった。私の噂がな・・・・・・。しかしそれはあくまで『亜衣』の噂であり、決して『神の遣い』に繋がるものではないはずだ。妙とは思わないか?」
「意図的な噂だ、とでも?」
勘繰るような言葉に、亜衣は瞳を細める。
「ああ、そう思えるな。そして噂の直後に、明銀太の暗殺、土門邸の焼き討ちが起こり、内紛へと繋がった。偶然だとするには、連結しすぎているように考えられる」
「では、亜衣さんは背後に・・・・・・」
「誰かが、もとあった私の噂を利用して、九峪様の威光をそれとなく振りかざし、武官の暴挙を誘導している者がいる。それが私の結論だ」
「なるほど。そう考えればたしかに、合点がいくことばかりです」
「もちろん確証も無く立証だって出来ない、可能性の問題だ。しかしだ、これを念頭に置いて調査してほしい。もしも不審な点があれば、些事にかまわず調べ上げ、逐次にわたって報告するんだ。いいな」
「はい、委細承知しました」
「難航するようなら、ホタルを全員、連れて行っても構わない。北山の軍師を助けるのは癪だが・・・・・・音羽たちを見殺しにはできんからな」
「それは、ええ、たしかに。私も見過ごせません」
強く、頷く。亜衣の言うことは清瑞にとりもっともなことだった。
ましてや、清瑞には亜衣以上に、音羽を見捨てられない思いが強い。清瑞と音羽は幼少の頃から馴染みで、清瑞にとっての音羽は、もはや義理の姉といっても過言ではないのだ。
音羽を助けたい思いは、亜衣よりも清瑞のほうが強いかもしれない。また遠州なども、護衛役としての関係上、やはり他人同士ではないのだ。
「また暫くは忙しくなるだろうが、辛抱してくれよ」
働きづめで、亜衣も心苦しいものがある。しかし清瑞は笑って請け負った。
「失礼します」と、清瑞が辞したあとの部屋で、亜衣は暫く身じろぎせずに座ったまま、ゆっくりと茶で喉を湿らせた。温かった。
季節は冬で、清瑞たちに暇も与えてやれないことを、申し訳なく思う。清瑞たちホタルは秋の頃から精力的に働き、内紛状態に陥ってからも、伊雅主導の元で鎮圧活動に奔走していたのだ。
本当なら、いま少しの間は休ませてやりたかった。藤那たちが武行となってからは、亜衣も休暇を取ることが出来た。
しかしホタルの有用性は、こういった時にこそ発揮されるものだ。まだまだ働いてもらわねばならない。
それに——。
「癪だ。本当に癪だな」
文書をもう一度手に取り、低く呟く。
「癪だが、乗らないわけにもいかん」
それがまた、亜衣には気に入らなかった。
ヨーロッパ東南部に、バルカン半島と呼ばれる地域がある。そこは本来、特別な呼び名があるわけではないのだが、古代から諸問題によって紛争が絶えず、あの忌まわしき『サラエボ事件』を切欠として空前の大戦争——『第一次世界大戦』を引き起こしたことで有名だ。
別名として『世界の火薬庫』とも『ヨーロッパの爆弾』とも呼ばれる。ゆえにバルカンである。
世界から見れば小さい。ヨーロッパから見ても、そこはあくまでも地方でしかなかった。しかしそこで起こった暗殺事件が、世界へと飛び火したことは事実だ。
引き金は何時だって小さい。大きな引き金というものは、案外そうあるものではない。『サラエボ事件』だって、当時としてはそれほど特別な事件ではなかった。ただタイミングは最悪だったが。
いつだって、誰が引き金となり、誰が弾丸となるかはわからない。いつだって唐突だ。『アメリカ同時多発テロ』だって、誰にも予期できなかったのだから。
寒い日だった。特別に寒かった。その日、薩摩全域は低気圧に覆われていた。風もあった。
錦江港の湊町の一つ、由の津は、重然が香蘭より与えられた、石川島に代わる新たな領地である。『津』と銘打っているが、小さな漁村であった。
正式な軍隊に任じられた重然水軍は、もう漁業からは手を引き、海上警備、兵士の鍛錬などで日々を送っている。
もとは志野の配下だったが、問題を複雑にさせないために、志野も重然たちを送り出した。そのおり、織部を互いの連絡役に任命した。
その重然は、いま、自身の屋敷でとある男と会っていた。
男の名は平陽(へいよう)。火前塩田にある渡邊荘(わたなべのしょう)の土豪で、同地に築かれた渡邊城の城主である。四十三歳、働き盛りである。
恰幅良く大柄。柔和な表情で、領民からは温厚なことで好かれている。城主であるが、武よりも治の人である。
平陽は衣服や縄、また食用としても使われる『ヲ(青芋、カラムシのこと)』を栽培して九洲中に通商して、多大な利益を上げている。ほとんど商人のようなもので、この売り上げ成功の裏には只深が絡んでいるとの噂が立つくらい、本当に儲けていた。
