明け方頃。
身を震わせる寒さで、まどろみにあった九峪は、ふいに寝ぼけ眼をうっすら開いた。その日の阿蘇山には強風が吹き荒び、戸口はガタガタとがなり、耳にも寒さを感じさせた。
あたりはまだまだ暗い。火の無い部屋はまったく見えず、ニ回ほど首を巡らしたあと、布団を引っかぶった。
少しの温かみに身を包ませ、身体を丸める。三世紀の家屋に断熱材など使われていないのだから、夜の寒さは、現代の比ではない。北海道など寒冷地に住む人々は電気毛布という便利なものを使うが、そんなものも当然ない。
すぅっと小さく呼吸して、もう一度、眠りの世界に落ちていく。ふと薄れゆく思考の片隅で、
——みんなは寒くないかな。
なんて、自分のことのように心配になった。しかし、そんな心配も、眠気の中で霧散してしまう。
たゆたう、という感覚。波に揺れる感覚とも、空気に浮かぶ感覚とも言われるが、ようは無形に身を浸らせる感覚のことだろう。
九峪はたゆたう空間にいて、自身も不思議なことに、その実感があった。自分はいまそういう場所にいると。
——なんだろう。
ふと疑問に思って、すぐに、これは夢だと思った。人間とは面白いもので、意識の介在し得ない夢の中でも、時として夢を実感し、認識し、納得することがある。また自分の意思でその夢に終止符を打つことも出来る。
いままさに、九峪の感覚は夢を知覚していた。ただ知覚しても、それはあくまでも第三者的な感覚で、夢の中の自分はある意味では他人であった。自分は『夢』というドラマを自分の視点で鑑賞している者に過ぎないから。
夢の世界で揺らめく九峪は、しかし、形の無い意識体だった。そこにいるのは確かなのに、あたかもピントかチャンネルが合っていないように、実像がかみ合わなかった。九峪はただそこに『存在』しているだけだった。
——なんなんだろう。
夢にしてはおかしかった。まるで何も起きない。そんな夢があるんだろうかと、薄い意識が疑問に思った。
夢の侵攻度合がわからず、引いては時間の経過も曖昧で、一分にも一時間にも感じられる。
そんな変化の無い世界に、ようやく変化が訪れたとき、九峪は自分の存在がいつのまにか結実していることに気づいた。ただの『存在』から『顕在』している自分がいた。
不意に、突然に。閃光の様な激しさ、灯火のようなやわらかさを持った『何か』が出現した。出現という表現が本当に的を射るような現れ方だった。
「——なんだ」
声が出た。夢の九峪が始めて声を出したことに、九峪は驚いた。しかしそれ以上の驚きがあった。
——俺の声だ!
それは鑑賞者に過ぎないはずの、九峪の声だった。観客席にいる俺の声が、スクリーンの向うにいる俺の口から、スピーカー越しに放たれた——。
もはや九峪は鑑賞者ではなく、当事者であった。
突然あらわれた『何か』は、形が無くて、ぼんやりしていて、いったい何なのかわからなかった。ただ九峪は、それが夢であるにも拘らず、たしかに存在している——遍在している『何か』だと確信した。
「——誰だ?」
問いかけた。なぜだか無性に『何か』の顔が見たくなった。人かどうかもわからないのに、九峪にはその『何か』に顔があると感じられた。
必死になって近づこうと、身体を動かした。足を動かした。走ろうとした。
一歩、前に進めた。右足、だと思う。
「——そっちに行くッ!」
聞いているかどうかなんて、どうでもいい。九峪が叫んで駆け出した。足場の無い、たゆたう世界で、面白いように前に進めた。
『何か』が近づいてくる、『何か』に近づいている。その実感があった。
でも、やっぱり不思議なもので。
近づいているのはわかるのに、いっこうにたどり着けない。まるで万里を駆けているようだった。
あとどれだけ——と思った瞬間、またも突然に、『何か』が九峪の目の前まで迫っていた。一瞬で万里を飛び越えたようだった。
「ぅおッ!?」
驚いた九峪が咄嗟に足を止めた。
『何か』が目の前にいる。心臓がドクンッと高鳴った。
「あっ・・・・・・」
そこには何も見えない。けど間違いなくいる。
九峪は震える手を伸ばした。生まれたばかりの子猫をなでるように、優しさと戸惑いに満ちた、震える手だった。
伸ばされる手を、『何か』は逃げないで受け止めた。触れた手に暖かさがじんわりと伝わってきた。
虚空を触れている手が『何か』を優しくなでている。人の形だった。
これは——頬、だ。やわらかい。まるで女の頬だ。すべすべして、吸い付くようにやわらかい。
「——お前は、だれなんだ?」
頬をなでながら、九峪はもう一度だけ問いかけた。答えは返ってこなかった。
代わりに。『彼女』も、九峪の頬に手を添えてきた。愛しむように、二人は互いの頬をなであった。
——俺はなにやってんだ?
ふと、そんな疑問が沸き起こった。そして自分がおかしくなった。
こんなところ、清瑞や亜衣や日魅子たちに、間違っても見せられないな——なんて思ったことが、我ながら堪らなくおかしかったのだ。
しばらく、九峪は何も言わなくなった。ただ頬に手を平を重ねて、なであった。
そんな時。
「——————」
『彼女』が、何かを言った。
「——なんだって? 聞こえない」
何を言っているのか、わからなかった。九峪はようやく答えてくれた『彼女』の言葉を聞き逃したくなかった。
すると、『彼女』が九峪の頬をなでていた手を、厚い胸板にそっと這わせた。
胸がじんわりと熱く、火照っていく感じ。
「——————」
また、何かを言ってきた。耳には聞こえてこなかったけど——今度はわかった。理解だけが九峪を支配した。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
——そこで目が覚めた。部屋が薄暗くなっている。
朝だった。
のそりとした重い動作で、上半身を起き上がらせる。まだ浮遊感というか、夢の世界の感覚が身体に残っている。不思議な感覚だ。
はぁっと息を吐いて、前髪をかき上げる。
——胸が熱い。火照っている。
「・・・・・・ゆめ」
しっかりと覚えている。夢の内容を。実感を伴って。
胸を——『彼女』が触れたところに、手を重ねた。あのとき、流れ込んできた『彼女』の言葉がよみがえる。
「もうすぐ、来る——」
声に出して呟くと、九峪派ますますわからない一言だと苦笑した。
何を伝えたかったんだ。
今となってはわからない。『彼女』が何なのかもわからないのに、九峪がそれを知り得るはずもなかった。
ぼんやりと反芻すると、布団の中からもぞもぞと動く小さなぬくもりがあった。
老猫が、布団から顔を出してきた。冬に入ると、暖を求めて布団に入り込んでくるのだ。
にゃー
九峪を見上げて鳴いた。起こされたことへの抗議なのだろうか。
九峪が手を差し伸べて、老猫を抱き上げた。
「——来るって・・・・・・何が来るってんだろうな」
そんなことを問われても、老猫には何も答えることなど出来なかった。
内紛が終息しつつある二月。
錦江港でも特に大きな面積を有していた加奈港に、さらなる増改築令が出された。
人足三千人を投入した、短期の突貫工事である。名目としては、派遣された全兵士を一度に迎え入れるため、とされている。
この増改築において、亜衣と紅玉が陣頭で指揮を執った。人足に動員された工夫のほとんどが、かつて、九峪の『天の洪水作戦』で活躍した大規模工事の玄人たちである。
加奈港は北東と南西に百八十キロ、海岸に沿って扇状に展開されている。ここから、さらに、城壁の外側へも街を建造する計画であった。と同時に、北東の方角へ、湊を大幅に広げる計画でもある。
これで、一気に帰還してくる味方を受け入れる。
しかし実際は、それに合わさって、北山の収容も考えられている。これは反発を防ぐために、公表されることはなかった。
城壁外の普請は紅玉、湊の拡大は亜衣がそれぞれ担当し、これには重然水軍も参加していた。重然は湊の普請に従事していた。
木材や石材など普請作業に必要な建材を、大小さまざまな船で運び入れる。湊には船同士の衝突を防ぐために、交通誘導船なども動員され、かつてないほど活気付いていた。
作業には羽江の開発した『吊り上げ機(クレーン)』も活躍し、わずか六十日中に新港の土台は完成した。