あまりにも儲かるものだから、火前も随分と潤っている。いまや渡邊荘は九州最大のヲの栽培地にして、九洲ないし天目方へも売り出す、大手のヲ商発信地なのだ。
その平陽が重然の屋敷を訪ねたのは、人の良い柔和な表情と温厚な性格からは似ても似つかない、とてもシビアな内容によるものだった。
「重然様」
平陽が呼んだ。平陽は商人らしく、相手をよく『〜様』と呼ぶ。
「実は折にいり、お願いいたしたき議ぎがあって、まいりました」
「平陽殿の名は、石川島へも届いておりやした。『ヲを買うならば渡邊殿』とまで呼ばれていたとか」
「いや、お恥ずかしい。そこまで言われるほどの物は、お売りしておりません。いや、たしかに、それなりには儲けさせていただきましたがな、皆様方のおかげで」
オールバックの頭をなでながら、平陽がカッカと笑い声を上げた。笑い方にも剛毅さがなく、まるで商人の笑い方だ。
重然はこういった『頭で生きる』人間はあまり得意でない。しかし毛嫌いもしていない。味方にいれば頼もしく感じるのだが、それを相手にすると、どうにも厄介でいけない。
こちらの考えが全て見透かされている、そんな気分がしてくるのだ。紅玉や亜衣、そして九峪などが相手だと、顕著にそう感じる。
内心の忌避感を隠しながら、重然が尋ねた。
「で、用というのは?」
平陽が僅かに笑みをさげた。
「売り込みです」
「売り込み?」
怪訝そうに聞き返す。平陽は丸い顔で頷いた。
「重然様に、わが渡邊荘で作ったヲを買っていただきたいのです」
「・・・・・・は?」
「おや、聞こえませんでしたか。ではもう一度・・・・・・重然様には、我らのヲを買っていただきたい、と申したのです」
「なんでいまさら・・・・・・。別に売り込みにこなくても、あっしらが衣服を買えば、だいたい、渡邊殿のヲを買うのと同じ事でごぜぇます」
当時の九洲では、衣服の材質として麻に並んでヲは普及していた。
「いや、そういっていただけると、商人冥利に尽きるというもの・・・・・・。あいや、私は武将でした」
「・・・・・・なにやら、渡邊殿と同じ御仁を、以前に見た記憶がありますな」
脳裏に、半島の商家を営む嵩虎の、とぼけた顔が思い浮かんだ。只深といい、どうにも人の良さを前面に押し出す性質であるらしい。商人気質とでもいおうか。
だが、やはり平陽は武将でもある。時々、垣間見える鋭い相貌に、重然は警戒していた。
腹に何かを抱えている。直感がそう告げる。でなければ、人のいい男が商いで成功するはずが無い。この男は温厚な顔と、腹黒い顔を持っている。
本心を簡単にさらけ出さないところが、どこか阿智にも似ている。
「あっしらに売り込む理由を伺いやしょう」
「されば」
平陽が咳ばらいをして、威儀を正した。
「耶牟原城の内紛、ご存知でしょうか」
「聞いている。紅玉様が百人を率いて上都したんだ」
「私の耳にも届いておりますぞ。たいそうご活躍なされておるとか。流石は耶麻台共和国の誇る闘神でございますな」
「闘神、な」
言いえて妙だと思った。たしかに紅玉の超人的な戦闘力は、闘神と呼んで憚らない。
「都の治安も随分と回復しているとか。嬉しい限りです。ですが」
「何か問題でもあるんで?」
平陽が頷く。
「情けない話なのですが・・・・・・私の部下どもは、揃いも揃って腰抜けばかり。中原に荷を運ぶには耶牟原城の近くを通らねばならないのですが、内紛のとばっちりを恐れて、誰も行きたがらないのです」
「ふむ・・・・・・」
「このままでは、我ら渡邊党が自慢のヲを、火後はおろか薩摩、火向、豊後に売り出すことが出来ません。これでは商売あがったりです」
「それは大げさな」
随分と儲けているくせにと、重然は半ば呆れていた。それに耶牟原城の近くを通るといっても、道はいくらでもあるはずだ。
しかし、どうやら商人にも商人の都合があるらしい。
平陽がくわっと目を見開いた。
「大げさではありません。中原より南洲へ進むには、久住連山、阿蘇山系を越えねばなりません。それらを越える道は限られ、商隊を行かせるにはどうしても大路が通る耶牟原城の近くが交通の便が宜しいのです」
「お、おお」
「また陸路といえば、しぶとく生き残った魔獣が人間界の空気になじみ、子をなして、いまなお山々に生息しております。下手に人通りの無い道を群れを成して進むのは危険」
「そ、そういうものか」
「はっきり言いましょう。いまや我ら火前地方の商人は、中原南洲へ通商できないのが現状なのです」
「わ、わかった。わかったからちょっと離れろ。顔が近い」