着工から早くも土台が完成し、あとは周辺に関連施設を建設していくだけだが、このとき、重然水軍と北山が同じ現場で働くという、あまりと言えばあまりなニアミスが起きた。
「・・・・・・お久しぶりですな、重然殿」
「・・・・・・おう」
対峙する二人は、軽く会釈をして、そのまますれ違った。どちらも和やかに会話を続けるには因縁深く、また全てを過去に出来るほど時間も経っていなかった。
城壁の外では、まず、新たな城壁を作るところから始まった。土台を盛るのに近在の自然士四十人が昼夜を問わず大地を盛り上げ、整え、釣り上げと人力で石垣を組んでいった。物見櫓の木材も大量に搬入され、荷車が忙しなく行きかった。
町並みは碁盤の目状に配する。これは紅玉の提案で、紅玉は、加奈港普請の裏に隠された目的をも見抜いていた。
加奈港に北山の残党が入港する。その場合、有事のためにあえて町並みを碁盤の目にすることで、軍団の侵攻をより簡単にするという目的があった。
もちろん、自軍が加奈港に攻め込む際に、である。美しい町並みなど求めていない。攻めやすい町並みを目指した結果であった。
教来石もこれには気づいていたが、あえて何も言わなかった。
三月の中ごろになると、城壁の基礎となる土塁が出来上がった。石垣のくみ上げには、大きさと形を綿密に計算し、隙間を油で練った泥と石灰で埋めていった。
図面を持って、普請番頭らの説明などを受けながら、紅玉は城壁周辺の視察を何日となく続けた。
「いつ頃で終わります?」
「これだけの大きさとなると・・・・・・やはり、二ヶ月はかかりましょうな」
番頭は図面と現場を交互に見やって、顎鬚をさすりながら言った。二ヶ月となると、完成は春になる。
加奈港は二年の歳月を費やして出来上がった。しかしこの新城——『外加奈の城(そとかなのじょう)』は、夏までに完成させねばならない、大普請であった。
「城壁はしっかりとした造りでなくとも構いません。それよりも、街の整備に力を注いでください」
「ですが、壁は、城の命です。これを疎かにしては・・・・・・」
加奈港増改築の真意を知らない番頭は、当然のように疑問の言葉を口にした。
だが紅玉は押し切り、城壁を急ピッチで建造させた。一見すれば立派な城壁だが、その外見とは裏腹に、番頭たちが眉をひそめるほど欠陥だらけの城壁だった。
すぐに街の整備へと着手し、多くの家屋を建てていった。建材となる木は霧島山から切り出して、その量は二万人の人口分に匹敵するものとなった。
その折であった。教来石の元に、北山から書状が届けられた。
「——か、勝ったッ!?」
余りのことに、声が裏返ってしまった。それだけ衝撃的なことだった。
伊湯岳の決戦に挑んだ北山王率いる北山・九洲連合軍は、さる二月三日、猛攻を仕掛けてくる中山・南山連合軍を撃退し、乾坤一擲を賭けた伊湯岳決戦に勝利した。
想定したよりも悪い状況であるにも拘らず、伊湯岳には中山・南山兵の死屍累々たる有様の上に、北山と耶麻台共和国の牙旗が翻った。
音羽たちが派遣されて、初めての大局的勝利であった。
討ち取った武将の数、十三首。討ち取った首級は二千人に上る。対する味方の損害は、四人の武将が討ち取られ、千二百人が戦死した。激戦であった。
書状を手に、教来石は亜衣と紅玉を、仮御所に招いた。浮かれきった表情で、書状を二人に見せ付けた。
「おお・・・・・・ッ!」
「まぁ」
さすがの亜衣たちも声を上げて、頬を綻ばせた。書き手も浮かれていたのだろう、細部に至るまで詳細に記されていた。
そこには、音羽たちの活躍の様子まで、まるで克明に書き綴られていた。いっそ躍動感あふれる文面であった。
とくに音羽と遠州の働きに目を見張るものがあった。音羽は持ち前の突破力で、たった八十騎の手勢で敵をかく乱し、中軍を預かる遠州は敵の奇襲部隊を見事な粘り腰で釘付けにしたとか。
上乃は待ち受けて戦う二人とは逆に、進軍して三倍の戦力差をもって攻め寄せる敵を山間部に誘い込み、伏兵を用いて得意の山岳戦に移行、見事打ち破って、中山王の第三子を討ち取る大手柄を挙げた。
他にも、多くの将兵が獅子奮迅の働きで功を上げ、劣勢から一転、まさかの大勝利を手にした。
「光明が見えもうした」
喜色満面で、二人を前に教来石が誇らしげに言った。祖国の窮乏を憂い、阿蘇を登り神の遣いにあった甲斐があった。神に見放された九峪には申し訳ないが、まだ自分には神の加護があるようだ。
中山はあごを外さんばかりの驚きだったろう。内心で教来石は、今まで苦しめられた思いが報われる気がした。
北山勝利の報は、すぐさま加奈港中を駆け巡り、耶牟原城へも届けられた。
底の見えない連敗に不安を抱いていた者たちも、一様に胸を撫で下ろしたことは言うに及ばない。
この勝利を皮切りに盛り返してくれれば、それだけ派遣軍の被害は少なくなり、加奈港が収容する人員も膨れ上がる。
「まだまだ増築する必要があるかもしれんな」
「おうよッ! こんなんじゃあ、足りなくなるぜ」
「戻ってきたやつら、ビックリするくらい大きく造るか!」
普請に携わる工夫たちの士気も、俄然に盛り上がった。自分たちの仕事が、勝利に沸き立つ派遣軍を迎え入れるのかと思うと、突貫工事という苦しい普請にも精が出る思いだった。
外加奈の城の完成予定期間は、わずか一年である。信長の安土城は突貫工事で三年ほど費やしたことを考えると、そうとう無理のある計画に見える。
だが建設総監督の紅玉は、張りぼての城を造るつもりだ。とりあえずは様変わりした国内で、帰還してきた同氏たちが一時期逗留できる場所であればいいのだ。
三月の終わり、普請はひとまずの終わりが見えてきた。城壁は出来上がり、家が建てられ、湊の拡大もほぼほぼ最終段階だ。
「随分とでかくなったな」
龍神丸の船べりに立った重然は、視線を湊に向けながら、握り飯にかぶりついた。
その隣では愛宕が同じように、握り飯で頬を膨らませている。愛宕は食事のとき、とにかく口の中に詰め込む食べ方をする。まるでリスみたいなやつだと、重然は良く思う。
加奈港の周辺には、龍神丸をふくめて多数の船が行き来していた。木材や石材を運ぶ船が大半で、ちらほらと見えるのは、誘導船だ。
巨大なクレーンが、これまた巨大な岩を吊り上げている。
「便利なもんでっすねぇ」
いつ見ても不思議な光景に、愛宕が暢気に言った。
「こいつがあるから、一年で終わるようなもんだな」
実際そうであった。吊り上げ機のおかげで、最大の苦労にして最大の危険でもある、巨大な建材の運搬、移送、建造がスムーズに行えるのだ。
飛空挺といい、やはり羽江は只者ではない。普請に関わる者みな、どうやったらこんなものが考え付くのかと、もう感激するばかりだった。
しかし、一人だけ、感激では済まされない男がいる。教来石だ。
教来石は飛空挺すら見た事がない。それどころか知りもしない。そんな教来石だから、加奈港に続々と集められる巨大な吊り上げ機を目の当たりにして、腰を抜かさんばかりであった。
——なんだコレは!? なんて大きさだ!