気がつけば、熱の入った平陽が、重然にズイズイと身を寄せていた。熱い息が顔にかかり、重然のこめかみが震えている。
ゴホンッと咳を一つつき、体格に似合わない素早い動作で平陽がもといた場所に座りなおした。
商人の勢いと武将の勢いがまざると、こんなことになるのか——。
重然に背骨を旋律が駆け巡った。平陽のどアップは心底怖かった。願わくば二度と見たくない顔だ。
「——で、お話というのですが」
何事も無かったかのように、用件を切り出した。
「我ら、天草を経由した新たな道を開拓いたしたく思いまして」
「天草を・・・・・・?」
天草とは、そのまま、天草諸島のことである。
平陽の新たな商路は、九洲中央の陸路を使うのではなく、島原半島から天草下島を経て薩摩に直接、荷を陸揚げするという構想だった。
これには天草灘、八代海、黒之瀬戸を縄張りとする海人たちの協力が不可欠である。
いままでは陸路があったから、荷も天草で終わっていた。しかしその先に荷を送るとなると、海人衆を抱き込むしかない。
そこで平陽は、薩摩の海人衆から絶大な支持を得ている重然に、かれら海人衆との『渡り』をつけてもらおうと考えたのだ。
重然が応とも是とも言えば、彼らは否といわない。
「もちろん、重然様にも、相応の謝礼をお支払いいたします。後助ともなりましょう。ですから、重然様にはまず、我ら渡邊党をご贔屓していただき、繋がりを持つことが肝要と信じます」
「あっしらと誼を通じたいと。そう仰せか」
「はい。ご贔屓の暁は、われら渡邊党、喜んで重然様の後ろ盾となりましょう」
ひときわ、強い眼光が重然に向けられた。これは商人というよりも武将の目だ。
手を突いて平伏する平陽を見下ろしながら、
「・・・・・・本当にそれだけで?」
と、そう問いかけた。
まだ何か裏がある。そう思えて仕方がなかった。それだけ平陽はどこか底知れないものを持っている。
平陽が顔を上げると、これまた人の良い笑顔を浮かべた。
「いやいや、大した洞察力とでも呼びましょうか、結構なことです」
「ではまだ何か、隠していることがあるんですな?」
やや険しい瞳になって、低く言う。
平陽は笑みを崩さず、後ろ頭をなでつけた。
「是か非かで答えれば、是です。されど、それはまだ先のお話になりましょう。今はまず、我らと取引していただけるのか、ということです」
——こいつも狸だな。
内心で唸りながら、それでもヲの需要の高さは、重然も心得ている。受け入れざるを得ないだろう。
それに、渡邊党の後ろ盾を得られたならば、今後ともに、宗像との抗争で弱体化した勢力を以前以上に盛り返せる。
亜衣からの援助、そして渡邊党の援助があれば、もはや宗像に勝手な振る舞いはさせない。
「承知いたした。天草の道を用意したときに、使いを送りましょう」
「おお! ではこれで交渉成立でございますな。いやぁ、よかった」
喜色満面で、陽平が陽気に言った。
それから一言二言、雑事の話を交わして、平陽が立ち上がった。
「隠している話、いつか話してくださるんでしょうな」
部屋を出たとき、重然が尋ねた。取引をした以上、存念は出来る限りなくしておきたかった。
平陽は頷いて、ふと、重然の肩越しを覗き見た。
「お頭」
背後から声をかけられて、重然が振り返った。
そこには海人装束に身を包んだ愛宕がいた。両手には酒を抱えている。
愛宕がキョトンとした表情で、重然たちを見つめている。
「あっれ・・・・・・もう帰るんでっすか?」
「ああ、そろそろな」
「え〜、せっかく差し入れ持ってきたのに・・・・・・」
「悪いな」
頬を膨らませる愛宕を、重然は苦笑しながら宥めすかす。内心で、酒は無いだろう・・・・・・と思いながら。
一見すると仲睦まじいやり取りに、平陽が瞳を細めた。
「重然殿、こちらは奥方ですかな?」
少し、冗談めかして言った。
驚いた重然が首を回して、「なにぃ!?」と叫んだ。
「渡邊殿、それは・・・・・・」
「そうでっす」
「いや違うだろッ!? 肯定すんな!」
「おお、やはりそうでしたか」
「渡邊殿も頷かんくても」
忍び笑いながら、平陽が後ろ頭をなでつける。
「いやいや、なかなかお美しいご婦人をお持ちですな。私の家内に見習わせたいくらいです」
「いや、だから・・・・・・」
「お頭、あちき、美しいってッ!」
「テメェは黙ってろッ!!」
火を噴きかねない重然を横目に、平陽が「それでは」といって、屋敷を辞していった。いいだけかき回して、最後の最後はちゃっかり逃げの一手をうつあたり、やはり腹黒い人間なのだろう。
帰り道、平陽は重然の若さを笑いながら、どうにも剛毅な家内を思った。
せめてあれだけ可愛げがあれば、と——。