もはや言葉にすらならなかった。これほどに巨大な建造物が、神ならぬ人間の手で生み出されたことは、二十三年の人生の中でもっとも壮大なことだった。
龍神丸のすぐ横を、北山の船がのろのろと通り過ぎた。ふいと顔を向けると、船の上で指示を出していた教来石とたまたま視線が合った。
「——なーんか、頑張りすぎてる気がするんだよなぁ」
「何がでっすか?」
「いや、連中がな」
遠ざかる船を目で追いながら、釈然としない声で呟く。
無駄に張り切っている。そんな気がするのだ。急いでいる、といってもいいだろう。
教来石の本心を知らない重然には知りえないことだが、それでも、あれこれと的確に指示を出す教来石の張り切り具合は、どうにも不自然に見えてしまう。
「亜衣様たちも、何か隠しごとしてるみたいだしよぉ・・・・・・」
「隠しごとでっすか?」
「おお・・・・・・」
憂鬱そうなため息とともに欄干にもたれる重然とは正反対に、愛宕の表情は要領を得ていない。
重然の部下には、どういうわけか相談事を持ち込める人間がいなかった。参謀役というか、的確な助言が出来る『腹心』がいないのだ。
もちろん、愛宕がその役目につけるはずもない。重然はまたため息を漏らした。
——気に入らない。
別に亜衣や紅玉が、いちいち胎のうちを重然に伝える必要も義理もない。言っては何だが、重然は薩摩水軍の、提督とも長官とも言える立場だが、亜衣どころか紅玉よりもずっと格下なのだ。
気に入らないと思うことすら、重然には過ぎた言い分だ。それがわかるだけ、心中穏やかならぬ重然であった。
四月。予定通り、外加奈の城築城と、大津の拡大工事は終了した。工事期間がわずか四ヶ月という、前代未聞の突貫工事だったが、難題を押し通した番匠たちに、やり遂げた感慨はどこにもなかった。
これ以降は、物資の搬入がおおまかな仕事となっていく。食料はもちろん、その他の雑貨、台所道具、衣服が、各々の豪族や商人らの協力あって、続々と城内へ搬入されていく。
荷駄を積んだ車が、まだわずかに寒風の吹く街道を、ゆっくりと進んでいく。舞い上げられた土ぼこりが、望楼から眺めている亜衣の瞳に、あたかも朝霧のように移って見えた。
荷駄隊は長蛇の列を成して、延々と尾を引いている。まるで軍団が行進しているようだ。
「正直、四ヶ月で築城を終えてしまうとは、思ってもいませんでした・・・・・・」
隣に立つ紅玉に向かって、感嘆の言葉をかける。二人とも輸入した呉服の上から、暖取りの大外套を羽織っている。
亜衣と同じように荷駄隊を見下ろす紅玉が、ふふっと笑みを浮かべる。
「見た目はご立派ですけど、中身の方は、知らぬ幸せですわ」
「そうですか。では、聞かないこととしましょうか。・・・・・・いずれ時が来るまでは」
「ええ、そうして頂くと、私の心も軽くなります。出来ることなら、話すことなく、墓場まで持っていきたいものですけど」
「まったくです」
笑いあいながら、二人は頷いた。外加奈の城がどのような構造の元で建設されたのか、それを知るということは、加奈港を攻めるときということ。
願わくばそのような事態は迎えたくない。亜衣と紅玉、二人が抱く共通の思いだ。
「これで、派遣団と北山の受け入れ態勢は整いました」
笑みを下げて、亜衣が低く言った。
「伊湯岳での勝利・・・・・・、どうかこのまま、全てが上手く行けばよいのですが」
北山からの文書を思い出しながら、亜衣の脳裏に、遠くで戦う音羽たちの顔が浮かび上がった。
ついに中山の猛攻を乗り越え、反撃の狼煙を上げたのだ。士気たかく、血気に逸り、勝利に邁進してほしい。そして少しでも多く生き残って、無事に帰ってきてほしい。
亜衣の心を生める願いはそればかりだ。そしてそれこそ、九峪も望んでいることだと、信じて疑わなかった。
いつも、九峪は言っていた。祈るしか出来ないと。戦場で役立たずな自分は、ただただ皆が戦う後ろで、一人でも多く生き残ることを祈っている、と。
そのために九峪は、九峪にしか出来ない最善を尽くしてきた。その末に自身の戦いに苦しみもしたし、その九峪をすぐ傍で支えてきた。
——他でもない、この私が。
だから亜衣も、皆が生きて帰ってきて、ご苦労だったと労ってやりたいのだ。彼ら彼女らの武勲譚を、酒とともに、我がことのように味わいたいのだ。
「勝って、生きて、そうして戻ってこれたなら・・・・・・いつか音羽たちにも、九峪様のことを伝えててやりたい」
「それは・・・・・・」
亜衣の横顔を見つめる紅玉の瞳が、少しだけ、悲しげに眉根を下げた。
亜衣の願いは、叶わぬ願いだ。たとえ九峪の直臣であった音羽や遠州であろうと、それは明かしてはならない秘事なのだから。
紅玉の言いたいことがわかったのだろう、自嘲気味に口元をゆがめて、亜衣の頭が小さく振られた。
「わかっていますよ。わかっています・・・・・・、けど、生きてさえいれば、いつかはと・・・・・・。そう、思うのです」
「そう・・・・・・」
「埒もない願いです。そんなことはわかっているのです。女王と九峪様がともに並んでいる限り、平穏は容易く手に入らないということを」
荷駄隊から視線を外し、舞い上がる土霧を越え、はるか遠くへと。
山々の向うに、阿蘇山がある。九峪様がいる。そのさらに向うには、女王たる火魅子が。
見えないのに、自分の視線の先には、二人の主がいる。
「私が女王・・・・・・星華様にお仕えすることは、星華様が産声を上げた瞬間に決まっていました。そのとき、私はまだ二歳ごろだったんでしょうけど、それ以来私は、星華様のお傍にいました」
思い起こされる、幼い日々。苦痛の日々。執念の日々。そして、栄光の日々。
「いつか星華様は女王と成り、自分はそのお傍で、変わらぬ忠義を尽くす。疑うことなく、ずっとそう願い、二十数年が経ちました」
「長いですわね」
「ええ、長い。青春の全てを星華様と祖国の復活へ捧げ、戦場を我が庭として生き、女の幸せも省みず、己の幸せも省みず・・・・・・ただ戦ってまいりました」
「戦いの人生。私も似たようなものでしたわ。来る日も過ぎる日も、寝ても覚めても、一日の全て、一年の全ては修行のためにあったといっても過言ではありませんわ」
「私は、諦めませんでした。泥鼠のように地面を這って、野良犬のようこそこそと星華様に見つからないよう、残飯を漁っては見繕い、獣の死体を見つけては小奇麗にさばいて。何食わぬ顔で、それを調理して差し出したことも、何度もありました」
「・・・・・・」
さすがに、紅玉も言葉を失った。目の前の理知的な女性が、よもやそこまでしていたとは、露ほども思わなかった。
ただ、それを汚いとは思わなかった。それどころか、尽きることない闘志が、紅玉には美しくさえ思えた。
「それを星華様に見つかったときは、死して詫びようと、己の腹に刃を突きつけたこともありまた。あれは、そう、十七歳のときでした。その私を、星華様は優しく抱きしめて下された。諭して下された。そして、死んではだめ、死んだら許さないと、涙を流しながら仰られた。そのときから、私は、私の持ちえる全てを駆使して生き残り、星華様をお助けすると、天地神明に誓ったのです」
亜衣の記憶が遡っていく。幼かったあの頃へ——
もう、ずっと昔の記憶、亜衣がまだ少女だったころ。
宗像宗家が滅び、ひもじさの中でいき続ける日々。苦痛と悲しみに一日を費やされ、寒さを凌ぐことさえままならなかった。
あのころは、衣緒もまだまだ戦士としては未熟、羽江に至ってはその天才的な技術がまだ花開かぬ蕾のままだった。
星華も、亜衣も、衣緒も、羽江も、一日を生き残ることさえ地獄の所業だった。宗像の巫女は殆どが殺されるか奴隷にされるかで、運良く逃げ出した者たちも散り散り。
亜衣たちは娼婦と成り果てて生きながらえる者たちを、何人か知っていた。誇りを捨てた彼女たちは、星華や亜衣たちを見つめて、ただ嗚咽に堪え、中には恥辱の果てに死のうとする者たちまでいた。
宗像の一部は宗家が庇護してきた海人衆に吸収され、いまや彼らが宗像といっても過言ではない。阿智とは旧知で、彼は常識人だが、その部下たちはどうにも信用しきれないものが多かった。とくに蔚海を、亜衣は快く思えなかった。
宗像の助けは満足に得られなかった。娼婦に身を落とす勇気もなく、星華の見ていないところで、恥も外聞もなく残飯を漁り、獣の死体を拾い、そうとは告げずに調理して振舞ってきた。無理して作った笑顔の裏で、いつも、涙を流しながら。
そして、それが、ついにばれてしまった。狗根国兵が捨てた、もはや食べれるのかもわからない残飯に手を突っ込み、臭う中を必死になって、食べられるものを探していた。
そこを見られたのだ、他でもない星華に。
『亜衣・・・・・・何を、しているの?』
『ッ!?」
驚いて振り返ったそこに、ぼろきれに身を包んだ星華が、所在なく立っていた。髪はほつれて、いかにもみすぼらしい格好だった。
一瞬で、顔が蒼くなるのを感じた。火山が噴火するように、罪悪は怒涛となって心を支配した。
魂が凍りついた。
——私は、どんな理由があるにせよ、こんな人の——それも狗根国が残した残飯を、星華様に食べさせていた。
それを今こそ思い知らされ、亜衣を絶望に叩き落した。死ぬしかない、死んで詫びるしかないと、本気でそう思った。
いつも窮地を救ってくれた、小さな愛刀。刃は錆びて刃こぼれしている、それでもずっと亜衣の懐に忍ばされてきた愛刀を、咄嗟に引っつかんだ。
『星華さま、申し訳ありませんッ!』
そう叫んで、刃が腹の肉に刺さっていった。切れ味の最悪な愛刀は、その切っ先で亜衣の痩せこけた腹に血を滲ませた。
『あ、ヤ、だ、ダメェ!』
叫んで、星華が亜衣の上体に覆いかぶさった。もつれ合った拍子に、短刀が亜衣の手から滑り落ちた。
『せ、星華さま、お放しくださいッ! わ、私は、私をッ——死なせてェ!』
『ダメ、ダメェ! 何考えてるのッ!? こんな、こんな——ッ』
叫ぶ声は、次第に幼い泣き声へと変わって。
星華はそのまま、亜衣に跨ったまま、嗚咽で苦しみ、涙で顔をしわくちゃにして。
もう、抗うことも出来ず、亜衣はただ呆然としていた。
『えっ、ふっ——ヒッ』
『星華さま・・・・・・』
『ぁっ・・・・・・ダメ、なんだから・・・・・・亜衣はぁ、私の家来なんだから・・・・・・一緒にいないと、ダメなんだからぁッ!!』
喉のつまりに苦しみながら、それでも星華は一際強く叫んで、
ぱんッ
まったく力の篭らない、震える小さな手の平で、亜衣の頬を打ち叩いた。
亜衣は呆然として、叩かれた頬を触ることすら出来ない。ヒリヒリと微かに痛む刺激が、なぜか今までで何にも勝る激痛のようだった。
星華が、涙で濡れた瞳で、亜衣を見下ろしている。悲哀と怒りに渦巻かれた、幼い瞳で。
『こ、今度、死ぬなんて言い出したら、許さないんだからッ。勝手に死のうなんて、そ、そんなこと、絶対に許さないんだからッ! い、いまのより、もっと痛いんだから、ヒドイんだからッ!!』
——叫びが、胸に突き刺さった。頬の痛みに負けないくらいの痛みが、心から体中へと広がっていった。
大粒の涙が、一滴落ちてはまた一滴と、亜衣の残飯に汚れた顔を洗い流し清めていく。亜衣にはその涙の一滴にさえ、身を焦がすほどの熱さを感じていた。
『ヒッ、く、あ……あああああぁぁぁ』
叫んで、とうとう堪えていた激情の本流が、堰を乗り越えてしまった。十五歳の少女が、十七歳の少女の上で、わんわんと大泣きに涙をこぼした。
——私は、バカだ。
つくづく亜衣の心は、そんなどうしようもない言葉で埋まってしまった。
この涙は、星華さまが、私のために流してくれる涙。それは私が、他でもない星華さまに頼られていることへの、無二の証。
死ぬことは裏切りだと、気づかせてくれる叱咤の粒。そして、私が生きることを心から望んでくれる、愛情の一滴。
いつか、亜衣は、星華を抱きしめていた。背中に腕を回し、横たわったまま、星華を強く、きつく、抱きしめていた。
『わ、わたし、だって・・・・・・たえれるもん。がんばれるんだから、うぅ、だからぁ』
『星華さま・・・・・・星華さまぁ・・・・・・ッ!』
ありがとうとも、ごめんなさいとも言えない。ひたすら涙を流して、名を呼んで。
ぬくもりの中で聞こえる鼓動の確かさに、得もいえぬ安らぎを感じながら。
——尽くそう。生きて、生涯の全てに至るまで。
亜衣は、心の奥底から仄かに燃え上がる燻りに、今一度の忠誠を誓った。何よりも誰よりも、私のために涙を流してくれる主のために。
あれから十二年が経った。衣緒が戦士として成熟し、羽江の才能が開花し、星華も未熟ながら王たる器を備え始め、亜衣は王佐の智謀を手に入れた。
独自に狗根国と戦い、辛酸を舐めながら、それでも亜衣は決して諦めず、絶望にも暮れなかった。それは亜衣にとって誇りであった。
そして、九峪という運命と出会い、全てが様変わりした。絶望に耐え忍ぶ日々から一転、栄光への道橋を歩んできた。
亜衣は、また一人、忠誠を誓う主と出会った。
「生きること、生き抜くこと、生き続けること。それが私を私たらしめる、私自身の教えなのです。そしてそれと同じことを、九峪様は皆に言い続けてきました」
懐かしむ表情は、悲し気でありながらも、どこか穏やかさがあった。
「私に、生きることを願い続けた二人の主が、いまやその身によって互いを引き裂かれてしまった。・・・・・・互いに平和を望み、争いなんてこれっぽっちも望まないあの方たちが、どれだけ悲観にくれ、心痛に喘いだか、私は、ずっと見てまいりました」
「見ているほうも、辛いでしょう・・・・・・。いえ、あなたは、その引き裂かれてしまった溝に落ちている。その苦しみは、私如きには知りえないこと」
亜衣の苦しみを想像しただけで、紅玉は、身も毛もよだつ思いがした。
忠誠を誓い、まさに理想とも呼べる二人の主が望まぬ対立の果てに、道を違わねばならない。その中心で奔走した亜衣の苦しみは、きっと、万難を越えるよりも苦しかったはずなのだ。
亜衣は尊敬に値する人間だ。苦しい道のりの中で、ときに躓き、へこたれ、立ち止まることもあろう。それでも決して諦めない、あの手この手でなんとかしようとする姿勢は、真に尊敬できる姿だ。
だからこそ亜衣は、宰相という地位になれたのだ。九峪そして火魅子の、忠実にして最高の片腕になれたのだ。
一時の感情に流されもした。多くの過ちだって犯してきた。でも、人間は万能ではないのだから、それでいいのだ。亜衣は万能じゃないなりに、出来る限りのことをしてきた。それでいいのだ。
だれからも信頼される。簡単そうで難解極まるこの答えを、亜衣は自身の生き方としてすでに導き出している。
——だから、何とかして、助けてやりたいとも思うのだろう。お節介かもしれないが、人の忠告を素直に聞き入れることが出来る、亜衣はそんな優しい女性だ。
「はやく、平和が訪れるといいですわね」
「平和・・・・・・。以前にも平和について、衣緒と語らったことがありました」
いつのことだったと、亜衣は記憶を掘り起こす。今日は回想することが多いなと思いながら。
あれは、茶を積んだ船を見送った帰りのことだ。
平和とは何かと、ささやかな論議を交わしたんだ。戦争がなければ平和だという衣緒に対して、亜衣は、自身の平和を見つけていないことに気づいて、愕然となった。
いや、違う。見つけていないのではなく、失ってしまったことに、はっと気づいてしまったのだ。
亜衣の平和とは、心の平和。想い人である九峪を、阿蘇へ追放して簡単に会えないようにしてしまったのは、他でもない自分自身。亜衣は自らの手で、心の平穏を奪い去ったのだ。
大事のために私心を殺し、私心のために大事を揺るがした。国家のために平穏を捨てたはずなのに、未練につられる自分がいた。
藤那の叱責がなければ、今もまだ、亜衣の心は荒れ狂っていただろう。
——私には、使命がある。
亜衣を支える胸のうちは、そんな、有触れた月並みの一言だ。
「私はもう、諦めたくありません。火魅子様が私に教えてくれたこと、九峪様が私に教えてくれたことを忘れません。平穏を手にするその日まで、私は使命を全うし、岩に噛り付いてでも生き延びます」
横顔にのぞむ瞳は、爛としている。
紅玉は微笑みながら、亜衣から視線を外した。もう随分と前、亜衣を諭したころと違い、今はちゃんと前を見つめている。
——大丈夫ですね、もう。
心の中で呟いた。
まだ、土ぼこりが舞っている。荷駄の列は、終わりが見えずに続いていた。